2021年12月12日日曜日

05-フランス革命史入門 第一章の三 諸階級の複雑な対立

三 諸階級の複雑な利害対立


高級僧侶と下級僧侶

僧侶は約一二万人で、第一身分として表向きは貴族の上位に置かれていた。しかし、身分と階級はちがい、また生活水凖もちがっていた。第一身分だからといって、下級僧侶が高級貴族の上に立つものではなかった。僧侶が貴族の上位にあるといえる場合は、あくまで高級僧侶の場合だけであった。

高級僧侶には、枢機卿、大司教、司教、修道院長、女子修道院長、小修道院長があった。その下に、中級の僧侶として副司教、上級司祭、修道士、修道女があり、その下に司祭があった。下級僧侶としては、小寺院の司祭とその下の助任司祭があり、彼らの生活水準は貧民と同じ程度のものであった。そして、このような貧しい僧侶がピラミッド型に下にいくほど数が多かったのである。

貧しい者の実例としては、三人の修道女のいる修道院が、年収六〇〇リーブルにしかならない場合があげられる。そのために、満足なベッドや食事用の皿すらもないといわれているが、このような貧しい寺院も多かった。助任司祭の年収は三五〇リーブルであった。

ただし、司祭になると、その中でさまざまな開きがあって、年収二〇〇〇リーブルから三〇〇〇リーブルという例もかなり多い。それ以下年収五〇〇リーブルまで、さまざまな階層があり、一〇〇〇リーブルから二〇〇〇リーブルの間がもっとも数が多い。これをみると、中流の司祭は、かなり安定した生活をしていたようにみえる。

それにしても、高級僧侶のとる年収はけたちがいに大きなものであった。ストラスブールのロアン枢機卿の年収は一〇〇万リーブル、クリニーのベネディクト修道院長は一八〇万リーブルの年収をもっていて、最高級のものであった。大司教の年収をざっとみてみると、五〇万リーブルから五万リーブルの間に分布している。司教の年収は、九万リーブルとか一万リーブルとか、だいたい一万単位の年収である。各地の中小修道院も、その程度の規模である。高級僧侶の場合でも、大修道院長、枢機卿、大司教から、中・小修道院長、司教、副司教へとピラミッド型に分布していた。

高級僧侶の職は宮廷貴族の二、三男、娘、未亡人のために用意された官職であった。宮廷貴族の家に生まれても、長男に主な財産が相続されてしまうので、その他の者はなんらかの救済手段がないと転落してしまう。それを防ぐために、高級僧侶の官職が用意されていた。高級僧侶は、僧侶になっても戒律を守る必要がなかった。また、寺院にこもって修業する必要もなかった。

ヴェルサイユ宮殿にきたり、寺院とは別に宮殿を作って、そこで遊興ざんまいの生活を送ったり、寺院の中に異性を引きいれたりすることができた。女子修道院の場合でも、男性を招きいれることができた。

レミールモン女子修道院長にはクリスチーヌ公爵夫人がなり、そのつぎにコンデ太公の娘がなった。このような修道院では、修道女も貴族であり、平民出身の修道女は貴族修道女に仕えることになった。貴族修道女は、修道院の中でそれそれ邸宅や庭園をもち、そこに男性の友人を招いて食事をすることができた。

ナルボンヌ大司教ディヨンは、自分の任地に年間一五日しかやってこない。あとは別な地方の自分の領地に住んだり、ヴェルサイユ宮殿に出入りしたりしていた。それでいながら、この地方の州会の議長であった。彼は、南フランスに大司教としての領地をもちながら、北フランスには自分自身の大領地をもち、年間一五日だけ南フランスに来て、そこの州の最高権力を行使していたのである。

サンス大司教はブリエンヌ伯爵で、ブリエンヌに領地をもつ大領主であった。彼も、自分の領地をもちながら、高級僧侶としての領地をもっている。しかもヴェルサイユ宮殿で勢力をもち、フランス革命の直前(一七八八年)実質的な宰相の地位につき、財政改革、司法改革をすすめた。高級僧侶でありながら、自分の相続するべき領地ももっていたという、もっとも幸運で、もっとも豊かな高級僧侶の実例である。一時ツールーズ大司教でもあった。

