2022年2月7日月曜日

20-フランス革命史入門 第四章の五 ジロンド派の追放

 五 ジロンド派の追放


ジロンド派最後の攻勢

これまでみてきたように、ヴァンデー暴動にたいする対応の仕方、最高価格制についての態度のちがい、国王の裁判をめぐる態度のちがい、デュムーリエ将軍についてのかかわりあいなど、ジロンド派が非常事態に対処することができなくて、モンタニヤールに押されていった事情はあきらかになった。しかし、やがてジロンド派が国民公会から追放される。これをきっかけにして、リヨン、マルセイユ、ボルドーといった重要都市がジロンド派の側に立って反乱を起こし、いわゆる連邦派の反乱、フェデラリストの反乱を起こした。

ここに至った事情は、これまで説明してきた事件では説明ができない。最高価格制についても、一応すんだことであり、国王の処刑もすんだことである。それに、これらの問題については、平原派議員の中にも賛否両論があり、それにもかかわらず平原派議員は追放されていない。だから、これらの問題は、ジロンド派追放の決定的な原因ではない。

ほとんどのフランス革命史では、ジロンド派とモンタニヤールの政治闘争を説明し、その延長として、六月二日の武装蜂起にいたり、ジロンド派が追放されると説明する。その政治的事件を説明しなければならない。まずロベスピエールとマラがジロンド派をデュムーリエ将軍の共犯者ときめつけ、とくにブリッソが告発されるべきであると主張した。

また、四月五日、総防衛委員会にかわって公安委員会が組織され、この公安委員会が、内閣(臨時行政会議)の行政を監視し、非常事態のばあいは内閣に命令する権限を与えられた。この公安委員会にたいして、ジロンド派が独裁と批判した。これにたいしてマラが、「自由の専制」の必要を根拠として反駁し、一種の革命的な独裁思想を表明した。

ジロンド派は、四月五日ジャコバンクラブが全国の支部にたいしてだした文章の中にマラの独裁思想があると指摘して、四月一三日、国民公会にマラを告発した。これは可決されて、彼は四月二四日、革命裁判所に引きだされた。しかし、マラの雄弁と、彼を支持するパリ市民の圧力のために無罪となった。マラを支持するパリの諸区が、今度はジロンド派にたいする報復を企てた。この闘争のいきつく結果、ジロンド派は、モンタニヤールの根拠地であるパリコミューンを解散させ、地方から軍隊を呼び集めて、ジロンド派の政権を回復しようとした。

こうした政治闘争の結果が、一二人委員会の設立とエベールの逮捕であった。一二人委員会はジロンド派議員で組織され、国民公会を転覆するための陰謀を調査する権限を与えられた。これが五月二〇日のことであった。一二人委員会は、五月二四日、まずエべールをその容疑者として逮捕した。エべールが『ペール・デュシエーヌ』の中で、ジロンド派が王党派やデュムーリエと共謀してモンタニヤール、ジャコバン派、パリコミューンを虐殺しようとしていると書きたてたことを根拠としたものであった。つづいて過激派のヴァルレが逮捕された。

翌日の二五日、パリコミューンの代表が国民公会で抗議の演説をおこなおうとしたとき、議長をしていたジロンド派のイスナールがこれに反対して、脅迫的な演説をした。パリが国民代表としての議員を守る義務があるのに、三月一〇日以来、たびたび反乱の企てがおこなわれ、国民公会の権威が低下しているといい、もしパリ市民の反乱が国民代表を傷つけるようなことがあれば、全フランスの人間がパリに対して復讐し、パリを絶滅するだろうという極端な表現であった。

「もしこの反乱が国民代表を傷つけるようなことになれば、私は全フランスの名において宣言する。パリは絶減されるであろう。全フランスがパリにたいして復讐し、やがてパリはセーヌ河のどのあたりにあったのかと人が探さなければならなくなるだろう」。

この演説は、あまりにも党派的憎しみを露骨にだしすぎたものであり、ジロンド派にたいする反感をあおりたてた。議会の外では、過激派クレール・ラコンブの率いる革命的共和主義婦人クラブが、エベール釈放を要求するデモをおこした。婦人達が熱狂して、サーベル、槍、包丁をもち、大群をなして行進した。彼女らはジロンド派のペチヨンをつかまえて、脅迫した。

