2021年12月3日金曜日

03-フランス革命史入門 第一章の一 支配階級としての貴族

第一章フランスの絶対主義


一 支配階級としての貴族


絶対主羲君主の役割

フランス革命は、旧体制(アンシャン・レジーム)を倒して近代社会への道を切りひらいた一大転換期である。倒されたアンシャン・レジームは絶対主義と呼ばれていた。この言葉は、中世の封建制度にくらべると、国王の権力が強まり、国王の権威が絶対的な水準にまで高まったことを意味していた。国王の絶対的権威は、王権神授説によって理論化され「朕は国家なり」の言葉がなによりもよくその本質を示していた。

フランス絶対主義はルイ一三世の時代リシュリュー宰相(枢機卿、公爵)によって確立された。そのあと、ルイ一四世、一五世と続き、ルイ一六世の時代にフランス革命に出合い、ここで絶対主義は崩壊した。フランス絶対主義の王権は、どの程度に国王個人の権力を意味していたかを考えてみる必要がある。

ややもすると絶対主義という言葉のもつひびきにとらわれすぎて、絶対主義といえば、国王個人の命令が絶対的に守られたというぐらいに理解されている。しかし、実は、皮肉なことに絶対主義の国王個人、必ずしも絶対的な権力をもっていたわけではなかった。

たとえば、ルイ一三世をたててフランスの絶対主義を確立したリシュリュー宰相は、ほとんどの政務を国王にかわっておこなっていたのであり、ルイ一三世は、リシュリューに権力の行使をまかせきりにしていたのである。つぎのルイ一四世の前半期は、国王が幼少であったために、マザラン宰相(枢機卿、公爵)が実質的に政権をうごかしていた。ルイ一四世の後半期には親政の時代となり、国王個人の指導権が発揮されるが、前半期には、国王個人に指導権がなかった。ルイ一五世の時代には摂政の時代と呼ばれる時期があり、ここでは、国王にかわってオルレアン公フィリップが摂政として権力を行使した。

このようにみると、いついかなるときにおいても、国王その人が、常に絶対的権力を行使したわけではなかったといえる。国王が権力を行使できない場合も多く、その場合には、リシュリュー公爵とかマザラン公爵、オルレアン公爵といった人物が、国王の名において、実質的な権力をふるったのである。そこで、絶対主義といっても、必ずしも国王個人の絶対ではなくして、じつは、国王をたてて絶対的な権力を行使したある一群の人々の絶対主義、あるいは彼らの中央集権的政治と考えるべきである。

このような考え方を明確にしておくと、フランス革命の責任をルイ一六世個人の無能のせいにしたり、王妃マリー・アントワネットの浪費、軽薄さのせいにして説明をすますことができなくなる。たしかに、ルイ一六世は無能で、無気力な肥大漢であり、政治に関心がうすく、狩猟と錠前いじりが趣味であった。マリー・アントワネットとの間にも正常な夫婦関係がつづいていたのかどうかすら、疑われていた。それだけに、王妃の浮気と浪費も極端となり、これが国王の権威を落し、財政赤字を増加させた原因になった。しかし、こうした個人的な要素が決定的なものであったわけではない。かりに、国王と王妃が賢明な人物であったとしても、革命は始まったはずである。君主の個人的資質に関係なく、革命へと進めていく原因があったのである。以後の説明はそうした立場からなされている。


権力を組織した宮廷貴族(大領主)

国王は最大の領主であり、全国の領地の約五分の一を持っていた。つまり、五分の一の領地が王領地であった。これは国王が最大の領主であったということであるが、決して全国の領地を独占していたわけではなかった。この事情が意外に日本では誤解されていて、絶対主義の時代といえば、国王が、全国を領地として所有していたかのように受けとっている人も多い。

とくに日本史研究家が、フランス絶対主義のもとで、国王が「唯一最高の領主」であったというように理解し、この公式を天皇制に適用して、天皇制は絶対主義であるという主張の根拠にしてきた。

実際は国王があくまで領主の一人であり、最大の領主であったということにとどまる。つぎに確認しなければならないことは、リシュリュー、マザランといった実質的な権力者が、いずれも大領主であったということである。リシュリューはボルドー近くの大領地をもつ領主であり、マザランはアルザスの大領主であった。オルレアン公爵はフランスの各地に大領地をもち、それを合わせると、国王につぐ大領地の所有者になっていた。

これらの実例に象徴されるように、王権を動かしていた者は、このような大領主の一団であった。このような大領主の一団を、当時宮廷貴族と呼んでいた。その数は約四〇〇〇家であり、ヴェルサイユに邸宅をもち、ヴェルサイユ宮殿に出入して、国王を取りまいていた。

宮廷貴族になるためには、少くとも一四〇〇年代にまでさかのぼって、貴族の家系であることが証明されなければならなかった。宮廷貴族にも上から下まであり、下の者は、国王付きの小姓、近衛兵、近衛軽騎兵などの職が与えられた。上の者は、さまざまな高級官職を確保していた。この高級官職には、大きくわけて二つの性格をもつものがあった。

まず第一は、正規の国家権力を動かすものであり、これは現代の権力機構にかなり似ていた。まず王のまわりにいる大臣である。つぎに軍の高級将校、将軍、元帥の地位である。ただし、当時の軍の将官の地位は、現代にくらべてはるかに高い地位にあった。地方政治については総督、王の代理官(奉行)、州の司令官、州の知事というような多くの役職があった。

この中で、租税徴収のような実務は、知事がおこなうことになっていた。州の総督は、はじめの頃は実務的な地位であったが、しだいに実務からはなれ、かなり名誉職のような状態にかわっていった。王の代理官もそうである。州の司令官は、現代流にいうと地方駐屯軍の司令官であるが、現代にくらべて、はるかに強い権力をもっていた。

これらの官職をみるときに、現代とくらべて、単純な対比をすることはできない。当時は、現代ほど行政機構が整理されていたわけではない。むしろ雑然としていた。

そのうえ今ほど中央集権が進められていたわけではなかった。絶対主義という言葉からは、たいへんな中央集権が成立していたかのように受けとられるのであるが、それは、封建的な分裂状態から見れば、絶対的なほどに中央集権が進んだのであって、現代の中央集権からみるならば、まだまだ、はるかに地方分権の要素が強かったのである。そのため、地方権力としての総督、王の代理官、地方軍司令官、知事の権限が強かったのである。その地方権力を中央に結びつける方法として、総督が同時に大臣となり、元帥となるというような形で、一人の宮廷貴族が、地方権力と中央権力の両方を握る場合が多かった。たとえば、宮廷貴族の筆頭コンデ太公は、ブルゴーニュ州総督でもあり、陸軍大臣にもなった。エギョン公は、ブルターニュ州の司令官と、王の代理官を兼任しながら、外務大臣にもなった。


宮廷貴族と高級官職

総督と知事の、どちらが実権をにぎっていたかという議論がなされるときもある。総督には名門の宮廷貴族がなり、知事には地方のブルジョア出身の貴族、つまりは成り上った貴族がなったので、このどちらが強かったかということが、宮廷貴族とブルジョア出身の貴族との勢力関係を評価するうえで重要になってくる。

総督と知事、これを比較するならば、総督の権力が強かった。総督に贈り物をして、租税の減免を認めてもらうことができた。租税徴収の実務は知事がおこなうわけであるが、その知事に対して、上から命令できたのである。知事が、総督や軍司令官になった宮廷貴族のために働いているといわれたところもあった。

また、知事になるためには、有力宮廷貴族に保護され推せんされなければならなかった。そこで、宮廷貴族自身は実務を担当しなかったとしても、知事は、総督や軍司令官になった宮廷貴族の顔色をうかがいながら仕事をしなければならなかったのである。

宮廷貴族の上層は、高級官職に、家柄のカで若い頃から任命された。たとえば、一一歳とか、一二歳の宮廷貴族が、総督に任命されることはめずらしくなかった。こうしたことは、現代では考えられないことである。当時が、家柄と門閥の時代であったことを示すものである。この意味をよく理解しておかなければ、フランス革命の意義を正確に認識できない。


