2021年12月4日土曜日

04-フランス革命史入門 第一章の二 ブルジョアジーと商工業

 二 ブルジョアジーと商工業


商業貴族

商業貴族と呼ばれた貴族の一団があった。ただし商業だけではなくて、工業を経営して成功し、貴族に列せられた者もあるから、商業貴族というよりはブルジョア貴族と呼ぶ方がよいように思われる。ただ、この言葉がフランスにはないから、ブルジョア貴族のことを商業貴族の言葉でまとめることになる。

この貴族は本来の貴族ではなく、貴族になってもあまり大きな特権は与えられなかった。せいぜいのところ、減免税の特権であった。それでも、商人や工業家にとっては、貴族の資格を手にいれることは社会的な名誉であったから、このために熱心に運動したのである。王権の側は、これにたいしていろいろな政策をとった。もともと貴族は働くことを禁止されているのであるから、商人に貴族の称号を与えること自体が不自然であった。しかし、これを極端に実施すると、貴族になった商人が商業をやめてしまう。

そこで、商工業を振興するというたてまえから、商工業者に貴族の資格を与え、営業を続けることを認めたのである。ところが、大臣がかわり政策がかわると、一度与えた貴族の資格を取上げるという「貴族の資格喪失」の命令がだされ、そのあと、またこれを復活するといった矛盾した政策をくりかえした。このようなわけで、商業貴族の貴族としての身分は不安定であり、また、商業貴族は本来の貴族とみなされず、「貴族に列せられた者」という名でよばれ、貴族社会では成り上り者とみなされていた。ただ、たとえ成り上り者であっても、商工業で蓄えた富があったので、貧乏な地方貴族よりは、はるかに経済力をもっていた。このような商業貴族の多くは、それぞれの都市の高級官吏になっていた。その意味では行政権にも喰い込んだのであるが、あくまで地方行政のわく内に限られていた。

ルーアンの貿易商人ルクツー家は貴族に列せられた商業貴族であるが、フランス革命のときにはルクツー・ド・カントルーは国民議会財政委員会議長となり、政治的にも重要な役割を果し、その後ナポレオンのクーデターにも重要な役割を果した。

ボルドーの大船主ジュルニュも貴族に列せられ領地をもっていた。同じくボルドーの貿易商人セージも貴族に列せられ領主であった。ともにジロンド派の支持者であり、ジロンド派の反乱を指導してギロチンにかけられた。

このような商業貴族が、フランスの大都市に多数いたのである。リヨンの商業貴族の一覧表をみても、五五人の商業貴族をかぞえることができる。

このような商業貴族は、貴族の資格をもちながら商工業者であり、同時に領地を買い入れて領主となった。貴族、商工業者の性格を一身に兼ねそなえていたのである。

ただ、もし事業に失敗した場合は、貴族といっても、特別に王から救済してもらう権利はもたなかった。失敗すればそのまま没落したのである。こうした没落の例も多かったので、商業貴族の別名に「産業の騎士」という言葉がよく使われた。これは「いかさま師」の代名詞であった。それだけに、商業貴族はさらに地盤を固めるべく宮廷貴族と縁組をしようと努力したが、このような実例は数少ないものであった。


総徴税請負人

フランス王国では、間接税の徴収を一群の徴税請負人にまかせていた。その数は四〇名から六〇名になり、彼らが組合を作って、六年契約で政府と徴税についての契約を結んだ。毎年九〇〇〇万リーブルの資本金を集め、これを政府におさめる。そうすると、間接税の徴収権を与えられた。

その間接税は、塩税、関税、重要都市の入市関税、たばこ、飲料へ課せられる税金などからなっていた。総徴税局は、数千人の職員を使って間接税を徴収したが、その徴収の仕方がきわめてきびしかったので、小市民から大商人にいたるまでの恨みをかっていた。租税の滞納者は簡単に逮捕された。脱税のための密売については、嫌疑がかけられるだけで有罪とされ、無罪が証明されなければ釈放されなかった。このため、多くの商工業者やその妻子がきびしい刑罰をうけ、背中をムチで打たれるぐらいのことはめずらしくなかった。

