2021年12月3日金曜日

02-フランス革命史入門 目次

 目次


まえがき


第一章 フランスの絶対主義

一 支配階級としての貴族

絶対主義君主の役割

権力を組織した宮廷貴族(大領主)

宮廷貴族と高級官職

国家財政の実権

高級官職の収入

国家財政に占める官職収入の比重

宮廷の官職

無用官職に高い俸給と副収入

年金制度と赤帳簿の濫用

財政危機にたいする宮廷貴族の責任

宮廷貴族が破産したという誤解

宮廷貴族は大領主

フランス絶対主義は大領主の権力集中

外国人領主の独立的存在

地方貴族の貧富の差

家柄万能の時代

法服貴族の権限

法服貴族の野党的発言

自由主義貴族の立場


二 ブルジョアジーと商工業

商業貴族

総徴税請負人

銀行家

商人

工業家

株式会社

ブルジョアジーは被支配者であった


三 諸階級の複雑な利害対立

高級僧侶と下級僧侶

都市のサンキュロット

土地所有と領地所有のちがい

地主、自作農、貧農

領主権廃止は農民革命にならない

王権と領主権の比重


第二章 フランス革命の開始

一 革命の原因ー財政の破綻

基本的原因は何か

宮廷貴族の財政的特権

貴族の減免税特権

貴族によるブルジョアジーの収奪

チュルゴーの政改革

ネッケルの財政改革

カロンヌの反動的財政政策

二 三部会召集をめぐる紛争

ブリエンヌの弾圧政策と抵抗運動

三部会召集の圧力

貴族革命論の誤り

三部会選挙をめぐる騒乱状態

レヴィヨン事件

三 バスチーユ占領

国民議会の宣言

国民議会解散の計画

王権による譲歩と弾圧政策

宮廷貴族の軍事クーデター

革命の成功


四 国民議会の権力

宮廷貴族の敗北と亡命

法律革命論の誤り

上層ブルジョアジーの勝利

財政政策の逆転

自由主義貴族の協力

大恐怖とバスチーユの相違

封建権利廃止の宣言の意味


五 ヴェルサイユ行進

国民議会の分裂

王権による反撃体制

国王と議会のパリ移転

亡命の第二波

ラファイエット派の勝利


第三章 フイヤン派の権力

一 革命の諸党派

僧侶財産の国有化とアシニアの発行

ネッケルの敗北と亡命の第三波

王党派的反対派

一七八九年協会またはラファイエット派

ジャコバンクラブ

コルドリエクラブ


二 国民議会の改革

財政改革

封建権利の部分的廃止

郡県制と地方自治法

第一身分と第二身分の廃止

ラメット派の台頭

ラファイエット派とラメット派の相違

総徴税請負人の敗北

商工業の自由をめぐる闘争

反領主暴動と労働運動の抑圧


三 国王の逃亡とシャン・ド・マルス事件

国王の逃亡計画

国王廃位の要求

フイヤンクラブの結成

シャン・ド・マルスの虐殺

憲法の制定

新制度にたいする左右からの非難

四 立法議会の初期

フイヤン派対左派

全般的繁栄と政治的安定

インフレ、買占め、暴動

インフレ対策

左派の攻勢

戦争問題とラメット派の後退


五 敗戦と八月一〇日の武装蜂起

ジロンド派内閣の政策

領主権の無償廃止について

ジロンド派内閣の失脚

フイヤン派政権の復活

封建貢租の無償廃止

フイヤン派のクーデター計画

武装蜂起の推進者

チュイルリー宮殿の襲撃

八月一〇日の結果

混乱した理論的解釈の実例


第四章 ジロンド派の時代

一 敗戦から勝利へ

ジロンド派による改革

立法議会と内閣の弱体化

パリコミューンの登場

九月二日の虐殺

虐殺の責任者

ヴァルミーの会戦

相次ぐ戦勝


二 国民公会の召集

国民公会の派閥

ジロンド派指導者

パリコミューンの抑圧

政治的安定

財政問題

穀物商業の自由をめぐって

戦争拡大論の定着

国王の裁判をめぐって


三 敗戦とジロンド派の後退

デュムーリエ将軍の反逆

破綻するジロンド派の政策

自由貿易主義の後退

食料危機と過激派の登場

過激派の煽動する食料暴動

革命裁判所の設立

穀物最高価格制の決定


