2022年3月25日金曜日

25-フランス革命史入門 第六章の二 ロベスピエール派の敗北

 二 ロベスピエール派の敗北


モンタニヤールの分裂

エベール派とダントン派を排除して、公安委員会は当面の危険をさけることができた。この二つの党派と闘い、かつ外敵、ヴァンデー暴動と闘うためには、一致団結してあたらなければならなかった。そのため、内部の対立はまだ小さく、エロー・ド・セシュルが排除されただけであった。公安委員会と保安委員会の多数はモンタニヤール議員であり、さしあたりうまくいっているようにみえた。

ところが、二つの党派を排除した直後から亀裂が入り、公安委員会もモンタニヤールも分裂した。ロベスピエール派と反ロベスピエール派にわかれるが、反ロベスピエール派の方がモンタニヤールの多数を占めるので、これをモンタニヤール主流と名づけよう。公安委員の中ではカルノー、ランデ、二人のプリュール、ジャンボン・サンタンドレである。

保安委員会では、二人の実力者アマール、ヴァディエである。ロベスピエール派は、公安委員会ではサン・ジュスト、クートンを含める三人であり、保安委員会ではル・バと、人数からいえばごく少数派になっている。し

かし少数派とはいえ、これが一時多数派を威圧し、表面的にみると、公安委員会はロベスピエールによって動かされているかのようにみえはじめた。ロベスピエールの権成は大きくなった。

ロベスピエールはダントンとちがって、はなばなしい演説をしない。むしろ、理論的な、本質をつく演説家である。品行方正、清廉潔白で民衆に人気があったが、最高価格制に抵抗し、過激派に正面から敵対し、エベール派の非キリスト教化連動に反対した。自分の主義主張を守って、民衆運動に迎合することはなかった。そのため、ときにはジャコバンクラブで孤立するときもあった。しかし、最終的に彼の判断力と人格が理解され、エベール派を排除したあと、ジャコバンクラブでの人気は絶対的なものになった。

それを背景として公安委員会の中における権威が高まり、カルノーやランデすらも一目おかざるをえないような形になった。そのこと自体が、自由と平等を信念とする他の公安委員にとってみれば、不愉快なものになった。

「独裁者」の非難が投げつけられた理由である。ロベスピエールがこのような権威をもってきた過程をながめてみよう。

彼はアラス高等法院弁護士から三部会議員となり、バスチーユ占領、ヴェルサイユ行進を支持する演説をおこない、選挙問題では普通選挙制を主張した。戦争問題では反戦論を展開した。八月一〇日では、武装蜂起の必要を連盟兵に説いた。ただし、戦闘には参加しなかった。九月二日の虐殺でも、直接運動を指導することはなかった。それにはふれないで、ジロンド派のブリッソが、宮廷や外国と通謀していることを告発した。ジロンド派追放のときには、武蜂起の必要を力説した。

その後、過激派が公安委員会を攻撃しはじめると、彼はむしろこれを弁護する側にまわった。公安委員会に入ってからの彼の主な活躍ぶりは、過激派との闘争にみられる。最高価格側や買占め禁止法は、彼よりもむしろ、他の議員の活躍で成立している。もちろん、彼も恐怖政治の諸方策を推進した一人ではあるが、あくまで、集団の中の一人としての役盟にとどまっている。

彼個人の影響力は、ダントン派とエベール派の排除で大きく発揮された。エベール派のように、職人、労働者の本能的な要求を掲げて公安委員会と国民公会を攻撃してくる党派にたいしては、ロベスピエールのように、本人が清廉潔白で、人民大衆に信頼のある革命家を表面に立てなければ、動揺している民衆をエベール派から引きはなすことがでぎない。ロベスピエールは、エベール派の攻勢から、国民公会と公安委員会を守ってやったのである。

ダントン派にたいする闘いも同じである。ダントンのような伝説的名声をもちながら、極端な腐敗行為をしているものにたいしては、ロベスピエールのように、清廉潔白な革命家を対抗させるのがもっとも有効である。ロベスピエールがダントンの逮捕をしぶったにもかかわらず、国民公会でダントン派議員がさわいだとき、ロベスピエールの発言で押えられてしまった。こうして、ロベスピエール個人の権威は絶対的なほどに高まったが、そのときにまだ、ロベスエール自身の社会的プログラムは、なにひとっ打ちだされていない。これが肝心なところである。


