2022年6月15日水曜日

05-市民革命ー市民革命としてのドイツ統一戦争

 5 市民革命としてのドイツ統一戦争


自由主義のいきづまり

一八五八年、国王は発狂し、弟のウィルヘルムが摂政になり、六一年、即位してウィヘルム一世となった。摂政のときおこなわれた下院選挙で自由党が絶対多数をしめ、一〇月、マントフェルの保守党内閣は退陣した。かわって、自由主義貴族アウェルスヴァルト、パートフシュヴェーリンらが内閣をつくり、「新時代」がきた。

この内閣は、上層ブルジョアジーとの協調にむかった。五九年、サルジニア・フランス連合とオーストリアの戦争がはじまった。イタリア統一戦争である。このとき、プロシアは軍隊を動員するため「動員債」を発行し、軍備をととのえなければならなかった。五分利付で九、〇〇〇万マルクの公債だったが、国立銀行だけでは消化できず、大蔵大臣パートフはハンゼマンに協力をたのみ、ハンゼマンは、銀行家ブライヒレーダー、ワルシャウアー、メンデルズゾーン、シックラーらをあつめて公債を引受けた。

さて困難はそれからだ。この戦争がおわると、フランスのナポレオン三世は、ライン沿岸(西部ドイツ)に領土をひろげる野心をしめしはじめた。これに対抗するには、ドイツ統一がぜひ必要だった。しかし、オーストリアは、ドイツ連邦を牛耳り、ドイツ統一を妨害する。プロシア以外の中小諸国の政府は、オーストリアにしたがい、プロシアには敵対的である。こうした事情のなかで、プロシアのとるべき道は、二つしかなかった。このまま静観して自減するか、それとも、思いきった冒険をして、ドイツ統一の主人公になって死中に活をもとめるかだ。ここで大問題になったのは、軍事費の増加だった。孤立したプロシアが、ヨーロッパの二大国を相手にして勝負をするには、軍備拡張、とくに陸軍の増強がぜったいに必要となる。それは増税になる。ところが、これをすすんで負担するものがいない。

まず、中小ブルジョアジーを背景とする自由党左派が反対の声をあげた。

「租税の公正な負担、立憲君主民主主義にもとづくドイツ統一」である。だがこれは自由党の右派、すなわち自由主義貴族と衝突した。自由主義貴族は、やはり貴族として減免税の特権をもっている。自分からそれをすてることはない。ついに左派は自由党を脱党し、「民主主義者」と合流して「進歩党」をつくった(一八六一年)。

ここで注意すべきことは、進歩党も自由党もドイツ統一にたいする昔の情熱を失っていったという傾向である、なるほどロではとなえている。だが、空論であり、空論であることが自分でもわかっているから、大ドイツ主義をとなえる。つまり、オーストリアをふくめた統一である。ゆるぎない絶対主義の国オーストリアを、どのようにして「民主主義的統一ドイツ」に含められるのだろうか。いきつくところは、ドイツ統一に反対の役割をはたすということだ。進歩党の主な目標は、軍備拡張に反対し、その費用があれば「民生」の向上にまわせということになった。

自由主義貴族も、ドイツ統一を高唱すると自分に租税がふりかかってきそうになった。それよりも現状のままで権力の座に居すわり、ぬくぬくとした環境にいたい。そうすれば、自由主義的風潮にものり、いい顔をつづけられる。だから、穏健自由党は、軍備拡張、ドイツ統一の主張をひかえるようになった。こうして自由主義は、昔の意味を失い、そのとなえる理想とは逆に、結果的にはドイツの分裂をつづけさせ、封建的ドイツの残存に協力する役割に転落した。それは同時に、国際的にみると、ドイツの自減につうじた。自由主義の進歩的役割はおわった。


ビスマルクの登場

もちろん保守党の首領ゲルラッハは、統一運動に反対で、封建的分裂を最上と考えている。

だがこの保守党の一角がくずれて、ここからドイツ統一をめざす勢力がつくられはじめた。そのあらわれは、ユンカーの出身の将軍ローンにみられる。

軍備拡張が問題になりかかったとき、陸軍大臣はボーニンだった。かれは軍事費の増加に反対し、「民衆の幸福をふみつぶすことになる」といった。これにたいして、摂政は「プロシアのような国では、軍事的必要は、財政的、経済的な事情にしばられるわけにいかない」と声明して対立した。五九年ボーニンは辞職し、ローンが陸軍大臣となり、参謀総長にモルトケを登用し、摂政と相談して軍備拡張案をつくり、九五〇万タラーの増加を議会に要求した。

このときの内閣は、まだ穏健自由党の首相アントン親王、外務大臣シュライニッツを中心とした自由・保守の連立内閣だった。議会では自由党左派が優勢で、軍事費を二回までみとめ、三回目を拒否した。六一年、下院が解散され、総選挙となったが、このときはっきりとした党派にまとまった進歩党が第一党になった。自由党内閣は退陣し、アドルフ親王を中心にした保守党内閣が、六二年に成立した。だが、下院は、進歩二三五、保守一〇〇、自由二三の議席であり、軍備拡張案はとおる見通しがない。九月、この内閣もつぶれた。

進退きわまったウィルヘルム一世は、退位しようかと考えた。このとき、陸軍大臣ローンがこの難局にあたるべきただ一人の人物だといってビスマルクを推せんし、ビスマルク内閣が成立した。


ビスマルクはユンカーの代表者でない

ドイツ統一にのりだしたビスルクは、だれの代表として行動したのであるか。ふつうの書物には、かれがユンカーの代表者だと書かれている。

統一ドイツの「初代宰相ビスルクもこのユンカー層の代弁者で、かれは約二〇年間その地位にあった……」(ソビエト科学アカデミー、『世界史』江口監訳、近代8、八〇頁)

だが、それはちがう。たしかにユンカー出身である。そして、三月革命のときはユンカーの戦闘的な闘士として活躍した。そのため、宮廷党の首領ゲルラッハの信用をえた。かれの推せんで、一八五一年、ビスルクは、ドイツ連邦議会のプロシア代表になった。ここでの経験をとおして、かれはユンカーの代表者としての立場からはなれていったのである。オーストリアとの対決が、宿命的であると知ったことによる。

着任してから一カ月ののち、レオポルト・フォン・ゲルラッハにそのことを書いた。

「オーストリアとプロシアの親善協約があるのに、ここでは、オースリアかプロシアかという党派的な立場が問題になっているように思えるのは悲しいことである。ここでの分類は、オーストリア的、プロシア的、またはどちらでもないというふうにひかれなければならないだろう。ところで、隣国の君主たちは、はっきりと反プロシア的であり、心の底から親オーストリア的である」