四 ヴァンデーの反乱

初期の反革命運動

なぜ農民が反革命に転じたか

密輸人、収税人の反革命運動

王党派と革命軍の激戦

ジロンド派の対策


五 ジロンド派の追放

ジロンド派最後の攻勢

五月三一日、六月二日の武装蜂起

ジャコバン派の独裁は成立しなかった

平原派の力とブルジョアジー

モンタニヤールはサンキュロットか

ロペスピエールの独裁はなかった

ジロンド派追放の原因

累進強制公債をめぐる国民公会の分裂


第五章 恐怖政治の展開

一 過激派の攻勢と敗北

旧公安委員会への不満

公安委員会の改選

過激派の闘争と買占め禁止法

過激派の弾圧


二 恐怖政治の推進力

工ペール派と過激派残党の提携

九月五日の事件ー恐怖政治の出発点

大公安委員会の権限

内外の危機と革命裁判所の活動

一般最高価格制の効果

食料委員会と革命軍

過激派の消減


三 恐怖政治の効果

外国人銀行家の迫害

危機からの脱出

反資本主義的政策かどうか

工業の振興政策

恐怖政治が大工業を滅ぼしたことはない


第六章 フランス革命の終結

一 ダントン派とエベール派の没落

革命政権の腐敗

ダントン派の寛大政策

工べール派の極端政策

工べール派は人民の前衛か

工べール派の粛清

ダントン派の処刑


二 ロベスピエール派の敗北

モンタニヤールの分裂

ヴァントゥーズ法

土地革命への接近

反対派の抵抗

戦勝とロペスピエール派の孤立

反ロペスピエールの陰謀

テルミドールの反革命

ロペスピエール敗北の理由


三 モンタニヤールの消滅

ジャコパンクラブの終末

ジロンド派の復帰

ジェルミナルの暴動

プレリアルの暴動、パンと九三年憲法

恐怖政治の全廃

大ブルジョアジーの完全支配


第七章 フランス革命をどのように理解するべきか

一 革命史を長期的に見ると

総裁政府からナポレオンの帝政へ

王政復活から七月革命へ


二 フランス革命と明治維新の比較

フランス革命に土地革命はなかった

大工業は断絶しなかった

恐怖政治の過大評価をいましめる

政治革命論への逆戻りも正しくない

財政問題を忘れてはならない

フランス史への誤解が日本史への誤解を生む

日本におけるフランス革命史研究の意味


フランス革命史文献の解説、短評

フランス革命史関係文献一覧


01-フランス革命史入門 まえがき

フランス革命の歴史は、巻末にまとめられているように、じつに多くの書物になって紹介されている。そこにもう一つのフランス革命史をつけ加えようとすれば、それなりの存在理由を説明するところから始めなければならないだろう。

日本におけるフランス革命の紹介も、時代の流れを反映している。戦前の革命史はジャコバン、サンキュロットの流血行為を強調し、貴族、ジロンド派に同情する史観であり、左に進んでもせいぜいダントンを国民の英雄として評価する程度にとどまり、これを殺したロべスピエールの偏狭さが問題にされるようなものであった。また、軍国主義時代を反映して、フランス革命の戦争史、戦術史の紹介も盛んであった。箕作元八氏が人民史観の立場に立ち、革命にそれなりの理由があることを説いたとき、当時の進歩的歴史観を代表するものになったが、まだ政治史中心のわくを出られなかった。

戦後、科学的な革命史をめざして、経済問題を重視する風潮が急速に拡大した。もちろん、これは、戦前から進められていた日本資本主義論争の一環として、フランス革命の経済的内容の部分的紹介が行われていたことの延長でもあったが、戦後に入って、高橋幸八郎氏の土地問題、農民問題とマニュファクチュア、特権工業についての紹介が、新たな出発点となった。

それと並行して、ソプール、マチエのフランス革命史が翻訳されたが、ここには経済問題が盛り込まれていた。

ルフェーブルの著書も翻訳され、農民問題がクローズアップされた。これ以後、農民問題、マニュファクチュア、サンキュロットが研究の主流になった。ダントンにかわって、ロベスピエールが革命家の中心に据えられた。

