2018年4月16日月曜日

小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論)戦勝が征服型の市民革命をもたらした。

ヴァルミーの会戦以後、プロイセン軍はドイツ領に後退し、やがて帰国してしまった。フランスの義勇兵、正規軍、国民衛兵は、それぞれの地域で、国境の外へ進出した。大きな戦闘は、北方のジェマップの会戦で、オーストリアが大敗北をして撤退した。これでベルギーがフランスの領土に入った。中部では、マインツ、フランクフルト、などライン川沿いの重要都市を占領した。南部ではニースを含む地域を占領した。
予想外の成功に気をよくしたので、フランスの政府は11月19日諸国民の解放戦争を支持するとの声明を発表した。イギリスはオランダが危ないと感じてフランスと対立を深め、その結果として、1793年2月1日、フランスがイギリスに対して宣戦布告をした。
ただし、フランス内部においては、征服に対する賛否両論があった。これは党派に関係なく、両論があった。ジロンド派では、ブリッソ、クラヴィエールが好戦的、ラスルス、ルーヴェが反対、左派の山岳派、モンタニヤールではロベスピエールが反対した。ほどほどのところで止めておけというものであった。歴史を後から見れば、これが正しい。しかし、ダントンは拡大論者で、占領地で支配者を追放し、自由を実現するとした。ロベスピールとともに公安委員になったバレールは、敵国が一つ増えると、自由の勝利が一つ増えると演説し、熱狂のうちにスペインに対する宣戦布告を実現した。
これは革命の輸出であり、征服地に革命を実現することである。前時代の支配者が政権から追放され、ブルジョアジーが権力を握る。それをフランスが合併する。こういう形の市民各目もありうるということで、革命必ずしも反乱の形をとるものではないことを知っておくことが重要である。
これは何を言っているかというと、わが国の廃藩置県がこれに相当するというのである。フランスに相当するのが明治新政府、まだ旧幕府領だけを支配する、その他の大名領が、ライン川沿いの中小諸国の相当する。もし東北諸藩の連合を外国が応援した場合、例えば欧米諸国、もしくはロシアがそちらを応援したとする、実はこれはありうる話であったが、こういうことになると、まさにフランス対オーストリアの対立と同じになる。
西ドイツ諸国は中世封建制度と変わらない体制のもとにあり、近代的な統一国家を特っていなかった。フランス革命軍は小国家を各個撃破する形で進んだ。さらにフランクフルトのような都市国家があり、これらは抵抗することができない。
こうして、フランス革命軍の下で市民革命の政策が実施された。それに慣れたころ、フランスが敗北して、押し戻され、元の旧体制に戻る。ナポレオン支配下では、西ドイツ諸国はライン同盟にまとめられた。ナポレオンが敗北すると、プロイセン王国に合併される。市民革命から、絶対主義への逆戻りである。これが1815年から1848年の3月革命まで続く。3月革命でライン州プロイセンのブルジョアジーの影響力が強まり、プロイセンは市民革命の国になる。1871年その力でもって、他のドイツ諸国を強制的に合併して統一したドイツ帝国を作った。こういう形でドイツの市民革命は完成する。これがちょうど日本の廃藩置県の年と一致するのもまた、数奇な運命であるというべきだ。

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