そのため、総徴税請負人はブルジョアジーに属するとはいっても、ブルジョアジーから憎まれていた。彼らは、封建制度への寄生的性格のもっとも強いものであった。この中で有名な人物は、化学者としても有名なラヴォアジエである。

彼は、総徴税請負人としての利益が、年問四万から五万リーブルになったと記録している。ラヴォアジエは、燃焼の酸化説を主張し、定量分析の方法を確立し、フランス革命政府に協力してCGS系単位を作ることに貢献した。いわば、近代化学の祖である。王立火薬製作所を組織して、火薬の品質向上をはかるとともに、火薬の売上で収入をあげたほどの企業的才能の持主であった。

また領地を買入れ、農業改良のための研究に一四万リーブルを投じた。このように、社会の進歩をめざす代表的な人物であったが、同時に彼は冷酷な総徴税請負人であった。彼の仕事でもっとも有名なものは、パリを城壁で囲んだことである。パリ市への密輸がはげしく、商品の五分の一が密輸商人によって運ばれているというので、財務総監カロンヌに進言して、三〇〇〇万リーブルを使ってパリの城壁を作らせた。こうして密輸商人をしめだしたのであるが、そのことによってパリ市内の商品価格はあがり、パリの市民や密輸商人の反感をかった。このような恨みが原因になって、ラヴォアジエをはじめ二八人の徴税請負人は、恐怖政治の時代ギロチンにかけられたのである。

ジョルジュ・サンドの祖母の夫デュパン・ド・フランキュイユも総徴税請負人であり、六〇万リーブルの公債と大邸宅をもち、工場建設も試みた。


総徴税請負人は、ほんらいはブルジョアジーに属するものであり、工業、商業の経営や技術的な進歩には大きな役割を果した者が多かった。しかし、同時に、王権の手先として商業そのものを抑圧する立場にもあった。そこで、商人が総徴税請負人を敵とみなすことになった。ナントの第三身分の声明はつぎのようにのべている。

「総徴税請負人は、いたるところで不正をおこない、暴君になっている。彼らはつねに法を濫用している。商業が、自分の永遠の敵、これらの吸血鬼どもをふみつぶすときがきた」。


銀行家

銀行家の有力な者はパリに集中していた。革命の一三年前、六六人の銀行家の名前が年鑑にのっていた。銀行家の中には、生粋のフランス人もいるが、外国人も多い。スイス、ドイツ、スペイン、オランダ、イギリスと、ヨーロッパのあらゆる国々からパリにきて、銀行を設立した者の名前がみえる。

その中で、とくにフランス革命にかかわりの深かった銀行家の名前をあげてみよう。スイスのプロテスタントの銀行家として有名な者に、ネッケルがいる。彼は、はじめテリュッソン銀行の行員として入ったが、経営の才能を買われて銀行をまかされた。その後穀物の投機を利用して最大級の銀行家にのしあがった。やがて宮廷の銀行家を通じて、国庫に貸付けるほどの勢力をもち、娘を宮廷貴族のスタール男爵と結婚させて、貴族社会の仲間入りをした。そのとき、「何者でもない人間が何者かになるには、娘が必要だ」といわれた。

彼のまわりに自由主義貴族が集まり、ネッケル夫人のサロンは、改革派宮廷貴族のたまり場になった。財務総監になって財政改革をおこない、保守派の反感をかって罷免されると、それをきっかけにフランス革命がおこり、革命直後、最初の財政を担当することになった。いわば、フランス革命勃発の核心をなす人物である。

ラボルドは宮廷銀行家で、貴族、領主であり、娘を名門の宮廷貴族ノアイユ伯爵家と縁組させた。銀行業のかたわら、食糧品、植民地物産の商業を経営し、商船隊をもっていた。彼もバスチーユ襲撃のときに国民議会を財政的に支援した。ノアイユ子爵は、国民議会で封建権利廃止の宣言を提案して有名になった。