国家財政の実権

宮廷貴族の地位は家柄で決まる。ほとんどの場合、長子相続制であるから、長男に生れた者だけがこの特権をひきつぐことになる。そこで、宮廷貴族必ずしも能力のある者とは限らなかった。むしろ、無能な者が多かったというべきであろう。もちろん、無能といい、有能といっても、その社会、階級によって評価がちがう。当時の宮廷貴族に要求される能力は、宮廷の作法、剣の操法、宮廷ダンスの技術、貴婦人の扱い方などであり、これを基礎にして、宮廷での地位を高めることが評価の基準となった。学問とか、経済運営の能力は次元の低いものとみられていた。

宮廷貴族の大多数は、大蔵大臣の仕事にむかない者が多く、そのため、この地位に宮廷貴族以外の者が就任して腕をふるった場合が多かった。表面的に大蔵大臣の顔ぶれをみても、宮廷貴族一色でぬりつぶされているわけではない。しかし、そのような顔ぶれを根拠にして、宮廷貴族は権力から排除されていたというのもまた正しくない。それぞれの有力宮廷貴族が、能力のある者を引き立ててパトロンになり、大蔵大臣に送りこんでやり、そのかわり自分の要望通りの政治をおこなわせたのである。有名な財務総監(大蔵大臣)とパトロンの宮廷貴族の実例をあげてみよう。

カロンヌ(財務総監)はポリニャック公爵夫人とリュイヌ公爵に引き立てられていた。ポリニャック公爵夫人は王妃マリーアントワネットのお気に入りで、皇太子の養育係であった。

ネッケル(財務総監)のパトロンは、カストリ侯爵(元帥・海軍大臣を兼任)とブロ夫人であった。そしてブロ夫人は、オルレアン公爵の息子シャルトル公爵の夫人につかえていた女官であった。その意味で、ネッケルはオルレアン公爵につながりをもっていたということができる。

財政はとくに専門的な知識を必要とする分野であるから、あまり勉強をしない宮廷貴族にはもっともむかない職務である。それでいながら、もっとも重要なポストであるから、ここにはとくに、宮廷貴族以外の実務家が就任したが、その実務家をそれぞれの宮廷貴族が送りこんできたのである。

同じようにして、財務総監フルーリ(一七八一年から八三年)は、ブリオンヌ伯爵夫人に引き立てられていた。彼女はランベスク太公の夫人であった。

旧体制最後の財務総監でバスチーユ襲撃のとき虐殺されたフーロンは、スービス公爵に保護されていた。


高級官職の収入

宮廷貴族は高級官職を独占していた。何のためにと問われるならば、権力のために権力をにぎったというのは正しくなく、収入のために権力をにぎったと答えるべきであろう。得にもならないのに、権力の座にすわって心をわずらわすものはいない。

ところで、当時の官職収入は、現代社会とはけた違いに大きかった。コンデ太公は、ブルゴーニュ州総督の官職のために、年間二万六〇〇〇リーブルの俸給を手に入れていた。そのうえ、総督職につく臨時的収入が一一万六〇〇〇リーブルになった。もう一つ、総督は、ブルゴーニュ州の王室狩猟区を自由にする権利があり、これを経営して三七万リーブルを手に入れた。

正規の俸給よりも臨時収入、今日でいう役得、受託収賄、職権濫用の類からあがる収入のほうが多かったのも、当時の特色である。これを汚職として追及する制度は、まだなかった。そでの下、役得は当然の権利とされていて、この点では日本の江戸時代と同じであった。

さて、コンデ太公の総督職は合計五一万二〇〇〇リーブルの年収になった。これが、いったいどれくらいの価値をもつのか考えてみたい。当時、標準的な職人、労働者の日給が一リーブルを前後していた。そうすると、年間三六〇リーブル弱となる。そこで、現在の日本の平均的労働者の収入を三六〇万円と一応仮定すると一リーブル一万円となる。時代も、お国柄も、物価体系もちがうのであるから、正確な比較はできない。しかし、何らかの目安をつけるとすれば、このように換算のしやすい単位にそろえるほかはない。

そうすると、コンデ太公の総督職の収入は、五一億円を越えるものになる。ここに、高級官職を独占する意味があった。以後、一万リーブルの年収といえば、一億円を頭に置いてもらうと理解されやすい。

モンバレー太公は大臣としての俸給を四万四〇〇〇リーブル受取り、そのうえ大臣としての年金二万リーブルをもらっていた。

大臣に就任するときには就任費を受取る権利があり、これがまちまちであった。ルイ一五世の時代、モーブー宰相は六万リーブルをとり、ルイ一六世の海軍大臣サン・ジェルマン伯爵は三四万四〇〇〇リーブルをとった。

軍の高級将校の収入も高い。ブチイエ侯爵は三一歳で連隊長になったが、その俸給は四万リーブルであった。

ビロン公爵は元帥となり、パリ周辺の軍隊を統括していた。彼は軍隊の中に大邸宅をつくり、高級将校を集めて大宴会を開いていたが、毎月二万リーブルの収入と臨時手当四万リーブルを手に入れていた。

こうして、高級官職の収入は、数億円から数十億円に相当するものになった。ところが、一人の宮廷貴族が一つの高級官職だけに甘んじていたとは限らないのである。むしろ、二つ、三つと兼任するのが常識であった。一人の宮廷貴族が総督となり、かつ軍の将官となり、王の代理官となり、同時に大臣となるといった調子である。

たとえばブローイ公爵(ブログリオ公)は元帥、メッツ軍団の司令官、メッツ、ヴェルダン、ツールの総督を兼ね、旧体制最後の陸軍大臣になって、パリ周辺に軍隊を集結し、市民の軍事的弾圧を計画した。当時のタカ派軍人が、二重、三重の特権的官職に囲まれた宮廷貴族であったことが理解できるだろう。


国家財政に占める官職収入の比重

ここで、当時の国家財政と官職収入との関係をふり返っておきたい。フランス革命の八年前、時の財政報告書をネッケルが公表した。それによると財政収入二億六四一五万リーブル、財政支出二億五三九五万リーブルとなっている。一リーブル一万円で換算すると、現在日本の国家予算より一けた小さい。これは、経済の規模、官僚機構の規模がまったく違っていたことを反映している。また、地方で領主の徴収する封建権利収入(領主権収入)が根強く残っていた。これが一種の地方財政のような形で続いていた。そこに王権が侵入して、中央政府の徴税権を強化していったのである。それだけに、まだ中央政府の財政が全面的な勝利を占めるほどにはいたらなかったのであり、そこにも、絶対主義必ずしも絶対的なものではなかったことを反映する事情があった。

ただ、このような国家財政の規模から見るならば、高級官職の俸給や臨時手当の比重は、ますます重大なものになってくる。コンデ太公の総督職収入の五一万リーブルは、フランス王国の財政支出の五百分の一となる。

一人の高級貴族の一つの官職収入がこれである。一人が二つ、三つを兼任し、そうした高級貴族が数十人いて、それから以下、ピラミッド型に四〇〇〇家の宮廷貴族が大小の官職収入を手に入れていたのである。国家財政の大半は、彼らのふところに入ったとみてさしつかえない。


宮廷の官職

当時の官職収入の中には、現在の社会では理解しがたい性格のものがあった。それは国王一族の宮廷の官職にともなう収入であった。王の宮廷とは、たとえていえば宮内省、宮内庁のようなものであるが、そのもつ比重は断然ちがっていた。なによりもまず、宮廷の費用が全国家予算の約一三パーセントを占めていたという事実である。ということは、国家予算の一三パーセントが、国王一族の個人的な支出のために使われていたのであった。

今、王個人に代表されるような言い方をしたが、厳密にいうと個人のものではない。王だけではなくて、王妃、王の妹(エリザベート夫人)、王の叔母、王の娘(内親王)、王の二人の弟。プロヴァンス伯とアルトワ伯、ならびにそれぞれの夫人についても、それぞれの宮廷が作られていたのである。

これの原語を直訳するならば、「王の家」と呼ぶべきである。しかし、それでは印象がうすいので、宮殿、あるいは邸宅と呼ぶべきかもしれない。いろいろ呼び方はあるだろうが、この宮廷の費用は、王とか王弟の個人的支出という名目ではあるが、実質的には、宮廷貴族を養うためのものになっていた。

