2022年6月15日水曜日

04-市民革命ードイツ三月革命の再評価

 4 ドイツ三月革命の再評価


はじめに

つぎにドイツをとりあげよう。ドイツの問題は、中国その他のことより、もっと重要である。これが解けるなら、ブルジョア革命の問題のもっともむずかしい応用問題を解いたことになる。

ドイツのブルジョア革命の時期を、自信をもってしめした人はいない。ある人は、一八四八年の三月革命だといい、ある人は、一八一八年一一月の帝制ドイツの崩壊だという。しかし、それをはっきりとした根拠をもって断言するような人はいない。ふつうは、ドイツのブルジョア革命は、どうもはっきりとしないと思われている。

以下では、そのはっきりしないものを、はっきりさせようとする。ドイツのブルジョア革命は、二つの時期にわかれた。まず、三月革命は、プロシアの領内でのブルジア革命であった。

つぎに、ビスマルクによるドイツ統一戦争が、ドイツの他の領土でのブルジョア革命を完成した。

この見方からすると、いままでの議論は、まちがいだらけだということになる。そのまちがいは、レーニン、エンゲルス、マルクスにまでおよんでいる。じつのところ、ドイツにたいする、かれら三人のまちがった見方が、のちのマルクス主義史学者達に引用され、ひきのばされて、日本や中国その他の国の歴史研究にわざわいをもたらしたのである。

だから、ドイツ近代史の時代区分をはっきりさせることは、わざわいの根本をとりのぞくことになる。それだけに、以下の証明が正しいかどうかは本書の勝負のきめ手になる。そのつもりで、耳なれないドイツの人名、件名がでてきても、忍耐力をもって読みとおしていただきたい。

なお、ブルジョア革命とはなにか、については、第1章をみて確認していただきたい。


ドイツ史のまとめ

一八〇六年、ナポレオンはアウステルリッツの会戦で勝利すると、西ドイツの諸小国をオーストリアからきりはなし、ライン連邦をつくった。ここで、ドイツ帝国としての神聖ローマ帝国は消えた。ナポレオンが没落し、ウィーン会議で、ドイツ連邦ができた。これは、ドイツの三五の国家と、四つの自由市でつくられた。このなかで、もっとも領土が大きく、もっとも強力な国家は、オーストリアだった。

つぎにくるのが、プロシア(プロイセン)であり、プロシアは、このときから、西ドイツのライン州を合併した。この国は、ナポレオンに敗北し、チルジットの講和を結んでから民族意識がたかまり、シュタイン・ハルデンベルグの改革で、農奴解放その他の改革がおこなわれた。

その他、バイエルン(バヴァリア)、ハノーヴァー、ザクサン(サクソニア)、ヘッセンなどをはじめとする中小諸国にわかれていた(地図参照)。













一八三四年、関税同盟が、プロシアを中心にしてむすばれ、オーストリアをのぞいた大多数が加入した。この頃から、鉄道が発達し、機械制工業の発達がめだってきた。

一八四七年の経済恐慌のあと、四八年三月、ベルリン、ウィーンをはじめ、ドイツ各地で革命がおこり、オーストリア宰相メッテルニッヒは亡命し、プロシア王は、カンプハウゼン内閣を任命せざるをえなくなった。そのほかの国でも、議会に権力が入り、それぞれの国の代表者がフランクフルト国民議会にあつまり、ドイツ統一を論議した。

だが、すぐに反革命の動きがつよまり、オーストリアでは絶対主義が復活し、中小諸国でも議会の権力はせばめられていった。フランクフルト国民議会のつくったドイツ統一についての憲法も、プロシア王をはじめ、各国の君主によって拒否された。ライン州では、憲法実施を要求する反乱がおきたが、国王軍により弾圧された。

こうして、ドイツ分裂はつづいたが、ドイツ連邦のなかでの二大国、オーストリアとプロシアの対立がつよくなった。

そのなかで、一八六一年ビスマルクが、プロシアの宰相に任命された。かれは、ドイツを統一するために、オーストリアとの戦争を準備すべきだと考え、議会の反対をおしきって軍備を拡張した。

一八六六年、両国は開戦し、ケーニッヒスグレーツ(サドワ)の会戦で。プロシアが大勝し、プロシアは、北ドイツを合併して、北ドイツ連邦をつくった、だが、南ドイツを統一することは、フランスのナポレオン三世の反対があり、実現できなかった。

ビスルクは、オーストリアに寛大な講和条件をしめし、これをだきこみながら、フランスとの戦争を準備した。エムス電報事件をきっかけに、一八七〇年両国は開戦し、セダンの戦いで、ナポレオン三世が降伏すると、南ドイツの統一を妨害するものはいなくなった。七一年、ヴェルサイユ宮殿で、プロシア王ウィルヘルム一世は、ドイツ皇帝に即位する儀式をあげた。

こうして、ドイツ統一が実現した。外交、軍事、司法、交通、郵政、通商、関税の権限は、首相と大臣の手に集中された。議会としては、普通選挙による帝国議会と、任命制による連邦参議院があった。

一八一八月一一月、第一次大戦の敗北とともにおきた反乱で、帝制ドイツは倒れ、社会民主党の政権が生まれ、ワイール憲法が制定され、ドイツは共和国になった。この共和国は、ナチス政権の成立までつづいた。


貴族とユンカー

一八四八年の三月革命までは、ドイツ諸国のすべてで、貴族が支配していた。貴族は、もちろん、大土地所有者であり、上級土地所有権の所有者である。だから、この時代のドイツ諸国は、封建制度、または絶対主義のもとにあったということができる。

ただし、貴族の土地所有のかたち、貴族所有地のしめる割合、土地経営のしかたについては、地方によってまちまちである。

オーストリアでは、まだ農奴制がのこっていた。ここの貴族は、農奴を所有する領主であった。

プロシアでは、シュタイン・ハルデンベルグの改革のため農奴制がなくなっていた。一八〇七年、一〇月勅令で営業の自由、移動の自由がみとめられて、農奴は、身分的な隷属から解放された。一八一一年の調整勅令、一六年の調布告で、農奴が自作農になる道がひらかれた。

もちろん、土地革命がおこなわれたわけではないから、自作農の数や、その面積にはかぎりがあった。解放の条件はきびしく、領主に賠償金をはらうか、土地の半分または三分の一を返さなければならなかった。しかも、解放されたのは、古い農場をもち、役畜を使用したものにかぎられた。解放されなかった農奴の土地は、領主にとりあげられたものが多く、また一度独立しても賠償金を滞納したものは土地をとりあげられた。この改革によって、ドイツでは上級土地所有権と下級土地所有権の分裂はなくなった。この点は、フランス革命前の状態とちがう。

むしろ、フランス革命ののちにできた貴族大土地所有や地主制に似ている。だからそれ以後のプロシアでは、「貴族の土地」といえば領地をさし、その所有権は、上級も下級もふくめてもっていたのである。

こうして、プロシアでは、貴族が直領地(直営地)をふやし、大土地所有者としてのこった。

それとともに、少数の富農や中貧農の自作農がでてきた。このなかで、ユンカーとよばれる貴族の一派があった。これは、どちらかといえば、身分のひくい、小貴族である。

ビスマルクの出身もそれだが、男爵で、公、侯、伯、子、男の最下級である。所有地の大きさは、五〇〇haから五、〇〇〇haのていどである。これらユンカーは、いろいろな農業労働者をつかい、農場経営をおこなった。つかわれるものには、コゼーテン、ゲルトナー(現物で支払いをうける)、インストロイテ(日雇いの賃金労働者)があり、かれらは、ユンカーから、わずかの耕地、菜園地を貸与された。ユンカーは、また領地警察権、領地裁判権、狩猟権をもち、免税特権をもっていた。そのほかに、上級の大貴族があった。プロシアでもっとも富裕な領主は、アルフェンスレーベン・エルクスレーベン伯、アルニム・ボイツェンブルグ伯である。前者は、ハルベルシュタットの近くに広大な領地をもっていた。リヒノフスキー侯は、オーベル・シレジェンの大領主である。シュヴェーリン、ドネルスマルク、ホーヘンローエ、ラティボールなどの大貴族もいる。

