2018年11月30日金曜日

明治維新に貢献した士魂商才

征韓派の下野から西南戦争に至る政争で、基本的な対立は士族対大久保で説明されてきた。これが一般的な教科書。しかしこれでは事の本質がわからない。大久保の背後に、経済界があったと、私は補完した。これで筋書きがすっきりしたはずである。
ここで気になるのは、完全に割り切ることのできない、接点というものがある、これをどう見るかである。
その接点に、「士魂商才」を代表する一団がいた。そして、西郷隆盛は、この「士魂商才」と純粋武士の中間、接点に位置していた。だから、彼の晩年の行動が揺れ動くのであった。
純粋武士は、「士族の商法」に代表される。「士魂」が強すぎて、ビジネスでは失敗する。「金勘定は苦手」、「素町人ども」というような言葉を使う。これはフランスでも同じ。「ブルジョア」というのは、「卑しい」という意味であった。「あなたのネクタイはブルジョアだ」といわれたら、「下品」だといわれたことになる。日本よりも厳しくて、読み書きは「ブルジョア」のすること、貴族は署名だけすればよいと思われていた。
しかしそれでも、剣を持つ階級から、、ビジネスの社会に移ろうとするものが現れた。次男、三何以下に多い。当然のことで、家と土地財産を継げないのなら、何かで収入の道を考えなければならない。
長男でも、最下層の武士、貴族では。何か良いことがあればそちらに移ろうとする。そこに士魂商才が出てくる。思えば、江戸時代の三井の祖先がそうであった。坂本龍馬もその方向に進みながら、暗殺された。
この士魂商才に、武士的商人が協力する。「侠商」と呼ばれた。薩摩の浜崎太平治(海上王と呼ばれた)、長州下関の白石正一郎(廻船問屋)、博多の石蔵屋卯兵、長崎の大浦のお慶、岡田平蔵(井上薫が、それはえらい、あれほどえらいやつはいないといった)、などなど。
新政府の時代になると、五代友厚(才助)、藤田伝三郎(藤田組)、渋沢栄一(銀行業)、益田孝(三井物産)など、武士的ビジネスマンが急成長する。三菱の岩崎弥太郎はその最大のものであるが、武士というにはその出だしがみじめすぎるので、言いにくいところがある。
岩崎は大久保に全面協力した。五代は鉱山王といわれるほどの巨大な資本を動かしていた。その反面、板垣退助など、士族の指導者と大久保利通の仲を取り持とうとして、妥協に動いた。五代が薩摩の武士であったから、西郷隆盛にも影響を与えた。
こういうことが、士族の一斉蜂起を防ぎ、政府軍が各個撃破することに成功したという条件を作った。つまり結果的には、大久保を助けてやったことになる。日本資本主義の確立に貢献したことにもなる。
本人は、このあと数年で死ぬことになるが、死後の財産は意外に少なくて、子孫が財閥として残ることはなかった。巨大な資本はすべて次の事業につぎ込む。それが、我が国の発展に必要だと思っていた。まさに士魂商才の典型であった。

