2022年2月7日月曜日

17-フランス革命史入門 第四章の二 国民公会の招集

二 国民公会の召集


国民公会の派閥

九月二〇日、ヴァルミーの会戦と同じ日に、パリでは国民公会が召集された。国民公会の議員は七〇〇名を越え、これがジロンド派とモンタニヤールと平原派の三大勢力にわかれた。ジロンド派は約一六五名の議員でまとまり、モンタニヤールは約一五〇名であった。中間の平原派が約四〇〇名であった。

ジロンド派とは、ジロンド県(県庁所在地はボルドー)から来た議員がはなばなしく活躍したので、その県の名前が派閥の名前になったものである。しかし、ジロンド派議員必ずしもジロンド県代表の意見どおりには動かなかった。せいぜいのところ、全国各地から集まる同じ傾向の議員の集合体であった。

モンタニヤールはモンターニュ派、山岳派とも呼ばれる。この一団の議員が、議場の高くなっている席に陣取ったから、その他の議員が彼らを見上げて、山にいるという意味であだ名をつけた。モンタニヤールとジャコバン派は混同される場合が多いので、正確にそのちがいを指摘しておかなければならない。

ジャコバンクラブは、これ以前から議会外の団体として続いており、はじめは、フイヤン派にもジロンド派にもこのクラブに参加するものがいた。国民公会が召集されたときでも、ジロンド派議員の多くがジャコバンクラブのメンバーであった。しかも一〇月一〇日までは、まだジロンド派議員がジャコパンクラブの指導権をにぎっており、ジャコバンクラブの議長はジロンド派議員のペチョンであった。その意味では、国民公会の召集から二〇日間は、ジャコバンクラブはジロンド派とモンタニヤールの両方を含むものであった。

一〇月一二日、ジロンド派指導者のブリッソがジャコバンクラブから除名された。これに続く内紛により、ジロンド派議員とその支持者がジャコバンクラブから脱退した。これ以後、ジャコバンクラブはモンタニヤールだけの支持団体となった。モンタニヤール議員は、積極的にジャコバンクラブでの討議に参加し、これを指導した。

ただし、あくまでジャコバンクラブは議会外の団体であるので、一般に使われる「ジャコバン派独裁」という言葉は、適当なものではない。ジャコパンクラブは権力機関ではなく、院外団体であるからだ。強いていうならば、モンタニヤール独裁というべきである。ただし、後にも説明するように、私はモンタニヤール独裁というものもなかったといいたい。

モンタニヤールとジャコバン派がまったく同一のものであるかというと、そうではない。有力なモンタニヤール議員の中に、ジャコパンクラブに加盟せず、その会議にも出席したことがない者がいる。それからみても、恐怖政治をジャコバン派独裁と呼ぶことは正しくない。

ジロンド派も小高い席に陣取り、その両派の間にはさまれた形で、中央の低い議席に、平原派議員が坐った。

ちょうど真中の平たい所という意味で、平原と名づけられた。また、沼地のように低い所という意味で、沼地派、沼沢派(マレ)ともいわれた。一人一人の議員が派閥を作らず、その時その時によってジロンド派やモンタニヤールに投票した。はっきりと自分の意見を発表する議員もいたが、保身の術を使い、重大なときに自分の意見を発表しない議員もいた。

その態度があいまいだというので、ジロンド派、モンタニヤール双方から批判されたときもあるが、数からいうと断然多いので、その票をどちらの側に獲得するかは、決定的な問題であった。「沼沢派の蛙」と馬鹿にしながら、その投票によって、まずジロンド派が孤立して没落した。平原派がモンタニヤールに投票している間は、恐怖政治が続いたが、やがてモンタニヤールは平原派と対立し、最終的にはモンタニャールが消滅して、平原派議員だけがのこった。

