2018年3月14日水曜日

小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論) フイヤン派対ジャコバン派の立法議会

1791年9月30日憲法制定議会(国民議会)は解散し、立法議会が10月1日に召集された。当時は政党政治ではないから、派閥の勢力関係ははっきりしない。概算、フイヤン派が267、左派(ジャコバン派)が136とフイヤン派が、多数のように見えるが、中央に無党派層が345存在した。ほとんど初対面、一人一党主義であるから、この票を獲得しなければ、投票で多数をとれない。
後世の歴史家はこの点を軽視してきた。そのうち、その存在すら忘れ、次の世代は、無いものとして説明した。だから説明が不自然になる。
はじめのうちは、フイヤンクラブの議員が華々しく活躍して、無党派層の票を獲得した。野党のジャコバンクラブの議員は、現在「ジャコバン派」の名で想像される人たちとは違う。この点も世界的に誤解されている。では何か。ズバリ言うと、ジロンド派の議員であった。つまり、この時点では、ジロンド派がジャコバン派の多数派であった。そして、ジロンド派がブルジョアジーの代表であることは世界的に認知されており、そこに間違いがあるわけではない。後世ジャコバン派といわれる人は、カルノー、ランデ、クートンなどごく少数であった。
だから立法議会での対立の構図は、自由主義的大貴族と前期的特権商人の同盟に対して、本来の実業家としてのブルジョアジーが対立しているものになった。

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