2022年2月7日月曜日

10-フランス革命史入門 第二章の五 ヴェルサイユ行進

五 ヴェルサイユ行進


国民議会の分裂

八月四日の宣言を転機にして、革命派の中に亀裂が入った。政府の中ではネッケル派、国民議会の中ではムーニエ派が共同戦線を張り、これにたいして、ラファイエットを中心とした国民議会の多数派が対立した。

前者は封建権利の廃止にたいして全面的に反対であり、農民の暴動を武力で鎮圧せよと主張した。さしあたり、八月四日の宣言では自分達の主張は通らず、反対派に押し切られた形になった。彼らは、領主権を神聖不可侵の財産であるとみなしていたのである。これらの派閥はやがて王政派と呼ばれるようになり、そろそろ革命運動を現状で停止させようと努力しはじめた。ラメット伯爵はムーニエについて書いた。

「彼らは、人民の激昻にたいして奇妙な恐怖にとりつかれ、国民運動の先頭に立っている何人かの人物にたいして、押えをきかせようとしはじめた」。

ムーニエの派閥にはクレルモン・トネール伯爵、テッセ伯爵、ヴィリユー伯爵、ラリー・トランダル伯爵などの自由主義的宮廷貴族がいた。

七月二〇日、憲法委員会で人権宣言の草案が読みあげられたとき、ムーニエ派の議員がこれに反対した。

「義務があきらかにされていないのに、人民にたいして漠然とした自由の理念を与えることほど危険なことはない」。

これに、貴族議員や高級僧侶議員からなる右派が賛同した。

しかしラファイエットやシエースが積極的に推進し、一四〇票の差で可決された(八月二六日)。

新制度がどうあるべきかをめぐっても、ムーニエ、ネッケル派は敗北した。ムーニエ派は、上下両院を作り、上院を三〇〇人の元老院で組織し、議員を一万リーブル以上の土地からの収入をもつ三五歳以上の地方官吏から選ぶつもりでいた。これで、上院を大領主で固めることができる。自由主義的大領主の好む政治体制が実現されることになるはずであった。

しかし、これにたいしても、タレイラン司教、シエースを中心とした反対があった。彼らは一院制を主張した。九月一〇日、上院の設置は否決された。この時上院を主張したものは八九票であり、反対した者は八四九票となっているから、ムーニエ派は国民議会の少数派に転落した。ただし翌日、国王に拒否権を与えるという提案が可決されたが、このときは六七三対三二五であり、まだまだ王の拒否権を否定する極左派も少数派であった。

ムーニエ派は少数の右派となったが、左派もまたいくつかの派閥に分裂していた。まずラファイエットを中心にした派閥である。ここに、より自由主義的な貴族と最上層のブルジョアジーを代表する者が集まっていた。

それより左派としては、ミラボー伯爵を中心にした多数の議員がいた。彼も名門貴族であるが、放蕩をかさねて財産をすりへらし、金のために何人かの銀行家と親密になり、銀行家の代弁者のような役割を果していた。第三身分選出の議員として登場したが、口が大きくて大声がでる。これも、マイクのなかった当時としては、革命家として重要な条件であった。

それよりもさらに左派とみられる「三頭派」があり、ラメット伯爵、バルナーヴ、デュポールが指導者となっていた。最左翼に、ごく少数の議員がいた。はっきりとした派閥を作っていたわけではなく、小人数の集団にすぎなかった。しかし、ここから将来のジロンド派、モンタニヤールの指導者がでてくる。ビユゾ、ペチヨン、プリュール(マルヌ県出身)、デュボワ・ド・クランセであった。


王権による反撃体制

ムーニエ派は、はじめ国民議会の指導的立場にあったが、九月に入って少数派に転落し、指導権を失った。そうすると、彼らは国民議会に残っていた国王派の議員と妥協した。まだ宮廷貴族のすべてが亡命したわけではなく、かなりの者がヴェルサイユにふみとどまって改革を阻止しようとしていた。

モーリ枢機卿やタレイラン・ペリゴール大司教、カザレス(貴族議員)などが旧絶対主義の勢力を代表していた。

これとムーニエ、ネッケル派が提携して、国民議会によるこれ以上の改革を阻止しようとした。彼らは、議会と政府を移転してパリの群集からひきはなし、国民議会がパリの群集の影響を受けないようにするべきだと考えた。