2018年11月23日金曜日

討幕直後、新政府を支えた実業家の集団は激変を経験した。

土地支配の上に立った政府を倒した後、実業家の集団が新政府を支える。これはフランス革命でも明治維新でも同じことであった。これが歴史の中に潜む唯一の自然科学的法則であって、この法則に照らして、市民革命の年代を設定すると、次のようになる
フランス革命  1789年から1830年
日本革命    1868年から1871年(明治維新と呼ばれている)
私が証明したいことを一言で云えとなると、このように要約できる。
だから、革命以後の支配者は、実業家の集団になる。
しかし戦争、内乱の中で生き抜くことは難しい。もちろん、「資産を維持したままで」という条件が付く。人間だけが生き抜いても、資産を失えば、実業家としての実体がない。土地支配者の歴史を見るとき、戦争、動乱がない限り、人物や家系の変化が少ない。しかし実業家の集団を見ると、経営の失敗、破産ということがいつ起こるかわからない。たとえ、権力をとっても起こりうる。この点、土地支配の場合には起こりにくい。だから、前時代の支配者の説明はしやすい。それ以後の説明はしにくい。だからわからなくなる。
こういう一般論、これを念頭において、明治初期の実業家集団の激変、これを要約してみよう。
明治元年新政府を支持した実業家集団は、関西財界であった。その実態は、大商人、金融業者(両替商)であった。最大の存在は、天王寺屋五兵衛、平野屋五兵衛(天五、平五などと呼ばれた)、鴻池も別格扱いされるほど居であった。
明治二年、東京遷都以後、関西財界は置き去りにされた。そこで、衰退するものが多く出てきた。もちろん、政府とともに東京に出てきたものは別であった。三都の大商人、(三井組、小野組、島田組)これらは、出るも出ないも、もともと江戸にも拠点を持っていた。住友も同じであった。また横浜財界が急成長して、政府を支えた。特に、伊藤博文と、田中平八、高島嘉右衛門の結びつきは有名であった。
この半面、大坂商人の中には、破産して消滅したものが多かった。特に、廃藩置県の影響を受けて、大名相手の商業、金融に携わっていたものが、衰退した。
明治7年、大久保政権は、「小野組破産事件」を引き起こした。これだけでも膨大な説明を必要とするが、簡単に要約すると、それまで政府を支え、政府と一体になっていた大商人のうち、近代化に遅れた二つの大商人、これに預けていた政府資金を引き揚げたものであった。つまり、縁を切ったのである。小野組は破産し、島田組は新橋に小さな企業として残った。三井組は近代化に成功して、大発展していく。
破産した大商人の穴を埋めるように、新興の企業家が発展していった。
三菱の岩崎弥太郎、銀行家安田善次郎、銀行家(第一銀行)渋沢栄一、造船業の川崎正蔵、鉱山業の五代友厚、武器商人の大倉喜八郎、生糸取引の田中平八などを頂点として、全国で新興企業家が成長していった。
これに合わせて、政府は支持基盤をこちらに移していく。とはいっても、全面的に移すのではなく、旧来の大商人の生き残りとの合同である。この点についての学者の議論は、「右か左か」どちらか出ないと気がすまぬという人がほんどで、大塚史学と呼ばれたグループの人たちは、「特権商人」の名で、三井、住友の名を挙げ、新興商人の役割を無視してきた。そこを批判すると、「新興企業家ばかりだというのか」という形で反論してくる。こうして「連続か断絶か」という形で議論を進めるものだから、そのたたき合いばかりになって、冷静な判断ができない状態であった、
私の言うのは「特権的商人の一部連続、断絶したものの隙間を新興企業家が埋めていく」というものであった。この目で見ていくと、フランス革命でもそのようなことがあった。ボスカリという大商人がいた。バスちーい占領の時、従業員、地域住民を武装させて戦った。名声は高くなったが、革命後、買い占めで評判を落とした。やがて破産した。同じようなことは、日本の小野組でも起きる。由利公正に協力して、新政府を支えた。しかし、佐賀の乱のとき、「小野組襲撃事件」が起きる。政府の側に立って、あくどい儲けをしたことへの批判であった。その後破産する。
こういうことを踏まえて、「市民革命で実業家の集団が権力を握るが、その集団内部では浮沈がありうる」というのが私の意見である。

