明治維新で勝ったのは商人階級で、負けたのは武士階級であった。同じくフランス革命で勝ったのはブルジョアジーで、負けたのは貴族階級であった。前者はビジネス、後者は土地の上に立っている。だから市民革命になる。時期でいうと、1830年がフランス革命の、1871年が日本のそれに当たる。
さて、そうはいっても、ビジネスの側の人間は、控えめな形で、旧支配者の衣もかぶっているから、はっきりと指摘しない限り分かりにくいのである。こういうことは約50年前から私が書き残してきたことである。しかし、人々は、明治維新となると薩摩、長州の武士出身者ばかりに目が行って、それが勝ったものであるから、つまりは、武士が武士にかったものだと思い込んでいる。
これが間違いなのだといても、「それなら、商人が関与したという現象を示してくれ」といわれると、「例えば」というところで躓く。誰もいないといおうわけだ。これで困ることになる。
「坂本竜馬がいるではないか」。これが私の答えになる。「彼も武士ではないか」という反論が来る。これに対する反論をしなければならない。彼は土佐藩の下級武士である。これは間違いがない。しかし、彼の家系は、才谷屋という商人であった。ガから、彼は一時、「才谷梅太郎」という別名を使っていた。土佐藩に献金をして、その功績で、「苗字、帯刀」を許される。こういう商人上がりの武士は、全国的にかなりいて、下級武士の扱いであるが、商人としての資産があるので、生活はよい方であった。坂本龍馬はその家の次男であった。これでは、武士階級の中の地位という意味では、あるのかないのかわからない。つまり、本物の武士というのは、家禄が生活の中心でなければならない。その家禄は、藩主を代表者とする、領地の集団所有にあやかる権利であった。坂本龍馬はその資格を持っていない。
そのうえ脱藩した。悪くすると、投獄、切腹になる。取柄としては、勝海舟に入門して、軍艦の操縦術を会得したことであった。西郷隆盛に保護され、長崎に住んで、海援隊を組織した。これが何かというと、商社のはしりであった。諸藩からの脱藩の士を集め、蒸気船を動かし、利益も追及するという規約を作った。つまりは、元武士を集めて、商売の組織を作ったのである。
つまり坂本竜馬は商社の社長であった。最大の商売が、武器弾薬の輸入であり、売り込み先が長州藩であった。その後、土佐藩にも売り込んだ。土佐藩兵は板垣退助に率いられて、四国を平定し、京都から甲府に進んで新選組と対戦し、これを撃破して、新宿に達した。ここまで成功した基本は、坂本龍馬の調達した新式銃の威力であった。これがなくて、旧来の武器では、途中で敗北し、消滅していただろう。そういう意味では、海援隊という商社社長の坂本龍馬の役割は、決定的なものであった。もちろんその前の第二次長州征伐に際しての、新式銃の威力にも貢献した。これなしには長州が勝つことは難しかった。
だから、西郷隆盛、桂小五郎、の間に、策士坂本龍馬がいるのだ。新興商人、武士的商人が新政府樹立に決定的役割を演じた。
彼一人に目を奪われてはいけない。彼を資金的に支えた商人がいる。長崎の密貿易女商人「大浦のお慶」,「小曽根英四郎」などの名が残っている。研究されることがないが、重要人物である。また、またのちの陸奥宗光が協力した。もと紀州藩士、三井の隠密(忍者の姿で写真を撮ったものが残っている)、のちの外務大臣、であるが、こういうところにも、大商人三井とのかかわりあいがある。
フランス革命でも、ルクツーという貴族的商人、銀行家、財政委員会議長、カジミール・ド・ペリエという貴族、産業資本家、銀行家、首相兼内務大臣のような人物が出てくる。つまり両者が似ているのだ。
2018年9月20日木曜日
2018年8月15日水曜日
その時桂小五郎はどこにいたか、禁門の変以後
2018年8月12日、NHKの大河ドラマで、西郷隆盛が桂小五郎と出会い、幕府を倒さなければならないという意見を口にするという場面がありました。ドラマだから、どう書こうが問題はないのですが、この時、桂小五郎がどこにいたのかは、ほとんどの人が知りません。だから一言。
逃げの小五郎、遅れの小五郎、池田屋の変で有力な尊王攘夷の志士たちが新選組に切られた時、彼は遅れてやってきて、難を逃れました。禁門の変の時は、長州軍の中にいて、京都突入に反対しました。久坂玄瑞も反対、突入は時期尚早、こういう意見でしたが、「医者、坊主に戦争のことがわかるか」と反論され、押し切られました。これで長州軍は突入しました。
久坂は医者、桂は坊主ということです。つまり桂は、正規の武士ではなく、養子なので、血筋DNAでは武士とはみなされなかったのです。こういう人は意外に多いのです。坂本龍馬、勝海舟、藤田東湖などもそうです。もちろん、戦国大名の多くはそうですから、あまりめくじらを立てる必要はありません。しかし、当時の同僚からはそうみられている、それが重要で、人一倍努力する、そのことで、文武両道の達人になりました。新選組の局長近藤勇ですら恐れを感じたといいます。