ビスルクとトゥーン(オーストリア代表)は、ドイツ連邦の共同艦隊(北海艦隊)の問題について対立した。この艦隊の水兵の給料を、どのようにして支払うかというのである。ロートシルドが保管している共同基金から支払うというビスマルクにたいし、トゥーンは、この資金に手をつけず、これを担保として借款をしようといった。このはげしい対立のため、共同艦隊は解散され、競売された。これについてビスマルクはいう。

「けっして個人的な対立でなく、両国政府のものであり、一時的なものでなく、政治的、歴史的関係によるものである」

「われわれは、おたがいに、ロの前にある空気を吸っている。どちらかが屈伏するまで、敵対しなければならない。それがいかに不愉快なものであっても、それは無視できない現実だと思う」

また、のちの思い出としていう。

「私は、私の転向について思い出す。それは私が、いままで知らなかったシュワルツェンべルグ公の、一八五〇年一二月七日の訓令を見たことである。……私はそこで、かれ(オーストリア首相)の政策『プロシアの地位をおとしのちに叩きつぶす』を知った。これが私の青年時代の幻想を破ったのである」

こうして、オーストリアとの対決をさとった瞬間に、宮廷党の首領ゲルラッハと対立した。ビスマルクは、フランスとの関係を改善して、オーストリアにあたろうと考えた。

「われわれは、国内政策ではまったく一致しているが、君の対外政策には賛成できない。それは現実を無視しているといわなければならない。……同盟は、共通の利益、目的があってこそ成立する。……ところが、わが国が同盟しようとしているオーストリアとドイツ諸国については、わが国の利害が一致しないのであった。……もちろん、私は、フランスと同盟してドイツに陰謀をくわだてようとするのではない。しかし、フランス人がわが国に冷静な態度をとっているかぎり、かれらと親しくするのは、かれらに冷くするよりも合理的ではなかろうか」(五七年五月二日)

こういう考え方は、正統派のユンカーには受入れがたい。かれらにとって、ナポレオン三世とは、革命の成上り者であり、ブルジョア君主制の代表である。それだけに、ビスマルクの考え方をきくと、正統派ユンカーの目には、ビスマルクが「革命」に同調しているように思える。そこでゲルラッハは答える。

「それでは君は、プロシアとオーストリアが対立し、ボナパルト(ナポレオン三世)がデッサウまで支配し、ドイツでは、かれに相談なしになにごともできなくなるという状態を幸福だと考えるのだろうか。……私の政治的原則は革命にたいする闘争であり、またつねにそうだろう。君は、ボナパルトに革命のがわにつかないよう説得できない。かれは、革命そのものである。なぜなら、かれは革命から利益をえているからである」(五月六日)

こうして、ゲルラッハとビスマルクの友情はさめた。そのとき、ビスマルクは、宮廷党=正統派のユンカーの代表者であることをやめた。それではだれの代表者になるかといっても、すぐには新しい勢力がつくれるわけではない。さしあたりは孤立する。その頃、かれは駐露大使として、国内の事情からはなれた立場にたつことになる。かれはただ、オーストリアとの対決、ドイツ統一という目標をもっただけである。その目標のために現実に可能な方法をとり、それに賛成するあらゆる勢力を結集するという態度がきまった。

「じつに政治家は、森のなかをすすむ旅人ににている。かれの目標は知っているが、そこへ行きつく道についてはあらかじめ定めていない」


ビスマルクのマキュベリズム

かれは権力をにぎると、軍備拡張、オーストリアとの対決の政策をすすめる。国内では、進歩党、自由党、保守党との対決になる。いわば、全部を敵にまわしているようにみえるが、かれにとって都合のよいことに、この三派はまた敵対している。そのあいだをぬって、かれはどこに支持者をみつけようとするのか。

その第一は、ドイツの中小諸国のブルジョアジーである。かれらは、ドイツ統一をのぞみ、プロシアがそれにのりだすならばたすけようとかまえている。五九年、オーストリアとフランスが講和をむすび、フランスの領土的野心がドイツにうつった頃、この危険にめざめた中西部ドイツのブルジョアジーが国民同盟をつくった。その中心人物は、ハノーヴァー人のべニクセンである。かれらの利益を代表して、この年経済学者の大会がフランクフルトにひらかれ、「工業上の自由、国民的統一の実現」を主張した。

五九年八月、国民同盟は宣言した。

「われわれは、祖国ドイツの独立が危くなっていることをしる。それは、オーストリアとフランスの講和によって、かえって増大した。この危険のもっとも大きな理由は、ドイツの体制の欠点からくる。この体制をただちに変革することによってのみ、危険をのぞくことがてきる。……このために、ドイツに強力な中央政府をつくり、全ドイツの国民議会を召集する必要がある。……そしてプロシアが、強力で自由な体制にむかってすすむかぎり、ドイツ人はプロシア政府を最大限に助けなければならない」

この運動は、ドイツ諸王国の政府と対立し、ハノーヴァー政府は国民同盟を弾圧した。ビスマルクはそこに目をつけた。国民同盟の流れをくむブルジョアの支持をえて、各国政府を撃破しようというのだ。この政策は、ながい時期にわたって、しだいに整理されてきた。

「プロシアの利益は、オーストリア以外の多くの連邦人民の利益と完全に一致する。しかし、ドイツ連邦諸国政府の利益とは一致しない」(一八五八年三月)

このばあい「人民」とは、ブルジョアジーと解するのであり、かれは、ブルジョアジーが下層階級と同盟した革命の道をすてはじめたことを知っていた。

五一年「革命的な歌を高唱」した青年にたいし、「ブルジョアの思想として注目すべきことは、『所有階級』がそれにたいして憤りをあらわしていることである」という。このブルジョアジーと同盟しても、財産をくつがえす「革命」にはならないだろうとみた。

しかし、プロシアでは事情がちがう。国民同盟のながれをくむのは、進歩党であり、進歩党は自由を要求し、軍事予算に反対する。これでは現実に、ドイツ統一を妨害する。プロシアでは、これを弾圧しなければならない。そのふくざっな関係についていう。

「われわれは、小国ゴータ派(国民同盟の前身)にたいして、ちょうどルイ一三世、一四世が、ドイツのプロテスタントにたいしたのとおなじ関係にたっている。わが国においてかれら『ゴータ派』はなんの役にもたたないが、小国においては、かれらは、わが国について何かを知ろうとつとめているただ一つのものである。かれらのほかは、『黒』(オーストリア派)か、または民主主義者である」(五三年一一月、ゲルラッハあての手紙。ルイ一三世、一四世などのフランス国王は、国内での新教徒を弾圧しながら、ドイツの新教徒をたすけて、敵国オーストリアの力を弱めたことがあった。この故事をいう)

