2022年2月7日月曜日

16-フランス革命史入門 第四章の一 ジロンド派の時代

第四章 ジロンド派の時代


一 敗戦から勝利へ


ジロンド派による改革

八月一〇日の武装蜂起が勝利した結果、ジロンド派権力が復活した。内務大臣ロラン、大蔵大臣クラヴィエール外務大臣ルブラン、法務大臣ダントン、陸軍大臣セルヴァン、海軍大臣モンジュ(数学者)の顔ぶれであった。このうちジロンド派の性格の強い者はロラン、クラヴィエール、ルブランである。ダントンは、のちに山岳派へ移行するから、ジロンド派とつねに行動を共にする人物ではなかった。モンジュは有名な学者であり、独立した行動をとる人物であった。このため、新内閣はジロンド派一色にぬりつぶされていたというわけではないが、ジロンド派の指導権のもとにあった。

すでに王権が停止されているから、新内閣を国王が任命するわけにはいかなかった。三権分立の原則が重視されていたので、新内閣の閣僚は議会外から選ばれた。しかし、閣僚の承認は、国王にかわって議会がおこなうことになった。このため、行政権は立法機関に服するような形になり、この傾向がしだいに強められて、恐怖政治の頃の公安委員会、保安委員会の権力へと発展する。

さしあたり、フイヤン派が打倒された直後であったから、フウヤン派との争点になっていた問題は解決された。クラヴィエールの主張していた一万リーブル以上の国庫債権の切捨てが実行された。これによって、財政状態がある程度改善された。領主権については、無償廃止が正式に布告された(八月二五日)。八月二六日トリアージュ(共有地の三分の一を領主が囲い込む権利)によって没収された共有地を、無償で取り返すことができる法令が成立した。この二つの法令で、階級としての領主は完全に消滅した。

領主権が完全に消減させられた理由はいくつかある。まず、亡命貴族が大領主であったため、彼らの足もとをとり払う必要があった。しかし、もしこれだけのことであれば、イギリス革命のときのように、領地そのものの没収売却という手段がありうるはずである。そうした事態を作らずに、領主権の廃止にすすませた理由は、他にもある。

一七九二年に反領主暴動が全国各地に発生し、ここに農民からブルジョアや貴族までが参加していた。そのため、領主権に固執しているならば、彼らを敵にまわすことになり、外国との必死の戦争をひかえて、外と内との両方から攻撃を受けることになる。それでは、領主達が革命政権を守ってくれるかといえば、亡命貴族も領主であったから、フランスに残っている領主が、亡命貴族と必死に闘うことはありえない。そうであるとするならば、領主権を無償で廃止して、反領主暴動に参加している群集のエネルギーをひきつけ、彼らを味方につけなければならない。

もう一つ、僧侶財産を国有化し、これを売却して財政赤字を建てなおそうとした。しかし、中・下級僧侶のもっていた土地は領地ではなくて、領主権に服している土地である。これを売ろうとしても、そのうえに誰か領主がいて、領主権を徴収している。こうした場合、この土地はなかなか売れない。そこで、一律に領主権を廃止するならば、この問題がすっきりする。この観点から、領主権の無償廃止に賛成した者もいた。

領主権廃止が実現されると、各地の反領主的暴動が急速に影をひそめた。それだけ、国民のエネルギーを外敵にむけるための条件が作られた。

国有財産(僧侶の土地)を売りやすくするため、八月一四日、これを細分して競売に付する法令が決定された。九月二日、すでに接収されていた亡命貴族財産を僧侶財産と同じく売却することに決めた。亡命貴族財産とは、その領地についていた直営地と、域、館ならびにそれに付属する物であった。これ以後、僧侶財産のことを第一次起源の国有財産と呼び、亡命貴族財産のことを第二次起源の国有財産と呼ぶようになった。

国民議会は僧侶財産を国有化したが、まだそれを徹底していたわけではなく、慈善事業をしていた宗教団体、あるいはいくつかの特殊な修道団体の財産には手をふれていなかった。八月一八日、取り残されていた宗教団体もすべて廃止され、財産は国有化され、宗教団体の公教育は禁示された。こうして、僧侶と領主にたいして徹底した政策が打ちだされた。