2018年11月20日火曜日

明治初期の政争で、大久保利通の支持者に経済界があった。

大河ドラマ見ていても、西郷隆盛の側には武士団の強力な支持がみられるが、大久保利通の側には何も見られない。彼一人で奮闘しているような印象を与えられる。それでいながら、大久保の方針が最終的に実現する。
大久保は岩倉具視と組んでいる。しかし岩倉個人に力があるわけではない。公家社会の中でも序列は低い。征韓論の対立を見ていても、大久保と岩倉だけが反対で、あとは賛成論者、西郷その人でも、生ぬるいといわれている。
それでいながら、なぜなら内治優先論が通り、征韓派が下野することになったのか。理由は簡単なので、「経済界の支持」があったからである。フランス語でいう「オム・ダフェール」、(実業家)が支持したのである。「江戸」に詰めていた大名は去り、旗本は静岡に追放された。残る有力者は、ビジネスの成功者しかいない。この大群が大久保を支持したのである。
それでは、代表的な人物の名前をいえとなるだろう。最大の名前は、「岩崎弥太郎」である。これなら、だれもが聞いたことがある。「あれは参議か、三菱の岩崎か」、すでにこういう言葉も残っている。
立派な馬車で疾走したからである。三菱商会の岩崎弥太郎、すでに政府高官の支持者になるほど成長していた。幕末、彼は最下級、極貧の武士、鳥かごを背負って売り歩く、武士兼行商人、テレビドラマで、これが放映された時、それを演じる俳優が「さもありなん」と思われるほど、真に迫った演技をしたので、三菱の社員たちが嫌な思いをした。
長崎に出て、土佐商会の会計を任された。上役に上級武士の後藤象二郎がいる。土佐藩から脱藩した坂本龍馬が海援隊を組織して、貿易業を始めている。これとも手を組むようになる。坂本が暗殺され、討幕の混乱が続いた時、海援隊の資金が岩崎に入ったとのうわさが広まったが、真偽不明。
廃藩置県で、土佐藩の資産を借財とともに譲り受け、借金を返して、莫大な資産を形成した。三菱商会を作り、近代的な海運業に進出した。海で成功したから、あだ名は「海坊主」。
大久保利通が内務卿になり、産業と治安を一手に握るようになると、三菱の大躍進が始まる。政府が輸入した艦船、これ相次いで三菱に安く払い下げられる。その見返りに、相次ぐ戦争で、軍事輸送に全面協力する。西南戦争でも、この軍事輸送の効果で、政府軍が勝ったともいえる。
つまり、大久保の背後に、新興企業家の岩崎弥太郎がいた。彼一人ではない。五代友厚(五代才助)、渋沢栄一(第一国立銀行)、益田孝(三井物産)などなど、説明しているときりがないほど、こういう実業の大群、これが物言わぬ支持者であった。
つまり、明治政府は財界、実業家の政権であったが、初期は大商人、数年でそこ新興企業家が割り込んできたのであった。
こういうと、昔は、「それはしょせん政商ではないか」、「フランスはそんなことはない」という反論にだあった。これに「はいそうです」というと、日本のほうが遅れているかのように思われる。
これがフランスの事を知らないもののいうことで、「ウヴラールのことを知っているか」と反論すればよいのである。わずか数年で大企業家になり、最大の武器商人、「正確にいうと、、軍需調達の商人に金融をする企業家」に成長し、総裁バラス、(バラスの王)といわれた、この最高権力者に結びついた。
大久保がバラスと似ているが、岩崎がウヴラールと似ている。こういう意味でも、フランス革命と明治維新が似ている。

