2022年5月20日金曜日

02-市民革命―毛沢東の歴史理論の間違い

2 毛沢東の歴史理論のまちがい


ブルジョア革命と民主主義

毛沢東は、一九四〇年に『新民主主義論』を発表した。ここで、かれは、独特の歴史理論をつくりあげた。これが、中国近代史の時代区分を誤まらせるもとになった。しかも、その理論は、ひじように混乱し、多くの誤解のつみ重ねのうえにきずきあげられたうえ、そのまちがいはまちがいなりにすじがとおされているので、いまだにすっきりした正解が出てこない。いまから、国民革命の正確な理解のうえにたって、そのもつれをほどいてみよう。

国民革命は、ブルジョア革命であった。ところが、毛沢東はちがうという。中国のブルジョア革命は、かれが論文を発表した一九四〇年でも、まだ完成していないという。だから、いぜんとして、毛沢東たちはブルジョア革命の運動をつづけているのだという。

「中国革命の歴史的特質は、革命が民主主義と社会主義との二つのあゆみにわかれることであり、その最初のあゆみは、現在では、もはや一般的な意味での民主主義ではなく、中国的な、特殊な、新しい型の民主主義であり、新民主主義である」

「この最初のあゆみの準備段階は、すでに、一八四〇年のアヘン戦争から、すなわち、中国の社会が封建社会から半植民地的・半封建的な社会にかわりはじめたときから、はじまったものである。大平天国運動、清仏戦争、日清戦争、戊戌政変、辛亥革命、五・四運動、北伐戦争、土地革命戦争から今日の抗日戦争にいたるまでのこの多くの個々の段階は時間的にはまる一〇〇年も経過しているが、ある点からいえば、それはすべてこの最初のあゆみに属し、それぞれの時期の、それぞれの程度での中国人民のこの最初のあゆみに属している。それは帝国主義と封建勢力に反対し、独立の民主主義社会をうちたてるためにたたかったものであり、最初の革命を達成するためにたたかったものである。そして、辛亥革命は、より完全な意味での、この革命の発端となった。この革命は、その社会的性格からいうと、ブルジョア民主主義革命であってプロレタリア社会主義革命ではない。この革命は、現在でもまだ達成されていないし、なお多くの努力をそそがなければならない。それは、この革命の敵が、ずっと今日まで、なお非常に強い力をもっているからである。孫中山先生が『革命なおいまだ成功せず。同志よ、さらに努力せよ』と言ったのは、このようなブルジョア民主主義革命のことである」(『毛沢東選集』第五巻、三一書房、一六~一七頁、傍点は筆者による)

「この革命は、現在でもまだ達成されていない」というのは、一九四〇年の時期でも、まだ、ブルジョア民主主義革命は達成されていないというのである。これが誤解への第一歩である。

国民革命で、ブルジョア革命はおわったのであり、達成された。ただし、民主主義は、実現していない。ここに、ちょっとした問題がある。民主主義を実現しなければ、ブルジョア革命とはみとめられないかということだ。毛沢東は、そう思っているらしい、だが、これは歴史の事実を無視した考えかたである。フランス革命でも、そのあとにきたナポレオンは、民主主義を廃止した。イギリス革命が、もっとも急進的になったときは、クロムウエル独裁であり、そこに民主主義はない。民主主義は社会の動揺のなかで、あらわれては消える。フランス革命の普通選挙制は、せいぜい一七九二年から、一七九五年の短い期間にすぎなかった。それがすぎると、たちまち消されてしまった。これは、一つのエピソードにすぎない。このようなエピソードならば、辛亥革命ののちにも、国会が召集され、国民党が多数参加したあげく、袁世凱によって弾圧、解散させられたという事実もある。

フランス革命ですら、民主主義を絶対的な成果として、守りつづけたわけではない。だから、「ブルジョア民主主義革命」でなければ「ブルジョア革命」でないというようないい方は、まちがいである。ブルジョア革命と民主主義は、きりはなして論じるべきである。国民革命は、ブルジョア革命であった。しかし、民主主義は、実現しなかったというべきである。