ペルゴは、スイスからきて銀行家パンショーの支配人になった。パンショーはスイス人銀行家としてネッケルの競争相手であったが、隠退してペルゴに事業をゆずった。彼は、イギリスとの為替取引を事業の中心にしていた。多数の銀行家が恐怖政治のころ迫害されたが、ペルゴはつねにその当時の革命政権とむすびついた。

まずラファイエットの副官となり、恐怖政治のころは、公安委員会とむすびついて食糧の調達に活躍して、「公安委員会の銀行家」とよばれた。恐怖政治ののちも政治家とむすびつき、ペルゴの娘は、マルモン元帥と結婚をした。その後、ナポレオンのクーデターに出資して、ナポレオン政権をささえた。ペルゴが引退すると、協力者のラフィットが銀行をひきついだ。ラフィットは、一八三〇年の七月革命で首相になった。彼ら二人は、もっとも政治的な銀行家であり、しかも、フランス革命を通じて、万年与党として生きのびた銀行家であった。

ルクツー家はパリとルーアンにまたがる銀行家、商人、工業家であった。その主人ルクツー・ド・カントルーは、ルーアン高等法院貴族でもあった。彼は国民議会の財政委員会議長として、革命政権の財政の実権をにぎった。ペルゴと同じく、ナポレオンのクーデターを支援して、ナポレオン体制の支柱となり、ナポレオンがフランス銀行を創設したときには、初代理事長になった。

クラヴィエールは、スイスの織物商人の子であった。パリに来てパンンョーのもとで銀行業を学び、銀行家になった。彼はミラボー伯爵の支持者になり、ミラボーの金融問題に関する文章はクラヴィエールが書いた。ミラボーの死後、ブリッソを中心とするジロンド派の中心人物となり、ジロンド派内閣の大蔵大臣になった。そのため恐怖政治で処刑された。

プロリはベルギーの銀行家で貴族(伯爵)であったが、フランスではパリに銀行を作り、ナントとマルセイユで外国貿易の大会社を設立した。とくに、東方貿易に活躍し、東方貿易の独占権をもっているインド会社とはりあって、サルジニア王の旗をかかげてインド会社の貿易独占権の網の目をのがれ、大きな利益をあげた。また、公債や株の投機で成功して、一〇〇万リーブル以上の証券をもっていたといわれている。これだけの財産からみると、宮廷貴族に匹敵するほどのものであった。

しかし、彼の革命中の動きはきわめて複雑で、表裏に富んだものであった。彼は、いろいろな種類の革命家と深い交遊関係をもっていた。そのときの情勢によっては、とらえがたい活動をおこなった。とくに目立っているのは、ジロンド派に反対してジャコバン派系の政治家と結びついたことである。

その中には、ダントンの腹心力ーミュ・デムーラン、公安委員になったエロー・ド・セシエル、バレール、ジャンボン・サンタンドレ、デルボワがいる。それでいながら、過激派の一人エベールとはとくに仲が良く、ついにエベール派の武装蜂起計画の黒幕の一人として逮捕され、処刑された。工べールは、パリのもっとも貧しい階層に支持者をもち、公安委員会のやり方も手ぬるいと批判した極左派であるが、その極左派の裏に、このような大銀行家がいたことは注目すべきことである。

過激派とむすんだ銀行家は、ブロリ一人ではなかった。パリの銀行家パーシュは、プロリと共同で貿易会社を作っていたが、彼は恐怖政治のときのパリ市長となり、公安委員会に恐怖政治を推進するよう圧力をかけた人物であった。パリの民衆に人気があり、「パパ・パーシュ」といわれていたが、エベールが処刑されたのちに、市長を解任された。

