前回の続きであるが、私が出てくるまでのフランス革命史は、いわゆるジロンド派対ジャコバン派の対立で歴史を語っていたのである。それ以外はないという態度で語る人、もうひとつは、あることは認めても、どうせくだらないもので無視するに足りるというものであった。つまり中間派は受動的なもので、「ついてこい」といわれる類のものであり、決定的役割は能動的なもの、すなわち、左右の両派閥でなければならぬという態度であった。
しかし、最後まで無傷で残ったものは、中間派であったので、この本質を知らずして、フランス革命を理解することはできないはずである。その観点から、平原派議員を調べ始めたが、こういう研究をしたのも世界では初めてであった。
まず、バラ子爵から始めよう。バラスとも発音する。アメリカにコーキー・バラスというダンスの名手がいる。だからここではバラスにしておこう。南フランスの中流の貴族、フランス革命以前、時の海軍大臣の部屋で、大臣の頭を本でたたいた。その後、インドへ派遣され、イギリス軍とたたかった。帰国して、国民公会の議員となり、中間派、平原派として、目立たない存在であった。
マルセイユでいわゆるジロンド派の反乱があり、この地域が反政府勢力に支配された。すぐ近くのツーロン軍港がイギリス海軍に占領された。これでは南フランスを経由する輸出入が途絶してしまう。フランス国家としての死活問題になった。この時、国民公会から、バラスが派遣委員として、全権力を委任された。彼の指揮する軍隊がマルセイユを鎮圧した。つぎにツーロン奪回に向かい、ここではイギリス海軍との砲撃戦が主体になった。この時、下級将校であったナポレオン・ボナパルトを引き立てて、砲兵司令官とし、その活躍によってイギリス海軍を追い出した。これはその時のフランスにとって、最大の功績になった。後世、これはナポレオンの功績として語り伝えられるが、当時は、バラスの功績と思われた。
バラスは最大の名誉に包まれてパリに凱旋してくる。ところがである。彼は最大級の富豪になっていた。その巨万の富は、賄賂と横領によって作られたといわれた。死刑になるべき人間から賄賂をとって助命し、軍隊につぎ込まれた資金の一部を私物化した。
ウヴラールという政商、御用商人、当時は、フル二スール・オー・ザルメー(軍隊に対する供給者)といわれたものだが、これと組んだ腐敗汚職もひどいものであった。さらに、毎日のように繰り返される夜の豪遊が有名になった。自分が愛人にした貴婦人を、妊娠中に、この御用商人に下げ渡したというのも話題になった。「背徳」という字がついて語られる人物であった。
ロベスピエールが公務員の腐敗粛清を主張した時、このバラスは真っ先に該当するものであった。そこで、テルミドールの反革命の日、ロベスピエールが市会議事堂にこもり、ジャコバンクラブの群衆に守られていた時、少数の兵力を動員して、群衆をすり抜け、急襲を加えてロベスピエールを銃撃した。これでジャコバンクラブは全滅した。
こうなると、バラスは二度の勝利を実現したものとして、最高の英雄になった。その延長として、総裁政府の事実上のトップになり、「バラスの王」といわれた。ナポレオンのクーデターによってその職を追われるが、巨万の富はそのままであった。彼の相棒のウヴラールはナポレオンの下でもビジネスを続けた。ナポレオンが失脚しても、妻が貴婦人であるから、バラスの子供を育てながら、ブルジョア的貴族として社会の上層にとどまった。
バラスを基準にしてみると、フランス革命とはこの程度のものであったのかとも思われる。旧体制、アンシャン・レジームとは、バラスが頭をたたいた海軍大臣(大貴族)が国王直属で支配する社会、新時代は、旧体制の変わり者、時代劇でいうと旗本退屈男のようなものが、商人、日本の町人、を引き立てて、新時代の支配者になる。
この子孫が現代でも、ブルジョア的貴族、貴族的ブルジョアとして支配者の集団を形成している。このことは日本人のほとんどが知らない。しかしこれが事実なのであるから、これを基準にして明治維新と比較するべきであると私は言う。
ただ、バラスはいかにも不道徳であるから、だれもこの人物について語りたくないのである。そういうことも歴史解釈をゆがめてしまう理由になるのかもしれない。これを思うとため息が出る。
2018年4月28日土曜日
2018年4月20日金曜日
国民公会の中間派に注目するべきである、これこそフランス革命の万年与党