立法議会と内閣の弱体化

八月一〇日から九月二〇日、すなわちヴァルミーの会戦と国民公会召集の日までの四〇日の間は、フランスとくにパリの権力は、一種の二重権力の状態にあった。議会と内閣の力が弱体化し、パリコミューンの力がこれを補ったからである。時と場合によって、そのうちのどちらかが指導権を握り、相手の側はこれをくつがえそうと努めた。そのような内部抗争を含みながら、戦争がつづけられた。しかも、外敵は国境を越え、パリの占領を目ざして前進し、正規の軍隊は崩壊寸前で闘わずして退却した。内憂外患のうずまく時期であった。

八月一〇日の武装蜂起は、フイヤン派を打倒したことになるが、同時に、武装蜂起を押え、一種の平和革命で権力の復活を計ろうと試みたジロンド派の動きにも逆らい、これを圧倒したという意味があった。

ただし、それではジロンド派をフイヤン派とともに追放するかといえば、これは不可能であった。なるほど、パリにおける現時点での武力では武装蜂起の群集が強い。しかし、全国の政治動向は別である。ジロンド派の大臣や議員は全国的に知られており、それぞれの地方で強力な支持者をもっている。

これにくらべて、今武装蜂起を起こした者は、パリの無名の人物である。そこで、武装蜂起の側は、その後の政治的収拾をジロンド派の政治家に頼らなければならない。そこで、圧力をかけつつ利用するという立場に引き下らざるをえなかった。

ただし、パリの中においては、必要に応じて、自分達の好むままのことができた。これを大臣や議会が止めることはできなかった。しかも、パリの群集はチュイルリー宮殿をめぐる激戦のあとで気が立っており、敵国軍の接近で、絶望的な危機感から半狂乱になっている。これを言論で統制することは不可能であった。

立法議会の権威は失墜していた。立法議会はラファイエットの行動を許すと決議して、パリの武装蜂起を招いた。王権を守ろうとしながら、武装蜂起の群衆に囲まれて王権を停止した。そのうえで国民公会の召集を決議させられたのであるから、信用されていない。これを自他ともに認めている。残る役割といえば、国民公会が召集されるまで権力を維持していくことにすぎなかった。

議会に承認された新内閣も、国民公会の選挙の結果次第で、どうなるかわからない。そのため、一種の管理内閣、あるいは実務内閣程度に思われていた。そのような意味で、議会も内閣も、以前にくらべて信用と権力を低めた。そのすきをぬって登場してきたのが、武装蜂起の群集を背景としたパリコミューンであった。


パリコミューンの登場

パリコミューン前身はパリ選挙人会議である。この時までフイヤン派系で固められていたが、八月一〇日の武装蜂起のときに、パリのそれぞれの区の代表と自称するものが議事堂に侵入し、前議員を追放して「革命的コミューン」「蜂起コミューン」と称し、武装蜂起ののちにパリ市を治める権力機関になった。パリ市長にはジロンド派のペチヨンがいたので彼をコミューンの議長にし、検事にマニュエル、副検事にダントンを置いた。ペチヨンは蜂起を押えようとしたので、コミューンの議員は信用しなくなり、彼を無視して独自の権力をふるおうとしはじめた。

パリコミューンの指導者の浮沈、交代ははげしかったが、その人的系譜は、のちの山岳派(モンタニヤール)からエベール派、過激派を含むものであった。ただし、モンタニヤールの政治家が一致してコミューンを支持したかといえば、そうではなく、時と場合によって、賛成したり反対したり、慎重論をだしたりした。当時は、厳密な意味での政党が結成されていなかったので、個人によって動きがちがってきたのである。

その点については、ジロンド派の側でも同じであった。ジロンド派は武装蜂起に反対したといわれる。しかし全員が反対ではなく、むしろ勇敢に武装蜂起を指導した者もいた。その代表的人物はバルバルーであった。彼は、マルセイユ連盟兵を率いて積極的にチュイルリー宮殿の襲撃を指導した。それでいながら、マルセイユのブルジョアジーを代表して、ジロンド派の闘士になった。

議会とパリコミューンの対立が激しくなり、議会がパリコミューンの解散令を可決し、これをコミューンの側が拒否して険悪な情勢になったこともある。しかし、外敵の侵入が、両者の決定的対立を、一時的に緩和した。