かつては、恐怖政治はきらわれ者であった。今やこれが逆転して、ジャコバン、サンキュロットが評価された。そこまではよかったとしても、やがてこれが極端に進んだ。科学的と称し、人民史観を唱え、ジャコバン独裁、サンキュロットの権力を強調すれば、それで真理を語っているかのような傾向が進んだ。ここでフランス革命史の研究が硬直をはじめた。科学的と自称する非科学的な革命史家が多くなった。

私は、こうした条件をふまえて、まだ不十分と見られるテーマに研究領域を拡大した。残された重大問題として、権力の本質、財政問題、貴族とブルジョアジーの具体的な姿、国民公会における平原派の実態、土地問題の総合的観察、貴族、地主の大土地所有の残存などがあった。

これは、以前の革命史に欠けていたものであった。たとえば、「貴族」と書くが、その貴族がどのような領地をもち、どのような権力をもっていたかを説明しない。「ブルジョアジー」とはいうが、それが、どのようなものであったかの実例は入ってこない。

これでは、理論が宙に浮いてしまう。

そうしたところを補強して、もう一度フランス革命を見なおしてみると、従来のフランス革命史は、原因、結果の理解について、重大な誤りを含んでいるといわざるをえなくなった。それが何であるかが、本書において展開されている。

すでにこうした主張は一〇年前から『フランス革命経済史研究』、『フランス革命の経済構造』を出版して、展開している。しかし、これらはテーマ別の研究書であり、実証の部分が多すぎて、一般の人には入りにくい。日頃接している学生からも、通史を、この立場から書いて欲しいという要望が出ているので、本書を書くことは、かねてからの懸案になっていたのである。

本書の特徴を一口でいえば、政治と経済の絡み合いに焦点を当てたフランス革命史である。それが、従来の革命史とどのように違ってくるかを示すために、ところどころで、他の学説との比較を行っている。とくに、ソブールとマチエの革命史がよく読まれているので、その中の解釈と私の解釈を対比している。また、巻末に、日本で出版された主なフランス革命史の短評を書いて、本書との相違点を示す努力をした。

本書は、明治維新の解釈を念頭に置いたフランス革命史である。そのため、文末に、両者の対比を加えた。フランス革命をこのように解釈すれば、明治維新の解釈がこのように変るという形で、明治維新についての誤解を訂正しようとしている。ただ、原稿枚数も限られているので、とりあげた学説の原文を紹介することはできなかった。いずれ、筆を改めてそうした学説の批評をくわしく書いてみたいと思っている。

さしあたり、本書では、フランス革命の包括的な知識を得て、今まで日本に紹介されてきたフランス革命史の概要を知り、あわせて、従来積み重ねられてきたフランス革命史への誤解をとき、権力と財政の問題を主軸にしてブルジョア革命を把握していただきたいと思っている。


一九七七年八月四日

小林良彰 

2020年3月21日土曜日

コロナ社会は御膳文化で乗り切ろう。

コロナウイルスのいるところでは、人と人との距離が近いとよくない。家庭の団欒、鍋を囲んで、この楽しい時間が危ないという。とすれば、もう一度、日本古来の食事方法に立ち返ってはどうか。
「箸を交えて、親と称す。禽獣にも劣る」。これは尊王攘夷の志士有馬新七が書き残した文章である。仲が良いから箸を交える。これはとり、けだものに劣る人間だという意味であって、西洋人はこうだから、追い払わなければならないといった。
そうすると、今の日本人は、多くの人が動物以下だということになる。ちょうど今、コロナが警告してくれたから、原点に立ち返って、昭和初期以前の食事方法を振り返ってみよう。
食事は御膳で、その前で正座して食べた。人との距離は1メートル以上開いていた。主人(家長)は一人で、または一段高いところで妻子から離れて食べていた。奥様に至っては、一緒に食べない人もいた。全員の食事が終わってから、一人で、台所(キッチン)で食べる。その時ドア、扉を閉めて食べる姿を見せない人もいた。
子供たちが声を出すと、叱られた。口に含んだ食べ物を見せるのは下品だと叱られた。つまりは、黙って食べろというしつけであった。今のよう、に子供が大声を上げて食べるというのは、論外であった。
一人で食べる。声を出さない、この方法は、日本文化の伝統であった。ここに立ちかえればよい。ただ一つ、畳、正座に立ち返ることはできない。とすれば、脚のない、重箱方式の御膳を机、テーブルの上に置くしかない。これで距離をあける。これが基準で、あとは応用、工夫次第になるだろう。家庭版コロナ撃退方法である。

