2018年1月31日水曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 廃藩置県は名誉革命に似ている。

イギリス人は名誉革命を強調して、ピユーリタン革命のことを避ける傾向がある。そこで、イギリス人と話をしていると、平和革命を自慢して、フランス革命を暴力的だといい、それを国民性のように言う。それはちがうので、約40年前の革命では、フランス革命と同じような流血を伴い、国王の処刑も行った。以後100年間、イギリスは過激な国として、ヨーロッパ中で嫌われていたのである。
だからますます名誉革命だけを強調する。この中身を見ると、確かに平和的ではあるが、中身は革命的であって、劇的な変化が起きている。クロムウエルが死ぬと、短い期間彼の息子が後を継いだ。そういう意味では、護国卿制度は半ば王制に似ていたのである。しかし、長老派将軍のクーデターがあり、革命前の王制に戻して、チャールズ2世の復位が実現した。この段階で、イギリスは、国王の行政軍事の権力、議会の立法権が共存する国になった。つまり、前時代と近代国家の間で揺れていた状態であった。この時代をレストレーションという。だから「明治レストレーション」という英語は「誤訳」である。もし徳川将軍の復位があれば、それがレストレーションというべきものになる。
イギリスで、ジェームス2世の時代になると、国王を取り巻く貴族たち(戦士、騎士)が権力独占を目指して議会に攻勢をかけた。議会の抵抗にあうと、議会への進軍を命令した。ここで軍隊がためらった。こうなると国王個人の命が危ない。国王は逃亡し、代わって、国王の女婿オレンジー公爵を次期国王に迎え、前国王の権力を議会の手に戻したのであった。立憲君主制が成立した。本質を言うと、中世以来権力を独占していた貴族階級から権力を奪ったことになる。ただし奪ったから、追放したというとそうではない。軍隊の幹部は貴族で固めている。政治家に貴族が出てくる。それは容認し、奨励する。問題は、前時代のように、「平民を馬鹿にし、そのうえに立たなければ収まらない」という気風を捨ててくれるかどうかである。
つまりは、古い時代の貴族が、新しい貴族、ブルジョア的貴族になってくれればよいのである。これ以後長い時間をかけて、イギリス貴族はそうなっていくので、これをジェントルマン資本主義などという言葉も出てきた。日本の女性ガイドが、「何がジェントルマンですか。ゼニトルマンですよ」といったが、よく本質をついていると思う。
この変化を、廃藩置県が実現した。無血革命で。それまでは、全国の4分の1で武士階級が支配していた。旧幕府領だけの革命だから、あとはそのままであった。たとえ藩主(藩知事)が東京へ呼び出されても、城代家老(ご城代と呼ばれている)を頂点に家老、重臣、ご重役以下、ピラミッド型に役職があり、上級武士、中級武士、下級武士が役職に就いた。役得という言葉もある。役職手当とともに、わいろ、袖の下の収入がある。豊かな生活を送っている。役職のない武士のことを「無役の武士」という。これは家禄だけの生活で、みじめと思われていた。お城勤めが権力を表現していた。地方には代官が派遣される。数人、数十人の部下の武士を抱えている。地方では全権力を握っていた。
こうした集団、これは例えていえば、今の北朝鮮の首都にいる集団のようなもの、土地の集団所有の上に立つ支配者集団であったといえる。もっとも、今の集団所有は、国営企業を足場としているが。150年前の日本では、土地の集団所有であった。
これを一撃で破壊する。無血ではあるが効果は絶大。この意味をほとんどの日本人は感じない。しかし荒城の月を思い浮かべてほしい。昔の栄華今いずこである。それが一日で実現した。明日からは、お城勤めはない。仕事がない。代官も解雇だ。家禄だけは年金のように与える。役職収入は消える。城は見捨てられる。壊されたのもあった。新しく派遣された県令は、その土地とは関係のないものであった。
東京に残された旧大名は、家禄を藩収入の十分の一と見立てて、その分の収入を保証するとした。つまりは、大金融融資産家に転化した。ラファイエット侯爵のような待遇だと思えばよい。
このような無血革命を実行するにあたり、西郷隆盛は、戦争を想定して、渋沢栄一に相談した。「戦争になったら、金は出ましょうか」、ずばりこういう質問であった。この時渋沢が政府の財政を担当していたからである。「どのようにでもなる」という返事を聞いて、帰っていったという。ここでも、西郷は、武力と資金の同盟を作り出した。
渋沢は、のちに第一銀行を作り、これは現代のみずほ銀行の一部になっている。武士的気質を持ちながら、お金のことも分かっている人であった。