その後、彼らの手で恐怖政治が廃止されてしまう。その意味では、平原派こそが、フランス革命を一貫して生き続けたということができる。ほとんどのフランス革命史が、この平原派の役割を低めて、ジロンド派とジャコバン派で説明をしているが、これでは表面だけにとらわれて、内面を見ないことになる。本書では、平原派の役割を正当に評価しながら、これ以後の政争について解明していこうと思う。


ジロンド派指導者

ジロンド派は、ごく大ざっぱにいうと、大商人と銀行家の利益を代表した派閥であり、農村では大土地所有者の性格をもっていた。ただし、ジロンド派だけがこれら上層ブルジョアジーの利益代表者であったというわけではない。後でくわしく分析することになるが、平原派もまた、上層ブルジョアジーの一部分を代表する議員が多かった。

八月一〇日で打倒されたフイヤン派も、最上層のブルジョアを代表していた。フィヤン派とジロンド派のちがいは、領主的性格、特権的性格、寄生的性格のちがいであった。つまりは、ブルジョアジーの上層でありながら、貴族的性格の強かったものがフィヤン派であり、ジロンド派は、それの性格のうすい、ブルジョアジーそのものを代表していた。

ただし、のちに平原派とのちがいがでてくることを考え合せるならば、ジロンド派には、大商人、銀行家が多くても工業家が少なく、商業も消費物資に関連するものが目立っている。これが恐怖政治のときにどのような意味をもつかは、おいおいあきらかになるだろう。

ジロンド派の名がついたのは、ボルドー出身の議員がはなばなしく活躍したからである。ジャンソネ、ヴェルニヨー、ガデ、デュコ、ボワイエ・フォンフレード、グランジュヌーヴらであった。ボルドーの弁護士が多いが彼らを支え、また彼らと血縁関係で結ばれている者がボルドーの大商人、とくに貿易業者であった。

ボワイエ・フォンフレードは大船主でドミニカに農園をもち、同じく、ボルドーの大貿易商人ジュルニュの娘を母にもち、弟が織物の大工場主であった。デュコもボルドーの大商人で、ボワイエの義兄弟であった。ガデとグランジュヌーヴが弁護士で、ヴェルニヨーはボルドー高等法院議長の秘書、ジャンソネは医者の子で法律を勉強したが、革命まではまだこれといった職についていなかった。

パリのブルジョアジーを代表する者は、ブリッソとクラヴィエールであった。それぞれ大臣になった。また、ジロンド派議員はパリで特定のグループを作っていた。大商人ビデルマンの邸宅にはクラヴィエール、ペチヨン、ブリッソが集まった。インド会社理事ドダン夫人の邸宅には、ヴェルニヨーとデュコが部屋を借り、ここにブリッソ、クラヴィエール、ジャンソネ、ガデ、コンドルセなどが集まり、議会での対策を打ち合せた。

内務大臣ロランの夫人のサロンには、ブリッソ、ビュゾ、バルバルー、ガデ、ジャンソネ、ルーヴェなどが集まった。

ロランはリヨンを足場にしていた。法服貴族の父と貴族の母をもち、領地をもっていたが、マニュファクチュア検査官になってリヨンの商工業者の気分を知り、革命派となった。パリの彫刻家の娘と結婚した。はるか年下の妻であったが、ロラン夫人は美貌と才能の持主で、この時代社交界の花形となり、ジロンド派指導者にたいして影響を与えた。

マルセイユ地方を根拠地にしたジロンド派議員は、バルバルー、ルべッキ、デュプラ、マンヴィエーユであった。バルバルーはマルセイユの貿易商人の子で、ルべッキと親友であった。ルべッキはマルセイユのリキュール製造人、貿易商人であった。デュプラはマルセイユの絹商人であり、マンヴィエーユはアヴィニヨンの絹商人であった。