つぎの五月二七日、ジャコバンクラブではロベスピエールが武装蜂起を呼びかけた。その圧力のもとに、国民公会は一二人委員会の廃止、エべール、ヴァルレなどの釈放を決定した。しかし、そのつぎの五月二八日には、ジロンド派が一二人委員会の復活を要求し、また可決された。


五月三一日、六月ニ日の武装蜂起

このように国民公会の決議は左右にゆれ動いていた。平原派議員の票が圧力によって変化した。国民公会での欠席者が多くなり、欠席者は議会の外で策謀をめぐらした。一二人委員会を任命するときは、投票者が三二五人しかいなかった。議員全体で約七〇〇人であるから、半数近くの者が欠席していたことになる。もちろん、すでに軍隊にたいする派遣委員の制度が成立し、六三名の議員が軍隊に派遣され、戦争から物資調達、軍隊の士気にいたるまでの全権力をもって、前線にちらばっていた。

しかし、これを差し引いても、なおかつ出席者は少ない。一二人委員会委員の最低得票者は、一〇四票であった。これでは、ジロンド派議員だけの投票としかいえない。五月二七日、一二人委員会を廃止した時の投票はもっと少なく、一〇〇人しか投票しなかった。これではモンタニヤールの議員だけという以外にない。平原派とジロンド派の議員は、投票に参加していないといえる。当時の議員は都合の悪いときに雲隠れをしていたことが想像できる。ちょうどこの日、革命的共和主義婦人クラブの大デモがおこなわれていたからでもあろう。

つぎの二八日、一二人委員会が再建されたときには、五一七票が投じられた。これでわかることは、平原派議員の多数も、過激派やエべール、さらにはパリコミューンの動きを押えようとする気持をもっていることである。ただ、ジロンド派とちがうところは、どの程度徹底的に闘うかをめぐってであった。ジロンド派がもっとも戦闘的であり、平原派は、情勢をみながら動いていたということができる。

いずれにしても、一二人委員会の再建は、国民公会の多数意見として可決された。約七〇〇人中五〇〇人以上は、反対派にとっては威圧的な意味をもつ。ここで、モンタニヤール、ジャコバンクラブ、パリコミューン、過激派の中に危機感が高まった。五月二九日、パリの諸区の代表が武装蜂起委員会を組織した。五月三一日、司教館を本拠にして、コルドリエクラブの創立者デュフルニを議長とする武装蜂起委員会が行動を開始した。

警鐘が鳴らされ、武装した市民が国民公会を包囲し、一二人委員会の解散、ジロンド派の追放、その他の社会政策を要求した。しかし、国民公会での議論が果しなくつづき、結局、一二人委員会の解散だけが決議された。この日の武装蜂起は中途半端なままで失敗した。この日の失敗について、武装蜂起を計画した者の間で責任のなすりあいがおこり、もっと断固とした行動をおこすべきだという反省がだされた。

六月一日、武装蜂起委員会は、ジロンド派の前大臣ロランとクラヴィエールの逮捕を命令した。ロランはいち早く逃げだしたが、逃亡先で自殺することになる。六月二日、武装蜂起委員会は、国民衛兵と、武装したパリ市民八万人を集め、アンリオーの指揮のもとに、再び国民公会の開かれているチュイルリー宮殿を包囲した。

このとき、すでにマルセイユ、リヨンでジロンド派の反乱がおこり、ジャコバン派が殺され、ブルターニュ、ノルマンディー地方で、地方当局が国民公会への服従を拒否し、ヴァンデーの反革命軍が県庁所在地を占領し、ナントに向ってすすんでいるという危機的な状態が報告された。公会議員も群集も殺気立ってきた。武装蜂起の側はジロンド派議員のうちもっとも戦闘的な二二人の逮捕を要求した。