しかし禁門の変では戦った記録はない。姿が消えるのです。敗残兵は長州に帰ります。桂はどこへ行ったか分からない。こういう状態が続きます。何処にいたか。まず、但馬の国、兵庫県養父郡養父町養父市場、ここの浄土宗のお寺にかくまわれます。ここが天領なので、徳川家の宗派のお寺になります。これから2,3分の距離に、郡代官所がありました。随分危ない話ですが、当時牛市場があり、街道筋の旅人が出入りしていたので、木は森の中に隠せという理屈でしょう。この郡代官所の隣が、私の祖父の家でした。小さいときから、この話はよく聞かされました。
やがて、危なくなります。姿を消します。今度は、但馬の国出石町の商人、金物屋にかくまわれます。ここでしばらく潜伏しておるうちに、第一時長州征伐は終わり、長州藩の内戦、高杉晋作の側の勝利となり、武備恭順の段階に入ります。ところが肝心の高杉晋作は、下関開国論を口にして、攘夷派の怒りを買い、逃げ出します。こうなると、長州をまとめるものがいない。困り切って、桂はどこにいるか、こういうことで探し当てられて、連れ戻されます。それ以後、長州藩の中心で人をまとめ、西郷と協力して同盟を結びます。
ところで、この出石ですが、ここの藩主が仙谷家で、私の祖母の祖母が仙谷騒動時代のお姫様であったと、言い伝えられ、肖像画の中に私とよく似たひとがいると私の母が言っていました。多少の縁がありそうです。
それはともかく、桂が純粋の武士ではない、これが武士と商人の同盟による明治維新の実現の中で、彼の動向を決めた要因になったのでしょう。この点は今後詳しく書きます。
逃げの小五郎、遅れの小五郎、池田屋の変で有力な尊王攘夷の志士たちが新選組に切られた時、彼は遅れてやってきて、難を逃れました。禁門の変の時は、長州軍の中にいて、京都突入に反対しました。久坂玄瑞も反対、突入は時期尚早、こういう意見でしたが、「医者、坊主に戦争のことがわかるか」と反論され、押し切られました。これで長州軍は突入しました。
久坂は医者、桂は坊主ということです。つまり桂は、正規の武士ではなく、養子なので、血筋DNAでは武士とはみなされなかったのです。こういう人は意外に多いのです。坂本龍馬、勝海舟、藤田東湖などもそうです。もちろん、戦国大名の多くはそうですから、あまりめくじらを立てる必要はありません。しかし、当時の同僚からはそうみられている、それが重要で、人一倍努力する、そのことで、文武両道の達人になりました。新選組の局長近藤勇ですら恐れを感じたといいます。
しかし禁門の変では戦った記録はない。姿が消えるのです。敗残兵は長州に帰ります。桂はどこへ行ったか分からない。こういう状態が続きます。何処にいたか。まず、但馬の国、兵庫県養父郡養父町養父市場、ここの浄土宗のお寺にかくまわれます。ここが天領なので、徳川家の宗派のお寺になります。これから2,3分の距離に、郡代官所がありました。随分危ない話ですが、当時牛市場があり、街道筋の旅人が出入りしていたので、木は森の中に隠せという理屈でしょう。この郡代官所の隣が、私の祖父の家でした。小さいときから、この話はよく聞かされました。
やがて、危なくなります。姿を消します。今度は、但馬の国出石町の商人、金物屋にかくまわれます。ここでしばらく潜伏しておるうちに、第一時長州征伐は終わり、長州藩の内戦、高杉晋作の側の勝利となり、武備恭順の段階に入ります。ところが肝心の高杉晋作は、下関開国論を口にして、攘夷派の怒りを買い、逃げ出します。こうなると、長州をまとめるものがいない。困り切って、桂はどこにいるか、こういうことで探し当てられて、連れ戻されます。それ以後、長州藩の中心で人をまとめ、西郷と協力して同盟を結びます。
ところで、この出石ですが、ここの藩主が仙谷家で、私の祖母の祖母が仙谷騒動時代のお姫様であったと、言い伝えられ、肖像画の中に私とよく似たひとがいると私の母が言っていました。多少の縁がありそうです。
それはともかく、桂が純粋の武士ではない、これが武士と商人の同盟による明治維新の実現の中で、彼の動向を決めた要因になったのでしょう。この点は今後詳しく書きます。
2018年8月6日月曜日
西郷隆盛はなぜ禁門の変で長州軍を撃退したか
歴史家がわからずに書いている代表的な問題であります。来島又兵衛率いる長州軍が、御所を守る会津藩兵を撃破して、御所になだれ込もうとした時、西郷隆盛率いる薩摩藩兵が発砲して、来島は戦死、長州軍は敗北します。なぜ西郷隆盛は発砲命令を出したか。これが誰にもわかっていない。ことしのNHK連続テレビを見てもあいまいで、本心がわからない。実は、本人は「きんけつしゅご」、つまり御所を守るためだと書き残している。「それは本当」と探りを入れると、「実はそうでもない」という答えが返ってくるはず。