ヴァントゥーズ法

ロベスピエールの社会的プログラムとは、一口にいえば、小市民の共和国である。彼はルソーの信奉者であるが、フランス革命の中で、しだいに小所有者の自由な共和国を理想とするようになった。フランスで最大の金持といえども、三〇〇〇リーブル以上の利子収入をもつことはよくないという。財産の上限を切捨てようというのであるが、これではブルジョアジーを根絶してしまうことになる。

そこで「国民の危険はブルジョアよりくる。ブルジョアに勝っためには人民を結集しなければならない。誰が敵か、悪徳者と金持だ」と書いた。

また、人民と金持の利益が一致することは決してないともいっている。ここではっきりすることは、ロベスピエールの思想が、反ブルジョア的だということである。

サン・ジュストは、最年少の公安委員で、一七九三年にはニ六歳であった。下級貴族・騎士の子で法律を学んだが、国民公会で国王の裁判に活躍して有名になった。ダントンが公安委員会からしりぞけられた後に入り、一七九三年一〇月、東部国境の派遣委員となった。ここで、彼は兵士とともに奮闘をおこないながら、厳格な革命的政策を実行した。累進強制公債を容赦なく徴収し、履行しなかった者をギロチンに縛りつけた。軍需物資を調達するために、金持から物資を調達した。裏切りの告発を受けた将軍を処刑した。

こうしてフランス革命軍の強化に大きな役割を果してパリに帰った。彼の思想は、すべての人間が働き、すべての人間がある一定限度の財産をもつように、最高限と最低限を決めるべきだというものである。すべての人間が小土地所有者となり、職人、公務員以外の者は土地を耕さなければならないともいう。銀行や船舶の私有は禁止し、金、銀は貨幣以外に使うべきではないともいう。これが彼の理想社会である。農業を標準とした小市民の共和国で、ぜいたくと腐敗堕落を排除する理想国家というべきであろう。

このような理想国家をフランスに作ろうとする計画が、ヴァントゥーズ法として提案され、国民公会で可決された。一七九四年ニ月ニ六日のことであった。これによると、反革命容疑者の財産を没収し、これを貧しい人の

ために無償で分配することになっていた。財産の中心は土地であり、反革命容疑者とは大財産の所有者であったから、ブルジョアジーの絶滅を意味していた。

「もし諸君が、すべての反逆者から土地を取上げるならば、諸君は一個の革命をおこなったというべきであろう」。

このヴァントゥーズ法は大きな反響をよびおこし、パリをはじめ各地のサンキュロットの集会から称賛、祝福の声が集まった。ナンシーの人民協会は、国民公会にあてて請願を送った。

「反革命容疑者の財産をただちにサンキュロットの手に渡すために、反革命容疑者の裁判をできるだけ早くおこなうように」。

このヴァントゥーズ法が、エベール派の武装蜂起計画の最中に決定された意味を考える必要がある。この法令にサンキュロットが熱中し、国民公会がこれを実行してくれるという期待をもった瞬間、彼らはエベール派の企画する食料暴動から身を引いていったのである。ヴァントゥーズ法は、エベール派から民衆を引きはなす効果をもったのである。

三月一三日エベール派を逮捕したとき、「外国人徒党についての報告」の中で、サン・ジュストは、反革命容疑者の裁判をおこなうために人民委員会をもうけ、これを公安委員会と保安委員会が援助するものと規定した。

反革命容疑者については、「市民を腐敗させようと共謀し、革命政府を転覆しようとし、パリに食料が届くのを妨げ、不安を拡大し、亡命貴族をかくまい、人民と自由を圧殺するためにパリに武器をもちこんだ者」と規定した。

この中での食料についての規定は、エべール派の行動を指している。ここでのサン・ジュストの報告は、二重の性格をもっていた。彼の理想論としての社会改革論と、エべール派断罪とを絡み合せたものである。それは、エベール派逮捕の衝撃で、エベール派を支持してきた貧民達が国民公会にたいして立ち上るかもしれないので、国民公会の改革案を示すことによって騒動を未然に防止する役目である。この報告がタンプル区の総会で読まれたとき、「陰謀家」の文章がでてくると、人々が「それはエべールだ、ならず者め」といった。そこに、エベール派への対策としての効果が見られる。