このようにはっきりと声を上げたのは、私が初めてであります。それも、約60年前のことです。当時は、ジロンド派対ジャコバン派の対立、これが学問の世界と文学、小説の世界で花盛りでした。社会科学の分野では、ジロンド派がブルジョアジー、ジャコバン派が中小ブルジョアジーまたはその下、を代表すると定義されていた。
しかしこれではジロンド派が没落し、次にジャコバン派が粛清され、何も残らないではないか。それはナンセンスだ。そこで、間に中間派があったと言い出した。それは正しい。しかし扱いがよくなかった。この集団を能動的なものとみなさず、極めて受動的な、ろくでもない集団のように扱った。実際に、革命の当事者が、「沼の蛙」といった。バカにしていたわけです。
正確な状態を言いましょう。小高い議席に陣取ったのが、いわゆる「ジロンド派」であった。約160名、当時は今のような政党があったのではない。なんとなく気の合いそうなものたちがまとまっただけ、「党員数が何名」と数えるような時代ではない。だから約です。
いわゆるジャコバン派、正確には「モンタニヤール」は反対側の高い議席に陣取った。低いところから見れば「山」に見える。当時は「あだ名」をつけることが盛んで、山をモンターニュといったのです。これが約150名。反対派とほぼ同数です。
真ん中の低いところに、約400人が座った。そこでこれを「平原」プレーヌと呼んだ。もう一つ、マレつまり沼とも呼んだ。そこで日本語に翻訳するとき、平原派、沼沢派ともいう。ここに一つの誤解の種がある。派をつけて呼ぶと、意見が一致しているかのように思える。実は意見がばらばらで、一人一党主義、是々非々主義、日和見主義、ご都合主義、順応主義なんでもあるわけです。
そこで数は多いがまとまりがない、強い方になびく、ろくでもない群衆というので、蛙などと呼んだ人もいる。長らく歴史家もそのようにみていて、大したものではないという書き方をしていた。果たしてそうかと思いだしたのが私です。
国民公会の議事録を読んでいた時のこと、意外に平原派議員の発言が多い。発言内容もなかなか勇敢なものもある。さらに、いわゆる「ジャコバン派独裁」の時代に、財政委員会議長カンボン、同委員にカンバセレスを出し、しかもこの委員会は独立していて、公安委員会とは対等であることを知った。なーんだ、財務省、大蔵省を平原派がとっているじゃないか、「これでジャコバン派独裁といえるのか」、こうはっきり思い、それを世間に発表したのは私が初めてです。
さらにカンバセレスに注目し、彼が第二統領として、ナポレオン法典の実質的な責任者であり、革命前から大工業の所有者県経営者、法服貴族であったことを突き止めました。これすなわち、フランス革命の万年与党ではないか。
何処まで行っても、フランス革命はブルジョアジーの革命であり、かつ貴族の政治家、官僚の協力を伴う、このような解釈と観察眼をもって、我が国の明治維新を見るべきだはないか、そうすると、明治維新がフランス革命と同じものだということができるのです。
しかしこれではジロンド派が没落し、次にジャコバン派が粛清され、何も残らないではないか。それはナンセンスだ。そこで、間に中間派があったと言い出した。それは正しい。しかし扱いがよくなかった。この集団を能動的なものとみなさず、極めて受動的な、ろくでもない集団のように扱った。実際に、革命の当事者が、「沼の蛙」といった。バカにしていたわけです。
正確な状態を言いましょう。小高い議席に陣取ったのが、いわゆる「ジロンド派」であった。約160名、当時は今のような政党があったのではない。なんとなく気の合いそうなものたちがまとまっただけ、「党員数が何名」と数えるような時代ではない。だから約です。
いわゆるジャコバン派、正確には「モンタニヤール」は反対側の高い議席に陣取った。低いところから見れば「山」に見える。当時は「あだ名」をつけることが盛んで、山をモンターニュといったのです。これが約150名。反対派とほぼ同数です。
真ん中の低いところに、約400人が座った。そこでこれを「平原」プレーヌと呼んだ。もう一つ、マレつまり沼とも呼んだ。そこで日本語に翻訳するとき、平原派、沼沢派ともいう。ここに一つの誤解の種がある。派をつけて呼ぶと、意見が一致しているかのように思える。実は意見がばらばらで、一人一党主義、是々非々主義、日和見主義、ご都合主義、順応主義なんでもあるわけです。
そこで数は多いがまとまりがない、強い方になびく、ろくでもない群衆というので、蛙などと呼んだ人もいる。長らく歴史家もそのようにみていて、大したものではないという書き方をしていた。果たしてそうかと思いだしたのが私です。