タレイラン公爵といえば、フランス革命の初期に国民議会で活躍し、のちにナポレオンの外務大臣となり、王政が復活しても外務大臣となってウィーン会議で活躍し、フランスの分割を阻止したことで有名になった政治家である。彼はオータンの司教であった。彼の一族に最高級の僧侶がいる。彼の伯父タレイラン・ペリゴール公爵である。レムの大司教でありながら、王の御用司祭として、王の即位の儀式をおこなう最高級の僧侶であった。

伯父は四つの修道院、寺院をもち、ドイツにも城をもち、パリとヴェルサイユに邸宅をもち、レムで大領地をもっていた。レムの領地は、一つの市と七つの城を含む巨大なものであった。このような特権的地位をもっていたから、もっとも保守的な僧侶であり、国民議会では右派の指導者であり、すべての改革に正面から反対してドイツの城に亡命した。ところが、甥のタレイラン司教は改革派となり、僧侶財産の国有化を提案した。

プルツイユ男爵は、絶対王制がくずれさる直前の実質的な宰相(財政審議会議長)になった。無気力な者の多い宮廷貴族の中で、決断力に富み、精力的な活動を続けたので、宮廷貴族の救世主のように思われ、バスチーユ襲撃の直前に権力の座に押しあげられた。彼が宮廷で頭角をあらわしたのは、伯父のモントーバン司教のひきたてによるものであった。モントーバン司教は、修道院長も兼ねて、モントーバン市の領主権を王と共有するほどの地位にあった。この司教にひきたてられて、甥が駐オーストリア大使となり、王妃の取りまきになった。司教が甥を、当時としては最強の地位につけたのである。

僧侶が名実ともに第一身分であるといえるのは、高級僧侶についてのみいえることである。このばあいだけは、最高級の宮廷貴族と同格であるか、ときにそれを越えることがある。いずれにしても、高級僧侶もまた宮廷貴族の一族であったのだから、身分としては分れていても、階級としては同じものである。それだけに、高級僧侶から多くの宰相あるいは財政の指導者をだした。

古くはフランス絶対主義の創設者リシュリュー宰相があり、ルイ一四世の前半にはマザラン枢機卿が宰相となった。ルイ一五世の時代には、テレー修道院長が財政改革をおこなった。ルイ一六世の時代になると、ブリエンヌ大司教が登場してくる。

高級僧侶の巨大な収入は、領地収入と十分の一税によるものであった。領地は司教領とか修道院領として、僧職に附属したものである。領地所有の比重はかなり高く、アモン地区を集計したときでも、人口の一八パーセント、面積の一七パーセントとほぼ五分の一の領地になっている。これは、地方貴族の領地と同じ程度の比重を占めるものであるから、僧侶もまた立派な領主であるということができる。ただし、領主としての僧侶はあくまで高級僧侶だけであり、中・下級の僧侶は領地所有者ではなかった。中・下級僧侶はほとんど土地所有者にすぎなかった。領地と土地の相違については後で解説することになる。

つぎに十分の一税があった。これは収入の十分の一を教会、修道院に納めるという一種の租税であったが、これを修道院長や司教が付近の住民から徴収した。その場合、僧侶の領地の住民からだけではなく、その外の、世俗の貴族の領地に住む住民からも徴収した。高級僧侶は、こうして二重の収入を手にいれた。十分の一税による収入は、約半分が高級僧侶の手に入り、残りが高級僧侶の部下にわけあたえられた。この配分方法は、さまざまな段階に区切られていた。ただし、十分の一税を、領主としての貴族が手に入れる場合もあった。この場合「領地化された十分の一税」という。

僧侶の中にはさまざまな階層があって、世俗の世界と同じような対立がつづけられていた。下級僧侶は平民と同じ立場にあったため、下級僧侶の俸給の引上げを要求した。また、司教、大司教の俸給の引下げとか、高級僧侶への累進課税を提案した。こうした動きが、三部会と国民議会に反映されて、下級僧侶の中から多くの革命家が登場してくる。高級僧侶のほとんどは保守派に属し、積極的な反革命運動をおこした。ごく一部の高級僧侶だけが、自由主義貴族とともに改革派に属した。