では本心は。長州軍の主流派は、尊王攘夷派であった。天皇を囲んで、政権を握ると、その命令の下、攘夷戦を行うという使命感を持っていた。大体の構想としては、西日本を天皇の直轄地として、東日本は幕府に任せるというものであった。西日本には幕府の領地は少ないから、幕府の死活問題にはならない。薩摩にとっても、この問題で、賛成、反対はない。
では、発砲せざるを得ない対立点は何か。それは「攘夷」の問題であった。すでに薩摩は、この二年前に、イギリス軍と戦争をして、講和条約を結び、貿易を始めていた。このことを長州藩士は知っていた。そこで、薩摩の商船が関門海峡を通過しようとした時、砲撃を加えて、炎上させた。「関はよいしょこしょの、前田の海よ、うまくやけます、さつまいも」。
この点について、西郷隆盛は「暴人」と書いている。これが中央で権力を握ったら、全国的にこれをやりだす。薩摩のみならず、外国の船に向かって攻撃を加えることになる。つまり攘夷戦になる。これはまずいでしょう。というので、発砲を命じた。しかし、薩摩藩兵の中にも、まだ攘夷派はいる。だからはっきりと本心を言うわけにはいかない。ゆえにあいまいなのです。
次に長州征伐となり、講和を結んで帰京するころに、長州では、高杉晋作の挙兵で開国容認の政権ができた。そうすると、両藩が対立する条件が消えていく。それに加えて、商人層の警戒感が薄れる。両藩の同盟と、それに対する大商人の資金協力という構図が出来上がり、討幕の見通しが立つことになる。こうした事件の渦中にいる西郷隆盛は、いちいち本心を言うわけにはいかないのです。そこのところを勝海舟は「落としどころをよく知っている」と評価するのです。
では本心は。長州軍の主流派は、尊王攘夷派であった。天皇を囲んで、政権を握ると、その命令の下、攘夷戦を行うという使命感を持っていた。大体の構想としては、西日本を天皇の直轄地として、東日本は幕府に任せるというものであった。西日本には幕府の領地は少ないから、幕府の死活問題にはならない。薩摩にとっても、この問題で、賛成、反対はない。
では、発砲せざるを得ない対立点は何か。それは「攘夷」の問題であった。すでに薩摩は、この二年前に、イギリス軍と戦争をして、講和条約を結び、貿易を始めていた。このことを長州藩士は知っていた。そこで、薩摩の商船が関門海峡を通過しようとした時、砲撃を加えて、炎上させた。「関はよいしょこしょの、前田の海よ、うまくやけます、さつまいも」。
この点について、西郷隆盛は「暴人」と書いている。これが中央で権力を握ったら、全国的にこれをやりだす。薩摩のみならず、外国の船に向かって攻撃を加えることになる。つまり攘夷戦になる。これはまずいでしょう。というので、発砲を命じた。しかし、薩摩藩兵の中にも、まだ攘夷派はいる。だからはっきりと本心を言うわけにはいかない。ゆえにあいまいなのです。
次に長州征伐となり、講和を結んで帰京するころに、長州では、高杉晋作の挙兵で開国容認の政権ができた。そうすると、両藩が対立する条件が消えていく。それに加えて、商人層の警戒感が薄れる。両藩の同盟と、それに対する大商人の資金協力という構図が出来上がり、討幕の見通しが立つことになる。こうした事件の渦中にいる西郷隆盛は、いちいち本心を言うわけにはいかないのです。そこのところを勝海舟は「落としどころをよく知っている」と評価するのです。
2018年7月9日月曜日
フランス革命の全期間、ブルジョアジーの支配が続いた
こうして、ジロンド派が追放されても、ブルジョアジーの実質支配が揺るがない。押しのけられたのは、資本主義の中の、強欲資本主義、けち資本主義部分だけといってよい、それも、抵抗さえしなければ、そのままで、累進税を払えばよかったのである。ブルジョアジーの主流派は平原派の背後で、安定した支配力を行使した。それが個人的には、バレールの行動に代表されている。
これだけのことを証明するために、長々と論証を続けたが、いったい何のためにしているのか、目標を見失ったのではないかと思うので、一度本題に戻します。目標は明治維新です。つまり、我が国の革命です。これが我が国の市民革命だということを証明すること、そこに目標があったはずです。
1789年から1830年これがフランス革命です。日本の未市民革命は、1868年から、1871年までです。これが承認されたら、目的は達成されたことになります。