議員としては、同じ仲間の議員の逮捕に賛成するわけにはいかなかった。自発的な辞職をすすめても、ジロンド派のランジュイネ、バルバルーは、議員としての地位を死守するとがんばった。平原派議員はパリコミューンのやり方を非難し、武装蜂起の指導者アンリオーを処罰するべきであるという発言をおこなった。この中には、バレールとかダントンのように、恐怖政治の推進者になった者もいる。武装蜂起の側に一貫して同情的であったのは、モンタニヤールの議員だけであった。

議員の多数は、なんとかして議員の逮捕だけはさけたいと思った。そこで、議長のエロー・ド・セシェルが先頭に立って列をなして行進し、群集を突破して退場しようとした。アンリオーは「砲手砲につけ」という命令を出して、議員を脅迫した。議員達は、群集の決意の固いことを思い知らされて議場にもどり、モンタニヤールのクートンの提案を受入れて、ジロンド派議員の逮捕を可決した。この日逮捕令の出されたジロンド派議員は二九名で、その中の有名な者は、バルバルー、ブリッソ、ビュゾ、ジャンソネ、ガデ、ランジュイネ、ラスルス、ルーヴェ、ペチヨン、ヴェルニヨーであった。ジロンド派議員の逮捕令はこれで終ったわけではなく、その後マラ

の暗殺の共犯のかどで捕えられた者もあり、各地のジロンド派反乱の共犯者として捕えられた者もある。また、一三人がジロンド派に同調して辞職した。一〇月三日、二一人のジロンド派議員が処刑された。七五人のジロンド派議員は、投獄されたままでテルミドール事件を迎え、そのあと釈放され、国民公会にもどることになる。


ジャコバン派の独裁は成立しなかった

ジロンド派が追放された事件をどのように解釈するかは、フランス革命の解釈で最大の問題になる。どのフランス革命史をみても、ジロンド派の敗北にいたる経過は、これまでに説明したような政治闘争の結果として説明する。そのあと、ジロンド派とともに、大ブルジョアジーが敗北したと書く。勝ったのは、モンタニヤールであると考える。モンタニヤールの背後にいる階級として、ある人は小ブルジョアといい、別な人はサンキュロットであるという。

この点のいい方については、人によって多少ニュアンスがちがうがいずれにしても、ジロンド派対モンタニヤールの図式で勝ち負けを定め、ジロンド派の側をブルジョアジーとすることには変りがない。だから、ジロンド派の敗北は、そのままブルジョアジーの敗北だといわれる。そのような文章の実例を示そう。

ソブールはつぎのようにいう。「こうして、公安政策を持っている唯一の党である山岳党を擁して、サンキュロットが政権についた。この意味で五月三一日の革命は、純粋に政治的なそれではなくて、古い第三身分の新しい部分が権力に到達したという特徴をもっ社会革命であった。ジロンド党を擁して、ひたすら自分に有利なように統治しようとした大ブルジョアジーが一時政治舞台から姿を消したのである」(『フランス革命』下巻、四九頁)。

ソブールの意見では、大ブルジョアジーが姿を消して、サンキュロットが政権についたということになる。

マチエも同じようなことをいう。「したがって六月二日は政治革命以上のものであった。サンキュロットがひっくりかえしたものは、ただに一党派だけではなく、ある点までは一つの社会階級であった。王位とともに倒れた少数の貴族のあとで、今度は大ブルジョワ階級が倒されたのである」(『フランス大革命』中巻、二九四頁)。

河野健二氏はつぎのようにいう。「危機にせまられて、ブルジョアジーの代表は陣地をあけわたして、小ブルジョアの代表たるモンターニュ派にゆずった」(『フランス革命小史』一四七頁)。

このような解釈が一般的であり、疑問をもたれることは少ない。しかし、この解釈には重大な見落しがある。それは平原派議員の存在である。ジロンド派が追放されたからといって、平原派が権力の座から追放されたわけではない。また、モンタニヤールが平原派を押しのけて権力を独占したわけでもない。

たとえば、もっとも重要な財政委員会は、平原派のカンボンの指導権のもとにあり、これは変ることがなかった。公安委員会には、平原派からバレールが入っており、その雄弁で大きな影響力をもっていた。ジロンド派が追放されても、モンタニヤールの独裁は成立せず、平原派とモンタニヤールの連合権力ができたのである。これが正しい解釈で、モンタニヤール独裁という言葉は、威勢のよい俗語としては意味をもつが、ものごとの本質を示すものではない。