コロナ社会では手洗いとハンカチが重要、小林良彰

新型コロナの流行が続くかぎり、トイレの前の手洗いが重要だといいました。特に男は全員しなければなりませんが、そのほぼ全員がしていない。だから、家庭内の感染、流行の原因の多くは、お父さん、次に男の子になります。なぜかこういうことは、政府の発表にはありません。
さて、心を改めて、トイレに入る前に手洗いをするとして、濡れた手をどうするの、紙タオルが常備されていることになれているから、それを当てにするのですか。これではまた危険が伴う。公衆の場に常備されている紙タオルそのものに、新型コロナがついているかもしれない。
自分のハンカチで拭くしかないでしょう。ところが、この頃、ハンカチを持っている人が少ない。紙タオル常備の時代になれているからです。しかし、コロナの時代になると、また元の習慣に戻る必要が出てきました。自分のポケットに入っているハンカチならば、コロナウイルスはついていない。たとえ、その他のことで汚くても、新型コロナウイルスはいない。だから安心してこれで拭く。
男全員はハンカチを常備し、小用の前に手を洗い、自分のハンカチで手を拭くべし。そうすれば、手と槍の間をコロナウイルスが往復することがなくなり、家庭は安全になる。これをおろそかにする男を、女性は「ウイルスの運び屋」だと思えばよい。判別基準として、「ハンカチを持っているか」と聞くことにすればよい。
ついでながら、昔の男はハンカチではなく、腰に手ぬぐいをぶら下げていました。1950年代の学生などはそうでした。

2020年3月18日水曜日

小林良彰の緊急提言、新型コロナの消毒で足りないところ。

今から言いにくいことを言います。まだ世界中でだれも口にしていません。気が付かないのか、それとも、言い出しにくいのか。いうと、袋叩きにされないかな。
それでもいうのが私で、市民革命の理論もそういう流れの中で発表してきました。その意味では共通点がある。だからこのサイトを借りました。
手洗い、手の消毒、マスクとともに、これが基本です。それはもう万人が知っていて、実行しています。しかし、それで本当にその目的を達成しているのかな。なぜ手の消毒をするのか。それは、手からコロナウイルスが体の中に入り込むからではありません。粘膜から入り込みます。もう一つ、傷口(目に見えないほどの小さなものでも)からです。これ重要です。普通、この説明をするとき、目、鼻、口の粘膜を取り上げます。
さてお父さんが仕事場で、家庭で、手の消毒をする。しかし、通勤途上、手すりその他で少しウイルスが付いた。家に帰って、手の消毒をすればウイルスは退治することができたはず。しかし、途中で公衆トイレに入って、小用をしてきた。当然、槍を支えます。そのまま出てくる。この前後、多くの人が手を洗わない。特に前に洗う人はいない。後ろは最近増えたかもしれない。
まあそれはどちらでもよい。前が問題なのです。お父さんの手に少し着いたコロナウイルスが、槍の穂先で新居を構えて、じっとしている。お父さんは家に入って、念入りに手を消毒する。これで万全と思っていると、再度小用に行くから、手にも一部戻ってくることになる。こうして、お父さんは、家の中で、手と槍の両方にウイルスを持ったまま生活するのです。最後に粘膜との接触、微小な傷口、何を言っているかわかるでしょう。
これでどうなるか。いわなくてもわかるでしょう。お父さんだけでもないですよ。すべての人がこういうことで、病原体になるのです。
とても止めることはできないが、半分くらいに減らすことができるのは、トイレの入り口に消毒液を置いて、小用の前に手を清潔にするという風習を作ることでしょう。消毒液がなければ、せめて手洗いをしてからということにしてはどうですか。女性のことは言えないので、自分らで考えてください。「前に手洗いを」というのは、人類はじまって以来のことでしょう。

