2018年12月12日水曜日

西郷隆盛ではなく三井組が明治維新の勝者になった。小林良彰の歴史観

明治維新の激動の中で、最終的に勝ったものを一つ挙げよといわれると、三井組ということになる。前回に紹介したような、団琢磨の役割から納得できると思う。
西郷隆盛は、薩摩何氏の集団を率い、薩長同盟を代表して長州藩士、奇兵隊の集団を味方につけて、幕府軍を撃破した。しかし軍資金が足らない。これを藩の財政資金から賄うことができれば、薩摩、長州両藩で、旧幕領を戦利品として、分捕ることができる。そうすれば、薩、長両藩の指導者が大領主になる。これなら、封建権力の再編成になる。しかし、軍資金が足らなかったので、これをまずは、三井組にお願いした。
最初、西郷隆盛は、小松帯刀ともに三井の主人三井八郎右衛門を訪ね、そこで合議に達したらしい。証明するものはないが、その姿は執事の記録にあった。二人が「平伏するような態度であった」と書かれているという。戦争がはじまると、薩摩の指導者が、三井組の「穴倉に金を受け取りに行ったもんじゃ」といったことが書き残されている。
彼は大山巌、のちの陸軍大将、元帥、各大臣を歴任、この時代では、西郷隆盛に「弥助」と呼ばれて可愛がられた。会津攻撃の指揮官にもなった。
三井組の金力と、薩摩の武力で討幕が実現した。その後どちらが勝つかということになる。実はこれに似たことが、すでに260年前に起きている。豊臣秀吉が天下を取った。秀吉の武力と、千利休に代表される商人層の資金力の合同で天下統一を実現した。これは誰でも知っている。その後、利休の切腹で、商人層の力は抑え込まれる。徳川家康が天下を取った。茶屋四郎次郎、後藤徳乗などの商人層が家康を資金面で支えた。茶屋は家康の寝所に出入り自由であった。しかし、幕府権力が安定すると、商人層は江戸城から締め出される。こういうことは、フランス絶対主義が確立するときにも起きている。
したがって、中央権力から商人層が締め出されると、絶対主義への逆戻りとなり、その逆だと市民革命になる。明治政府では、士族を擁護するものたちが排除され、千利休の生まれ変わりとして、三井組が政府の後ろ盾になった。
東京遷都の後、しばらくは大隈重信が三井組代弁者のようになった。明治4年、廃藩置県のころになると、財政官僚井上薫(長州出身)が三井の「番頭さん」と呼ばれるようになった。井上は伊藤博文とともに、幕末にロンドン留学を経験している。近代的経営を助言した。三井組では、率先して、学力のある少年を採用し、のちには大卒、洋行帰りを採用した。すべて、時代の先取りであった。
井上は下野すると、三井組の中に会社を作り、これが三井物産に発展した。社長には元幕臣の益田孝になり大発展と遂げた。三井組変じて三井合名として、ホールでイング・カンパニーになると理事長になった。益田が引き立てた団琢磨が後を継いだ。三井の主人は経営に口を出さない。益田,団で日本最大の財閥を統制した。「財閥権勢に奢れども」といわれた。
テレビでは、西郷対大久保の対決のように言うけれども、大久保の後ろ盾が実業家集団で、その最大のものが三井組であるから、この対決は西郷対三井組だというのが正しい。だから大久保が暗殺されても、政府は微動だにもしないのである。つまり実業家集団が権力を安定させたのである。
こういう単純なことはわかるはずだ。私は数十年前から書いている。しかし、いつまでたっても、日本では、西郷対大久保の対立で歴史を説明する人ばかり、聞く人々もそればかり、疑問すら感じない。何とかならないかといいた。

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