歴史家がわからずに書いている代表的な問題であります。来島又兵衛率いる長州軍が、御所を守る会津藩兵を撃破して、御所になだれ込もうとした時、西郷隆盛率いる薩摩藩兵が発砲して、来島は戦死、長州軍は敗北します。なぜ西郷隆盛は発砲命令を出したか。これが誰にもわかっていない。ことしのNHK連続テレビを見てもあいまいで、本心がわからない。実は、本人は「きんけつしゅご」、つまり御所を守るためだと書き残している。「それは本当」と探りを入れると、「実はそうでもない」という答えが返ってくるはず。
では本心は。長州軍の主流派は、尊王攘夷派であった。天皇を囲んで、政権を握ると、その命令の下、攘夷戦を行うという使命感を持っていた。大体の構想としては、西日本を天皇の直轄地として、東日本は幕府に任せるというものであった。西日本には幕府の領地は少ないから、幕府の死活問題にはならない。薩摩にとっても、この問題で、賛成、反対はない。
では、発砲せざるを得ない対立点は何か。それは「攘夷」の問題であった。すでに薩摩は、この二年前に、イギリス軍と戦争をして、講和条約を結び、貿易を始めていた。このことを長州藩士は知っていた。そこで、薩摩の商船が関門海峡を通過しようとした時、砲撃を加えて、炎上させた。「関はよいしょこしょの、前田の海よ、うまくやけます、さつまいも」。
この点について、西郷隆盛は「暴人」と書いている。これが中央で権力を握ったら、全国的にこれをやりだす。薩摩のみならず、外国の船に向かって攻撃を加えることになる。つまり攘夷戦になる。これはまずいでしょう。というので、発砲を命じた。しかし、薩摩藩兵の中にも、まだ攘夷派はいる。だからはっきりと本心を言うわけにはいかない。ゆえにあいまいなのです。
次に長州征伐となり、講和を結んで帰京するころに、長州では、高杉晋作の挙兵で開国容認の政権ができた。そうすると、両藩が対立する条件が消えていく。それに加えて、商人層の警戒感が薄れる。両藩の同盟と、それに対する大商人の資金協力という構図が出来上がり、討幕の見通しが立つことになる。こうした事件の渦中にいる西郷隆盛は、いちいち本心を言うわけにはいかないのです。そこのところを勝海舟は「落としどころをよく知っている」と評価するのです。
2018年8月6日月曜日
2018年7月9日月曜日
フランス革命の全期間、ブルジョアジーの支配が続いた
こうして、ジロンド派が追放されても、ブルジョアジーの実質支配が揺るがない。押しのけられたのは、資本主義の中の、強欲資本主義、けち資本主義部分だけといってよい、それも、抵抗さえしなければ、そのままで、累進税を払えばよかったのである。ブルジョアジーの主流派は平原派の背後で、安定した支配力を行使した。それが個人的には、バレールの行動に代表されている。
これだけのことを証明するために、長々と論証を続けたが、いったい何のためにしているのか、目標を見失ったのではないかと思うので、一度本題に戻します。目標は明治維新です。つまり、我が国の革命です。これが我が国の市民革命だということを証明すること、そこに目標があったはずです。
1789年から1830年これがフランス革命です。日本の未市民革命は、1868年から、1871年までです。これが承認されたら、目的は達成されたことになります。
フランス革命ではオーストリアを中心とする大国の干渉があって、一度1815年にブルボン王朝の復帰、王政の復活があり、貴族政治が復活しました。それを象徴するものが、1830年の7月革命寸前の首相ポリニヤック大公です。フランス革命の引き金になったといわれ、「赤字夫人」といわれたポリニヤック公爵夫人の息子です。つまり、息子は親を超えて、大公になつていたのです。もし、7月革命がなかったとすれば、フランスは絶対主義、旧体制への逆戻りになっていました。したがって、フランス革命が市民革命として完結する期間は長いのです。
わが国には、打倒された幕府の権力を助けてやろうという外国の勢力はなかった。(全くないわけではなかったのですが)。そこで短いのです。
このようにいって終わりならば、話は早いのですが、「フランス革命には、ジャコバン派独裁という、反ブルジョア的な勢力が支配した時期があり、これがよその国とは違う」というような理論が盛んであったために、わが国にはそれがないからダメ、というような理論になりました。そこで私が、長々とそれに反論をしてきたのです。
これだけのことを証明するために、長々と論証を続けたが、いったい何のためにしているのか、目標を見失ったのではないかと思うので、一度本題に戻します。目標は明治維新です。つまり、我が国の革命です。これが我が国の市民革命だということを証明すること、そこに目標があったはずです。
1789年から1830年これがフランス革命です。日本の未市民革命は、1868年から、1871年までです。これが承認されたら、目的は達成されたことになります。
フランス革命ではオーストリアを中心とする大国の干渉があって、一度1815年にブルボン王朝の復帰、王政の復活があり、貴族政治が復活しました。それを象徴するものが、1830年の7月革命寸前の首相ポリニヤック大公です。フランス革命の引き金になったといわれ、「赤字夫人」といわれたポリニヤック公爵夫人の息子です。つまり、息子は親を超えて、大公になつていたのです。もし、7月革命がなかったとすれば、フランスは絶対主義、旧体制への逆戻りになっていました。したがって、フランス革命が市民革命として完結する期間は長いのです。