2018年11月18日日曜日

明治2年西郷隆盛、由利公正の引退で重大変化が。ことの本質は何か。

出来たばかりの明治新政府、早くも、第1回の粛清を始めた。どの新政権でもこのようなことが起きる。しかしこの事件、市民革命の本質に深くかかわるものであった。重大な問題であったが、表向きは穏やかな変化のように処理された。
つまり、本人が自発的に引退したかのように、世間に示したのである。だから今,
私が説明しようとしても、なかなか難しい。由利公正から始めよう。彼のもとの名は三岡八郎という。越前藩士、藩の財政改革に貢献したが、薩摩、長州に同情的な意見を持っていたので、投獄されていた。坂本龍馬が新政府の構想を立案した時、財政、経済を知るものがいないので、これが新政府の弱点だといい、三岡を推薦した。当時彼の持論が「三岡経済学」といわれ、大いに期待された。
彼は新政府の会計官になり、太政官札を発行して、新政府の必要経費を賄った。そこまではよかったのだが、その紙幣には実物の裏付けがない。価値が下がり、その取引を拒否するものが出て、信用が失墜した。そこで、これの強制流通を目指すか、時価流通を認めるかの議論が行われ、由利、西郷は強制流通、大隈重信らは時価流通を主張した。
大隈重信の主張が通り、由利は辞職した。前後して、西郷隆盛も薩摩に帰った。さて、これで京都の新政府はどうなったかである。ズバリ定義すると、商人の政府になってしまったのである。武士的要素は消えた。武士階級の集団的要求は、中央政府に反映されることがない。
確かに、新政府の官僚は武士出身であった。しかしもう武士には足場がない。そういう人たちが残った。特に長州出身者がそうであった。桂(木戸)、山県、伊藤ともに、まともな武士ではない。大隈は佐賀藩士の代表ではない。大村益次郎に至っては、武士の資格すらない。武士に支持基盤がないとすれば、どこに支持基盤を持つか、それは商人層以外にはない。
だからそれぞれ気の合った商人と結びついていく。ただしこの関係、必ずしも固定的ではない。東京遷都があったからである。大隈重信は、はじめ、住友、鴻池と密接であったが、東京に移ると、三井の大番頭三野村利左エ門と結びつき「みのり、みのり」といって、ひいきにしたという。みのりも、常に大隈邸に入り込み、大隈が留守中であっても上がり込み、大隈の取り巻きを相手にして、「あみだくじ」を引かせ、ご褒美を出していたという。
やがて、長州藩出身の井上薫が三井の顧問のような役割を果たした。西郷隆盛が井上に「三井の番頭さん」と呼びかけたほどであった。そのころ、大隈は島田組(三井と並ぶ三都の大商人)と結び、井上が「島田は大隈さんの、ナニだったから」といった。こうした状況について、西郷隆盛は、月給だけではできないような贅沢をしていると批判している。つまり商人層と結びついて、腐敗、汚職をしているというのである。
こうして、明治元年の新政府は、薩摩、長州、土佐、などの下級武士と商人層の同盟の上に成り立ったが、明治二年の新政府は商人層の政府に純化された。
同じようなことはフランス革命でも起きている。バスチーユ占領からほぼ一年間は、まだ財務総監ネッケルの指導権のもとにあった。ネッケルは前時代の財務総監でもあった。だから、改革は進むようです済まない。貴族支配の性格が抵抗しつつ残っていた。ネッケルが辞職してスイスの帰り、これ以後本来のブルジョアジーの政策が始まった。
そういう意味でも似たところがある。

2018年11月14日水曜日

東京遷都は財政革命であり、住宅革命であった。

明治の新政府が成立したころ、財政収入の基本、年貢米の徴収は過ぎ去っていた。つまり旧幕府がとってしまっていた。今更よこせといっても何もない。朝廷の収入を当てにしても、3万石程度、物の数ではない。太政官札を発行して、支払いに充てたが、信用の裏付けがないから下落してしまった。
いつまでも関西財界の献金に頼ることはできない。明治元年の年貢米徴収は、新政府が滞りなく実行しなければならない。それが成功して初めて、「幕府財政をとる」ことになる。その基本はどこにあるか。これは誰が見ても明らかで、関東平野にあるわけだ。とすれば江戸に行かなければならない。
こうして、幕府財政をとる、西郷隆盛の強力に主張した「辞官、納地」の後半が完成することになる。こうして、政治、軍事の革命の後、財政の革命が一年後に実現した。
フランス革命では、バスチーユ占領でパリの独立は果たしたが、全国からの租税収入をパリに集めることはできなかった。まだその権限はヴェルサイユにあった。実は、これに似たような事件が、約100年前に起きていた。フロンドの乱と呼ばれ、国王は地方に亡命し、パリは独立した都市であった。しかし、最終的に、パリが国王軍に占領されてしまい、フランス絶対主義の完成となった。そういうことがまた起きないとも限らない。
ヴェルサイユ行進が国王をパリに連行して、パリを租税徴収の中心にしたのであった。
住宅革命というのは、大名屋敷、旗本屋敷のことであった。諸国大名は江戸に来なくなった。旗本八万騎(実際は3万程度)は静岡藩に移転させられたから、これらが空き家になった。さながら、ゴーストタウンと化した。
他方、京都では、昔ながらの住宅がある。新政府の官僚は、住宅難に困る。これでは、新政府の元気が出ない。東京遷都ともに、新政府の官僚たちは、大名屋敷、旗本屋敷に住んで、一気に上流社会の実感に浸ることができた。そこに、旧幕府の旗本の妻女が、女中、お手伝いさん、掃除婦、「飯モリオンナ」として仕えることになった。その変化を、西郷隆盛は批判して、新政府官僚たちが「大名屋敷に居住し」、多数の人を使い、ぜいたくをして、これは月給だけではできないことだと批判した。このあたりが、住宅の革命を証明するものであると同時に、西郷隆盛が、自分の作り出した社会を批判する原因にもなった。
フランスはどうかといえば,ヴェルサイユをそのまま捨ててしまっただけのことであった。後はパリで自分勝手にやってくれということであった。一例を挙げると、ロベスピエールは、指物大工の親方ヂュプレーの家で間借をしていた。今でいえば、ニトリや、大塚家具の社長宅で下宿をしたというようなものであった。

