2022年5月20日金曜日

02-市民革命―毛沢東の歴史理論の間違い

2 毛沢東の歴史理論のまちがい


ブルジョア革命と民主主義

毛沢東は、一九四〇年に『新民主主義論』を発表した。ここで、かれは、独特の歴史理論をつくりあげた。これが、中国近代史の時代区分を誤まらせるもとになった。しかも、その理論は、ひじように混乱し、多くの誤解のつみ重ねのうえにきずきあげられたうえ、そのまちがいはまちがいなりにすじがとおされているので、いまだにすっきりした正解が出てこない。いまから、国民革命の正確な理解のうえにたって、そのもつれをほどいてみよう。

国民革命は、ブルジョア革命であった。ところが、毛沢東はちがうという。中国のブルジョア革命は、かれが論文を発表した一九四〇年でも、まだ完成していないという。だから、いぜんとして、毛沢東たちはブルジョア革命の運動をつづけているのだという。

「中国革命の歴史的特質は、革命が民主主義と社会主義との二つのあゆみにわかれることであり、その最初のあゆみは、現在では、もはや一般的な意味での民主主義ではなく、中国的な、特殊な、新しい型の民主主義であり、新民主主義である」

「この最初のあゆみの準備段階は、すでに、一八四〇年のアヘン戦争から、すなわち、中国の社会が封建社会から半植民地的・半封建的な社会にかわりはじめたときから、はじまったものである。大平天国運動、清仏戦争、日清戦争、戊戌政変、辛亥革命、五・四運動、北伐戦争、土地革命戦争から今日の抗日戦争にいたるまでのこの多くの個々の段階は時間的にはまる一〇〇年も経過しているが、ある点からいえば、それはすべてこの最初のあゆみに属し、それぞれの時期の、それぞれの程度での中国人民のこの最初のあゆみに属している。それは帝国主義と封建勢力に反対し、独立の民主主義社会をうちたてるためにたたかったものであり、最初の革命を達成するためにたたかったものである。そして、辛亥革命は、より完全な意味での、この革命の発端となった。この革命は、その社会的性格からいうと、ブルジョア民主主義革命であってプロレタリア社会主義革命ではない。この革命は、現在でもまだ達成されていないし、なお多くの努力をそそがなければならない。それは、この革命の敵が、ずっと今日まで、なお非常に強い力をもっているからである。孫中山先生が『革命なおいまだ成功せず。同志よ、さらに努力せよ』と言ったのは、このようなブルジョア民主主義革命のことである」(『毛沢東選集』第五巻、三一書房、一六~一七頁、傍点は筆者による)

「この革命は、現在でもまだ達成されていない」というのは、一九四〇年の時期でも、まだ、ブルジョア民主主義革命は達成されていないというのである。これが誤解への第一歩である。

国民革命で、ブルジョア革命はおわったのであり、達成された。ただし、民主主義は、実現していない。ここに、ちょっとした問題がある。民主主義を実現しなければ、ブルジョア革命とはみとめられないかということだ。毛沢東は、そう思っているらしい、だが、これは歴史の事実を無視した考えかたである。フランス革命でも、そのあとにきたナポレオンは、民主主義を廃止した。イギリス革命が、もっとも急進的になったときは、クロムウエル独裁であり、そこに民主主義はない。民主主義は社会の動揺のなかで、あらわれては消える。フランス革命の普通選挙制は、せいぜい一七九二年から、一七九五年の短い期間にすぎなかった。それがすぎると、たちまち消されてしまった。これは、一つのエピソードにすぎない。このようなエピソードならば、辛亥革命ののちにも、国会が召集され、国民党が多数参加したあげく、袁世凱によって弾圧、解散させられたという事実もある。

フランス革命ですら、民主主義を絶対的な成果として、守りつづけたわけではない。だから、「ブルジョア民主主義革命」でなければ「ブルジョア革命」でないというようないい方は、まちがいである。ブルジョア革命と民主主義は、きりはなして論じるべきである。国民革命は、ブルジョア革命であった。しかし、民主主義は、実現しなかったというべきである。


基本任務の思いちがい

国民革命がブルジョア革命でないと、毛沢東がいうとき、その理由を二つのことにもとめる。

それは反帝国主義と土地革命の二つの基本的任務を実現しなかったからという理由である。たしかに、国民革命は、この二つのことを実現しなかった。

だが、ブルジョア革命であるかないかを判定する基準は、この二つのことだとだれがいえるのか。この二つの基準は、毛沢東が、勝手につくったものである。だいたい、フランス革命では、毛沢東の理解しているような土地革命が実現されていない。フランス革命も、国民革命とおなじく、貴族、商人、富裕農民の大土地所有をのこしたのである。地主の土地を、小作農にあたえたようなことはなかった。

反帝国主義の任務というのは、フランス革命でも、イギリス革命でももつはずがない。だから、これは特殊性の問題であり、個別性の問題である。フランスのブルジョア革命には、反帝国主義の任務はなかったが、中国のブルジョア革命のときには、その問題がつけくわわったというべきである。そのようなちがいがあるのに、なおかつブルジョア革命としての共通点はなにかと問うべきである。その共通点があれば、国民革命は、ブルジョア革命だといえる。それが、前章で分析したような、権力と財政の問題である。反帝国主義の問題が解決されていなくても、ブルジョア革命であるかないかをきめる基準は、べつにある。

反帝国主義と土地革命を徹底的に実施することは、毛沢東と中国共産党の考えた基本任務であり、それは、ブルジョア革命のものではなく、かれらプロレタリア革命家の希望であった。

それを実現しないからといって、国民革命はブルジョア革命でないというのは、自分の主観的希望というものさしで、客観的事実をはかっていることになる。かれの文章について、その混乱ぶりをみてみよう。

「帝国主義打倒のスローガンや中国の全ブルジョア民主主義革命の徹底した綱領は、中国共産党が提起したものであり、土地革命は中国共産党だけが遂行した」

「中国の民族ブルジョアジーは、植民地・半植民地国のブルジョアジーであり、帝国主義の圧迫をうけているため、帝国主義時代におかれながらも、ある期間には、またある程度は、外国帝国主義に反対し、また自国の官僚・軍閥政府に反対する(この後者についていうと、たとえば辛亥革命の時期および北伐戦争の時期がそうであった)革命性をたもっていたので、プロレタリアートや小ブルジョアジーと提携して、自分たちの敵とたたかうことができた」