こうして整理されたかれの考えかたはローンへの手紙にまとめられた。

「私の感じをところでは、わが国のいままでの政策のおもな欠点は、われわれがプロシアでは自由主義的に、外国にたいしては保守的に、すなわち、われわれの国王の権利を安く、外国の君主をあまり高く買ったことである。それは、諸大臣の立憲的な傾向と、正統主義的な外交政策のためである。私は、私の君主には極端なまでに忠実だが、よその国の君主には、一滴の血もやる気はない」

これは、ビスマルクをローンが推せんする三カ月前のものである。そこで、首相になってもその方針をつらぬく。

かれは、「普通選挙法」の草案を紙ばさみのなかにかくしもっていた。そして、六五年オーストリアが全ドイツ君主会議を召集したとき、プロシア王に出席させず、あわせて将来、普通選挙制を実施すると声明し、国民同盟の支持をえることにつとめた。中小諸国の政府の足元をさらおうという政策である。


決死の鉄血宰相

六二年九月、ビスマルクが首相になり、軍備拡張案が下院に提出され、進歩党の反対にあって通過しないとみると、六三年五月、上院の承認だけで四年間は有効だといい、下院を無視して軍備拡張を実行した。

ドイツ統一は「言論によってではなく、鉄と血によってのみ実現される」

これにたいして、進歩党はごうごうたる非難をあびせ、自由主義貴族もビスマルクに反対し、シュヴェーリン伯などは「今に革命がおきる」と脅迫した。

だがビスマルクは、六月、出版条例で追い打ちをかけ、政府批判派の新聞を弾圧した。非難はますますはげしくなり、ついに自由党に同調する皇太子夫妻(妃が英国ヴィクトリア女王の娘として主憲主義者)までうごき、皇太子は、ダンツィッヒ市で市長の要請をうけて市民のまえにたち、出版条例を暗に非難した。

こうした反対を、かれは覚悟していた。かれが首相になる直前、王と会見したときの問答がそれをしめす。

「君は、多数決にこだわらず支配しようとするのか」(王)

「そうです」(ビスマルク)

「予算案が成立しなくてもか」(王)

「そうです」

「なによりもまず、王は、退位のことについてふれた文書を仕未し、そのうえ、こうした考えかたをすてさらねばなりません」

もし革命がおきたばあい、「私はストラットフォード伯のように死にますから、陛下は、ルイ一六世のようにでなく、チャールズ一世のように信念をもって死んでいただきたい」

やがて、シュレスヴィッヒ・ホルシュタイン問題がおきた。ここには、キール軍港があり、ドイツ民族の住民が多いのに、デンマークに占領されている。三月革命のとき、革命運動はデンマークからの解放運動になり、これを利用してプロシアは出兵してデンマークと対戦したが成功せず、八月、マルメーの休戦で手をひいたことがある。

六三年、デンマーク王が死ぬと、ビスマルクは、ドイツ統一の第一歩として、この地方を獲得しようとした。「だがあらゆる人が私に反対である。オーストリア、ドイツの諸君主、プロシア宮廷の貴婦人、自由党、イギリスである。ただナポレオン三世だけは反対でない。王すらも、ながいあいだ私の考えをとり入れようとはしなった」「皇后、皇太子夫妻、ドイツ諸君主、そのうえ、ドイツの与論をつくっているとおもわれるひとびとの非難は、王に影響をあたえないはずがなかった」

自由主義的な皇太子は、ビスマルク外交を「暴力的無責任」と非難した。


貴族の一部とビスマルク

ビスマルクは、まさに四面楚歌のなかにいる。それでいながら、がっちりと権力をにぎっている。失脚もせず、殺されもしない。それならば、なにか強力な支持者がいるはずだ。その支持者を知ることが、ドイツ統一の本質をみるためにもっとも重要なことである。

かれの支持者はなにか。それは、最初からまとまった勢力としてあったわけではないが、諸党派、諸階級の対立、混乱のなかから、かれのもとにあつまってきたものである。保守党=ユンカーの少数派、ブルジョア的大貴族のかなりの部分、上層ブルジョアのうち軍需工業に関係をもつものである。

貴族・ユンカーのうち、きっすいの軍人のなかに、オーストリアにたいする屈伏を憤慨し、プロシア王国軍の強化をのぞむものがかなりいた。こういう人びとは、宮廷党の政策に反対し、ビスマルク支持のがわにまわる。陸軍大臣ローンはその一人である。ナッメル将軍は、五一年、ときの王弟(のちの国王)に書いた。

「私は去年一一月、愛国の誇りをもって、祖国の奮起と興隆をみた。それは、ちょうど一八一三年(祖国解放戦争)のときとおなじであった。残念なことに、私の誇りはたちまちきえた。

……私は、政冶について多くを知らない。とくにマントイフェルの政策についてはそうである。しかし、たとえこのような政略についてわずかしか知らないとしても、殿下の武力にたいして期待をもち、また将来についても期待をもつものである」

つぎに、貴族・ユンカーのうち、商工業に進出した人物、または、商工業者とさまざまな動機で結合し、同情者の立場にたった人物がいる。

カルドルフは、メクレンブルグの貴族、シレジェンに騎士領をもっていた。四〇年代製鉄所を経営し、六九年国営ケーニッヒス製鉄所とそれに付属する鉄鉱床・炭坑の払下げをうけ、合併して七一年に株式会社合同ケーニッヒス・ラウラ製鉄所を設立し、監査役主席になった。

シュトウームは、ザールの貴族でザールの大鉄鋼業者だった。この二人は、六六年、保守党から脱退して、自由保守党をつくった。自由保守党は、もちろんビスマルクの完全な与党である。

オーベル・シレジェンの大貴族であり、かつ鉄鋼業を経営しているドネルスマルクも、ビスマルクの支持者である。このような、大土地所有(=貴族)、山林鉱山所有、工鉱業経営の結合の三位一体をしめすものには、ティーレヴィンクラー、レナルト、フルドシンスキー(鉄鋼)、プレス、ラティボール、ホーヘンローヘ(石炭)などがいる。