国民公会の議事録を読んでいた時のこと、意外に平原派議員の発言が多い。発言内容もなかなか勇敢なものもある。さらに、いわゆる「ジャコバン派独裁」の時代に、財政委員会議長カンボン、同委員にカンバセレスを出し、しかもこの委員会は独立していて、公安委員会とは対等であることを知った。なーんだ、財務省、大蔵省を平原派がとっているじゃないか、「これでジャコバン派独裁といえるのか」、こうはっきり思い、それを世間に発表したのは私が初めてです。
さらにカンバセレスに注目し、彼が第二統領として、ナポレオン法典の実質的な責任者であり、革命前から大工業の所有者県経営者、法服貴族であったことを突き止めました。これすなわち、フランス革命の万年与党ではないか。
何処まで行っても、フランス革命はブルジョアジーの革命であり、かつ貴族の政治家、官僚の協力を伴う、このような解釈と観察眼をもって、我が国の明治維新を見るべきだはないか、そうすると、明治維新がフランス革命と同じものだということができるのです。
2018年4月19日木曜日
いわゆるジャコバン派がジャコバンクラブと対立して消滅させた
これはショッキングな見出しで、著者が狂ったのではないかと思うだろう。しかし正しいのである。もちろん条件があって、昔の教科書の書き方ならばというものです。つまり、ジロンド派対ジャコバン派の対立でフランス革命を展開するならばということです。
実際はモンタニヤールですよね。これを昔はジャコバン派と呼んでいたのです。さて、ジャコバンクラブは、モンタニヤールを支持していたと前回は書きました。これは間違いではないのですが、これを支持母体として固定的にとらえてはいけないということなのです。確かに支持母体ではあった。しかし、それはモンタニヤールが野党的存在で、権力に到達しえないときのことであったのです。
その時はいわゆるジロンド派がジャコバンクラブから脱退している。なぜか、権力をとり、すぐに腐敗、汚職が始まったためです。そこをジャコバンクラブで追及されたので、脱退した。ということは、ジャコバンクラブは腐敗、汚職、権力乱用に厳しいということであった。スクリュタン・エピラトワールというものがあった。清潔にするための投票というものであり、粛清投票といってよいが、今は粛清という言葉が、上が下を排除するために使う傾向があるので、そうではないという意味でこれは使わない。キリスト教にはピユューリタンの伝統があり、清廉潔白に生活をしようという伝統がある。こういう趣旨だと思えばよい。
他方で、権力をとったものは、とにかく腐敗をしたがった。今まで控えめに、つましく暮らしていても、権力機構に入ると、一日で人柄が変わる。フランス革命でもこの実例は多かった。ということは、モンタニヤールの議員も、権力と取ってからは、いわゆるジロンド派、その前のフイヤン派議員と同じことを始めたのである。
これにジャコバンクラブの多数が失望と怒りを表明した。対立がぎりぎりになった段階では、モンタニヤールの議員が釈明に来た時、「ギロチンへ」という叫び声を浴びせられた退場した。この時、ジャコバンクラブはロベスピエール派約10人だけを支持する団体に変わっていた。そこで対立は、国民公会対パリのジャコバンクラブとなり、モンタニヤールはジャコバンクラブを全滅させることに奮闘したのである。これがテルミドールの反革命であった。
実際はモンタニヤールですよね。これを昔はジャコバン派と呼んでいたのです。さて、ジャコバンクラブは、モンタニヤールを支持していたと前回は書きました。これは間違いではないのですが、これを支持母体として固定的にとらえてはいけないということなのです。確かに支持母体ではあった。しかし、それはモンタニヤールが野党的存在で、権力に到達しえないときのことであったのです。
その時はいわゆるジロンド派がジャコバンクラブから脱退している。なぜか、権力をとり、すぐに腐敗、汚職が始まったためです。そこをジャコバンクラブで追及されたので、脱退した。ということは、ジャコバンクラブは腐敗、汚職、権力乱用に厳しいということであった。スクリュタン・エピラトワールというものがあった。清潔にするための投票というものであり、粛清投票といってよいが、今は粛清という言葉が、上が下を排除するために使う傾向があるので、そうではないという意味でこれは使わない。キリスト教にはピユューリタンの伝統があり、清廉潔白に生活をしようという伝統がある。こういう趣旨だと思えばよい。