ジロンド派には、二人の有名な貴族が参加していた。一人は思想家として有名なコンドルセであった。彼は侯爵といわれているが、古文書では騎士の家系であるともいわれている。正式の侯爵であるかどうかは、ややあいまいである。彼は、ヴォルテール学派の大学者として有名であった。国王の逃亡のときにすでに共和制を主張し、シャン・ド・マルス事件ではラファイエットと対立し、国民公会では書記の一人に選ばれた。このとき、「ヴォルテール学派の偉人」が国民代表に選ばれたという讃辞が送られている。

フランス革命の第一段階がモンテスキューの思想に一致し、ジロンド派の時代がヴォルテールに一致し、つぎの段階がルソーの思想に一致するといわれているが、そのヴォルテールを代表する学者政治家であった。ただし、本人はどの党派にも属さないといって、ある程度の独立性を保った。ジロンド派が追放されたのちも、平原派のシエースとともに『社会教育新聞』を発行したが、結局はジロンド派の一員として処刑されることになる。

もう一人の貴族はイザルン・ド・ヴァラデイ侯爵である。これは名門の貴族であったが、国民公会でジロンド派と行動を共にした。ジロンド派と対立していたにもかかわらず、ジロンド派とみなされて追求された貴族に、シルリー侯爵(別名ジャンリ伯)がいる。彼も名門貴族で、叔父はルイ一五世の外務大臣をしたビイジュー侯爵であった。しかし国民公会の議員となり、ジロンド派と混合していた。彼はオルレアン公爵やジロンド派系のデュムーリエとの関係が深く、デュムーリエの反逆に関連して告発されることになる。


パリコミューンの打圧

一七九二年の末までは、だいたいにおいて平原派議員がジロンド派の側に投票していた。そのため、ジロンド派は与党であり、モンタニヤールは野党となっていた。国民公会がそのような状態になったから、パリコミューンと国民公会との対立もジロンド派の側に有利な方向で解決された。危機のときには、首都の権力を動かすかのようにみえたパリコミューンは、不利な立場に追込まれた。

九月一八日、パリコミューン総会が監視委員会に逮捕者のリストの提出を命じ、議会だけが人民の代表であり、その他は友人、使用人にすぎないと宣言した。その延長として、パリの関門を開き、取引所の再開を認め、囚人の生命の安全を保証した。九月二二日、パリコミューン総会は監視委員会の罷免を決定した。

このとき、エベールがマラを非難し、マラと監視委員会のメンバーが勝手に警察権を行使していると批判した。マラもこの日、自分の新聞に「これから新しいコースをとる」と予告して転向をにおわせた。敗戦の危機が去り、国民公会が召集され、人心が落着くと、今度は行き過ぎが批判の的になった。

国民公会の最初のころは、パリコミューンにたいする批判が最大の議題になった。とくに、九月二日の虐殺のときに、パリコミューンがブリッソの家宅捜査をおこない、ロラン、ペチヨンなどジロンド派幹部を逮捕しようとしたことについて、激しい攻撃がおこなわれた。こうした圧力により、パリコミューンは一一月二五日、改選させられた。このとき、ジャコバンクラブは反対せず、コルドリエクラブだけが反対した。

ただし、常にジロンド派が勝ったというわけではない。九月二五日、ジロンド派が連邦案を提出した。ジロンド派指導者は、八月一〇日と九月二日で発揮されたパリ市民の力をおそれた。ジロンド派の何人かは、あたかも自分達がパリ市民の奴隷になっているかのような思いを表明した。そこで、パリの役割を低め、フランスを連邦制に改組することを狙ってこの案を作った。当然、マルセイユやボルドーの地位が高められることになる。

しかし強国に囲まれているフランスが、そのような制度を戦争の時期にとるならば、フランスの自滅を招くかもしれない。ジロンド派の連邦案は、自分達の利害と執着を優先してフランス共和国の安全を脅かすものになった。このとき、平原派議員はモンタニヤールと同調して反対し、ジロンド派は破れた。のちにジロンド派の反乱が連邦派(フェデラリスト)の反乱と呼ばれる理由である。