ジャコバン独裁という言葉もそうである。ジャコバン派の独裁は、フランス革命のどの時点をとっても成立したことはなかった。ジャコバン派は院外団体であり、モンタニヤールに一定の影響をおよぼし、また協力してある程度の権力を行使しただけである。だから、ここでは、モンタニヤール独裁とかジャコバン派独裁という言葉は使わないことにしている。


平原派の力とブルジョアジー

さて、権力の半分を握っていた平原派とは何者であるかということになる。彼らは国民公会の多数を占めており、三月から六月にかけての三ヵ月は、彼らが権力の指導権を握っていた。ジロンド派が後退し、モンタニヤールはまだ浮び上ってこないからである。六月二日以後、モンタニヤールが権力の表面に登場し、一年のちにはまた沈んでしまう。その時に権力を安定させたのが、平原派である。そのことを思えば、平原派の力を無視することはできない。

彼らは、ジロンド派のような党派的憎しみには与しないが、さりとてパリコミューンの動きとか、これを指導し煽動するモンタニヤールの動きにも反対である。平原派は、ブルジョアジーの上層の特定の部分を代表する議員の集合体であった。そして、有力議員の中には大ブルジョア出身者もいた。また、大ブルジョアと結びついている政治家もいた。

財政委員会のカンボンは、南フランス、モンペリエの大商人である。同じく財政委員のジョアノは、ウエッセルラン王立マニュファクチュアの経営者である。また、財政委員として、デュムーリエ将軍と御用商人デスパニヤックとの不正取引をカンボンとともに告発して闘ったのは、平原派のドルニエであるが、彼も鉄鋼業者、大土地所有者である。大砲を国家に原価で提供し、「誠実の人」といわれた。しかし、莫大な財産の所有者であり、革命中に立派な城を買入れた。

ギュイトン・モルヴォーも平原派の実力者の一人である。初代の公安委員であり、ジロンド派追放後も約一ヵ月その地位にあった。一年後、モンタニヤールを追い落したあと、また公安委員になる。彼は法服貴族、領主、工場主であり、鉱山の開発もおこなっていた。ラヴォアジェとも組んで化学研究をおこない、発明の工業化もおこなう企業家であった。彼は、ジロンド派追放には抵抗したが、それでも公安委員会の議長を務めていた。同じ平原派のバレールと親しく、恐怖政治の時代も、パリの武器工場を経営して、軍事生産に協力した。

シエースは、副司教、フイヤン派であったが、国民公会では平原派にいて目だたない動きをした。恐怖政治のときには一言も発言しなかったが、のちになって、なぜ発言しなかったかと聞かれると、「生きるだけにとどめた」といった。この言葉は後世有名になった。

ただし、何もしなかったかというと、そうではなくて、彼が裏で陰謀をめぐらして、平原派の投票を左右していたことがいわれている。また、イギリスのスパイは、シエースが恐怖政治の公安委員会にたいしても影響力をもち、自分の方針を押しつけていると報告している。まさかと思うような話であるが、一年のちにロベスピエールが失脚する時、平原派議員の支持を取りつけようとして、必死になって演説したことがある。

平原派の支持を失ったとき、ロベスピエールの没落が決ったのである。ややもすると歴史家は、ロベスピエールを能動的に描き、平原派を受動的に描く。真相は意外に逆であったかもしれない。そのシエースは、銀行家ルクツー(国民議会の財政委員会議長)と親密であった。

立法委員会議長をしていたカンバセレスは、法服貴族の出身である。つねに穏健な動きをしているが、恐怖政治が終ってみると、大御用商人のウヴラールの顧問弁護士となっている。アンザン会社の大株主にもなり、豪奢な生活を送っていた。

ドルニエ、ジョアノ、ギュイトン・モルヴォー、シエース、カンバセレス、ともに大ブルジョアジーを代表するものであるが、ジロンド派と運命をともにせず、恐怖政治の時代にはそれぞれの分野で活躍し、その後はますます発展して、ブルジョアジーの上層の座を守っている。