わが国には、打倒された幕府の権力を助けてやろうという外国の勢力はなかった。(全くないわけではなかったのですが)。そこで短いのです。
このようにいって終わりならば、話は早いのですが、「フランス革命には、ジャコバン派独裁という、反ブルジョア的な勢力が支配した時期があり、これがよその国とは違う」というような理論が盛んであったために、わが国にはそれがないからダメ、というような理論になりました。そこで私が、長々とそれに反論をしてきたのです。
2018年6月16日土曜日
いわゆるジロンド派追放から約2か月間、恐怖政治は無い
改選された公安委員会は、「政策を失った委員間」とか、「睡眠薬強盗委員会」とかのあだ名でからかわれていた。マラーとヴァディエがつけたもので、ともにモンタニヤールの議員であった。つまりは、まだモンタニヤールの議員は、野党的な目で公安委員会を批判していたのである。「しっかりやれ」、「何もしていないではないか」という意味である。実際、社会政策としては追加したものはない。
ジロンド派に対する追及すらない。事実、しぶしぶ除名に賛成させられたから当然のことになる。それでもしたことは一つある。累進強制公債の実施であった。これを出先の機関に任せる。つまり派遣委員と地方公共団体にである。ここでは、必要に応じて、金持ちから税金を借りるという名目で取り立てた。拒否したものだけが処罰されたが、「命ばかりは」と差し出したものについては、命まではとろうとはしない。金持ちにとっても、戦争に負けて、亡命貴族が返ってくることを思えば、安い費用とも思える。
こうした状況の中で、マラーの暗殺と敗戦の脅威が事態を変えた。7月13日、つまり新公安委員会ができた3日後のことであった。これを厳密に評価すると、恐怖政治を「マラー、ダントン、ロベスピエール」のしたことと定義した、昔からの理論が、実はでたらめであることがわかるだろう。マラーはその前に死んでいる。しかも、この時、穀物の最高価格制、強制徴発の要求に反対して、過激派指導者と対立していた。過激派指導者ジャック・ルーは脅迫的な言葉を残して去った。その直後のことであるから、はじめは過激派の復讐だと思われた。その意味では「マラーが穏健派」と仰天するような解釈も成り立つ。
暗殺者は、シャルロット・ド・コルデーという貴族の女性であり、ジロンド派につながりがあるといわれたが、私は怪しいと思っている。(これは私見であります)。
いずれにしても、議員に対して、暗殺の脅威が高まっていることは確かになった。パリの治安を維持しなければならない。しかし、軍隊は大戦争の為に出払っている。警察力だけでは人手が足りない。ここでジャコバンクラブの組織力が期待されるようになった。ここで最大の影響力を持つ人物、それがロベスピエールであり、彼に「入ってくれ」という誘いがかかった。彼は「自分の気質に反して」といいながら引き受けた。役割は、「ジャコバンクラブを公安委員会支持に結びつけること」であった。これで議員の安全は確保されたが、のちにもろ刃の剣になる。
戦争では、ベルギー方面のオ-ストリア軍が最大の脅威であった。今一つ戦果が上がらない。公安委員のバレールが、ラザール・カルノーに公安委員会入りを勧めた。軍事の全権を任せるという。カルノーはプリユール・ド・ラ・コート・ドールを推薦して断った。そうするとバレールは「そうか、それなら二人とも」といって、これを国民公会に推薦し、議論もなしに可決した。これを見ると、人事の実験は平原派のバレールにあったことがわかる。カルノーは軍事の天才ぶりを発揮し、「勝利の組織者」と呼ばれ、子孫から大統領を出す家系になった。
こうゆうわけで、ジロンド派ついい方が、即、恐怖政治になるということはないのである。
ジロンド派に対する追及すらない。事実、しぶしぶ除名に賛成させられたから当然のことになる。それでもしたことは一つある。累進強制公債の実施であった。これを出先の機関に任せる。つまり派遣委員と地方公共団体にである。ここでは、必要に応じて、金持ちから税金を借りるという名目で取り立てた。拒否したものだけが処罰されたが、「命ばかりは」と差し出したものについては、命まではとろうとはしない。金持ちにとっても、戦争に負けて、亡命貴族が返ってくることを思えば、安い費用とも思える。
こうした状況の中で、マラーの暗殺と敗戦の脅威が事態を変えた。7月13日、つまり新公安委員会ができた3日後のことであった。これを厳密に評価すると、恐怖政治を「マラー、ダントン、ロベスピエール」のしたことと定義した、昔からの理論が、実はでたらめであることがわかるだろう。マラーはその前に死んでいる。しかも、この時、穀物の最高価格制、強制徴発の要求に反対して、過激派指導者と対立していた。過激派指導者ジャック・ルーは脅迫的な言葉を残して去った。その直後のことであるから、はじめは過激派の復讐だと思われた。その意味では「マラーが穏健派」と仰天するような解釈も成り立つ。
暗殺者は、シャルロット・ド・コルデーという貴族の女性であり、ジロンド派につながりがあるといわれたが、私は怪しいと思っている。(これは私見であります)。
いずれにしても、議員に対して、暗殺の脅威が高まっていることは確かになった。パリの治安を維持しなければならない。しかし、軍隊は大戦争の為に出払っている。警察力だけでは人手が足りない。ここでジャコバンクラブの組織力が期待されるようになった。ここで最大の影響力を持つ人物、それがロベスピエールであり、彼に「入ってくれ」という誘いがかかった。彼は「自分の気質に反して」といいながら引き受けた。役割は、「ジャコバンクラブを公安委員会支持に結びつけること」であった。これで議員の安全は確保されたが、のちにもろ刃の剣になる。