この事件をみると、ジロンド派が常に優勢であったというわけでもなく、平原派が常にジロンド派に同調していたわけでもないことがわかる。平原派はそれなりに独自の原則をもっており、パリコミューンの抑圧には賛成

だが、連邦制には反対であるという立場をはっきりと表明している。

平原派を単なる日和見主義者と考え、受動的な人間ばかりだと思うと、国民公会の本質を見誤まる。彼ら平原派議員は、まとまった党派を組まなかったために歴史の表面には登場しないが、一人の議員としてみるならば、

それなりの原則があり、ときには勇敢でもあった。必ずしも、強い方になびくというだけの存在ではなかった。


政治的安定

一七九二年九月二〇日から年末までは、戦争は外国でおこなわれていて危機感はなく、経済的混乱もなく、したがって政治的安定が再びおとずれた時期であった。誰も、このつぎに恐怖政治が来るなどとは想像することが

できない。このままの状態で、過ぎていくと思ったであろう。マラすらも穏健な路線に転向したのである。

ジロンド派政権は自信をもって統治したから、フイヤン派系のブルジョアや貴族が帰国するのをあえてとがめず、とくに、同じブルジョアジーの仲間として、彼らの経済活動については安全を保障した。そのため、八月一〇日以後亡命したり身を隠していたブルジョアや自由主義貴族が、一〇月以後あいついで帰国し、もとの状態にもどった。

たとえ政治的に敗れたとはいえ、フイヤン派系のブルジョアや貴族は依然として大財産家である。とくにブルジョアとは、日常の取引で利害関係の共通する部分がある。ジロンド派議員は、そうした部分と積極的に結びついた。彼らがインド会社理事ドダン夫人の邸宅に集まったこともそれを示す。インド会社の特権を打破することには熱心であったが、特権を打破してしまったあとは、やはり大会社としての力を利用しようとするのである。


財政問題

この時期、財政の実権は、クラヴィエールと国民公会財政委員会議長カンボンの手にあった。カンボンはモンペリエの大商人で、地方的ブルジョアを代表しているが、平原派議員であり、恐怖政治のときも一貫して財政委員会議長の職にあった。彼の動向が、平原派の動向の一つのモデルとなっている。

この時期、彼はジロンド派と同じ政策を主張していた。それは、赤字財政を埋めるためにアシニアの増発に頼ることである。一一月の財政収入は二八〇〇万リーブル、財政支出は一億三八〇〇万リーブルで、赤字は一億一〇〇〇万リーブルであろうと予測された。収入にくらべて巨額の赤字である。しかし、カンボンはアシニアの増発に頼り、財政収支の根本的解決案を採用しようとはしなかった。

せいぜいのところ、礼拝予算の廃止、すなわち僧侶にたいする俸給の支払停止を要求しただけである。しかしそれにたいしては、かえってモンタニヤールの側から反対がでた。一一月一四日、バジールが「人民はまだ宗教を愛している。この法令を許すと、狂信をよびおこし流血は計りしれない」といって反対した。また、モンタニヤールの議員は、財政収入を改善するために新税の設置とか、公債の発行などいくつかの案を提出したが、この段階では問題にされず、カンボンとジロンド派の政策がすすめられた。アシニアの増発は、やがてインフレを激化させ、つぎの社会問題の火種を作ることになる。

同じ財政問題でも、ジロンド派が、平原派、モンタニヤールを含めたグループと対立した事件もある。それはこの時点での英雄デュムーリエ将軍をめぐる不正取引であった。陸軍大臣パーシュが、テュムーリエ将軍と前任の陸軍大臣セルヴァンの不正取引を暴露した。