「だが、同時に彼らは、植民地・半植民地のブルジョアであり、経済的にも政治的にもきわめてよわく、そのうえ、もう一つの性格、すなわち、革命の敵に妥協する性格をもっている。中国の民族ブルジョアジーは、革命の時期においてさえも、帝国主義と完全に手を切ることをのぞまない。しかも、彼らは、農村では、小作料による搾取とかたくむすびついている。したがって、帝国主義を徹底的にうちたおすことをのぞまいし、またできもしない。まして、封建勢力にたいしては、なおさらそうである。だから、中国におけるブルジョア民主主義革命の二つの基本問題、二つの基本任務は、いずれも中国の民族ブルジョアジーによっては解決されえない。国民党によって代表される中国の大ブルジョアジーは、一九二七年から一九三七年のこの長い期間にわたって、ずっと、身を帝国主義のふところに投じてきたし、また封建勢力と同盟をむすんで、革命的な人民とたたかってきた」

「この点も、中国のブルジョアジーが欧米諸国の歴史におけるブルジョアジー、とくにフランスのブルジョアジーとちがっている点である。欧米諸国では、とくにフランスでは、それらの国がまだ革命時代にあったころは、それら諸国のブルジョアジーは革命の遂行にかなり徹底的であった。中国のブルジョアジーはこの点での徹底性さえもっていない」(同二五~二六頁)。

毛沢東は、中国のブルジョアジーと国民政府が、地主制をのこしたことを、封建勢力と同盟して、人民とたたかってきたという。このいいかたにも問題がある。たしかに、土地革命をもとめる農民運動を弾圧して、地主制をまもった。そのかぎりでは、同盟している。だが、軍閥官僚地主の、権力をうばい、かれらを二流の支配者、地方的な支配者に叩きおとし、ときには、かれらの地主的土地所有を喰いあらしていったのである。だから、この同盟は、単純な同盟ではなく、一度たたいておいて、つぎに目下の同盟者としてかかえこんだという程度のものである。そこに、あきらかな、力関係の変化がみとめられる。

ところが、毛沢東は、その力関係の変化をみとめていないようだ。それは一九二七年から三七年の時期についてのつぎのような言葉についてうかがわれる。

「反革命のがわでは、帝国主義に指揮された地主階級と大ブルジョアジーとの同盟によってる専制主義をおこなった」(同、六五頁)。

このようないい方が、国民革命の見方をまちがわせた。かれは、フランス革命のブルジョアジーが、もっと徹底的だというが、そのようなことはなく、地主制も保存し、旧貴族の多くを上流階級の人間としてのこしている。東洋人は、ややもすると、西洋を美化し、必要以上に模範的に考えるくせがある。これなども、その一例だろう。軍閥も地主とブルジョアジーの権力だという言い方がある(日本では多い)。もし、そのようにあいまいに考えていると、国民革命で、何らの変化もなかったのだというふうな誤解がでてくるだろう。


錯覚が錯覚をうむ

国民革命がブルジョア革命でないという錯覚は、つぎのおもいちがいを毛沢東におこさせた。

それはまだ自分らが、いぜんとしてブルジョア民主主義革命をめざしているのだというおもいちがいである(五二頁参照)。

ところが、それにしてはすこしおかしいことがある。どこの国でも、ブルジョア革命では、ブルジョアジーが権力をにぎったのである。ところが、毛沢東のめざしているのは、自分が権力をにぎろうとしている革命である。そして、かれらはブルジョアジーの代表者ではない。そこで、毛沢東は、かれらのおもいちがいを、植民地・半植民地の革命の一般理論として、それなりにすじをとおしてしまった。そこに、ますますこみいった問題がでてきたのである。

「このような植民地・半植民地の革命の第一段階、すなわち、最初のあゆみは、その社会的性格からいうと、基本的にはいぜんとしてブルジョア民主主義的なものであり、その客観的な要求は、資本主義の発展のための道をはききよめる。だが、このような革命は、もはやブルジョアジーに指導された資本主義の社会とブルジョア独裁の旧い型の国家を樹立することを目的とする旧い型の革命ではなくて、プロレタリアートに指導された、第一段階では新民主主義の社会と革命的諸階級の連合独裁の国家を樹立することを目的とする、新しい型の革命である」

(同、一九頁)。

よそ目でみると、国民革命でブルジョア革命はおわったから、毛沢東は、社会主義革命をめざして国共内戦をつづけているのであるが、本人は、ブルジョア革命がおわっていないとおもっているから、「プロレタリアートの指導するブルジョア革命」をめざしているとおもっている。これを新民主主義革命と名づける。かれの見とおしによると、将来には、新民主主義革命のつぎに、社会主義革命が待っているということになる。

「この革命の最初のあゆみ、すなわち第一段階は、けっして中国ブルジョアジーの独裁する資本主義社会を建設することではなく、また建設できるものでもなくて、中国プロレタリアートを先頭とする中国の革命的諸階級の連合独裁のもとでの新民主主義社会を建設することであり、これによって、この第一段階はおわる。そして、その後には、さらにこれを第二の段階に発展させて、中国の社会主義社会をうちたてる」(同、二三頁)。

「中国革命は二つの歴史的段階にわかれ、その第一段階は新民主主義革命である。これは中国革命のあたらしい、歴史的特質である」(同、二四頁)。

「このような新民主主義共和国は、一方では、旧い形態の、欧米型の、ブルジョア独裁の資本主義的共和国とは異なっている」「しかし、それは他方では、ソヴェト同盟型の、プロレタリア独裁の、社会主義の共和国とも異なっている」「だが、そのような共和国は、ある歴史的時期のあいだはまだ植民地・半植民地国の革命に適用することはできない。したがって、あらゆる植民地・半植民地国の革命がある歴史的時期のあいだとりうる国家形態としては、第三の形態のほかにない。それが新民主主義共和国といわれるものである」「したがって、全世界の多種多様な国家体制も、その権力の性格からわけると、基本的にはつぎの三つよりほかはない。すなわち(一)ブルジョア独裁の共和国、(二)プロレタリア独裁の共和国、(三)いくつかの革命的諸階級の連合独裁の共和国がそれである」「第一のものは、旧い民主主義の国家である」「第二のものは、ソヴェト同盟に存在している」「第三のものは、植民地・半植民地国家の革命がとる過渡的な国家形態である」(同、二七~二八頁)