たとえば、宮廷貴族がヴェルサイユ宮殿で王を囲んで宴会を開き、食事をする。この費用は王家(王の宮廷)の支出でまかなわれる。これを運営するのが大膳職であり、大膳職長官からはじまって、三〇〇以上の官職があり、給仕が約一〇〇人いて、年間の支出は約二〇〇万リーブルになった。王家の食費だけで、国家予算の約百分の一になるのであるが、これを平たくいえば、宮廷貴族が、国王に宴会費をたかっているといえよう。

それを証明するのは、たとえばルイ一六世の酒の費用である。ルイ一六世自身は酒をほとんど飲まなかったが、のだが、一七八五年には、六五六七リーブルの予算であった。それが、一七八九年、つまり大革命の年には、六万〇八九九リーブルとなり、四年間で十倍にはねあがった。国王をだしにして、宮廷貴族が酒を飲んだためである。また、これを管理する官職をもっていたヴォドルイユ侯爵が手数料を取っていたために、「王の飲み代」がはねあがったのである。

同じように、エリザベート夫人の食事に約四〇万リーブル、内親王達の食事に約一〇〇万リーブルを必要とした。そして、それぞれの宮廷の宴会に、パン係とか肉切係とか酌とり係とかの係がもうけられた。実際に働くのは小姓であるが、その上にそれぞれの長官がいて、長官には高級の宮廷貴族がなっていた。食事を扱う大膳職とは別に、王のまわりを取りまいている小姓、家庭教師、衛兵がいて、それを統制するものとして侍従長がいた。侍従長はブイヨン公爵、主席侍従官は四人いて、その一人にリシュリュー公爵がいた。

王や国王一族の財産を管理する役目に納戸職があり、その長官はラ・ロシュフーコー・リャンクール公爵であった。そのもとに鷹狩隊長とか、猟犬隊長とか、厩舎を管理する主馬頭とか、狩猟を運営する狩猟長とか、儀式を運営する式部長官があった。

主馬頭にはランベスク太公、狩猟長にはバンチェーヴル公爵と、それぞれ最高の宮廷貴族がなっていた。宮廷を護衛する近衛兵の隊長にはビロン公爵、スービス公爵、エギヨン公爵などの宮廷貴族が任命されていた。

こうした宮廷貴族の頂点に、王家(王の宮廷)の長官(フランスの大長官)の職があり、宮廷の官職の任免権をもっていた。この官職は、コンデ太公の世襲であった。宮廷の高級官職はほとんど世襲であり、中・下級の官職だけに異動があった。


無用官職に高い俸給と副収入

これらの官職の必要性を現代の財政的な見地からいうならば、まったくの無用官職であった。小姓は、家柄の低い宮廷貴族とか高級貴族の年少の子弟がなった。その役割としては王の髪をとく係とか、マントを持つ係、ステッキを持つ係、犬を監督する係、ネクタイを結ぶ係、便器を運ぶ係、風呂場でふく係など、やたらといろいろな係を作ってそれに俸給を与えていたのである。

こうした官職を、一つでも多く、少しでも有利なものを取ることが宮廷における貴族の生存競争であった。そこで、ある貴族は、自分の息子を宮廷に送りだすときに「常に王の目につく場所に立ち、職が空いたときすかさず願いでること」という教訓を与えたといわれている。

官職を手に入れると、俸給以外に副収入の道があった。宮廷で葬式がおこなわれると、王や王妃、その他王弟、内親王に仕えている小姓や女官は、王家の費用で新しい喪服を買い与えられる。その後、その服を転売して金にかえた。

王の部屋に仕える小姓の官職だけに、八万リーブルが必要であった。小姓になると、身のまわりのもの一切が王家の費用から支出された。そして、王の第一小姓になったコワニー公爵は四万リーブルの俸給をもらった。王妃の女官は一万二〇〇〇リーブルの俸給を受けた。

そのうえ、王妃の部屋やそれに附属する部屋のろうそくを毎日集めて売りはらい、その売上代金を自分のものにした。ろうそくがともされない日は、毎日八〇リーブルを補償金(ろうそくの権利)としてもらい、これが一人あたり五万リーブルの収入になった。このように、正規の俸給も大きいけれども、これに附属した権利からあがる収入が莫大なものになった。しかも、その権利とは、近代の合理的な社会からみると、想像できないほどおかしなものであった。

王が狩猟にでかけたとする。ルイ一六世は狩猟好きで、一日の狩猟で四〇〇頭から五〇〇頭の動物をとった。この狩猟に小姓がお供をする。獲物はお供をした者に分配される。残ったものは第一小姓が取った。そのため、獲物の分け前が莫大なものになった。しかも、この動物は、国費でヴェルサイユの森に放し飼いにされていたものである。

王が狩猟をおこなうと、シャンパーニュ産ぶどう酒一二ビンが分配された。ルイ一六世は錠前いじりと狩猟が好きであったとよくいわれるが、その狩猟好きも、一人ででかけていって何匹かの獲物をとってきたと考えるならば、当時の実態からはずれるわけである。王が狩猟をするということは、王を取りまいている貴族達が獲物の分け前にあずかり、その機会に酒をもらい、宴会にあやかるということであった。こうした費用も、王家の費用として支出された。


年金制度と赤帳簿の濫用

国家予算の約十分の一を占める年金支払が、二八〇〇万リープルとなっている。この年金は、退職した兵士や将校にも支払われるが、同時に、大臣や元帥をつとめた宮廷貴族にたいしても支払われている。しかも、その額に大きな開きがあった。

たとえば、コンデ太公の年金は一五万リーブルであった。ところが、近衛騎兵を四八歳までっとめて退役した一人の下級貴族は、四八〇リーブルの年金をもらっている。このように、年金は上から下までに支払われたが、やはり、宮廷貴族がその大部分を手に入れていた。

つぎに、正規の国家財政の中に含まれない形で、宮廷貴族に対する恩恵が与えられていた。フランス革命のときに、もっとも有名になった二人の貴婦人がいる。ポリニャック公爵夫人とランバル公爵夫人である。ポリニャック公爵夫人は、皇太子の養育係という官職をもち、王妃マリー・アントワネットの寵臣であった。そこで、ポリニャック公爵夫人の願い事は、王妃を通じてかなえられた。

もともとポリニャック家は伯爵の家柄であったが、公爵に昇格させてもらうときに、公爵にふさわしい領地を手に入れなければならなかった。そこで王妃が、一二〇万から一四〇万リーブルと評価される領地を買い与えてやり、これでポリニャック家は公爵家となった。一人の女性のために、一二〇万リーブル以上の国家資金が支出されたのである。この資金は、正規の国家予算の中からでたのではなくて、王が個人的に使用できる別会計の中からだされた。

この別会計は「赤帳簿」と呼ばれていて、秘密のものであった。その正確な内容はほとんど知らされていないけれども、のちに国民議会が赤帳簿を分析した結果、大革命から一五年さかのぼった期間に、二億二七九八万リーブルの支出があったと推定された。その中には、王弟への支出とか恩賜金とか年金とか、王や王妃の個人的支出という項目があり、巨額の支出になっていた。

ランバル公爵夫人は王妃付き女官長であった。そこで、彼女の父カリニャン太公は、王から三万リーブルの年金と歩兵一個連隊を与えられた。これが大臣にも相談なしにおこなわれたのであるから、王妃の寵臣になることは、大臣の上をいくことになる。

ポリニャック公爵夫人は、娘の持参金に八〇万リーブルを王からもらい、借金をしたからといってその支払に四〇万リーブルをもらった。この二人の貴婦人はもっとも目立った実例であるが、このようなことは、当時の宮廷では、ごくあたりまえのことであった。

宮廷貴族は、夫人を使って、大臣、王妃、国王のところにいろいろな理由をつけて金を取りにいかせた。また、貴婦人はそのための才能をそなえていた。こうして、宮廷貴族の一人クロワ公爵の表現によると、「誰もが、ひときれのものを奪おうとして争った」といわれている。いわば、宮廷貴族による国庫略奪であった。


財政危機にたいする宮廷貴族の責任

フランス革命は財政赤字、国庫の破綻を引金にして引きおこされた。その国庫の赤字を作りだしたものは何かというと、それが、このような宮廷貴族の国庫略奪であった。国家財政を健全財政にもどそうとするならば、このような宮廷貴族への巨額の支出を打切ればよいのである。このような性格の支出を打切っても、経済的発達を妨げることにはならない。そして、たしかにフランス革命以後、その支出は打切られた。それ以後現代社会にいたるまで、このような不合理な支出を見ることはない。