基本任務の思いちがい

国民革命がブルジョア革命でないと、毛沢東がいうとき、その理由を二つのことにもとめる。

それは反帝国主義と土地革命の二つの基本的任務を実現しなかったからという理由である。たしかに、国民革命は、この二つのことを実現しなかった。

だが、ブルジョア革命であるかないかを判定する基準は、この二つのことだとだれがいえるのか。この二つの基準は、毛沢東が、勝手につくったものである。だいたい、フランス革命では、毛沢東の理解しているような土地革命が実現されていない。フランス革命も、国民革命とおなじく、貴族、商人、富裕農民の大土地所有をのこしたのである。地主の土地を、小作農にあたえたようなことはなかった。

反帝国主義の任務というのは、フランス革命でも、イギリス革命でももつはずがない。だから、これは特殊性の問題であり、個別性の問題である。フランスのブルジョア革命には、反帝国主義の任務はなかったが、中国のブルジョア革命のときには、その問題がつけくわわったというべきである。そのようなちがいがあるのに、なおかつブルジョア革命としての共通点はなにかと問うべきである。その共通点があれば、国民革命は、ブルジョア革命だといえる。それが、前章で分析したような、権力と財政の問題である。反帝国主義の問題が解決されていなくても、ブルジョア革命であるかないかをきめる基準は、べつにある。

反帝国主義と土地革命を徹底的に実施することは、毛沢東と中国共産党の考えた基本任務であり、それは、ブルジョア革命のものではなく、かれらプロレタリア革命家の希望であった。

それを実現しないからといって、国民革命はブルジョア革命でないというのは、自分の主観的希望というものさしで、客観的事実をはかっていることになる。かれの文章について、その混乱ぶりをみてみよう。

「帝国主義打倒のスローガンや中国の全ブルジョア民主主義革命の徹底した綱領は、中国共産党が提起したものであり、土地革命は中国共産党だけが遂行した」

「中国の民族ブルジョアジーは、植民地・半植民地国のブルジョアジーであり、帝国主義の圧迫をうけているため、帝国主義時代におかれながらも、ある期間には、またある程度は、外国帝国主義に反対し、また自国の官僚・軍閥政府に反対する(この後者についていうと、たとえば辛亥革命の時期および北伐戦争の時期がそうであった)革命性をたもっていたので、プロレタリアートや小ブルジョアジーと提携して、自分たちの敵とたたかうことができた」

「だが、同時に彼らは、植民地・半植民地のブルジョアであり、経済的にも政治的にもきわめてよわく、そのうえ、もう一つの性格、すなわち、革命の敵に妥協する性格をもっている。中国の民族ブルジョアジーは、革命の時期においてさえも、帝国主義と完全に手を切ることをのぞまない。しかも、彼らは、農村では、小作料による搾取とかたくむすびついている。したがって、帝国主義を徹底的にうちたおすことをのぞまいし、またできもしない。まして、封建勢力にたいしては、なおさらそうである。だから、中国におけるブルジョア民主主義革命の二つの基本問題、二つの基本任務は、いずれも中国の民族ブルジョアジーによっては解決されえない。国民党によって代表される中国の大ブルジョアジーは、一九二七年から一九三七年のこの長い期間にわたって、ずっと、身を帝国主義のふところに投じてきたし、また封建勢力と同盟をむすんで、革命的な人民とたたかってきた」

「この点も、中国のブルジョアジーが欧米諸国の歴史におけるブルジョアジー、とくにフランスのブルジョアジーとちがっている点である。欧米諸国では、とくにフランスでは、それらの国がまだ革命時代にあったころは、それら諸国のブルジョアジーは革命の遂行にかなり徹底的であった。中国のブルジョアジーはこの点での徹底性さえもっていない」(同二五~二六頁)。