これら、大貴族とユンカーをあわせた貴族階級の頂点に、プロシア王(ホーヘンツォルレン家)があった。その所有する土地は、一九二六年になっても一五万七、〇〇〇エーカーであり、二つの分家が、八万三、八〇〇エーカーをもっていた。王の支柱である高級官僚、軍隊の将校は、ユンカーとその一族からでてきた。また、何人かの大貴族も権力の座についた。一八三五年から四二年まで、大蔵大臣の地位にあったアルフェンスレーべン・エルクスレーベン伯や、三月革命直前の首相であったアルニム・ボイツェンブルグ伯はその例である。だから、プロシアの国家権力は、領主の一派によって、にぎられていたことがわかる。

新しく合併されたライン州プロシアでは、フランス革命の影響で、領主権が廃止され、フランスとおなじような土地所有の型をしめしていた。中貧農の自作地、富農やブルジョアの大土地所有とならんで、貴族、僧侶の大土地所有がのこった。そのため、ケルン大司教や、ザールの貴族シュトゥームのような大土地所有貴族もいた。

メクレンブルグ大公国では、一八〇二年に農奴解放がなされた。だが、土地の五八%は二五〇エーカー以上の大土地所有者の手にあり、大土地所有者は、だんだん、農業労働者をつかう大農経営にうつっていった。もっとも貴族主義的な国家で、ドイツ統一ののちでも、この地方の身分代表制議会は、七〇〇人の騎士領の所有者と、四九人の都市代表者の議員でつくられていた。

バーデン大公国、ヘッセン・カッセル、ヘッセン・ダルムシュタットのような西南ドイツは、ライン州プロシアと似た状態にある。

ハノーヴァー王国、バイエルン王国、ザクセン王国、ヴュルテンベルグ王国などでも、農奴解放は段階的にすすみ、一八三三年に完全になくなった国と、バイエンルとヴェルテンベルグのように、一八四八年になって、やっと解放が完成した国とがある。

だが、いずれにしても、貴族=大土地所有者が権力をにぎっていることにかわりはない。ただ、政治の形式はさまざまだった。バーデンは、一八一八年に憲法を制定して、もっとも自由主義的だといわれ、ヘッセン・ダルムシュタットは反動的な国で知られた。


自由都市のブルジョアジー

自由都市では、大商人が、市参事会を牛耳り、権力をにぎっていた。

フランクフルトには、ロートシルドやべートマンのような、個人銀行があった。べートマン家は、一八一四年までに、ひとりで、巨額のオーストリア公債をはじめ、ドイツ内外の国家、諸侯の公債六九種を引受けていた。そのあとから、ロートシルド家が進出してきた。ヘッセン・カッセル侯の宮廷御用係として資金を蓄積し、オーストリアをはじめとする各国君主の公債を引受けた。

ハンブルグ、ブレーメン、リューベックなどハンザ諸都市では、熱帯産商品の仲継貿易や、対英貿易(イギリスの工業製品と、ユンカーの農産物の交換)をおこない、この資金で金融業をおこなう大商人が支配した。そのなかの一人、ブレーメンのゲーヴェコートは、北アメリカとの貿易に、蒸気船をはじめてつかった。

そのため、これら自由都市では、ブルジョア革命は、おわっているわけである。しかし、その範囲は、都市だけにかぎられ、そこの商人は、ドイツの封建支配者にたいして寄生的であるため、全ドイツのブルジョア革命の点から考えると問題にならない。そのうえ、ときには、封建支配者とむすんで、ブルジョア革命への動きにさからうような方向をとることがある。たとえば、プロシア絶対主義政府の御用機関である王立振替貸付銀行などの国立銀行は、ハンブルグ銀行の流れをひいていた。のちに、この銀行とプロシアの民間銀行とは、利害が対立するようになる。いわば、ブルジョアジーのなかで、もっとも貴族的性格のつよいものである。


絶対主義下のブルジョアジー

まだ絶対主義の時代にある場所でも、ブルジョアジーは成長していた。ベルリンでは、大銀行家がかなりいた。ブライヒレーダー、メンデルズゾーン(有名な音楽家の家系)、デュルブリュック、オルデンハイト、シックラー、ワルシアウァーなどがいる。

ライン州プロシアには、ケルンの銀行家オッペンハイム、シュタイン、シャーフハウゼン、カンプハウゼン、ヘルシュタット、クレフェルトの銀行家べッケラート、エバーフェルト銀行の頭取アウグスト・フォン・デルハイト(糸商人でもあり、その取引についての金融業も経営した)、アーヘンの羊毛商人ハンゼマン(商店の小僧から叩きあげ、商業裁判所長官になった)などがいて、指導者格になっていた。

これら、ライン州の商人、銀行家は、産業革命に進出して、鉄道、鉱山、機械制工業に出資したり、経営に参加したりした。ハンゼマンは、三七年に、ライン鉄道会社を設立した。

クルップ家は、一五八七年、エッセンに住みつき、ブドーを取引する商人だったが、のちに鉄や武器の商売をはじめ、この都市で最大の商人になり、市参事会員や市長や商人ギルドの長をだした。フリードリッヒ・クルップは、一八一一年、エッセンに小さな鋳鋼工場をつくり、イギリスが秘密にしていた鋳鋼製法をさぐりだしてとり入れ、ナポレオンの軍隊に役立てた。アルフリート・クルップは、一八三〇年、いままでの小さな機械製作工場に水力を導入し、三四年関税同盟が成立して工鉱業が発展すると蒸気機関をとり入れ、四〇人から五〇人の職工をもつ工場を経営した。これが、のちに巨大な鉄鋼業者となり、ヒットラーの兵器廠になり、「死の商人」といわれ、第二次大戦後は主人が戦犯でとらえられて、刑務所でサラ洗いをしていたこともある。釈放されてからはむかしの地位をとりもどし、ソ連に工場をつくり、フルシチョフと乾杯し、わが国にもきて八幡製鉄などと合弁合社をつくる話をすすめたこともある。主人はさいきん死んだが、同族会社で大衆株主をもっていなかった。その個人財産は世界第六位といわれた。

シュティネンスは、石炭とライン川の船舶運送業をかねた商人だったが、鉱山に投資し、四一年、エッセン付近の炭坑で堅坑による採炭をはじめ、大鉱山組合カイザーを支配した。

ハニエル兄弟は、大商人だったが、一八一〇年、グーテホフヌング製鉄所を経営し、これとともに、ライン沿岸に一、〇〇〇万㎡の炭鉱を開発し、これがコンコルディア鉱山会社になった。五三年からは、コークスを用いた製鉄に成功した。

メーヴィセン家は、商人、銀行家だが、繊維工業を経営した。また、ハンゼンマンとともに、鉄道建設を指導した。

シュペーターは、中ライン銀行を経営するが、ロートリンゲン(ロレーヌ)、ルクセンブルグの鉄鋼王になった。

ヘルシュタットは、絹、屑リボン工場を経営した。

また、手工業者やマニュファクチュアの経営者から、大工業家に上昇したものもいる。

ピーペンシュトックは、ルールで、針金工場を経営していたが、四一年、製鉄、圧延工場をつくった。

ボルジッヒは、手工業者出身だが、三七年、ベルリンに蒸気機関車をつくる工場を設立して有名になった。それから発展して、オーベル・シレジェンの石炭、鉄鉱、熔鉱炉、製鋼圧延工場を経営した。