戦争では、ベルギー方面のオ-ストリア軍が最大の脅威であった。今一つ戦果が上がらない。公安委員のバレールが、ラザール・カルノーに公安委員会入りを勧めた。軍事の全権を任せるという。カルノーはプリユール・ド・ラ・コート・ドールを推薦して断った。そうするとバレールは「そうか、それなら二人とも」といって、これを国民公会に推薦し、議論もなしに可決した。これを見ると、人事の実験は平原派のバレールにあったことがわかる。カルノーは軍事の天才ぶりを発揮し、「勝利の組織者」と呼ばれ、子孫から大統領を出す家系になった。
こうゆうわけで、ジロンド派ついい方が、即、恐怖政治になるということはないのである。
2018年5月28日月曜日
いわゆるジロンド派議員が追放されても、ジャコバン派独裁は成立しない
ジロンド派の追放がジャコバン派の独裁を実現し、恐怖政治、テルール(フランス語)、(英語でテロ)を実行することになる。これが約150年続いたフランス革命史の定説であった。最後に出てきた、最も科学的歴史観だと、自他ともに称する人たちの意見を紹介しておこう。
アルベール・ソブール(パリ大学ソルボンヌの教授)は言う。「こうして山岳等を擁して、、サンキュロットが権力についた。ジロンド党を擁して、ひたすら自分に有利なように統治しようとした大ブルジョアジーが一時政治舞台から姿を消したのである」
アルベール・マチエは言う。「サンキュロットがひっくり返したものは、ただに一党派だけではなく、ある点までは一つの社会階級であった。大ブルジョア階級が倒されたのである」。
河野健二教授は言う。「ブルジョアジーの代表は陣地を明け渡して、小ブルジョアの代表たるモンターニュ派に譲った」。
私が彼らを批判して出てきて、十数年後、ソブール教授と河野教授に出会ったことがある。ソブール教授とは夕食をともにしながらの雑談になった。しかし、「あなたの意見は間違っているよ」という言葉はなかった。個人的には非常に好意的であったという印象を持っている。
しかしながら、学問の分野では厳しいことを言わねばならない。つまり、これらの意見は、文学的なフランス革命史であり、科学的には「ナンセンス」の一言に尽きる。追放したのは150人程度、まだ400人が残っているではないか。400をゼロとみなした歴史観が、上記3人の意見に集約されている。
もちろん、150年間これでやってきたのであるから、上記3人を個人的に批判するつもりはないが、とにかくこの理論は間違いであり、ジロンド派追放は、大ブルジョアジーの一部を敵に回して、排除したということである。大ブルジョアジーの残りの部分は平原派の背後でやっていくのであり、時には本人そのものが大ブルジョアジーの一員であった。
この段階では、まだ公安委員会も平原派中心で固められていた。だから、いきなりモンタニタールが権力を握ったことにはならない。
7月10日、公安委員会の改選があった。つまり約1か月のちの事であり、この時、平原派とモンタニヤールの議員が約半々になった。とはいえ、ダントンが落選した。これは重要なことであった。また、ロベール・ランデが食糧問題担当の公安委員になるが、彼をモンタニヤールに分類した勘定の仕方で「約半々」というのであるが、正確には、彼はジロンド派支持者であって、この時期になって、モンタニヤール支持者になったという、いわくつきの人物であった。
また平原派からここに入ってきたエロー・ド・セシェルは名門貴族、外国人銀行家とも親しく、デスパニャック(貴族、聖職者、武器商人)から金を借り、亡命貴族の伯爵の妻、を愛人にしていた。これを見て、「なんだこれは」と思うのが普通だろう。これがサンキュロットの代表者かね、というのが出てこないとおかしい。
サンキュロットとは、上流階級のはく半ズボン(キュロット)が「無い」という意味であり、つまりは働いている人たちを指す言葉であった。
サンキュロットが権力についたというのに、そこに働かない貴族、それもブルジョアジーとも関係の深い、伯爵夫人を愛人にしている貴族を迎え入れている。「これは何だ」というべきだろう。
もう一人、モンタニヤールからサン・ジュストという貴族が入ってきた。「恐怖政治の大天使」などともいわれる。恐怖政治を語るときの重要人物であるが、彼も貴族であって、サンキュロットではないことに注目するべきであろう。ぎゃくの見方をすれば、貴族だから、平民の犯罪者に対して、厳しい断罪を下すことについて、ためらいがないともいえる。日本でも、武士には切り捨て御免という習慣があった。だから明治維新直後では、武士出身の官僚は、平民に対して威張っていたのである。サン・ジュストの立場はこのようなものと思えばよい。
いずれにしても、ジロンド派追放によって、サンキュロットの政権ができたなどとは、ナンセンス極まりない理論であった。
アルベール・ソブール(パリ大学ソルボンヌの教授)は言う。「こうして山岳等を擁して、、サンキュロットが権力についた。ジロンド党を擁して、ひたすら自分に有利なように統治しようとした大ブルジョアジーが一時政治舞台から姿を消したのである」
アルベール・マチエは言う。「サンキュロットがひっくり返したものは、ただに一党派だけではなく、ある点までは一つの社会階級であった。大ブルジョア階級が倒されたのである」。
河野健二教授は言う。「ブルジョアジーの代表は陣地を明け渡して、小ブルジョアの代表たるモンターニュ派に譲った」。
