2018年2月21日水曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論、江戸開城とヴェルサイユ行進を比較する

日本では、京都、大阪を中心とした新政府ができたものの、江戸ではまだ幕府の統治が続いている。東日本、北日本には変化が起きていない。つまり、いつひっくり返されるかわからない。関ヶ原の戦いの再現である。
同じく、フランスでは、パリで新政権が成立したが、ヴェルサイユでは今まで通り、大領主たちが集まり、国王の軍隊が駐屯している。いつ再攻撃が行われるかわからない。事実、フランドル連隊という、反乱の心配がないとされた軍隊を呼び寄せた。これで再攻撃をするか、または守られて地方に遷都をするか、そういう選択肢はあった。約100年前の、フロンドの乱の再現である。この時は、最終的に国王と大領主の側が勝ち、、パリを制圧した。これでフランス絶対主義は確立されたとされる。
こうして、どちらの国でも、革命、反革命、どの方向に揺れるかはわからない状態にあった。日本では、すぐに東征大総督に有栖川宮熾仁親王を立て、西郷隆盛がその参謀として実権を握った。東山道先鋒総督府参謀には、土佐藩士板垣退助(旧姓乾)がなり、甲府で新選組を撃破して、新宿に到達した。西郷隆盛は戦争なしに静岡、品川と進み、この間、江戸開城、徳川家の処遇、旗本たちを静岡藩に移すことなど、戦後処理を決めた。これで揺り戻しの危険はなくなった。
フランスでは、10月5日のヴェルサイユ行進があった。その背景は非常に複雑、説明は要点だけになってしまうが、まずパリの新政権には全国的な権力の正当性を証明するものがなかった。その点、日本には古代天皇制というものがあった。フランスにはそういうものがない。パリの新政権が全国に号令をかけるためには、やはり国王ルイ16世の名が必要であった。
その国王はヴェルサイユ城にいて、大領主、大貴族に囲まれている。ブルジョアジーの代表者はそばによることもできない。国民議会ができたけれども、これは旧三部会の衣替えであって、第一身分、第二身分、第三身分の合同会議であった。この中から、貴族と高級聖職者(カトリック教会と修道院のトップ)の一部が亡命して、欠員になっていた。国民議会が相次いで改革法案を決議した。領主権(封建的権利)の廃止、人権宣言、教会、修道院の財産を国有化する(これを担保にして新紙幣を発行して債務返済に充てる)などであった。すべてブルジョアジーの側からの改革案であった。
国王は貴族と高級聖職者の意見を受け入れ、改革案を拒否した。これに危機感を感じたパリのブルジョアジーは、ヴェルサイユへ行こうと言い出した。その時、食糧危機が起きた。パン屋に小麦が入ってこなくなった。今のようにおかずは多くない。パンがないと、飢え死にになる。市民が騒ぎ始めた。ヴェルサイユへ行けば、パン、小麦はあるという意見が広がり、まず女性の大群、次に男たち、国民衛兵が行進した。
この結果、国王夫妻をパリに連れ帰り、国民議会もパリにうつり、国王の名で改革案を全国に公布した。ヴェルサイユに集中していた大領主たちは、居場所を失い、多くは郷里に帰り、一部がパリに移住した。国王の周りは、自由主義的貴族と、銀行家、大商人で固められた。
フランスでは、国王個人を貴族から切り離して、ブルジョアジーと自由主義貴族の連合体の代表者にして、これで新時代を乗り切ろうとしたのである。フランス革命は、出発点において、このような穏健な改革から出発したものである。

0 件のコメント:

コメントを投稿