2018年1月29日月曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論 廃藩置県は第2の市民革命

1871年7月14日、奇しくもフランス革命記念日の日、バステイーユ占領の日、廃藩置県が断行された。これが第2の市民革命となり、全国が商人支配の国家になった。それまでは、幕府の旧領地のみがそうであり、それは全国の収入の約4分の1で,700万石に相当した。基本的部分が関東に集中し、あとは天領として各地に散在した。これが新政府に没収されて、ここの支配者集団である旗本、御家人は静岡に移され、全体の収入は十分の一に圧縮された。もちろん、関東における居住権は、完全消滅であった。豪華を極めた旗本屋敷の消滅、これこそ革命というべきものであろう。天領の代官職は、旗本から任命されたものであった。今後は新政府からの任命に変わった。武士ではあったが、藩主からの任命ではない。そこが、旧時代とは違うところ。
ところが、幕府領以外の土地では、何事も変わっていなかった。大名(殿様)が頂点にいて、家老をはじめとした重臣、重役の上級武士が支配し、中級武士が管理職、下級武士が下級の役職についていた。農、工、商には権力がない。つまり、近代国家と前近代国家の併存、これが約4年間続いた。
これでは、改革が不十分であろうという意見が出てくる。財政を担当した井上薫は、「大名の財政をとる必要」について強調した。しかし、財政をとる、権力をとると言い出すと、武力による抵抗に出会う。それを撃破する武力は、新政府にはない。加えて、新政府の官僚の豪奢に対する批判が出始めていた。そんな人間のために、命がけで協力するものがいるのか。
ここで、新政府は西郷隆盛に協力を求めることになった。長州の木戸、土佐の板垣を代表者として、三藩の藩兵を集めて中央政府の軍隊とし、これを各地の鎮台に駐屯させた。どこかで武士階級の反乱がおきた場合、それを鎮圧する構えであった。
中央政府では、この三人に加え、大隈重信の4人が参議として、最高指導部を構成した。
この人選、重要なところは、大隈重信の人選であった。この意味を知る人は少ない。ただし、先入観を抜きにすれば容易に理解できる。彼は薩摩、長州、土佐の藩兵に基盤を持たない。つまりは、この段階で、武士階級の代表者ではない。西郷隆盛周辺の武士たちは、大隈を嫌っていた。西郷は手紙の中で「この度は俗吏もぬれねずみのようになり愉快」と書いた。そのあと、「しかし何分選別がうまくいかなかないので残念」というような文章を書いた。つまり、大隈を一時排除したが、巻き返しにあって、自分と対等の立場に立つことを認めたという。
これは何を意味しているか。大隈が大商人の集団から支持されていることを示している。つまり、武力ではなく、資本の力なのである。このころになると、大隈は三井の大番頭三野村利左エ門と親密になり、「みのり、みのり」と呼んでいたが、みのりもまた常に大隈亭に詰めて、関係を深めた。最初に西郷が関係をつけた三井が、大隈に乗り換えたということである。
それにしても1対3ではないかと思うが、大隈に言わせると、西郷、板垣は「戦争の話ばかりして、印鑑をお前に任せるというので」実務は自分の判断で進行したという。これが重要なところ、経済界と政府の関係は大隈重信の判断で仕切られたことになる。こうして、大商人の勢力と、3藩兵の武力の同盟で、廃藩置県を断行した。反乱は起きなかった。
この事件の意味を言うと、打撃の目標は、全国の収入の約4分の3を占める大名領、ここを支配している武士集団、西洋流にいうと、貴族階級による土地の集団所有、この権力を消滅させることに尽きる。攻撃する側は、大商人を代表する官僚と、三藩の下級武士の集団だと定義できる。下級武士一般ではない。これを間違えてはいけない。そうでないと、「下級武士革命論」などという、でたらめな誤解につながる。ほんのわずかな、特別な勢力が協力したのだ。薩、長の2藩は、関ヶ原以来、長年の冷遇に対する恨みがある。土佐の下級武士は、長年差別を続けられた上級武士への恨みがある。そういう原動力が中央政府支持への原動力になる。他藩の下級武士にはそれがない。だから、武士一般ではない。
そこで、この勢力で全国の大名領を廃止することは、商人勢力による全国統一になり、征服型の市民革命になる。市民革命といえば下からだけではないかと反論する人もいるだろうが、フランス革命で、周辺諸国を占領した時、北イタリア、西ドイツでそのモデルが作られている。アメリカ南北戦争でも、南部諸州で独立国家を作った時期がある。この時は、古代ローマ帝国のような前近代国家が出現した。それを北側が撃破、占領して、市民革命の完成に導いた。廃藩置県はこういうものの、無血革命だと思えばよい。無血だから名誉革命といってもよい。