毛沢東は、中国のブルジョアジーと国民政府が、地主制をのこしたことを、封建勢力と同盟して、人民とたたかってきたという。このいいかたにも問題がある。たしかに、土地革命をもとめる農民運動を弾圧して、地主制をまもった。そのかぎりでは、同盟している。だが、軍閥官僚地主の、権力をうばい、かれらを二流の支配者、地方的な支配者に叩きおとし、ときには、かれらの地主的土地所有を喰いあらしていったのである。だから、この同盟は、単純な同盟ではなく、一度たたいておいて、つぎに目下の同盟者としてかかえこんだという程度のものである。そこに、あきらかな、力関係の変化がみとめられる。

ところが、毛沢東は、その力関係の変化をみとめていないようだ。それは一九二七年から三七年の時期についてのつぎのような言葉についてうかがわれる。

「反革命のがわでは、帝国主義に指揮された地主階級と大ブルジョアジーとの同盟によってる専制主義をおこなった」(同、六五頁)。

このようないい方が、国民革命の見方をまちがわせた。かれは、フランス革命のブルジョアジーが、もっと徹底的だというが、そのようなことはなく、地主制も保存し、旧貴族の多くを上流階級の人間としてのこしている。東洋人は、ややもすると、西洋を美化し、必要以上に模範的に考えるくせがある。これなども、その一例だろう。軍閥も地主とブルジョアジーの権力だという言い方がある(日本では多い)。もし、そのようにあいまいに考えていると、国民革命で、何らの変化もなかったのだというふうな誤解がでてくるだろう。


錯覚が錯覚をうむ

国民革命がブルジョア革命でないという錯覚は、つぎのおもいちがいを毛沢東におこさせた。

それはまだ自分らが、いぜんとしてブルジョア民主主義革命をめざしているのだというおもいちがいである(五二頁参照)。

ところが、それにしてはすこしおかしいことがある。どこの国でも、ブルジョア革命では、ブルジョアジーが権力をにぎったのである。ところが、毛沢東のめざしているのは、自分が権力をにぎろうとしている革命である。そして、かれらはブルジョアジーの代表者ではない。そこで、毛沢東は、かれらのおもいちがいを、植民地・半植民地の革命の一般理論として、それなりにすじをとおしてしまった。そこに、ますますこみいった問題がでてきたのである。

「このような植民地・半植民地の革命の第一段階、すなわち、最初のあゆみは、その社会的性格からいうと、基本的にはいぜんとしてブルジョア民主主義的なものであり、その客観的な要求は、資本主義の発展のための道をはききよめる。だが、このような革命は、もはやブルジョアジーに指導された資本主義の社会とブルジョア独裁の旧い型の国家を樹立することを目的とする旧い型の革命ではなくて、プロレタリアートに指導された、第一段階では新民主主義の社会と革命的諸階級の連合独裁の国家を樹立することを目的とする、新しい型の革命である」

(同、一九頁)。

よそ目でみると、国民革命でブルジョア革命はおわったから、毛沢東は、社会主義革命をめざして国共内戦をつづけているのであるが、本人は、ブルジョア革命がおわっていないとおもっているから、「プロレタリアートの指導するブルジョア革命」をめざしているとおもっている。これを新民主主義革命と名づける。かれの見とおしによると、将来には、新民主主義革命のつぎに、社会主義革命が待っているということになる。

「この革命の最初のあゆみ、すなわち第一段階は、けっして中国ブルジョアジーの独裁する資本主義社会を建設することではなく、また建設できるものでもなくて、中国プロレタリアートを先頭とする中国の革命的諸階級の連合独裁のもとでの新民主主義社会を建設することであり、これによって、この第一段階はおわる。そして、その後には、さらにこれを第二の段階に発展させて、中国の社会主義社会をうちたてる」(同、二三頁)。