土地革命への接近

ロベスピエール派の社会政策は、これを機会に急速に前進した。四月一五日、サン・ジュストは「一般警察、裁判、商業、立法、徒党の犯罪についての報告」をおこなった。ここで、人民委員会は五月四日までに設立されること、公安委員会の中に一般警察局を組織し、これが公務員と行政機関を監視し、公務員の行動を調査して、陰謀、権力濫用を摘発し、革命裁判所に引渡す権限をもつものと定めた。

この一般警察局は保安委員会とは別に、特別警察となり、ロベスピエール、サン・ジェスト、クートンの三人が牛耳った。これが活動をはじめると、腐敗、汚職をしている官吏や不正取引をして利益をあげた商人、銀行家、工業家が摘発され、革命裁判所に引渡されることになる。有罪と決まれば、その財産が没収されて、貧民に与え

られる。当時多くの議員が腐敗し、多くのブルジョアがこれと結託をしていたから、この法律が厳正に実行されるならば、ロベスピエール、サン・ジュストの社会的プログラムの実現にむかって進むはずであった。

もしこれが実行されるならば、まさに反ブルジョア的革命の第一歩が出現することになる。また、土地間題からみるならば、土地革命と呼ばれるべきものが出現することになる。

それ以前の僧侶財産と亡命貴族財産の没収、売却は、所有権の移転は実現したが、土地革命といえるような事態を作らなかった。あくまで競売に付したので、大財産家が大規模な土地を手に入れ、貧民はこれを買入れる能力がなかった。

一七九三年九月一三日、恐怖政治の一環として、貧民に五〇〇リーブルの証券を与え、土地買受けに参加する機会を与えたが、現実には、貧民が土地を手に入れることはできなかった。貧民を土地所有者にするためには、無料で土地を与えなければならなかった。

そこで、土地所有の階層別分布は、ほとんど変化がなかったとみてよい。ロベスピエール派の計画が、はじめてこれを一転させようとしたのである。この法令と並行して、保安委員会の官吏エロンが、ロベスピエールと協力して

多くの銀行家を反革命罪で告発し、逮捕させた。ロベスピエール派は、エロンの功績を高く評価していた。こうした現実と、サン・ジュストの法律が結びつけば、一大社会改革となるはずであった。


反対派の抵抗

急ピッチに進んでいく口ベスピエール派の社会政策について、公安委員会の多数や保安委員会、あるいは国民

公会の多数は、心から賛成したのであろうか。彼らのほとんどがブルジョアジーの代表者である以上、本気でこ

のような政策を実行するつもりはなかった。食料担当のランデは、エロンの告発で逮捕された銀行家をかばって

釈放させ、ロベスピエールと対立した。

保安委員会のアマール、ヴァディエは、一般警察局が保安委員会の権限を横取りしたことに不満をいだいた。

しかも、逮捕する者と釈放する者が逆になったばあいが多かった。この対立が尖鋭化して、ついに全面的対決となり、テルミドールの反革命へつながるのである。

さしあたり、エベール派の脅威を受けている間は、国民公会も公安、保安両委員の多数も、ヴァントゥーズ法に賛成した。これを本気で実行する気はないが、エベール派から貧民大衆を切りはなすための公約と解釈したのである。エべール派の脅成が去ると、そろそろその法令を無効にしたいと考えだした。ただ依然としてエベール派の基盤となりうる貧民大衆がパリにあふれ、さらにロベスピエールを支持するジャコバンクラブの力が強大である。そこで、真向から彼らの社会政策に反対することはできない。そこで、これに賛成しながら、実施を引きのばし、別にもっと穏健な改革案を発表することによって、ロベスピエール派の政策をうやむやにしてしまおうと考えた。

三月四日、ダントン派のメルラン(チオンヴィル出身)、チュリオなどが、貧民を救済するために五〇万リーブルをあて、これを内務大臣の使用にまかせることを国民公会に可決させた。これはヴァントゥーズ法にかわる貧民の一時的救済政策であった。五月一一日、バレールが「まだ売られていない国有財産」の状態を調査し、これを貧民にたいして救貧の意味で分配するという法案を可決させた。これならば、僧侶の土地と亡命貴族の土地の売れ残ったものを無料で分配するのであるから、ブルジョアジーにたいする打撃にはならない。ヴァントゥーズ法を、こちらの方向にすりかえようというのである。また、労働のできない貧困者のためには、国家から仕事場を与えることを提案した。