2018年1月26日金曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論、理想国家は十年続いた

あまり意識されていないが、西郷隆盛の目指す理想国家は、鹿児島県で約十年続いた。世界史的な目で定義すると、中間層支配の理想国家であった。そのようなものが他にあるかというと、アメリカ合衆国の内部にいくつかあり、今なお残っているところと、昔はあったがやがて周のに資本主義に飲み込まれてしまった場合とに分かれる。
クロムウエルのイギリスでは、パンとともに信仰を食べさせられたといわれ、ピューリタンの厳格な信念が国民に強制された。このカルヴァンの思想の中には、ぜいたく、投機、を罪悪とみなす、反資本主義の思想が強い。だからロンドンに密集している大商人、銀行家にとっては迷惑な思想になる。それでも我慢したのは、王党派の巻き返しが怖かったからである。この脅威が薄れると、今度はクロムウエル排除の動きが出てくる。その微妙なところで、彼は死んだ。
西南戦争までの十年間は、鹿児島に中間層支配の理想国家が独立してあり、東京を中心に、商人支配の新政府があった。新政府のもとで、商人支配は急速に進化して、新興企業家が肩を並べ始めた。三菱の岩崎、銀行の安田、生糸の田中平八、鉱山業の五代などなど、強力な基盤を持ち始めた。やがて自信をつけた新政府は、自分の軍事力を持って国土の完全統一に乗り出す。これが事の本質である。