デュムーリエは一連の御用商人と軍需物資の調達契約を結ぶとき、普通の御用商人の二倍から三倍の価格で支払い、その返礼としてわいろを受けとっていた。その御用商人の中に、デスパニヤック、ファーブル・デグランチーヌがいた。デスパニヤックは貴族高級僧侶でありながら、カロンヌ財務総監の取りまきになって投機をおこない、巨大な利益をあげた。いわば、旧体制の貴族とブルジョアを抱き合せたような人物であるが、革命に参加し、ジャコバンクラブの書記になり、ダントン、カーミュ、デムーランなどの革命家と親交を結んだ。戦争がはじまると、軍隊の御用商人となり、八月一〇日以後ダントンの仲介で陸軍大臣セルヴァンに接近し、有利な契約を結んだ。

ファーブル・デグランチーヌは旅芸人、劇作家であったが、革命とともにコルドリエクラブの活動家となり、八月一〇日の武装蜂起に参加し、ダントンが大臣になるとその秘書になりながら、同時に、軍隊の御用商人をはじめた。革命を利用して一攫千金を夢みた人物の一人である。そのほか、数多くの不正取引があり、これが財政赤字の大きな原因になった。

一一月一日、カンボンが演説し、彼ら御用商人の略奪行為が、「アンシャン・レジームの時代よりもさらに悪い」と弾劾した。同じく平原派議員で財政委員のドルニエがデスパニヤックの取引を調査し、彼が他の御用商人の二倍から三倍の支払を受けていることを暴露した。ドルニエの報告を、カンボンとモンタニヤール議員のジャンボン・サンタンドレ(恐怖政治の公安委員)が支持した。こうして、デスパニヤックを中心とした不正取引の御用商人と軍隊の支払命令官が逮捕された。

ところがジロンド派は将軍達と対立することを好まなかった。デュムーリエ将軍が抗議のために辞職を申し出たところ、ジロンド派がデュムーリエの味方をした。これに、ダントンを中心としたのちのダントン派議員チュリオ、ドラクロワ、ルコワントルなどが賛成し、結局ジロンド派の線で妥協が成立し、ダントンがベルギーに派遣された。派遣されたダントンは、デュムーリエ将軍をなだめて現職に留まらせるだけであり、デスパニヤックの不正取引は破棄されすに放置された。

この事件は、ジロンド派と平原派の中のダントン派の連合が御用商人と結びつき、国民公会の反対派、すなわちカンボン、ドルニエ(平原派)、モンタニヤールの勢力を押えつけたものである。恐怖政治の段階でこれが逆転し、やっと不正な契約が破棄された。この不正取引は、つぎの敗戦の原因として重要である。なぜなら、御用

商人が契約通りの物資をおさめないので、軍隊の食料、衣服、軍需物資が劣悪になってきた。そこで、義勇兵は

嫌気がさして故郷に帰った。彼らは自由に帰国できたのである。こうしてフランス革命軍の戦力が低下した。


穀物商業の自由をめぐって

殻物商業の自由は、ジロンド派とくに内務大臣ロランの主張であった。八月一〇日から九月二〇日にかけて、プロシア軍を迎え撃つために、軍隊への食料供給をめぐって穀物商業の自由が間題になった。なにしろ非常事態のときであるから、食料確保のためには非常手段をとらなければならない。九月四日、そのために穀物の強制買上げと公定価格を認める命令がだされた。ただし、これにはロランの署名がなかった。

九月一六日、穀物の徴発を地方行政当局に認める法令がだされた。こうして、戦線に近いところで穀物の強制徴発が実施された。このとき、倉庫を検査されたり穀物を公定価格で徴発された被害者は、農村の富農(大土地所有農民)、大借地農(大フェルミエ)、商人地主など一口にいえば農村の大土地所有者であった。もちろん、大きな直領地をもつ貴族もそれに該当する。

彼らは穀物を隠したり、先を見越して買占めたりしてこれに対抗したので、食料事情はかえって悪くなった。徴発された穀物が正しく分配されるならば、それほど大きな間題は起きなかったはすである。しかし徴発した側にも不正をおこなうものがいて、横領したり横流しをする者がいて、徴発政策を混乱させた。そのため、穀物の消費者の側からの不満も高まった。

