2019年2月2日土曜日

大隈重信追放は、三菱商会の岩崎弥太郎締め出しを意味した。

明治14年政変、(1881年)、いわゆる薩長藩閥政府出現、こういう言葉遣いが定着しているので、明治維新をなにか古めかしいものと思わせる効果が、まかり通っている。こういうことが、誤解の種をまき散らす。例えば、この時の長州藩出身の代表的政治家は、陸軍(山形有朋)、内務(伊藤博文)、外務(井上薫)であった。
これ以後確かに、長州系はこの3人に代表されていく。しかし、山形は足軽出身、伊藤は仲間出身(農民身分、、はじめ、武士の仲間には加えてもらえなかった)、井上は正規の武士ではあったが、兄がいる。つまり家を継ぐ立場にはない。だから、武士団を代表する資格はもともとないのである。ということは、この3人、長州藩士を代表するものではなく、悪く言えば「はずれもの」であった。では何を代表して力があったのか、それは財界を代表したからであった。特に、三井組であり、その中の三井物産の益田孝であった。
薩摩出身の政治家も同じような立場であって、薩摩藩を代表するような立場にはなかった。この時期彼らは、五代友厚(新興企業家)、川崎正蔵(川崎造船)と結びすいていた。
これに対して、大隈重信(参議筆頭、大蔵卿)(今でいうならば、財務大臣で、、首相の扱い)は、三菱の岩崎弥太郎と密着していた。「隈印は三印なり」井上が言い残している。
この大隈と岩崎がなぜ政界、財界で孤立し、具合が悪くなったのか、それは三菱商会の海上輸送独占の弊害が出てきたからである。内容というと、料金体系とか、保険の加入とか、営業面での話題になる。これを言い出すと、経営史の内容になり、文章が膨大になるので、省略します。とにかく、三菱の横暴、これが他の実業家の活動の妨げになった。当時の記録では、それに対する批判、改革案、が多く出ている。
他方で、三菱、大隈の側からも、不満が出ていた。北海道開拓使払い下げ事件であった。国費をつぎ込んだ北海道の開拓の事業を、五代友厚中心の合同企業に払い下げようとするものであった。
こうして、財界の二大陣営が激突した。互いに相手を非難しあった末、一種のクーデターで、大隈重信を権力から追放した。これが、明治14年の政変であった。この時、明治天皇も反対であった。それを、井上薫大声を出して押し切った。「雷公」と言われた理由であった。
大隈追放の後、同じ佐賀藩出身の佐野常民が後を継いだ。一年後、薩摩出身の松方正義が財政改革の推進を期待されて、大蔵卿に就任した。彼は、それまで、北九州の旧日田天領の代官、知事に就任して、財政改革に成功し、その手腕を認められた。
松方が改革を始めると、大久保、大隈のインフレーション政策から、松方デフレといわれる物価下落、増税、国有財産の売却が進められた。反対運動も高まり、それが自由民権運動の激化につながったが、政府の側の支持は強かった。
この時期、政府を支持する財界人は、政府との合弁で、「共同運輸会社」を設立して、三菱との競争を始めた。三井、住友、五代、渋沢(第一銀行)、大倉、安田などであった。これは、海上輸送の分野での、生死をかけて死闘であった。その中で、岩崎弥太郎は死んだ。「日本男児」が言い残した言葉であったという。彼の死後、妥協が話し合われ、海上輸送は合併して「日本郵船」となった。財界の分裂、死闘はひとまず収束した。そのころ、自由民権運動も、穏健路線に転換していった。つまり、どこまで行っても、財界支配は揺るがなかったのである。

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