ところが、このような不合理な支出が、当時の社会では当然であるとされており、宮廷貴族にとっては、これが正当な権利だと思われていたのである。そして、その権利を守るための手段として、彼らが行政、軍事を含めた国家権力の上層部分を残らず押えていたのである。革命なしには、これらの特権を奪うことはできない。ここに、フランス革命の基本的な意味があったのである。

革命なしに、改革でこのような無駄な出費を節約しようとしても、結局は失敗に終る。いかに無駄なものといっても、出費を節約することは、その係、官職をにぎっている宮廷貴族の誰かの収入をけずることになる。フランス革命の直前、節約政策の一つとして、主馬寮を統合した。そのため、コワニー公爵が権利を失った。彼は、王と王妃を前にして激烈な抗議を申し入れた。王妃は、取りまきのブザンヴァル男爵に、コワニー公爵の態度が悪かったと苦情をいった。しかし、ブザンヴァル男爵の答えは、コワニー公爵に同情的であった。

「たしかに彼は礼儀に欠けていました。しかし、前日にもっていたものを明日持てないということは恐しいことです。こんなことはトルコにしかありません。」

このように、宮廷貴族の目からみると、たとえ節約政策であろうと、その権利を取上げることは悪政に見えるのである。彼らは、権利を守ることを正義と心得ていた。こうなると、たとえ王や王妃が無用な支出を削ろうとしても、自分を取りまく宮廷貴族の総反撃を買って失敗してしまう。その場合、宮廷貴族の集団的な利益が問題になるのであり、国王の意志とか、少数の改革派の意志は問題にならないのである。


宮廷貴族が破産したという誤解

このように、宮廷貴族は当時の最強の集団であり、支配階級の頂点にいるものであり、政治的にも、経済的にも、軍事的にも、もっとも強い立場にあったのである。これが、フランス革命で、はじめて敗者の立場に立った。敗者の歴史はもっとも研究されない分野である。この一般的な傾向から、フランス革命の歴史においても、宮廷貴族の実態がしだいに誤った方向で描かれるようになった。

宮廷貴族はフランス革命の時点で敗北したのであるが、敗北したものは昔から弱かったと思わせるような錯覚が定着して、敗北する前から、宮廷貴族はすでに弱くなっていたというような描き方が普及しはじめた。これは、後世の意識でこの時代を割り切ろうとするものであるが、それでは正しい理解にならない。たとえばソブールは、宮廷貴族の特権についてのべた後、つぎのように書いている。

「このようであったからといって、上流貴族が破産していなかったわけではない。その収入は、格式を維持するのに精一杯だった。……金持ちの平民のあととり娘との結婚も、難局を切り抜けるにはたりないで、上流貴族は借金をし、破産した。事実社交生活は一部の上流貴族を、啓蒙思想の味方である金融貴族に近づけた」(ソブール『フランス革命』小場瀬卓三他訳、岩波書店、昭和二八年、上巻、一一頁)。

このようにして、宮廷貴族が経済的に苦しくなり、平民の金持すなわちブルジョアジーから金を借りたり、縁組による経済援助をうけて、やがては自由主義的貴族へ移行していったかのように書いている。このような書き方に、すでに二つの問題点がある。

まず、上流貴族が破産したという表現である。なんの説明もなしに破産といわれると、現代社会の破産を思いだす。破産したならば、その貴族は没落したのであろうと思う。このように受け取るならば、当時宮廷貴族の中で破産が流行していたから、宮廷貴族の多くが没落し、弱者になったと思うのは当然である。

ところが、当時の貴族社会での破産は、現代の破産とはまったくちがった内容をもっていた。たとえば、ロアン・ゲムネ太公の破産の例が示すようなものである。ポリニャック公爵夫人の前に皇太子の養育係をしていたゲムネ太公夫人の夫、ロアン・ゲムネ太公が破産した。その額は三〇〇〇万リーブルに達した。しかし、ロアン・ゲムネ太公は没落したわけではなかった。国王の命令で債権の取りたては禁止された。国王は、この家系が国家にとって重要であるからという名目で、救済するためのいくつかの命令をだした。

国王は、五〇〇万リーブル以下の価値しかない領地を一二五〇万リーブルで買い取ってやった。結局は、七〇〇万リーブルをえて領地を不正交換してやったことになる。そのような政策の結果、国家の資金は減るが、その犠牲の上でロアン・ゲムネ太公は救われることになる。これに似たさまざまな政策のおかげで、宮廷貴族は破産をしておきながら、その後始末を国王にかぶせた。この時代には、破産の権利があった。破産とは、国家の資金を前もって使う権利にほかならなかった。そうした意味で、宮廷貴族の世界においては、破産のもつ内容がちがっていたのである。

借金をしたり破産したりしたから、平民の金持と縁組せざるをえなかったというのは、現代社会の官僚とブルジョアの結合の実例を、そのまま、この時代にあてはめようとしたものである。それは、一種の空想のようなものである。大多数の宮廷貴族は、家柄を大切にしていた。宮廷貴族同士の間でしか、しかも、それそれの家柄につりあった結婚しかしなかった。もし平民の娘と結婚すると、宮廷で異端者としての扱いをうけた。そのうえ、これが当時の実情であった。

王が借金の救済をしてくれるのであるから、なにも平民の娘と結婚する必要がない。

平民の娘と結婚をした実例もある程度は見られる。しかし、全体の中ではほんのわずかであった。そのことをソブールも知っている。そのため、「一部の上流貴族を」という形で、一部とことわっている。これはその通りである。しかし、それならば、その前の文章が問題になる。まるで、この傾向が上流貴族の大勢を占めていたかのような書き方になっている。そして、破産を現代のような意味で書いているから、なにか当時の宮廷貴族がすでに没落に向っていたかのような印象を与えるのである。これが誤解のもとになる。同じようなことは、ルフェーブルも書いている。「革命前夜のゲムネ家のように、破産におちいった貴族もいる」(『一七八九年ーフランス革命序論』高橋幸八郎他訳、岩波書店、一一頁)と。これだけを書きっぱなしにしているから、読者は現代社会の破産と思いちがいをすることになる。

当時は、なによりも家柄の時代であり、夫婦とも家柄が良くなければ、宮廷内でしかるべき地位が取れなかった。家柄が良ければ破産からも救われる。そのため、貴族と貴婦人は、家柄にしたがって愛情のない結婚をした。それでも、家柄を維持するために離婚はしなかった。そこから生れるお互いの不満は、宮殿の中における自由恋愛で解消した。恋愛ならば大目に見られたのであり、王妃マリー・アントワネットですらも愛人をもっことができた。スウェーデンの貴族で美男子のフェルゼン伯爵が有名であった。その他王妃に首かざりを贈って思いをとげたとか、とげなかったとかいうロアン太公(枢機卿)の名もでてくる。

まして、一般の貴族や貴婦人は、お互に愛しあったり別れたり、ふったりふられたりしていた。そして、宮殿で出会う男女のうちで、「もっとも無関心な者は夫婦である」といわれたぐらいであった。これが当時の実情であった。銀行家や大商人の娘と結婚することは、身分ちがいの結婚であり、宮廷貴族の中では慣習に反したことであった。


宮廷貴族は大領主

宮廷貴族がどのような足場をもっていたかということについても、大きな誤解がある。ソブールは、貴族の所有地が全国の約五分の一であったと書いている(『フランス革命』上巻、二四頁)。マチエの『フランス大革命』でも、注釈に、貴族が全国の土地の五分の一を「領有」していたと書かれている(上巻、二三頁)。

ここで問題なのは、ソブールでは所有地となっており、マチエの翻訳者の注では「領有」となっていることである。「領有」とは領地所有のことと解釈できる。そうすると、全国の五分の一の領地を持っていたとも理解されるわけである。

「領地」といい「所有地」といい、この二つはまったく別なものである。そのことは追ってくわしく解説をするわけであるが、この五分の一というのが、へんな誤解のもとになる。貴族社会全体で五分の一とすれば、宮廷貴族の持分はもっと少なくなり、半分とみても十分の一になってしまう。なにしろ宮廷貴族は四〇〇〇家であるのに、貴族の総数は一四万人であるからだ。