他方で、権力をとったものは、とにかく腐敗をしたがった。今まで控えめに、つましく暮らしていても、権力機構に入ると、一日で人柄が変わる。フランス革命でもこの実例は多かった。ということは、モンタニヤールの議員も、権力と取ってからは、いわゆるジロンド派、その前のフイヤン派議員と同じことを始めたのである。
これにジャコバンクラブの多数が失望と怒りを表明した。対立がぎりぎりになった段階では、モンタニヤールの議員が釈明に来た時、「ギロチンへ」という叫び声を浴びせられた退場した。この時、ジャコバンクラブはロベスピエール派約10人だけを支持する団体に変わっていた。そこで対立は、国民公会対パリのジャコバンクラブとなり、モンタニヤールはジャコバンクラブを全滅させることに奮闘したのである。これがテルミドールの反革命であった。
2018年4月18日水曜日
ジャコバン派は国民公会に存在しない
ジロンド派対ジャコバン派の対立で、フランス革命を説明することが当然のように行われてきました。しかし国民公会の中にジャコバン派という団体は存在しない。だから出発点において、従来のフランス革命史は間違っていたのです。
ジャコバンクラブはフイヤンクラブ、コルドリエクラブとともに存在した。1792年8月10日に事件で、フイヤンクラブは消滅した。ジャコバンクラブは全国的な組織として活動した。しかしいわゆるジロンド派政権が成立したのち、ジャコバンクラブの性格が急速に変化した。10月10日、ジャコバンクラブの議長はぺチヨンであり、彼はジロンド派の議員であった。10月12日ブリッソがジャコバンクラブから除名された。これ以後脱退するものが相次いだ。こうして、いわゆるジロンド派議員はジャコバンクラブからいなくなった。国民公会召集の22日後の事であった。
ジャコバンクラブに所属しながら、国民公会の議員であったものは、議事堂の端の小高い場所に集まった。当時はあだ名をつけることがはやっていたので、彼らのことを「山」に住んでいるという意味で「モンターニュ」と呼んだ。英語でいえば、マウンテンとなる。そこで、モンタニヤールとも呼ばれた。日本語では「山岳派」となる。どれを使うべきか、常に迷うところであるが、ここではモンタニヤールにしておきましょう。
ジャコバンクラブはこれを支持したけれども、今の政党政治でのように常に一致していたというわけではない。有力議員の中には、ジャコバンクラブに行ったことがないという人もいた。
だから国民公会の中の対立は、いわゆるジロンド派対モンタニヤールの対立であり、ジャコバンクラブは院外団体で、全国組織を持ちながら緩やかな形でモンタニヤールを支持していたというべきである。
ジャコバンクラブでは粛清投票というものがあった。腐敗、汚職の疑いがあると告発される。それについて、投票が行われる。これを嫌がって、いわゆるジロンド派が脱退した。フランス革命は素晴らしいものと思われているが、同時に贈収賄が多かったことも事実であり、「腐敗しないであろう人」はロベスピエールだけと思われていたので、このフランス語を頭文字大文字にすると、彼のあだ名になった。それくらい、疑いは多くの人にかけられていた。
約一年間、「清濁併せ呑む」と言う感じの団体で推移し、最終的にロベスピエール一人を信頼する団体になったとき、テルミドールの反革命で、ジャコバンクラブも全滅する。世界史的にみても、清廉潔白の代表者は、西郷隆盛、スイスのカルヴァン(カルヴィン)イギリスのクロムウエルくらいになるのだろう。
モンタニヤールは、中規模の事業者、地方の中小商人、パリなどの親方、工房の主人、豊かな自営業者などの利益代表者であった。
ジャコバンクラブはフイヤンクラブ、コルドリエクラブとともに存在した。1792年8月10日に事件で、フイヤンクラブは消滅した。ジャコバンクラブは全国的な組織として活動した。しかしいわゆるジロンド派政権が成立したのち、ジャコバンクラブの性格が急速に変化した。10月10日、ジャコバンクラブの議長はぺチヨンであり、彼はジロンド派の議員であった。10月12日ブリッソがジャコバンクラブから除名された。これ以後脱退するものが相次いだ。こうして、いわゆるジロンド派議員はジャコバンクラブからいなくなった。国民公会召集の22日後の事であった。
ジャコバンクラブに所属しながら、国民公会の議員であったものは、議事堂の端の小高い場所に集まった。当時はあだ名をつけることがはやっていたので、彼らのことを「山」に住んでいるという意味で「モンターニュ」と呼んだ。英語でいえば、マウンテンとなる。そこで、モンタニヤールとも呼ばれた。日本語では「山岳派」となる。どれを使うべきか、常に迷うところであるが、ここではモンタニヤールにしておきましょう。
