2022年3月25日金曜日

27-フランス革命史入門 第七章の一 革命史を長期的にみると

 第七章 フランス革命をどのように理解するべきか


一 革命史を長期的に見ると


総裁政府からナポレオンの帝政へ

ここでフランス革命が終ったといえる。ちょうど八月一〇日以後の時代にもどった。それはブルジョア共和国であった。それにふさわしい憲法が、八月二二日「共和国憲法」として制定された。普通選挙から制限選挙に逆戻りした。選挙人は約三万人に限定された。議会は上院の古老院と下院の五百人会議にわかれ、議会から五人の総裁が選出され、総裁が行政権を握った。議院内閣制であったが、こういう制度のもとでは、ブルジョアジーと大土地所有者の代表者が絶対的に有利であった。

一〇月、総裁政府が成立した。総裁の顔ぶれを見よう。バラはマルセイユへの派遣委員の時代はテロリストであったが、公金横領で新興成金となり、ウヴラールを保護した。名門貴族出身の新興成金として特異な存在であり、「バラの王」といわれた。

ルーベルは弁護士出身でモンタニヤールに属し、派遣委員のころに新興成金となった。御用商人との結託がもっともあきらかな人物であり、無節操とはいわれていたが、総裁政府では信用があった。

カルノーは「勝利の組織者」であり、恐怖政治の生き残りではあるが、純軍事的な意味からその地位に残った。

ラ・ルヴリエール・レポーはジロンド派議員の生き残りである。ルツルヌールは平原派の有力者であった。総裁政府は、モンタニヤールからの転向者と平原派、ジロンド派の抱き合せであった。

この年の八月には、フラン銀貨を木位貨幣と定め、リーブルの呼称をフランにかえた。翌年の三月にはアシニアが廃止された。こうして革命の紙幣が消滅した。

一七九五年一〇月三日、ヴァンデミエール事件が起こった。これは王党派貴族が反革命暴動を起こし、三日間にわたって議会を襲撃した事件である。このころになると、下層民の中に革命への幻減が広がり、王政をなつかしむ傾向がでていた。そのため、貴族の反乱も強力なものになった。議会と政府が危うくなったので、総裁バラは、かつての友人ナポレオン・ボナパルトに軍隊をまかせ、その手腕によって鎮圧させた。ここで、ブルジョアジーの救世主としてのナポレオンの名声が上った。ナポレオンはロペスピエール派として一時投獄され、釈放されてからは地位を求めてバラに接近していたのである。

翌年の五月、ジャコバン残党を組織して、平等主義あるいは一種の共産主義的思想で反乱を起こそうとする計画が発覚した。これをバプーフの陰謀という。しかし、警察を握るフーシュの手腕によって、未然に摘発された。

総裁政府のはじめは国外で戦勝を続けた。フランス軍は革命初期の精神をすてて、征服地の略奪、搾取をおこなった。兵士の貧困をその方向にそらせたのであるが、同時に将軍や将校はこのため大財産家になった。ナポレオンもそうして大財産家になり、文字通り、ブルジョアジーの将軍ができあがった。

総裁政府の末期、一七九九年敗戦がはじまり、議会でジャコバン派が勢力を増した。六月に累進強制公債の徴収が布出口され、ランデが総裁に選出され、ジャコバンクラブが再建された。ジャコバン派は、昔の夢の再現に張りきったが、ブルジョアジーは過去の悪夢に恐怖した。そのうえ、今度のブルジョアジーは、革命の鉄火をくぐりぬけて来たしたたか者で強化されている。彼らは「切れ味の良いサーベル」を求めて、この危機をさけようとした。

銀行家ペルゴとルクツーは、手紙をエジプトにいるナポレオン・ボナパルトに送った。ナポレオンは帰国し、彼らと密談をしたうえで一七九九年一一月九日(プリュメール一八日)のクーデターを敢行した。ジャコバン派を追放し、議会を解散し、統領政治を実現した。ペルゴ、ルクツーをはじめ大ブルジョアが献金して、このクーデターを支援した。本質的には、大ブルジョアジーの軍事的独裁であった。その政権のもとで再び戦争に勝ち、一八〇四年五月にはナポレオンの第一帝政が出現した。


王政復活から七月革命へ

第一帝政の本質はブルジョア政権であったが、中世的なヨーロッパ諸国を支配する必要もあって貴族的権威で権力をかざる必要に迫られた。この必要からも、亡命貴族にたいして積極的に帰国をうながした。亡命貴族も、財産を取り戻す必要からあいついで帰国した。主としてフイヤン派系の名門貴族が帰って来た。彼らは、ブルジョアジーと縁組その他で混合していった。ウヴラールの娘は、ロシュシャール公爵の息子(リシュリュー公爵家の相続人)と結婚した。もと司教のタレイラン公爵は外務大臣になった。上院として元老院がおかれ、ここに昔の名門貴族とブルジョアが同居した。