ルール地方には、何人かの炭坑王がでてきた。ボルン、グリロ(ドルトムント鉱山組合)、ヘーヴェル(ハルペン会社)などがある。

銀行家、商人と産業家とは、ふくざつにからみあっている。

シャーフハウゼンは一八二二年、シュティネンスの鉱山に貸付けた。またハニエルのグーテホフヌング製鉄所にも貸付けた。シャーフハウゼン銀行頭取ダイヒマンは、親密な銀行家とともに、ピーペンシュトックの工場を合資会社に変えた。

ヘルシュタットは、クルップの工場を拡大するとき、三〇年と四二年に貸付けをおこなった。

シェラーは商人で、クルップと同郷であり、商業で蓄積した資本を、三四年にクルップの事業に投下した。それから一〇年ののち、シェラーにかわって、フリッツ・ゼリングがクルップの協力者になった。ゼリングは莫大な財産家だった。

ケルンの銀行家オッペンハイム、ベルリンの銀行家メンデルズゾーンは、一方で公債引受けに活躍しながら、他方では鉄道株の引受けにも進出した。フランクフルトのべートマン家も鉄道株に進出した。ただし、ロートシルドなど、フランクフルトの金融業者の大部分は、株式の引受けにのり気でなかった。銀行家と商人の産業進出は、地方や個人によって差があった。

オーベルシレジェンでは、亜麻工業、製鉄、冶金工業が発達し、バリーは冶金工場と精錬所をもっていた。ザクセンでは、綿製品の問屋が紡績工業に進出して、紡績工業が発達していた。


貴族対ブルジョアジー

貴族の一派は、国家権力と財政の実権をにぎり、国庫を自分たちの利益のためにつかった。そのことが、ブルジョアジー以下の階層の利益と衝突し、三月革命をひきおこした。プロシアを例にとろう。

一八四〇年、フリードリッヒ・ウィルヘルム四世が即位してから、国庫の余剰金の消耗がはげしくなり、三年目には、莫大な赤字に苦しむようになった。その出費の増加とは、補助金、下賜金、宮廷の式典費、王の巡幸費の増加だった。このような出費を利用して収入を得るのは、宮廷で王をとりまいている宮廷貴族、高級官僚(=ユンカー)である。

租税収入についていえば、貴族に減免税の特権があった。地租は、一八六一年まで、多くの騎士領が免税の特権をもっていた。

所得税のかわりとして、階級税というのがあり、一八等級に国民を区別して、それそれの税額をかけたが、僧侶、教員、将校、軍人、産婆は免税された。僧侶や軍人の上層は、貴族、ユンカーの一族でしめられる。

営業税は、ブルジョアジーから中小商人にまでかけられる。

このように、利害の対立が直接にあらわれるものもあるが、間接的に、まがりくねって衝突するものもある。

その一つに、株式会社をめぐる問題がある。この時代、世界的にみて、重工業中心の産業革命が進行しはじめていた。その必要に応じるためには、巨大な資本を準備しなければならなかった。そのためには、株式会社を設立して、零細資本を集中しなければならない。これが、当時の、産業発達の至上命令である。ところが、これが、ユンカーの政府に反対された。

当時、国立銀行として、王立振替貸付銀行、王立海外貿易会社(ゼー・ハンドルング)の二つがあった。前者は、紙幣発行の権利を独占し、それの利益は、もちろん国家=ユンカー・貴族の利益になっていた。後者は、外国塩の専売権をもち、その利益からあがる資金で公債を引受けたり、民間〈の低利融資をおこなった。この事業は、損失をよくだし、そのたびに国庫資金で埋めあわせた。民間の貸付とは、商工業の援助を意味するのでなく、農場経営の援助が中心で、すなわち、ユンカーの利益になっていた。

こうして、ユンカーの御用機関となっている銀行とはべつに、ブルジョアジーは、自分らの事業に役立つ銀行を株式会社でつくりたいと考えた。とくに、一八四〇年代になると、商品流通が増加して、通貨の不足を感じるようになっていた。ここで、ハンゼンは、一八二八年、ライン州に株式会社の発券銀行を設立しようとしたが、プロシア政府に拒否された。また、一八四五年、メーヴィセンを中心として、ケルン銀行の設立を計画したが、政府は拒否した。政府は、国立銀行の競争者がでてくるのをおそれたのである。

また、発券をしない株式銀行の設立も要求されていたが、政府は許可しなかった。けっきょく政府のしたことは、王立振替貸付銀行をプロシア銀行に改組して株式会社とし、民間人の参加をみとめただけである。しかし、ここでは民間人=ブルジョアはつねに少数派になるように仕組まれていたから、実質的にはなにもかわらなかった。


進歩に敵対した貴族支配

この時代、ブルジョアジーと商工業が、社会の進歩を代表し、その発達をおさえた貴族・ユンカーの権力は、進歩に敵対するものになった。しかも、進歩をさまたげることにより、外国資本の支配に道をひらき、軍事力を弱めて国家の独立すら危くさせた。

たとえば、プロシア政府は鉱山業に税金をかけ、その徴収の形式をたもつために鉱山業の発達をおくらせ、イギリス資本の進出をまねいた。ライン河の西岸の鉱山には、純収入の一二%の租税をかけて原価にくり入れさせたが、それを実行するため鉱山共有組合という小規模経営を強制し、鉱山監督局が経営の内部にまで干渉した。だが、この時期になると、株式会社による大規模な鉱山経営が必要になってきた。

そこで、一八四五年、メーヴィセン、マリンクロット、カンプハウゼン、シャーフハウゼン、ダイヒマン(すべてケルンの銀行家・商人)がケルン鉱山会社の設立を準備した。四七年三月、株式会社として政府に申請されたが、政府は七月になって拒否した。このとき、カンプハウゼン、メーヴィセンがつくった請願書は、意味深いものがある。

「プロシアでは、地下の宝庫の大部分がねむっている。その原因は、個人の力にあまるような大規模な事業をおこすべき資本や、企業精神が不足していることである。そのため、豊かな鉱区が、ますます外国の投機の対象になろうとしている」

クルップは、自分の工場を改良して、優秀な機械、武器をつくる努力をつづけていた。プロシアでつかう「工具鋼」は、イギリスから買入れられていた、クルップは、これを生産しようとした。そのためには、蒸気機関や旋盤台をもつ新エ場が必要だった。そこで、クルップの母は、国王に国家資金の・貸付を願った、だがこれはゆるされず、資金は、いとこのミュラーの援助や、所有地の売却、晒布工場の売却でつくらなければならなかった。

また、当時のプロシア軍の胸甲は、品質が悪く、重さはずいぶんあるが、二五メートルはなれたところからでも小銃弾がつらぬいた。クルップは、目方が半分で抵抗力が二倍の胸甲をつくることを政府に申し出た。これも陸軍省は拒否し、古くからの御用をつとめる工場に注文をだした。

大砲についてもおなじである。プロシアの大砲、小銃が旧式のものとなっていたことは、だれもが知っていた。そこで、クルップは、鋼鉄でつくった大砲と小銃の見本をつくり、四四年に、陸軍大臣フォン・ボイエンにさしだした。そして「このような武器のために、ぜひ必要な設備がいる」といった。ところが陸軍省は、クルップの製品について「安上がりという要求にこたえられず、とくに必要とするわけではない」と答え、採用しなかった。

こうした事件は、貴族・ユンカーのもつ財政上の特権が、ドイツ社会の進歩と対立したことをしめす。鉱山の事件は、財政収入を確保する必要についてである。クルップと政府のやりとりは、クルップの工業に財政上の援助をあたえるならば、それだけ支出でふえ、ユンカーのほうにまわる国家資金がヘるという関係をしめしている。しかも、新しい鉄鋼業は、巨大な設備を必要とし、民間の資本だけでは、じゅうぶんな発展ができない。ここに、ドイツ経済の発達をのぞみ、ドイツの興隆をのぞむならば、貴族・ユンカーのもつ財政上の特権をとりあげなければならないという因果関係がでてくる。財政上の特権をうばうためには、その権力組織を破壊し、これを商工業者の代表者の手ににぎらなければならない。この時代の商工業者は、自分自身の利益と、ドイツ社会の発展との一致を見いだしていた。こうして、三月革命をむかえた。


