2018年2月23日金曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 日仏の革命は軍資金問題に尽きる

日仏両国の革命を引き起こした基本的要因は財政問題、それを成功に導いたのも、つまりは「金の問題」であります。日本の薩摩、長州は違うぞといってはいけません。この両藩は、絞るだけ絞られて、もらうものはなかったから、その恨みが募り募っていたのです。
財政問題の基本は、金庫の中にどれだけの金、銀が残っていたのかです。当時は、まだ紙幣が流通していたのではありません。ヨーロッパ下は、銀が主流であった。
さて、両国に共通したことは、この時点で、「国庫は空になった」という報告がフランスで行われ、日本では、勝海舟が「江戸城を任されて調べてみると、金がなかった」と書き残していることに尽きる。つまり軍資金がなかった。これなしに軍隊を動かすとどうなるか、、それは大坂における幕臣たちのおしかり(押し借り)で分かり、これは証文は残すが、強盗と同じこと、民心は一気に離反する。つまり大軍を持っていても動かせない。これで、旧体制側は負けたのである。
ではなぜ軍資金がなくなったのか。一つは、外国がらみ、フランスはアメリカ独立戦争の支援に使った。日本の幕府は、軍艦、大砲、小銃、弾薬を買い込んだ。ともに巨額の支出、しかし得るものがない。幕府の軍艦などは、大島沖で、高杉晋作の指揮する小型蒸気船、それに大砲を積んだもの、これに砲撃されて退却した。
もう一つは、これが革命を必要としたものではあるが、「金はない、しかし出すところには出して、節約しない」、この体質が滅びるまで続いたことである。つまりは、滅ぼさない限り続くというものであった。例えば、大奥の贅沢は江戸開城の寸前まで続いた。あきれるのは、将軍個人が大奥嫌いであったのに、大奥が続いたという点である。新選組に大砲まで持たせて、甲府に進軍させた。もし勝っていたら、どうする。上級旗本の高額な禄は保証されている。彼らが江戸城に詰めると、上等の食事が出される。こういうところをけずれば軍資金はでる。しかし、だれも身を切る提案はしない。
同じく、フランスでは、ヴェルサイユ城での大領主たちの豪奢な生活、これは切り詰めない。国民議会の給料は遅配が続いた。兵士に対する給料も遅れ始めた。パリでは兵営の中で「飢えていた」といわれ、、そこに銀行家が現れて給料を出すといったので、反乱がおきた。もし大領主たちを郷里に返し、彼らに献金させるなら、お金は出てくる。しかし彼らは、自分の特権を手放そうとはしない。革命後、「彼らは何一つ忘れず、何一つ覚えなかった」といわれた。つまり旧体制での特権を忘れない、それにしがみつくと、どんなにひどい目にあうかという教訓を覚えることはないというものである。
つまり、革命は軍資金の問題であり、それは徴税問題と財政支出の問題であった。そこに旧支配者、、土地所有の上に立つ集団、彼らの特権、これが行き詰まりを招いた。彼らが、身を切る改革をすれば生き延びることができたのだろうが、彼らは「何事も忘れない」のだ。そこに彼らを打倒する指導者が現れる。それが日本では、西郷隆盛であった。その先駆者といえば高杉晋作であり、藤田東湖、高山彦九郎につながるのである。

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