ビスマルクと大銀行家

大銀行家の多くも支持者である。ブライヒレーダーは、ユダヤ人でベルリンの大銀行家、フランスの大銀行家。ロートシルドと深い関係にあり、その代表者格だった。ビスマルクは、ブライヒレーダーととくに親しく、私財の管理をまかせきりにし、かれが買入れた品物の請求は、ブライヒレーダーにされることが多かった。ビスマルクは、かれが提案したプロシア国立銀行の案を採用し、大蔵大臣ではつくりだせなかった軍事費をかれにたのんだ。かれは、英仏二国にいるロートシルド家と協力し、プロシア公債の発行に成功した(イギリスでは、ロスチャイルドと発音する。もとはドイツの家族からでて、兄弟がそれぞれ英仏に派遣されて住みついたのである。両国ともに最大級の銀行で、英国のロスチャイルドは、首相ディスレリーがスエズ運河株を買収するとき借金を申しこむと、大英帝国を質に入れるといわせて金を借した。またド・ゴール大統領のもとでの首相ポンピドゥーは、ロートシルド銀行の出身である)。ビスマルクは、かれのおかげで議会や大蔵省を無視できた。鉄血宰相の自信の背影である。

ブライヒレーダーは、七一年、フランスとの賠償問題がもちあがったときも、ヴェルサイユによばれている。

またビスマルクは、ブライヒレーダーの仲介で、プロシア軍事公債引受のための「ロートシルド・コンソルティウム」をつくった。これは、ディスコント・ゲゼルシャフトが指導権をもち、ブライヒレーダー、ロートシルド、ダルムシュタット銀行が参加する公債引受団である。

これで、ハンゼマン(ディスコント・ゲゼルシャフト頭取)、メーヴィセン(ダルムシュタット銀行)も、かつては自由主義者だったが、いまはビスマルクを支持するがわにまわったことがわかる。

ビスマルクは、フランクフルトのロートシルド家も支持者につけた。この大金融業者は、かつてビスマルクが北海艦隊の問題で、オーストリアと対立したとき、オーストリアのいいなりになったので、ビスマルクは怒り、絶縁しようとした。このとき、カール・ロートシルド(四男)がビスルクを訪問してあやまり、そののち、二人のあいだは親密になった。ビスマルクは、ときの首相に「これからのちロートシルドに、プロシア王国の宮廷御用をまかせてはどうか」という手紙をだしている。また「ロートシルド家は、けっして反プロシア的な傾向をもっていない」とも報告した。こうして、プロシア公債引受団に参加したロートシルドは、プロシアとオーストリアが開戦したとき、オーストリア公債の引受けを拒否し、メッテルニッヒ夫人が「これからは、ロートシルド家を紳士としてあつかわない」と宣言するまでオーストリアに憤慨された。

これら大銀行家は、たしかに特権的でもあり、寄生的ともいわれるような性格をもっていた。しかし、ユンカー保守党とまったくおなじ利害をもっていたというわけでもない。たとえばかれらが「プロシア農工信用組合銀行」をつくり、ここに大貴族の富をひきこもうとしたとき、宮廷党の内閣に拒否された(一四一頁参照)。そのかぎり対立があるわけであり、ビスマルクが商工業を育成しようとすれば、そちらへむかうのはとうぜんだ。

たとえば、五七年の経済恐慌で破産したドルムトン鉱山会社を、ブライヒレーダーとベルリン商業銀行が買取り、製鉄所と合併し、プロシア鉱山会社をつくる申請が六六年二月になされた。すると、三月に許可された。宮廷党が許可をひきのばしたのとは大ちがいである。


クルップとビスマルク

クルップは、三月革命のときに、自分の労働者を革命に参加させなかった。工場にくれば賃金を支払った。それだけの統制力をもっていた。ところが、プロシア政府とは、ながいあいだ対立していて、政府の援助をうけられなった。

それは、かれがほかの工業家とちがって、時代の先に立っていたからである。かれは、どんどん、優秀な製品をつくった。優秀な製品には、それだけ大きな設備がいる。そのためには、政府の財政からの援助がいる。当時の政府には、そのための余裕がない。そこでいきおい冷次になる。

陸軍省は、クルップの申し出をことわり、耐久性がないことを承知のうえで、安上がりの青銅製の重砲をつくらせていた。クルップは、プロシアに野砲もすくなく、陣地砲も古くなったことを忠告していた。その意見は採用されなかったが、軍人のなかの少数は、クルップの仕事を理解していた。

ホーヘンローエ公は、砲兵に属し、大砲の試験委員としてクルップの大砲のすばらしさをみとめた。そして、これを拒否した陸軍省を「この時代の、もっとも笑うべき官庁」といった。

ショルンは国防大隊中尉から、のちに大審院長になったが、クルップの胸甲のすばらしさをみとめた。かれは、クルップと四〇年あまりの交友関係をもった。

こうした状態は、宮廷党内閣の退陣、自由主義貴族の内閣成立でうちやぶられた。五九年五月、政府は、クルップに野砲として、三〇〇門の鋳鋼砲を注文した。このおかげで、兵器工場としてのクルップ会社が生まれた。かれを支持したものに、摂政ウィルヘルム一世、首相ホーヘンツォルレン・アントン親王、あたらしく総務局長になったフォイグレーツ将軍などがいる。

しかし、支持はまだ十分でなかった。内閣には強力な敵がいた。それは、皮肉なことに、自由主義者の通商大臣フォン・デル・ハイトだった。クルップは、かれと個人的に喧嘩をしたことがある。そこでかれの鋼鉄をプロシア国鉄に採用してもらおうと運動しても成功しなかった。

かれの製品の優秀さは、外国や、ほかのドイツ諸国ではみとめられて注文がきていた。その事臂を説明し、首相アントン親王に、もしかれの工業が外国へ追いだされたとすると「その責任は、大臣ハイトのものである」とまで書いた。首相と摂政はクルップのがわに立ち、クルップの製品を採用すべしと通商大臣に命令したが、大臣は命令の手紙を四週間放っておいて、拒否の返事をした。

六五年、クルップの危機がきた。政府のもっていたミューゼン鉱山(鉄)が競売された。このため、かれはその鉄鉱石を利用できなくなった。そこで、鉄の品質はやや劣るが、ザイン鉱山を国庫から買うことにきめた。だが、これにはげしい反対がおこった。ハイトを中心にした官僚、新聞の勢力である。かれらは、競売にせよと主張した。クルップはいう。

「わたしは、おなじ材料からおなじ製品をつくるために鉄鉱石が必要だった。とくに大砲のためにそれが必要だった。わたしは陸相ローンをたずねた。だがかれがそのときしめしたものは、わたしが、ほかのものをたずねてなんども経験したような無関心であった」(まったく無関心ではなかったが、役目をとびこえ、王に直接進言するのをことわったのである)