シエースやカンバセレスは、総裁政治の時代でも支配者であり、ナポレオンのクーデターに積極的に参加して、ナポレオン権力の支柱にもなっている。こうした人的系譜が平原派の指導的人物であった。だから、ジロンド派追放がすなわち大ブルジョアの打倒には結びつかない。平原派系の大ブルジョアジーが残っているからである。

ジロンド派とともに敗北したのは、あくまで大ブルジョアの一部であった。


モンタニヤールはサンキュロットか

ジロンド派の追放が、サンキュロットの権力獲得だとマチエ、ソブールはいう。ただし、河野健二氏は慎重にブルジョアという。サンキュロットといえば職人、労働者、中農以外の農民を連想する。ジロンド派追放とともにサンキュロットの政権ができたのであれば現代流にいうならば、労働者、農民の政権ができたことになり、社会主義革命のひな型ができたことになる。

このような連想の仕方が、フランス革命史を専攻する者だけではなくて、日本史研究家の間にも盛んであった。

これを一つの理論的支柱として、フランス革命と日本の歴史との対比がおこなわれる。明治維新には、サンキュロット独裁のような現象が起きなかったから、不徹底であるといういい方が盛んである。

ここで問題にしなければならないのは、モンタニヤール独裁というべきものすら成立しなかったのだが、仮にモンタニヤール独裁が成立したとしても、それはサンキュロット独裁にはならなかったということである。あとで詳しく説明するところもあるが、結論を先にいうと、モンタニヤールの主流は、中流のブルジョアを代表してたとえば、恐怖政治のときの公安委員のジャンポン・サンタンドレは、毛織物工業を経営する一族からでていて、二人の召使をもっていた。上層ブルジョアのような巨大な富ではないが、やはりブルジョアジーに属する。

同じく公安委員として食料問題を担当したランデは、商人の子で弁護士である。公安委員会で、プリュールという名の委員が二人いた。コート・ドール出身とマルヌ出身であったが、前者は収税官の子であるから、やはり裕福なブルジョアであり官僚である。後者は高等法院弁護士であった。公安委員としてエベール派を保護したコロー・ベルボワは、金銀細工商人であった。このような階層出身のモンタニヤール議員の実例は、かなり列挙することができる。

とにかく、サンキュロットを代表するなどとは、とうてい言えないのである。小ブルジョアを代表するというのであれば、モンタニヤールのごく一部分がそれに相当する。ロベスピエール派がそれである。ロベスピエールが指物大工の親方デュプレーの家に下宿し、献身的な世話を受けていた。デュプレーも、親方として相当に豊かであった。職人とは食事をともにしない。その意味では、厳格な階級制度を堅持していた。当時の親方というものは、そうしたものであった。職人をサンキュロットというならば、親方はそれに入らない。

それではブルジョアジーの列に入るかといえば、これは自他ともに認めないだろう。だから、ブルジョアという以外にはない。こうした階層に加えて、芸術家、作家、その他自分の能力である程度裕福な生活をしている者が、ロベスピエール派の支持者になった。彼らも、革命中はサンキュロットと自称し、ジャコバンクラブに参加していた。ここが問題を複雑にするところである。

サンキュロットという言葉をどう解釈するかである。これを職人、労働者と解釈するか、それとも中小工業主や職人の親方、知識人がサンキュロットと自称したばあい、これも含めてサンキュロットと解釈するかどうか、前者に解釈するならば、サンキュロットはロベスピエール派すら動かせなかったことになる。後者に解釈するならば、ロベスピエール派は小ブルジョアの党派であったということになる。


ロベスピエールの独裁はなかった

つぎに、ロベスピエール派が小ブルジョアの党派で、ロベスピエールが公安委員会の中心であったから、恐怖政治は小ブルジョアの権力になったといえるだろうか。河野健二氏の『フランス革命小史』では、こういう表現になっている。ロベスピエールの独裁すなわちサンキュロットの独裁と書く本も多い。しかしそうではない。ロベスピエール派は、モンタニヤールの少数派にすぎなかった。一見はなばなしく歴史の表面におどりだしたように見えるが、重要な政策決定からはずれたところで動いていた。