国境の町ロンウィが陥落し、プロシア軍は二週間以内にパリに入るだろうという噂が流れた。プロシア軍がパリに入れば、パリの徹底的破壊と市民の虐殺が起こる。これは、すでにプロシア軍総司令官の宣言によっても予想できたことである。ここで、パリ市民の動揺が激しくなり、それを代表してパリコミューンの活動が活発になった。ジロンド派の中には、戦局を絶望的とみて、パリを撤退し中南部フランスに共和国を作り、プロシア軍と交渉をするという弱気の意見を主張する者がでてきた。

ロラン、クラヴィエール、セルヴァンがその意見をだした。しかし、同じジロンド派でも、ペチヨン、ヴェルニヨーが反対し、ジロンド派ではないが、ジロンド派に大きな影響力をもっていたコンドルセも反対した。法務大臣ダントンはとくに激しく反対し、立法議会における有名な演説をおこなって、敵国軍との戦闘に必要な政策を打ちだし、実行に移させた。その結果、一連の非常手段がとられた。

義勇兵の募集、戦略物資の調達、反革命容疑者の捜査と逮捕、前線への派遣委員の任命などである。八月三〇日、反革命容疑者の家宅捜査と逮捕がはじまった。こうして、約三〇〇〇人の容疑者が投獄された。

九月二日、パリと国境の間にある要塞ヴェルダンが包囲された。ここが落ちればパリまではなんの障害もなく前進できる。プロシア軍の占領した地域では、人馬の死体があふれて、川や井戸に投げこまれた。亡命貴族と忌避僧侶がプロシア軍について帰国し、革命派を処刑すると公言し、革命政府の命令を燃やした。貴族は領主権の回復を宣言した。プロシア軍の占領はすなわち絶対主義の再建であり、革命派の処刑であった。

パリには異常な空気がみなぎった。パリコミューンの命令でパリの門は封鎖され、警鐘が鳴らされた。軍隊の編成がおこなわれ、軍需物資の徴発がおこなわれた。立法議会は、チュリオの提案を受けいれて、パリコミューンの解散命令を取り消した。ダントンは議会の演壇で、「敵に勝つために必要なものは、一にも勇気、二にも勇気、三にも勇気だ。それでフランスは救われよう」との後世に残る演説をおこなった。


九月二日の虐殺

こうして、ダントンは革命の英雄になった。ただし、ダントンは国民の士気をかきたてるために大きな役割を果したとはいえ、その運動を完全に統制することはできなかった。

内閣と議会の統制を破っておこなわれた最大の事件は、九月二日の虐殺である。この日、パリコミューン監視委員会にマラが入った。彼は、義勇兵が前線に出撃する前に、逮捕されている反革命容疑者を処刑するべきであるという意見を展開していた。もし、前線で義勇兵が苦戦をしているときに、背後で反革命の暴動が起こされたならば、残された妻子が悲惨な目に合うという意味からであった。そのうえ、正式の裁判権を行使するために設置された特別裁判所は仕事が遅く、何人かの容疑者を釈放しつつあった。

こうした傾向に、義勇兵と監視委員会は不信をもっていた。しかも義勇兵もパリ市民も、生死の境にあって異常な心理状態になっている。ついに、監視委員会に煽動された義勇兵とパリ市民は、直接牢獄に押しかけ、即席裁判で反革命容疑者を殺害してまわった。これを九月二日の虐殺という。

殺害された者は千数百人で、僧侶(忌避僧侶)と貴族の反革命容疑者が中心であった。しかし異常な心理状態のもとでおこなわれた即席裁判であったから、囚人の見わけが十分につけられず、普通の犯罪人や女性、子供にいたるまでが殺害の対象になった。

殺害の仕方も、銃殺からはじまり、銃剣でつきさしたり僧侶を撲殺するといったやり方で、文字通りの虐殺をともなった。もっとも有名なエピソードは、ランバル公爵夫人のばあいであった。彼女は、一度亡命していながら帰国した所を捕えられ、投獄されていた。彼女が王妃付女官長であったために、反革命容疑者として即席裁判に引きだされた。彼女が反革命のために何もしていないという根拠から、助命の声があがったが、処刑を主張する者は槍をもって飛びだした。彼女は多くの槍でつきさされて死んだ。その後首を切り、胸をえぐり、衣服をはぎ、首を槍の先につけて胴体を引きずり、国王夫妻の閉じこめられているタンブル監獄まで行進した。到着すると、ランバル公爵夫人の首を王妃の部屋に投げこんだ。こうした異常なやり方で虐殺が続いた。