オランダ人のコックも、パリで銀行家になっていたが、やはりエベール派に加わって処刑された。

スペインの銀行家カバリュスも、パリで銀行家になった。革命中に、ジャコバンクラブに加盟した。恐布政治の政治家タリアンと彼の娘テレザ・カバリュスが結婚した。タリアンは恐怖政治をおこないながら、この結婚の前後に転向し、ロベスピエールを倒す側にまわった。その直後、一時は強大な権力をにぎって、ジャコバン派系の革命家を迫害した。そのタリアンを、テレザ・カバリュスが動かしていたというので、彼女は「テルミドールの聖母」といわれた。その裏には、父の銀行家カバリュスがいた。カバリュスは恐怖政治に加わりながら、ある時点でこれをひきもどし、革命後の権力の側についていた。その意味で、注目すべき人物である。

ドレッセールはスイスの財産家であったが、フランスで事業をはじめ、リヨンの銀行家、絹織物商人、貿易商人になり、パリに銀行の支店を移して、工業への融資をおこなった。王立火災保険会社の株主、理事にもなり、ケース・デスコントの理事にもなった。パスチーユ襲撃のときには、もっとも熱心に活躍したブルジョアであった。使用人、下僕まで武装して反乱に参加し、ドレッセールの邸宅は弾丸製造工場になった。しかし、革命の進行とともに、この一家は三人三様の生き方をした。

当主のエチエンヌはジロンド派と交わり、恐怖政治のときは監禁された。ただし、スイス政府の救援活動のために、やがて釈放され、財産も傷つけられることはなかった。

長男のジャックは王党派に参加し、亡命してニューヨークで死んだ。次男のバンジャマンは革命軍に参加し、歩兵大隊の指揮官となって活躍した。親子三人が、王党、ジロンド、ジャコバンの三つの系統にわかれて動いたのである。革命後、父は隠退し、次男に事業をまかせたが、ナポレオンのクーデターの出資者になった。次男のバンジャマンは、革命前はイギリスに行ってジェームズ・ワットと交友を結び、革命後は工場を建設し、海上保険会社を設立し、七月革命でルイ・フィリップ王政を支えた。彼の弟フランソワがそのあとをうけつぎ、パリ商業会議所会頭になった。こうして、ドレッセール家は、フランス最大級のブルジョアに上昇した。

オタンゲルはルクツーのもとで銀行業を学び、友人の資本を合せて銀行を設立した。彼は革命ではあまりめだった動きをしなかったが、恐怖政治の時はアメリカへ行った。ここでタレイランと知り合った。のちのナポレオンの外務大臣である。オタンゲルとタレイランは一緒に帰国して、オタンゲル銀行を再建した。この銀行は発展してオート・バンク(高級銀行)となった。後に、いくつかのオート・バンクが合同し、現在はパリ合同銀行として大きな役割を果している。


商人

商人の数は、大商人から小商人まで含めると数えきれない。また、国王政府から正式の認可をうけ、間接税をおさめ、一定の地域の商業独占を認められている特権商人もあれば、法律をくぐって取引をするヤミ商人もあった。当時の間接税が不合理であるだけに、ヤミ商人の数も多く、また彼らにつきまとう罪悪感もなかった。いろいろな種類の商人が、ビラミッド型に存在していたのである。

また、銀行家の中にも、ラボルド、プロリ、ドレッセールのように、商業を兼営し、銀行家が商人であるという例も多かった。

パリで最大級の商人といわれていたのは、ビデルマンであった。スイスからきて大規模な商事会社を組織した。パリ、ボルドーを中心に、ヨーロッパ各国からインドにまで支店を置いた。この会社は、数人のスイス人と共同で組織されたものである。ビデルマンは、一〇万リーブルから二〇万リーブルの利益を得ていた。

彼はジロンド派系の政治家と親交を結び、恐怖政治のときに一時逮捕されたり、財産を封印されたりした。その反面、公安委員会から植民地物産とくに硝石の輸入を依頼され、その仕事を果した。公安委員会に迫害されながら協力しているという状態であった。彼の会社の設立に参加した者の中で、ダヴィリエは銀行家、大商人、紡績工業家であった。フランス革命をくぐりぬけると、ナポレオン権力を支え、のちにフランス銀行総裁となり、オート・バンクの仲間に入った。