国王の側からみると、いままで王権にたいする反対運動の指導者であったネッケルやムーニエが自分の側に寝返ったのであるから、反撃のチャンスがみえてきたと思った。そこで、フランドル連隊をヴェルサイユに集結しながら、国民議会の改革案を承認しないことにした。

国王は、九月一八日、議会に親書を送り、十分の一税と不動産売買税の廃止には賛成できないことを通告した。

国王の目からみると、八月四日の宣言は、僧侶、貴族から「奪い取ること」とみえたので賛成できないものであった。人権宣言も承認しなかった。

こうして、国民議会の多数と国王とは、再び正面から対立した。ただ、以前とちがうところは、ネッケル、ムーニエ派が国民議会からはなれて、国王の側についたことであった。

この段階では、国王が承認しなければ、国民議会の改革案も効力を発揮しなかった。国王が国民議会の改革案を拒否している以上、まだ国民議会は権力を動かしているとはいえなかった。そこで、左翼の議員がパリで群集を煽動し、これを率いてヴェルサイユに向おうという計画を立てた。すでに九月一八日、国王が八月四日の宣言に反対したとき、パリ市民がヴェルサイユに向おうとする気配をみせた。しかし、このときはラファイエットが反対し、国民衛兵を押え、なにごとも起こらなかった。

しかし、国王と国民議会の闘争とは別なところで、パリの群集をかきたてる要因がでてきた。それは食料品価格の騰貴であり、とくにパンの値段が異常に値上りしたことであった。小麦がパリに入らなくなり、そのため、行列を作らなければパンを手に入れることができなくなった。しかも、この年、とりたてて不作ではなかったので、これが「餌饉なしの飢え」と呼ばれた。このような食料不足が起こった理由は、食料品の買占めによるものであった。

すでに七月一四日直後から、市街戦に参加した貧民の中で、生活に困る者が多かったので、ブルジョアが救援金をだしたことがあった。その後も、貧民の群集を静めるために、パリ選挙人会はパンの公定価格を定めたことがあった。しかし、国民議会の多数は、当時重農主義の影響のもとにあった。そこで八月二九日、デュポン・ド・ヌムールら重農主義者の提案によって、穀物商業の自由を宣言した。

この宣言につづいて起こったのが、食料品の買占めである。この買占めは大商人が中心となっておこなったものであり、ネッケルも財政資金を作りだすために投機業者を保護したといわれていた。食料不足の原因は、国民議会に集まる最上層のブルジョアの責任でもあった。しかし、まだ貧民は、食料不足が誰の責任であるかはっきり見さだめることはできない。ただ、食料問題を解決してくれといって、自然発生的にさわぎはじめただけである。このとき、左翼の議員達が、ヴェルサイユ宮殿に行けばパンが手に入ると煽動した。

ラファイエットとパリ市長パイイは、こうした群集の動きを必死になって押えながら、国王にむかっては、フランドル連隊の集結に反対した。しかし、フランドル連隊はヴェルサイユに到着し、一〇月一日ヴェルサイユ宮殿で歓迎会が開かれた。この歓迎会で貴族将校が熱狂し、革命の象徴になっていた三色記章を踏みにじり、国民議会を呪い、剣をぬいて王のために死ぬと誓った。そのうえ、四万人の貴族が全国から集まり、国王を奪取するという噂もながれた。

国王派の旗色がよくなっていくと、国民議会でもムーニエ派の力が強くなり、九月二八日にはムーニエが国民議会議長になった。

こうした動きは、パリの市民やラファイエット派から左の議員にたいして、大きな動揺をひきおこした。二度目の対決がさけられなくなった。


国王と議会のパリ移転

このような動揺の中で、直接群集に影響を与える街頭の革命家が頭角を現してきた。国民議会の議員は、どんなに左翼といえども、また第三身分の名士であり、群集とは直接結びついていなかった。ところが、直接群集を煽動し、街頭での演説でヴェルサイユに向うことを強調し、市民の中に影響力を高めてきた革命家があった。その中に、ダントンやカーミュ・デムーランなどがいた。