2018年1月25日木曜日

小林良彰(歴史学者東大卒)の西郷隆盛論、ワシントン、ラファイエットとともに2度目がある

クロムウエルは死んだので、一回限りであったが、他の3人には2度の出番があった。ラファイエット侯爵はオーストリアの牢獄から解放されて、帰国し、妻の城に住んだ。妻は公爵家の相続人、女性公爵であったから、ナポレオンの時代も、王政復古の時代も何不自由のない貴族的生活を続けた。彼の土地と城は売り払われたが、それに相当する補償金を政府から受け取ったので、莫大な金融資産の所有者になった。
つまり、本人がブルジョア的貴族になったのである。1830年7月革命の時、彼は議員の選挙に打って出て、当選した。当然、昔と同じく自由主義者であって、時の政権の絶対主義的傾向に抵抗した。革命運動には参加しなかったが、復古王政が倒れると、大統領に推挙する声が上がった。大統領ならラファイエット、王政ならルイ・フィリップ十言われ、結局王制に落ち着き、ラファイエットの出番は消え、しばらくして死んだ。
ワシントンは戦勝とともに、辞職した。功労金を提供されたが辞退した。西郷隆盛に似たところがある。引退しても大農園がある。それに比べると、西郷の土地は小さい。そのうえ、「子孫のために美田を買わず」という漢詩を残している立派な人物である。
ワシントンは十年後アメリカ合衆国連邦の成立で、初代大統領に擁立された。この最大の目的が、どこかの州で反乱がおきたとき、中央政府が鎮圧するというものであったから、日本に例えていうと、ワシントンは西郷隆盛の路線ではなく、大久保利通の路線を進んだものということができる。
二度目に登場した西郷隆盛は、フランス革命のロベスピールに似ている。中間層の革命理論を実現しようとするが、それが失敗する。政府官僚の腐敗に憤慨し、批判する。後輩からは煙ったがられる。後輩の利権争奪戦を、「脱出す、人間虎豹の群れ」と漢詩に書いて批判した。こういう傾向がロベスピールに似ている。こうして西南戦争に殉じる。その胸中を察すると、これ以上は書けない。

2018年1月24日水曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、ワシントン、ラファイエット、クロムウエルと比較すると

小林良彰(歴史学者)の解釈では、この4人が同じだということになる。共通点は、旧体制、アンシアン・レジーム、大土地所有者の支配を打破する。そのために、ある種の武装勢力(これはその国の特殊事情によって、多様性がある)と、大商人、金融業者(一般的に動産の所有者、フランスではブルジョアジーと呼ばれ、イギリスでは、東インド会社などの貿易商人が優勢、アメリカでは密貿易商人として犯罪者扱い、日本では素町人と呼ばれて、また士、農、工、商の位置づけで最下級となっている)、の同盟を一人で代表する。この同盟の力で、旧体制を打破する。
打破した後では、新時代が来るが、これは動産所有者が指導権を握る社会である。当時ならば、大商人、銀行家(金融業者が進化する)になり、工業はまだ規模が小さい。ただし、むき出しの支配にはならない。まだ武装勢力の大群が指導者を立てて政府に影響を与える。彼らは命がけで戦ってきたのであるから、必ずしも拝金主義者ではない。
こういう状況の下で、この時の指導者は独特の信念の持ち主になる。これが市民革命の英雄の姿であり、ワシントン、ラファイエット、クロムウエル、西郷隆盛になる。
しかし二つの勢力はやがて分裂する。その分裂を象徴する日本版は、大村益次郎(兵部大輔)の言う「今の兵には、1大隊に2大隊の見張りをつけておかないと、何をしでかすかわからぬ」という言葉で表されている。同じような状況が、英、米、仏にも起きた。
イギリス革命では、その分裂の寸前にクロムウエルが病死した。インフルエンザだといわれているが、まさか毒殺ではあるまいなと思う。アメリカ革命では、ワシントンが、大商人の側に立ち、武装勢力の不満には同調しなかった。見捨てられた幹部で反乱を起こした者もいるが、今となっては歴史に出てこない。これが西南戦争のようなものだと思う。
フランス革命のラファイエットは、3年後に、革命政府に対する反乱を起こし、脱出し、敵国にとらえられた。彼は、領主権の無償廃止など、革命政府が貴族に対して、さらなる打撃を与えようとすることに反対したのである。つまり、貴族政治に反対して革命を起こしながら、「もうこのあたりでやめておけ」といいだしたといってよい。
西郷隆盛は江戸城を目指して静岡まで来た。そこで山岡鉄舟と面会する。その内容を軸に、品川で勝海舟と合意に達し、寛大処分、徳川本家を十分の一に圧縮して静岡に移し、江戸城の無血開城で討幕戦を終わらせた。外国軍の介入もありうるから、、日本人同士の戦争は早期終結が必要であった。
この後の西郷隆盛の行動は、不可解なものになる。彰義隊が上野寛永寺に立てこもった。輪王寺の宮を立てて別政府だという。これに対して、説得の努力を続け、討伐しない。京都の新政府から大村益次郎、大隈重信(財政担当)が来て、諸藩藩兵、最新式の大砲の効果も併せて、彰義隊を鎮圧した。西郷隆盛の指導的な役割は後退した。
彼は帰郷し、頭を丸めた。西郷入道といわれた。北越戦争に出かけたが、正式の司令官ではない。しかし実質的な方針を示すことはできた。ここでは寛大処分であったため、庄内藩の藩士は彼を尊敬した。
鹿児島に帰ると、藩政の改革に努め、上級武士の高額の禄を引き下げ、下級武士の状況を改善し、農民の負担を軽くした。商人の暴利は戒めていた。つまりは、中間層としての中・下級武士が戦士、官僚となる小国家を作ったといえる。
その間、新政府は批判勢力が郷里に帰ったので、大商人、新興企業家の政府になってしまった。批判は強くなった。もう一つ、諸大名の領地は独立している。新政府の財源は少ない。全国3000万国のうち、700万国のみが新政府のものであった。全部取ってしまわなければ、新政府とは言えない。ここで、批判的な西郷隆盛を引っ張り出すことになる。西郷隆盛は自分の理想を全国で実現できないかと考えている。
ここで両者が再び提携して、廃藩置県を実現した。これで武士の支配の時代は終わり、新政府の全国支配が完成した。日本における市民革命の完成である。だから、日本革命は、1868年に始まり、1871年で完成するという結論になる。