貴族的色彩の強いブルジョア帝政が実現した。貴族の爵位は復活し、旧貴族は昔のとおりに呼ばれたが、そこにブルジョアが仲間入りした。フーシェはオトラント公爵となった。皇帝のまわりをフイヤン派系の高級貴族が取りまき、昔の王室に似た形式が復活した。ただ、皇帝の宮廷生活の中にブルジョアが入りこんだので、新しい、ブルジョア出身の貴婦人ができた。彼女らは行儀が悪く、人前でガスをだしたので、「マダム・サンジェーヌ」(無遠慮な婦人)と呼ばれた。宮廷貴族の官廷から、ブルジョアと貴族の混合する宮廷への変化である。

ナポレオンが敗北して外国軍がフランスを占領し、亡命貴族が帰国した。この亡命貴族は、バスチーユ占領のときに亡命した宮廷貴族の本流である。王位を復活させたルイ一八世は、亡命貴族にかこまれて権力の座についた。亡命貴族と高級僧侶は、領主権の復活、十分の一税の復活、国有財産売却の破棄、旧所有者への返還を主張した。要するに絶対主義の復活である。

こうすれば、またもや革命がおきるという教訓を忘れていたのである。ただ、自分の利益だけは忘れなかった。これをタレイランが、「彼らは何事も学ばす、何ものも忘れなかった」と批評した。

ブルジョアジーから中間層にいたるまでの反感が高まった。銀行家や工業家がナポレオンの復活を援助し、百日天下になった。しかしワーテルローの会戦で敗れ、第二王政復活がおこなわれた。またもや、ブルジョアジーの力が後退して、再び旧貴族の権力が復活した。しかし百日天下の教訓もあり、亡命貴族の無制限な要求は阻止された。外国も、ルイ一八世も、慢性的な騒乱を恐れて、現状維持につとめた。いわば妥協の産物であり、旧貴族とブルジョアの連立政権のような性格になった。

領主権や十分の一税は復活させず、国有財産売却の有効性を認めた。絶対主義への完全復帰を要求する亡命貴族の一派は、野党的な立場となり、極端王党(ウルトラ)を組織して、国王に対立したままであった。「王よりも王党的な」野党になった。ただ、亡命貴族にたいして没収売却された土地の買受価格を基準にした補償がおこなわれた。これで、亡命貴族が土地(主として直領地)を失ったとしても、それに相当する公債の所有者となり、大貴族は大ブルジョアにかわった。

ルイ一八世が死に、王弟アルトワ伯が即位して、シャルル一〇世になると極端王党の勢力が強まった。この中心はポリニャック太公であった。マリーアントワネットの寵臣ポリニャック公爵夫人の息子である。彼は絶対主義再建をめざす宮廷貴族に支持されて、議会の権限を削減しようとした。ここで一八三〇年、七月革命がおこり、シャルル一〇世は退位させられた。かわって王位についたのはオルレアン公ルイ・フィリップであった。彼のかつぎだしに尽力したのは、タレイラン公爵とラファイエット侯爵であった。いわば、バスチーユ占領直後のような状態になった。

このまわりをラフィット(ペルゴの後継者)、カジミール・ド・ペリエ(クロード・ペリエの子)のような銀行家、大工業家が固めた。彼らは革命的銀行家と呼ばれていたが、まずラフィットが首相になり、つぎにカジミール・ド・ペリエが首相兼内務大臣になった。「オート・バンクの支配人」が実現し、宮廷貴族の力は最終的に排除された。フランス革命の成果は、七月革命で完全に落着いたといえる。

要約 第七章 フランス革命をどのように理解するべきか 一 革命史を長期的にみると

モンタニヤールの消滅と並行して、恐怖政治の政策は全廃された。共和国憲法は制限選挙制に戻り、普通選挙制は廃止された。総裁政府は、ジロンド派、平原派、モンタニヤールの生き残りで構成された。この政権は、王党派反乱の撃滅、アンギアン公爵の処刑でコンデ大公家を断絶させた。他方でバブーフの陰謀を摘発して、左翼の運動を抑えた。ブルジョアジーの権力を安定させたが、産業構造の変化、ビジネス環境の変化があり、実業家の中で、軍需物資調達業者の急成長がみられた。これと組んで、将軍たちの中から新興成金が出てきた。この両者の癒着、汚職が軍事力の弱体化を招いた。

そこにナポレオンが登場した。彼を呼び戻して統領政治に押し上げた人達が、ペルゴとルクツーだと説いて、この二人の経歴、役割を説明する、こういう歴史の説明をしたのは私一人である。フランス人でも知る人はいない。

ナポレオンが敗北して、王政が復活し、七月革命で銀行家の支配と言われる時代を作り出した。フランス革命の成果は七月革命で完全に落ち着いたと書いている。これで間違いはないと思うが、フランス革命はナポレオンの出現で終わるという人も多い。フランス革命に七月革命を含める人はいない。だから常識に従って、そのように定義すると、言いにくいことだが、「フランス革命は未完の市民革命、敗北した市民革命、フロンドの乱と同じ」というしかない。(これを聞くとフランス人は怒るだろう)。どちらを取るかという問題です。


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