フランス革命ではオーストリアを中心とする大国の干渉があって、一度1815年にブルボン王朝の復帰、王政の復活があり、貴族政治が復活しました。それを象徴するものが、1830年の7月革命寸前の首相ポリニヤック大公です。フランス革命の引き金になったといわれ、「赤字夫人」といわれたポリニヤック公爵夫人の息子です。つまり、息子は親を超えて、大公になつていたのです。もし、7月革命がなかったとすれば、フランスは絶対主義、旧体制への逆戻りになっていました。したがって、フランス革命が市民革命として完結する期間は長いのです。
わが国には、打倒された幕府の権力を助けてやろうという外国の勢力はなかった。(全くないわけではなかったのですが)。そこで短いのです。
このようにいって終わりならば、話は早いのですが、「フランス革命には、ジャコバン派独裁という、反ブルジョア的な勢力が支配した時期があり、これがよその国とは違う」というような理論が盛んであったために、わが国にはそれがないからダメ、というような理論になりました。そこで私が、長々とそれに反論をしてきたのです。
これだけのことを証明するために、長々と論証を続けたが、いったい何のためにしているのか、目標を見失ったのではないかと思うので、一度本題に戻します。目標は明治維新です。つまり、我が国の革命です。これが我が国の市民革命だということを証明すること、そこに目標があったはずです。
1789年から1830年これがフランス革命です。日本の未市民革命は、1868年から、1871年までです。これが承認されたら、目的は達成されたことになります。
フランス革命ではオーストリアを中心とする大国の干渉があって、一度1815年にブルボン王朝の復帰、王政の復活があり、貴族政治が復活しました。それを象徴するものが、1830年の7月革命寸前の首相ポリニヤック大公です。フランス革命の引き金になったといわれ、「赤字夫人」といわれたポリニヤック公爵夫人の息子です。つまり、息子は親を超えて、大公になつていたのです。もし、7月革命がなかったとすれば、フランスは絶対主義、旧体制への逆戻りになっていました。したがって、フランス革命が市民革命として完結する期間は長いのです。
わが国には、打倒された幕府の権力を助けてやろうという外国の勢力はなかった。(全くないわけではなかったのですが)。そこで短いのです。
このようにいって終わりならば、話は早いのですが、「フランス革命には、ジャコバン派独裁という、反ブルジョア的な勢力が支配した時期があり、これがよその国とは違う」というような理論が盛んであったために、わが国にはそれがないからダメ、というような理論になりました。そこで私が、長々とそれに反論をしてきたのです。
2018年6月16日土曜日
いわゆるジロンド派追放から約2か月間、恐怖政治は無い
改選された公安委員会は、「政策を失った委員間」とか、「睡眠薬強盗委員会」とかのあだ名でからかわれていた。マラーとヴァディエがつけたもので、ともにモンタニヤールの議員であった。つまりは、まだモンタニヤールの議員は、野党的な目で公安委員会を批判していたのである。「しっかりやれ」、「何もしていないではないか」という意味である。実際、社会政策としては追加したものはない。
ジロンド派に対する追及すらない。事実、しぶしぶ除名に賛成させられたから当然のことになる。それでもしたことは一つある。累進強制公債の実施であった。これを出先の機関に任せる。つまり派遣委員と地方公共団体にである。ここでは、必要に応じて、金持ちから税金を借りるという名目で取り立てた。拒否したものだけが処罰されたが、「命ばかりは」と差し出したものについては、命まではとろうとはしない。金持ちにとっても、戦争に負けて、亡命貴族が返ってくることを思えば、安い費用とも思える。
こうした状況の中で、マラーの暗殺と敗戦の脅威が事態を変えた。7月13日、つまり新公安委員会ができた3日後のことであった。これを厳密に評価すると、恐怖政治を「マラー、ダントン、ロベスピエール」のしたことと定義した、昔からの理論が、実はでたらめであることがわかるだろう。マラーはその前に死んでいる。しかも、この時、穀物の最高価格制、強制徴発の要求に反対して、過激派指導者と対立していた。過激派指導者ジャック・ルーは脅迫的な言葉を残して去った。その直後のことであるから、はじめは過激派の復讐だと思われた。その意味では「マラーが穏健派」と仰天するような解釈も成り立つ。
暗殺者は、シャルロット・ド・コルデーという貴族の女性であり、ジロンド派につながりがあるといわれたが、私は怪しいと思っている。(これは私見であります)。
いずれにしても、議員に対して、暗殺の脅威が高まっていることは確かになった。パリの治安を維持しなければならない。しかし、軍隊は大戦争の為に出払っている。警察力だけでは人手が足りない。ここでジャコバンクラブの組織力が期待されるようになった。ここで最大の影響力を持つ人物、それがロベスピエールであり、彼に「入ってくれ」という誘いがかかった。彼は「自分の気質に反して」といいながら引き受けた。役割は、「ジャコバンクラブを公安委員会支持に結びつけること」であった。これで議員の安全は確保されたが、のちにもろ刃の剣になる。