パリ以外にもボルドー、マルセイユ、リヨン、ナントなどの大都市に、豊かな商人は多かった。ただし、大都市とはいっても日本の規模とはちがう。リヨンとボルドーが約一〇万人、ナントは八万人である。

ボルドーのもっとも代表的なブルジョアの名前は、八四人になる。とくにボルドーには、貿易商人、仲買人など商業ブルジョアジーに属するものが多かった。この中の一〇人は貴族の資格をもっていた。ボルドー商人の多くはジロンド派系の支持者となった。ジロンド派という名称は、ボルドーのあった県がジロンド県とよばれ、ジロンド県出身の政治家が、国民議会でいわゆるジロンド派の中心になったからである。それほど、ボルドー商人のジロンド派で果した役割は大きかった。

議員となってパリにきたボルドー商人の中には、デュコ、ボワイエ・フォンフレード、ガデがあげられる。そして、これら議員を支持し、ジロンド派が没落すると、ジロンド派の反乱を積極的にすすめた者の中に、セージとかジュルニュがいた。二人とも貿易商人でありながら貴族であり、領地をもっていた。反乱が失敗すると、処刑された。

ただし、処刑されたからといって、家系が断絶したわけではなく、ジュルニュの二人の弟はあとをついで、一人は銀行家となり、一人は貿易商人になった。

カンボンはモンペリエ市の織物商人であり、三八万リーブルの財産をもっていた。その長男は、国民公会の財政委員会議長となり、名実ともに恐怖政治の財政指導者となった。三人の兄弟は、それぞれ綿紡績、染色業、ハンカチの商業と工業を経営していた。カンボンは国民公会の平原派(中立派)であったが、山岳派、ジャコバン派にも商人は多い。デフューはふどう酒商人でジャコバンクラブの通信委員会議長となり、ペレーラはボルドーの富裕な宝石商人でジャコバンクラブの常連であり、二人ともエベールの支持者であった。公安委員のコロー・デルボアは金銀細工商人であった。

商人の中にも、ジロンド派系からジャコバン派系までの分裂があったのである。


工業家

工業も、大工業から小工業まで広く分布していた。大工業は都市に多かったが、小工業は都市に集中するとともに、農村にも広く散在していた。小工業では二、三人の労働者を使用し、主人もともに働くようなものが無数にあったが、これでも工場主とよばれていた。本質はまだ家内工業の水準であり、これに簡単な機械がおかれていたという程度のものである。

しかし、中規模の工場から大規模の工場になると、様子はちがっていた。当時はまだマニュファクチュアの時代で、大工業といえども、人間のカで動かす機械が多かった。そのため、従業員の数は多いが、それほど生産性は高くなかった。リヨンの絹織物には「大工業」とよばれる工場が多く、五万八〇〇〇人を使用し、九三〇〇の機械を動かしていた。人口の約半分が絹織物工業に使われていたことになる。

パリは人口約五〇万人であったが、大工場はあまりなかった。レヴィヨンの経営する壁紙工場が、三〇〇人の労働者を使っていたが、これは当時の代表的な工場であった。この工場主は、フランス革命直前にレヴィヨン事件をおこした。

フランスは、イギリスからの最短距離にあり、しかも、経済の発達ではイギリスに次ぐ国であった。イギリスでは、一八七〇年代にすでにワットの蒸気機関が発明され、工場にとりいれられて産業革命がはじまっていた。フランスがその影響をうけないといえば、おかしなことになる。ここで、フランスの産業革命の開始期が問題になる。常識的には、フランスの産業革命は一八三〇年からはじまったといわれている。しかし、蒸気機関が工業に導入された時期を問題にするならば、イギリスの翌年からはじまるのである。その後、フランス革命までに、かなりのイギリス式工場、つまりは機械制大工場が作られたのである。フランスの工業家が、積極的にイギリスの発明、発見をとりいれたのはむしろ当然といわなければならない。