この事態をとりあげて、ロラン、ブリッソ、コンドルセなどが穀物商業の絶対的自由を宣言した。ところが、こうしたジロンド派の動きにたいして、買占めを防止し、公定価格、強制徴発を強化するべきであるという意見がパリコミューンの指導者からだされた。彼らは、八月一〇日から九月二日にかけての非常手段を強行した者である。ジロンド派の主張する方向は、買占めを許すことによって、ブルジョアジーや大土地所有者を太らせることになると考えたのである。一一月一六日、ショーメットはパリコミューン総会で発言した。

「土地所有、穀物と食料に関するすべての所有は、条件付の所有である。その本来の所有者は消費者である。これらのものは、全体として共和国に属する。所有者は保管者、交換者にすぎない。もし貪欲のために、彼が全体に属すべき自然よりの賜物を倉庫にねむらせるならば、これは犯罪である」。

一一月二九日、パリコミューン総会とパリの各区の合同会議は、生活必需品の公定価格を要求し、ブルジョアジーが、アンシャン・レジームの貴族階級にとってかわって、人民を餓死させようとしているといった。

「富める資本家の同盟が、土地と産業のすべての資源を独占しようとしている。・・・・・・新しい貴族階級は、旧貴族の残骸の上に成長し、金持達の悪運強い上昇が起こっている。商業会社、金融業者はチュイルリーの暴君と同盟し、飢えによって人民を殺し、専制政治を再建しようとしている。革命は成功した。もはや革命は必要でない。

議会は入市税を廃止し、住民は生活条件を改善できるはずであった。しかし、議会が商業の自由を布告したため、その恩恵はなくなった。公安の名においてわれわれは諸君に要求したい。当局が生活必需品の価格設定の権利を再設することを」。

これにたいしてロランは、穀物の強制徴発や買占め攻撃の運動が、大土地所有者や普通の農民をおびえさせて、穀物が市場に現われないようにしたのだと批判した。せっかく小麦をパリにむけて送ってきても、パリコミューンの主張する運動によって、小麦の到着が妨害されるといった。ロランの主張によれば、パリコミューンの運動が穀物の姿を消させ、かえって食料危機を招くというのである。この主張に、平原派議員の多数が賛成した。

その結果、一二月八日、国民公会がロランの意見を取入れた法令を可決した。九月一六日の法令、すなわち穀物徴発の許可を定めた法律が廃止された。国内における穀物商業の絶対的自由を確認し、穀物の流通を妨害したり、妨害を煽動したりした者は死刑にするというものであった。このとき、モンタニヤールの議員は積極的に反対しようとはしなかった。ただ、条件をつけて承認をした。

それは、国家が危機に瀕したとき、強制徴発、強制買上げもやむをえないという立場と、人民の生存権を守るためには、穀物商業の統制が必要であるというものであった。こうした意見をモンタニヤールの議員が唱えたが、それにしても、ロランの方針にたいして、全面的に反対だというものではなかった。

こうした微妙な相違が、翌年に入って、食料危機をめぐる態度の相違へと発展するが、さしあたって、この時期は、国民公会全体が商業の統制や徴発政策に反対であり、これを主張したのは、議会外の活動家の一団であった。この系譜は、のちの過激派へと発展する。穀物商業にたいする態度についてまとめると、つぎのようになる。

ジロンド派は絶対的自由を主張する。過激派は厳格な統制を要求する。モンタニヤールは自由を承認するが、非常事態のばあいは別だという留保条件をつける。平原派は、一七九二年の末にはジロンド派の側に立ち、翌年の五月にはモンタニヤールの側に立つ。そのモンタニヤールも、翌年の五月には、非常事態を認めて過激派の主張を採用した。こうして、一七九三年五月四日、国民公会はジロンド派の反対を押し切って、最高価格制を布告することになる。