「わたしは心配と興奮のあまり病気となり、数週間のうちにみるかげもなくやせおとろえ、おかげで髪はまっ白になった。もしあのとき、炭坑と鉄鉱所が手に入らなかったら、工場は減んでいたろう」

このとき、強力な援助をしたのはビスマルクだった。かれは、クルップの工場を視察し、邸宅に二晩とまりこんで会談し、意気投合した。そのときにビスマルクがいったという言葉がある。

「わたしは、あることを正しいと考え、またそれが必ず達成できると考えると、もっとも老練で小利口な人間が、それを不可能だといっても、わたしはどこまでもやりぬく」

このすぐのちに、鉱山の事件がおきた。ビスマルクは、クルップを強力に援助し、プロシアの名誉と義務」のために全力をあげるといった。国王に直接進言し、クルップへの売却を実現した。

「とにかく採用ときまった。だが、これは当時の官庁行政の恥だったが、ビスマルクは国王とともに、わたしにこのための援助をしてくれた」


自由主義的ブルジョアとビスマルク

ふるくから信念として自由主義をもっていたブルジョアジーは、ビスマルクにたいして微妙な態度をとった。その自由主義思想は、ビスマルクの弾圧政治に反対だ。しかし冷静にみると、その政策はかれらの利益になることが感じられる。ときには、実質的な利益をえることがある。すると、経済政策には賛成せざるをえない。信念と実利の分裂がおこった。そこで、口先で反対するが、まあまあということで結局協力するようになる。

ながいあいだ、通商大臣を歴任したハイトは、ビスマルクと衝突して辞職したが、議員としては、ビスマルクの方針に賛成した。

ハンゼマンのディスコント・ゲゼルシャフトも軍事公債引受けで協力した。なお、この銀行は、オーストリアの公債を六四年に引受けた。これは同国とプロシアの戦争の直前である。かれの自由主義的信念と、絶対主義国の公債を引受けてその国の経済をたすけることは矛盾するが、商売とわりきっている。こうみると、ハンゼマンのその場かぎりの利益と、国家的見地からみたながいあいだの利益とは矛盾する。かれの自由主義や、経営だけでは、自分らの階級を救うことがではない。ここにビスマルクの歴史的意味があった。ビスマルクの政策のほうが、かれらの長期的利益を実現していた。その意味では、賢明な指導者と、おくれた大衆(といっても有産階級の)のずれがあったわけだ。


ジーメンスとビスマルク

ジーメンスは、現在大電機会社で、日本の富士電機と提携し、大株主になっている。戦前、日本海軍と取引きをして、ジーメンス事件という有名な汚職事件もおこした。

ウェルナー・フォン・ジーメンスは、農民の子で、砲兵士官になり、四七年一〇月、技師のハルスケといっしょに電気機械の小さな工場をつくった。資金は、いとこで法律顧問官のゲオルグ・ジーメンスから六、〇〇〇タラーを借りてつくった。これが、ジーメンス・ハルスケ商会のはじまりである。

かれは、三月革命のとき、キールで市民軍を組織してデンマークの要塞を攻略し、司令官になったことがある。このとき、電気機雷と砲撃で名をあげた。そののちは、電線を敷設することに活動し、政治的には、国民同盟に入って自由主義とドイツ統一をとなえた。六二年の選挙で当選し、議員となって進歩党にくわわった。この党は、ビスマルクの軍拡案に反対投票をした。ジーメンスはいう。

「問題の中心は、政府案でプロシア陸軍がじっさいに二倍になり、それとともに陸軍予算がふくれたことであった。国内の空気は、この軍事費の負担にたえられない。それは国民をすべて貧困のどん底につきおとすというようだった。……プロシアがドイツを統一するといった信念、プロシアの興隆にたいする信念は、かげをひそめた。ドイツの統一と、将来の発展にたいするもっとも真剣な狂信者も、プロシアの愛国者ですら、この新しい、ほとんど調達不可能のような軍事費を背負いこむことは、みとめられないと考えた。議会の大多数は、心苦しく思いながらも、政府の再編成案を否決してしまった」

このとき、かれは否決を心苦しく思ったため、ビスマルクと進歩党との調停をしようと努力した。そうして匿名のパンフレット「軍事問題について」をかいた。

プロシアがオーストリアをやぶったのち、ビスマルクが下院に軍事予算の「事後承認」案をだしたとき、進歩党の幹部はこれも認めまいとした。このとき、ジーメンスは党大会で熱心に力説し、政府と進歩党の妥協につとめ、そのため軍事予算は承認された。

こういうかれの態度は、それなりに原因がある。というのは、プロシアがオーストリアをやぶった原因のひとつに、鉄道と電信を有効につかった戦術があった。軍備拡張に電信の発達がともなったのである。五〇年の電信局四〇、電信線四、〇〇〇キロメートルが、六六年には電には電信局一、二〇〇、電信線五〇万キロメールとひじょうな発達をしめした。ジーメンスは、この注文にあずかれるわけだ。そのような波にのって、かれの会社は、自己資本だけで成長していった。そこに、ビスマルクとの一致があった。


ビスマルク権力の背影

ビスルク権力の支柱は、貴族・ユンカーの一部、とくにエ鉱業に進出したブルジョア的貴族と、重工業の産業資本家、大銀行家である。

これを足場として、一方でユンカーの保守派=宮廷党をおさえ、他方で自由派の貴族や進歩党をおさえる。進歩党の背後には、軍拡で利益をうることのない商工業者の不満があった。自分の支持者もよせあつめで不安だが、反対派も分裂していることがつよみだ。

かれは労働運動にも目をつける。指導者ラッサールと会見し、「われわれは、ブルジョアとの闘争で、利害が一致しているではないか」とさそいをかける。これは、進歩党系をはさみうちにしようとする策略である。

しかも、国内では自由主義を弾圧し、国外には自由主義をしめし、オーストリアとの戦争を準備して軍備の増強につとめる。

この政策はまた、当時の経済状態の必要に一致した。五七年に深刻な経済恐慌があり、工鉱業はとくに打撃をうけた。ハルペン会社やフェニックス会社は破産寸前となり、ドルトムント鉱山会社は破産して、ベルリン商業銀行に買取られた。しかし、不況のため五〇年代は営業が停止されたままだった。

こういう沈滞をやぶったのが軍備拡張である。これとともに鉄道、電信がのびた。それが好況へ転じさせた有力な原因になった。クルップ、ジーメンスはもちろんのこと、多くの産業資本家がこの波にのって成長した。