2018年11月13日火曜日

西郷隆盛は女権の廃止に熱心であった。

これは意外なことで、だれも書かないことである。しかし、西郷隆盛の文書の中に残っている。三百年続いた女権を廃止しした。これは愉快なこと、というのである。
改めて、江戸時代に女権がどこにあったかを振り返ろう。
一つは、江戸城の大奥である。美女3000人などといわれる。旗本の娘が多いが、こればかりは美醜に関する問題であるから、完全に家柄に連動するものではない。どこかに素晴らしい娘がいると聞くと、それを養女にして、上級旗本が大奥に送り込む。これが上様のご寵愛を受ける、お世継ぎを生むとなると、一大権勢をふるうことができる。こうして、土地支配者の上層が、女性を使って、支配権を行使するのである。
江戸時代の話はこればかりになるが、もう一つ、京都では、御所の中で、同じことが行われていた。これは当然のことで、平安朝の時代からそうであった。天皇の周りを女官が囲んでいた。これが天皇個人の意見におおきな影響を与えていたという。
廃藩置県の時に、この女権を廃止した。愉快だといっている。これ以後天皇のそばに男の侍従を置いた。有名な人物は、山岡鉄舟である。もと幕府の旗本、剣の達人、江戸開城の使者になった人物。天皇が座敷で相撲を取る趣味があり、それをやめるように進言したところ、天皇が山岡の首筋をつかんだ。とたんに、山岡が投げとばしたという。そのうえでさらにいさめたという。
こういうところにも、西郷隆盛の目指す改革があった。

討幕戦力が古代的権威を頼りにした結果は。上級公家との暗闘。

討幕戦で勝つことは、薩摩、長州の戦力で実現可能であった。戦争のさなか、朝廷では、多くの公家衆が、「幕府と薩長の私戦」であると騒いでいた。つまり、朝廷は関係ないというのである。もし、幕府が勝てばどうなるか。これは歴上の多くの事件で想像できる。だから、距離を置いてみていたのである。
朝廷の主流は討幕派ではなかった。それでも、勝ってしまえば勝者の側に立ち、そのうえに立って、指導権を発揮しようとする。もっとも重要なことは、天皇を独り占めして、新官僚を遠ざけ、その間に立って利益をせしめようとする。都合の良いことに、千数百年の伝統があり、それを主張すればよい。その最たるものは、天皇個人と面談させないというものである。簾の奥に隔離し、上級公家が取次役を独占する。昔から言う「君側の奸」になるのである。
この体制がしばらく続いた。上級公家はそれを死守しようとし、新官僚たちはそれをはぎ取ろうとする。しかし、一気にはぎ取ることはできない。全国に命令を出すとき、その命令が、西郷、桂、板垣の名で出されると、だれもが「どこの馬の骨か」とあざ笑うだろう。当時はそんなもの。だから、桂、板垣は、元の名を捨ててまで、改名した。
だから妥協しながらやっていく。ならば、三井、住友、鴻池の名を出してはどうか。これまた、最悪の結果になる。士農工商の意識が強い時代である。商人は最下位であるから、その命令には従わない、分をわきまえて、おとなしく儲けておればよということになる。
新政府官僚たちは、古いしきたりに妥協しながら、天皇個人だけを自分たちのトップに担ぎ上げようと画策した。
東京遷都が、その第一歩であった。面倒な公家集団を京都に置き去りにする。わずかな公家たちだけをつれて出る。これで、朝廷が約十万石の領主、中規模の大名という性格をはぎ取り、新政府官僚が囲い組むことになった。残された公家たちは、各藩の武士階級と同じ扱いになった。