この年の三月から四月、とくに極貧層の男女が乞食になって町角にあふれ、彼らの中から、旧体制をなつかしむ声がでてきた。また、ラファイエットを口にする者が多くなった。貧民にたいして革命政府がなにもしなければ、彼らを反革命的集団にしてしまう可能性があり、乞食の間題は、政府にとって重大なものになった。このような状態のうえに、ロベスピエール派の政策と、チュリオやバレールの政策が打ちだされたのである。

それにしても、ロベスビエール派は本気で貧民を土地所有者にして社会正義を実現しようとした。これにたいして、反ロベスピエール派は、ヴァントゥーズ法を一時的な口約束と理解した。そこで一応賛成しておいたが意外に相手が本気でやり抜くかまえをみせたので、それにブレーキをかけながら、別な政治的譲歩の手段を打ちだしたのである。ヴァントゥーズ法にたいする抵抗は、とくに腐敗議員の一団から強力に行われた。彼らの取引相手の銀行家や商人が、まっ先に反革命容疑者とされる可能性があったからである。

その一例は、五月二二日、一般警察局が、ロベスピエールの命令でテレザ・カバリュスを逮捕したことである。スペイン人銀行家カバリュスの娘で、ボルドーへの派遣委員で、テロリストのタリヤンと結婚した。カバリュスは、革命権力に接近しながら大もうけをした。こうした人物を、ロベスピエールが反革命容疑者とみなした。当然タリヤンは、ロベスピエール打倒の側にまわる。そのタリヤンですら、一応ヴァントウーズ法に賛成はしたのである。こうした状態であるから、腐敗議員の抵抗を排除する必要があった。

このために「プレリアル法」がクートンによって提案された。六月一〇日のことである。これは「人民の敵を死刑にする」というが、人民の敵の中に、腐敗した者までも含め、国民公会議員にたいする例外を認めず、被告に弁護人をつける必要もなく、公安委員会の判断で革命裁判所に引きたすことができるというものであった。

公安委員会とはいうものの、実際はロベスピエール派の三人がにぎる一般警察局である。これについて、身にやましいところのある議員は大きな恐怖を感じた。弁護人もなく、いきなり過去の腐敗、汚職、公金横領の罪状を洗いたてられ、たちまち革命裁判所にひきだされ、処刑され、財産は貧民に分配されてしまう。ここで多くの議員が反対した。しかしまだ、ロベスピエールの力は強かった。国民公会はこの法案を可決させられた。しかし、ロベスピエールへの恐怖と反感がひそかに高まった。


戦勝とロベスピエール派の孤立

ちょうどこのころ、戦線では全面的にフランス軍の優勢が示された。正規軍と義勇兵の区別がなくなり、貴族将校のあとを平民出身の将校が埋めた。彼らは能力もあり勇敢でもあり、下士官兵士からでてきたので、兵士の苦労がわかり、信頼を得ていた。暴利をむさぼった御用商人が粛清されて、軍隊の装備がよくなった。公安委員会の振興した重工業が、フル回転をはじめ、武器弾薬がふんだんに供給された。陸軍に関しては、ヨーロッパ最強の軍隊に生れ変った。イギリスに押されぎみの海軍にしても、ブレスト軍港で軍艦の増産が進められた。

こうしたフランス軍の強化が、まずフルーリュスの戦勝となってみのった。六月二六日、ベルギー領のフルーリュスで、フランス革命軍は激戦の末オーストリアの大軍を破った。その前後から、すべての戦線から、あいつぐ戦勝の報道が入ってきた。七月八日、ブリュッセルを占領した。もはやフランス共和国は安泰となり、戦争はすべて国境の外でおこなわれ、順調に征服戦争がすすみつつあった。

国民公会が戦勝の報告にわきたっているとき、ロベスピエールの立場は悪くなっていた。ジャコバンクラブで、彼は公安委員会の中で無力になったと打ちあけた。七月一日、ジャコバンクラブで絶望的なことをいった。