私が彼らを批判して出てきて、十数年後、ソブール教授と河野教授に出会ったことがある。ソブール教授とは夕食をともにしながらの雑談になった。しかし、「あなたの意見は間違っているよ」という言葉はなかった。個人的には非常に好意的であったという印象を持っている。
しかしながら、学問の分野では厳しいことを言わねばならない。つまり、これらの意見は、文学的なフランス革命史であり、科学的には「ナンセンス」の一言に尽きる。追放したのは150人程度、まだ400人が残っているではないか。400をゼロとみなした歴史観が、上記3人の意見に集約されている。
もちろん、150年間これでやってきたのであるから、上記3人を個人的に批判するつもりはないが、とにかくこの理論は間違いであり、ジロンド派追放は、大ブルジョアジーの一部を敵に回して、排除したということである。大ブルジョアジーの残りの部分は平原派の背後でやっていくのであり、時には本人そのものが大ブルジョアジーの一員であった。
この段階では、まだ公安委員会も平原派中心で固められていた。だから、いきなりモンタニタールが権力を握ったことにはならない。
7月10日、公安委員会の改選があった。つまり約1か月のちの事であり、この時、平原派とモンタニヤールの議員が約半々になった。とはいえ、ダントンが落選した。これは重要なことであった。また、ロベール・ランデが食糧問題担当の公安委員になるが、彼をモンタニヤールに分類した勘定の仕方で「約半々」というのであるが、正確には、彼はジロンド派支持者であって、この時期になって、モンタニヤール支持者になったという、いわくつきの人物であった。
また平原派からここに入ってきたエロー・ド・セシェルは名門貴族、外国人銀行家とも親しく、デスパニャック(貴族、聖職者、武器商人)から金を借り、亡命貴族の伯爵の妻、を愛人にしていた。これを見て、「なんだこれは」と思うのが普通だろう。これがサンキュロットの代表者かね、というのが出てこないとおかしい。
サンキュロットとは、上流階級のはく半ズボン(キュロット)が「無い」という意味であり、つまりは働いている人たちを指す言葉であった。
サンキュロットが権力についたというのに、そこに働かない貴族、それもブルジョアジーとも関係の深い、伯爵夫人を愛人にしている貴族を迎え入れている。「これは何だ」というべきだろう。
もう一人、モンタニヤールからサン・ジュストという貴族が入ってきた。「恐怖政治の大天使」などともいわれる。恐怖政治を語るときの重要人物であるが、彼も貴族であって、サンキュロットではないことに注目するべきであろう。ぎゃくの見方をすれば、貴族だから、平民の犯罪者に対して、厳しい断罪を下すことについて、ためらいがないともいえる。日本でも、武士には切り捨て御免という習慣があった。だから明治維新直後では、武士出身の官僚は、平民に対して威張っていたのである。サン・ジュストの立場はこのようなものと思えばよい。
いずれにしても、ジロンド派追放によって、サンキュロットの政権ができたなどとは、ナンセンス極まりない理論であった。
いわゆるジロンド派議員が追放されても、ジャコバン派独裁は成立しない
ジロンド派の追放がジャコバン派の独裁を実現し、恐怖政治、テルール(フランス語)、(英語でテロ)を実行することになる。これが約150年続いたフランス革命史の定説であった。最後に出てきた、最も科学的歴史観だと、自他ともに称する人たちの意見を紹介しておこう。
アルベール・ソブール(パリ大学ソルボンヌの教授)は言う。「こうして山岳等を擁して、、サンキュロットが権力についた。ジロンド党を擁して、ひたすら自分に有利なように統治しようとした大ブルジョアジーが一時政治舞台から姿を消したのである」
アルベール・マチエは言う。「サンキュロットがひっくり返したものは、ただに一党派だけではなく、ある点までは一つの社会階級であった。大ブルジョア階級が倒されたのである」。
河野健二教授は言う。「ブルジョアジーの代表は陣地を明け渡して、小ブルジョアの代表たるモンターニュ派に譲った」。
私が彼らを批判して出てきて、十数年後、ソブール教授と河野教授に出会ったことがある。ソブール教授とは夕食をともにしながらの雑談になった。しかし、「あなたの意見は間違っているよ」という言葉はなかった。個人的には非常に好意的であったという印象を持っている。
しかしながら、学問の分野では厳しいことを言わねばならない。つまり、これらの意見は、文学的なフランス革命史であり、科学的には「ナンセンス」の一言に尽きる。追放したのは150人程度、まだ400人が残っているではないか。400をゼロとみなした歴史観が、上記3人の意見に集約されている。
もちろん、150年間これでやってきたのであるから、上記3人を個人的に批判するつもりはないが、とにかくこの理論は間違いであり、ジロンド派追放は、大ブルジョアジーの一部を敵に回して、排除したということである。大ブルジョアジーの残りの部分は平原派の背後でやっていくのであり、時には本人そのものが大ブルジョアジーの一員であった。
この段階では、まだ公安委員会も平原派中心で固められていた。だから、いきなりモンタニタールが権力を握ったことにはならない。
7月10日、公安委員会の改選があった。つまり約1か月のちの事であり、この時、平原派とモンタニヤールの議員が約半々になった。とはいえ、ダントンが落選した。これは重要なことであった。また、ロベール・ランデが食糧問題担当の公安委員になるが、彼をモンタニヤールに分類した勘定の仕方で「約半々」というのであるが、正確には、彼はジロンド派支持者であって、この時期になって、モンタニヤール支持者になったという、いわくつきの人物であった。