2019年9月13日金曜日

中国国民党と中国共産党の協力と分裂

1927年4月蒋介石は国民党の軍隊を率いて上海を占領した。もともと、彼がビジネスで成功した町であったから、旧知も多い。その最大のものは杜月笙であった。中国通称銀行の実力社長、その他有力企業のオーナー経営者、同時に暴力団チンパン(青幫)の親分でもあり、アヘン売買、賭博経営、闇商売も手掛けていた。
軍閥を追放したのち、こういう勢力が中国の支配者になった。これでブルジョアの支配は実現したから、、中国の市民革命は実現したといえる。
ただ現実はかなり複雑なものになった。北伐とは聞こえは良いが、出来立ての国民党軍隊が、大軍閥の正規軍と戦うのであり、勝ち目はなさそうであった。そこで、孫文が「連ソ容共扶助工農」のスローガンを打ち出し、国民党が攻めるとき、共産党が労働運動、農民運動を起こして、軍閥の背後を脅かすことで勝てる、このような方針を示した。だから、今でも、中国共産党指導者は、「孫文先生」と呼んで尊敬しているのである。
この方針は成功し、一年で中国南部を平定することができた。しかし、同時に、共産党に対する弾圧が始まった年にもなる。中国共産党は、「反帝国主義、反封建主義」を掲げていて、権力をとれば、外国資本を没収し、地主の土地を取り上げて、小作農に分配するという方針を唱えていた。そのため、勝ったところでこれを実行し始めた。これに慌てたのは、外国資本であり、その中心はイギリスとフランスであった。イギリスの砲艦は南京を砲撃した。もう一つの混乱は、地主所有地の問題であり、共産党は土地革命を実行し始めた。地主所有地を没収して小作農に与えるというものであった。しかし、国民党の有力者の中には、すでに金の力で土地を買い集めたものがいる。
こうして、国民党指導者の中に分裂が起きた。蒋介石は右派であり、早くから「容共」には反対であった。そこで、上海で共産党弾圧を始めた。彼と親しい財界人が協力した。これを批判したのは国民党武漢政府であったが、それでも、「労、農運動の行き過ぎが商工業者を引きはなしている」という表現であり、最終的には、共産党弾圧に向かった。
こうして、国民革命は商工業者、ブルジョアジー、実業家集団の権力となり、蒋介石がこれを代表した。その限り、国民革命は中国の市民革命になった。

2019年9月9日月曜日

国民革命が中国の市民革命になる。

1911年の辛亥革命から、1927年の国民革命までの約15年間は、まだ前近代的社会であった。支配者は地方の大土地所有者、それの代表者が集まって地方的権力を行使した。それをまとめる中央権力はなかった。ただし、イギリス、フランスその他の先進国の資本は、横断的に活躍し、軍閥の枠を超えていた。
1925年、孫文は、革命軍を率いて、広東軍閥を撃破した。こうして、中国全土から見ると小さな地域に市民革命が成功したことになる。しかしこれで喜ぶのはまだ早い。日本でも、ずっと昔、堺に商人支配の国ができた。しかし、内陸の強大な国家、織田信長の領国が成長すると、その圧力でつぶされた。孫文の時は、その逆が起きた。1926年、隣接する大軍閥、呉佩孚を撃破した。これで、歴史的には「北伐」といわれ、国民革命の名称が使われることになる。
国民革命の中心に大商人、実業家がいる。宗一族のことは前に述べた。孔祥熙は商人出身、広東軍閥打倒の先頭に立ち、広東国民政府実業部長になった。宗子文は広東政府財政部長、中央銀行行長、華僑商人の息子、孫文の樹立した中華民国臨時政府の大総統秘書をしていた。蒋介石は実業家陳一族に引き立てられ、上海の証券取引所で仲買人となり、半年で富商となり、孫文の下で広東政府参謀長になった。
このようにみてくると、国民革命が、商人、実業家集団の革命であり、広東の小国家だから広東の商人が推進するものと考えてはいけないことがわかる。上海その他の大都市で成功し、資金を持って広東にやってくるものが指導権を握っている。その限り、国民革命は西洋流に言うならばブルジョアジーの革命であり、ドイツ語でいうならば、ビュルガリッヘ・レヴォルチオンというのことになる。やがてこの勢力が、武漢、南京、上海を占領して、市民革命を全土に広げることになる。