後世の歴史家の多くが、ランバル公爵夫人は反革命に参加していないという。彼女が、ただ王妃に寵愛されていたというだけでこのようなむごたらしい目にあったと解釈する。彼女が革命の受難者であったかのように描く本もある。それでは、まったくなんの原因もないのに虐殺されたのかというと、必ずしもそうとはいえない。

彼女は王妃付女官長として莫大な収入を手に入れた。そのような立場から、改革派の財務総監チュルゴー、ネッケルの罷免に影響力を与えたことを考えあわせるならば、彼女の存在もまた、財政赤字の一大原因となっている。それだけでも、フランス革命の原因を作ったといえる。王妃が「赤字夫人」として非難されたが、ランバル公爵夫人とポリニャック公爵夫人は、赤字夫人のナンバー2である。その意味で、やはり因果関係はととのっている。


虐殺の責任者

このような虐殺をおこなわせたのはパリコミューン監視委員会のメンバーであり、政治的には、コルドリエクラブの指導者であった。その中で有名な者は、マラ、タリヤン、マイヤール、セルジャン、パニである。これらの人物は当時無名の人間であった。

マラとタリヤンは、のちに名を残すことになる。タリヤンはその後国民公会議員となり、山岳派に属し、ボルドーへの派遣委員となり、テロリストの名を残した。しかし銀行家の娘テレザ・カバリュスと結婚して転向し、ロベスピエールを倒してジャコバンクラブを弾圧する側にまわった。

ところで、普通の歴史では、これらの人物が虐殺の指導者であったと書かれているが、そのもうひとつの裏をさぐると、彼らを背後から指導した一人の人物が浮びあがる。それは、スイス人銀行家のパーシュであった。彼が虐殺の指導者にたいして出資し、この運動をおこなわせたというのである。なんらの財産をもたないこれらの活動家が、このころから、ぜいたくで放蕩な生活をはじめた。それを支払ったのがパーシュであった。九月二日の虐殺のように、名もない群集の動きのように見える事件でも、その背後に、ある種のブルジョアがいるということは、どこまでいってもブルジョア的な限界を越えることができないことを意味するものであろう。

パリにおける虐殺は、たちまち地方にも波及した。パリコミューンも、反革命容疑者にたいする処刑をすすめるアピールをだした。各地で貴族や僧侶が処刑された。法務大臣ダントンは、こうした動きを放任しながら、反革命容疑者にたいする報復を抽象的な形で激励するような言動をした。その立場は非常に複雑であった。その他のジロンド派の大臣も、あえて虐殺を止めようとはしなかった。

心の内では、こうした無秩序な動きに反対であっても、それを表だって口にすることは危険であった。そうでなくても、パリコミューン監視委員会はブリッソの家宅捜査をおこない、内務大臣ロランをはじめジロンド派幹部の逮捕をおこなおうとした。政権の座にある者がパリコミューンによって逮捕されようとした。それほど、当時のパリでは権力が分裂していた。ただし、これはダントンの調停で取り消しになった。


ヴァルミーの会戦

九月二日の虐殺で銃後の安全を計ることができたので、義勇兵は前線にむかって出発した。この義勇兵は、マルセイユ、ブルターニュその他フランス各地から集まって来た者であり、連盟兵と呼ばれた。彼らは、自分の費用で武装するか、それとも誰かの出資によって武装しなければならなかった。国家から武器が支給されるわけではなかった。義勇兵に参加できた者はブルジョアの子弟である。貧しい階層の者が出陣するばあいは、商人、工業家、その他の財産家が彼のために献金した。後者は、ブルジョアの傭兵となる。義勇兵の性格を一口でいうと、ブルジョアジーの軍隊、あるいはブルジョアジーの傭兵ということができる。とくに、マルセイユ連盟兵は裕福な家庭の子弟であった。

義勇兵の出撃と並行して、軍需物資、食料の強制徴発がおこなわれた。立法議会から前線に派遣委員が送られ、彼らが戦時にふさわしい非常手段をとった。たとえば、コンデ太公のシャンチイイの領地から、二二頭の馬、多数の馬具、テント用の布を徴発したと報告されている、クルセルという貴族の城を捜査して、二〇ばかりの小銃と馬、馬具を徴発したという報告もなされている。このような形で、義勇兵の装備が強化された。