この程度の土地しか握っていない者が、どうしてあのような強大な権力をにぎっていたのかという疑問がでてくるはずである。土地はもはやいうに足りないものであるから、宮廷での官職収入が主なものになる。そうすると、仮に土地所有をゼロとみなすならば、彼らはヴェルサイユに集まっている、寄生的な官僚の集団と考えられる。それでは、現代社会の官僚とかわるところはなくなる。そこで、日本の歴史家の多くが、ヴェルサイユに集まっていた宮廷貴族は土地を失っていたとか、土地から引きはなされていたというように解釈するのである。

たとえば、フランスの宮廷貴族が土地を失っていたと解釈し、これを日本にあてはめて、天皇制のもとで、旧大名が土地をはなれて華族になり東京に集まっていた状態と同じもののように対比している学説もある。このような学説も、天皇制が絶対主義であるというための根拠になっている。

これが重大な誤解である。宮廷貴族は大領主であって、圧倒的な比重の領地を持っていたのである。五分の一というようなものではなかった。当時のフランスには、「領主なき土地はなし」という言葉があった。全国の土地どこをとっても、何らかの領主がいるというのである。例外的に領主のいない自由地があったが、これはあくまでわずかなものであった。そこでこれは一応無視してかかるとして、その領地のうち、だれがどれぐらいの割合をもっていたかということについては、正確な数字をだした人もなく、だすことも不可能な状態である。王領地が約五分の一であるということはかなりたしかなようである。その他の領地については、全国的な統計をとることすら不可能である。それにしても、なんらかの目やすをつけたいものである。

私が「アモン地区」の資料を手がかりにこの比重を調べてみたところ、王領地が八・七パーセントの面積を持ち、高級貴族が三二・三パーセントを持ち、僧侶が一七・七パーセントを持ち、地方の小領主が一九・五パーセントの領地を持っていた。高級貴族と小貴族の領地を合計すると、五〇パーセントを越える。これにくらべて、平民の領地はわずかに六・八パーセントとなる。その他は、共同で領有する村であり、分析不可能である。

「ナンシー地区」を調べたときには、平民の支配する領地は一パーセント弱であり、取るに足りない。あとは国王と貴族、高級僧侶の所有する領地であった。そして貴族は、宮廷貴族と地方貴族と法服貴族にわかれた。高級僧侶もまた宮廷貴族から出ていたのであるが、それを除外しても、貴族の領地が五分の一というのは、あまりにも過小評価したものである。

しかも、宮廷貴族はフランスの各地に領地をもっていた。その領地も大小さまざまであった。地方の小貴族の多くは、一つの村だけを領地として持つものが多く、ときには一つの村の何分の一かを領地としてもっていた。しかし、王領地や宮廷貴族の領地は、二つ三つあるいはそれ以上の数の村を合せて含んでいる場合が多かった。また、離れたところに数個の村を領地として含むという形で、飛地支配の形をとっていた。

しかも、それが全国に散在するのであるから、これを正確な統計数字にだすことは不可能である。ただいえることは、宮廷貴族は大領主であり、領地の圧倒的な部分を支配していたということである。


フランス絶対主義は大領主の権力集中

これを個人の領地所有の側からながめてみよう。たとえば、ランベスク太公は、大領地をルーアンとヴァンデーに持っていたが、ルーアンの領地は一一〇万リーブルの価値があった。ポリニャック公爵に買い与えられた領地が一二〇万リーブル以上の価値になったことは、前にみた通りである。ランバル公爵夫人の父パンチェーヴル公爵がオルレアン地方に持っていた領地は、三万リーブルの収入があった。

コンデ家はコンデ太公、ブルボン・コンデ公爵、アンギャン公爵と親子三代の領地をまとめていたが、北フランス一帯に一三の大領地を持っていた。それぞれの大領地が多くの村、森林を含み、そこに居城があった。それらは、あたかも独立王国のような感じを与えていたのである。そして、領地からあがる収入が九〇万リーブル弱であった。これはコンデ家の全収入の五割強を占めていた。残りの五割弱が、官職収入であった。

この例でもわかるように、宮廷貴族は、領地を失った状態で宮廷に寄生したのではなかった。領地を持ちながら、同時に宮廷で権勢をふるったのであり、たとえ宮廷の特権を全部失ったとしても、依然として大領主であり、その収入は巨大なものであった。こういう状態がピラミッド型に広がり、宮廷貴族四〇〇〇家を作っていると思えばよいのである。そこでいえることは、宮廷貴族の支配とは、大領主の集団が、領地を足場にしながら国家の権力を組織していたということである。

領主が権力を組織していたということは、絶対主義のフランスが、まだ中世の段階にあったこと、すなわち、封建制度の段階にあったことを意味する。つまり、領主階級の権力集中であった。これをフランス革命の前提としてあきらかにしておかなければ、フランス革命の本質が理解できない。


外国人領主の独立的存在

絶対主義とはいっても、フランス王国の中で、王権の力が入りこめない領地もあった。目本では、絶対という言葉にまどわされて、王権が国のすみずみまでも支配したと解釈している人が多い。しかし、事実は違っていた。

たとえばブイヨン公爵の持つブイヨン公爵領は、外国の扱いをうけていた。フランス王国の法令は、この領地には適用されなかった。それでいながら、ブイヨン公は宮廷貴族としてヴェルサイユ宮殿に仕え、侍従長をしていた。同時に、自分の領地では守備隊をもち、親衛隊を組織し、総督という名目で一国一城の主になっていた。この領地が完全にフランスのものになるのは、革命後のことであった。

そのほか、多くの領地で、領主が国王の権限を行使していた。また、ローマ教皇領のコムタ・ヴェネサンも外国の扱いであり、そこにアヴィニョンがあった。

外国の領主が、同時にフランスの領主であるという場合も多かった。たとえば、サルム太公は神聖ローマ帝国の貴族であり、同時にスペイン王国の貴族であった。それでいながらフランスに来て、フランス国王に仕えた。

彼の領地はフランスに数カ所あり、ドイツのウェストファリア(ヴェストファーレン)にも城と領地をもっていた。フランス国王は、このサルム太公に年金の元本として四〇万リーブルを与えている。

エグモント伯爵はスペインと神聖ローマ帝国の貴族であり、ナポリ王国にも領地をもっていたが、フランスにも多くの大領地をもち、年金を受ける権利をもっていた。

ドイツのライン伯爵の息子がドゥー・ポン伯爵としてフランスに領地をもち、ここでの全権力を行使していた。

ドイツのザクセン公爵(サクソニア)は、フランスではサックス太公と呼ばれていた。ルイ一六世の母方の叔父であり、元帥としてサックス騎兵連隊をもっていた。彼もフランスに数カ所の大領地をもっていた。

これらの外国人領主の持っていた領地は、なかば外国扱いであり、国王が主権を認めるとか譲渡するという形式で、実質的な独立を保っていた。これらの土地は、フランス革命によってはじめて完全に統合されたのである。その意味では、絶対主義の時代よりも、フランス革命後の方が、かえってより中央集権的であった。絶対主義の時代は、まだ分権的要素を残していた。それが絶対とよばれる理由は、それ以前の封建制度がもっと分権的であったのに、かなりの程度にまで中央集権にもっていくことができたためであった。あくまで、比較の問題であることを知らねばならない。

フランス国家が「唯一にして不可分」という宣一言が革命政権によって出された。これを裏返すと、革命以前は、フランスには国家が唯一つではなく、複数あったということであり、また、いつでも切り離せるような、不安定な状態にあったということでもある。


地方貴族の貧富の差

宮廷貴族四〇〇〇家をのぞくと、貴族総数約一四万人の大多数が地方貴族であった。これを原語からでは、田舎貴族と訳すことができるが、多少響きがわるいので、ここでは地方貴族とよんでおこう。このほかに、法服貴族とブルジョア貴族があるが、これはあとでのべる。本来の貴族は古い家柄の貴族であり、剣を持つことを許されるので帯剣貴族ともよばれた。

彼らは自分の家系を示す紋章をつけ、程度の差はあっても、減免税特権をもち、軍隊では士官、将校になることができた。軍隊の将校になるためには、少なくとも四代続いた貴族の家柄でなければならないと定められてあった。そうした意味では、貴族は全体としてやはり特権階級であった。