戦争拡大論の定着

フランス側が優勢であった戦争は、一七九三年に入ると逆転した。逆転した理由はいろいろあるが、まず御用商人の悪徳行為のために、軍隊の食料事情、待遇が悪くなり、士気が低下し、義勇兵が減少したためである。

第二に、フランスの敵国が増えたためである。まっさきに敵国の側に立った強国は、イギリスであった。イギリスは、フランスに先がけてピューリタン革命と名誉革命をおこない、立憲君主制のもとで、ブルジョア支配の体制を維持していた。そのため、フランス革命を、はじめのうちは歓迎した。自国と同じ状態の国家がフランスにできることについて、好意的な目でみていたのである。そこまでは、絶対主義にたいするブルジョア国家同士の親近感が優先していた。

ところが戦勝に気をよくしたフランス革命政府は、しだいに征服政策、膨張政策をすすめ、これを一種の世界革命論的なイデオロギーで正当化した。その結果、一一月一九日、諸国民の解放戦争を支持するという声明をだし、一一月二七日にはサヴォワ領をフランスに合併した。

一一月一六日には、ベルギー領を流れるエスコー河の航行の自由を宣言し、フランスの艦隊を入れた。これは、長年守られていたオランダの中立にたいする脅威になった。オランダの利害は、そのままイギリスの利害であり、イギリスは、オランダをフランスが征服することにたいしては我慢がならなかった。こうして、フランスとイギリスの間は険悪になり、イギリス側からの経済制裁がおこなわれ、戦争へすすんだ。イギリスのピット首相は、フランスの側から宣戦を布告するよう仕むけた。

こうして、一七九三年二月一日、ブリッソの提案で、国民公会はイギリスとオランダにたいして宣戦を布告した。ただし、戦争問題に関しては、必ずしもジロンド派対モンタニヤールの図式ができたわけではない。はじめのころは、これほど目ざましい勝利が続くとは思っていなかったので、ジロンド派といえども占領地を維持し、ここに反封建の革命を起こさせながらフランスに合併する政策は、冒険のように思われた。

ジロンド派のラスルス、ルーヴェなどは、外交委員会で占領に反対した。しかし同じジロンド派のクラヴィエールは、積極的に領土を拡大することを主張した。当時平原派にいたダントンとドラクロワは、占領地から国王を追放し、自由を実現するという名目のもとに、積極的に革命を国外に拡大することを要求した。

同じく平原派にいたクローツは、一種の世界革命論的な理論から、ドイツにむかって進撃することを主張した。

クローツはドイツから亡命してきた銀行家であり、同じくドイツ系銀行家プロリやワルキエなどとともに、革命を自分の故郷にまで広めようとしたのである。そうすれば、彼らは勝利者として帰国できる。クローツもダントンも、しだいにモンタニャールに接近し、ジロンド派から離れていく。

モンタニヤールでもジャコバンクラブでも、戦争の問題は分裂していた。ジャコバンクラブでは、ロベスピエールが戦争の継続に反対し、軍事作戦をあるところで止め、外国の反革命勢力との闘争にまきこまれないよう主張した。貴族出身のデュボワ・ド・クランセは、積極的な征服論を展開して対立した。戦争が調子よく進むとモンタニヤールの中でも、戦争反対論を強調する根拠が見失われた。

ジロンド派の征服反対論者も、反対論を展開する機会を失った。国民公会からだされたのが、ヨーロッパ諸国民の自由のための闘争を軍事的に支持するという声明であり、事実上の解放戦争の宣言であった。この提案をおこなったのは、ラ・ルヴリエール・レポーである。戦局が苦しいときは慎重論がそれぞれの派閥の中にあったが、戦局が有利に進みはじめると、戦争拡大論が人心を捕えた。ジロンド派の反対論者もモンタニヤールの反対論者も押し切られ、時の流れに流されたというべきであろう。