「現段階の革命の基本任務は、主として外国の帝国主義と自国の封建主義とたたかうことであり、ブルジョア民主主義革命であって、まだ資本主義をくつがえすことを目標とする社会主義革命ではないからである」(同、六七頁)。

こうして、「植民地・半植民地」→「新民主主義革命」→「社会主義革命」という図式ができあがった。この図式は、中国で、正しいものとされている。そこで、現在の「文化革命」を、最後の段階のものとおもっているようなふしがある。林彪副主席の演説がそれである(昭和四二年一一月六日)。

「毛主席は、この問題を解決して、勝利のうちに史上初のプロレタリア文化大革命を指導した」(一一月七日付の『朝日新聞』)。

だが、これはおもいちがいである。毛沢東は、新民主主義革命が、ロシア社会主義革命とブルジョア革命の中間のものだというが、そうではない。ロシアの歴史と比較するなら、国民革命が、ロシアの三月革命(旧暦の二月革命)とおなじくブルジョア革命であり、いわゆる「新民主主義革命」は、ロシアの一一月革命(旧暦一〇月革命)とおなじく、社会主義革命である。だから、ソ連とおなじく、共産圏、社会主義圏に入るのである。ただ、両者のいちばん目立ったちがいは、新中国に民族ブルジョアジーが参加していることである。これは、前にのべたような事情、すなわち、中国が半植民地国であり、かつ四大財閥の横暴がひどかったことから実現した。しかし、このときの民族ブルジョアジーとは、主流ではなく、脱落者であり、主流は外国資本と四大財閥である。そして、主流となる勢力は敗北した。だから、基本的にはおなじであり、同盟者の構成に特殊性があるというべきだ。


過渡期と目標の混同

毛沢東のまちがいは、さらにすすむ。それは、かれが、「新民主主義革命」の内容を「抗日統一戦線」だと理論づけたことだ。

「このような新民主主義の国家形態は、抗日統一戦線の形態である」(同、二九頁)。

これは、あきらかなまちがいである。抗日統一戦線とは、日本軍に抵抗するすべての勢力の同盟だった。そのなかには、蒋介石の国民党も入っていた。入らないものは、汪精衛に代表される、親日派のみであった。この同盟をつくるためには、土地革命や、資本の国有化政策をひっこめなければならない。それどころか、八時間労働制もひっこめて、一〇時間労働制でがまんした。

「親日派の大ブルジョアジーは、はやくから徹底的に日本に降伏し、あやつり人形の登場を準備している。欧米派の大ブルジョアジーは、いまなお抗日をつづけているが、妥協的傾向がいぜんとして大きい。・・・・・・かれらは、抗日統一戦線内の頑固派である。中間勢力には、中位のブルジョアジー、進歩的な地主および地方の実力派がふくまれており・・・・・・かれらは抗日統一戦線内の中間派である。共産党の指導下にあるプロレタリアート、農民および都市小ブルジョアジーの進歩勢力は・・・・・・抗日統一戦線内の進歩派である」(「現在の抗日統一戦線における戦術の問題」、『毛沢東選集』、第五巻、一三二頁)。

「労働政策について。・・・・・・中国の現状のもとでは、八時間労働制を普遍的に実施することはまだむずかしく、ある一部の生産部門では、十時間労働制がなおゆるされなければならない。・・・・・・労働者はかならず労働規律をまもり、資本家に利益をあげさせなければならない。そうしなければ、工場は閉鎖される。それは、抗日にも不利になるし、労働者にも損になるであろう」

「土地政策について、現在が、徹底した、土地革命を実行する時期ではなく、過去の土地革命時代の一連の方策をいまの時期に適用することができないということを、党員や農民に説明しなければならない。現在の政策についていえば、一方では、地主が小作料・利子の引下げを行なうよう規定すべきであり、そして、はじめて、基本的な農民大衆の抗日への積極性をよびおこすことができる。だが、しかし、引下げすぎてはならない。小作料は、一般に二割五分引下げを原則とすべきである」

「徴税政策について。・・・・・・負担をすっかり地主や資本家におしつけてはならない」

「経済政策について。・・・・・・外部の資本家で、わが抗日根拠地にきて事業をおこしたがっているものはこれを吸収しなければならない。民営企業を奨励し、政府経営の国営企業はたんに全企業の一部とみなすべきである」

「国民党の軍隊にたいしては、ひきつづき、犯されず、犯さずの政策をとり、できるだけ友好関係をのばすべきである」(「政策について」、『選集』第五巻、一六三~一六七頁)。

さて、かんじんなことは、この抗日統一戦線と、いわゆる「新民主主義革命」とが、まったくちがう内容をもっていることである。日本が敗北し、つづいて国民党と共産党との全面的な内戦がはじまり、国民党が敗北して、中華人民共和国の成立が宣言されたとき、うちだされた経済政策といえば、外国資本、官僚資本=四大財閥の没収、土地革命=地主の土地没収である。国民党との共存政策はけしとんだ。つまり、この時期には、抗日統一戦線の内容がすてられ、「過去の土地革命時代」の方針にもどったのである。だからいわゆる新民主主義革命は、抗日統一戦線とおなじものではない。そのことは、毛沢東自身もべつのところでいっていることである。

「中国で樹立されるこのような共和国は、・・・・・・経済においてもまた新民主主義的でなければならない。

大銀行、大工業、大商業は、この共和国の国家的所有となる。・・・・・・

この共和国は、将来ある種の必要な方法によって、地主の土地を没収し、それを土地のない農民や土地のすくない農民に分配し・・・・・・農村における封建的関係を一掃し、土地を農民の私有にうつすであろう」(「新民主主義論」、同、第五巻、三一~三二頁)。

これで、毛沢東の自己矛盾はあきらかだろう。かれは、「新民主主義革命」の目標として、土地革命、大資本の没収を考えた。だが、抗日統一戦線をつくったときには、この目標をひっこめていた。そして、抗日統一戦線の時期がおわり、国共内戦の時期になって、もとの目標にむかった。抗日統一戦線の形態とは、新民主主義革命ではなく、国共内戦よりも、抗日が大問題となったときの、一時的な過渡期の政策であり、それは、国民革命と新民主主義革命の中間にあるものにすぎなかった。