パリの工業家ペリエは、ワットの蒸気機関の技術を発明の翌年にとりいれて、フランス革命までに、約四〇の蒸気機関を製作し、販売した。この工場は、シャイヨー地区にあったからシャイヨー工場とよばれた。その意味では、産業革命の先端をきったといえよう。

最大級の大工業の多くは、王立マニュファクチュアであり、一部特権マニュファクチュアがあった。普通、国立、王立、特権の三つのマニュファクチュアをすべて含めて特権マニュファクチュアとよんでいる。王立マニュファクチュアは、王が株主の一人として参加し、資本の一部を出資し、製造から販売にいたるまでのさまざまな特権や便宜を与える。特権マニュファクチュアの場合は、ただ民間人が設立した企業を認可し、一定の地域における営業の独占権を与えたり、原料輸入に減免税の特権を与えたりしたものである。ただ、どちらも、あくまで

民間の企業者の責任が重く、王立というから、王が全面的に保護するといったものではなかった。革命が近づくにつれて、国家財政が急迫したため、資金面での援助は期待できなくなった。

クルゾーは、海軍用の大砲を製造する王立マニュファクチュアであった。しかし、四〇〇〇株のうち王は三三三株と一割弱の株をもつだけであり、大半の株は、銀行家、大商人、大工業家の手ににぎられていた。

そのほか、アンドレ大砲製造所、リュエル兵器工場(大砲)、サン・テチェンヌ王立マニュファクチュア(小銃)、パリのサン・ゴバン王立マニュファクチュア(ガラス)など、多くの重工業、軽工業があった。従業員も八〇〇人、六〇〇人、二〇〇人というような規模であり、蒸気機関を導入しているところもあった。

また、二〇〇人の労働者を使い、アークライトの水力紡績機を導入したルーアンの王立紡績マニュファクチュアとか、一五〇人を使うイギリス式工場の特権マニュファクチュアがパリ郊外にあった。

オーベルカンプがヴェルサイユ郊外に作った捺染の王立マニュファクチュアは、イギリスと張り合うことができるほどのものであり、新式の機械と蒸気機関を導入した。

ウェッセルランの王立捺染マニュファクチュアも、当時の大工業で、ビデルマングループが経営した。このエ場の経営者ジョアノは、国民公会議員となり、財政委員会に入った。恐布政治のときは、カンボンの下で実務を担当していたが、のちにカンボンが追放されると、彼が財政の実権をにぎり、恐怖政治の財政政策を廃止してしまった。革命を通じて生きのこりながら、財政の中枢からはなれなかったブルジョアの代表とみなすことができる。

フランス革命を通じて、財政の実権はネッケル、ルクツー(国民議会)、クラヴィエール(ジロンド派)、カンボン(恐怖政冶)、ジョアノ(テルミドール以後)と、つねになんらかの形でブルジョアジーの代表者に動かされていたことは、注目すべきことである。

アンザン会社は、北フランスで名門貴族数名によって組織されたものである。その中には、クロワ公爵(王宮の狩猟長官)やセルネイ侯爵(陸軍中将、知事)がいた。この会社は、フランスの約四分の一の石炭を採掘した大特権鉱山であった。革命前に四〇〇〇人の労働者、一二の蒸気機関を使用していた。

ヴァンデルは東部フランスの大鉄鋼業者であった。また領主であり、貴族でもあった。すでにコークスを使う製鉄をはじめていた。またクルゾーの大株主で、経営の指導権をにぎっていた。恐怖政治で当主は亡命したが、遣族が財産を守り、ヴァンデル家は現代までフランスの鉄鋼王としてつづいてきた。

ディートリックはアルザスの鉄鋼業者で、領主、貴族であった。彼ははじめ革命を支持し、ラファイエット派となった。彼のサロンで「ラ・マルセイエーズ」の作者が作曲をしたといわれる。恐怖政治のときには、反革命とされて財産を接収され、処刑されたが、革命後彼の遺族が工場を再建した。