ジャコバンクラブはこれを支持したけれども、今の政党政治でのように常に一致していたというわけではない。有力議員の中には、ジャコバンクラブに行ったことがないという人もいた。
だから国民公会の中の対立は、いわゆるジロンド派対モンタニヤールの対立であり、ジャコバンクラブは院外団体で、全国組織を持ちながら緩やかな形でモンタニヤールを支持していたというべきである。
ジャコバンクラブでは粛清投票というものがあった。腐敗、汚職の疑いがあると告発される。それについて、投票が行われる。これを嫌がって、いわゆるジロンド派が脱退した。フランス革命は素晴らしいものと思われているが、同時に贈収賄が多かったことも事実であり、「腐敗しないであろう人」はロベスピエールだけと思われていたので、このフランス語を頭文字大文字にすると、彼のあだ名になった。それくらい、疑いは多くの人にかけられていた。
約一年間、「清濁併せ呑む」と言う感じの団体で推移し、最終的にロベスピエール一人を信頼する団体になったとき、テルミドールの反革命で、ジャコバンクラブも全滅する。世界史的にみても、清廉潔白の代表者は、西郷隆盛、スイスのカルヴァン(カルヴィン)イギリスのクロムウエルくらいになるのだろう。
モンタニヤールは、中規模の事業者、地方の中小商人、パリなどの親方、工房の主人、豊かな自営業者などの利益代表者であった。
国民公会の党派、ジロンド派対ジャコバン派で説明するのは古くて、間違い
ヴァルミーの会戦、9月20日、この日に国民公会が招集された。これが新しい権力機関になる。今まで暴れまわったパリ・コミューンは、国民代表に従うと表明した。マラーは,これ以後新しいコースをとると表明した。マラーとタリアンは議員に選出された。こうして今後約1年間は、国民公会が名実ともに最高の権力を握ることになった。
行政機関としての臨時行政会議は、国王を持たない内閣で、首相もない。それぞれの担当大臣が命令を出す。それを国民公会が黙認しているような状態であった。
その国民公会であるが、この説明が古くから、でたらめ極まるものになっていた。だからフランス革命が誤解される。それを今から一つ一つ解説していくが、これについてくるだけの頭をもつ人がどれだけいるのか、その点に私は自信がなくなるのである。つまり、高等数学を子供に分からせるようにしゃべる、しかしわからせる自信はないと、数学者は思うであろう。これと同じことである。本では書けないけれども、ネットだから書きました。何とか理解してくださることを期待します。
さて、古くから、ジロンド派対ジャコバン派の対立と書かれてきました。私が中学校の教科書で読んだのもこれです。しかしジロンド派という呼び名は正確ではない。これは、フランス革命から数十年たってからつけられた、あだ名のようなもので、フランス革命当時では、ブリッソの党派、ロランの党派、と呼ばれていた。この違いだけでどれだけのイメージが違ってくるか、これが問題です。ジロンドというと、ボルドーが中心、スペイン国境に近い大西洋側、ジロンド川をさかのぼったところにある。ワイン、ボルドー酒の輸出基地、豊かな貿易商人の多いところである。
彼らの代表者が選出されてきて、華々しく活躍したので、ジロンド派の名がついた。しかし実名を言うと、日本人は知らない人たちばかりです。日本人のフランス革命史家でも知りません。ジャンソネ、ヴェルニヨー、ガデ、グランジュヌーヴは弁護士またはそれの卵、ボワイエ・フォンフレード、デュコは本人達が大商人、大船主、繊維の大工場主であった。
しかしこれをもって全フランスの代表とするのは無理がある。地方の大商人ばかりだからである。また、銀行はどうなる。ボルドーに大銀行、これはないのである。やはりパリでなければならない。パリというと、ブリッソの党派となる。彼が銀行業界の代表者であることは、一般に認められている。しかも、スイスから来た銀行家のクラヴィエールが財務大臣になっている。
内務大臣ロラン・ド・ラ・プラチエールは法服貴族の父と、本来の貴族の母を持っていた。つまり、ブルジョア貴族と純粋貴族の融合であり、日本的にいうと、商人が「名字帯刀を許された」として、妻が純粋の武士で、その間に生まれたものということになる。ロランは領地も持つていた。旧体制の下でマニュファクチュア検査官の官職を持ち、そのまま新体制でもリヨン絹織物業界の代表者になっていた。パリの彫刻家の娘と結婚して、ロラン夫人のサロンは特に社交界で有名になった。各地から集まるいわゆるジロンド派議員が出入りした。