戦争では、ベルギー方面のオ-ストリア軍が最大の脅威であった。今一つ戦果が上がらない。公安委員のバレールが、ラザール・カルノーに公安委員会入りを勧めた。軍事の全権を任せるという。カルノーはプリユール・ド・ラ・コート・ドールを推薦して断った。そうするとバレールは「そうか、それなら二人とも」といって、これを国民公会に推薦し、議論もなしに可決した。これを見ると、人事の実験は平原派のバレールにあったことがわかる。カルノーは軍事の天才ぶりを発揮し、「勝利の組織者」と呼ばれ、子孫から大統領を出す家系になった。
こうゆうわけで、ジロンド派ついい方が、即、恐怖政治になるということはないのである。
ジロンド派に対する追及すらない。事実、しぶしぶ除名に賛成させられたから当然のことになる。それでもしたことは一つある。累進強制公債の実施であった。これを出先の機関に任せる。つまり派遣委員と地方公共団体にである。ここでは、必要に応じて、金持ちから税金を借りるという名目で取り立てた。拒否したものだけが処罰されたが、「命ばかりは」と差し出したものについては、命まではとろうとはしない。金持ちにとっても、戦争に負けて、亡命貴族が返ってくることを思えば、安い費用とも思える。
こうした状況の中で、マラーの暗殺と敗戦の脅威が事態を変えた。7月13日、つまり新公安委員会ができた3日後のことであった。これを厳密に評価すると、恐怖政治を「マラー、ダントン、ロベスピエール」のしたことと定義した、昔からの理論が、実はでたらめであることがわかるだろう。マラーはその前に死んでいる。しかも、この時、穀物の最高価格制、強制徴発の要求に反対して、過激派指導者と対立していた。過激派指導者ジャック・ルーは脅迫的な言葉を残して去った。その直後のことであるから、はじめは過激派の復讐だと思われた。その意味では「マラーが穏健派」と仰天するような解釈も成り立つ。
暗殺者は、シャルロット・ド・コルデーという貴族の女性であり、ジロンド派につながりがあるといわれたが、私は怪しいと思っている。(これは私見であります)。
いずれにしても、議員に対して、暗殺の脅威が高まっていることは確かになった。パリの治安を維持しなければならない。しかし、軍隊は大戦争の為に出払っている。警察力だけでは人手が足りない。ここでジャコバンクラブの組織力が期待されるようになった。ここで最大の影響力を持つ人物、それがロベスピエールであり、彼に「入ってくれ」という誘いがかかった。彼は「自分の気質に反して」といいながら引き受けた。役割は、「ジャコバンクラブを公安委員会支持に結びつけること」であった。これで議員の安全は確保されたが、のちにもろ刃の剣になる。
戦争では、ベルギー方面のオ-ストリア軍が最大の脅威であった。今一つ戦果が上がらない。公安委員のバレールが、ラザール・カルノーに公安委員会入りを勧めた。軍事の全権を任せるという。カルノーはプリユール・ド・ラ・コート・ドールを推薦して断った。そうするとバレールは「そうか、それなら二人とも」といって、これを国民公会に推薦し、議論もなしに可決した。これを見ると、人事の実験は平原派のバレールにあったことがわかる。カルノーは軍事の天才ぶりを発揮し、「勝利の組織者」と呼ばれ、子孫から大統領を出す家系になった。
こうゆうわけで、ジロンド派ついい方が、即、恐怖政治になるということはないのである。
2018年5月28日月曜日
いわゆるジロンド派議員が追放されても、ジャコバン派独裁は成立しない
ジロンド派の追放がジャコバン派の独裁を実現し、恐怖政治、テルール(フランス語)、(英語でテロ)を実行することになる。これが約150年続いたフランス革命史の定説であった。最後に出てきた、最も科学的歴史観だと、自他ともに称する人たちの意見を紹介しておこう。
アルベール・ソブール(パリ大学ソルボンヌの教授)は言う。「こうして山岳等を擁して、、サンキュロットが権力についた。ジロンド党を擁して、ひたすら自分に有利なように統治しようとした大ブルジョアジーが一時政治舞台から姿を消したのである」
アルベール・マチエは言う。「サンキュロットがひっくり返したものは、ただに一党派だけではなく、ある点までは一つの社会階級であった。大ブルジョア階級が倒されたのである」。
河野健二教授は言う。「ブルジョアジーの代表は陣地を明け渡して、小ブルジョアの代表たるモンターニュ派に譲った」。
私が彼らを批判して出てきて、十数年後、ソブール教授と河野教授に出会ったことがある。ソブール教授とは夕食をともにしながらの雑談になった。しかし、「あなたの意見は間違っているよ」という言葉はなかった。個人的には非常に好意的であったという印象を持っている。