「私はやむをえず自分のもっている官職から辞任したとしても、まだ人民の代表という資格が残っている。だから私は、暴君や陰謀家と死闘を演じるつもりである」。

この二日後に、彼は公安委員会に出席しなくなった。これは驚くべき変化であった。

その約一カ月前の六月四日には、満場一致で国民公会議長に選ばれ、六月八日には、「最高存在」の大祭典を彼が司会したのである。このときは、平原派議員の多くまでが、ロベスピエールの「最高存在」の哲学にたいして称讃の言葉を送った。突如として現われた「最高存在」の理念は、非キリスト教化運動の行きすぎを是正しながら、カトリック教会を廃止したあとにかわる、新しい宗教的規範として打ちだされたものである。

なんといっても、宗教心を国民全体から取り払うことはむずかしかった。それではカトリック教会を復活させるかといえば、僧侶のほとんどは反革命であった。そこで、自然と神を融合した「最高存在」を仮定し、これが道徳的原理を教えるという形で、新しい国家的宗教を作ろうとして、絶大な支持を集めたのである。ところがその一カ月後に、彼はまったく無力な存在になったという。

この突然の孤立は、二つの大きな理由から起こった。ロベスピエールの反ブルジョア的政策が本気のものであることを、国民公会の多数が知ったことである。それまでのロベスピエールは、過激派やエベール派から国民公会を守ってくれる存在でもあった。だから、平原派は、それなりにロベスピエールを評価していた。これが、一変したのである。もうひとつは、戦勝がつづいて国境が安泰になったことである。もはや、ブルジョアジーにとって、譲歩の政策は不要となった。恐怖政治の政策は廃止してしまいたい。そのときに、ロベスピエールは、ブルジョア絶滅の政策を打ち出した。これでは対決はさけられない。


反ロベスピエールの陰謀

ロベスピエールが公安委員会を去ってから約一カ月の間、ロベスピエール派と反ロベスビエール派との武力対決が静かに準備された。ロベスピエールはジャコバンクラブを固めることに専念し、ここから反対派を除いた。

貴族出身の軍事委員デュボア・ド・クランセ、僧侶出身のテロリストで新興成金になったフーシェを除名した。

また、パリコミューンを自派で固めた。彼を支持するペイヤンは、パリコミューンに諸区の革命委員を召集した。こうして、新しい武装蜂起の計画が進められた。

反対派は、ロベスピエールのいないことを利用して一連の政策を実施した。すでに人民委員会の組織をできるだけ遅らせ、六つのうち二つしか作らせなかったが、ロベスピエールが去った翌日、この人民委員会を公安委員会の統下におき、反革命容疑者の選別について、厳重な報告を要求した。また、反革命容疑者の財産差押えを延期した。

七月九日、保安委員会のヴァディエは、地方で投獄されている反革命容疑者のうち、耕作者、自作農、専門の職人などを仮釈放する法令を可決させた。これはプレリアル法と矛盾するもので、反革命容疑者の釈放を、保安委員会が公安委員会の一般警察局を無視して釈放できることになった。この法令にたいして、ロベスピエールは、貴族を耕作者といいかえることによって、反革命容疑者を助けようとするものであると批判した。

対決の時期が迫ると、公安委員会、保安委員会の主流は腐敗議員の一団と組んで、平原派議員の獲得に必死の奔走をはじめた。腐敗議員がもっとも戦闘的であった。タリヤン、フーシェ、バラ、メルラン、フレロンなどで、彼らは、ロベスピエールが勝てばまっ先に粛清されるはずであった。とくにタリヤンは、妻のテレザ・カバリュスが革命裁判所に引きだされることになったので、死にもの狂いになった。

彼らは、平原派の実力議員シエース、ボワシ・ダングラ、デュラン・マイヤンヌなどに頼みこみ、ロベスピエールを倒せば恐怖政治を中止すると約束して、支持をとり付けた。公安委員のカルノーは、ロベスピエールの影響下にあったパリ砲兵隊を地方に移転させた。七月末になると、両陣営とも、武装して護衛付きでひんぱんに会合を重ねた。

七月二六日、ロベスピエールは国民議会で大演説をおこない、政敵を徹底的に攻撃した。彼はまだ、平原派議員が彼の主張を聞いてくれると思ったのである。このときになると、彼はモンタニヤールを信頼しなくなり、かえって平原派議員をあてにしたのである。これは誤算であった。ただし、彼があてにしたのも無理からぬところもある。