毛沢東は、過渡期と目標を混同したのである。もし、どうしても新民主主義と抗日統一戦線をおなじものといいたいのなら、そのあとでできた、中華人民共和国を新民主主義というべきでない。経済の内容がちがうからだ。じっさい、中国で、外国資本と四大財閥の資本を没収すれば、基本的な資本をすべて没収したことになる。まして土地革命も実行したのだから、新中国の成立とは、基本的にロシア一〇月革命とおなじ社会主義革命であったというべきである。

こうして、中国近代史の時代区分は、すっきりしたものになる。国民革命は、ブルジョア革命であった。(いわゆる新民主主義革命、すなわち一九四九年の新中国の成立は、社会主義革命である。抗日統一戦線とは、そのあいだの過渡期にすぎない。

毛沢東は、まず、フランス革命をなにかひじょうに徹底的なものと信じこんだ。そこで、国民革命をブルジョア革命でないと思った。そこから、理論的なむりをかさねて、ついに自分のしていることの歴史的な評価を見失ったのである。

 

01-市民革命―中国の市民革命

 1 中国の市民革命

はじめに

ここで、まずはじめに中国の問題をとりあげるのは、二つの理由からである。一つは、日本の隣国であり、よかれあしかれ、日本人は中国の影響をうけ、そのため日本人の中国への関心も強いからである。二つは、中国のブルジョア革命の時点が、まだはっきりとみとめられず、そのため、中国史の時代区分がひじょうに混乱しているからである。ここでは、国民革命が、中国のブルジョア革命であることを証明しようとおもう。この証明が正しければ、毛沢東の歴史理論がまちがいだということになる。毛沢東の歴史理論は、国民革命がブルジョア革命を完成させていないというところから出発する。

これは、毛沢東の『新民主主義論』で、はっきりと打ちだされたものである。それによると、国民革命は、ブルジョア民主主義革命の任務を果たさなかった。だから、その課題は、ひきつづき中国共産党の解放戦争にもちこまれた。そこで国共内戦の時期の、中国共産党のめざす目標は、新しい型のブルジョア民主主義革命だとされる。それを新民主主義革命と名づけた。毛沢東によれば、これは、フランス革命のような古いブルジョア革命でもなく、ロシア一〇月革命のような社会主義革命でもない。第三の、中間の型の革命だという(五九~六〇頁参照)。

そこで、一九四九年の新民主主義革命が完成したのちに、新民主主義革命から社会主義革命へという方針がうちだされた。それが、今の文化革命だと思っているかいないかは、わからないとしても、ともかく奇妙なことは、第三の型の革命を行なったというのに、常識では、中国がソ連と同じく、共産圏もしくは社会主義圏のなかに含まれていることである。常識では、中国の一九四九年に完成した革命(いわゆる新民主主義革命)が、ロシア一〇月革命とおなじものであると思われている。それならば、国民革命は、ブルジョア革命ではなかったのか、という推理もできる。ところが、毛沢東はちがうというのである。そこで、ちがうという根拠をしらべてみると、かれもかれなりに、フランス革命と国民革命を比較して、結論をひきだしている。

はたしてその対比のしかたは正しかったか。つまり、毛沢東の、フランス革命にたいする見方は正しかったかどうかというのである。この点に目をむけてみると、明治維新とフランス革命を比較するときに、日本人がフランス革命を誤解していたのとおなじ誤解を見ることができる。日本人が、いかにフランス革命を誤解していたかということについては、すでに別の書物で指摘しておいた(拙著『フランス革命経済史研究』、『明治維新の考え方』)。おなじように、毛沢東は、フランス革命を、何かひじように徹底的なものとして理解し、そのようなものが、国民革命ではなされていないことを強調している。ここに、東洋人が、西洋をみるときの色眼鏡ともいうべきものをみることができる。その色眼鏡をとりはらってみると、中国史の分析は、もっとちがったものになるだろう。私の研究によると、国民革命は、フランス革命とおなじく、ブルジョア革命である。だから、新民主主義革命とよばれるものは、ロシア一〇月革命とおなじものだということになる。これによって、近代中国史の時代区分は、きわめてすっきりしたものになる。以下は、そのような角度からする分析である。なお辛亥革命がブルジョア革命であるという意見もあるが、あとでみるように、そのあとにきた軍閥の時代がまだ一種の封建制度であるため、そのような意見は論外だとしたい。


基本理論

まず、ブルジョア革命とはなにか、ということをきめておかなければならない。もしこれについて、まちがった考え方をもち、それをあてはめようとすると、なにもかも狂ってしまう。

ブルジョア革命の中心は、土地革命だという考え方がある。この土地革命という言葉についての解釈は、人によってまちまちだが、もっとも常識的には、地主の土地を没収して、小作人や農業労働者に与え、自作農をつくりだすものとされていいる。こういう考え方を明治維新にあてはめると、明治維新は、地主制をのこしたから、ブルジョア革命ではないという結論になる。おなじく、国民革命も、地主制をのこしたから、ブルジョア革命ではないということになる。そうすると、イギリス革命も、アメリカ独立革命も、ロシア二月革命も、そうではないということになる。

これはおかしいのであって、その誤解のもとは、フランス革命の土地問題から、正確な結論をひきださなかったことによる。私の研究によると、フランス革命は、貴族の大土地所有、商人や富農の大土地所有をのこしたのであり、フランス革命でも地主制をのこしたのである。だから、ブルジョア革命の任務は、土地革命ではない。

ブルジョア革命の任務は、商業資本にたいする産業資本の勝利だという説もある。このばあい、商業資本には、特権的、前期的、寄生的性格があるものとされ、産業資本は、自生的な産業経営からでてきたものとされる。そうすると、明治維新で三井などの大商人が、新政府とむすんだことは、ブルジョア革命ではないことをしめすものだといえる。おなじく国民革命で、国民党がむすんだ商人、銀行家が、とても「産業資本」とよびうる性資のものでないから、ブルジョア革命ではないともいえる。

これも、私の研究によると、フランス革命にたいする誤解からきている。フランス革命でも、いわゆる「商業資本」は、敗北せずに生きのこったのであり、生きのこったものは、革命後の政権の支柱になった。だから、商業資本にたいする産業資本の勝利は、ブルジョア革命の任務ではない。