貴族の反主流とブルジョア的改革運動

三月革命には、ながい前史がある。ブルジョアジーは、何回となく攻勢にでて、貴族を譲歩させ、少しずつ弊害をとりのぞいた。そのような運動の、一進一退はつづいた。

封建制度の例にもれず、ドイツ諸国では、度量衡の統一もなく、国内に無数の関所があって、国内関税=通行税を徴収していた。こうした分裂割拠は、政治的にも経済的にも、経済の発展をさまたげ、ブルジョアジーの活動に不自由をもたらした。この制度的な悪をとりのぞこうという運動がおこされ、その先頭に貴族の一派を代表してシュタインが立った。

かれらは、一八一六年に、プロシア国内の度量衡を統一し、一八年の関税法で、すべての国内関税を廃止し、国境をとおる商品にだけに関税をかけた。いままでは逆で、国境には関税が

なく、国内の都市や州ごとに関税があり、外国産の商品であろうと、国内産のものであろうと税金をかけていた。この改革で、プロシアの産業の発達が約束されたことになる。それからプロシアは、ドイツの他の国との関税協定をすすめ、一八三四年、関税同盟がむすばれ、オースリア以外のドイツ諸国のあいだの関税はほとんどきえた。これは、経済的統一の第一歩であり、そののちの一〇年間に、商品流通は二倍にふえた。ところがこの進歩にも、闘争がつきまとった。関税同盟の憲章を起草したのは経済学者リストである。かれは、ドイツ商工業者同盟の指導者だった。これにたいして、ユンカーの指導者フォン・デルマルヴィッツは割拠主義をとなえ、ドイツの統一運動に強力な反対運動をおこした。オーストリア宰相メッテルニッヒは、リストをきびしく追求し、リストはアメリカへ亡命した。

強大な貴族の権力にくらべ、ブルジョアジーは、まだ弱かった。そこで、かれらの利益は、かれらが直接主張するわけにはいかず、貴族のなかの一派に代弁してもらう形になった。その貴族は、貴族のなかの反主流派である。野党的になった動機は、いろいろある。権力からとおざけられた不平もあろう。商工業、銀行業に手をだして、ブルジョア化し、ブルジョアジーと利益の一致をみいだしたものもあろう。こういう一群の貴族が、さしあたりは、ブルジョアジーの利益代表のかたちで、王権に反対した。

ザールの貴族シュトゥームは、鉄鋼業に進出し、オーベル・シレジェンの大貴族ドネルスマルクは、鉱山業を経営した。ポンメルンのユンカーのビューロー・クーメローは、二三年に私立騎士銀行を設立し、その資金をブルジョアジーにあおいだ。

また、アウエルスヴァルト、シュヴァーリン、アルデンホーフェンなどは、ブルジョア的貴族であり、自由主義貴族の代表者格だった。


改革運動の失敗から革命へ

財政の困難が、衝突をはげしくした。プロシア政府は、急場をしのぐため借款にたよろうとした。一八四二年、プロシアのうちの八つの州にある地方議会の常任委員が、ベルリンにあつめられた。地方議会では、貴族が、つねに過半数をしめるようにしくまれていた。そこで、あつめた王の政府も、あつめられた議会代表者も貴族だった。政府は、借款をもとめ、これは国有鉄道の建設のためだと説明したが、常任委員のがわは拒否し、憲法の制定と自由主義をもとめた。こうして、妥協はならなかった。議会での対決という妥協的な手段が役立たないと知ったブルジョアジーは、革命をめざして、労農運動の指導者と手をにぎりはじめた。カンプハウゼン、ハンゼマンらの自由主義者は、カール・マルクスとむすび、ケルンで「新ライン新聞」を創刊した。

つぎにひらかれた各州の本会議も、改革を要求し、憲法と出版の自由をもとめた。

政府の財政困難はますますつよまり、四六年の秋、ロートシルドに借款を申しこんだが、ことわられた。このときになると、このような特権的寄生的な大金融業者でも、貴族の権力の前途に見きりをつけた。かれは、この借款が「未来の国民代表」に保証されるなら貸そうといったのみである。

こうして王は、四七年二月、各州議会の議員でつくられた連合地方議会を召集しなければならなくなった。この議会に、両派は、それそれちがった期待をかけていた。王は、この議会が、王の提案、すなわち増税と借款を承認し、必要がなくなれば解散できるものと考えていた。いわば、御用議会のつもりでいた。だが、自由主義者でつくられた自由連盟は、この議会を制し、議会が定期的に召集され、権力をもつようになることをのそんでいた。いわば、この議会をイギリス流の立憲君主制の道具にしようと考えていた。

このため、両派はまっこうから衝突した。王は、開会式で「私は、近代的な意味の憲法を、けっして与えないだろう」と宣言した。王をとりまくユンカーを代表して、ビスマルクは自由主義者とまともに衝突した。

「いまや問題は、一つの権威ある、法律的拘束力をもつ宣言を与える権限をもつものはだれか、ということにかかっている。私の考えでは、それはただ王だけであり・・・・・・プロシアの王は、国民からではなく、神のめぐみによって、実際の絶対的な王冠をもち、その法律を、自由な意志で、国民のうえにほどこすのであり、これはまったく、歴史上まれにみる例である」

このときのビスルクは王権神授説のチャンピオン、絶対主義の尖兵だということができる。

こういう対立のなかで、二種類の公債を発行する提案が王のがわからだされ、これを議会は否決した。王は、議会を譴責したうえで解散した。ブルジョアジーは完全に左に寄り、「ブルジョアジーの著名な政治家で社会主義者と自称しないものは、ほとんど一人もいなかった」

(『革命と反革命』)。


三月革命の政治的成果

一八四八年三月一八日、ベルリンで市街戦がはじまり、翌日、市民軍が勝って国王軍は撤退し、王は、市民軍の圧力で、首相にカンプハウゼン(ケルン商業会議所会頭)、大蔵大臣にハンゼマン(アーヘン商業会議所会頭)を任命させられた。プロシアの国家権力は、上層ブルジョアジーの手に入った。

カンプハウゼン内閣は、五月二二日、プロシア国民議会(憲法制定議会)を召集した。この議会は、間接、平等、秘密、普通選挙制にもとづいていた。

オーストリアでは、三月一三日、ウィーンで暴動がおこり、宰相メッテルニッヒは亡命した。

しかし、ウィーンのブルジョアジーは、宮廷の奢侈品産業に大きくたよっていたので妥協的な傾向がつよく、宮廷貴族のほとんどはのこっていた。メッテルニッヒの追放は、この騒ぎを利用した貴族内部の政権交代にすぎなかった。五月、宮廷貴族は、国民軍と学生軍団の中央委員会を解散させようとした。ここで、あたらしい衝突がおこり、宮廷貴族はウィーンににげ出して、インスブルックに行き反撃の準備をした。

ザクセン王国では、市民の暴動の圧力で、出版、集会、言論の自由など自由主義的改革がおこなわれた。

ハノーヴァー王国、ヴュルテンベルグ王国、バイエルン王国、メクレンブルグ大公国、ヘッセン・カッセル、ヘッセン・ダルムシュタットらの諸国でも、自由主義的改革が実施された。だが、これらの国で、貴族が権力を手ばなした程度はさまざまであり、一時的な譲歩をしめして切りぬけたばあいも多い。