ただし、僧侶は、いずれにしてもなんらかの特権をもっていたのである。革命が進んで、ついに僧侶の俸給を廃止したときに、彼らの生存はおびやかされ、社会的役割を失い、全体として反革命の側に立った。ごく少数の僧侶だけが、恐怖政治の時代にも革命の側に立って活躍した。中級僧侶のフーシェは山岳派のテロリストになり、反革命派を虐殺し「フーシェの大砲刑」で有名になった。総裁政府と統領政府の警察大臣になって、権力をふるった。

シエース副司教は平原派として恐怖政治のときは中立派であったが、総裁政府の総裁となった。

ジャック・ルーは司祭であったが、恐怖政治の頃は過激派の指導者となった。


都市のサンキュロット

フランス革命当時、全人口は約二三〇〇万人、パリの人口が約六〇万人でずばぬけて多く、あとはリヨン、マルセーユ、ナント、ボルドーと一〇万単位の都市があり、その下にル・アーブルとかレムといった一万単位の都市が続いた。都市といっても小さなものであり、まだ当時のフランスは農業国であった。

パリの人口約六〇万人のうち、貴族五〇〇〇人、僧侶一万人、プルジョア一〇万五〇〇〇人となり、この三つを合せた一二万人を差引くと、五〇万人弱がサンキュロットの階層を作っていた。

ただしサンキュロットの言葉はあいまいな内容を含んでいる。もともとキュロット(半ズボン)をはく者は貴族階級であり、それを持たないという意味でサンキュロットといわれたのであるから、貴族以外の者はサンキュロットであるともいえる。そうすると、ブルジョアジーに属する者もサンキュロットといえるので、事実、裕福な工場主がサンキュロットと自称して、革命運動に加わっていた例も多かった。しかし、革命がはげしくなるとともに、サンキュロットという意味は、直接労働をしている者のことをいいはじめたので、ブルジョアを除いた都市労働人口をいうようになった。これが、パリでは約五分の四になったと考えられる。

このうち、約三〇万人が職人と労働者であった。彼らは、社会の最下層部を構成していて、日給一リーブル前後で働いていた。パリには大工場が少なくて、中・小工場が多かったので、そこに働いていたのである。

労働者の上に、小企業主、手工業の親方がいた。これら親方の数も非常に多く、二、三人から四、五人の職人、労働者を雇って店を経営しているというのが標準的なものであった。大工の親方、石工の親方から、金銀細工、時計、宝石、帽子、靴下、手袋、陶磁器、印刷などの店主が多く、こうした小企業主がサン・タントワーヌ街、サン・ドニ街、サン・マルセル街に集まり、パリの下町を形成していた。

ただし、小工場主や商店主がすべて貧乏であったかどうかというと、これにもいろいろな差があった。親方の中で豊かな者は、ブルジョアジーの下に接続した。大工の親方で九万リーブルの年収、五万リーブルの年収という例もすくなくない。そこで、これら親方と職人、労働者との間にもまた対立があった。

とくに、当時の労働者は雇主から東縛され、職場を変えるときでも、旧雇主の解雇証明書をみせなければ新しい職場につくことができなかった。また、組合を作って賃上げを交渉することは禁止されていた。しかも、労働条件はきわめて悪く、平均一六時間労働で、製本屋や印刷屋の一四時間労働は特権と考えられていた。こうした労働者や職人の状態と、親方の年収を比較するならば、同じサンキュロットといっても、そこにまた使う者と使われる者、豊かな者と貧しい者とのちがいがあった。親方や商店主、小工場主の階層を小ブルジョアジーに分類するならば、本来のサンキュロットは、それ以下の直接労働人口ということができる。

ル・アーブルの人口一万四〇〇〇人のうち、貴族から小ブルジョアまでを差引いて、それ以下の者を都市貧民としてみるならば、七五〇〇人となる。そこで、都市人口の約半分が、直接労働する都市の職人と労働者であったと推定できる。この階層が、革命の騒乱の中で、群集の武力を担うことになった。