2018年1月21日日曜日

初期の市民革命は古い伝統的権威にすがろうとする

市民革命の本質をズバリ表した歌がある。
「なにごとも ひっくり返る世の中や 田安の屋敷 安田めが買う」
田安は江戸時代、三家、三卿の一つ、徳川将軍の世継ぎがないとき、ここから出すと決められた家柄、事実、最後の将軍慶喜が引退した後、田安亀之助が後を継いだ。つまりは旧支配者を代表するもの。この屋敷を安田が買い取った。
安田は新興銀行家、のちの富士銀行、現在のみずほ銀行の3ぶんの1をしめる。幕末安田善次郎が、小商人から出発して、銀行業で成功した。のちに東大の安田講堂を寄贈した。
これが革命の結果だというと、「なあんだ」ということになり、「やる気なし」となる人が多いだろう。西郷隆盛は「今となれば、戦死者に対して申し訳がない」と「しきりに涙をこぼされける」と書かれている。
西洋諸国でも同じで、早いころに市民革命を実現した国は、その本質を出さないように努めた。つまり実質はともかく、外見は変わりませんと訴える。そのため、古い伝統的権威を探し出して、それを押し立てる。
クロムウエルの護国卿は、摂政のような地位が中世にあったので、それを採用したもの、同じく中世にあった三部会を復活させようとしたフランスの試みもそうであった。アメリカ独立革命で成立した合衆国憲法が古代ローマ帝国の体制の復活であった。
ナポレオン・ボナパルトがクー・デターで権力を握ったとき、はじめはコンスルの制度を採用した。これは古代ローマの三頭政治の形式であった。そのあと皇帝に即位するが、それは古代ローマそのものであった。この場合、アメリカでも、フランスでも上院は古代ローマのセナトゥスの名をとり、フランスでセナ、アメリカでシネイト(議員をシネター)という。
こう見てくると、日本が日本の伝統的権威を持ち出してきたのは、当然のことといえよう。