こう見てくると、固定的にジロンド派と呼ぶのは誤解を招くので、「いわゆるジロンド派」というのが正しいことになる。そして、その背景は、ブルジョアジーの本流といってよい。
行政機関としての臨時行政会議は、国王を持たない内閣で、首相もない。それぞれの担当大臣が命令を出す。それを国民公会が黙認しているような状態であった。
その国民公会であるが、この説明が古くから、でたらめ極まるものになっていた。だからフランス革命が誤解される。それを今から一つ一つ解説していくが、これについてくるだけの頭をもつ人がどれだけいるのか、その点に私は自信がなくなるのである。つまり、高等数学を子供に分からせるようにしゃべる、しかしわからせる自信はないと、数学者は思うであろう。これと同じことである。本では書けないけれども、ネットだから書きました。何とか理解してくださることを期待します。
さて、古くから、ジロンド派対ジャコバン派の対立と書かれてきました。私が中学校の教科書で読んだのもこれです。しかしジロンド派という呼び名は正確ではない。これは、フランス革命から数十年たってからつけられた、あだ名のようなもので、フランス革命当時では、ブリッソの党派、ロランの党派、と呼ばれていた。この違いだけでどれだけのイメージが違ってくるか、これが問題です。ジロンドというと、ボルドーが中心、スペイン国境に近い大西洋側、ジロンド川をさかのぼったところにある。ワイン、ボルドー酒の輸出基地、豊かな貿易商人の多いところである。
彼らの代表者が選出されてきて、華々しく活躍したので、ジロンド派の名がついた。しかし実名を言うと、日本人は知らない人たちばかりです。日本人のフランス革命史家でも知りません。ジャンソネ、ヴェルニヨー、ガデ、グランジュヌーヴは弁護士またはそれの卵、ボワイエ・フォンフレード、デュコは本人達が大商人、大船主、繊維の大工場主であった。
しかしこれをもって全フランスの代表とするのは無理がある。地方の大商人ばかりだからである。また、銀行はどうなる。ボルドーに大銀行、これはないのである。やはりパリでなければならない。パリというと、ブリッソの党派となる。彼が銀行業界の代表者であることは、一般に認められている。しかも、スイスから来た銀行家のクラヴィエールが財務大臣になっている。
内務大臣ロラン・ド・ラ・プラチエールは法服貴族の父と、本来の貴族の母を持っていた。つまり、ブルジョア貴族と純粋貴族の融合であり、日本的にいうと、商人が「名字帯刀を許された」として、妻が純粋の武士で、その間に生まれたものということになる。ロランは領地も持つていた。旧体制の下でマニュファクチュア検査官の官職を持ち、そのまま新体制でもリヨン絹織物業界の代表者になっていた。パリの彫刻家の娘と結婚して、ロラン夫人のサロンは特に社交界で有名になった。各地から集まるいわゆるジロンド派議員が出入りした。
こう見てくると、固定的にジロンド派と呼ぶのは誤解を招くので、「いわゆるジロンド派」というのが正しいことになる。そして、その背景は、ブルジョアジーの本流といってよい。
2018年4月16日月曜日
小林良彰(歴史学者東大卒のフランス革命論)戦勝が征服型の市民革命をもたらした。
ヴァルミーの会戦以後、プロイセン軍はドイツ領に後退し、やがて帰国してしまった。フランスの義勇兵、正規軍、国民衛兵は、それぞれの地域で、国境の外へ進出した。大きな戦闘は、北方のジェマップの会戦で、オーストリアが大敗北をして撤退した。これでベルギーがフランスの領土に入った。中部では、マインツ、フランクフルト、などライン川沿いの重要都市を占領した。南部ではニースを含む地域を占領した。
予想外の成功に気をよくしたので、フランスの政府は11月19日諸国民の解放戦争を支持するとの声明を発表した。イギリスはオランダが危ないと感じてフランスと対立を深め、その結果として、1793年2月1日、フランスがイギリスに対して宣戦布告をした。
ただし、フランス内部においては、征服に対する賛否両論があった。これは党派に関係なく、両論があった。ジロンド派では、ブリッソ、クラヴィエールが好戦的、ラスルス、ルーヴェが反対、左派の山岳派、モンタニヤールではロベスピエールが反対した。ほどほどのところで止めておけというものであった。歴史を後から見れば、これが正しい。しかし、ダントンは拡大論者で、占領地で支配者を追放し、自由を実現するとした。ロベスピールとともに公安委員になったバレールは、敵国が一つ増えると、自由の勝利が一つ増えると演説し、熱狂のうちにスペインに対する宣戦布告を実現した。