ルイ一六世の処刑のためスペイン王国との関係が緊張した。一七九三年三月七日、国民公会で平原派のバレールが、「フランスにたいしてもう一つ敵国ができることは、自由の勝利がもう一つ増えることにすぎない」と演説し、熱狂のうちに、スペインにたいする宣戦布告を可決させた。ブルボン王家の支配するナポリ王国が、フランス共和国の大使を拒否したところ、国民公会はフランス艦隊を派遣して屈伏させた。このようにして、自信をもったフランス共和国は、ヨーロッパの強国を軒並み敵にまわし、第一次対仏同盟をつくらせたのである。


国王の裁判をめぐって

この間に、ルイ一六世の裁判が国民公会で進行した。これは重大な問題であったので、長い討議と一人一人の議員の指名点呼による票決をおこなった。最終的に三八七対三三四の少差でルイ一六世の無条件死刑が決定された。王の無罪を主張する者はいなかったが、王の命を助けようとする者は、死刑に条件をつけたり、禁固刑を主張したり、国民公会の決議ではなく人民の投票にゆだねるべきであるという意見をもって、処刑の引きのばしをはかった。

この問題で公会議員の性格がある程度あきらかになる。のちに議員の伝記ができたときは必ず処刑派か人民投票派かが書かれることになる。国王の処刑については、モンタニヤールが積極的に主張し、ジロンド派の多数が反対し、平原派の議員は二つに割れた。ただしジロンド派の中にも死刑を主張した者がいる。イスナール、バルバルー、ジャンソネなどである。そのため、国王裁判についての態度は、ジロンド派とモンタニヤールを分ける指標にはならない。

ルイ一六世は、一七九三年一月二一日、ギロチンにかけられた。ルイ一六世が有罪とされるにいたったもっとも大きな根拠は、チュイルリー宮殿の秘密の押入から発見された書類である。ここに、作戦計画をオーストリア側に内通していた証拠書類がみつかったのである。

この秘密の押入は、国王出入りの錠前屋ガマンに作らせた。そのあと、国王夫妻がタ食をごちそうした。ガマンは家に帰って、猛烈な下痢をしたという。彼はこれを毒殺の計画であると考え、そのまま姿を消していた。王権が転覆されてから、復讐のために、この秘密の押入のありかを国民公会に通報したのであった。 

要約 第四章 ジロンド派の時代 二 国民公会の招集

この節の最も重要な要点は、国民公会の派閥を正確に把握することである。いわゆるジロンド派、これに対立するモンタニヤール(山岳派、モンターニュ派、通称ジャコバン派)に加えて、中間派(中央派、平原派、沼沢派)があること、概算、中央派が400名、左右がそれぞれ約150名と整理する。(ジロンド派が多少多い)。歴史の新興の具合をまとめると、まずジロンド派が追放され、20-30名が死刑になった。一年後に10人のロベスピエール派が死んだ。そのあと、ジロンド派の生きのこり約7080名が復帰して、モンタニヤールを消滅させた。ただしモンタニヤールの十数名は転向して、政権にとどまった。このような形で、フランス革命は進行した。だから、中央派の400名は、いかなる時でも、万年与党であった。これを主張することが、私以前の歴史家と違うところです。

通説では、ジロンド派がブルジョアジーの党派と言われるが、そうではなくて、平原派も同じだという。業種別、その他の事情で、支持する党派が違ってくる。従来のフランス革命史では、ジロンド派だけを取り上げて、ブルジョアジーの党派だとした。ここに間違いがあった。もちろん、ジロンド派という呼び名も間違いだということ、これは私が繰り替えぢ書いているが、今はこう書くしかないので、私も書いています。

1792920日から年末までは、つかの間の安定があり、過激な人も穏健派に転向した。こういう時期もあったと、公平に見ようという努力をしている。

戦争問題についても、私独自の見解があります。フランス革命の致命的欠点は、イギリスとの戦争へと拡大したことにある。拡大しないために、オランダに脅威を与えないこと、これを守るべきであった。そうすれば、フランス革命の成果を維持できたはずだというのが私の見解です。


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