グリロは、不況のときに鉱山を買いあつめ、好況になるとともに大規模な炭鉱を開発し、鉄とむすびつけた。

シュトロウスベルクは、ドイツ統一までに鉄道に関係する総合的企業をつくりあげた。また、ボルジッヒ(機関車)、ティッセン(ザールの炭鉱業カイザー鉱山の経営者)、シュティネンス(ルールの石炭)らが大いに発展した。

ティッセンやシュティネンスはのちに、ナチスの支持者となり「死の商人」だといって非難されるが、この時代は新興産業資本家ととし、プロシアの未来をにない、自分の利益とドイツの利益を一致させることができたのだ。ビスマルクのさぐりあてた方針が、期せずしてかれらの利益と一致した。


ビスマルクの勝利

六四年、プロシアとオーストリアの同盟軍がデンマーク軍をやぶり、一〇月のウィーン条約でシュレスヴィッヒ、ホルシュタイン、ラウエンスブルグの三州がドイツの手に入った。

つぎの問題は、この三州をだれがとるかということだった。ビスマルクは、プロシアがとり、とくにキール軍港をとりたいと考えた。

オーストリアは、これをプロシアへやるかわりに、プロシアの領土がほしいといった。

他のドイツ諸国は、この三州を独立の小国家にして、アウグステンブルグ公を君主にたてたいといった。

ただ、ハノーヴァー王国だけは、これにも反対した。そうすれば、アウグステンブルグ公が自由主義的憲法を発布し、プロシアのがわにつくからというのである。つまり、この国は、もっとも反プロシア的な態度だった。

オーストリアは、領土をプロシアにもとめて拒否されると、独立国をつくる案にかたむいた。

こうなれば、戦争はさけられない。ビスマルクは、イタリア国王との同盟をもとめ、ナポレオン三世には、ライン地方をゆずってもよいというロぶりをもらして中立の態度をさそい、戦争の体制がととのうと、開戦を主張した。

プロシア国内では反対がうずまいた。保守党=宮廷党の多数は反対した。かれらは、ビスマルクを「革命家」あつかいにした。自由党も反対した。皇后、皇太子夫妻は、ビスマルクを罷免して、三州を独立国にして妥協しようとした。皇太子は「オーストリアとの戦いは兄弟戦である」といって反対した。下院では、多数派の進歩党が戦争に反対して軍事公債を拒否した。

こうしたなかで、ビスマルクは、「いっそのこと、窓から身を投げて死んだほうがどんなに楽か」と考えたそうだ。

けっきょく、ビスマルク、ローン、モルトケの主戦論がおしきり、六六年六月二一日、オーストリアに宣戦した。オーストリアの要求により、ドイツ連邦議会は、多数でプロシアに宣戦した。

ハノーヴァー、バーデン、ザクセン、ヘッセン・カッセル、ヘッセン・ダルムシュタット、バイエルン、ヴェルテンベルグなどの諸国がプロシアとの戦争に入った。これらの国の貴族は、オーストリアが自分らの貴族政治のとりでだと考え、プロシアの勝利は、すなわち、自分達の権力の滅亡だと知っていた。

ヘッセン・カッセル侯は、六二年に議会を廃止しようとし、ビスマルクは、ここの議会を援助した。

ヘッセン・ダルムシュタットでは、ドイツ分裂を主張するダルヴィークが大臣になり、プロシアと対立していた。

さて、プロシアは、オーストリアとドイツのほとんどの諸国を敵にまわして開戦したが、六六年七月三日、ケーニッヒスグレーツ(サドワ)の会戦でオ1ストリア軍を撃破した。これで勝利は決した。オーストリアは屈伏し、プロシアの行動をみとめた。ハノーヴァー王国は、一〇月プロシアに合併された。ここの王のゲオルグ五世は、海外に亡命して王位を主張しつづけたが、ビスマルクは王室財産を没収し、この資金でハノーヴァーの新聞を買収し、プロシアを支持させた。ザクセンはプロシア軍に占領され、国権をすてた。ヘッセン・カッセルは合併された。ヘッセン・ダルムシュッタットは、領土の一部を合併され、国権をすてた。

この成功は、国内での反対派をよわめた。進歩党の多くは脱党して、八月国民自由党をつくり、ビスマルク支持にまわった。べクセンが党首になり、ハンブルグの大商人ヴェールマン、自由主義貴族シュヴェーリンをはじめ、ザクセンの繊維工業家、鉄鋼業者が参加した。辞職していた銀行家ハイトは、大蔵大臣にもどって全面的に協力した。

保守党からもビスマルクの支持者が脱党し、自由保守党をつくり、ビスマルクの与党になった。これは、すぐのちに帝国党と名をかえた。


北ドイツの統一

六七年二月二四日、北ドイツ連邦が組織された。北ドイツ諸国二二カ国があつめられ、軍事、外交、逓信、運輸などの実権がプロシア王と首相の権限に入った。上下両院をつくり、下院には普通選挙制をとり入れた。これをさだめた憲法に、保守党と進歩党が反対した。保守党は、普通選挙に反対し、進歩党は、立憲政治の不十分さのゆえに反対した。しかし、帝国党と国民自由党が賛成した。

度量衡は統一され、同業組合(ギルド=ツンフトの特権)、旅券制、ライン河・エルべ河の河川税(通行税)は廃止された。政府は、産業の育成、鉄道網の整備に力を入れた。

ビスマルクは議会にたいして、過去の議会無視をあやまり、かれの方針をあとからみとめた「事後承認案」が通過した。こうして、かれの権力は強化された。


ドイツ統一の完成

南ドイツ諸国のバイエルン、ヴェルテンベルグ、バーデンなどは、プロシアに賠償金を支払っただけで、いぜんとして独立していた。バイエルンでは、六六年一二月、ホーヘンローエが首相兼外相となり、ビスマルクと協力し、保守派(=カトリック派)貴族をおさえ、プロシア風の軍隊改革をすすめ、南ドイツ諸国の統一につとめた。この人物は、バイエルンの名門貴族で、プロシアの官界にも入ったことがあり、四六年に帰国して家名をついだ開明的な貴族である。

だが、七〇年三月、保守派貴族の反撃をうけて辞職した。いぜんとして、南ドイツでは、貴族独裁=絶対主義が腰をすえていた。

この権力を破壊することは、プロシアの軍事力からするとやさしいことだった。ただそれを妨害した強大な力があった。それは、フランスのナポレオン三世である。かれは、南ドイツに領土的野心をもち、そのためドイツの分裂をのぞんだ。プロシアにとって、オーストリアとフランス相手に、二正面作戦をすることはむずかしい。そこでビスマルクは、北ドイツの統一だけにとどめ、フランスと決戦をするための準備として、オーストリアに寛大な講和条件をしめした。背後をかためると、軍隊を動員し、エムス電報事件を利用して、七〇年七月一九日開戦にもちこんだ(スペイン王のあとつぎをフランスとプロシアのどちらからだすかという争いがあったとき、ナポレオン三世からプロシア王にひくことを要求した最後通告があった。王は、保養先からビスマルクに、電報でゆずれと訓令したが、かれは、この電報を偽造してあくまでゆずらぬと発表し、フランスをして宣戦をよぎなくさせた)。