これは革命の輸出であり、征服地に革命を実現することである。前時代の支配者が政権から追放され、ブルジョアジーが権力を握る。それをフランスが合併する。こういう形の市民各目もありうるということで、革命必ずしも反乱の形をとるものではないことを知っておくことが重要である。
これは何を言っているかというと、わが国の廃藩置県がこれに相当するというのである。フランスに相当するのが明治新政府、まだ旧幕府領だけを支配する、その他の大名領が、ライン川沿いの中小諸国の相当する。もし東北諸藩の連合を外国が応援した場合、例えば欧米諸国、もしくはロシアがそちらを応援したとする、実はこれはありうる話であったが、こういうことになると、まさにフランス対オーストリアの対立と同じになる。
西ドイツ諸国は中世封建制度と変わらない体制のもとにあり、近代的な統一国家を特っていなかった。フランス革命軍は小国家を各個撃破する形で進んだ。さらにフランクフルトのような都市国家があり、これらは抵抗することができない。
こうして、フランス革命軍の下で市民革命の政策が実施された。それに慣れたころ、フランスが敗北して、押し戻され、元の旧体制に戻る。ナポレオン支配下では、西ドイツ諸国はライン同盟にまとめられた。ナポレオンが敗北すると、プロイセン王国に合併される。市民革命から、絶対主義への逆戻りである。これが1815年から1848年の3月革命まで続く。3月革命でライン州プロイセンのブルジョアジーの影響力が強まり、プロイセンは市民革命の国になる。1871年その力でもって、他のドイツ諸国を強制的に合併して統一したドイツ帝国を作った。こういう形でドイツの市民革命は完成する。これがちょうど日本の廃藩置県の年と一致するのもまた、数奇な運命であるというべきだ。
予想外の成功に気をよくしたので、フランスの政府は11月19日諸国民の解放戦争を支持するとの声明を発表した。イギリスはオランダが危ないと感じてフランスと対立を深め、その結果として、1793年2月1日、フランスがイギリスに対して宣戦布告をした。
ただし、フランス内部においては、征服に対する賛否両論があった。これは党派に関係なく、両論があった。ジロンド派では、ブリッソ、クラヴィエールが好戦的、ラスルス、ルーヴェが反対、左派の山岳派、モンタニヤールではロベスピエールが反対した。ほどほどのところで止めておけというものであった。歴史を後から見れば、これが正しい。しかし、ダントンは拡大論者で、占領地で支配者を追放し、自由を実現するとした。ロベスピールとともに公安委員になったバレールは、敵国が一つ増えると、自由の勝利が一つ増えると演説し、熱狂のうちにスペインに対する宣戦布告を実現した。
これは革命の輸出であり、征服地に革命を実現することである。前時代の支配者が政権から追放され、ブルジョアジーが権力を握る。それをフランスが合併する。こういう形の市民各目もありうるということで、革命必ずしも反乱の形をとるものではないことを知っておくことが重要である。
これは何を言っているかというと、わが国の廃藩置県がこれに相当するというのである。フランスに相当するのが明治新政府、まだ旧幕府領だけを支配する、その他の大名領が、ライン川沿いの中小諸国の相当する。もし東北諸藩の連合を外国が応援した場合、例えば欧米諸国、もしくはロシアがそちらを応援したとする、実はこれはありうる話であったが、こういうことになると、まさにフランス対オーストリアの対立と同じになる。
西ドイツ諸国は中世封建制度と変わらない体制のもとにあり、近代的な統一国家を特っていなかった。フランス革命軍は小国家を各個撃破する形で進んだ。さらにフランクフルトのような都市国家があり、これらは抵抗することができない。
こうして、フランス革命軍の下で市民革命の政策が実施された。それに慣れたころ、フランスが敗北して、押し戻され、元の旧体制に戻る。ナポレオン支配下では、西ドイツ諸国はライン同盟にまとめられた。ナポレオンが敗北すると、プロイセン王国に合併される。市民革命から、絶対主義への逆戻りである。これが1815年から1848年の3月革命まで続く。3月革命でライン州プロイセンのブルジョアジーの影響力が強まり、プロイセンは市民革命の国になる。1871年その力でもって、他のドイツ諸国を強制的に合併して統一したドイツ帝国を作った。こういう形でドイツの市民革命は完成する。これがちょうど日本の廃藩置県の年と一致するのもまた、数奇な運命であるというべきだ。
2018年4月13日金曜日
ヴァルミーの会戦