ロベスピエールは、エベール派の圧力から平原派を守り、ジロンド派議員の裁判をエベール派が要求したときにも、公然と反対して、六七人のジロンド派議員の命を助けた。平原派の実力者デュラン・マイヤンヌは、手紙を出してロベスピエールに感謝した。ボワシ・ダングラも、「最高存在」の祭典について、ロベスピエールを文明と道徳のオルフェにたとえてほめた。彼ら平原派議員がロベスピエール派の政策に恐れをいだいて、腐敗議員と結んだことは、ロベスピエールの気づかないことであった。


テルミドールの反革命

七月二六日の大演説で、彼はタリヤン、フーシェなどテロリストの恐怖政治のいきすぎと、腐敗、横領、ダントン派議員の汚職、公安委員のカルノーが貴族軍人を保護していること、保安委員会が反革命容疑者を保護していることなどを、洗いざらいとりあげた。そのうえ、財政委員会のカンボンの財政政策を徹底的に批判した。財政委員会が貧困な人民を冷遇し、貴族主義者を保護する投機業者であり、反革命者であるといった。

ここで、ロベスピエールの非難は、公安、保安、財政の三大委員会すべてにたいする攻撃になった。この演説は国民公会にたいして強烈な影響を与えた。この演説を印刷して、市町村に送ることが一度は可決された。そのときまで、まだロベスピエールの力が国民公会を圧していた。

突然、名指しで批判された財政委員会のカンボンが、ロベスピエールにたいして激しく反論した。カンボンもこの対決を覚悟していて、その夜、父親にたいして「明日ロベスピエールか私か、そのどちらかが死ぬだろう」と書いたほどである。カンボンはロベスピエールを独裁者と批判した。これに続いて、反対派の議員がつぎつぎ立って口ベスピエールを批判した。演説を市町村に送る案は、逆転して否決された。

国民公会で敗北すると、ロベスピエールはジャコバンクラブにかけつけて同じ演説を読上げ、大喝采をうけた。

ビョー.ヴァレンヌ、コロー・デルボアが反論しようとしたが、「ギロチンへ!」との叫び声をうけて退場させられた。革命裁判所議長デュマは、「政府は反革命だ」と宣言した。パリコミューンとの間に同盟が成立し、武装蜂起の宣言がおこなわれた。反対派も武力の集結に奔走した。カンボンは、騎兵隊の指揮官エスマールを味方にひき入れた。

翌日の七月二七日(テルミドール九日)、ロベスピエール、サン・ジュストの発言は妨害され、「暴君を打倒せよ!」の叫び声の中で逮捕が可決された。これをテルミドールの反革命という。ロベスピエール派の国民衛兵司令官アンリオーの解任が決議され、後任にエスマールが任命された。アンリオーは少数の兵士を連れて口ベスピエール救出に乗りこみ、逆に逮捕された。革命裁判所副議長コッファナルが砲兵隊を率いて進み、アンリオーとロベスピエール派議員を奪回し、パリコミューン議事堂に集まった。

こうして、国民公会とパリコミューンの全面的対決になった。両派は軍隊を集めたが、ロベスピール派の側には予想通りの軍隊が集まらなかった。レオナール。ブルドンが二五〇〇人の小銃隊を集めてきた。彼の指揮のもとに、国民公会側の軍隊がパリコミューンを急襲し、ロベスピエールは自殺未遂のまま逮捕され、ル・バは。ピストル自殺した。その翌日、ロベスピエール派約一〇〇人が処刑された。


ロベスピエール敗北の理由

ロベスピエール派は、対決になると意外に弱かった。なぜ弱かったかといえば、これを支持する階層が思ったより少なく、孤立していたからである。彼らの政策は、徹底して反ブルジョア的であった。そのため、貴族はもとよりブルジョアジー全体を敵にまわした。農村では、中農以上を敵にまわすことになる。

それでは、それ以下の大衆を、貧民にいたるまで全て味方にしたかというとそうではない。ロベスピエール派は労働運動の抑圧に熱心であり、貧民の本能的な要求にたいしては、頑固な反対派であり、その抑圧の先頭に立った。エべール派の排除からテルミドール事件の日まで、パリで多くの労働運動が盛り上った。労働者や職人の最高賃金制反対のストライキ、肉の買占めに反対する婦人運動などであった。これらの運動にたいして、パリコミューンも公安委員会も、反革命運動として弾圧をおこない、ストライキをおこした労働者は逮捕された。

