2018年2月19日月曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 バスチーユ占領と比較すると

フランス革命と明治維新が同じだというと、鳥羽、伏見の戦いと、バスチーユ占領に同じ局面があることを証明しなければならない。
日本では、京都に小さな新政権が誕生し、その財政担当者に由利公正が就任した。遅れて大隈重信が参加した。大商人の側の協力者は、三井、小野、住友、鴻池などであった。しかし、大軍を撃破した直後のこと、軍事指導者の頂点には西郷隆盛が立っていた。
フランス革命では、バスチーユ占領の直後、パリで国民衛兵が組織され、ラファイエット侯爵が司令官になった。これは反乱を起こしたパリ市の軍隊、日本では民衆の軍隊のように思われているが、それは誤解で、砲兵隊とパリ守備隊(フランス衛兵)は下士官に率いられていたので、下級貴族の指揮下にあった。民衆と称される部分は、その地区の銀行家、大商人の指導下にあった。ルクツーという銀行家、大商人は兵営に出向いて、給料を保証するといって、軍隊を寝返らせた。ボスカリという大商人は,一族全体で居住地区の民衆を武装させて指揮を執った。つまりは、下級貴族とブルジョアジーの同盟であった。それをラファイエットが象徴していた。ラファイエット侯爵の副官には、ぺルゴその他の銀行家が名を連ねている。
ブルジョアジーと旧支配者層の一部(自由主義、リベラル、革新派)が協力する、そこに共通点がある。
相違点もある。日本の場合、新政権の権力はごく小さな地域だけに通用するのみであった。京都を中心に約十万石。全国収入の約300分の1、これに関西から西の天領、大和、生野、琴平、日田など。そこには代官を派遣したが、この代官は、幕府のためにではなく、また自分の出身藩のためにでもなく、新政権のために働いた。つまりは、新しくできた商人の政府のために働いてくことになる。
この地域以外は、まだ旧体制のままであった。関東もそうであった。江戸幕府は存在している。大奥は敗戦に関係なく、今まで通りの豪奢な生活を続けている。毎日登城する旗本も同じことであった。これでは革命とは言えない。第二の関ヶ原になるかもしれない。
フランス革命では、パリを革命派がとった。しかしそれだけのこと、地方に出ると、旧体制のままであった。パリ郊外のヴェルサイユ城には、大軍が集められている。しかし、軍資金がなかった。陸軍大臣ブロイ公爵は軍隊に守られて地方に移動する提案をしたが、ずばり「金がない」ので、「泣いて」とどまることにした。そうすると、大領主の最強部分、それの保守強硬派、これが危機感を感じた。
というのは、この騒乱を引き起こした責任が彼らにあったからである。1789年7月11日彼ら強硬派が政権をとり、それ以前の政権を覆し、特に財政を指揮する財務総監ネッケルとその支持者を罷免したところに問題があった。目指したところは、公債の利払い停止、公債の調査をする(事実上難癖をつけて無効にする)、新しい強制公債、または増税、これに対して、ネッケルは抵抗したので、罷免された。だから、パリの群衆は「ネッケル」と叫び、ネッケルに理解を示した王族オルレアン公爵ルイ・フィリップの胸像を掲げて行進したのであった。7月14日バスチーユ占領で革命派が勝つと、ネッケルは復職した。つまりこの騒乱は、4日前まであった政権を、元に戻してやったものということができる。
だから見た目には、大した政変ではないかのように見える。だが、勝った側は、報復に出た。保守強硬派の大領主の首に懸賞金をかけた。陸軍大臣ブロイ公爵、パりを攻撃したランベスク大公(ロレーヌ公爵)、ブルツイユ男爵(財政担当者)、コンデ大公、ポリニヤック公爵夫妻など、商人、銀行家を抑圧しようとするものと、財政赤字を作り出した責任者とみなされるものが標的にされた。彼らは、オーストリアに向かって逃げ出した。ここが日本とは違うところ、日本人には逃げるところがなかったが、フランス大貴族は、外国の貴族によって、手厚くもてなされたのであった。
このように違うところもあるけれども、土地所有の上に立つものが、財政困難に直面して、商人、銀行家に負担をかぶせる、つまり、借りたものを返さない、新しく金を取り上げる、こういう政策をとったとき、革命が起きて、商人、銀行家が権力をとる、この点で共通点がある。

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