また平原派からここに入ってきたエロー・ド・セシェルは名門貴族、外国人銀行家とも親しく、デスパニャック(貴族、聖職者、武器商人)から金を借り、亡命貴族の伯爵の妻、を愛人にしていた。これを見て、「なんだこれは」と思うのが普通だろう。これがサンキュロットの代表者かね、というのが出てこないとおかしい。
サンキュロットとは、上流階級のはく半ズボン(キュロット)が「無い」という意味であり、つまりは働いている人たちを指す言葉であった。
サンキュロットが権力についたというのに、そこに働かない貴族、それもブルジョアジーとも関係の深い、伯爵夫人を愛人にしている貴族を迎え入れている。「これは何だ」というべきだろう。
もう一人、モンタニヤールからサン・ジュストという貴族が入ってきた。「恐怖政治の大天使」などともいわれる。恐怖政治を語るときの重要人物であるが、彼も貴族であって、サンキュロットではないことに注目するべきであろう。ぎゃくの見方をすれば、貴族だから、平民の犯罪者に対して、厳しい断罪を下すことについて、ためらいがないともいえる。日本でも、武士には切り捨て御免という習慣があった。だから明治維新直後では、武士出身の官僚は、平民に対して威張っていたのである。サン・ジュストの立場はこのようなものと思えばよい。
いずれにしても、ジロンド派追放によって、サンキュロットの政権ができたなどとは、ナンセンス極まりない理論であった。
アルベール・ソブール(パリ大学ソルボンヌの教授)は言う。「こうして山岳等を擁して、、サンキュロットが権力についた。ジロンド党を擁して、ひたすら自分に有利なように統治しようとした大ブルジョアジーが一時政治舞台から姿を消したのである」
アルベール・マチエは言う。「サンキュロットがひっくり返したものは、ただに一党派だけではなく、ある点までは一つの社会階級であった。大ブルジョア階級が倒されたのである」。
河野健二教授は言う。「ブルジョアジーの代表は陣地を明け渡して、小ブルジョアの代表たるモンターニュ派に譲った」。
私が彼らを批判して出てきて、十数年後、ソブール教授と河野教授に出会ったことがある。ソブール教授とは夕食をともにしながらの雑談になった。しかし、「あなたの意見は間違っているよ」という言葉はなかった。個人的には非常に好意的であったという印象を持っている。
しかしながら、学問の分野では厳しいことを言わねばならない。つまり、これらの意見は、文学的なフランス革命史であり、科学的には「ナンセンス」の一言に尽きる。追放したのは150人程度、まだ400人が残っているではないか。400をゼロとみなした歴史観が、上記3人の意見に集約されている。
もちろん、150年間これでやってきたのであるから、上記3人を個人的に批判するつもりはないが、とにかくこの理論は間違いであり、ジロンド派追放は、大ブルジョアジーの一部を敵に回して、排除したということである。大ブルジョアジーの残りの部分は平原派の背後でやっていくのであり、時には本人そのものが大ブルジョアジーの一員であった。
この段階では、まだ公安委員会も平原派中心で固められていた。だから、いきなりモンタニタールが権力を握ったことにはならない。
7月10日、公安委員会の改選があった。つまり約1か月のちの事であり、この時、平原派とモンタニヤールの議員が約半々になった。とはいえ、ダントンが落選した。これは重要なことであった。また、ロベール・ランデが食糧問題担当の公安委員になるが、彼をモンタニヤールに分類した勘定の仕方で「約半々」というのであるが、正確には、彼はジロンド派支持者であって、この時期になって、モンタニヤール支持者になったという、いわくつきの人物であった。
また平原派からここに入ってきたエロー・ド・セシェルは名門貴族、外国人銀行家とも親しく、デスパニャック(貴族、聖職者、武器商人)から金を借り、亡命貴族の伯爵の妻、を愛人にしていた。これを見て、「なんだこれは」と思うのが普通だろう。これがサンキュロットの代表者かね、というのが出てこないとおかしい。
サンキュロットとは、上流階級のはく半ズボン(キュロット)が「無い」という意味であり、つまりは働いている人たちを指す言葉であった。
サンキュロットが権力についたというのに、そこに働かない貴族、それもブルジョアジーとも関係の深い、伯爵夫人を愛人にしている貴族を迎え入れている。「これは何だ」というべきだろう。
もう一人、モンタニヤールからサン・ジュストという貴族が入ってきた。「恐怖政治の大天使」などともいわれる。恐怖政治を語るときの重要人物であるが、彼も貴族であって、サンキュロットではないことに注目するべきであろう。ぎゃくの見方をすれば、貴族だから、平民の犯罪者に対して、厳しい断罪を下すことについて、ためらいがないともいえる。日本でも、武士には切り捨て御免という習慣があった。だから明治維新直後では、武士出身の官僚は、平民に対して威張っていたのである。サン・ジュストの立場はこのようなものと思えばよい。
いずれにしても、ジロンド派追放によって、サンキュロットの政権ができたなどとは、ナンセンス極まりない理論であった。
2018年5月27日日曜日
いわゆるジロンド派はなぜ追放されたのか