ただ、彼ら自身の独立した組織や指導方針がありえたかというと、一日一六時間働いている者が、そうしたことをするための時問を持ち、それに必要な知識を持つことは不可能である。そこで、彼らは外部から働きかけてくるなんらかの勢力の宣伝、煽動のままにゆれ動いた。恐怖政治の時代に、ロベスピエールを一貫して支持した階層はサンキュロットだといわれるが、労働者や職人よりはむしろ、小・ブルジョアの親方層であり、それだけにロベスピエール派は労働運動の抑圧に熱心であった。こうした事実も、サンキュロットという言葉の中に、親方層と職人、労働者という利害の対立する階層が含まれていることを示している。サンキュロットという言葉を不用意に使うと、誤解を招くので、本書では使わないことにした。

直接労働する者の中には、職人、工場労働者、日雇労働者があった。まだ大工場は少く、職人の割合が多かった。彼らは一リーブル前後の日給で働いていた。恵まれた者は二リーブル、条件の悪い者は一リーブル以下であった。これでどの程度のものが買えるかというと、一リーブルで上質の肉一ポンド(四五三グラム)を買うことができた。当時の貧民はパンだけを食べて、これを三ポンド(約一五〇〇グラム、約二斤)だけ食べるといわれている。もっと条件の悪い囚人については、一日一ポンド半のパンと、わずかの肉と野菜がそえられていた。

仮に囚人なみとみて、妻子合せて四人の生活を想像すると、一日六ポンドのパンが必要である。ところがフランス革命の年には、パンの値段が一ポンド三ルーから四スーにはねあがった。六ポンドのパンならば、一八スーから二四スーである。二〇スーが一リーブルであるから、囚人なみのパンを買うだけで日給を越えることになる。

これでは、大多数の職人や労働者が生きていけない。

彼らの生活は、死なないためのぎりぎりの水準であり、わずかの物価上昇でも、飢え死にの恐怖にさらされる。

バスチーユ襲撃からヴェルサイユ行進の時期にかけて、パンの値段がはねあがり、これを引き金にしてパリの下層民が騒乱に積極的に参加した。


土地所有と領地所有のちがい

フランス革命は農民革命であるとか、土地革命をともなったとかいわれている。そのばあい、農民とは具体的にどういうものをいうのか、あるいは、土地革命とはどのような変化をいうのか、これが大問題である。ほとんどの場合、実態をよく知らないままに、勝手にモデルを空想し、起りもしなかったことを起ったかのようにいっている。

また、土地と領地の関係もあいまいなままに書かれている。正確な形で書かれたものは、一つもないといってよい。たとえばソブールの『フランス革命』では、「僧族は王国の土地の約一〇パーセントを保有し」(上巻、六頁)となっている。そして、「土地所有に基礎をおくその経済的勢力は大きかった」と書いている。

わずか一〇パーセントの土地所有で、その経済的勢力が大きかったというのは奇妙なことである。これにくらべて、農民は土地の三〇~四〇パーセントをもっていたと書き、貴族と・フルジョアが、それぞれ二〇パーセントを持っていたと書いている(『同前』上巻、二四頁)。

このような紹介の仕方が、誤解の種をまくのである。ここでいう土地所有と、領地の所有とはまったく別のものである。貴族や高級僧侶が経済的に強力な基礎をもっていたのは、領地所有のうえに立っていたからである。領地のほとんどは、貴族と高級僧侶の所有するものであった。それだからこそ、貴族と高級僧侶が絶対主義の支配者であった。

領地をもっている農民などは一人もいない。平民で領地をもつ者は、せいぜいのところブルジョアの上層にかぎられている。領地所有がこのような状態であるのに、僧侶の土地一〇パーセントとか、農民の土地四〇パーセントとかいうのは、どういうことかと考えるべきである。そのために、図をみながら説明をしていこう。