これとはべつに、五月一八日フランクフルト国民議会が召集された。別名パウロ教会ともいう。ここに、ドイツ各国から代表者があつまり、ドイツ統一が審議されるはずであった。代表の選出方法は、各国にまかされた。右派には、リヒノフスキー侯(大貴族)、バリー(大工場主)を先頭とする一群があり、中央右派が最大多数で、ダールマン、ヴェルカー等、当時の有名な学者の一群がいた。国民議会の議長は、初代がヘッセン・ダルムシュタットの首相ガーゲルンであり、五月から六月にかけて、中央右派のミルデ(ブレスラウの工場主)がなった。

この議会の任務は、統一ドイツの憲法をつくることであり、憲法委員会委員長には、バッサーマン(出版業者、バーデンの自由主義指導者)がなった。統一ドイツの内閣をつくったが、この大蔵大臣にベッケラート(ラインの銀行家)、商業次官にメーヴィセンがなった。

こういう事情をみると、フランクフルト国民議会は、ブルジョアジーの権力機関になったといえる。この議会と、それが発布する憲法やつくった内閣を、ドイツ各国の政府が尊重すれば、これでドイツのブルジョア革命はおこなわれたといえる。だが、すぐに反動の波がおしよせて、各国政府は国民議会を尊重しなくなったので形式的なものとなり、いわば、政治的な遊戯にすぎなくなった。

これらをまとめると、三月革命は、プロシアにブルジョア革命をおこし、オーストリアでは、国内を二つにわって、どちらが勝っかわからぬ状態をつくり、他の国では、貴族の権力が傷つけられたていどが、まちまちだったといえよう。


三月革命の経済的成果

権力をにぎったプロシアのブルジョアジーは、その地位を利用して、経済的混乱からブルジョアジーを救うために活動した。その中心に、蔵相ハンゼマンが立った。

三月二七日、プロシア銀行のケルン支店が割引を制限して金融恐慌をおこさせた。二九日、シャーフハウゼン銀行が支払停止においこまれた。このときハンゼマンはメーヴィセンと相談して救済にのりだし、八月二八日の命令でシャーフハウゼン家は株式会社に改組された。メーヴィセンは、この銀行の債権者団の指導者格だった。かれは、四八年九月一五日、政府からシャーフハウゼン銀行の取締役に任命された。かれの指導のもとにおこなわれた改組の要点とは、債権者に株(三九七万タラー=一二〇万マルク)を与え、その半分は五二年までに償還することとし、そのあいだの確定配当は政府が保証した。五二年以後は、政府の監督から解放された。この事件は、国家財政が、はじめてブルジョアジーの死活の利益に役立てられたものとして注目するべきである。こうして、待望の株式銀行がブルジョアジーの指導のもとにつくられ、これが工鉱業への金融をひきうけるようになった。

また、四八年九月、アウエルスヴァルト=ハンゼマン内閣(実権はハンゼマンにあった)が、民間発券銀行の設立を許可し、五〇年代に六つの銀行が設立された。これについで、四九年一〇月二二日、ケルン鉱山会社の設立が許可され、五二年、ヘルダー鉱山製鉄株式会社の設立が許可された。ヘルダー連合では、メーヴィセンが管理役会長になり、シャーフハウゼン銀行が発起業務をひきうけた。

他方で、貴族・ユンカーの特権がけずられた。まず、ユンカーの領地裁判権が廃止され、四九年一二月、将校等の免税特権が廃止された。


絶対主義へもどったオーストリア

まもなく、ドイツ各地で貴族の反撃が成功し、多くの国では、絶対主義が復活した。復活の原因はいくつかある。

貴族やユンカーの勢力が結集されたこと。

手工業者が、ブルジョアジーに反対し、古いギルド制にもどることを主張したが、これが貴族に利用されたこと。

ブルジョアジーと労働者階級の対立がはげしくなり、これが革命勢力の分裂をおこさせ、貴族はこの分裂を利用して各個撃破したこと。

貴族が農民にたいしてある程度譲歩し、農奴制のひどいところでは、その状態をやわらげた。

そこで、とくに上層農民が満足して保守化した。ここで、貴族は安心してブルジョアジーを権力から追い出すために行動できるようになったこと。

こうして、オーストリアが、復活した絶対主義国のチャンピオンになった。皇帝と宮廷貴族は、インスブルックに逃げ、ラデッキー将軍(行進曲で有名)の軍隊に守られた。イエラッチ、ウィンディッシュグレーツらが中心になり、反革命の勢力が組織された。これにくらべて、革命勢力の分裂はすすみ、権力の座にいるブルジョア官僚は、失業者にあたえていた政府補助金を打切り、これに反対しておこされた労働者の示威運動を、八月二三日弾圧し、多数を殺した。こうしてブルジョアジーの支持者がへってきた時期が、貴族の反撃のチャンスだった。

皇帝と宮廷貴族は、まずオルミュッツに移り、準備をととのえると、一〇月、ウィンシッシュグレーツの指揮する六万人の軍隊でウィーンを攻撃し、一一月一日占領した。議会は、クラメリーという田舎町にうつされ、ハンガリアの反乱が平定されはじめた四九年三月、議員は追放されて、議会は解散された。議会がつくった自由主義的憲法は廃止され、これにかわって皇帝の優越をさだめた欽定憲法がつくられた。そして、五一年になると、この憲法すら廃止し、これにもとづいた議会も解散し、完全な絶対主義へもどった。フランクフルト国民議会からも、すぐ代表団をひきあげた。このうごきの先頭に、宰相のシュワルツェンベルグ公が立った。


手工業者とブルジョアジーの対立

手工業の親方は、ギルド(ツンフト=日本の座=同業組合)を復活し、工業の発達をおさえることをのぞんでいた。革命の混乱は、かれらがその目標にむかって政治的に努力する機会をあたえた。

六月二日、ハンブルグで北ドイツ手工業者第一回代表者会議がひらかれ、満場一致で「営業の自由」を禁止すべしと決議した。手工業者のなかでは、特権をにぎる親方層と、これに対立する職人層があり、職人層は労働者と自称しはじめた。七月一五日、フランクフルトでひらかれた一般手工業者会議では、親方層が職人層をしめだし、「一般手工業者条例」を決議した、そのなかには「蒸気機関の使用を制限すること、営業の自由を廃止すること」などがあった。

かれらの圧力で、四九年二月九日の勅令がだされ、多くの手工業に同業組合が復活した。このうごきは、ブルジョアジーとまっこうから衝突する。手工業者は、重税に反対ということで、革命のがわに立つ。だが、機械制工業の発達によって没落していくという恐怖から、工業の発達に抵抗するかぎり、反ブルジョアである。これが貴族・ユンカーの利益と一致する。株式会社設立の禁止ということでは、足並がそろう。そこで、貴族・ユンカーは、同業組合の復活という要求をうけいれて、手工業者を反革命の陣営にひきいれたのである。当時のドイツでは、まだまだ手工業の親方層の力は強大だった。


プロシアの反革命

プロシアの反革命陣営の中心は、カマリラ(宮廷党)である。これはユンカーで組織され、首領はゲルラッハ兄弟だった。

レオポルト・フォン・ゲルラッハは、将軍、王の待従武官長であり、王ととくに親しかった。

ルートヴィッヒ・フォン・ゲルラッハは、マグデブルグ上告裁判長だった。その副官とみなされたのは、オットー・フォン・ビスマルクであり、三月二〇日、すでに自分の領地の農民を武装させて、革命派に包囲されていた国王の救出をはかり、ローン、メーレンドルフ、プトリヴィッツなどの将軍を説いて失敗したこともある。

宮廷党の指導者は、六月、「十字新聞」(クロイツア・ツァイトウンク)を創刊した。この創刊には、ゲルラッハ、ビスマルク、クライストレッオー男爵、枢密院議員ニーブールなどユンカーの右翼が参加し、理論的指導者は、国王に信頼されていたシュタール教授だった。十字新聞は、ユンカー・貴族の特権を弁護し、上層農民にも影響力をひろめていった。そのおかげで、七月、第一回ユンカー会議が「所有権保護協会」の名でひらかれ、ここに、ゲルラッハのような右翼から、多少ブルジョア的なユンカーであるビューロー・クーメローまでを含めて、土地所有権の防衛という一点で同盟をかためた。