開戦してみると、プロシア軍は準備がととのっているのに、フランスのほうは準備不足だった。九月二日、ナポレオン三世はセダンで降伏し捕虜になった。パリの反乱でフランスの臨時政府が成立し、七一年二月、休戦協定がむすばれ、五月、フランクフルトの講和で戦争はおわった。

そのあいだに、ビスマルクは南ドイツの諸国の統一をすすめた。バイエルン王ルートヴィッヒ二世は、連邦制にしがみつき、国家元首を交代制にしようといったが、ビスマルクにしりぞけられた。それ以上の反対は不可能だった。七一年一月一八日、ヴェルサイユ宮殿でドイツ帝国の成立が宣言され、プロシア王ウィルヘルム一世がドイツ帝国の皇帝になった。ドイツ統一は完成した。


ブルジョア革命の完成

ドイツ統一の歴史的意義は、ドイツにおけるブルジョア革命の完成ということである。

ドイツ帝国では、首相と大臣が外交、軍事、司法、交通、郵政、通商、関税の権力をにぎり、その他の権限が、それぞれの小国家にのこされた。帝国政府の財政は、間接税と、各小国家からの貢納金でまかなわれ、各小国家は直接税を徴収できた。連邦参議員には、それそれの王侯家、都市参事会員とともに、指名による議員が入り、帝国議会の議員は、全ドイツの普通選挙でえらばれた。

それぞれの小国では、むかしの政治制度がつづいている。それだけに、そこをみると貴族の権力がつづいている。とくに、メクレンブルグやバイエルンはそうだ。

しかし、そのうえに帝国の中央権力、すなわちビスマルクの権力がかぶさり、間接税と貢納金をとる。おもな権限も中央政府にある。のこされたものは、地方自治としての意味あいしかもたないものである。そこで、統一ドイツの社会的性格は、ビスルク権力の性格によってきまる。ビスルク権力の支柱は、帝国党と国民自由党、すなわち、ブルジョア的貴族と上層ブルジョアである。ドイツ統一は、プロシア以外の国において、貴族独裁からブルジョア的貴族と上層ブルジョアの支配にかえた。そのかぎり、全ドイツの規模でブルジョア革命は完成した。

プロシアでは、三月革命でブルジョア革命がおこなわれ、マントイフェル内閣で反動期をむかえたが、完全な絶対主義にもどりえず、ビスマルク権力の成立で、その成果はたしかなものになった。

こうみてくると、ドイツにおける市民革命の時点はいっかという質問にたいしてこたえることができる。それは、三月革命にはじまり、ドイツ統一戦争によっておわったと。


与野党の逆転

全ドイツで貴族とブルジョアの立場はかわり、与野党の立場は逆転した。プロシアの保守党には、クライストレツォー(かつてライン州長官として、自由主義を弾圧したユンカー)などが幹部としてのこっていたが、帝国議会では議席がひどくへった。この党は、いつまでも帝国憲法に反対した。

ほんらいの貴族の主張、すなわち分裂主義は中央党に代表された。この党は、カトリックを主張していたが、カトリック教徒はつねに分裂主義者であり、オーストリアの味方だった。この党をつくったのはヴィルンホルスト(ハノーヴァー王国のもと法相)、ライヘンシュペルガー(プロシア最高裁判所判事、ライン州のカトリック派司教の首領で、ドイツの分離主義者、国会議員)、ルートヴィッヒ・フォン・ゲルラッハ(宮延党の首領)である。かれらの出身地はちがっていても、貴族独裁=絶対主義へもどるという理想で一致していた。南ドイツの貴族・高級官僚やプロシアのカトリック派大貴族、マインツ司教など高級僧侶(教会は大土地所有者であり、高級僧侶は貴族出身者である)が指導権をにぎり、そこに南ドイツの富農、ハノーヴァーの農民、ライン地方の手工業者、オーベル・シレジェンにいるポーランド系の労働者(ドイツ人新教徒の工場主と対立した)などが人的資源を供給した。この党の性格は、一種の反資本主義的性格をもつ民衆を支持者にし、指導権が旧封建支配者の手にあるというものだった。

ビスマルクは中央党をはげしく弾圧した。いわゆる文化闘争である。中央党のがわではマインツ司教が指導者となった。ポーゼン大司教は投獄され、ブレスラウ大司教、ケルン大司教は逃亡した。七五年、プロシアの一二の司教職のうち、八つがあいたままになっていた。こうして、封建支配者は弾圧されるがわにまわった。

これにかわって、帝国党や国民自由党はビスマルクの与党になり、あたらしく合併された地方のブルジョア的貴族や上層ブルジョアを吸収して強化された。バイエルンのホーヘンローエは帝国党の指導者となり帝国議会副議長になった。西南ドイツブルジョアジーの代表者バッサンは国民自由党に参加した。進歩党も、帝国憲法に反対しなくなった。

政府と上層ブルジョアの協力は、ますます強くなった。六七年から六九年までのプロシア政府の公債の多くは、民間銀行の引受団が引受けた。そこには、ディスコント・ゲゼルシャフト、ベルリン商業銀行、ロートシルド、オッペンハイムなどがいる。七〇年八月の公債について、ビスマルクは政府機関だけで消化しようとし、民間銀行をのぞこうとした。だが、これは成功せず、民間銀行の協力をもとめなければならなくなった。そこで、いままでの引受団にあたらしく二つの株式銀行をくわえて引受けさせた。七〇年一〇月の公債六、〇〇〇万マルクは、ディスコント・ゲゼルシャフト二一%、国立銀行一四%、ブライヒレーダーとロートシルド一五%の割合で引受けられた。ディスコントゲゼルシャフトは、総額三億六、六〇〇万マルクのうちの二四%を引受けている。この銀行の頭取は、もとの自由主義ブルジョアたるハンゼマンである。

ビスマルクが好むと好まざるとにかかわらず、ドイツ統一をめざすかぎりは、全面的に上層ブルジョアにたよらなければならないという現実をしめしている。こうして、上層ブルジョアは、ドイツの支配者へ上昇した。