しかしながら、学問の分野では厳しいことを言わねばならない。つまり、これらの意見は、文学的なフランス革命史であり、科学的には「ナンセンス」の一言に尽きる。追放したのは150人程度、まだ400人が残っているではないか。400をゼロとみなした歴史観が、上記3人の意見に集約されている。
もちろん、150年間これでやってきたのであるから、上記3人を個人的に批判するつもりはないが、とにかくこの理論は間違いであり、ジロンド派追放は、大ブルジョアジーの一部を敵に回して、排除したということである。大ブルジョアジーの残りの部分は平原派の背後でやっていくのであり、時には本人そのものが大ブルジョアジーの一員であった。
この段階では、まだ公安委員会も平原派中心で固められていた。だから、いきなりモンタニタールが権力を握ったことにはならない。
7月10日、公安委員会の改選があった。つまり約1か月のちの事であり、この時、平原派とモンタニヤールの議員が約半々になった。とはいえ、ダントンが落選した。これは重要なことであった。また、ロベール・ランデが食糧問題担当の公安委員になるが、彼をモンタニヤールに分類した勘定の仕方で「約半々」というのであるが、正確には、彼はジロンド派支持者であって、この時期になって、モンタニヤール支持者になったという、いわくつきの人物であった。
また平原派からここに入ってきたエロー・ド・セシェルは名門貴族、外国人銀行家とも親しく、デスパニャック(貴族、聖職者、武器商人)から金を借り、亡命貴族の伯爵の妻、を愛人にしていた。これを見て、「なんだこれは」と思うのが普通だろう。これがサンキュロットの代表者かね、というのが出てこないとおかしい。
サンキュロットとは、上流階級のはく半ズボン(キュロット)が「無い」という意味であり、つまりは働いている人たちを指す言葉であった。
サンキュロットが権力についたというのに、そこに働かない貴族、それもブルジョアジーとも関係の深い、伯爵夫人を愛人にしている貴族を迎え入れている。「これは何だ」というべきだろう。
もう一人、モンタニヤールからサン・ジュストという貴族が入ってきた。「恐怖政治の大天使」などともいわれる。恐怖政治を語るときの重要人物であるが、彼も貴族であって、サンキュロットではないことに注目するべきであろう。ぎゃくの見方をすれば、貴族だから、平民の犯罪者に対して、厳しい断罪を下すことについて、ためらいがないともいえる。日本でも、武士には切り捨て御免という習慣があった。だから明治維新直後では、武士出身の官僚は、平民に対して威張っていたのである。サン・ジュストの立場はこのようなものと思えばよい。
いずれにしても、ジロンド派追放によって、サンキュロットの政権ができたなどとは、ナンセンス極まりない理論であった。
アルベール・ソブール(パリ大学ソルボンヌの教授)は言う。「こうして山岳等を擁して、、サンキュロットが権力についた。ジロンド党を擁して、ひたすら自分に有利なように統治しようとした大ブルジョアジーが一時政治舞台から姿を消したのである」
アルベール・マチエは言う。「サンキュロットがひっくり返したものは、ただに一党派だけではなく、ある点までは一つの社会階級であった。大ブルジョア階級が倒されたのである」。
河野健二教授は言う。「ブルジョアジーの代表は陣地を明け渡して、小ブルジョアの代表たるモンターニュ派に譲った」。
私が彼らを批判して出てきて、十数年後、ソブール教授と河野教授に出会ったことがある。ソブール教授とは夕食をともにしながらの雑談になった。しかし、「あなたの意見は間違っているよ」という言葉はなかった。個人的には非常に好意的であったという印象を持っている。
しかしながら、学問の分野では厳しいことを言わねばならない。つまり、これらの意見は、文学的なフランス革命史であり、科学的には「ナンセンス」の一言に尽きる。追放したのは150人程度、まだ400人が残っているではないか。400をゼロとみなした歴史観が、上記3人の意見に集約されている。
もちろん、150年間これでやってきたのであるから、上記3人を個人的に批判するつもりはないが、とにかくこの理論は間違いであり、ジロンド派追放は、大ブルジョアジーの一部を敵に回して、排除したということである。大ブルジョアジーの残りの部分は平原派の背後でやっていくのであり、時には本人そのものが大ブルジョアジーの一員であった。
この段階では、まだ公安委員会も平原派中心で固められていた。だから、いきなりモンタニタールが権力を握ったことにはならない。