義勇兵とプロシア軍は、九月二〇日ヴァルミーの丘で出合った。ヴァルミーは、国境からパリにむかって三分の一ぐらいの距離をすすんだところにあった。それまで。プシア軍は、ロンウィ、ヴェルダンと二つの重要な都市を、たいした抵抗もなしに占領してきた。そこで、フランスの征服は簡単に実現できるという安心感をもちはじめた。

とくにヴァルミーの丘で対面したフランス軍は正規の軍隊ではなく、雑然とした義勇兵である。当時、軍隊は貴族のもとに整然と組織されなければ、ものの役に立たないと思われていた。これが貴族社会の常識であった。

今目の前に現われた平民中心の軍隊などは、ちょっとした攻撃によって、たちまちつきくずすことができると。プロシア側は考えた。

プロシア軍がフランス軍の前に展開し、ゆっくりとした歩調で前進した。砲撃戦がはじまった。プロシア軍は、この圧力だけで、フランス義勇兵が算を乱して敗走すると簡単に考えた。少なくとも、フランスの正規軍はそのような調子で敗走してきた。

しかし、義勇兵は、すでに八月一〇日の市街戦を経験し、九月二日の虐殺で覚悟をかためていた。その士気は高く、革命のために命がけで闘うつもりでいた。司令官ケレルマンが帽子を剣の先につけて高くあげ、「国民万歳」と叫んだ。この叫び声がいっせいにくりかえされ、フランス義勇兵の覚悟のほどを示した。

それをみると、プロシア軍総司令官ブラウンシュヴァイヒ公爵は突撃命令をだすことができなかった。彼は、いままでのフランス軍とはちがう相手を見たのである。それは信念で武装された軍隊であり、これをつきくずすためには、血みどろの闘いが必要であることを予感した。結局この日は砲撃戦だけで終り、わずかの死傷者を双方にだしただけで、プロシア軍は後退した。

戦争としては大会戦ではなく、フランス革命軍がプロシア軍を撃破したというものでもなかった。純軍事的にいえば、これはまだ戦勝とはいえない。ただ、プロシア軍の無人の野をいくような前進をくいとめただけである。

それにしても、プロシア軍に従軍していたゲーテは、「この日この場所から、世界史の新しい時代がはじまる」と書いた。ゲーテは革命派ではなかったが、王政と貴族支配一色のヨーロッパの中に、これに対抗できるブルジョアの軍隊の出現を見たのである。


相次ぐ戦勝

プロシア軍はまだ傷ついていなかったので、この地点に止まり、征服地を押えるつもりで駐屯した。しかし。プロシア軍は雨にうたれて、赤痢の伝染に苦しんだ。しかも輸送部隊が農民のゲリラに襲撃された。ブラウンシュヴァイヒは、この地に駐屯することが危険であるとプロシア王に報告し、撤退をすすめた。プロシアの高級貴族の中にも、オーストリアとの同盟に反対し、フランス革命軍との戦争を無益なものと考え、むしろ北方問題が重要であると主張する者がいた。

こうした条件が重なって、プロシア軍は後退をはじめた。フランス軍の司令官ケレルマン、デュムーリエは、プロシア軍との交渉を続けながら、退却していくプロシア軍の後をゆっくりと追って進んだ。そのため、重大な戦闘なしに、プロシア軍を国境から追い出すことになった。

本格的な戦争がおこなわれたのは、その後のことであった。九月二五日、キュスチーヌ将軍は、義勇兵を中心としたフランス革命軍を率いてドイツのライン宮廷伯領に侵入し、その首都シュパイエル市を占領した。ライン宮廷伯の子がドゥー・ポン伯爵といわれ、ヴェルサイユ宮殿でフランスの宮廷貴族になっていた。この地域はドィツの領土ではあるが、フランスともかかわりあいの深い所であった。

一〇月五日、キュスチーヌは前進してウオルムスを占領し、一〇月一九日、北上してマインツを攻撃した。マインツは、内部の反乱によって闘わずして降伏した。二日後の二一日、東進してフランクフルトを占領した。こうして、まだ国境近くにプロシア軍がいてゆっくりと後退しているときに、キュスチーヌの率いるフランス軍がドイツ領深く侵入して、重要都市を破竹の勢いで占領したのである。