ただ、地方貴族は宮廷に出入りできず、国王にお目どおりすることが許されない。そこで、官職収入ではこれという特権にあずかることができなかったのであり、そこに、宮廷貴族にたいする反感をもつ理由があった。

地方貴族は貧乏であったという紹介の仕方が、よくおこなわれている。ソブールはつぎのように書いている。

「貴族は一八世紀末には没落の極にあった。彼らは日一日と貧しくなっていった。宮廷貴族はヴェルサイユで零落し、地方貴族は自分の領地でほそぼそと暮していた」(『フランス革命』上巻、一三頁)。

マチエはつぎのように書いている。

「若干の州では、非常に多くの本当の貴族的平民(田舎貴族)が現れた。彼らは自分のささやかな館で陰気な顔をして坐食し」(『フランス大革命』上巻、二一頁)。

このように書くと、地方貴族がすべて貧乏であったかのように受けとられてしまう。しかし、実際はそうでは

なかった。地方貴族にも、上層から下層まであり、その姿はピラミッド型になっていた。上層はかなりの大領主で、ときには伯爵とか子爵とかの爵位をもち、地方都市や地方の町に邸宅をかまえ、そこと自分の領地の間を行ったり来たりしている者がいた。これは、いわば地方都市貴族であり、地方の小宮廷貴族であった。

ヴェルサイユ宮殿の小粒なものが重要都市の近くにあり、そこに地方都市貴族が集まっていたそして、そのような地方都市における国王に相当する者は、それぞれの地方の総督、軍司令官になった宮廷貴族であった。たとえば、リシュリュー公爵はボルドーの総督として、ここに宮廷の小規模なものを開き、宴会を続けた。そういう時には、地方都市貴族が彼を囲むのであった。

地方都市貴族の下に、田舎町に住む貴族があり、その下に、農村の館しか財産のない小領主、小貴族が多数いた。上層の都市貴族になれば、数カ所の村を領地としてもつ者があり、下にさがると、一つの村を一人がもつ者があり、その下になると、一つの村を何人かの共有の形でもつ小領主がいた。士官学校に入ってきた貧乏貴族の実例の中には、年収六〇リーブルとか、九〇リーブルとかいう貴族がみられる。これならば、労働者の年収よりも低い。しかし、働くと貴族の資格を失うので、貴族の誇りにかけて貧困に甘んじていたのである。

このような貧困貴族は、とくに地方小貴族の二、三男に多かった。長子相続制のため、三分の二の財産を長男がとり、残りが分割された。ときには長男が全財産を相続して、二、三男には住居とわずかな年金を与えるということもおこなわれた。そうした二、三男の、さらに二、三男ともなれば、これは救いがないわけである。こうして、貧乏貴族の大群が農村にうずもれていた。しかし、これだけをみて、地方貴族がすべて貧困であったかのように思うのはまちがいである。


家柄万能の時代

軍隊でも、その中での昇進が家柄と領地に比例していた。ほんらい軍隊は、もっとも実力万能の場所であるべきはずである。そうでなければ、その国の軍隊は弱くなり、国防力が低下する。弱い者や作戦の下手な者、戦争の経験の無い者を司令官や将校にするならば、その軍隊はまずもって戦争に負ける。まともな軍隊ならば、軍事的な才能が昇進の基準になるはずである。

ところが、フランス絶対主義の軍隊では、実力よりは家柄が重きをなしたのである。地方の貧乏貴族の子弟でも、士官学校に入ることはできた。四代続いた貴族であることが証明されればよいからである。しかし、その後軍隊に配属されたときに、下士官か下級将校となり、それ以後どんなに戦争で軍功をたてたとしても、それにふさわしい待遇は与えられなかった。

ナポレオン・ボナパルトはコルシカの貧乏な地方貴族の息子であった。士官学校では数学と弾道学の天才といわれ、抜群の才能をもっていたが、家柄が低いために下士官に配属され、昇進ののぞみがなかった。そこに、彼が革命の勃発とともに革命の側に立った理由がある。

ナポレオンの下で元帥になったマルモン将軍も、もとは平貴族(爵位のない小貴族)であった。彼の父は、軍功を立ててなんとか歩兵連隊長にまでは昇進したが、それ以上の待遇が得られなかったので、不満をもって自分の領地に隠退した。フランス革命が、その息子を元帥にまで昇進させる機会を与えたのであった。

こうした意味で、地方の小貴族の中には、宮廷貴族の支配にたいする反発がうずまいており、革命の接近とともに、その反感が革命的な気分にまで高まっていく理由があった。地方貴族の昇進を妨げているのは、宮廷貴族の特権的な地位であった。家柄の高い宮廷貴族の子供は、一一歳で銃士となり、一五、六歳ですでに連隊長とか少尉ぐらいになった。

たとえばブローイ公爵(ブログリオ公爵とも呼ばれる)は、神聖ローマ帝国の太公を兼ねていたが、宮廷貴族の中では軍歴と軍事的才能で有名な人物であった。フランス革命の直前に、パリの周辺に軍隊を集めて、革命派を弾圧しようとした将軍である。彼は、一六歳で皇太子騎兵中隊長と歩兵連隊長になった。二五歳で地方軍団の参謀長となり、二七歳で陸軍少将、二八歳で歩兵総監、三〇歳で陸軍中将、四一歳で元帥になった。

ブイエ侯爵はのちにルイ一六世の亡命計画の首謀者の一人となり、反革命のコンデ軍に参加した宮廷貴族であり、ラファイエット侯爵の従兄であった。彼は一一歳で銃士となり、一六歳で竜騎兵中隊長、二二歳で騎兵連隊長、三八歳で陸軍少将、四三歳で陸軍中将になった。

このように、最上層の宮廷貴族は子供のころからすでに将校になったのである。そうした将校の下に、下士官から叩きあげてきた中年の部下が仕えたのである。下級貴族の一つの例としてポヌヴァンという領主の実例をみてみると、彼は一八歳で陸軍中尉になったのはよかったが、二二歳で中隊長になり、四六歳になっても中隊長でとまり、このときの俸給が一〇〇〇リーブルであった。ラクシという領主は、一八歳で近衛騎兵となり、四八歳まで勤務して、退役のとき四八〇リーブルの年金をもらったにすぎない。

こうした年期を積んだ軍人の上に、連隊長として一五歳の子供が来た。これでは、部下はやる気を失なう。そのうえ、高級貴族出身の将校は、ほとんど名前だけの将校で軍務にたずさわらなかった。二五万人の軍隊に三万五〇〇〇人の将校がいたが、実際の軍務は、九五〇〇人程度の将校がはたしていた。宮廷貴族出身の将校の多くは、軍隊をはなれて宮殿にいたのである。

しかも七年戦争の時に、フランス軍が出陣すると、将校は愛人を連れてきた。そのための馬車や婦人のための香水、パラソル、絹織物、奢侈品を積んだ荷車が、軍隊と一緒になって進んだ。将校は女に夢中になって、軍隊をかえりみない。司令官は「食費」という名目の手当を受けて、ここに高級貴族の将校を招待した。二〇〇人分の食事を用意した場合もあり、将校達はここで食事をとっていた。ヴェルサイユ宮殿の生活が、そのまま軍隊の中にも移植されていたのである。

これでは、地方貴族出身の下級将校以下、下士官、兵士にいたるまでの不満をかきたてる。下級将校も兵士もやる気をなくし、高級将校は遊びに夢中で、戦争のことはしらない。これでは戦争に負ける。七年戦争でフランススが敗北を重ねた理由であった。

地方貴族は、貴族としての特権にしがみついてはいたが、同時に宮廷貴族にたいするねたみ、反感を強烈にもっていて、それが改革思想、革命思想へ発展する場合もあったのである。フランス革命の決定的瞬間に、ブローイ元師が軍事力でパリを制圧しようとしたとき、軍隊に動揺がおこり、強行すれば軍隊の反乱をまねくかもしれないという状態になり、ついに全面的な進撃を中止した。そして、軍の動揺の中心は、これら地方貴族出身の下級将校に潜在していた不満であった。彼らの多くが、兵士を激励して群集と交歓させ、率先して軍隊の反乱をすすめた。このような傾向から、地方貴族出身の革命家が多数登場してくる。ナポレオンやマルモン元帥はその代表とみてよい。