進歩的改革

帝国政府は、商工業の発展の障害をとりのぞいていった。

七〇年六月一一日、株式会社設立の自由をみとめた。これによって、多くの個人企業が株式会社にかわり、ドイツ人の資本が集中されて経済発展をすすめただけでなく、外国資本の企業を、ドイツ資本が取得していった。たとえば、フランス資本のシャルルデティリュ会社は、ドイツに買いとられて、ゲルゼンキルヘン会社となり、会長にハンゼマン、取締役にオッペンハイム、グリロ、エミール・キルドフ(専務)が入った。株式を引受けたのは、ディスコント・ゲゼルシャフトそのほかの銀行だった。

七二年、全ドイツの度量衡が統一された。

同年、郡条令をだし、ユンカーから領地警察権をうばった。これでユンカーは、地方住民にたいする支配権をうしない、たんなる地主へ転落した。

七三年、郵便制度を統一し、統一民法典の起草がきまった。

貨幣制度の改革も重要である。以前は、全ドイツで七種類の単位があった。プロシアのタラー(銀)、南ドイツのグルデン(銀)、ブレーメンのタラー(金)など。これを、七一年の鋳造法、七三年の鋳貨法で、マルク金本位制をさだめて統一した。七五年の銀行法でプロシア銀行をライヒス・バンク(帝国銀行)に改組し、これで中央銀行券を発行することにした。二〇世紀に入ると、中央銀行券は、銀行流通高の九〇%ちかくになった。貨幣制度の統一がなされた。


貴族・ユンカーの没落

一九〇〇年、ビスルクが退陣すると、カプリヴィ内閣ができたが、ここにユンカー出身者を一人もふくんでいない。この内閣は、ユンカーと保守党の反対をおしきって、穀物関税を、トンあたり五マルクから三・五マルクに引下げた。

ドイツ統一がなされてから、工業が繁栄するとともに、東部ドイツの農業労働者は、大挙して工業へむかい、農業労働力は不足した。農業労働者の賃金は高くなった。それにくわえて、穀物関税引下げによる穀物価格の下落である。九二年ごろには、穀物価格が生産費以下といわれるようになり、ユンカーの負債がふえて絶望的な状態になった。

そこでユンカーは、農業の防衛に狂奔するようになった。そのとき、全ドイツの大土地所有者、大農業資本家と目標が一致し、かれらがあつま0て農業者同盟をつくった。九四年の議会で、農業者同盟は政府を攻撃したが主張はとおらなかった。


財政政策の変化

国家財政は、上層ブルジョアに奉仕するようになった。

クルップは、六六年、国王、ビスマルク、ローンの協力をえて、プロシア国立銀行(ゼーハンドルングまたは海商ともいう)から数百万マルクを借り入れることに成功した。この金でさしせまった借金をかえすことができた。ついで国家から注文をうけ、国庫からの貸付金も清算できた。七三年の不況のとき、ふたたびゼーハンドルングを中心とした融資団は、三、〇〇〇万マルクの救済資金をあたえた。このようにクルップは、国家財政を利用することにより、鉄鋼王にのしあがった(このゼーハンドルングが、むかしはユンカーの農業に融資をしていた機関であることに注意すべきである)。

海軍は、石炭をイギリスから買っていた。エミール・キルドフ(ゲルゼンキルヘン会社専務)が中心になってつくった石炭輸出組合は、海軍に圧力をかけ、七七年からドイツの石炭を買わせた。しかもその値段は独占価格であり、九七年からは世界市場価格を大きくこえていた。

第一次大戦をめざしてなされたイギリスとの建艦競争では、クルップとシュトゥームが装甲板と大砲の供給を独占した。海軍用装甲板について、価格の五〇%の利潤をとり、二〇年間で、六、〇〇〇万から一億三、〇〇〇万マルクもうけたという。また一九〇一年、中央党員の質問によると、クルップとシュトゥームは、アメリカ海軍に装甲板をトンあたり、一、九二〇マルクで供給するのに、ドイツ海軍には、二、三二〇マルクで供給し、年に約三〇〇万マルクの損害をあたえているという。しかし、この質問にたいして、海軍大臣ティルピッツは、クルップ、シュトゥームの代弁者として弁護した。


ブルジョア的貴族のキャスティング・ヴォート

貴族・ユンカーとブルジョアジーの関係は逆転したが、両者は、ともだおれになるまでたたかいぬく運命をもちあわせているわけではない。ともに支配者であり、ともに労農運動で背後をおびやかされている。また、商工業者は家柄がよくないので、成功すると貴族の伝統的権威で身をかざりたくなる。貴族のもつ巨大な財産を、商工業にひき入れる必要もある。貴族・ユンカーのがわでもおなじだ。いつまでも、田舎にすっこんでひねくれていてもしかたがない。ブルジョアと縁組し、資金を商工業に投じ、財産をふやすほうがよい。こうして、貴族・ユンカーとブルジョアジーは混合していく。メーヴィセンは帝国党に加入し、八四年には貴族になった。クルップの娘は、貴族出身の外交官を婿にむかえた。

帝国党(シュトゥームやカルドルフ)がこれをすすめ、「結集政策」といわれた。ドイツ艦隊協会には、ブルジョアのがわからクルップ、キルドルフらが金をだし、大土地所有者のがわからヴィード、ザルムホルストマールが会長に入り、士地所有貴族で工業家のラヴェンネらが指導権をにぎった。カリ産業では、一九〇八年につくられた「商業連合」が持株会社として多くの企業を統制したが、ここにも貴族とブルジョアが混合している。

ブルジョア的貴族は、貴族・ユンカーとブルジョアのあらそい、つまり、農業と工業の対立のときには、キャスティング・ヴォートをにぎった。

穀物関税引下げをめぐって農業同盟と工業家が対立したとき、シュトゥームは、九四年に賛成しながら、一九〇二年になると穀物関税を引きあげ、その関税収入で艦隊をつくる政策を主張した。艦隊建設は、シュトゥームに巨利をえさせた。

ラインとエルべをむすぶ運河が政府によって計画されたときと、ロシア公債がドイツで売りだされたときに、おなじことがおこった。この二つに、ユンカーは大反対だった。安い穀物が入りこむことになる危険があったからである。しかし西部の工業家や銀行家は大賛成だった。このときのかぎをにぎったのは、オーベルシレジェンのブルジョア的大貴族だった。その中心はドネルスマルクであり、運河法案はプロシア下院で否決され、ロシア公債については、八七年、ドネルスマルクがビスマルクに手紙をだし、禁止を要求して実現させた。かれらは、安い石炭が入ってくることを警戒したのである。


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