2018年11月12日月曜日

明治政府最初の一年間は関西財界に支持されていた、小林良彰の歴史観

討幕戦力は挙げて江戸を目指した。京都に残ったのは留守政府扱い、前線に金を送ることだけが期待された。そこで、後世の歴史家は、この段階の新政府の性格について、多くの注意を払うことがない。これがまた歴史解釈の誤解につながるものになる。
戦争が終わると、武士たちは故郷に凱旋した。こういえば聞こえはよいが、「勝った、勝った」の喜びはよいとして、その後は何も良いことはないのである。勝利の果実は、京都に残った新政府官僚の手の中に入った。一般的傾向を言うと、故郷に帰ってもあまりよいことがない人たちが、中央に残った。特に長州藩が際立っている。身分が低く、故郷では上級武士に這いつくばらなければならない人、伊藤博文、山形有朋などで、桂小五郎(木戸孝允)でもまともな武士とはみなされていなかった。とても彼らが長州藩を代表する立場にあるとはみなされていない。
また、長男は故郷に帰りやすく、次男以下は中央にとどまりやすい。もともと、次男以下は、「厄介」といわれて、輝く場所がなかった。よそに言って成功すると、「厄介払い」と思われた。そのため、中央に残って成功すれば、「故郷に錦を飾って帰る」といわれ、そうでなければ、「二度とこの家の敷居をまたぐな」といわれて出されたものであった。この例で成功したものは、西郷従道、大山巌である。
さて、それにしても、この外れ物のような武士たちが作った新政府、だれに支持されて強力な力を持ったのか、「武士階級の支持ではない」。ズバリ、「関西財界」に支持されていたのである。京都、大阪、これが中心、ここの商人層は幕府権力に占領の形で支配されていた。京都所司代、大坂城代、各種奉行、これらが、譜代大名、旗本の役職になっていた。これが鳥羽伏見の戦いで吹き飛んだ。西日本の天領でも同じ。その瞬間に、地元の商人層の支配下に入った。
特に京都、大阪には巨大な商人がいた。「三都の大商人」といわれた三井、小野、島田、江戸と別子銅山に拠点を持つ住友、最大級の両替商といわれた天王寺屋五平衛、平野屋五平衛、彼らはこぞって新政府を支持した。
その協力関係の中で、個人的な結びつきも強くなった。薩摩藩士たちと三井、会計官由利公正と小野組、大隈重信(副会計官)と島田組、住友と土佐藩士(川田小一郎その他)たち、などなど多くの実例を挙げることができる。
だから、これが新政府の基礎になり、フランス革命初期のパリ市と同じ状態になったのである。

2018年11月4日日曜日

東京遷都がフランス革命のヴェルサイユ行進にそうとうする。

鳥羽伏見の戦いに勝つと、新政府は京都に設立された。しかし、まだ全国を支配したのではない。大ばっぱにいえば西日本、ここの天領と京都府だけ、幕府(徳川本家)の根拠地は関東平野であり、ここでは全く変化が起きていない。つまり革命の火ぶたは切ったが、完成はされていない。
いつ反撃されるかはわからないという恐怖はある。こういう場合、負けると、大量虐殺が待っている。勝った側もそれを知っているから、すぐに死に物狂いで東に向かった。京都の留守政府の最大の任務は、前線に軍資金を送り届けることであった。幸い、自発的献金に困ることはなかった。特に大阪商人は、幕府軍人から、「金は金なり、天下のおしかり(押し借り)なり」と称して、金を巻き上げられ、証文だけを残された直後のことで、幕府に対して恨み骨髄、新政府の太政官札での返却に感謝していたから、全面的な支持者になっていた。
フランス革命では、パリという最大都市が大貴族ラファイエット侯爵を国民衛兵司令官としてトップに押し上げ、その副官として大商人、銀行家が市政を支配した。ただし全国支配というわけではない。全国に対する命令は、国王の名の下に行われる。その国王は今まで通り、ヴェルサイユで大貴族の保守派に囲まれている。国民議会(三部会からの衣替え)もヴェルサイユにとどまり、そこで改革令を決議し、国王に回し、国王はいやいやながら署名した。これが改革令として全国に出された。しかし、大貴族の中には反撃の試みがあった。精鋭部隊として知られるフランドル連隊、これを呼び寄せ、残っている軍隊と共に反撃しようとした。つまりパリの再占領である。日本の「幕府軍の再編成、関ヶ原、大坂の陣の再現」に相当する。
フランスでは、ヴェルサイユ行進があり、国王一家が大貴族から切り離され、捕虜同然の状態でパリに連れてこられた。これ以後、国民議会の改革令は、自動的に国王の命令として、全国に通用することになる。
日本では、江戸城の開城、将軍の引退で、関東平野にまで新政府の命令が普及されるようになる。しかし彰義隊が寛永寺に立てこもったので、外国は、政府が二つできたと見た。これを応援すれば日本に干渉戦争を起こすことができる。こういう意見もあり得た。そこで素早く鎮圧しなければならない。
その時、西郷隆盛はなぜか動きが遅くなった。理由はさておき、大村益次郎と大隈重信、この二人が、指導権を握って、一日で討伐した。西郷隆盛は官職を辞して、頭をそり、「入道先生」などと呼ばれる状態で、北越戦争に同行する。敗北した庄内藩に対して、寛大な処分をを下した。官位がなくても、影響力はあった。庄内藩氏は恩義を感じ、のちに「南洲翁遺訓集」を残すことになる。
会津戦争が終わり、ほぼ全土が新政府のものになったところで、「新政府の財政的基礎はどこにあるか」が突き付けられた問題になる。しかしこれは西郷隆盛とは関係のないことになる。