全国の土地が大小さまざまの領地にわかれていて、その領地を領主がもっている。この領地内部の土地に二つの区別があって、直営地(直領地)と保有地にわかれる。直営地は多くの場合、領主の城や館をとりまく形で分布している。この直営地が、僧侶の土地とか貴族の土地とかよばれるものである。

そして、直営地以外の土地は、保有地として農民、その他の人間に貸し与えるという形をとっている。これを一般的に所有地とよび、農民の所有地が四〇パーセントというのはこれである。多くの本では、農民保有地という言葉も使うが、農民だけが保有しているのではなかった。商人、工業家、銀行家もまた土地を保有し、ときには僧侶、貴族までが他人の領地の一部を保有していた。これを農民保有地といって、農民だけにまとめてしまうこともまた誤解の種になる。保有というのは、その上に領主権があり、完全な意味での所有権ではなかったためである。

土地の保有者(所有者)は、領主から土地を貸し与えられているのであり、当然賃借料を払わなければならない。それが領主権収入とよばれるものであり、その中心は貢租である。また、土地を売買するときには領主の許


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可が必要とされ、許可料を不動産売買税として領主に支払わなければならなかった。その意味で、土地保有者は完全な意味での土地所有者ではなく、下級土地所有権だけをもっていたのであり、これに対して、領主は上級土地所有権をもっていた。

さきに、貴族や僧侶が他の領主の土地を保有するといった。これは奇妙な感じを与えるかもしれないから、もうすこし説明をしよう。

Aという貴族が、Bという貴族領主の領地にある土地(保有地)を手に入れたとする。そうすると、AはBに対して貢租や不動産売買税を支払う。BはAの領主である。そのかぎり、主従関係が成立するのであるが、お互いに貴族であるから、農民ほどの束縛はない。それにしても、形式的にはAがBの借地人であることはまちがいない。このような関係もまた、広く存在していたのである。

領主としての貴族がある反面、土地保有者だけの貴族もあり、領主としての貴族が、別な土地では保有者としての貴族になったこともありうる。フランス革命で封建貢租の廃止がでてくるが、保有者としての貴族にとっては、この政策はありがたかったのである。封建貢租の廃止は、かならずしも農民だけに有利であったというわけではない。

貴族の所有地が約二〇パーセントというときは、領主の直営地と貴族の保有地を合計したものを意味するから、その性格はかなり複雑なものになってくる。僧侶の土地も同じである。とくに下級僧侶は領地をもたず、どこかの領地の保有地をもっていた場合が多い。


地主、自作農、貧農

そのつぎに、ブルジョアの所有地があった。土地を保有するものかならずしも農民だけではなく、ブルジョアが相当量の土地を保有していた。これが約二〇パーセント前後の比重になった。のこりの半分弱が、農民の保有地であり、これを農民の所有地ともいうのである。

ところが、この農民の所有地は、大小さまざまに分布していた。というのは、農民とは貴族、僧侶、ブルジョア以外の農村在住者をいうのであるから、上は大地主から、下は日雇農にいたるまでのあらゆる階層にわかれてしたからである。

大農民(富農)の中には、たとえば四〇ヘクタールとか五〇ヘクタール、ときには一五〇ヘクタールの土地をもつ者がいた。当時、フランスの標準的な自作農、つまり自分の保有する土地でいちおうの生活が成りたつ規模の農民が五ヘクタールの所有者とされている。そうすると、大農民の中には、それの八倍とか三〇倍の規模の者がいることになる。このような大農民は、自分の土地を自分で耕すのではなくて、一部は直接耕作するかもしれないが、そのほかの土地は、日雇農民を使って経営したり、または小作農に賃貸して小作料をとったりしていた。ゆえに、これは農民地主であった。

こうした農民地主を筆頭として、ピラミッド型に、中農、貧農と下へいくほど数が多くなる。五ヘクタールから一〇ヘクタールの中農層が自作農であり、五ヘクタール以下の貧農は自分の土地だけでは生きていけない。彼らは他人の土地で働いて賃金をもらったり、あるいは小作契約で収入をあげた。