マラは以前から新聞を発行して、ネッケルの食料政策を批判し、国民議会では左翼と思われていたミラボー伯爵が、すでに裏切りはじめているといって批判していたが、この時期になると『人民の友』を発行し、ヴェルサイユへ武装して行進することを主張した。当時はまだ無名の革命家であったこれら一群の煽動家、宣言家の影響力が、群集をかきたてるうえで大きな役割を果した。

一〇月五日の朝、婦人の一団が市役所に押しかけた。彼女らは前夜からパンを手に入れることができず、パン屋に押しかけてもパンがなかったので、「パンを!パンを!」の叫び声をあげて市役所に乱入した。これを阻止しようとした国民衛兵は、石を投げられた。彼女らは、ラファイエットと市役所が国王と共謀して、自分達を飢え死させようとしているから、ラファイエットとパイイ(パリ市長)を殺すとさわいだ。

一人のパン屋が、目方の軽いパンを売ろうとしたので捕えられ、街灯につるされそうになった。国民衛兵が、必死の努力で救いだしたが、このように殺気だった約六〇〇〇人の婦人の群を、正面から鎮圧するのは不可能であった。

そのとき、門番あがりでパスチーユ襲撃で名をあげたマイヤールが演説し、婦人達の怒りを国王とヴェルサイユへむけた。その結果、パンを要求しにヴェルサイユへ行くことに決まった。こうして、婦人の大群が、その日の夕方ヴェルサイユに到着した。彼女らは国民議会に押し入り、マイヤールに演説をさせた。マイヤールはパンを要求しにきたことを告げ、三色記章を踏みにじった近衛兵の処罰を要求した。パンの不足は、貴族階級の陰謀であるともいった。これを受けて、国民議会では討論がすすめられた。

パリでは、婦人の後に続いて、国民衛兵とその他思い思いの武器で武装した男性の群が集まり、ヴェルサイユへ行くことを要求した。ラファイエットはこの動きを押えようとしたが、押えきれず、一緒になって夜の一〇時頃ヴェルサイユに入った。

こうしたさわぎとは別に、国王と国民議会との対決がつづいていた。この日、国民議会議長ムーニエが王の手紙を読みあげた。国王は、人権宣言を拒否すること、行政権はすべて国王のものであることを表明していた。国民議会は国王の返事に怒りムーニエを団長とする一二人の代表団を国王のもとに派遣して、人権宣言の承認を求めた。しかし、国王はこれを拒否しつづけていた。

人権宣言をめぐる国王と国民議会の対決がつづいている間に、ヴェルサイユはパリから来た男女の群集と国民衛兵であふれた。パリからきた群集はほとんどなにも食べていなかった。そこへ豪雨が降って、群集は殺気だちはじめた。近衛兵の馬が生のままで食べられてしまったというほど、異常な心理状態にあった。

一度は群集も静になって、それぞれの場所でねむりについたはすであったが、一〇月六日の朝、婦人と近衛兵の間で衝突が起きて、近衛兵が発砲し一人が殺された。これが王妃の陰謀だといわれ、怒った群集が王妃の部屋に乱入し、近衛兵を殺し、王妃も殺そうとした。王妃は国王の部屋に逃げこんで、かろうじて助かった。

そのとき、宮殿の外にいる群集が国王の出てくることを望んだ。国王は王妃、皇太子を連れてラファイエットをともない、群集の前に姿をみせた。群集の中から「パリへ行こう」という声があがった。国王はそれを承認しなければならない羽目に追い込まれた。

こうして、その日の午後、国王一家は群集、国民衛丘(とともにパリにむけて出発し、チュイルリー宮殿に入った。国民議会は、全員パリに移転することを決定した。そのうえ、議員の平等を確認して、貴族、僧侶の特別の服装をやめることが決められた。


亡命の第二波

国王一家は、パリ市民の中に、人質同然の立場で軟禁状態におかれ、それまで国王を取りまいていた宮廷貴族から切りはなされた。宮廷貴族の国王を、上層ブルジョアジーの国王に変えた事件であった。宮廷貴族のうちヴェルサイユに残っていた者は、なんとかこれを阻止しようと思い、軍隊で国王を守ってルーアンへおちのびようと考えた。