公安委員会の命令を誰が多く作成したかについて調べてみると、ランデ、ブリュール(コート・ドール出身)、カルノー、バレールの順で、この四人が断然多い。上から順番に、食料問題、軍需工業、軍事、外交を担当している。公安委員会の命令はロベスピエールの署名を必要とせず、担当公安委員が署名し、二人が副署をすればよかった。そして、この四人は仲が良くて、お互いに副署をしあった。

ロベスピエール、サン・ジュスト、クートン三人のだした命令は少ない。しかも、一般警察局の関係である。

このようであったから、たとえロベスピエール派が小ブルジョアの代表であっても、小ブルジョアは脇役を果したにすぎない。これが恐怖政治の本質であった。

もう一度整理してみよう。ジロンド派が追放された以後でも、財政委員会はカンポン、ジョアノ、ドルニエといった中規模から上層のブルジョア出身者で固められている。いわば、大蔵省が公安委員会から独立しているのである。公安委員会は一〇〇万リーブルだけをまかされた。国家財政の規模からすれば、とるに足りない金額であった。財政を握らずして、権力を握ったとはいえないから、それだけでもモンタニャール独裁という言葉は適

当でない。

しかも財政委員会議長のカンポンはロベスビエールと徹底的に対立し、ロベスビエールが失脚する日の演説でも、カンポンの財政政策を激烈に批判している。批判するということは、実権がなかったのである。このいきさつからしても、平原派の力は根強く残っている。

つぎに、公安委員会は財政と正規の警察(保安委員会)を除いた権限について、全権力を握った。しかし、その中枢部は、平原派のバレール、モンタニヤール主流のカルノー、ランデ、二人のプリュール、これにジャンボン・サンタンドレ(海軍担当、派遣委員)と、もう一人エロー・ド・セシェルという浮動的な人物で握られていた。

エロー・ド・セシェルは名門貴族、パリ高等法院弁護士、王の弁護士、王妃の寵臣という、およそ恐怖政治にはふさわしくない名門出身であった。ダントン派、エベール派の両方にもつながりをもち、公安委員会では外交と派遣委員を担当した。

したがって、恐怖政治の公安委員会といえども、右は貴族から、真中の中流ブルジョアを含めて、その末端に小ブルジョア代表のロベスピエール派を加えていたのである。

もう一つ、正規の警察を指揮する保安委員会があった。これも公安委員会から独立していた。ここでは、モンタニヤール主流のアマールとヴァディエが実権を握り、ロベスピエール派のル・バが反主流となっていた。アマールは高等法院弁護士で、没落をはじめた商人の家系である。ヴァディエは収税人の出身である。ともにロベスピエール派と対立し、公安委員会の主流と手を組んで、のちにロベスピエール派を叩き落す側にまわる。

このようにみてくると、恐怖政治は、決してサンキュロットの権力でもなく、小ブルジョアの権力でもない。

そして、モンタニヤールの独裁でもなく、ジャコパン派の独裁でもない。むしろ、平原派系の上層ブルジョアジーと、モンタニヤールに雑居している中流ブルジョアジーから小ブルジョアにいたる、一種の連合戦線、同床異夢の状態であったということができる。


ジロンド派追放の原因

ジロンド派が、なぜ平原派から分れて追放されたかを考えなければならない。ジロンド派の没落を決めたものは、財政問題であった。すでに、アシニアの価値が下落し、物価騰貴が起こり、これが貧民の暴動を誘発している。これをカで弾圧すると、ヨーロッパ列強諸国との戦争を前にして、献身的な戦争に動員することができない。

物価上昇を止めるためにはアシニアの価値を維持し、増発されたアシニアを流通から引き上げなければならない。

この時期、財政当局の最大の関心事は、アシニアの価値を維持することであった。このための政策として、貴金属の売買禁止、アシニアの強制流通、アシニアと竸合する証券(手形、為替、株式会社の株)の取引禁止、それに累進強制公債がとりあげられた。金属貨幣と貴金属の売買禁止、アシニアの強制流通は、四月一一日、ジロンド派の抵抗を押切って可決された。金属貨幣が流通していると、誰もが金属貨幣で受取ろうとして、アシニアで受取ることを拒否する。そのため、アシニアの価値下落がひどくなるからである。貴金属の売買をした者は禁固六年、アシニアの受取りを拒否したばあいはそれと同額の罰金が課せられるようになった。