一ヘクタール未満の土地を所有する極貧農の数は非常に多く、所によると、農民の約半数がそのような階層であった。しかも、彼ら極貧農のもっている土地を合計しても、一〇パーセントから二〇パーセントの問にとどまる。彼らは、領主権の廃止で自分の土地を完全な所有地にすることはできたが、いずれにしても、その土地だけでは生活ができなかった。こうした農民の数が、最大多数を占めていたことを思えば、フランス革命で農民革命がおこなわれたと簡単にいいきることはできない。

領主権の廃止が保有地を完全な所有地に昇格させて農民革命の名にふさわしい結果を作りだしたのは、五ヘクタールから一〇ヘクタールの自作農についてのみあてはまる。しかし、この規模の農民の数も所有地面積も少ない。ところによって比率はちがうが、だいたい一〇パーセント以下の人数である。この土地だけに農民革命といえるものが実現したのである。農民革命の成果を誇張することは正しくないといえよう。


領主権廃止は農民革命にならない

身分としての農民に、地主(富農)から中農(自作農)、貧農(自小作)、極貧農(小自作、小作農、日雇農)の階層分化があった。貧しい農民は、大土地所有者の土地を小作したり、賃金をもらって働いたりしていた。賃金をもらって働くばあいは、その土地は地主の直接経営であった。小作のときは、定額小作と折半小作があり、前者をフェルマージュ、後者をメチャージュといった。折半小作農をメチエといい、地主と収護物を折半した。

定額小作農をフェルミエと呼んだ。ただし、このフェルミエという言葉は、いろいろな意味に使われている。小農民からはじまって、大農民のフェルミエもいる。大フェルミエは、領主の直営地を一括して定額で借入れ、これを貧農にまた貸して経営した。領主権の徴収を定額で請負う者もいた。こうしたフェルミエは、同時に村の大地主であることが多く、いわば大小作農であるから、フェルミエという言葉が村の金持を意味するようになった。同じ借地農ではあっても、貧農の借地農と大農民の借地農との二通りに分れた。小フェルミエは貧農であるが、大借地農は村の支配者であった。

さて、貧農は他人の土地を耕した。貧農に土地を耕させる者は大、小の地主である。その地主に、五つの区別があった。まず農民地主であり、これはたとえていえば幕末日本の地主(庄屋・豪農層)に相当する。

つぎに、ブルジョアが農村に土地をもって地主となっている。これをブルジョア的土地所有(市民的土地所有)ということができる。日本では、ブルジョア的土地所有が領地所有と混同される場合が多い。とくに大塚史学では積極的にこれを混同し、それで理論体系を構築している。しかし、ブルジョアの土地所有はまだ領主権の下にあり、領地についていえば、ブルジョアの持つ比重は少かった。両者を混同するべきではない。

第三に、領主ではない貴族の大土地所有者である。つまり保有地をもつ貴族である。第四に、領主ではない僧侶(教会、修道院)が保有地をもつときである。この四つの場合は、その地主の上に領主がいて、領主権を地主から取っている。地主といえども、まだ被支配者である。領主-地主-貧農の三重の関係が作られている。これを日本にたとえていえば、大名-庄屋-小作農の関係と似ている。

これとは別に、領主の直営地を貧農が耕すときがある。この場合は、領主が同時に地主である。その土地を貧農が直接耕すときもある。または大きく分割して大借地農が借りうけ、その大借地農が日雇農を雇って経営するか、あるいは貧農にまた貸する。いずれにしても、土地の所有権という意味では、領主だけに単純化されている。

領主と土地保有者の分化がない。このような領主には、貴族、僧侶が圧倒的に多く、平民(ブルジョア)比重は小さい。また、直営地が領地の中に占める比重はばらばらであって、領地のほとんどが直営地であるばあいもあり、直営地がほとんどない領地もあった。

領主権の廃止がおこなわれたときのことを考えてみると、第一から第四の場合については、地主(貴族、ブルジョア、富農)の保有地が完全な所有地に昇格する。そこで、これらの地主が利益をうける。そのかぎり、かれらもまた革命から恩恵を得ることになる。銀行家、大商人の党派であったジロンド派が、領主権の無償廃止を積極的に推進したのは、こういう背景があったからである。ただ、これを農民革命ということはできず、もしいうならば地主革命としかいえない。こういう性格があったことも、念頭におくべきである。