パリの貧民と労働者からみれば、最高賃金の責任がロベスピエール派にあると思われた。事実、ロベスピエール派が処刑されるときに、労働者が「最高賃金制のちくしようめ」という叫び声で見送った。最高賃金制は、公安委員会のバレールの指導下で七月二三日改正され、これが従来よりも賃下げになった。だから、必ずしも口ベスピエール派の責任ではなかった。しかし、ロベスピエール派も労働運動にたいしてきびしい立場をとっていたから職人、労働者にとっては、ロベスピエール派が没落すれば、あるいは賃上げが実現するのではないかと思ったのである。

ブルジョアジーと下層民を敵にしたロベスピエール派とは、どのような階層を支持者にしていたのだろうか。それは、手工業者の親方層、小工業の経営者、小商人、文筆家、医者、芸術家、自由業者など、いわば中間層といえる階層であった。彼らはブルショアジーにたいしても敵意をもつが、少数の職人、労働者を使うために、最高賃金制も必要とする。ロベスピエールとともに死んだ者の職業をみると、そのような性格が示されている。それだけに、彼らはブルジョアジーと貧民のはさみ打ちに会ったのである。

それにしても、彼らはパリで強力な武装集団を作り、国民公会への圧力になっていた。軍隊のほとんどが国境外にいたことも、彼らの力を相対的に強くした。そのうえ、当時の軍事技術の水準では、彼らが武器をもてば、正現の軍隊と市街戦で互角に戦える。国民公会がロベスピエールをおそれていたのは、そうした事情のもとにあったからである。

要約 第六章フランス革命の終結 二 ロベスピエール派の敗北

ここがフランス革命のもっともわかりにくいところであり、私も学生時代、いろいろと読んだけれども、納得のいくものに出会ったことはない。ヴァントゥーズ法までは書く人が出てきたが、その先がはっきりしない。この法案は、「反革命容疑者の財産を没収して、貧しい愛国者に無料で与える」というものであった。これがジャコバンクラブで歓迎され、国民公会で満場一致で可決された。この時、ロベスピエール派の人気は絶頂にまで高まった。そのおかげで、エベール派の人気に陰りが出てきた。食料不足ばかりを批判し、反乱に持っていこうとしたからである。

エベール派の脅威が消滅した途端に、ヴァントゥーズ法の実行に対して、熱意の差が生まれた。「さあいよいよ」という人と、「もうしなくても良いのでは」という意見の差になった。この差が大きくなるための外部条件もある。それは相次ぐ戦勝であった。国境は安泰となり、兵士が帰還し、首都の警備もジャコバンクラブに頼らなくてもよくなるという見通しであった。元々この問題があったので、ロベスピエールの公安委員会入りが実現した。この問題が消えていくと、清廉潔白なロベスピエールは迷惑な存在になる。このように説明するとわかってもらえるだろうか。 

ところがロベスピエール派はさらに突き進んだ。一般警察局を別組織として作り、保安委員会と敵対した。(これが説明のしにくいものであり、例えば、今の東京地検特捜部を独立させて、首相直属にするというようなもの)。また財産の無料分配のために人民委員会を作り、受取人の名簿を作るとした。この作業を公安委員会の多数派がサボタージュで妨害した。こういう暗闘の末についに敗北した。

この事件で、私は重要な世界史上の理論に言及したい。『フランス革命で、農民に土地を与えた』という理論は、普遍的な心理として、教科書にも書かれてきた。しかし、「土地を与える」という法令は、ヴァントゥーズ法が初めてであり、それまでは競売であった。この法案の実行に反対して強力に対立したカンボン(財政委員会議長)は、無料にすると、財政破綻になるといって反対した。最後にカンボンが勝ったのであるから、フランス革命で土地が無料で与えられたことはないのである。つまりロベスピエール派の敗北から、「フランス革命に土地革命はなかった」という結論が導き出されるべきである。これを私は繰り返し書いている。その結果、むかし「土地制度史学会」という東大経済学部中心の学会が大勢力を持っていたが、今は消滅している。この学会の根拠は、「フランス革命では土地革命があった。では我が国はどうか」という基本姿勢がよりどころであった。しかし、「フランス革命でも、土地をタダでという政策はなかった」となると、学界の論争は根拠なしになる。・こういう重大な問題を含んでいる。日本だけではなく、アメリカ、イギリスの市民革命を論じる時も同じことが起こる。


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