権力をにぎっているカンプハウゼン内閣は、これら貴族・ユンカーを抑えることよりも、自分の背後をおびやかした中小市民、労働者を抑えることに気をくばった。必要とあれば、貴族・ユンカーのにぎっている軍隊をつかって、下層民の反抗を弾圧しようとした。そのために、三月三〇日、ベルリンから撤退していたプロシア軍を呼びもどした。六月七日、王弟ウィルヘルムを、亡命先のロンドンから呼びもどした。かれは、三月革命を挑発した責任として、革命派の攻撃のまとになっていた。議会では、三月革命のときの市街戦の戦士の功績が否定された。

こうした政策を反革命と感じたベルリン市民は、六月一五日、反乱をおこして武器庫をおそったが、カンプハウゼン内閣はこれを弾圧した。こうして革命勢力は分裂した。六月二〇日、カンプハウゼンは退陣し、自由主義貴族を代表するアウエルスヴァルトが首相になったが、実権は蔵相ハンゼマンの手にあり、俗にハンゼマン内閣といわれる。

しかし、しだいにユンカーの圧力はつよまった。一一月二日、ブランデンブルグ内閣が成立した。ブランデンブルグ将軍は、国王の伯父である。九日、プロシア国民議会は、内閣不信任を声明した。政府は、ウランゲル将軍のひきいる四万の軍隊をベルリンにひきいれ、議員を追放し、一一日には国民軍を解散した。一三日、戒厳令と国民議会の解散令がだされた。

議員たちは、納税拒否を決議し、税金不払運動をおこすため各地に散った。ライン州ではマルクス、デュッセルドルフではラッサールなど社会主義者がこの大衆運動をおこしたが、弾圧された。こうして革命勢力は敗北した。

一二月五日、プロシア国民議会の解散と、欽定憲法発布の勅令がでた。この憲法によると、国王は議会をいつでも解散できること、議会は上院と下院にわかれ、下院は普通選挙制であること、大臣は議会の解散中に自由に法律を発布できること、これらの権限に反抗がおこれば戒厳令をしく権利があることなどが規定された。こうして、王権は昔のような権力をとりもどし、絶対主義が復活したかにみえた。


プロシアに絶対主義はもどったか

たしかにほんとうの意味の民主主義はなくなった。だからといって、絶対主義へ逆もどりしたとはいえない。

政府には、首相ブランデンブルグを中心とする多数派と、これに対立する少数派があった。

多数派の一人に、ミルデ(工場主)のあとをうけて商業大臣兼公共労働大臣になったフォン・デル・ハイト(銀行家)がいた。

少数派の中心には、内務大臣マントイフェル男爵、文部大臣ラーデンベルグがいた。かれらは、宮廷党を代表し、ビスマルクもかれらの入閣に力をつくした。これが、絶対主義の再建をもくろむ勢力だった。

多数派と少数派は、下院の選挙法をめぐってはげしく対立した。多数派は普通選挙制をとなえ、少数派は、はげしく反対して押し切られた。

マントイフェル「国家の福祉を無能力者の手にゆだねることは、ただ革命党だけが要求できることである」

ターデン・トリーグラフ(宮廷党の中心人物)「私はいっさいの新選挙法に抗議する。一万ポンドの人肉『人間の骨も含めて』が一人の選挙人をえらび、おそらく四〇〇万ポンドの人肉が、一人の議員を出すという原理を承認できない。つまり私は、ぜったいに選挙法ぜんたいに反対する」

ビスマルク「私は、この選挙法とはげしく闘いぬいたが、残念ながら効果はあがらなかった。上院の選挙法も下院の選挙法も、ともにその存在をみとめるわけにはいかない」

ゲレラッハ「この憲法は、私の考えていたものよりも、いっそう悪いものだ」「第一次選挙や頭数による選挙と仲なおりするわけにはいかない」

こうした少数派=宮廷党の反対にたいして、首相ブランデンブルグ将軍は答えた。

「最善をおこなうことではなく、可能なことをおこなうのが問題である」

この事情をみると、上層ブルジョアの代表者ハイトの立場と、それに同調することを主張する貴族・ユンカーの立場が主流であり、絶対主義の再建をめざすユンカーはまだまだ無力であることがわかる。このような力関係により憲法がつくられ、これにもとづいて、四九年二月二六日、新しいプロシア議会が召集された。

ところで、この普通選挙では、革命的な大衆を代表する急進派が進出し、かならずしも上層ブルジョアジーに有利な結果にならなかった。そこで、無産大衆をしめだし、財産別の選挙制度をつくるということで、上層ブルジョアと貴族・ユンカーが一致した。商業大臣ハイトもこのことを主張した。これが下院の解散ののち、四九年五月三〇日に公布された「三級選挙法」である。五〇年一月三〇日、多少修正されて正式に成立した。

「したがって、けっきょくパウロ教会にたいする。すなわち革命にたいする戦争ということになるが、これは、われわれが一年前には希望できなかったことである」(レオポルト・フォン・ゲルラッハ)。だが、そのなかでも、多数派と少数派のあらそいがつづけられた。少数派は貴族・ユンカー独裁に有利なほうにひっぱろうとし、多数派は、この選挙法が、上層ブルジョアジーに有利のように仕組んだ。

「保守派に有利な選挙の結果を期待するためには、ブルジョアジーと商工業者に、ある種の優越をみとめるべきである」(ビューロー・クーメロー)

三級選挙法について、政府から相談にあずかったおもなものは、ハンゼマン、アルデンホーフェン、アルフェンスレーベン、アルニムだった。ハンゼンは大蔵大臣をやめたといっても、まだプロシア銀行総裁の地位にいる。アルデンホーフェンは、ライン州の大土地所有貴族で、ライン州のブルジョアジーの指導者とひじょうに深いむすびつきをもっていた。あとの二人は、自由主義化した宮廷貴族である。だから、三級選挙法には、上層ブルジョアジーの意志がつらぬかれている。

少数派の宮廷貴族は、上層ブルジョアジーの地位をみとめたくはなかったので、三級選挙法ができてしまうと、これにも文句をつけた。

「すべての第一次選挙と等級選挙制度は、違法な破壊的な制度であり、ゆくゆくは、祖国に思いがけない恥をもたらすことになろう」(シュタール教授)。

「私には、桃色のほうが、赤色よりも、いっそう危険なようにみえる。だから私は、ガーゲルン(上層ブルジョア代表の穏健自由主義者)よりもヴァルデック(急進派)を好む」(ルートヴィッヒ・フォン・ゲルラッハ)。

つまり、いぜんとして上層ブルジョアが自由主義貴族をひっぱって、権力をうごかしているのであり、絶対主義の復活をめざしている勢力は、少数派として押しきられ、泣きごとをならべている段階だといえよう。


パン屋とくつ屋の王冠

民主主義のうえに立って、ドイツ統一をめざそうとするフランクフルト国民議会は、四九年三月二八日、ドイツ帝国憲法をつくった。これは、プロシア王を全ドイツの皇帝とし、立憲君主制、普通選挙制、言論、出版、結社の自由をさだめたものだった。いうなれば、現実を無視した机上の空論である。

四月三日、三二名の議員が、帝位奉呈使節としてプロシア王に面会した。王は、この申しこみをことわった。

「パン屋やくつ屋の親方の恩寵による帝冠」を馬鹿にしたのだ。

四月一二日、フランクフルト国民議会は、帝国憲法を守ると宣言した。これにこたえて、小商人、職人、労働者、中貧農らの憲法支持の大衆運動が高まった。このうごきにのって、プロシア、ハノーヴァー、ザクセン、バーデン、ヴェルテンベルグの議会が、帝国憲法を支持すると決議した。南ドイツでは運動が強力で、それにおされてヴェルテンベルグ王国や中小諸国が憲法を承認した。