1793年6月2日いわつるジロンド派、当時の言葉でいえばロランの党派とブリッソの党派が追放された。約150人であった。追放とはいっても、殺されたわけではない。大多数は自宅軟禁であった。
なぜこういうことになったのか、この説明が従来のフランス革命史では明らかにされていない。経済のことをよく知らない、文学者的歴史家が書いたから、やむを得ない。
国王ルイ16世の処刑を巡ってだとほのめかした古い歴史家がいるが、これは違う。平原派が二つに割れたからだ。
経済が歴史解釈に入ってくると、最高価格制を巡る論争が激しくなったことがしょうかいされ、これがその原因であるかのように書く歴史観もあった。私も、若いころ、そのように思いこまされていた時期があった。しかし、詳しく調べてみると、追放の直前、ぎりぎりの段階で、いわゆるジロンド派の議員が、やむを得ず受け入れると発言したことを知った。どんなに激しく抵抗しても、多数決を認めたら、追放する必要はない。だから、これも違うのだ。
「たとえ命をとられても賛成できない」、こういう論争点はないか、「命ばかりはお助けを」が通用しない問題点、これは何か、このように考えていくと、簡単に回答が出てくる。命の次に必要なものは、時には命がけで、となると、「お金」が出てくる。つまりお金の問題なのです。
議題は、「10億リーブルの強制公債」といわれ、「累進強制公債」「革命税」とも言われた。公債という言葉を使うが、公債を発行するのではない、公債台帳に登録するだけ、つまりは国家の借金帳簿に書き込むだけのもので、「そんなもの、この非常事態に返してもらえるあてはないよ」というのが、人々の本音であった。だから、だれも登録したがらない。
だから、公債といわれながら、革命税ともいわれたのである。さらなる問題は、これが累進的であったという点にある。これは今日の日本、あるいは先進国では当然と受け止められるが、この当時の世界では、「びっくり仰天するような」話であった。日本でも、戦前の社会で累進税を口にすると、「赤の思想家」といわれるほどのものであった。税金は一律、これが常識であった。
その常識を破って、税率を累進的とし、収入の上限を設定して、それ以上は無条件没収とした。この原則を国民公会が公布し、具体的な適用は、各地方に派遣された派遣委員と地方行政当局に一任した。
5月20日、いわゆるジロンド派の反対を押し切って、この法令が可決された。提案者は財政委員会議長カンボン、これに平原派議員とモンタニヤール議員が賛成した。
さっそく地方で徴収が始まった。リヨンでは派遣委員のデュボワ・ド・クランセが厳格に徴収し、3000万リーブルになった。一人の商人が6万リーブル支払わされたという。(1リーブル約1万円)。5月29日、衝突、内乱となった。マルセイユでも同じことが起きた。
パリにもマルセイユ代表が来て、国民公会で脅迫的な反対演説を行った。10か月前には、マルセイユの若者がパリを守ったという自負もある。しかし、ジャコバンクラブの中には彼らの暗殺を狙っているものもいるというので、ジロンド派議員が彼らを匿い、決定的対立に向かって進んだ。
これが対立の本質であるが、「お金の問題」は表に出しにくい。そこでいわゆるジロンド派議員は、過激派の運動家に攻撃の的を絞り、それをモンタニヤールの議員が応援しているとして、その勢力を削ぎ、平原派を自分のほうに引き付ける作戦に出た。その第一歩として、エベール、ヴァルレという二人の過激派指導者を逮捕した。逮捕する権限は、「12人委員会」というジロンド派系議員の組織するものであった。この時の国民公会は、出席者の変動が大きく、60人程度の議員が派遣委員として前線に出かけていたので、時にジロンド派が採決で有利に立つときがあった。
これが5月20日の事であった。これに対して、抗議運動が起きた。5月27日ロベスピエールがジャコバンクラブで武装蜂起を呼び掛けた。すると、国民公会は、二人の釈放、12人委員会の廃止を決定した。しかし翌日、また12人委員会の復活が決定された。出席者の人数が違うからこうなったのである。
これで、ジャコバンクラブ、パリ・コミューン、モンタニヤール議員、過激派の運動家に危機感が高まり、武装蜂起へと向かった。5月31日、国民公会を包囲し、12人委員会の廃止、ジロンド派議員の追放を要求した。しかし、12人委員会の廃止は決めたが、議員の追放は決まらなかった。翌日の6月1日、再度の武装蜂起が計画された。今度は22人の議員の逮捕の要求が追加された。その筆頭に前内務大臣ロランがあげられ、次に銀行家、財務大臣のクラヴィエールが加えられた。ロランは素早く逃げたが、途中で自殺した。6月2日国民衛兵と武装市民が議事堂を包囲した。
平原派議員の中には、両者の調停をしようとするものもいた。いわゆるジロンド派議員に辞職を進めたものもいる。しかし、議員の職を死守するという。平原派議員には、武装蜂起の指導者を批判するものもいた。バレールやダントンもそうであった。累進強制公債の提案者カンボンもそうであり、このようなことをすれば誰も発言しなくなるといった。採決でジロンド派を押し切ったとしても、追放には反対、これが平原派の考えであった。しかし、結局は群衆に押し切られた。
この時、マルセイユ、リヨンで反乱がおきて、ジャコバンクラブ員が殺され、ブルターニュ、ノルマンデイーというパリに近い州の地方政府が離反し、ヴァンデーの反革命暴動の群衆がナント市に向かっているという報告が来た。もちろん、マルセイユ、リヨンの反乱も起きている。それに加えて、オーストリア、プロイセン、イギリス、スペインの軍隊が四方から押し寄せている。国家滅亡の危機に瀕して、すべての人間が殺気立っていたのである。