直営地についてみるならば、領主権の廃止は領主に打撃をあたえない。領主権を廃止しようがしまいが、直営地は彼の土地である。もし領地のすべてが直営地であるときには、所有地にはまったく変化がない。ただし、直営地のない領主は打撃をうける。

領主権の無償廃止によって傷つく度合は、領主によってまちまちである。そのちがいも、フランス革命にたいする対応の仕方の相違をもたらした。そのため、革命に最後まで協力する貴族も出てきたのである。恐怖政治のときの派遣委員バラ(子爵)とか、軍事委員デュボワ・ド・クランセなど、名門の貴族が革命家として活躍するのも、それなりの理由のあったことである。


王権と領主権の比重

国王は租税を徴収し、領主は領主権を徴収した。これを負担する側からみるならば、農民(富農から中・貧農)やブルジョア地主は領主に領主権を支払いながら、国王には租税を支払った。彼らは、二重どりをされていた。

中世のはじめ、全国土が領主の独立王国に分割されていたとき、王権は領地に入りこめず、領主権だけが農民の負担するものであった。絶対主義の確立と平行して、国王の租税徴収権が領地の中に侵入し、領主の取り分を横取りしたと考えてよい

国王の租税としては、人頭税(基本税としてのタイユ、付加税としての力ピタシオン)、二十分の一税が直接税として課税された。間接税としては、国内関税(取引税)、補助税(酒その他消費物資に課税された消費税)、塩税などがあった。また、労役の形で徴収される租税として、王の賦役、民警の義務、軍隊の宿営の義務があった。賦役は、公共事業関係に農民をかりだしたものである。民警の負担も重く、軍隊の宿営も、その地を軍隊が通過すると莫大な出費になった。

領主権は別名封建的権利と呼ばれるが、中心は貢租であった。つぎに不動産売買税があった。そのほか、領内の橋、河川を通過するときに通行税をとった。領内の市場には市場税がかけられ、水車やパン焼きかまどは領主が独占し、強制使用権と称して使用料を徴収した。領主の賦役もあったが、これは金納か物納にかわっていた。

狩猟権があり、領主は自由に領地で狩猟ができた。逆に、その他の者は、領地で狩猟をするとき許可料を払わなければならず、密猟者にたいしては罰則が定められていた。狩猟に参加した者が、農民の畑を荒すことはたびたびあった。狩猟のために放置されている野獣が人間をおそったり、畑を荒しても、領民が捕えることはできなかった。

河や沼で魚をとることも領主の権利であり、領民は許可を得てからでないと取れなかった。鳩小屋の権利もさかんに行使された。領主だけが鳩を飼うことができた。この鳩が農民の畑を荒しても、鳩を殺すことは許されず、違反者は体刑を含む刑罰に処せられた。最初にまいた種が、ほとんど鳩に食べられてしまうという訴えもだされているほどである。

共有地の三分の一を囲いこんで、領主が完全な私有地にする権利もあった。これをトリアージュと呼んだ。また領主特権放牧権が東部地方にあり、領主の家畜が独自に動きまわって農民に被害を与えた。

国王の租税と領主権のどちらが重かったかについては、はっきりした解答がだされない。地域によってもちがい、領主によってもちがうからである。いろいろと調べてみると、ある所では領主権が重く、他の所では、国王の租税が重い。高級貴族の領地では比較的領主権が重く、租税が軽い。それは、高級貴族が知事や総督との個人的な関係を利用して、租税の軽減をはかったからである。

そうしたカのない田舎貴族の領地には、王権が強く侵入したので、租税が重くなる傾向があった。ただし、これも画一的なものではない。

いずれにしても、当時の土地所有者(保有者)は領主権と王権の二重の支配をうけていた。これを二重というべきかどうかはむずかしい。なぜなら、王権を組織した者が大領主(宮廷貴族)であったからだ。王権もまた領主の集合体であるとするならば、二重の支配はつきつめたところ一つの支配ともいうことができる。