法服貴族の権限

宮廷貴族は行政と軍事の権力をにぎっていたが、司法権は別な勢力に明け渡していた。その司法権を手に入れた者が、法服貴族と呼ばれるものであった。法服貴族の中心は各地の高等法院(パルルマン)であり、パリ高等法院がもっとも強力であった。高等法院を英語流によむと議会という意味になるが、けっして近代の議会のような立法権をもっていたわけではない。

法律に相当するものは王の勅令としてだされ、これをパリ高等法院が登録することによって効力が発生した。

これをめぐって、どちらが強かったかということが問題になるのであるが、やはり国王の命令がほとんどの場合は絶対的であり、ときどき高等法院が抵抗運動を起こして、王の命令を拒否したり修正することに成功しただけである。「朕は国家なり」の解釈は、高等法院と国王のいざこざが起きたときに、国王の側からうちだされた原則であった。国王の意志は、高等法院の判断を超越したものだという意味である。そうした事情からみても、立法権はやはり国王に属していた。国王に属することは、本質的に宮廷貴族に属していたというべきである。そこで、法服貴族のもっていた権力は司法権のみであった。

ここのところも、かなりあいまいな紹介の仕方がなされている。ソブールは、法服貴族が「王制が行政上・司法上の機構を発展させて以来形成されたものである」と書いている(『フランス革命』上巻、一二頁)。マチエも「行政上、司法上の官職を独占する司法官貴族とか、官僚貴族ができあがった」(『フランス革命』上巻、二七頁)と書いている。

しかしこれは誤解である。行政上の権力は、これまでみてきたように宮廷貴族によってにぎられていた。一部を明け渡したとしても、それは副次的なものだけである。あくまで、法服貴族の権力は司法権だけに限定されていた。しかも、この官職は、官職売買の制度(ヴェナリテ)によって買取らなければならないものであった。この本質をいうならば、王権が司法権だけを明け渡して、金をもっているものに売りつけ、買取代金を国王が手に入れたということである。

買取代金はどれくらいであったかといえば、たとえば、高等法院議長の職が一一万リーブル、検事次長の職が四万リーブルという数字が残っている。『法の精神』を書いて有名になったモンテスキューはボルドー高等法院議長であったが、彼がこの職を売ったとき一三万リーブルになり、判事の職が四万リーブルになった。

こうして、金をだして官職を買わなければならないのであるから、司法官になるためには、それ相当の資金を作らなければならなかった。そこで、彼らのほとんどはブルジョアジーの上層から来た。司法官の職を買い入れると同時に領地を買い入れ、続いて貴族の資格を買った。何人かのものは、爵位すら手に入れた。公爵というのはいないけれども侯爵、伯爵は各地の高等法院議長の中に何人かみられる。

これら法服貴族は、絶対主義の成立と並行して古くから形成され、それからさらに代をかさねると、成上り者の印象がうすくなり、れっきとした貴族の一群を構成するようになった。彼らの中には大領主も何人かいる。とくに、ボルドー高等法院判事の中には裕福な領主がいて、良質のぶどう畑をその中にもっていた。モンテスキューも豊かなぶどう畑をもち、ぶどう酒をたくさん作っていた。

「私は宮廷流の方法で財産を作りたいとは思わない。私の土地を利用することによって、神の手から直接いただくことによって財産を作りたい」といった。この言葉の中に、法服貴族の立場がよく示されている。

彼は宮廷貴族の特権を暗に批判し、憎みながらも、それにあずかれないことにあきらめを感じていたのである。

そこで財産形成の基本はぶどう畑の経営であった。これをみると、法服貴族は、宮廷貴族にくらべると特権階級ではなかった。宮廷貴族は、領地の経営と官職収入の両方で財産を作ったからである。その意味で、法服貴族は、支配者の中の野党的存在であったというべきである。


法服貴族の野党的発言


とはいっても、まったく官職収入がなかったわけではない。それぞれの司法官の職に報酬がついた。ただその報酬は宮廷貴族の官職にくらべると一桁少なく、たとえばツールーズ高等法院の第一議長の報酬が二万リーブル、一五人の議長の報酬が六〇〇〇リーブル、判事の報酬が三〇〇〇リーブルから二〇〇〇リーブル、検事総長で六〇〇〇リーブルとなっている。その他の高等法院でもだいたい似たようなものになっている。

これに加えて、司法官は訴訟当事者から賄賂(エピース)を取っていた。これが当然の義務として当事者に課せられたのであるが、その金を集めて分配した。その他さまざまな金銭的特権を受けている。たとえば、朝食を公費でとることができるとか、塩税を免除されたので、税金のかからない塩を大量に買いこんで転売してもうけたとか、公費で宴会を開く事ができるとかいったものである。これらが補助収入になった。ただ、それにしても、宮廷貴族には及びもつかなかったことを認めておく必要がある。

法服貴族が野党的な立場であり、宮廷貴族ほどの特権にあずかれなかったために、彼らはときどき王権に対する反対運動をおこした。モンテスキューの『法の精神』は、そのような立場から書かれたものである。彼は三権分立の思想を説いた。これは、法服貴族の裁判権が、王権から完全に独立するべきであると主張したのである。この主張は、「朕は国家なり」の解釈と衝突する。

三権分立ならば、高等法院の判決は無条件で有効である。しかし「朕は国家なり」の思想では、高等法院の判決もまた王の判断によって無効にされてしまう。事実、そのような争いが起きたのである。そして、高等法院の抵抗がはげしくなると、たびたび王権によって解散させられた。そうした事情をふまえて『法の精神』が出版されたのであるから、宮廷貴族からみると、この書物は「危険思想」となる。大法官は『法の精神』の発売禁止を命令し、宗教会議は反宗教的書物と宣言した。高等法院の立場を正面から主張することが、反体制の思想になった。それであるから、モンテスキューの思想は、フランス革命の第一段階における思想としてもてはやされたのであった。

法服貴族という言葉からは、司法官はすべて貴族であったかのような印象をうける。しかし、それは必ずしも正確なものではなかった。平民の司法官もかなりの数になった。その比率は地方によってちがっていた。ブルターニュでは平民出身者の司法官は少なく、アルザスでは多かった。

また、司法官の領地の比重もまちまちであったが、それほど大きな比重になったわけではなく、私が調べたアモン地区では三パーセント強であり、けっして大きいとはいえるものではない。どこからみても法服貴族は貴族の主流ではなく、反主流というべき立場であった。それだけに、王と宮廷貴族のやり方にたいして、かなり、的を射た批判をおこなった。たとえば、グルノーブル高等法院が、フランス革命の前年に声明した抗議文の中に、つぎのような文章がある。

「王国の富は、ごく少数の人々の手の中に集中されている。弊害を正すためには、支出を削減する以外にない。恩賜金、年金の削減、最近激増した不正交換の破棄、すべての官庁に入りこんだ浪費の追及が必要である」。

ここで、主張されていることは、宮廷貴族の特権を廃止せよというものである。不正交換とは、たとえば、ロアン・ゲムネ太公の破産を救うための領地の買上げなどを指している。

ディジョン高等法院が一七六九年に国王へさしだした意見書の中には、つぎのような言葉がある。

「おそかれ早かれ人民は、国庫の断片が不当な恩賜金、一人の人間にたいしてくりかえし与えられる年金、国王から与えられる恩賜金、無用官職、俸給として濫費されていたことを知るだろう」。

これらの抗議はフランス革命の本質をズバリついたものである。そのかぎり、高等法院は革命派の側に立った。


自由主義貴族の立場

フランス革命の初期に、国民議会の側についてはなばなしく活躍した一群の貴族がいる。これを自由主義貴族と呼んでいる。彼らの多くは、地方貴族でもなく、法服貴族でもない。宮廷貴族の一派である。オルレアン公爵、ラファイエット侯爵、ラ・ロシュフーコー・リャンクール公爵、ミラボー伯爵、ラメット伯爵兄弟(テオドール、アレクサンドルとシャルルの三兄弟)、コンドルセ侯爵などが有名である。