それでは、基本的任務はなにかということになる。それは、権力と財政の問題である。絶対主義は、封建制度の最後の段階であり、そこでは、領主の一派が国家権力をにぎり、国家財政を自分の利益になるように利用していた。他の領主は権力からしめ出され、たんなる地方的な支配者にとどまった。大商人、上層ブルジョアは、かなり王権にくいこんだが、権力をにぎるまでにはならず、王権とのあいだには、一面協力、一面敵対の関係があった。それを図示すると、つぎのようになる。


王=領主の一派

-領主の多数Ⅱは全面協力

-ブルジョアⅠは一面協力、一面敵対


国家財政が赤字となり、その負担がブルジョアジーに転嫁され、破産するか、反抗するかの問題をつきつけられたとき、革命がはじまり、領主の一派の組織する権力は破壊され、ブルジョアの上層が権力をにぎる。それとともに、財政政策が転換し、領主を犠牲にして、ブルジョアジーと商工業の発達のために、国家財政が利用される。これが、フランス革命で、無条件に実現されたものであり、これがブルジョア革命の基本的成果だと考えられる。

そのほかのことは、副次的なものであり、特殊的なものであり、基本的なものではない。

これをまとめるならば、つぎのようにいえる。封建制度の時代は、上級土地所有権の所有者が、権力と財政の実権をにぎっている。ブルジョア革命は、その権力を破壊し、ブルジョアの上層の手にうつす。それとともに、財政の実権がうつり、ブルジョアジーと商工業の発展に利用される。これが各国で実現されたのはいつであるか、というのが問題である。


政治史のまとめ

社会経済史的な分析に入るまえに、政治史をまとめておこう。

「明」の末期に、満州方面のツングース族(女直、女真ともいう)が建国して「清」と称した。明と清が戦争しているうちに、明の西部で李自成のひきいる反乱がおこり、反乱軍は北京を占領し、明の皇帝は自殺した。明の将軍呉三桂は、清に降伏し、清軍を手びきして李自成を攻めた。こうして、満州人は中国に侵入し、一六七三年の三藩の乱で呉三桂も滅ぼされ、中国は満州人が支配するようになった。これが清である。

大平天国の乱のとき、満州人が敗北をかさねて弱体ぶりをさらし、かえって、漠人地主の曽国藩、李鴻章などが、義勇兵を組織して、これを滅ぼすのに腕をふるった。そのあとにくる「同治中興」の時代に、漢人地主は高級官僚となって権力の座にくいこんだ。

一八九八年、「戊戌変法」を行なった光緒帝を、西太后が幽閉して「戊戊政変」をおこしたとき、李鴻章の後継者袁世凱(エンシーカイ)は、武力を提供して協力した。

一九〇八年、西太后が死に、三歳の宣統帝が即位すると、それをとりまいて満人内閣が成立し、袁世凱など漢人官僚は追放された。いわば、大平天国以前の状態にもどり、満州人の独裁が復活した。

これとは別に、孫文を中心とした中国革命同盟会が、一九〇五年に結成され、革命をめざしていた。一九一一年、鉄道国有令をきっかけにおこった四川暴動から、一〇月の武昌新軍の反乱に発展し、一九一二年一月、孫文を総統とした中華民国臨時政府が成立する。だが、袁世凱は、清朝から独裁権をあたえられて革命軍を攻撃しながら、妥協をこころみ、自分が中華民国の大総統になり、孫文を辞職させ、他方で宣統帝を退位させて満州貴族を追放した。

ここで満州人の支配はきえた。だが、それにかわって袁世凱の独裁がはじまった。孫文、宗教仁は、国民党を組織して袁に対立したが弾圧された。一九一六年、袁が二一カ条要求を受入れ、皇帝に即位すると、雲南で反乱がおこり、各省が独立を宣言し、袁は皇帝の地位をとりけし、妻子と妾を切り殺して狂い死にした。これからのちは、軍閥割拠の時代である。

北京では、段祺瑞(トワンスーチン)が総理となって袁の権力をひきつぐが、もはや全国に命令する実権をもたなかった。安徽の孫伝芳(スンチュワソノー)、河南の呉佩孚(ウーペイフー)、山西の閻錫山(イエンシーシャン)、甘粛の馮玉祥(フエンユイシャン)などをはじめとする大小さまざまの軍閥が争い、勢力の交代もはげしかった。北京政府は、のちに奉天軍閥張作霖(ツァンツオリン)の手に入った。

孫文は、一九一七年、広東政府をつくり、国民党の拠点とした。五四運動ののち中国共産党が結成されると、孫文は連ソ容共扶助工農の方針をうち出し、国共合作をすすめた。二五年孫文が死ぬと、蒋介石を中心とした国民党右派が力を強めてきた。二六年七月国民革命軍の北伐がはじまった。二七年三月上海を占領すると、蒋介石は共産党を弾圧し、南京に国民政府をつくった。七月、武漢でも国民党左派の汪精衛(ワンチンウェイ)が共産党を弾圧し、国共合作はおわった。

これから、蒋介石は国民政府だけの軍事力で北伐をつづけ、北京から張作霖を追放し、各地の軍閥を服属させて統一を強めた。他方、中国共産党は、書記長陳独秀(ツエントウシュー)を追放して、土地革命の方針をうち出し、瑞金に中華ソヴィェト臨時共和国をつくった。三〇年から三三年にかけて、蒋介石は五回の掃共戦をすすめたが成功せず、三四年に共産党は長征をはじめ、三五年に毛沢東の指導権が確立した。

これとはべつに、日本は三一年満州事変をおこし、張学良(ツアンシユリャン)の軍閥政権をたおして、満州国をつくり日本に服属させた。三七年日本軍が全面的に侵入し、抗日統一戦線が結成された。第二次大戦ののち、四六年国共分裂がおこり、人民解放軍は、土地改革、四大家族財産の没収の方針をうちだし、攻勢に転じ、四九年中華人民共和国の成立が宣言された。


辛亥革命の敵対者

清朝の支配者は、満州人貴族である。かれらは、軍団に編成されて、全国の要所に住み、漢人=中国人を支配した。日本にたとえるならば、日本の武士階級が満州人で、町人以下が漢人だといえよう。

