2018年2月28日水曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 変革の初期、商人の役割は目に見えない

変革の時期には、英雄、武人、戦士が旧悪と戦うことになり、歴史はその物語で進行していく。せいぜいのところ、その英雄が「出入りの町人が」とか、「商人がいじめられている」などのセリフで、保護の対象にしている話が出てくるていどである。しかしやがて主客転倒が起きる。西郷隆盛のうしろで、ひかえめに協力した三井組は、のちに「財閥権勢に奢れども」という歌に出てくるようになった。
実利をとる人間は、表面に出られないのであろう。これは、西郷隆盛についてもいえる。今でこそ、討幕といえば彼の名が出る。しかし当時は、天皇の復権、その代理としての親王、その下の参与(上級公家、有名大名または旧大名)の名が全面に出て、討幕の志士たちの名は影に隠れている。江戸開城を実現した時もまだ参謀に過ぎない。表向きの功績は総督としての親王のものになる。
甲府で新選組を撃破した板垣退助も参謀に過ぎず、そのうえ名前すら乾から板垣に代えて京都を出発した。戦国時代の武田氏の家臣に板垣がいて、遠い祖先だということで、この地を通るときには都合がよいとの配慮であった。
しかし、官軍は軍資金不足で時々立ち止まった。そのたびに、京都に軍資金を要求し、三井が融資をして、出発した。これでは、留守政府は商人に頭が上がらなくなってしまう。こういうことを書く歴史家は、私しかいないので、事実ではあるが、なかなか受け入れられないのである。
京都では、少数の武士たちが残っているだけで、薩、長、土三藩の主力は関東に向かっている。今と違って、簡単に連絡はできない。商人と下級武士の同盟とは言っても、片方が不在のままだというべきだろう。その留守政府で一年後に会計官が交代することになった。由利公正から大隈重信へである。これは重大な意味を持っているが、この意義を取り上げる歴史家もいない。
一人は越前藩士、他は佐賀藩士、ともに薩摩長州ぁらは外れた人たちである。しかし、商人にかかわりがあることは前に述べた。特に由利公正は坂本竜馬の推薦を受けていた。ところが、由利公正が辞職して、大隈重信が昇格して実権を握った。ことの本質は何か。由利公正はまだ武士の気質を持って、商人を引き立ててやるから、言うことに従えという感じであった。大隈重信は、商人層の意見を代弁してやろうという感じであった。それが、政府紙幣の強制流通か、時価流通かを巡る問題であった。由利公正と意見を同じくする者に西郷隆盛がいて、強制流通、受け取り拒否に対しては処罰するべしという意見であった。いかにも、まだ武士としての気質を引きずっていることがわかる。
由利公正は辞職し、のちに東京府知事になる。京都の新政府は、商人の言うことに耳を傾けてやろうという「薩、長以外の武士、大隈重信」の指導権のもとに入った。これと連動するものが、大村益次郎であって、長州出身ではあるが、武士ではない。医者で蘭学を勉強してきた。その中で軍事技術も学んだ。書物と実践は違うといわれるが、この人に限っては、紙の上の知識が、見事に実戦の役に立った。受験英語で、英会話ができるとでもいうものであろう。第二次長州征伐の時、近代戦法を指導して最大の成果を収めた。
しかし武士ではないのだから、武士としての連帯感はない。政府から高級をもらうと、郷里に仕送りをして、この金で土地を買っておけなどと書いた。現代庶民の感覚である。これに反して、西郷隆盛は「子孫のために美田を買わず」という漢詩を書いた。「えらい」と思い、大村は「人物が小さい」と思う。
しかし、大村路線が勝つのであって、彰義隊討伐の時には、大村が全軍を指揮し、大隈が財政を握り、西郷は薩摩軍団だけの参謀として参加するのみになった。その後西郷は郷里に帰る。大村は東北の戦争を指揮する半面、新しく政府直属の近代的軍隊を組織しようとした。下級武士軍団の影響力を排除しようとしたのであった。

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