彼らの役割は、宮廷の中の反体制派という意味で、地方貴族や法服貴族と違った重みをもっていた。地方貴族や法服貴族はヴェルサイユ宮殿に出入りすることができず、国王に対面することができなかった。それだけに、当時としては無名の人間であり、社会的影響力も小さかった。

しかし、自由主義的宮廷貴族は、なんらかのはずみに権力をにぎるかもしれないという立場であり、いわば与党の中の野党であったから、革命の初期における役割は大きかった。ラファイエット侯爵はバスチーユ襲撃の直後、国民衛兵司令官となり、ラ・ロシュフーコー・リャンクール公爵は国民議会議長になった。ミラボー伯やラメット兄弟は、国民議会でより左翼的な勢力の指導者になった。オルレアン公のもっていたパレ・ロワイヤル宮殿が、パリの革命的な群集にたいして解放されていて、ここからパリの反乱をめざして群集が出撃していった。

このようなわけであるから、自由主義貴族は、支配者としての宮廷貴族の中にいながら、内部から支配体制を切りくずして、フランス革命のロ火を切ったということができる。革命がより急進化するとともに、彼らもくつがえされた。しかし、そうした先の運命を知ることなしに、さしあたり絶対主義内部におけるもっとも強力な改革派として活躍したのである。

なんのためにそのようなことをしたのかといえば、それは宮廷内部における権力争奪戦で敗者になったからである。特権階級の中で日陰の存在になると、進歩的な言動を弄するようになる。これはいつの時代にもみられることである。そのじつ権力の座につくとたちまち保守化する。保守派の代表であった王妃マリー・アントワネットですらも、若い頃は、この自由主義貴族の仲問に加わっていた。そのころは、まだ皇太子妃として日の当らない場所にいたからである。

オルレアン公爵家も、先代は摂政として政権の中心にいた。これを「摂政の時代」と呼んでいるが、失脚していらい、オルレアン家は宮廷では冷遇され、これという役職を与えられなかった。そこで、彼が自由主義に理解を示すようになったのである。自由主義に理解を示して王座を狙う、これがオルレアン家の伝統的政策となった。彼はジャコバンクラブに参加し、フィリップ・エガリテ(平等公)と呼ばれたが、恐怖政治で処刑された。

しかし、息子のルイ・フィリップの時代に、七月革命で王座を手に入れた。

ラ・ロシュフーコー・リャンクール公は王家の納戸職長官であり、数箇所の大領地をもつ最高の宮廷貴族であった。それでも自由主義に味方した。彼の場合は、経済的にも自由主義者としての性格が濃厚であった。たとえば、リャンクールの領地にイギリス式大農経営を採用し、自分の城に紡績工場を作った。彼は当時の新思想をもつ大貴族であった。軍隊における地位は、陸軍中将と家柄にくらべればそれほど高くなかった。

だいたいにおいて、自由主義貴族の場合は官職収入の比重が少なく、自分の領地からの収入の比重が多かった。

そこに、彼らが自由主義思想に共鳴するか、あるいは理解を示した原因があった。彼らが宮廷貴族として官職収入を手に入れていたとしても、それ以上の竸争者があらわれた場合、たとえばポリニャック公爵のような極端な者がでてくると、「王と王妃のやり方はいきすぎではないか」という形の批判がでてくる。これが、自由主義思想へ押しやっていく動機である。

自由主義貴族の紹介の仕方も、あまり正確におこなわれていない。彼らを宮廷貴族の反主流派という形で描くべぎであるが、なにか、彼らが宮廷貴族の代表的な潮流を作っていたかのように書く本が多い。ソブールもマチ工も、そのような描き方をしている。正確には、自由主義貴族は、宮廷での竸争におくれをとり、うま味のある官職収入をめぐる競争に敗れ、その結果宮廷貴族の中の反体制派になったと解釈しておかなければならない。ところが、マチエはつぎのように書いている。

「妙なことだが、一切のことを王に頼っている彼ら宮廷貴族は、王に服従するどころではなかった」

「彼らは自分の希望にあてはめて、新思想に共鳴していた」。

その後で、ラファイエットをはじめとする自由主義貴族の実例をだしている。そして、彼らという意味には、「優秀で野心のある者」といういい方をしている(『フランス大革命』上巻、二六頁)。そうすると、宮廷貴族の優秀で野心のある者が自由主義貴族になったと受けとられる。たしかに、優秀で野心のある者が改革派になりやすい。しかし、それだけでは決まらない。もし彼らが、コンデ太公やポリニャック公爵のような特権を手に入れたならば、改革派にはならなかっただろう。ここが重要なところである。

またマチエが宮廷貴族は一切のことを王に頼っていると書いているが、これが誤解のもとになる。宮廷貴族は一切のことを王に頼っているわけではなかった。自分の領地からあがる収入もまた大きい。コンデ太公でも約五分五分であったことは前にみたとおりである。

まして、反主流派の自由主義貴族では、官職収入の比重が下る。オルレアン公の場合は、領地からあがる収入の方がだんぜん大きい。そして、彼の領地からの収入が、王領地からの収入よりも多いとかげ口をたたかれるほどであった。ラファイエットも軍司令官ではあったが、ブルターニュに大領地をもっていた。けっして一切のことを王に頼っていたわけではなかった。こうしたところに、自由主義貴族にたいする誤解がある。王にたよるところの大きかった宮廷貴族は王権に忠実であり、王にたよるところの少なかった宮廷貴族が、王に服従せず、自由主義派になったのである。

要約 1

フランス革命検索第一位

2021年3月11日、ネット記事で「フランス革命」を検索したところ、私の学説がトップに上がっていました。ただし、私の名が挙がっているのではなく、あくまで内容のみであり、その内容は、私の著書『フランス革命史入門』からの引用でした。引用しながら、執筆者の意見も添えてあり、言外に「検索エンジンがこれだというから、これ一人の意見に沿って書いています」というような言葉が添えてありました。こういう出だしは、他の人について見たこともありません。「多分不承不承なのだろうか」。内心、同情しながら、苦笑しました。こういう状況は、将来どうなるのでしょうか。私もやみくもに進むしかありません。執筆者が要約してくれている。それは有り難いが、おんぶにだっこというわけにはいかないだろう。私も応分に働かなければ。こういう心境で、各章各節ごとに要約を書いてみます。もしこの文章に疑問があれば、私の著書を読んでもらうしかありません。AIはまだ私の本を読んでいない。

なお、もう一つの問題点、検索ロボット、(AI)は、私の著書を読んでいないでしょう。読んだのは、私がブログに上げた文章のみでしょう。グーグルブログ、ワードプレスなどに上げました。AIがいかに頭が良くても、図書館の本は読めない。だからAI判定は、ブログの文章に基づくもので、本に基づくものではないでしょう。そういう意味では、今日から、AIと私の本が直接結びつくことになります。
第一章 フランスの絶対主義 一 支配階級としての貴族 
国王の絶対主義ではあるが、国王個人に絶対的権力があるのではなく、宰相に権力があったという。この点が他の歴史家と違うところであり、国王個人がどういう人物であっても、フランス革命は始まったはずだという。(個人の独裁を信じない)。
個人の独裁はない
権力を組織していたのは、大領主の集団で、国王はその最大のもだという。日本で、唯一最高の領主という言い方がはやったが、最高ではあるが、唯一ではないという。ここが日本の学者たちと違う意見を持っているところである。それから、事実を挙げて論証をする。この論証の部分は、もし最初からなっとくしていただいた場合、退屈ならば読み飛ばしていたたいて結構です。
大領主の集団がヴェルサイユに集まり、権力を組織している。権力には財政の実権が伴う。国家財政のお金は彼らに流れる。どれだけ甘い汁を吸っていたかが書いてある。
大領主の独裁なのだ
実例で証明しているが、理屈を納得してもらえるならば、事実は読み飛ばしてもらって差し支えない。結論を言えば、フランス絶対主義は、大領主の権力集だということだ。これが重要で、日本では「絶対主義均衡論」といわれる学説が、百年以上前から流行していて、これは「絶対的真理」だといわれてきた。私がこの本で、「均衡ではなく、大領主の独裁」だと書いた。反感のみで、信じるものは少ない。だから事実をたくさん集めた。もし均衡論が消滅してしまえば、事実もわずかでよくなる。そういう時代が近づいているようにも思える。

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