こうした大工業家からはじまり、中小工場主まで、末広がりに存在した。末端は家内工業であり、これは民衆の列に入る。政治家を出したのは、せいぜい中くらいの工場主の階層までであった。たとえば、公安委員ジャンボン・サンタンドレは毛織物圧搾工場主の子であり、公会議員のグラネは富裕な樽工場主、デュ・ブシュは富裕な製紙工場主であった。


株式会社

この時代、多くの株式会社が作られ、その株が株式取引所で売買されていた。

ケース・デスコント(割引銀行)は、銀行の銀行として一種の中央銀行の役割を果していた。もちろん、現在の中央銀行とはちがう。まず国立銀行ではなく、あくまで銀行家が株と引きかえに出資して、それによって集まった基金が準備金となり、それに見合う紙幣が発行されたのである。その意味では、まだ民間の株式銀行・発券銀行にすぎなかった。

国王政府は、この権利を承認するのとひきかえに、資本金一五〇〇万リーブルの三分の二を国庫に徴収した。銀行家達は、特権を与えられる代償として、巨額の出資金を国家に貸付させられたのである。この事実は、特権的な銀行家といえども、貴族の組織する政府に支配されていたことを示すものであった。

理事はすべてパリの大銀行家であり、ネッケルは政府の側からケース・デスコントを保護した。フランス革命のときの理事長はボスカリであった。彼はパリの大商人、銀行家であるが、同時に帽子製造工場を経営する工業家でもあった。銀行家、商人、工業家の三つの性格を兼ねた上層ブルジョアである。また、徴税請負人のラヴォアジェも理事に入っている。

インド会社は、ずっと古くコルベールの時代に設立され、イギリス東インド会社に対抗して東方貿易をおこなう特権を与えられた。ただこの会社は、フランス絶対主義を露骨に反映した会社であった。というのは、大株主に国王をはじめ王族、宮廷貴族、法服貴族が名をつらね、それに商人、銀行家が加わったのである。

そこで、インド会社の株主総会では、王をかこんで貴族が指導権をにぎり、商人は発言の自由がなかった。商人は出資を強制されるだけであり、経営方針についてとやかくいうことはできなかった。つまりは絶対主義の会社というべきである。それでも、東方貿易でかなり繁栄したので、インド会社株は投機の対象になっていた。

そのほか、王立生命保険会社が銀行家クラヴィエールを中心に組織された。工業家のペリエは、自分の作った蒸気機関を使って、セーヌ河の水をくみあげ、パリ水道会社を組織した。このために火災の対策ができると、王立火災保険会社を組織した。

このようなブルジョアジーの活動の中でも、派閥闘争はさかんであり、とくに生命保険会社のクラヴィエール、ドレッセールのグループは、火災保険会社のペリエのグループと対立した。そうした中で、政府に会社設立を承認させるため、財界と政府のパイプ役をつとめる者が出てきた。

有名な者は、バッツ男爵と銀行家ブノワであった。このコンビは、インド会社株を買いこんだり、生命保険会社に投資をしたりして、巨大な資金をうごかした。バッツ男爵は宮廷貴族であり、投機業者であったが、フランス革命では王党派の闘士となった。ルイ一六世から五一万リーブルの大金を受取って反革命運動をすすめ、その後国王の救出作戦、王妃の救出作戦を進めて、間一髪で失敗した。また、その後の王党派の反乱にも重要な役割を演じた。


ブルジョアジーは被支配者であった

バッツ男爵のような場合は、宮廷貴族とブルジョアが一人の人間にまとめられているから、支配者か被支配者かわからなくなるが、このような少数の実例をのぞくと、ブルジョアジーはやはり被支配者であったということができる。

たしかに、上層ブルジョアジーに属する者には、個人財産では貴族に匹敵するほどのものがあらわれた。しかし、それだけでは権力の座につくことができない。また、権力をにぎっている宮廷貴族を意のままにうごかすことはできなかった。それどころではなく、いろいろな方法で宮廷貴族に利益の一部を吸い上げられていた。