ネッケル派の大臣サン・ブリースト伯爵がこれを主張したとき、財政をにぎるネッケルが軍資金がないという理由で反対したため、この計画は立ち消えになった。国王がパリに連れ去られると、リシュリュー公爵のようなまだ残っていた宮廷貴族が亡命をはじめた。貴族議員の約二〇〇人も亡命し、貴族将校からも亡命者がでた。

また、初期の革命家のうち、ム-ニエが亡命した。彼は国民議会の議長をしていたが、すでに国王の側にかたよった行動を批難されていて、暗殺の脅威をうけた。そのためパリに行かず、出身地のドーフィネに去った。しかしここでも孤立し、危険がせまってスイスへ亡命した。ムーニエの派閥では、ラリー・トランダル伯爵やべルガスが反革命の計画をくわだてたが失敗に終った。


ラファイエット派の勝利

国王一家をパリにつれて帰った群集は、本当の意味での勝利者となっただろうか。貧しい婦人達は、国王一家のことを「パン屋の主人、パン屋のおかみさん」と呼び、国王をパリにつれてくれば、食料不足は解決できると信じていた。しかし、そのようなことは起きなかった。それからのちも、食料問題で小規模な暴動がたびたび発生した。しかし、これは国民議会と国民衛兵の力によって鎮圧され、主謀者が処罰された。その中には、死刑になった者もかなりいた。こうして秩序が回復されたが、それからみると、貧民は勝利者になったわけではなかった。

ヴェルサイユ行進に参加した者は、貧民だけではなかった。男女のブルジョアもかなり参加し、運動を煽動したり指導したりした。彼らは、貧民のエネルギーを利用して、国王と国民議会の闘争を有利に解決したのであった。それに成功したあとは、貧民をおきざりにして、自分達の権力のもとでの秩序回復に専念したのであった。

ヴェルサイユ行進は、国内にまだ残っていた宮廷貴族に完全な打撃を与えた。国王を人質同然にすることによって、国民議会の権力を全国におよぼすことに成功したのである。しかも、ム-ニエ派の指導権を失わせることによって、宮廷貴族とブルジョアジーの間にたってあいまいな政策をとる党派を追い落した。

チュイルリー宮殿では、ラファイエットの副官になった銀行家ジョージが横柄な態度で入ってきて、大臣のモンモラン伯爵にいった。

「宮廷の中にあなたの車を入れなかったのは、私の命令によるものである。このような時勢のもとでは、多少の不便はしのんでいただきたい。このつぎ、あなたの来る時間がわかっているなら、私はあなたを通すように命令するだろう」。

貴族の大臣ですら、もはや平民の銀行家の力にかなわないのである。大臣が国王に面会しようとしても、その間に銀行家が立ちはだかっている姿がありありとうかがわれる。極端にいうならば、この時の国王は銀行家の国王になったのである。そして、ラファイエットが彼らの象徴になった。

要約 第二章の五 ヴェルサイユ行進

フランス革命史の中ではわずかな出来事で、どの書物でも軽い扱いになるが、市民革命の観点から見ると、極めて重大な意味を持つ出来事になる。なぜなら、それまでのフランスは、パリだけが解放された状態であって、まだ全国的には、どちらになるかわらない状態であった。揺り戻しがあるかもしれない。それなら、フロンドの乱と同じことになる。あるいは、ラ・ロシェルのように、全滅するかもしれない。負けたら、市民革命の歴史には載らない。だから勝ちを決めて、歴史に載ることになったのは、ヴェルサイユ行進があったためといえる。

この時点で、国王は貴族の代表という立場から切り離されて、全国民の王としてふるまうことになった。切り離された貴族たちは、大部分が故郷に帰った。これが重要なところで、彼らは宮廷貴族から、田舎貴族になった。彼らの集団的見解が国政に反映することはなくなった。ということは、財政問題でも、彼らを優遇する必要がなくなったということである。毎日の貴族の食費だけでも、大変な節約になる。だから懸案の財政問題を一挙に解決できた。ここが重要なところである。これを言わないから、従来のフランス革命史はピントがぼやけてしまった。貴族の免税特権、減税特権をやめるといっても、もはや集団的な反対行動ができない。

ただし、まだ、国王の伝統的権威は健在である。だから、国王を囲んでパリに帰らなくてはならない。すべての改革令を、王の名で交付しなければならない。だからその目的を達成したことになる。このように解釈する必要がある。


 

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