この提案は、カンボンから提出され、これにジロンド派が徹底的に反対した。ジロンド派の孤立は、ここにはっきりと認められる。とくにジロンド派の闘士バルバルーはしつこく反対を続けた。五月二〇日になっても、この法令に対して非難を加えている。

大詰めの事件は累進強制公債であった。これは財政上の大手術ともいえる、荒っぽい手段であり、非常手段の最大のものであった。年収に応じる累進税の形で、強制的に公債に応募させようというのであるが、公債といっても、公債の証書を発行しない。証書を発行すれば、それが流通して一種の紙幣の役割を果すから、紙幣の総額を削減するためには意味がない。そこで、政府の公債台帳に記録するだけにとどめたから、実質的には税金に似ていた。

これを当時革命税と呼んだ。この提案をしたカンポンにいわせると、富者の財産を尊重しながら、一時的に彼らから金を借り、彼らを革命に結びつけ、もし祖国が救われたときには、借りたものを返すという精神であった。

しかし、この時期、フランスが戦争に勝つかどうかわからない。利に聡い金持は、敗けたときのことを考えて、できるだけ財産を隠しもっておこうとする。それを累進税で取り上げようというのであるから、金持の抵抗は激しかった。

この雰囲気を反映して、ジロンド派が徹底的に抵抗した。マルセイユのブルジョアジーを背景にしていたバルバルーは、五月二〇日、故郷に手紙を書いた。この累進強制公債により、一〇万リーブルの年収をもっ貿易商人は、一〇万リーブル以上の租税または公債が課せられるだろうと書いた。年収以上の租税または強制公債が課せられるのであるから、これでは金持は怒る。彼らは、革命政府が自分達の財産をおびやかそうとしていると考えた。

もともと、バスチーユ占領も、王権から財産を守るためにおこなわれた。この点にジロンド派の反乱の基礎があった。

マルセイユの代表は五月二三日パリに集まり、ジロンド派に同情的な諸区を訪問して連携を固めた。五月二五日、彼らの指導者ランパルは国民公会で発言し、マルセイユ市が強制公債にたいして憤慨していると脅迫した。その夜、パリのジャコバン派がマルセイユ代表の逮捕と虐殺を狙っているというので、バルバルーとジロンド派議員はマルセイユ代表をかくまった。

こうして、強制公債をめぐる衝突が、パリ対マルセイユの形になって現われた。ジロンド派の追放、マルセイユ市の反乱はこれの延長である。

ジドンド派が、この問題と並行してエベールやパリコミューンを攻撃したのは、強制公債を有利に解決するためであった。

パリコミューンの武装を解除し、マルセイユをはじめ各地方の武装勢力をパリに引き入れて、ジャコバン派から過激派を含める勢力を弾圧しようとしたのである。一二人委員会の設立とか、エベールの逮捕という政治的事件は手段であって、本当の狙いは累進強制公債を阻止することにあった。

このために必死で闘い、ついに敗れたのである。


累進強制公債をめぐる国民公会の分裂

この公債は一〇億リーブルの強制公債ともいわれるが、平原派に支持されていたところに重要な意味があった。

提案者はカンボン、ラメルという、財政委員会に属した平原派議員であった。これにモンタニヤールのマラやダントン派のチュリオが賛成した。

国民公会で激論がたたかわされたが、反対したのがジロンド派であり、平原派はだいたいにおいて賛成にまわったから、ジロンド派が孤立した。ジロンド派追放の原因は、累進強制公債をめぐるものであった。

五月二〇日、国民公会は一〇億リーブルの強制公債を原則として承認し、その適用は各地方当局と派遣委員の裁量にまかせた。この徴収がはじまると、マルセイユ、リヨン、ボルドーその他でジロンド派(連邦派)の反乱が起こった。リヨンでは、すでにジャコバンクラブ系が市政を支配していたので、国民公会の派遣委員デュボワ・ド・クランセと協力して、革命税の徴収を厳格におこなった。