こうして絶対主義のフランスでは、領主としての貴族が王権を組織しながら、他方でそれぞれの領地の領主が領民を支配するという形をとっていた。階級としての領主が国家を支配するという意味で、絶対主義のフランスは封建制度の段階にあったといってよい。たとえ領地の中に王権が浸透し、領主権がいくぶん衰えたとしてもである。

たとえ領主権が相対的に衰えたとしても、王権を組織する者がまた領主としての宮廷貴族であったからだ。領主権の衰亡、死滅を強調する人もいる。そこからフランス絶対主義はもはや封建制度の段階ではないという人もいるが、これは正しくない。

たとえば農奴制(マンモルト)というのがあり、これがフランスのほとんどの地域で消えていながら、いくつかの地域、たとえばフランシュ・コンテ州で残っていた。農奴制がほとんど消滅していたから、つまりは領主権、封建制が消減したのであるという学者もいる。この農奴制とは、中世以来の死亡税または相続税に相当するものである。農奴身分の人間が死ぬと、その財産が領主によって没収される。相続人が相続したければ、しかるべき相続税を支払わなければならない。

この制度がほとんど消減したとはいえ、いくつのか州で残っていた。これをどう評価するかであるが、農奴身分から解放されても、その他の領主権には服さなければならない。つまり、農奴制の消滅が領主制の消滅につながるわけではないので、農奴制の消滅をもって封建制の消滅ということはできない。これは、あくまで封建制の中での一つの改革にすぎない。領主権は、いぜんとして大きな比重をもっていた。それは、農民をはじめ土地を保有する者にとってかなりの負担であった。

これを逆にいうと、領主権は領主にとって大きな財源として残っていたことになる。コンデ太公の年収のうち、約半分が領地からの収入であり、他の半分が国王からの収入、すなわち租税収入からわけ与えられたものである。

宮廷でもっとも優遇されている最高級の貴族ですら、収入の半分は領地から手に入れている。それ以下の者では、ますます領地からの収入の比重が高い。それからみるならば、領主権は死滅するどころか、いぜんとして大きな役割をもっていたということができる。

要約 第一章の三 高級僧侶と下級僧侶

市民革命の時に、あらゆる階層が複雑に動いたという意味では、フランス革命は、他国に比べて断然突出している。そこで、その複雑な利害対立をまとめておこうとしている。まず僧侶、これは現在教会聖職者という呼び名に代わっている。この方が妥当だと思われる。日本には神官もあるので。フランスではカトリック一色になっていて、その他はゼロとみなして論じるのが普通である。第一身分、聖職者の上層は、大領主、大貴族出身者である。その豪奢で優雅な生活が紹介されている。下級聖職者は平民出身で、高級聖職者に仕えるえる立場にあり、その関係は世俗と同じことであった。

都市住民

パリが例外的に大きく、60万人、他は大きくて10万人、貴族、聖職者、ブルジョアを除くと、パリでは50万人がサンキュロットを言われる、「働いている」階級であった。ただし、サンキュロットというのは、キュロットといわれる半ズボンをはかないという意味であるから、生活水準の区別とは一致しに時もあるという。

農村住民

すべての土地に領主がいる。領主の大部分は貴族、高級聖職者のものであった。領地は直領地(直営地)と保有地に分かれる。前者は城、館に続く広大な土地で、貴族が馬に乗って走り出ることができる。(この点は日本人には想像できない)。この向こうに、領民に貸し与えている土地がある。保有地であるが、普通は所有地といわれている。農民だけではなく、都市住民、ブルジョアも所有者になっていた。(この点は日本とは違う)。領主とは別な貴族が、土地を保有(所有)していた。農民にも、大、中、小の土地保有があり、大農民は実質地主であり、小農民は貧農であった。この階層区分は、フランス革命が終わっても変わらなかった。

領主権廃止は農民革命にならない

以上のような状態であるから、フランス革命で領主権の無償廃止が行われたとしても、それは農民革命、土地革命と呼ばれるほどの変化を起こしたものではないという。

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