たとえば、もっとも特権的だといわれていた徴税請負人についても、政府と徴税請負人の間接税徴収の契約をめぐって、そのことがいえる。徴税請負人は、直接政府と契約することができない。徴税請負人を代表して、一人の貴族が政府と契約する。すべては、その貴族の名においておこなわれるが、その報酬として、その貴族が年金を受取る。つまり、徴税組合に貴族が寄生しているのである。

インド会社の場合は、会社は特権会社であっても、その中での発言権は商人やブルジョアにはなく、国王を頂点とする貴族の経営方針にしたがわなければならなかった。これは、プルジョアジーの会社ということすらできない。

ケース・デスコントは、ブルジョアジーの中央銀行ということができるが、せっかく出資した資本金を、国王政府が財政赤字を理由に強制的に借入れた。そこで準備金は減少した。しかも政府財政は赤字を増加させる一方であったから、ケース・デスコントの信用が落ち、紙幣の流通が困難になった。これも、フランス革命をひきおこした理由である。ケース・デスコントは、国王政府の喰いものにされていたということになる。

特権的商人、特権会社と「特権」の名がついても、まだ支配者の地位に上昇したわけではなかった。彼らが支配者の地位に上昇したのは、フランス革命によってであった。このことをはっきりさせておかなければならない。なぜなら、特権商人層が革命前、すでに支配者になっていたと主張する学説が日本で根強いからである。こうした学説は、とくに大塚史学と呼ばれる学派から強力に主張されている。

「すでに『初期財閥』型構成を示す政商的特権商人層が、王制当局と密接に絡み合いつつ、絶対王制の階級的支柱として最高の支配的地位を確立し」(中木康夫『フランス絶対王制の構造』三三三頁)。

これならば、特権商人はすでに革命前に支配者であったことになる。この解釈の違いは、フランス革命の解釈から、日本の歴史への適用に至るまで、基本的な喰いちがいに発展する。

要約 ブルジョアジーと商工業

ブルジョアジーは被支配者であった、。

ブルジョアジーとかブルジョアという言葉から受ける印象は、今の日本人と当時のフランス人の受ける印象が全然違う。「彼の趣味はブルジョアだ」というと、「下品、ろくでもないい、趣味が悪い」という風に聞こえた。では良いのはどうかというと、「ノーブル」つまり貴族的でなければならない。どんなに金を持っていても、貴族でなければ、「何者でもない」といわれた。何物でもないものが何ものかになるためには、娘が必要だ」、ネッケルという最大の銀行家が娘をスエーデンの貴族スタール男爵と結婚させたとき、こういわれた。第三身分は何者でまなかったが、これから何者かになると、シエイース(シェイエース、シーズなど呼び方がある)という副司教が「第三身分とは何か」で書いた。つまり、フランス革命前では、金はあっても、権威も、権力もなかったということである。これをしっかりと頭に叩き込んでから、フランス革命と学ばねばならぬ。

ブルジョアジーがすでに権力に到達していたかのようにいう歴史観があった。

倒錯の歴史観はだめですよ。

今から約100年前のころであり、それが今でも時々ネツト似出てくる。この学説の最強の人は、ルフェーブルといった。多くの人がこの人の学説を引用した。この人の学説の要点は、フランス革命の前に、すでにこの階層が権力に到達していたというものである。それに対する反発を貴族がし始めて、まずは貴族革命というのがあり、それから革命が展開されたという。この貴族革命説という言葉も、今なおネットの中に出てくる。これは倒錯の歴史観である。

私が具体的な商工業者の姿を紹介しているのは、第三身分の中の成功者にはなったが、まだ権力には到達していない者の姿を描いたものだと理解してほしい。つまり、ブルジョアジーは「まだまだ」であった。これが納得できれば、具体的な事実は軽く読み飛ばしてもらえばよい。

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