「中国革命は二つの歴史的段階にわかれ、その第一段階は新民主主義革命である。これは中国革命のあたらしい、歴史的特質である」(同、二四頁)。

「このような新民主主義共和国は、一方では、旧い形態の、欧米型の、ブルジョア独裁の資本主義的共和国とは異なっている」「しかし、それは他方では、ソヴェト同盟型の、プロレタリア独裁の、社会主義の共和国とも異なっている」「だが、そのような共和国は、ある歴史的時期のあいだはまだ植民地・半植民地国の革命に適用することはできない。したがって、あらゆる植民地・半植民地国の革命がある歴史的時期のあいだとりうる国家形態としては、第三の形態のほかにない。それが新民主主義共和国といわれるものである」「したがって、全世界の多種多様な国家体制も、その権力の性格からわけると、基本的にはつぎの三つよりほかはない。すなわち(一)ブルジョア独裁の共和国、(二)プロレタリア独裁の共和国、(三)いくつかの革命的諸階級の連合独裁の共和国がそれである」「第一のものは、旧い民主主義の国家である」「第二のものは、ソヴェト同盟に存在している」「第三のものは、植民地・半植民地国家の革命がとる過渡的な国家形態である」(同、二七~二八頁)

「現段階の革命の基本任務は、主として外国の帝国主義と自国の封建主義とたたかうことであり、ブルジョア民主主義革命であって、まだ資本主義をくつがえすことを目標とする社会主義革命ではないからである」(同、六七頁)。

こうして、「植民地・半植民地」→「新民主主義革命」→「社会主義革命」という図式ができあがった。この図式は、中国で、正しいものとされている。そこで、現在の「文化革命」を、最後の段階のものとおもっているようなふしがある。林彪副主席の演説がそれである(昭和四二年一一月六日)。

「毛主席は、この問題を解決して、勝利のうちに史上初のプロレタリア文化大革命を指導した」(一一月七日付の『朝日新聞』)。

だが、これはおもいちがいである。毛沢東は、新民主主義革命が、ロシア社会主義革命とブルジョア革命の中間のものだというが、そうではない。ロシアの歴史と比較するなら、国民革命が、ロシアの三月革命(旧暦の二月革命)とおなじくブルジョア革命であり、いわゆる「新民主主義革命」は、ロシアの一一月革命(旧暦一〇月革命)とおなじく、社会主義革命である。だから、ソ連とおなじく、共産圏、社会主義圏に入るのである。ただ、両者のいちばん目立ったちがいは、新中国に民族ブルジョアジーが参加していることである。これは、前にのべたような事情、すなわち、中国が半植民地国であり、かつ四大財閥の横暴がひどかったことから実現した。しかし、このときの民族ブルジョアジーとは、主流ではなく、脱落者であり、主流は外国資本と四大財閥である。そして、主流となる勢力は敗北した。だから、基本的にはおなじであり、同盟者の構成に特殊性があるというべきだ。


過渡期と目標の混同

毛沢東のまちがいは、さらにすすむ。それは、かれが、「新民主主義革命」の内容を「抗日統一戦線」だと理論づけたことだ。

「このような新民主主義の国家形態は、抗日統一戦線の形態である」(同、二九頁)。

これは、あきらかなまちがいである。抗日統一戦線とは、日本軍に抵抗するすべての勢力の同盟だった。そのなかには、蒋介石の国民党も入っていた。入らないものは、汪精衛に代表される、親日派のみであった。この同盟をつくるためには、土地革命や、資本の国有化政策をひっこめなければならない。それどころか、八時間労働制もひっこめて、一〇時間労働制でがまんした。

「親日派の大ブルジョアジーは、はやくから徹底的に日本に降伏し、あやつり人形の登場を準備している。欧米派の大ブルジョアジーは、いまなお抗日をつづけているが、妥協的傾向がいぜんとして大きい。・・・・・・かれらは、抗日統一戦線内の頑固派である。中間勢力には、中位のブルジョアジー、進歩的な地主および地方の実力派がふくまれており・・・・・・かれらは抗日統一戦線内の中間派である。共産党の指導下にあるプロレタリアート、農民および都市小ブルジョアジーの進歩勢力は・・・・・・抗日統一戦線内の進歩派である」(「現在の抗日統一戦線における戦術の問題」、『毛沢東選集』、第五巻、一三二頁)。

