2018年3月12日月曜日

小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論 初期はフイヤン派の支配

国民議会は憲法制定議会と改称し、憲法を制定し、自ら解散した。新議会は一院制の立法議会とし、旧議員は立候補しないことにした。行政権は国王にあると定めた。三権分立の原則を実行したことになる。
それより以前、院外団体としては、ラファイエット派が与党の立場にたち、大臣の多数派を占めた。しかし、すぐに反対派の活動により、政争が始まった。ジャコバン派の反対である。ジャコバン修道院を会場にしたので、この名がついたが、別に過激なものではなかった。入会金12リーブル、ラファイエット派より一桁少ないが、それでもこの入会金を出せるのは中間層以上になる。
ジャコバンクラブのトップはオルレアン公爵ルイ・フィリップ(この時点では息子のほうであったから、シャルトル公爵と呼ばれ、のちに1830年7月の革命でフランス国王になった人物)、その下に、ミラボー伯爵、ラメット伯爵兄弟、コンドルセ侯爵などの自由主義的大貴族がいる。
これだけならばラファイエット派と同じであるが、その他の会員の性格に違いがあって、それを一口で言うと、「ブルジョアジーの性格」であった。つまり、市場で利益を上げる、これが本来のブルジョアジーであるが、もう一つは、国家権力に取り入って儲けるという方向がある。革命前までの国家権力は大土地支配者の支配であったから、このブルジョアジーは、前期的、寄生的、特権的、などと呼ばれた。特にフランスでは、彼らが大領地を手に入れ、本当の貴族のように暮らしていた。この、「貴族的ブルジョアジーではないよ」というブルジョアたち、これが多数を占めるようになった。
ただし、商人、銀行家本人が議員として出てくることは少ない。大多数は、弁護士であった。この集団の中で、特にボルドー出身の政治家たちが華々しく活動したので、その県の名前をとって、ジロンド派(ジロンダン)という言葉が定着した。ボルドーの大商人を代表する弁護士たちであった。
パリ出身では、クラヴィエールという銀行家がのちに財務大臣になる。
これらの勢力に押されて、初期はラメット派がラファイエット派に対立した。対立の要点は、旧支配者に対する温情的な対策はやめろというものであった。具体的に書くと読者が退屈してしまうであろうと思うから、これは結論だけにしておく。
1791年6月、国王一家の逃亡事件があった。失敗して連れ戻されたが、この事件で、ジャコバンクラブは国王ルイ16世の退位、オルレアン公爵の摂政を要求した。ラメット派の貴族たちはジャコバンクラブを離れ、ラファイエット派に合流した。こうして、7月、新しいクラブとして、フイヤンクラブが成立した。自由主義貴族の指導権は強いものになった。
ここにもうひっつのクラブがあった。コルドリヱ・クラブという。入会金数千円程度、極貧でなければ誰でも入れる。ただし、指導者は中間層の教養ある人物であった。ロベール、マラ、エベールなどであり、ロベールが王制廃止、共和制樹立の請願を発表した。
フイヤンクラブが結成された翌日、1791年7月17日、バスチーユ占領の約二年後、シャン・ド・マルス広場でコルドリヱ・クラブの主催する集会が開かれた。そこへ国民衛兵が来て、発砲した。数百名の死傷者という。その後、共和主義者に対する追及が激しくなり、ジャコバンクラブにも捜査の手が伸びて、ダントンはオルレアン公爵の摂政を言っただけであるが逃亡せざるをえなくなった。
これでしばらくはフイヤンクラブの支配が安定し、これは自由主義的大貴族の指導権が確立したことを意味する。これに協力するものは、いわゆる「前期的商業資本」に分類される最上層のブルジョアジーであった。
シャン・ド・マルスの虐殺といわれるが、これはそれ以前の小競り合いとは違って、本格的な殺人であったからで、目的が国王を守ろうというものであったところに、フランス革命の保守的な性格がみられる。フイヤン派は国王が誘拐されたと主張して、国王一家を守った。

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