プロシア政府は、四月二七日、この憲法に同調した下院を解散し、帝国憲法は無政府主義的文書だと声明し、各国の君主会議を召集した。各国の議会が解散され、つづいて憲法戦争がはじまった。

プロシア王国軍とザクセン王国軍とは、五月五日、ドレスデンで、バクーニン、ボルンのひきいる反乱軍を破り、五月一三日、リープクネヒト、エンゲルスのひきいるバーデン・プファルツ革命軍を弾圧した。マンハイム、ハイデルベルグの市民はバーデン大公を追放して、臨時政府をつくったが、プロシア軍に弾圧された。五月一八日、フランクフルト国民議会は、解散され、七月、憲法戦争はおわった。


オーストリアとプロシアの対立

革命運動がおわると、つぎに、ドイツ統一をめぐってオーストリアとプロシアが対立するようになった。この対立は、ひとくちでいえば、絶対主義を守る貴族と、統一をめざす上層ブルジョアの対決である。

上層ブルジョアが権力の指導権をもっているプロシアでは、プロシア王の指導するドイツ統一をめざす努力がすすめられた。自由主義的な名門貴族シュライニッツ、おなじく自由主義的な将軍ラドヴィッツが、あいついでブランデンブルグ内閣の外務大臣となり、プロシアを中心とするドイツ連合を計画し、これにガーゲルンらフランクフルト国民議会の残党が、ゴータにあつまって賛成した。そこで手はじめとして、外相ラドヴィッツの提唱する三王同盟が、四九年五月二六日、プロシア、ザクセン、ハノーヴァーのあいだいむすばれた。そのうえ、この運動に上層ブルジョアジーの支持をえるため、同盟の規約に「三級選挙法」をつけくわえた。六月、この同盟に参加した国は、二八をかそえるようになった。

こうしたうごきに反対したのが、オーストリアである。オーストリアでは絶対主義が復活し、ハンガリアの反乱も静まって国内体制がかためられた。首相シュワルツェンベルグ公は、ザクセン、ハノーヴァーの国王をプロシアからひきはなし、オーストリアの指導する四王同盟(ハノーヴァー、ザクセン、バイエルン、ヴェルテンベルグ)をつくった。

大国に逃げられたプロシアは、五〇年三月、付近の小国だけをあつめ、エルフルトでプロシアのつくった連邦憲法を可決した。このエルフルト議会では、自由主義貴族アウエルスヴァルトが議長になった。

これに対抗して、オーストリアは、フランクフルトで革命前の連邦議会をひらいた。

ドイツは、プロシア陣営とオーストリア陣営に分裂して対立したが、プロシアの外相シュライニッツは、オーストリアとのあいだに妥協、互譲を実現してドイツ統一をすすめようとした。

だが、対立はさけられなかった。

ヘッセン・カッセル侯国は、プロシアの陣営についていたが、ここの君主たるヘッセン侯が議会を解散し、絶対主義の復活をめざしたので革命がおこり、五〇年九月に追放された。オーストリアがわは、ヘッセン侯の王位を回復するため、軍隊を派遣し革命に干渉した。

プロシアは自分の同盟国にオーストリアが干渉し、絶対主義の復活をたすけることを見殺しにできない。強硬派の将軍ラドヴィッツが外相になり、軍隊を動員してオーストリアと対立した。

オーストリアは強気であり、最後通告をつきつけてきた。プロシアは、屈伏するか開戦するかをえらばねばならなかった。閣議では、開戦を主張するラドヴィッツと、和解を主張するマントイフェルが対立した。しかし、このときのプロシアは、開戦にふみきって勝つ見込みがなかった。

五〇年一一月六日、ブランデンブルグ首相は辞職しラドヴィッツは罷免された。かわってマントイフェルを首相とする内閣が成立し、一一月二八日、マントイフェルはオルミミュッツでシュワルツェンベルグ公と会見し、プロシアが中心になってつくった連邦の解散をうけいれた。

プロシアの屈伏である。ヘッセン・カッセルではヘッセン侯が王位にもどり、絶対主義を再建した。五一年には、ドレスデン会議でドイツ連邦が復活し、すべては革命前にもどった。

プロシアとオーストリアの対立は、自由主義貴族=上層ブルジョアと絶対主義をめざす宮廷貴族の対立だった。プロシア国内では、自由主義貴族と宮廷党の対立だった。だから、オーストリアの圧力でうまれたマントイフェル内閣は、すなわち宮廷党の内閣だった。ほんらいの貴族・ユンカーが権力を回復した。宮廷党とオーストリアとは意見が一致する。ともに、統一ドイツをのぞまず、ふるい分裂割拠のドイツをのぞむ。それが、貴族・ユンカーの権力を安定させているからだ。それだけにかれらは、オーストリアに屈伏したとはおもっていない。ビスマルクの意見は、その立場をよく表現している。四九年九月六日、プロシア中心の三王同盟についていう。

「私は、このような悪い状態が、民主的譲歩、またはドイツ統一計画によってのそかれるとはおもわない。弊害は、もっと根のふかいもののである。そして私は、プロシア国民のなかに、フランクフルト(国民議会)的な理論で、ドイツを統一しようというのぞみがあることに反対する。・・・・・・われわれは、プロシア人であり、プロシア人としてとどまりたいとおもう」(統一したドイツのドイツ人になりたくないという)

五〇年一二月、オーストリアにたいする屈伏を憤慨していた自由主義議員にたいしていった。「ドイツのいたるところで、憲法が危くなったと叫んでいる議員がいるが、この半病の議会の花形たちのために、ドン・キホーテの役割を演じることが、プロシアの名誉になるとは断じて思わない」


プロシアの反動

マントイフェル内閣は五一年、自由主義貴族アウエルスヴァルトに休職を命じ、ハンゼマンをプロシア銀行総裁から追放した。ユンカー会議議長のクライストレッオー男爵は、ライン州長官となり、自由主義者を徹底的に弾圧した。ユンカー会議から保守党が結成され、上下両院とも保守党が圧倒的多数をしめ、下院はゲルラッハ、上院はシュタール教授が指導権をにぎった。貴族政治の支柱たる教会には完全な自由をあたえ、ライン州のカトリック派の首領ライヘンシュペルガーがこれに協力した。

この時代は、重病の王をとりまく宮廷党の天下だった。かれらはブルジョアジーと商工業の発達もおさえようとした。

前蔵相ハンゼマンが中小商工業のための信用組合として、ベルリン信用組合をつくる計画をたてたが、宮廷党が妨害して成功しなかった。

五六年、銀行家ブライヒレーダー、ロートシルド、ハーバーらが、ベルリン農工信用会社をつくろうとしたのも禁止した。

五六年、メーヴィセン、オッペンハイム、メンデルズゾーン、ブライヒレーダー、ハンゼマンらが、ベルリンで農業会社を設立しようとしたのも禁止した。この農業会社という名で、工業、運輸業に手を出そうとしたからである。

五六年、メーヴィセン、オッペンハイム、メンデルズゾーン、ワルシァウァーらの上層ブルジョアが、ラティボール(オーベルシレジェンの大貴族で炭鉱業を経営)、レーデルン、アルニムらの大土地所有貴族と協力して、ベルリンにプロシア農商工信用銀行をつくろうとした。だが、これも禁止した。

ユンカーでかためた陸軍省は、あいかわらずクルップの大砲を拒否していた。一八五〇年クルップは、六ポンドの鋳鋼砲を自分が費用をだして製作し、直接国王へ献上するという方法を考えた。だが国王は、かれの進歩と努力に感謝するが、むだな努力をしないようにいった。クルップは、これも陸軍省のさしがねだと債慨した。五三年、王弟ウイルヘルム(のちの一世)は、個人の資格でクルップの自宅と工場を訪問し、かれをほめた。だが工場で見た製品は、プロシア政府の注文したものではなく、他の国へ行くものだった。このように、国王や王弟ですら、優秀な武器を採用したくてもできなかった。