満州貴族は、封建的大土地所有者である。かれらは、「旗地」という私有地をもち、小作させていた。べつに「官田」からあがる年貢は、満州人の生活にあてられた、そのほかの土地は漢人が所有し、その土地には銀で徴収する租税(地丁銀)がかけられた。だから、この時代は、封建制度の時代である。なぜなら、封建的大土地所有者が、全国的な規模で権力をにぎり、財政を自由にしているからである。

満州貴族は、支配者として、商人ブルジョアにも課税した。当税(とうぜい)(質屋の営業税)、牙(が)税(仲買人の営業税)、落地税(一種の市場税)、釐金(りんきん)税(国内を通る商品にたいし、価格におうじてかける租税)などがあり、この金額も清朝の末期になるほど多くなった。こうして、商工業者の清朝にたいする反感がつよまってきた。かれらは、孫文の中国革命同盟会の後援者となった。

宋耀如(ソンヤネヅー)は、海南島出身の華僑で、大財産の持主だった。かれは、孫文に献身的な援助をあたえ、その次女の宋慶齢(ソンチンリン)は孫文の秘書となり、結婚した。彼女は現在、中国の副主席である。

文化大革命のさなか、紅衛兵が、彼女はぜいたくな暮しをしていると攻撃したことがあった。その非難はすかさず、周恩来首相によっておさえられた。この二つの記事は、彼女の歴史的位置のふくざつさをあらわしているものだ。宋の末娘の宋美齢(ソンメイリン)は、蒋介石夫人となって今は台湾にいる。

息子の宋子文(ソンツーウエン)は、のち中国四大財閥の筆頭になり、今でもアメリカと台湾に巨大な財産をもっている。

孔祥燕(コンツヤンシー)は、山西省の高利貸、為替業者で地主という家に生まれ、織物、石油、顔料の取引店を天津、上海、重慶に経営していた。辛亥革命に参加し、しばらく山西軍司令官になった。かれも、のちに四大財閥の一人になり、今は、台湾、アメリカに大財産をもち、アマゾン流域の大地主でもある。

かれの妻は、宗慶齢の姉の宗靄齢(ソンアイリン)である。ごくさいきん死んだ。

陳其美(ツエンチーメイ)は、上海の淅江財閥の政治代表者である。かれは、蒋介石を孫文にひきあわせて、中国革命同盟会にひきいれ、辛亥革命で上海を占領し、上海都督になった。その子陳立夫(ツエンリーフー)と甥の陳果夫(ツエンクオフー)は、のちに四大財閥の一つ陳家をつくり、国民党の特務機関CG団を組織した。

孫文が南京に中華民国臨時政府をつくり、大総統になったとき、張静江(ツアンチンチャン)や虞洽卿(ウーチャーチン)が熟心に援助した。張静江は、資産数百万両をもち、孫文、蒋介石を援助し、蒋介石の同郷の先輩として、蒋を浙江財閥にむすびつけた。この運動のため財産の多くを失うほど献身的に援助した。

虞洽卿は、オランダ銀行の買弁(ばいべん)として実業界に入り、四明銀行、寧紹汽船、三北汽船などの会社設立に参加し、重役になった。成上り者とみられることもあったが、張静江とともに浙江財閥の大御所といわれた(買弁とは、外国企業の営業に協力して利潤をえた中国商人のことをいう)。

なお、浙江財閥とは、上海財界の実力者の代名詞で、楊子江の南側の浙江省の出身者が多かったために使われた名前である。

このように、辛亥革命のがわに立って、その運動の強力な支持者になったのは、商人ブルジョア層であった。一九一〇年、孫文が広東で反乱をくわだてたときも、南洋地方に活躍する華商がその資金をだした。

このほかに、同盟会は雑多な勢力をひきいれた。とくに、小地主や富裕農民は、鉄道国有令にたいする反対運動の中心勢力であり、この階層の子弟は、武昌新軍の下級将校や下士官となり、そこに同盟会の結社が組織された。孫文と同盟会は、商工業者と小地主、富農その他の階層を、満州貴族をたおす運動にむすびつけたのである。


軍閥の本質

辛亥革命で満州貴族は敗北し、満州へ逃げた。しかし、商工業者は、中国の支配者になれなかった。このあいだに立って魚夫の利をせしめたのは、軍閥であった。

まず、北洋軍閥の巨頭袁世凱が権力をにぎり、満州貴族を追放しながら、孫文、宗教仁の国民党を弾圧した。満州貴族の地位に、北洋軍閥がとってかわっただけである。一九一五年、雲南地方の反乱により、各省が独立を宣言し、軍閥がそれぞれの地方を支配し、雲南の革命軍も、軍閥に変身していった。この革命軍に参加した朱徳ですら、一時は軍閥にかわり、妾をたくわえアヘンを吸っていた。

さて、この軍閥の本質とは、何物だろうか。

まず袁世凱家は、河南彰徳で全県の三分の一の土地を所有する大地主である。

袁の先輩李鴻章は、安徽合肥の大地主である。その土地からあがる年貢は、毎年五万石にのぼったという。

四川軍閥劉文輝(リューウエンフユイ)と親しい索観瀛(スオクワンイン)は、四川理藩卓克基(ツォクワチ)の土司(封建地主)である。祖先は、清の乾隆帝のとき、清朝に服属した。邸宅は、広さ一〇丈、高さ八丈の一枚岩の上に、四つの厳密とした高桜がたてられ、周囲は稠堡でまもられている。一、二階は台所、貯蔵所、下人の寝室で、三、四階は華麗に装飾され、四面にガラス窓がはられている。かれのもっている機関銃や歩兵銃は、劉文輝が贈ったものである。住民は、かれに租税をおさめ、柴、肉、護衛兵の費用を負担する。かれをみると住民はひざまづき、とおりおわってからはじめておきあがる。

四川省の軍人は、すべて大地主であるといわれた。たとえば、楊森(ヤンセン)、鄧錫侯(テンシーホー)などは「地連千百、田隔数県」といいつたえられた。

李鴻章の指揮した准(わい)軍の将軍たちは、大きなもので数百敏(もう)、小さなもので数十敏をもち、周囲を壕でめぐらし、邸宅のなかにトーチカ、砲台、秘密の廊下をもち、小作人の住居をめぐらし、いちばん小規模のものでも、五〇〇人あまりがすんでいたという。この小作人がときに兵士となり、砲手となり、カゴかきとなった。

