2018年2月24日土曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 武士階級の解体はフランスよりも急進的

フランス革命は徹底的、日本の明治維新の改革は不徹底、これは常識のように古くから言われてきた。私はそれに反対してきた。問題の焦点の一つが、武士階級の解体の評価を巡ってである。フランスの貴族階級が日本の武士に相当するとして、日本の武士階級は、秩禄公債をもらって、金利生活者になって、階級としては消滅した。ただし、約260の旧大名は、藩収入の10分の1をもらい、個人の金利生活者となり、昔の家臣、部下とは切り離された。この集団に貴族としての称号を与えた。ヨーロッパに倣って、公、侯、伯、子、男の爵位を与え、貴族院の中核にした。改革が不徹底、妥協的といわれる理由である。
しかし、目を家臣団に向けると、哀れなほど叩き落された集団がある。上級旗本、中級旗本、上は9000石取り、中級でも数百石取り、彼らは250石取りに引き下げられ、さらに3割3分の租税を課された。旧大名領で、一門、重臣、重役と呼ばれたものにも、1万石取り上級武士がいた。もちろんそれから段階的に下がっていくのであるが、彼らもまた、同じ水準に引き下げられた。旗本の中には、車引きになったり、娘が芸者になったりして、貧民の水準に転落したものもいる。勝った側の長州藩でも同じこと、萩の城下町は打ち捨てられ、住民は夏みかんを栽培して、活路を見出した。
さらに秩禄公債で、年金支給打ち切りとしたので、不満が一気に爆発した。これが士族の反乱の原因になる。しかし、全国的に下級武士という階級が、連帯意識を持って行動するという条件がなかった。それぞれの藩で、藩主の命令の下で行動するものとされていて、その藩主は人質同然で東京にいる。ではだれを指導者に立てるか、その時点で政府の要職にあったものとなるしかない。そこで、江藤新平、前原一誠などが押し立てられたが、横の連絡ができない。時期もバラバラ、これで各個撃破された。
最後に残ったのが薩摩の士族であった。これも下からの動きが上を突き上げたもので、西郷隆盛個人は反乱に至る若者の暴走を厳しく叱責したものの、もはやそれで平和的に収まるものではないことを知っていた。県令の大山綱吉は申し開きで解決しようとして、出頭するが、政府の側は、処刑してしまった。仕方がない、「おいどんの体をあげましょう」ということになって、西南戦争が起きた。
振り返って、フランスの貴族階級はどうなったか。実は革命のどの時期にも、貴族が指導者の一部に入っていたことは、前にも述べた。ナポレオンも貴族であり、貴族はフランスにとって重要だといっている。なぜ重要か。それは当時の戦争、国防にとって不可欠のものであったからである。ヨーロッパは大平原での戦争になる。そこでは、銃陣を作る歩兵、砲兵隊と並んで、騎兵集団の突撃が不可欠となり、騎兵が貴族の担うものになっていた。貴族は自分の城、館のそばに馬を乗り回すだけの土地を野たなければならない。ド・ゴール元大統領も、一日中乗り回しても自分の土地だといっている。モーパッサンの小説の中にも、貴族、貴婦人が馬に乗って、遠くの場所で密会しているという場面がある。
これは当たり前のことなのだが、日本の社会科学の中では、その反対、貴族は土地を失ったかのように思い込む風潮があった。
どのようにして、貴族は土地を維持したか、その因果関係は以前に説明している。この貴族の集団は第一次大戦まで、国防の花形であった。だから消滅させることはできない。日本の武士はどうか。基本的に歩兵であった。日本の国土ではそうなる。それにくわえて、変革に時期が、新式小銃の段階に来た。そうすると基本は歩兵と砲兵、これでは武士の大半はいらないことになる。指揮者だけでよいことになる。
つまり、日本では武士階級の解体が徹底され、フランスでは温存された。じゅうらいのたいひとはぎゃくなのである。
これをさらに進めると、どちらが妥協的かは、議論する必要もないのである。要点は、ブルジョアジーが権力の指導権を握ればよいので、農村部がどうなっているかは、些細な問題になるからである。農村部は千差万別でよい。ところが日本では、「土地制度史学会」などを作って、市民革命と土地制度の関係を論じてきた。随分、見当違いなことをしてきたものだといいたい。

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