2018年1月17日水曜日

討幕戦の西郷隆盛はフランス革命のラファイエットに似ている

討幕戦の出発点では、西郷隆盛が討幕戦力と商人層の同盟を、一身に体現した。フランス革命において、1789年7月14日、バスチーユ占領の直後、ラファイエットは国民衛兵司令官となり、フランス革命の軍事力を代表する存在になった。
国民衛兵とはフランス王国の軍隊とは別物であって、正規の軍隊はヴェルサイユに大軍をなして駐屯していた。その分隊として、フランス衛兵というのがパリ市内に駐屯していたが、これが反乱を起こして民衆の側についた。砲兵隊もこれに合流した。だからバスチーユが陥落した。これは要塞監獄、堀に囲まれ、高い石造りの外壁、上に砲台が据え付けられている。民衆が攻撃したくらいでは、陥落しない。砲兵隊が発砲の構えを見せたので、降伏した。
だから、国民議会議長ラ・ロシュフーコー・リヤンクール公爵が国王ルイ16世に「陛下、バスチーユが陥落しました」、「何、それは暴動だろう」、「いや、革命です」と返事をしたのである。
普通のフランス革命の概説書では、民衆の暴動、蜂起が決定的な要因であるかのように書いているが、これはナンセンスであって、軍隊の合流があって初めて革命になった。下士官、兵士、が動く。下級将校は動揺、上級将校は国王の命令通り動こうとする。ナポレオンはどのあたりにいたかというと、中立であった。
こうした形で、勝利した武装勢力が国民衛兵を作るとなれば、下士官、下級将校の発言力は大きい。そして彼らは貴族であった。田舎に帰れば、大きな邸宅があり、村一番の大地主であり、幕末の日本に例えると郷士であった。つまりこの時代、平民の指揮する軍隊はあり得なかったのだ。そこで新しい国民衛兵も、その長に貴族のラファイエットを担ぎだした。
ラファイエットは侯爵、マルキ・ド・ラファイエットという。大貴族の序列では、大公、公爵、侯爵となる。大公はプランス(英語でプリンス)と発音されるが、皇太子ではなく、赤の他人で、最大の領地所有者、例えばというと、現在の、モナコ大公、ルクセンブルグ大公だと思えばよい。この二人は当時ヴェルサイユにも来ていた。ランベスク大公というのは、ロレーヌの大領主、パリを攻撃した司令官であった。そうすると、見た目にはバスチーユ占領はランベスク大公と、ラファイエット侯爵の対決のようにも見える。どちらも自分の郷里に帰ると、殿様である。
これだけ見ると、西郷隆盛は役不足のように見える。小松帯刀が生きていたなら、ラファイエットに近い。いや、島津斉彬が薩摩軍を指揮していたら、まさにラファイエット侯爵と同じといえよう。そしてこれは、藤田東湖が夢見ていた姿であった。
ここまでは貴族の部分であって、ブルジョアジーの部分がこれから入る。パリの騒乱が始まると、ルクツーという商人、貿易業者が兵営に出かけて、月給を保証するといった。こうして一大隊丸ごと反乱の側に引き付けた。ボスカリという大商人は自分の地区で住民を武装させ戦闘に参加した。
だから、パリの反乱はブルジョアジーが組織したものともいえる。それを反映して、ラファイエットの副官に、ぺルゴなどの銀行家の名が出てくる。この人物、のちにナポレオンを担いでクーデターを起こさせる。
つまり、ラファイエットの権力は、武装勢力と商人銀行家の一時的同盟であり、それを彼が一身に体現したものであった。日本の明治維新には民衆の部分がないという人がいるが、これも極論で、薩摩の郷士は半ば農民であり、長州の奇兵隊は、武士と平民の混合であった。いままでの人々の議論は、フランスについては民衆の部分だけをすべてとし、日本については武士だけの要素をすべてとして、極論と極論を対立させてきたのであった。
結論を言えば、西郷隆盛とラファイエットは同じであって、身分、家柄は違うということである。