2018年11月2日金曜日

鳥羽伏見の戦いが、バスチーユ占領に相当する

世界史的にみると、鳥羽伏見の戦いが、、フランス革命のバスチーユ占領に相当する。その根拠とは、土地所有の上に立つ権力を、実業の上に立つ権力に置き換えたからである。前者は貴族、日本の武士、外国では「サムライ」で通用するが、これは誤訳である。サムライは下っ端であり、そのうえに立つ大名こそが重要だからである。
後者について、フランス語では、「オム・ダフェール」、定冠詞をつけて、「ロム・ダフェール」という。実業の人という意味。英語でいえば、「ビジネス・パーソン」、「ビジネスマン」である。商業、金融業、貿易、運輸、工業、、、に携わる人たちのこと。時代とともにその形態が変わるが、百数十年前なら、大商人、大金融業者が主流であった。
それぞれの根拠地は、フランスのヴェルサイユとパリ、前者が貴族(土地)、後者がブルジョアジー(実業)の根拠地、日本では、江戸(土地)と京都、大阪(実業)の根拠地になる。日本の場合、もう少し複雑で、京都は三井の本店があり、かつ朝廷があったが、これは西洋社会のローマ法王領に似ている。宗教的権威を持つからである。
バスチーユ占領は純粋の防衛戦であったが、鳥羽伏見の戦いは、幕府側の主力軍の壊滅という性格を持っていた。パリが抑圧から解放されたという意味で、パリ祭があるが、日本にはない。フランスでは新時代の頂点に、前時代の国王を持ってこようとしたが、日本では、約千年前の伝統に戻るという形をとった。
パリではブルジョアジーが支配した。ただし、形式的には、ラファイエット侯爵を頂点に担ぎ上げた。日本では、天皇、皇族、上級公家、岩倉具視(下級公家)、諸大名、など雑多な集団を並べて、実権はその下、下級武士出身の指導者と大商人の同盟が握ることになった。
下級武士の軍団は、すぐに江戸に向けて出発する。つまり、新政府から遠く離れたところにいることになり、新政府に影響を与えることができない。残された新政府とは何か。これが問題。ズバリ答えを言えば、当時の「オム・ダフェール」である。
三井がその代表格である。西郷隆盛が、討幕戦の資金源に結びつけた。大山巌など薩摩藩士が、金を受け取りに行った。三岡八郎(由利公正)が会計官になり、小野組の小野善助に協力を求め、出資させた。大Ⅼ隈重信は、鴻池、住友から出資金を出させて、政府に入り、会計官の『副』の地位に就いた。彰義隊討伐の軍資金を持ってきた。
こうして、新政府の官僚と大商人の融合が始まった。この勢力に対抗する集団はどこにもない。だから明治政府は「オム・ダフェール」支配といえる。本質論で議論すると、フランス革命と明治維新は同じとなる。