対象は問屋商人、大財産家、資本家といわれているが、三〇〇〇万リーブルになった。一人の貿易商人が六万リーブルを課せられた。市の吏員がサーベルとピストルをもち、租税を即時支払えと要求してまわった。租税を取られる側は憤既した。五月二九日、街頭で衝突がおこり、これが発展して内乱となり、ジロンド派系が支配してジャコパン派系を虐殺した。このような性質のジロンド派系の反乱が、とくに南部フランスに拡大した。国民公会におけるジロンド派の抵抗は、その運動と連帯するものであったから、追放されることになったのである。

それでは、平原派のブルジョアジーも革命税を取られたはずなのに、なぜ賛成にまわったのかという疑間が残る。これはブルジョアジーの中の性格のちがいによるものであった。たとえ革命税をおさめても、それ以上のものを手に入れる見込みがあれば、一時的に我慢することができる。この時期、外国との戦争で、国家の軍事注文は巨大になり、国家にたいして物資を納入することは莫大なもうけになった。その取引で成功して、一介の中小ブルジョアから二、三年のうちに巨大な新興成金になった者も多い。はじめから大財産をもっている者でも、革命税をおさめて愛国者の評判を確保しておき、その信用を背景にして、国家と有利な契約を結べば納めた以上のものを取りかえすことができる。こうした一群の資本家達が、平原派の背後にいたのである。

彼らは、一時的な犠牲を覚悟してもよいから、ともかく戦争に勝って欲しい。こうした気分を平原派が代表していた。だから、平原派には、どちらかといえば、軍事工業に関係のある工業家、軍需物資を扱う商人、軍隊の御用商人がついていた。議員のドルニエやギュイトン・モルヴォーのような存在は、一人の人間がそうした資本家でありかつ平原派議員であるという意味で、その立場を象徴している。

これに反して、ジロンド派の反乱に徹底的に参加したのは、この戦時経済に不向きな職種の大商人が中心であった。食料品、奢侈品を中心とした貿易商人や問屋商人である。彼らは国家との取引でもうけるすべがないまま、巨額の革命税だけを取立てられた。これでは、もはや革命に対する情熱を失なってしまう。外国軍と手を組んでも、あるいは貴族と手を組んでもよいから、自分の財産を略奪する者から身を守りたい。

こうして連邦派の反乱がおこり、この反乱にイギリス軍が援助するようになったのである。これを国民公会の側からみるならば、外国と結託した裏切り行為、反革命ということになり、ついにブルジョアジーが二つに分裂したのである。ブルジョアジーの分裂は、非常事態のときにはおこりうるものである。そのもっとも極端な実例を、フランス革命が提供していると思えばよい。

要約 第四章 ジロンド派の時代 五 ジロンド派の追放

この節の要点はただ一つ、ジロンド派追放の基本的原因である。昔からいろいろと言われてきた。19世紀では、文学的、ロマン主義的論調で、ジロンド派のために涙を流し、モンタニヤールのならず者という論調が盛んであった。20世紀にはいって、科学的に物事を見ようという気風が強くなり、基本は経済だという傾向が強まり、最高価格制などがとりあげられた。やがて、累進強制公債が話題になったが、まだほかの要素とかき混ぜられて、何が基本かわからない書き方が一般的であった。

私ははっきりと、「累進強制公債の徴収が基本だ」と書いている。もう一つ、この政策に対して、モンタニヤール(山岳派・通称ジャコバン派)だけが賛成したのではなく、平原派が賛成していたことを強調している。とくに、平原派議員のカンボンが、財政委員会議長として、強力にこの政策を推進したことを紹介している。ここのところが、他の著者たちとは違う。もう一つ、カンボンの周囲にいて活動した実業家議員を紹介し、こういう層が積極的であったという。だから、ジロンド派の追放が「大ブルジョアジーの敗北になったのではない」という。「ちゃんと政権の座にいるではないか」、これが他人とは違う意見です。


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