2018年1月15日月曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、討幕戦をアメリカ革命に例えると

討幕戦で西の商人国家東の大土地所有国家に分裂した。同じような経過はアメリカ独立革命にもみられる。1775年4月19日レキシントン、コンコードでイギリス軍と地元の住民の戦闘が始まり、翌年の3月17日ボストン港からイギリス軍を撤退させて、実質的な独立を達成した。
ボストンを州都とするマサチュセッツ州の新知事にジョン・ハンコックが就任した。この人物が新政府の商人的性格を見事に表現している。貿易商人、造船業者、しかしイギリス当局からは密貿易商人とみられていた。イギリスは当時東インド会社に貿易独占権を与えていたからである。ハンコックが輸入した商品が、イギリス当局に差し押さえられたことがあった。彼はボストン茶事件その他の反抗運動の財政的支援者となり、イギリス当局から追及され、内陸に逃げた。
第2回大陸会議の議長となり、独立宣言に最初に署名した。その直後、ジョージ・ワシントンが大陸軍総司令官に任命された。ワシントンは中部地方のヴァージニア州出身、中土地所有者で軍人経験者、彼が北部のボストンにやってきて、様々な民兵を正規軍にまとめ上げ、この兵力でイギリス軍を撃退してボストンを解放した。ハンコックは州知事に就任して死ぬまで続けたが、まだ連邦政府がないころであるから、実質的に小国家の独裁者のようなものであった。日本語で知事を訳すが、英語ではガヴァナーで、独立前の名も、同じ発音であるから、総督といい、知事というがどちらも同じものである。
そうすると、新政権は大商人と中土地所有者から小時所有者の武装勢力の同盟、これで南部のイギリス側との戦争を続けることになったといえる。対するイギリス側は、大土地所有者の集合体であった。この点が日本ではほとんど意識されていない。ボストンには、昔の豊かな王党派の屋敷跡が残っていて、これが一つの歴史的遺跡になっている。州内の大土地所有者が、州都ボストンに集中して住み、これがイギリス国王に忠誠を誓っていたのである。これが植民地支配の足場であった。だから、独立は、王党派の権力を破壊し、商人の権力に変えたことになる。つまりは市民革命であり、討幕戦と同じ効果を持つのである。

2018年1月13日土曜日

討幕戦を英、米、仏の革命に例えると

幕府軍は江戸に敗退した。京都、大坂は解放された。ここでの新政府は商人層の支持が固い。西日本についての不安はない。しかし東日本、東北日本はまだ徳川幕府の支配下にある。旗本領は同じ、大奥も同じ、各藩の武士階級(日本の貴族)の領地、俸禄の権利も同じである。ここは前近代社会のままである。
討幕戦直後は、西日本が、フランス革命後のフランス、東日本が旧体制、アンシャンレジーム、絶対主義のフランスとなり、この時点でのヨーロッパに例えると、西日本がイギリス、フランスとなり、東日本がオーストリア、ロシアとなる。
こうした状態をイギリス革命についてみると、1642年、国王チャールズ1世がロンドンから退去して北西部に移り、貴族の騎馬軍団を集めてロンドン攻撃を繰り返した時に似ている。ロンドンは防戦にはつよい。貿易商人と船員は船内での格闘にはすぐれているが。しかし、大平原での戦闘は今一つとなる。店員その他では役に立たないと、クロムウエルがいった。
クロムウエルはジェントリ、小領主、小貴族、悪く言えば田舎貴族、日本でいえば郷士、ただ大叔父が昔国王側近で活躍したことがある、没落名家であった。彼が私財を投じて小規模な軍隊を作った。指揮官が貴族、騎兵が豊かな農民層、ヨーマンといわれたもの、これを中核にして、歩兵、砲兵を組み合わせる。ニューモデル軍といわれた。はじめは地方の民兵のようなものであったが、やがて勢力を伸ばして、議会側の軍隊の副司令官になった。
これまでは国王側と革命側・議会側は決定打なしの勝負を続けていたが、ネースビの戦いでクロムウエルのニューモデル軍が勝利して、議会の優勢が確立した。
この段階が、鳥羽伏見の戦いで幕府軍を破った直後の西郷隆盛と似ている。実質的な実力者ではあるが、まだ旧社会の名門を上に置いている。クロムウエルはフェアファクス卿という上級貴族をうえにもち、西郷隆盛は、総督参謀となり、総督は宮様であった。クロムウエルには東インド会社などロンドン大商人の集団が支持者として集まった。商人と下級貴族の同盟、この点が二人の類似点である。市民革命の出だしはこのようなものである。