ブルジョア的少数派の抵抗

こういう反動があったといっても、ユンカー・貴族が、すべてをもとにもどすことはできなかった。プロシアで、ユンカー独裁は復活しなかった。多数派と少数派が逆転しただけである。

ブルジョアジーの代表者として、商業大臣フォン・デル・ハイトがのこっている。

かれの努力で関税同盟はすすめられ、一八五四年、いままで加入をこばんでいたハノーヴァー王国をくわえることに成功した。これで、全ドイツ(オーストリアは別として)が一つの関税地域にまとまった。

ユンカーの妨害をおしきって成功した事業もいくつかある。

ハルペン会社の場合がそれだ。これはドルトムント付近の炭坑に関係のある貴族ヘーヴェルが、七四人の株主をあつめてつくったが、このうち、一〇〇株以上の大株主は商人や医者だった。この会社は、五六年二月に申請され、年末までひきのばされたすえ許可された。

五二年、ヘルダー鉱山会社がつくられ、メーヴィセンが会長になった。

五三年、ダルムシュタット銀行がつくられ、その株がパリの取引所にも上場された。この管理役会長はメーヴィセンであり、参加したのは、オッペンハイムらの銀行家である。かれら銀行家は、株式銀行をプロシアでつくることができないと思い、フランクフルトにつくることを考えた。しかしそこでは、ロートシルドなど銀行家に反対され、ヘッセンダルムシュタットの首都ダルムシュタットにつくった。ここでも条件があり、お礼として鉄道を敷かなければならなかった。このような苦心をして、やっと株式銀行をつくり、鉄道、鉄鋼、船舶、繊維の会社をおこした。このとき、宮廷党の機関紙「十字新聞」は、ロートシルドといっしょになって、銀行をつくることに反対の宣伝をした。このばあいは、産業に進出する上層ブルジョアと、これに対立するユンカーならびに、もっとも貴族的・寄生的な金融業者の同盟が対決し、後者の力をもってしても、前者の努力をつぶすことができなかったことをしめしている。

鉱山にたいしても、有利な改革がつづけられた。五二年三月、プロシア商業大臣の命令で鉱山税が半分になり、石炭販売価格を国家がきめる制度はなくなり、鉱山経営は、経営者にまかされるようになった。

こうして、産業の発達がおしすすめられた。鉄道は四倍にのび、貿易は約三倍にふえ、機械制大工業の発達とともに、手工業がきえていった。「五〇年代の偉大な事実」である。

もちろん、こうした発達にはドイツブルジョアジーだけでなく、外国資本も貢献した。五二年、アーヘンにフェニックス会社(鉄鋼)がつくられたが、これはフランス資本によりつくられ、銀行家オッペンハイムが導入した。

五六年、大炭鉱会社ヒベルニアがつくられ、イギリス式堅坑で採炭をはじめたが、これは、アイルランド人によってつくられた。


クリミア戦争-ドイツ保守勢力の分裂

一八五四年、クリミア戦争がおこると、ロシアのがわにつくか、英仏のがわにつくかでドイツ世論は分裂した。この分裂は、ついに宮廷貴族・ユンカーのなかにまでひろがり、絶対主義の勢力を弱めた。

ゲルラッハを首領とする宮廷党=保守党は、皇后エリザベート(バイエルン王の長女、オーストリア皇帝の伯母)をかつぎ、「十字新聞」は、絶対主義国としての「正統派」ロシアをたすけるべきだと主張した。

自由主義貴族は、自由党にまとまり、王弟ウィルヘルムとその妃アウグスタをかつぎ、「国民新聞」で英仏のがわにつくことを主張した。

ドイツ連邦のなかでは、オーストリアが領土の問題から英仏のがわにつき、ロシアを攻撃しようと主張した。ここでおもしろいことに、プロシアのユンカー=保守党とオーストリアは対立するはめになり、自由主義貴族とオーストリアが一致するようになった。このため、ドイツの保守陣営は混乱、分裂した。

このとき、ビスマルクは、ドイツ連邦でのプロシア代表として、中立を提案し、オーストリアの提案を否決させることに成功した。

「これは、私が連邦議会で多数派の先頭にたったただ一つの場合であり、オーストリアが少数で敗れたただ一つの場合であった」

保守党でもなく、自由党でもなく、さしあたりは中立をとなえて、オーストリアに対決するという別な一派が、ビスマルクを中心にしてつくられはじめた。


反動の過大評価を改める

ここまでみてくると、三月革命がプロシアでのブルジョア革命をもたらしたことが理解できる。たとえそれが、マントイフェル内閣のもとでおしかえされたとしても、その成果がぜんぜんなくなったわけではない。ちょうど王政復古後のフランスのように生きつづけており、ちょっとした政変でもとにもどるべきものになった。あとにみるように、六一年には選挙の結果により、保守党内閣は退陣した。そうすると、ほんらいの市民革命の成果は生きかえったことになる。

ところが、いままでの学説では、このプロシアでの反動が過大評価されてきた。その結果は、プロシアにユンカー独裁が復活したという評価でおわった。

「未完成な市民社会を前提とする近代社会は、ドイツまたは旧ロシアならびに日本などのように、半ば封建的な諸条件によって構造づけられる・・・・・・西ドイツにおいてのみ一七八九年以降、一八四八年にいたるあいだにマニュファクチュア時代が確立され、したがって西ドイツにのみ産業的市民をもったドイツでは、三月革命による典型的な市民革命の遂行は不可能であった。

革命過程において一八四八年の三月から一一月まで、産業的市民が革命の指導権を掌握したが、一二月以降四九年にかけてプロイセンのユンカー貴族が局面を掌握した。かくして、ドイツの市民革命は、半封建的国家としてのドイツ市民社会を生みだしたにすぎない」(「市民革命」『世界史事典』平凡社)

そうではない。四八年一二月から四九年にかけて、ユンカーが局面をにぎったわけではない。そのころは、まだブルジョア的貴族をついたてとして、上層ブルジョアが権力の中心に喰いついていた。五〇年一一月、マントイフェル内閣の成立によって、はじめてユンカー貴族の指導権がはっきりしてくる。そこの、微妙だが、はっきりとしたちがいを見ずに、大ざっぱにかたづけて半封建というのは粗雑にすぎる。

もう一つ、多少は正確にみながら、けっきょく見ていない例をあげよう。

「ウィルヘルム四世は以前のとおり王座についており、側近も以前とおなじでした。ブルジョア出身で一八四八年に大臣になった人々は罷免されました。それにひきかえ、あとでドイツ皇弟ウィルヘルム一世になった霰弾太子はベルリンに帰ってきました。こうしてユンカーが欲したとうり、安寧と秩序がふたたび支配することになったのです。そうはいっても、四〇年代の出来事にたいする驚愕はなおいくらかのこっていました。それでユンカーは少しばかり、大ブルジョアは大いに、お互の間で譲歩してもよいと思っていました。しかし、犠牲を負担せねばならなかったのは大衆でした」(クチンスキー『ドイツ経済史』高橋正雄訳、有斐閣、七九頁)

大衆うんぬんはわかりきっていることだ。問題は、ユンカー独裁が復活したのかどうかということである。そうではないことを言葉のはしに臭わせている。譲歩の程度がどれほどかということが大切である。これを正確にみるなら、マントイフェル内閣とそれ以前とはひじょうにちがうことに気がつく。ところがそれをせずに、とつぜん大衆をもちだして話題をそらせてしまう。こういうやり方は、科学的でなく、むしろアジ演説に近い。これでは、正確な観察ができない。

いままでの見方は、だいたいこの程度のもので、そこから三月革命後のドイツを半封建だときめつけてきた。だが、プロシアについては、そのような単純化した見方は成立しえない。


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