2018年4月11日水曜日

9月2日の虐殺に関与した銀行家パーシュ

この人物の役割を取り上げるのは、私一人です。まず事件の概要から。王権は転覆、立法議会は解散、国民公会の選挙は、選挙運動のさなか、臨時行政会議は仮の政府、極端にいえばこの時のフランスは無政府状態でありました。しかしプロイセン軍はますます前進している。
9月2日、ヴェルダンが包囲された。ここは国境の重要都市、パリから約200キロメートル離れている。もうすぐパリ攻撃が始まる。占領地では、人馬の死体があふれ、川や井戸に投げ込んでいるという。亡命貴族が一緒に帰ってきて、革命派の処罰、領主権の徴収をすると宣言した。パリは恐慌状態になった。ジロンド派の一部はパリ退却案を口にした。しかしパリを死守するという意見が勝った。この時のダントンの演説が有名になった。「1にも勇気、2にも勇気、3にも勇気だ」。
これでダントンは救国の英雄になったが、マラーは不十分と見た。防衛戦をしているときに、内部で王党派の反乱を起こされては勝ち目がない。しかもこれらの人物は身分の高い影響力の強い人たちである。ヴェルサイユ城ではトップクラスで知名度も高い人たちであった。プロイセン軍の接近に合わせて革命政府を攻撃するであろう。しかも貴族であるから武術、格闘術には優れている。
マラーはパリ・コミューンの監視委員会に入って、約3000人のこれら反革命容疑者を処刑してから、敵国との戦争に出発するべきだと主張した。この時、事実上のパリ市議会であったパリ・コミューンが唯一の権力機関になってたという状態が、マラーの主張を実現することになった。パリ市民と義勇兵が協力して、約半分の反革命容疑者を殺した。この殺害を象徴するものが、ランバル公爵夫人(王妃付き女官長)の虐殺であった。
この事件が、フランス革命におけるテロリズムの始まりとされる。マラーがテロリストの元祖のように言われる。ここまではその通りであるが、マラーの資金源はどうなっているか。これを問題にした人は日本にはいない。
スイス人銀行家のパーシュであった。マラーもスイス人であった。マラーはイギリスで医学を学び、国王の弟アルトワ伯爵の侍医を務めていた。国際派であり、インテリで科学者であった。しかしフランス革命直前から革命運動をはじめ、コルドリエクラブに参加し、貧民に大きな影響力を持った。9月2日の虐殺を指導して有名になったタリアン、マイヤールなどとともに、このパーシュの取り巻きになった。そのおかげで急に豊かな生活を始めるようになった。
パーシュはその後パリ市長となり、のちの恐怖政治の時期に「パパ・パーシュ」といわれて貧民の間で人気を得ていた。あまり詳しくは書けないけれども、スイス人銀行家はフランス革命の全期間にわたって、大きな影響を与えた。ネッケル、クラヴィエール、パーシュ、ペルゴであり、これを見ると、フランス革命はどこまで行ってもブルジョアの革命であったという思いがするのである。

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