2018年1月12日金曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、討幕運動の源流

慶応三年末の西郷隆盛は激烈な討幕論者であった。優しくて、おおらかでという一般的な印象とはまるで違う。ともかく、これなしでは何事も始まらないという信念を持ったいた。それはどこから来るか。実は多くの先輩たちがその考えを持ちながら、その時期に出会わずに終わったのである。
寛政三奇士といわれる人たちがいる。三奇人ともいう。林子平、高山彦九郎、蒲生君平であるが、奇妙な人たちで、何をしようとしたのかわからぬというものであった。林子平は海国兵談で外国の軍艦の脅威を力説したから、今ならわかる。後二人はとなるが、高山彦九郎については、京都三条、京阪電鉄駅前にある彼の像、「何事のおわしますかは知らねども、ただ有難さにぞ、涙こぼるる」という歌で、御所の方向を向いて平伏している姿が残っている。彼の伝記を書いた人が解説で、「王を尊ばんとするには幕府を倒さねばならぬという戦乱的革命思想を持って」と書いている。大規模な農民一揆がおきたと聞くと、そこに駆け付け、これを討幕戦力にしようと努めた。このようなことが、奇人といわれた理由であった。しかし世は太平、何事もなく一生を終わる。そこのところを蒲生君平は「ただ泰平、恩沢の厚きによりて、自ら章句を持って、青吟に託す」と書いている。彼らは蘭学者前野良沢などと親交があり、外国のことも知っていた。偏狭な攘夷論者ではない。むしろ開明的であった。つまり、討幕開国論の原型であった。幕末の志士たちは、この三人を仰ぎ見ていたから、討幕論の原型はこのあたりにあるのである。
水戸藩の藤田東湖は藩主徳川斉昭の懐刀、この人物は攘夷論者だと思われているが、「なかなかそうではない」ともいわれ、ややあいまいと思われているが、討幕論については、終始一貫激烈なものを持っていた。土佐藩主山内容堂が「なにをすればよいのか」と聞くと「ご謀反が最上」と答えた。これには危険を感じて「先生酔って大言するか」とたしなめた。薩摩藩士の一人に、「自分は島津斉彬公に着目している。薩摩の軍隊で京都に上り、天皇を擁し、統一国家を作り全国に号令する」、「天子親政の実にして上がれば、自余の小問題はおのずから定まる」といった。「我が藩などは親藩だから、そういう意気込みはない」と嘆いた。藤田東湖の討幕論であるが、それを西郷隆盛が実現したことになる。
三岡八郎(坂本龍馬の推薦で新政府の会計官となり由利公正と改名・東京府知事・元越前藩士)は言う。「西洋流を勉強して、外国に対抗するために必要な武器艦船の費用を計算し、これが幕府にあるかどうかを調べると、幕府は貧乏なもので、とても出せない。これでは幕府を倒してしまわなければならないと知った」と。これは経済学から、討幕論を唱えたことになる。当時は三岡経済学などといわれていて、この延長の改革論が坂本龍馬の注目するところとなり、新政府への登用につながった。

