2018年5月7日月曜日

ジロンド派と平原派の共通点と相違点

いわゆるジロンド派と平原派はそれぞれ約150名と400名、合わせてともにブルジョアジーの利害を代表するものとして、国民公会の議論を指導した。ブルジョアジーの党派、これが共通点であった。こうはっきり定義するのは、世界で初めてであることを知ってください。今までのフランス革命史家は、ジロンド派がブルジョアジーの党派だと書いていた。それではジロンド派が負けた時、ブルジョアジーガ負けることになる。
そう思い込むから、日本の大塚史学のように、ジロンド派の敗北、モンタニヤールの勝利で、巨大企業アンザン会社,クルゾー会社が圧伏されたとか、廃棄されたとかいう理論が作り出された。それからそれへと前期的商業資本の理論が作り出されて、それが東大、名大で講義され、日本のエリート集団に固定観念を植え付けた。特にクルゾー会社は横須賀の造船所を作った企業であるから、「フランス革命で圧伏、廃棄されたものが、数十年後に日本の造船所を作るとはどういうことか」、と疑問を出しても、そうだそうだという声は全く聞こえなくて、はじめは屁理屈をつけて反論し、負けそうになると、異端視して、無視する、こういうことで今まで来たしまった。
もし平原派の存在と役割を認識しているならば、ジロンド派の敗北は、ブルジョアジーの一部の敗北であり、それも半分よりも少ないと考えるだろう。平原派は2倍以上いる。つまり、ブルジョアジーは恐怖政治の全期間を通じて健在であった。だから、クルゾー会社も残る。これが事実だ。この事実だけでも、明治維新が市民革命であるかどうかの議論に根本的な変化を起こす。こういうことを背景に、今ジロンド派と平原派の問題を扱っている。
ならば両者をわかつ相違点とは何か。累進強制公債が、どうしても認められないという立場の相違であった。それ以前の税金体型は、一律の課税が原則であった。十分の一税に見られるように、富める者も貧しい者も同じ率でというわけだ。しかし、国家が滅亡の淵に立った時、金持ちが多くを出して、軍事費を賄おうという意見、これが平原派から出てきた。財政委員会のカンボンがこれを代表した。しかし、ジロンド派はどうしても容認できなかった。それならば、武力で反抗をという姿勢であった。
ジロンド派の一般的な信念は経済的自由主義の堅持であった。これは旧体制の王権と戦うときには立派な理論になった。しかし、自分たちが権力をとったとき、しかもそれが危機に瀕した時、ある程度の統制経済、非常手段と取る必要に迫られる。その変化に対する適応力、それは平原派にあったので、ジロンド派は頑固であった。これが敗北の理由である。それをさらに推し進めると、ビジネスの在り方の相違に行き着く。
統制経済、非常手段のもとでも利益を上げる見込みのあるものと、それでは損失が多すぎると思うもの、その差であろう。この時点のフランスは軍事経済に移行している。それで儲かるものと損をするもの、こういえば、第二次大戦の日本を振かえると、だれもが「ああ」と納得するだろう。リヨンの絹織物、ボルドーのワインというと、一目瞭然、どうも損失が大きい。ボルドーの県がジロンドという。ここ出身の議員がジロンド派で目立っていた。それでその名が後世になって付いた。
こういうわけで、。両派の分裂はビジネス界の分裂を反映した。したがって、ジロンド派の追放はあったとしても、ブルジョアジーの政権は続いたのである。

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