2018年3月9日金曜日

小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論 1年後に市民革命の政権ができる

1789年7月14日は間違いなくフランス革命の記念日である。これに間違いがあるわけではない。間違い、思い違いは、そこですぐに民衆の要素を持つ政権ができたであろうと期待し、誤解し、それを固定観念に仕立て上げ、後世に伝えた歴史家の理論の中に含まれていた。これは間違いであり、民衆の部分はまだない。これをはっきりと表現したのは、私が初めてである。
まず、最初の1年間、王権の側の大臣と国民議会の改革派との間の、ぐずぐずしたせめぎあいが続けられていた。ここに、民衆の影はどこにもない。食糧難の騒乱が起きても、今度は国民衛兵が抑えて回った。
1年後のネッケル派大臣の辞職によって、初めてフランス革命を目指す行政権が成立した。これで、行政、立法の権力が革命勢力のものとなる。司法はまだ独立していない。旧体制の高等法院判事、検事、弁護士は、官職売買の制度によって国王から任命されたものであり、上層部は貴族であった。これはいよいよ解体されることになり、補償付きで罷免されることになった。
貴族議員の亡命が続き、国民議会は第三身分代表が多数派になった。こうして、革命後1年でフランス革命と呼べる体制になったのである。
こうして、フランス革命の革命政権が安定するが、これはいったい何者であるか、それについての正しい認識が、大多数の歴史家の頭の中にないのである。何か、民衆的なものではないかと思い込んでいる。そうではない。そこを今から説明しよう。

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