北フランスでは、オーストリア軍が国境に近い都市リル市を包囲し砲撃を続けていたが、デュムーリエ将軍の率いるフランス革命軍が反撃に転じ、一〇月の末にはベルギー領に侵入した。一一月六日、国境のジェマップ村でオーストリア軍とフランス革命軍の激戦がおこなわれた。この戦闘でオーストリア軍は大打撃を受け、退却した。

ヴァルミーの戦勝は、大戦闘をともなわず、象徴的なものにすぎなかったが、ジェマップの闘いは、フランス革命軍の戦闘力を示した本格的な戦争であった。この闘いののちに、オーストリア軍はベルギー全土から撤退した。ベルギーはフランス革命軍の占領下に入った。

南部では、モンテスキュー将軍の率いる義勇兵が、九月二二日、グルノーブルからサヴォア公国領に侵入し、モンメリアン要塞を占領した。

地中海沿岸ではアンセルム司令官が義勇兵とマルセイユの国民衛兵を率いて国境を越え、サルジニア王国に侵入し、九月二九日ニース市を占領した。 

要約 第四章 ジロンド派の時代 一 敗戦から勝利へ

1792810日の武装蜂起で、「大ブルジョアが勝った」という評価は、ほとんどの歴史家が言うことだが、私は違う。ジロンド派内閣ができると、財務大臣クラヴィエールは、「一万リーブル以上の国庫債権を切り捨てた」。(概算百億円以上の国家に対する貸付金は、その額までの返済とする)。これで、財政赤字が縮小した。国家は楽になったが、最上層のブルジョアたちは犠牲を強いられた。だから、大ブルジョアがすべて勝ったというのではなくて、最大級のブルジョアたちは犠牲を強いられたのである。このグループを「特権的商業資本とか、前期的商業資本」と呼んでいた時代がある。大塚史学と言われる学派であるが、彼らは、この階層がフランス革命で打倒されつくしてしまったと書いた。それに近い現象がここにあるのだが、注意してほしいのは、「上限切り捨て」であり没収ではないことだ。なお、次の恐怖政治の時にも、処刑、財産没収というのがある。しかし、その一年のちに遺族への財産返還という政策があって、家計も事業も断絶していないのである。従来の歴史家は、犠牲を強いられたら、断絶、消滅だと思って、「打倒されてしまった」と書いた。そうではなくて、一時的に譲歩を迫られただけのことであった。もう一つ、ソブールは、「大ブルジョア階級が倒された」と書いているが、これも極論である。「倒された」という意味の中に、「上限切り捨て」の効果を過大評価している。「上限切り捨て」になったから、倒されたと思っている。そうではなくて、経営の中での「損失切り捨て」はよくあること、それと倒れるというのは別問題である。

ジロンド派政権の下で、領主権は完全に消滅した。このことをはっきりと言い切ったのは私が初めてである。それ以前の歴史家は、多数派が、一年のちだと書いてきた。少数の歴史家が、この時期だと書いた。マチエ、ソブール、日本では河野健二氏であった。しかし、おずおずと、あいまいに書いている。(何しろ、世界的な常識に立ち向かうのであるから、蛮勇を必要とする)

相次ぐ戦勝の原因について、加筆、訂正する必要がある。それは義勇兵の役割の過大評価につながるものである。この点は、すべての歴史家と、文豪ゲーテの言葉に頼りすぎたと思う。つまり、戦勝の原因を義勇兵の役割だけにしてしまったことである。確かに義勇兵の役割は大きかった。しかしもう一つの勝因を書かなければ、片手落ちだろう。それは作戦計画の漏洩問題である。これが続いていたら、義勇兵でも勝ち目があったかどうか。思いがけないところに敵がいた。これではパニックに陥る。その原因が何か、これがわからないから、特にパリ市民が恐怖に陥ったのである。「裏切りがある」ことだけはわかっていて、コルドリエクラブでは騒ぎになった。疑心暗鬼になって、92日の虐殺につながった。しかし見当違いであった。真相は、国王夫妻の裏切りであった。これは後でわかり、裁判に発展した。そこは誰も書くのだが、実際にそれが効果を発揮した時は、810日以前のことであった。国王夫妻の投獄でそれは止まった。だから、敗戦の原因を言うときには、作戦計画が相手に知られていたこと、これを書かなければならない。「手の内を知られていたら、いかなる戦いにも勝てない」。勝負の鉄則でしょう。これをこの節に書き忘れている。ここに追加しておきます。

 


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