2018年1月10日水曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、商人の討幕・続の続

三井の主人にはもう一つの動機がある。寛政の改革の時、ぜいたく禁止令に違反したというので、手錠をかけられたことである。これは権力が幕府にあったから起こったことで、権力を持たない悲しさを思い知らされた事件であった。同様の思いが薩摩藩にもあった。藩財政が豊かであると幕府に思われると、大規模な土木工事を命じられた。この悲惨な状態は語り伝えられている。こうして、三井と薩摩には、幕府に対する恨み骨髄が残り、幕府が続く限り、いつまたそのようなことになるかもしれないという恐怖を持ち続けていた。
次に、幕府軍が大坂に退いてから起こった特殊な現象がある。将軍徳川慶喜は会津藩主など少数の部下をつれ、外国の軍艦に乗って江戸に帰った。幕府の軍人・ほとんどは旗本には軍資金がなかった。これでは江戸へ帰ることもできない。そこで、「金は天下の金なり。押し借りなり」といって商人から金を奪い、借用書だけを残して去った。天下というのは幕府の意味を持つ。これで大阪商人は一気に反幕府の立場に立った。新政府はこれを補償するといったので、大阪商人は挙げて新政府支持に回った。
前に戻って、討幕運動が地方に散在していたころ、その地方の商人の中で志士を守ったものがいた。これが侠商と呼ばれた人たちで、今思いつくだけでも、かなりいる。下関の海運業者白石正一郎、長崎の密貿易女主人大浦のお慶、博多の対馬問屋石蔵屋卯平、薩摩の海上王浜崎太平治(この四天王の一人に川崎正蔵がいて現在の川崎重工のもとを作った)、讃岐丸亀の小橋安蔵、桂小五郎(木戸孝允)をかくまった但馬出石の商店主・金物屋などが思いつく。はじめはわずかな商人の支持、それが大きなうねりになって、商人の権力へと成長した。

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、商人の討幕・続

御用金には規則、ルールがない。この点では西洋も同じで、イギリス革命はまさにこの問題を巡って始まった。幕末の御用金は急ピッチで上昇し、三井などもそれを値切るのに苦労していた。幕府は内外の必要からだといっているが、商人にしてみると、大奥、上級旗本の豪奢な生活をそのままにしての「出資強要」は納得がいかない。このままではつぶされてしまう。さりとて、反抗すると、殺されてしまう。
そこでひそかに、反幕府の運動をする人間を支援する。支援しながら、天下の情勢を知らせてもらう。三井は、伊達小次郎(紀州藩士)を隠密として、全国の情勢を探らせていた。のちの陸奥宗光(外務大臣)であった。頭巾をかぶり、刀を落とし差しにした忍者のような姿の写真も残っている。常陸笠間藩の重臣加藤有隣も三井と親しく、高杉晋作とも親しい。幕府から疑われて逃亡し、長州に逃げ延び、高杉の縁でかくまわれた。この高杉は、西郷と二度にわたってひそかに面会したという伝説が残っている。面会の後、高杉は、いわゆる「奇兵隊の決起」(功山寺挙兵)を行い、長州藩の佐幕派政権を打倒した。これを危険と考えた新選組などは、踏み込んで叩けと主張したが、西郷は藩内のことだといって長州征伐軍を解散させた。
つまりこのように、三井の姿は見え隠れし討幕にまでいたる。

2018年1月9日火曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、商人の討幕

当時三都の大商人といわれたものが、三井組、小野組、、島田組であった。大阪、京都、江戸に店を持った。このうち三井がひそかに薩摩の側についた。新政府ができると、その会計官由利公正(三岡八郎)は小野組の小野善助を呼び出して、政府への協力を取り付けた。大隈重信(佐賀藩士)は鴻池、住友の資金を持って政府に名入り、会計官の次官になった。のちに「島田は大隈さんの何だったから」と井上薫が言ったが、世間には知られていないが、政府の中で走る人ぞ知る間柄だった。
なぜこのように商人層が新政府の側についたのか。それは御用金の問題があったからである。「近頃商人が集まれば御用金の話ばかりしている」との幕府内の報告が残されている。