なぜこういうことになったのか、この説明が従来のフランス革命史では明らかにされていない。経済のことをよく知らない、文学者的歴史家が書いたから、やむを得ない。
国王ルイ16世の処刑を巡ってだとほのめかした古い歴史家がいるが、これは違う。平原派が二つに割れたからだ。
経済が歴史解釈に入ってくると、最高価格制を巡る論争が激しくなったことがしょうかいされ、これがその原因であるかのように書く歴史観もあった。私も、若いころ、そのように思いこまされていた時期があった。しかし、詳しく調べてみると、追放の直前、ぎりぎりの段階で、いわゆるジロンド派の議員が、やむを得ず受け入れると発言したことを知った。どんなに激しく抵抗しても、多数決を認めたら、追放する必要はない。だから、これも違うのだ。
「たとえ命をとられても賛成できない」、こういう論争点はないか、「命ばかりはお助けを」が通用しない問題点、これは何か、このように考えていくと、簡単に回答が出てくる。命の次に必要なものは、時には命がけで、となると、「お金」が出てくる。つまりお金の問題なのです。
議題は、「10億リーブルの強制公債」といわれ、「累進強制公債」「革命税」とも言われた。公債という言葉を使うが、公債を発行するのではない、公債台帳に登録するだけ、つまりは国家の借金帳簿に書き込むだけのもので、「そんなもの、この非常事態に返してもらえるあてはないよ」というのが、人々の本音であった。だから、だれも登録したがらない。
だから、公債といわれながら、革命税ともいわれたのである。さらなる問題は、これが累進的であったという点にある。これは今日の日本、あるいは先進国では当然と受け止められるが、この当時の世界では、「びっくり仰天するような」話であった。日本でも、戦前の社会で累進税を口にすると、「赤の思想家」といわれるほどのものであった。税金は一律、これが常識であった。
その常識を破って、税率を累進的とし、収入の上限を設定して、それ以上は無条件没収とした。この原則を国民公会が公布し、具体的な適用は、各地方に派遣された派遣委員と地方行政当局に一任した。
5月20日、いわゆるジロンド派の反対を押し切って、この法令が可決された。提案者は財政委員会議長カンボン、これに平原派議員とモンタニヤール議員が賛成した。
さっそく地方で徴収が始まった。リヨンでは派遣委員のデュボワ・ド・クランセが厳格に徴収し、3000万リーブルになった。一人の商人が6万リーブル支払わされたという。(1リーブル約1万円)。5月29日、衝突、内乱となった。マルセイユでも同じことが起きた。
パリにもマルセイユ代表が来て、国民公会で脅迫的な反対演説を行った。10か月前には、マルセイユの若者がパリを守ったという自負もある。しかし、ジャコバンクラブの中には彼らの暗殺を狙っているものもいるというので、ジロンド派議員が彼らを匿い、決定的対立に向かって進んだ。
これが対立の本質であるが、「お金の問題」は表に出しにくい。そこでいわゆるジロンド派議員は、過激派の運動家に攻撃の的を絞り、それをモンタニヤールの議員が応援しているとして、その勢力を削ぎ、平原派を自分のほうに引き付ける作戦に出た。その第一歩として、エベール、ヴァルレという二人の過激派指導者を逮捕した。逮捕する権限は、「12人委員会」というジロンド派系議員の組織するものであった。この時の国民公会は、出席者の変動が大きく、60人程度の議員が派遣委員として前線に出かけていたので、時にジロンド派が採決で有利に立つときがあった。
これが5月20日の事であった。これに対して、抗議運動が起きた。5月27日ロベスピエールがジャコバンクラブで武装蜂起を呼び掛けた。すると、国民公会は、二人の釈放、12人委員会の廃止を決定した。しかし翌日、また12人委員会の復活が決定された。出席者の人数が違うからこうなったのである。
これで、ジャコバンクラブ、パリ・コミューン、モンタニヤール議員、過激派の運動家に危機感が高まり、武装蜂起へと向かった。5月31日、国民公会を包囲し、12人委員会の廃止、ジロンド派議員の追放を要求した。しかし、12人委員会の廃止は決めたが、議員の追放は決まらなかった。翌日の6月1日、再度の武装蜂起が計画された。今度は22人の議員の逮捕の要求が追加された。その筆頭に前内務大臣ロランがあげられ、次に銀行家、財務大臣のクラヴィエールが加えられた。ロランは素早く逃げたが、途中で自殺した。6月2日国民衛兵と武装市民が議事堂を包囲した。
平原派議員の中には、両者の調停をしようとするものもいた。いわゆるジロンド派議員に辞職を進めたものもいる。しかし、議員の職を死守するという。平原派議員には、武装蜂起の指導者を批判するものもいた。バレールやダントンもそうであった。累進強制公債の提案者カンボンもそうであり、このようなことをすれば誰も発言しなくなるといった。採決でジロンド派を押し切ったとしても、追放には反対、これが平原派の考えであった。しかし、結局は群衆に押し切られた。
この時、マルセイユ、リヨンで反乱がおきて、ジャコバンクラブ員が殺され、ブルターニュ、ノルマンデイーというパリに近い州の地方政府が離反し、ヴァンデーの反革命暴動の群衆がナント市に向かっているという報告が来た。もちろん、マルセイユ、リヨンの反乱も起きている。それに加えて、オーストリア、プロイセン、イギリス、スペインの軍隊が四方から押し寄せている。国家滅亡の危機に瀕して、すべての人間が殺気立っていたのである。