7月10日、公安委員会の改選があった。つまり約1か月のちの事であり、この時、平原派とモンタニヤールの議員が約半々になった。とはいえ、ダントンが落選した。これは重要なことであった。また、ロベール・ランデが食糧問題担当の公安委員になるが、彼をモンタニヤールに分類した勘定の仕方で「約半々」というのであるが、正確には、彼はジロンド派支持者であって、この時期になって、モンタニヤール支持者になったという、いわくつきの人物であった。
また平原派からここに入ってきたエロー・ド・セシェルは名門貴族、外国人銀行家とも親しく、デスパニャック(貴族、聖職者、武器商人)から金を借り、亡命貴族の伯爵の妻、を愛人にしていた。これを見て、「なんだこれは」と思うのが普通だろう。これがサンキュロットの代表者かね、というのが出てこないとおかしい。
サンキュロットとは、上流階級のはく半ズボン(キュロット)が「無い」という意味であり、つまりは働いている人たちを指す言葉であった。
サンキュロットが権力についたというのに、そこに働かない貴族、それもブルジョアジーとも関係の深い、伯爵夫人を愛人にしている貴族を迎え入れている。「これは何だ」というべきだろう。
もう一人、モンタニヤールからサン・ジュストという貴族が入ってきた。「恐怖政治の大天使」などともいわれる。恐怖政治を語るときの重要人物であるが、彼も貴族であって、サンキュロットではないことに注目するべきであろう。ぎゃくの見方をすれば、貴族だから、平民の犯罪者に対して、厳しい断罪を下すことについて、ためらいがないともいえる。日本でも、武士には切り捨て御免という習慣があった。だから明治維新直後では、武士出身の官僚は、平民に対して威張っていたのである。サン・ジュストの立場はこのようなものと思えばよい。
いずれにしても、ジロンド派追放によって、サンキュロットの政権ができたなどとは、ナンセンス極まりない理論であった。
いわゆるジロンド派議員が追放されても、ジャコバン派独裁は成立しない
ジロンド派の追放がジャコバン派の独裁を実現し、恐怖政治、テルール(フランス語)、(英語でテロ)を実行することになる。これが約150年続いたフランス革命史の定説であった。最後に出てきた、最も科学的歴史観だと、自他ともに称する人たちの意見を紹介しておこう。
アルベール・ソブール(パリ大学ソルボンヌの教授)は言う。「こうして山岳等を擁して、、サンキュロットが権力についた。ジロンド党を擁して、ひたすら自分に有利なように統治しようとした大ブルジョアジーが一時政治舞台から姿を消したのである」
アルベール・マチエは言う。「サンキュロットがひっくり返したものは、ただに一党派だけではなく、ある点までは一つの社会階級であった。大ブルジョア階級が倒されたのである」。
河野健二教授は言う。「ブルジョアジーの代表は陣地を明け渡して、小ブルジョアの代表たるモンターニュ派に譲った」。
私が彼らを批判して出てきて、十数年後、ソブール教授と河野教授に出会ったことがある。ソブール教授とは夕食をともにしながらの雑談になった。しかし、「あなたの意見は間違っているよ」という言葉はなかった。個人的には非常に好意的であったという印象を持っている。
しかしながら、学問の分野では厳しいことを言わねばならない。つまり、これらの意見は、文学的なフランス革命史であり、科学的には「ナンセンス」の一言に尽きる。追放したのは150人程度、まだ400人が残っているではないか。400をゼロとみなした歴史観が、上記3人の意見に集約されている。
もちろん、150年間これでやってきたのであるから、上記3人を個人的に批判するつもりはないが、とにかくこの理論は間違いであり、ジロンド派追放は、大ブルジョアジーの一部を敵に回して、排除したということである。大ブルジョアジーの残りの部分は平原派の背後でやっていくのであり、時には本人そのものが大ブルジョアジーの一員であった。
この段階では、まだ公安委員会も平原派中心で固められていた。だから、いきなりモンタニタールが権力を握ったことにはならない。
7月10日、公安委員会の改選があった。つまり約1か月のちの事であり、この時、平原派とモンタニヤールの議員が約半々になった。とはいえ、ダントンが落選した。これは重要なことであった。また、ロベール・ランデが食糧問題担当の公安委員になるが、彼をモンタニヤールに分類した勘定の仕方で「約半々」というのであるが、正確には、彼はジロンド派支持者であって、この時期になって、モンタニヤール支持者になったという、いわくつきの人物であった。
また平原派からここに入ってきたエロー・ド・セシェルは名門貴族、外国人銀行家とも親しく、デスパニャック(貴族、聖職者、武器商人)から金を借り、亡命貴族の伯爵の妻、を愛人にしていた。これを見て、「なんだこれは」と思うのが普通だろう。これがサンキュロットの代表者かね、というのが出てこないとおかしい。
サンキュロットとは、上流階級のはく半ズボン(キュロット)が「無い」という意味であり、つまりは働いている人たちを指す言葉であった。