このような大地主の姿は、とても近代的地主といえるものではなく、土豪の名でよばれるにふさわしく、封建地主、半封建地主としての性格をしめしている。かれらは権力の座につき、満州貴族のものだった「官田」、「旗地」を奪った。こうして、ますます所有地を増加させ、大土地所有者として、満州貴族のあと釜にすわった。軍閥政権は、小地主を没落させた。広東の軍閥陳爛明(ツエンチンミン)は、これら小地主の土地が売りに出されたとき、不正な手段で横領していった。


軍閥と商人

商人は、軍閥に支配され、収奪される立場におかれた。軍閥は、自分の領土の入口に関所をつくり、商品に租税をかけた。陳爓明は、将軍府をつくり、商品の売買はすべてここをとおさせた。

租税の種類もさまざまで、釐金(りんきん)税、統税(通行税)、塩税、省営貿易(みやげ物などは独占して巨額の利潤をとった)などの方法をとった。

とくに釐金税は悪税とされていた。形式もまちまちで、ある商品は一つの釐金局で課税され、あるものは数カ所の局で課税される。あるものは、売買のときに課税される。税率も、生産費の一パーセントから一四パーセントのあいだでいろいろある。とくに、砂糖、穀物などの生活必需品が課税の対象になった。全国で、釐金局が七〇カ所、徴税局が五、三〇〇あった。だから西北の原産地で一ピクル三元で卸される羊毛が、天津につくまでに運賃と租税が一一元かけられた。ところが、天津からニューヨークまでの運賃は、一ピクルについて一元五〇仙にしかならない。このようなことは、商業の発達をひじように妨げた。だから、国民党は、権力をにぎるとすぐ、釐金税とそれに似た租税の全廃を命令したのである。

また軍閥は、勝手に紙幣や公債を流通させ、濫発しておきながら、無効にするというやり方で、商人以下の階層に損害をあたえた。四川軍閥は四川地方銀行の紙幣を濫発し、張作霖は奉天幣を濫発した。山東で張宗昌が下野したとき、かれの発行した省銀行券二、三〇〇万元が無効となり、一九二八年、張作霖が没落したとき、河北省銀行券一、六〇〇万元が無効となった。

このような政策にたいして、商人ブルジョアは、ときに抵抗した。袁世凱が皇帝になり、中国銀行、交通銀行から巨額の資金を借りた。このため全国に金融恐慌がおきた。そのとき北京政府はこれらの銀行の兌換停止を命令したが、中国銀行上海支店長宗漢章(ソンハンツアン)、副支店長張公権(ツアソコンチュエン)は、北京政府の命令を拒否し、兌換に応じて市場を安定させた。宗漢章は、上海銀行公会会長になり、張公権は、数多くの銀行、会社の役員を兼任し、国民政府ができてからは鉄道部長になった。

また、北京政府は財政が窮乏すると、公債をつのり、毎年元利の返済を実行せず、公債所有者を泣かせた。もちろん、政府発行の公債は、各銀行がひきうけ、これを市場に流通させるのであるから、政府が返済を実行しなければ銀行家は損失をうけることになる。ところが、一九二二年、北京政府はまた新公債を計画した。このとき上海銀行公会は「これ以後、政府が新公債を発行しても、わが銀行界はこれを抵当として受取らない。各地の証券取引所にたいしても、これを売買しないように警告する」と決議した。

また、軍閥政府は、悪貨を鋳造し、これを上海に輸出して財界を混乱させた。上海銀行公会は、安徽省造幣廠にたいして警告したが、とりあげられないので、受取りを拓否した。

このように、軍閥と商人ブルジョアのあいだには、対立がある。この対立は、財政赤字がふえるほど大きくなるはずのものだ。それが、国民革命の成功の原因であり、商人ブルジョアが国民政府を全面的に援助した理由である。

とはいえ、軍閥と商人ブルジョアがつねに敵対していたというわけではない。そのあいだは、一面協力、一面敵対の関係である。

たとえば、金城銀行は、北四行といわれる銀行グループのうちの中心で、天津に本店を、北京に支店をおき、一九一七年、二〇〇万元で設立された。この資本金の大部分は、北京軍閥官僚が出資した。この総経理周作民(ツオウツォミン)は、北京政府の公職も兼任していた。こうして軍閥と協力していながら、張作霖が国民政府により、北京を追われたときは、北京にのこって臨時治安維持会委員となり、国民政府の支配がはじまると国民政府財政委員会、東北政務委員として協力する。おなじく、金城銀行の重役呉鼎昌(ウーテインツアン)も、北京政府の財政部次長をつとめて、軍閥政権に協力しながら、のち国民政府の実業部長となった。


軍閥の悪政

軍閥の財政はひじょうに乱れていた。赤字が増大すると、さきにみたような方法とともに、増税もおこなった。四川軍閥は、田賦(でんぶ)(地租)を六〇年分だけ先取りした。そのうえ、田賦や

釐金税に地方付加税をつけ、この付加税が本税より高くなった。

また軍閥は、財政資金に困ると、農民にアヘンを作らせ、これに重税をかけて軍資金のもとにした。とくにひどかったのは、雲南、四川、貴州、福建などであり、稲のかわりにケシが植えられ、農村経済が破壊された。

このような悪政の原因を、財政のがわからながめてみよう。

一九二五年の北京政府(実権は直隷省のわく内にかぎられていた)の収入はつぎのようである(四億六、一八〇万両=六億五、六五二万元)。


田賦=一九.六%

塩税=二一.四%

関税=二六.一%

釐金税=一〇.〇%

その他=七.二%


支出のうち大きなものはつぎのものである。


財政部=四五.七%

陸軍費=四六.一%


このほか、公債発行で収入をえた。一九一二年から一九二七年にかけて、内国債と政府証券四四億七、八〇〇万元、外国債六三億四、七〇〇万元その他であり、年平均一三億九、二〇〇万元の公債である。

問題は、釐金税のような悪税を納めた正規の財政収入ですら支出がまかなえず、巨額の公債発行にたよらなければならない理由はなぜかということだ。ここに軍閥が攻撃された原因がある。

この理由とは、大地主が権力の座にいて、財政を喰いものにしていたことである。軍閥の時代は、大地主が官僚、高級軍人になった。かれらが、さまざまの形で国庫から横領した。