「労働政策について。・・・・・・中国の現状のもとでは、八時間労働制を普遍的に実施することはまだむずかしく、ある一部の生産部門では、十時間労働制がなおゆるされなければならない。・・・・・・労働者はかならず労働規律をまもり、資本家に利益をあげさせなければならない。そうしなければ、工場は閉鎖される。それは、抗日にも不利になるし、労働者にも損になるであろう」

「土地政策について、現在が、徹底した、土地革命を実行する時期ではなく、過去の土地革命時代の一連の方策をいまの時期に適用することができないということを、党員や農民に説明しなければならない。現在の政策についていえば、一方では、地主が小作料・利子の引下げを行なうよう規定すべきであり、そして、はじめて、基本的な農民大衆の抗日への積極性をよびおこすことができる。だが、しかし、引下げすぎてはならない。小作料は、一般に二割五分引下げを原則とすべきである」

「徴税政策について。・・・・・・負担をすっかり地主や資本家におしつけてはならない」

「経済政策について。・・・・・・外部の資本家で、わが抗日根拠地にきて事業をおこしたがっているものはこれを吸収しなければならない。民営企業を奨励し、政府経営の国営企業はたんに全企業の一部とみなすべきである」

「国民党の軍隊にたいしては、ひきつづき、犯されず、犯さずの政策をとり、できるだけ友好関係をのばすべきである」(「政策について」、『選集』第五巻、一六三~一六七頁)。

さて、かんじんなことは、この抗日統一戦線と、いわゆる「新民主主義革命」とが、まったくちがう内容をもっていることである。日本が敗北し、つづいて国民党と共産党との全面的な内戦がはじまり、国民党が敗北して、中華人民共和国の成立が宣言されたとき、うちだされた経済政策といえば、外国資本、官僚資本=四大財閥の没収、土地革命=地主の土地没収である。国民党との共存政策はけしとんだ。つまり、この時期には、抗日統一戦線の内容がすてられ、「過去の土地革命時代」の方針にもどったのである。だからいわゆる新民主主義革命は、抗日統一戦線とおなじものではない。そのことは、毛沢東自身もべつのところでいっていることである。

「中国で樹立されるこのような共和国は、・・・・・・経済においてもまた新民主主義的でなければならない。

大銀行、大工業、大商業は、この共和国の国家的所有となる。・・・・・・

この共和国は、将来ある種の必要な方法によって、地主の土地を没収し、それを土地のない農民や土地のすくない農民に分配し・・・・・・農村における封建的関係を一掃し、土地を農民の私有にうつすであろう」(「新民主主義論」、同、第五巻、三一~三二頁)。

これで、毛沢東の自己矛盾はあきらかだろう。かれは、「新民主主義革命」の目標として、土地革命、大資本の没収を考えた。だが、抗日統一戦線をつくったときには、この目標をひっこめていた。そして、抗日統一戦線の時期がおわり、国共内戦の時期になって、もとの目標にむかった。抗日統一戦線の形態とは、新民主主義革命ではなく、国共内戦よりも、抗日が大問題となったときの、一時的な過渡期の政策であり、それは、国民革命と新民主主義革命の中間にあるものにすぎなかった。

毛沢東は、過渡期と目標を混同したのである。もし、どうしても新民主主義と抗日統一戦線をおなじものといいたいのなら、そのあとでできた、中華人民共和国を新民主主義というべきでない。経済の内容がちがうからだ。じっさい、中国で、外国資本と四大財閥の資本を没収すれば、基本的な資本をすべて没収したことになる。まして土地革命も実行したのだから、新中国の成立とは、基本的にロシア一〇月革命とおなじ社会主義革命であったというべきである。

こうして、中国近代史の時代区分は、すっきりしたものになる。国民革命は、ブルジョア革命であった。(いわゆる新民主主義革命、すなわち一九四九年の新中国の成立は、社会主義革命である。抗日統一戦線とは、そのあいだの過渡期にすぎない。

毛沢東は、まず、フランス革命をなにかひじょうに徹底的なものと信じこんだ。そこで、国民革命をブルジョア革命でないと思った。そこから、理論的なむりをかさねて、ついに自分のしていることの歴史的な評価を見失ったのである。

 

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