サンキュロットが権力についたというのに、そこに働かない貴族、それもブルジョアジーとも関係の深い、伯爵夫人を愛人にしている貴族を迎え入れている。「これは何だ」というべきだろう。
もう一人、モンタニヤールからサン・ジュストという貴族が入ってきた。「恐怖政治の大天使」などともいわれる。恐怖政治を語るときの重要人物であるが、彼も貴族であって、サンキュロットではないことに注目するべきであろう。ぎゃくの見方をすれば、貴族だから、平民の犯罪者に対して、厳しい断罪を下すことについて、ためらいがないともいえる。日本でも、武士には切り捨て御免という習慣があった。だから明治維新直後では、武士出身の官僚は、平民に対して威張っていたのである。サン・ジュストの立場はこのようなものと思えばよい。
いずれにしても、ジロンド派追放によって、サンキュロットの政権ができたなどとは、ナンセンス極まりない理論であった。
アルベール・ソブール(パリ大学ソルボンヌの教授)は言う。「こうして山岳等を擁して、、サンキュロットが権力についた。ジロンド党を擁して、ひたすら自分に有利なように統治しようとした大ブルジョアジーが一時政治舞台から姿を消したのである」
アルベール・マチエは言う。「サンキュロットがひっくり返したものは、ただに一党派だけではなく、ある点までは一つの社会階級であった。大ブルジョア階級が倒されたのである」。
河野健二教授は言う。「ブルジョアジーの代表は陣地を明け渡して、小ブルジョアの代表たるモンターニュ派に譲った」。
私が彼らを批判して出てきて、十数年後、ソブール教授と河野教授に出会ったことがある。ソブール教授とは夕食をともにしながらの雑談になった。しかし、「あなたの意見は間違っているよ」という言葉はなかった。個人的には非常に好意的であったという印象を持っている。
しかしながら、学問の分野では厳しいことを言わねばならない。つまり、これらの意見は、文学的なフランス革命史であり、科学的には「ナンセンス」の一言に尽きる。追放したのは150人程度、まだ400人が残っているではないか。400をゼロとみなした歴史観が、上記3人の意見に集約されている。
もちろん、150年間これでやってきたのであるから、上記3人を個人的に批判するつもりはないが、とにかくこの理論は間違いであり、ジロンド派追放は、大ブルジョアジーの一部を敵に回して、排除したということである。大ブルジョアジーの残りの部分は平原派の背後でやっていくのであり、時には本人そのものが大ブルジョアジーの一員であった。
この段階では、まだ公安委員会も平原派中心で固められていた。だから、いきなりモンタニタールが権力を握ったことにはならない。
7月10日、公安委員会の改選があった。つまり約1か月のちの事であり、この時、平原派とモンタニヤールの議員が約半々になった。とはいえ、ダントンが落選した。これは重要なことであった。また、ロベール・ランデが食糧問題担当の公安委員になるが、彼をモンタニヤールに分類した勘定の仕方で「約半々」というのであるが、正確には、彼はジロンド派支持者であって、この時期になって、モンタニヤール支持者になったという、いわくつきの人物であった。
また平原派からここに入ってきたエロー・ド・セシェルは名門貴族、外国人銀行家とも親しく、デスパニャック(貴族、聖職者、武器商人)から金を借り、亡命貴族の伯爵の妻、を愛人にしていた。これを見て、「なんだこれは」と思うのが普通だろう。これがサンキュロットの代表者かね、というのが出てこないとおかしい。
サンキュロットとは、上流階級のはく半ズボン(キュロット)が「無い」という意味であり、つまりは働いている人たちを指す言葉であった。
サンキュロットが権力についたというのに、そこに働かない貴族、それもブルジョアジーとも関係の深い、伯爵夫人を愛人にしている貴族を迎え入れている。「これは何だ」というべきだろう。
もう一人、モンタニヤールからサン・ジュストという貴族が入ってきた。「恐怖政治の大天使」などともいわれる。恐怖政治を語るときの重要人物であるが、彼も貴族であって、サンキュロットではないことに注目するべきであろう。ぎゃくの見方をすれば、貴族だから、平民の犯罪者に対して、厳しい断罪を下すことについて、ためらいがないともいえる。日本でも、武士には切り捨て御免という習慣があった。だから明治維新直後では、武士出身の官僚は、平民に対して威張っていたのである。サン・ジュストの立場はこのようなものと思えばよい。
いずれにしても、ジロンド派追放によって、サンキュロットの政権ができたなどとは、ナンセンス極まりない理論であった。
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