2018年5月21日月曜日
いわゆるジロンド派とジャコバン派がそろって野党になった時期がある
このような言葉は、中学、高校の教科書で、「ジロンド派対ジャコバン派の対立」と習ってきた人たち、もちろん私もそうではあるが、まず全員にとって「びっくり仰天」であり、受け入れがたいものであろう。しかし事実はそうである。1793年4月から、同年6月までの短い期間ではあるが、相対立する両派を退けて、何が残るのかと質問してもらいた。そうすれば待ってましたとばかり「それは平原派だ」と答えることになる。左右両派を排除して、中央派が権力をになう、こういうことは議会政治でよくある図式であるから、驚くに値しない。
半年間は、いわゆるジロンド派の時代であった。厳密には、ジロンド派と平原派の連立政権であった。政党政治はまだ確立していない。ほどんどが一人一党主義、是々非々主義であった。その中にあって、ロランとブリッソを中心にまとまっていたいわゆるジロンド派が、何かと有利になっていただけのことであった。しかし、やがて、平原派の議員が慣れてくると、発言力も強まる。
ロランが内務大臣を辞任すると、後任に平原派のガラがなった。学者、教授、ダントンの友人、のちにロベスピエールを倒した後、公安委員会に入った。ナポレオンのもとでは貴族院議員になった。ロランの後任になると、自由主義経済政策を修正した。この中身を詳しくやりだすと、読者が退屈するであろうから、大まかな定義にとどめておきます。
ロラン派がいわゆるジロンド派の約半分を占めていて、あと半分がブリッソ派であった。このブリッソ派に対する批判がジャコバンクラブで行われた。
「ブリッソ派は何をしたか。彼らは金持ち、商人、大資産家の貴族政治を樹立しようとしたのである。これらあの人間が人類の禍であり、利己主義と欲望のためにすべてを犠牲にするような人間で…もし選ぶことができるなら、、旧体制のほうをとりたい。貴族と宗教家は多少の人徳があったが、これらの人間はそれすら持ち合わせない」。
ブリッソ派の本質を見事に表している。この集団は、ベルギー戦線の敗北、軍需物資調達を巡る大規模な汚職、軍事費の横領、兵士の士気低下の原因になったことを追及され、政権から外された。
この場合は、罷免、辞職ではなく、公安委員会を組織して、内閣をその下に置くという形で、平原派がブリッソ派を支配することになった。公安委員会といえば、モンタニヤール、ジャコバンクラブだと思っている人には、認めたくない事実ではあるが。
その後、財政委員会が組織され、独立した権限を持って、国家財政をジロンド派から切り離してしまう。
いわゆるジロンド派と平原派を分けるものは何か。共通点は、ブルジョアジー上層の代表者であることだ。相違点は、強欲資本主義か、常識的なビジネス一筋か、けちな金持ちか、儲けてもきれいに使う、あるいは一部を貧者に還元するか、国家の利益に反しても儲けるのか、国家の利益を優先しようとするのか、この違いである。これはどこの国、どの時代にもあることで、どちらが優勢になるかは時と条件によって決まる。
半年間は、いわゆるジロンド派の時代であった。厳密には、ジロンド派と平原派の連立政権であった。政党政治はまだ確立していない。ほどんどが一人一党主義、是々非々主義であった。その中にあって、ロランとブリッソを中心にまとまっていたいわゆるジロンド派が、何かと有利になっていただけのことであった。しかし、やがて、平原派の議員が慣れてくると、発言力も強まる。
ロランが内務大臣を辞任すると、後任に平原派のガラがなった。学者、教授、ダントンの友人、のちにロベスピエールを倒した後、公安委員会に入った。ナポレオンのもとでは貴族院議員になった。ロランの後任になると、自由主義経済政策を修正した。この中身を詳しくやりだすと、読者が退屈するであろうから、大まかな定義にとどめておきます。
ロラン派がいわゆるジロンド派の約半分を占めていて、あと半分がブリッソ派であった。このブリッソ派に対する批判がジャコバンクラブで行われた。
「ブリッソ派は何をしたか。彼らは金持ち、商人、大資産家の貴族政治を樹立しようとしたのである。これらあの人間が人類の禍であり、利己主義と欲望のためにすべてを犠牲にするような人間で…もし選ぶことができるなら、、旧体制のほうをとりたい。貴族と宗教家は多少の人徳があったが、これらの人間はそれすら持ち合わせない」。
ブリッソ派の本質を見事に表している。この集団は、ベルギー戦線の敗北、軍需物資調達を巡る大規模な汚職、軍事費の横領、兵士の士気低下の原因になったことを追及され、政権から外された。
この場合は、罷免、辞職ではなく、公安委員会を組織して、内閣をその下に置くという形で、平原派がブリッソ派を支配することになった。公安委員会といえば、モンタニヤール、ジャコバンクラブだと思っている人には、認めたくない事実ではあるが。
その後、財政委員会が組織され、独立した権限を持って、国家財政をジロンド派から切り離してしまう。
いわゆるジロンド派と平原派を分けるものは何か。共通点は、ブルジョアジー上層の代表者であることだ。相違点は、強欲資本主義か、常識的なビジネス一筋か、けちな金持ちか、儲けてもきれいに使う、あるいは一部を貧者に還元するか、国家の利益に反しても儲けるのか、国家の利益を優先しようとするのか、この違いである。これはどこの国、どの時代にもあることで、どちらが優勢になるかは時と条件によって決まる。
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