2018年1月20日土曜日

小林良彰(歴史学者、東大卒)の西郷隆盛論、クロムウエルと比較する

まずは共通点を。市民革命の指導者として、動産の所有者の上層(この場合大商人、金融業者)と、様々な武装勢力の同盟を一人で代表する。撃破する相手は、大土地所有者の上層、大領主、正し支配するための形式は違う。実質は同じ。
撃破する相手は、日本では、幕府軍(徳川本家の旗本、御家人、旗本八万騎というが、実質三万程度)(当日の参加者はもっと少ない)と、最も特権的な地位にあった会津、桑名の藩兵であり、国際用語でいうと、日本貴族の最上層というべきものであった。
イギリス国王が代表するものは、領主、ランド・ロードの最強の部分、日本人になじみのあるものといえば、バッキンガム公爵、スペンサー伯爵(ダイアナ妃の実家)、サンドウィッチ公爵、ノーフォーク公爵、イギリス革命寸前の実力者は、ストラフォード伯爵(首相、ロード(財務大臣、カンタベリー大主教、教会は大領主)、革命前の強権政治を、ロード・ストラフォード体制という。
日本では、短期決戦で勝負がついた。負けた側は再び反撃するだけの能力を失った。イギリス国王は、ほとんど無傷の状態で撤退し、支持者の貴族を集めると、またロンドンを攻めた。ロンドンの中では負けるが、農村部と地方では強いという図式が出来上がった。だから、イギリス革命では、革命の出発点が頼りないものであって、いつひっくり返るかわからないと思われていた。「我々が99回戦って勝ったとしても、国王は国王であるし、一回負けるとしばり首にされてしまう」という悲観的な言葉も残っている。その点、日本では古代天皇制の復活という大義名分があったので、革命の側は意気盛んであった。
ロンドン、議会の中からクロムウエルが急速に頭角を現す。身分の低い地方貴族、しかし周辺の富農の若者を集め、騎兵隊を養成し、歩兵、砲兵を組み合わせて、ニューモデル軍を作った。これに、ロンドン大商人を代表して、議員のピムという人物が協力した。クロムウエルの騎兵隊はピューリタンの信念で理論武装されていて、「鉄騎兵隊」と呼ばれるほど勇猛果敢な集団になった。こうなると、国王を超える、神のご加護を背景にする集団ができた。その源流はスイス・カルヴァンの宗教改革から来る。こうなると、イギリス革命は宗教戦争の様相を呈してきた。これは強い。
ネースビの会戦で国王軍を撃破して以来、議会側がほぼ全土を支配することができた。しかし、クロムウエルは議会の手下になったわけではない。上院を廃止し、下院でも粛清を行い、実質的な独裁政権を作り、全国の権力は軍隊の将校が動かした。下級貴族の集団が権力の指導権を握ったといえる。1653年ロード・プロテクターの称号で、独裁者になった。これは古代ローマの「護民官」(ガイウス・グラックスの伝統)、日本では「護国卿」と翻訳する。国王にといわれたときに断って、こうしたのである。
しかし、5年後、彼は死ぬ。インフルエンザといわれているが、消耗しつくしたのかもしれない。死後すぐにクーデターが起こり、国王に融和的な長老派が権力を回復し、チャールズ2世を迎えて、復位を決定する。これが王制の復活であり、日本のいわゆる「王政復古」とは違う。日本では革命政権が、古代天皇制の復活と称した。革命で敗れたものが復活したという例は日本にはない。ところがこのレストレーションという言葉を、日本の明治維新に当てはめて、メイジ・レストレーションというから、国際的には、相互理解が不可能になってしまってる。
大商人と下級貴族の一時的同盟が分裂する。その時、クロムウエルは死んだ。西郷隆盛は生き残った。生き残るとどうなるか。答えは出ているだろう。
日本にもクロムウエルのように死んだ人もいる。小松帯刀、高杉晋作、坂本竜馬、中岡慎太郎、こういうところがそれになる。これは永遠に考えさせられる問題です。