「この日、この場所から、世界史の新しい時代が始まる」。これが、文豪ゲーテの書き残した言葉である。彼が、革命に賛成の人物であったのではないだけに、この文章には説得力がある。文学者らしい、鋭い観察眼のなせる業であった。
9月20日、ヴァルミーの丘で、両軍が対戦した。プロイセン軍はヴェルダンからさらに進んで、国境から3分の1くらいにまで達していた。ほとんど抵抗を受けずに前進してきた。ここで、プロイセン軍の司令官ブラウンシュヴァイヒ公爵は、奇妙な軍隊を見た。雑然としている。つまり義勇兵であった。ただし指揮官は貴族であった。しかし兵隊がばらばらであった。今日の言葉でいえばボランティアであるから、制服も整えられていないし、見たことも聞いたこともない軍隊ということになる。
当然一押しすれば崩れると思った。また、今までのフランス軍は、抵抗らしい抵抗はしていない。そこで前進命令を出し、いよいよ開戦となったとき、相手が鬨の声を上げて前進してきた。その様子を見て、この相手とぶつかると、血みどろの戦いになると予想した。そこで後退の命令を出した。フランス軍は、これをゆっくりと追撃していった。
この戦争は、こうして国境まで、ほとんど戦闘らしい戦闘をせずに追い出したことになる。それでも世界史的に有名なのは、ゲーテの言葉通りである。ただし、「庶民の軍隊が貴族の軍隊に勝った」という通説を妄信してはいけない。義勇兵はブルジョアの、即席の、その場しのぎの軍隊であった。指揮官には貴族がなった。これは重要で、兵隊には戦闘経験がなかったからである。
勝った理由にはまだ多くの条件がある。将軍の多くが逃亡、亡命し、そのあとを戦う気のある将軍、将校が埋めたことがある。ナポレオン・ボナパルトもこうした条件の下で少しずつ昇進していった。
国王夫妻が投獄され、作戦計画がオーストリア側にもれなくなったこともある。
プロイセン軍の兵士がブドウ畑からブドウをとって食べたため、赤痢がはやり、ゲーテもかかり、戦争どころでなくなったことも響いた。
プロイセンがオーストリアほどこの戦争に熱心ではなかったことも影響している。
このあたりの地形が騎兵軍団の突撃にむいていなかったことも義勇兵にとって有利であった。義勇兵は歩兵中心、。馬術の訓練には時間がかかる。だから、この時両者の軍隊の速度は極めてゆっくりしたものになった。
9月20日、ヴァルミーの丘で、両軍が対戦した。プロイセン軍はヴェルダンからさらに進んで、国境から3分の1くらいにまで達していた。ほとんど抵抗を受けずに前進してきた。ここで、プロイセン軍の司令官ブラウンシュヴァイヒ公爵は、奇妙な軍隊を見た。雑然としている。つまり義勇兵であった。ただし指揮官は貴族であった。しかし兵隊がばらばらであった。今日の言葉でいえばボランティアであるから、制服も整えられていないし、見たことも聞いたこともない軍隊ということになる。
当然一押しすれば崩れると思った。また、今までのフランス軍は、抵抗らしい抵抗はしていない。そこで前進命令を出し、いよいよ開戦となったとき、相手が鬨の声を上げて前進してきた。その様子を見て、この相手とぶつかると、血みどろの戦いになると予想した。そこで後退の命令を出した。フランス軍は、これをゆっくりと追撃していった。
この戦争は、こうして国境まで、ほとんど戦闘らしい戦闘をせずに追い出したことになる。それでも世界史的に有名なのは、ゲーテの言葉通りである。ただし、「庶民の軍隊が貴族の軍隊に勝った」という通説を妄信してはいけない。義勇兵はブルジョアの、即席の、その場しのぎの軍隊であった。指揮官には貴族がなった。これは重要で、兵隊には戦闘経験がなかったからである。
勝った理由にはまだ多くの条件がある。将軍の多くが逃亡、亡命し、そのあとを戦う気のある将軍、将校が埋めたことがある。ナポレオン・ボナパルトもこうした条件の下で少しずつ昇進していった。
国王夫妻が投獄され、作戦計画がオーストリア側にもれなくなったこともある。
プロイセン軍の兵士がブドウ畑からブドウをとって食べたため、赤痢がはやり、ゲーテもかかり、戦争どころでなくなったことも響いた。
プロイセンがオーストリアほどこの戦争に熱心ではなかったことも影響している。
このあたりの地形が騎兵軍団の突撃にむいていなかったことも義勇兵にとって有利であった。義勇兵は歩兵中心、。馬術の訓練には時間がかかる。だから、この時両者の軍隊の速度は極めてゆっくりしたものになった。
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