その一つに「中飽」(ちゅうほう)がある。これは地方の徴税官が、租税を横領することである。これで、もともと入るべき収入が政府に入らない。租税の大半が、県知事、微税局長のところまでに着服されてしまった。

支出の面では、軍事費や機密費が圧倒的な割合をしめる。奉天省張作霖軍閥の一九二六年の軍事費は四、一〇〇万元、張作霖の個人機密費は一、〇〇〇万元で、計五、一〇〇万元となった。ところが、このときの歳入は、わずか二、三〇〇万元である。このような巨大な支出は、何のためにつかわれるのだろうか。この中には、たしかに、いつの時代にでも必要な防衛費がふくまれているだろう。だが、政冶のあり方によっては、不必要なものもあるはずだ。

その一つは、軍閥同士の争いである。お互いにたえす領土を狙いあっている。そのため、お互いに必要以上の軍隊を養わなければならない。もし、統一国家になれば、軍隊の規模を小さくできる。こうして、財政面からみても、軍閥割拠は社会悪だということになる。またそれに輪をかける事情がある。必要があってもなくても、軍隊をふやすと、それだけ高級軍人の地位がふえる。それが、大地主の官職になる。高級軍人は、高い俸給をとり、公金を自由にできる。巨額の軍事費は、単純な軍事費でなく、官僚地主の国庫横領の手段でもあった。

このような事情であったから、張作霖の改革派大臣王樹翰(ワンスーハン)、王永江(ワンヨンチャン)は、「官吏の中飽の厳禁、不正官吏の免職、軍隊の縮小、兵工廠を半分以下に縮小すること、張作霖の個人機密費の廃止」を主張し、それからでてくる資金を、産業振興、交通、教育、開墾のほうにむけるべきだといったのである。だが、このような意見は、軍閥官僚地主の頂点にいる張作霖とあわず、改革の努力も効果がなくて辞職させられた。

こうみてくると、軍閥の時代の中国は、官僚地主の支配する社会であり、上級土地所有権の所有者の一派が権力をにぎり、財政を自由にし、他の地主と商人ブルジョアとは、一面協力、一面敵対の関係にあるといえる。それを図にしめすと左のようになる(この時代の大地主は、上級土地所有権の所有者である)。


軍閥=大地主

-小地主-農民

-商人ブルジョア-都市平民


こうして、軍閥の時代は、封建制度の一つの階段だといえる。だから、辛亥革命は、ブルジョア革命ではなく、一つの封建制度から、べつの封建制度へうつった動乱にすぎなかった。つぎの国民革命が、そうなるかどうかは、この図式がくずれて、商人ブルジョアが権力を握ったかどうかにかかってくる。


国民革命軍の背影

国民革命軍は、さまざまな社会勢力からなっていた。その指導的勢力は、商人ブルジョアである。

孔祥煕軍は一九二四年、孫文の指令のもとに、軍閥呉佩孚をたおす運動に活動し、二六年には、広東国民政府実業部長になった。

宋子文は、二四年に広東政府財政部長、中央銀行行長になった。かれは、孫文が中華民国臨時大総統になったときの秘書でもあり、神州信託公司副総理でもあった。

蔣介石は、張清江にひきたてられ、陳其美の甥の陳果夫とともに、上海の証券物品取引所で仲買人となり、半年で富商になった。孫文のもとで広東政府参謀長になり、ソ連に留学しながら、上海では杜月笙(トウユエセン)とも親しくなった。杜月笙は青幇(チンパン)の親分である。この組織は、アヘン売買、バクチ経営、ヤミ商売を行なっていた。かれは実業界でも有力者であり、上海商業儲蓄銀行理事、通匯銀行、中国通商銀行董事長として、浙江財閥の首領の一人である。この杜月笙と青幇は、のちに蔣介石が上海総工会を弾圧したとき、全面的に協力した。

孫文が死ぬと、蔣介石は国民党の右派を代表して行動した。上海取引所で協力した戴季陶(タイチータオ)とともに「孫文主義学会」をつくり、連ソ容共に反対し、国民党大会の「反帝反軍閥の革命」の方針に反対して、「軍事力による全国統一」を主張した。そしておこしたのが、二六年の中山艦事件で、共産党員の追放をこころみた。このように、上層ブルジョアは、蔣介石をとおして、国民党右派を牛耳っていた。

だが、いかに蔣介石が純軍事力で統一するといってみても、小さな広東政権が強大な軍閥を撃破できるわけではない。軍閥の足もとをゆさぶる勢力と同盟しなければ、勝利はおぼつかない。そこで、かれも一時主張をひっこめて、国民党左派の方針にしたがうことになる。

さて、国民党の第ニの勢力は民族資本家(四ニ頁参照)と小地主である。かれらは国民党左派の支持者であった。とくに小地主からは、国民革命軍の将校を多くだした。かれらは軍閥支配に反対だが、さりとて土地革命には反対だ。そこで、二七年、まだ共産党が国民党左派との同盟を考えていたとき、第五回大会で小地主と革命軍将校の土地は没収しないと決定したのである。

共産党は、労働者と農民の運動を指導した。とくに、外国資本の工場で働いている労働者は、その運動がそのまま反帝国主義、反軍閥になる。また、軍閥官僚地主のもとの小作農は、反軍閥の闘争をもっとも身近かな利益だと感じる勢力である。

だから、連ソ容共とは、軍閥官僚地主の権力に反対するあらゆる勢力、商人ブルジョアの上層、民族資本家、小地主、労働者、農民を一時的に統一したものであった。だが、この統一は、軍閥を倒すとともにおわる運命にある。上層ブルジョアは、ただ権力と財政の実権をにぎりさえすればよい。ところが、小作農は、土地革命をのぞむ。労働者は、賃上げや、工場の国営化をのぞむ。このようなことはブルジョアにとって受入れがたい。かれらもときに土地を買って地主になり、また軍閥のあとで、自分が地主になろうとしているのであって、制度としての地主制を廃止する気はない。国共合作は、軍閥打倒とともにおわる運命にあった。


国民政府の支柱

二五年、孫文は広東軍閥陳爛明を撃滅した。二年六の北伐で、大軍閥呉佩孚、孫伝芳が平定された。二七年四月、総司令官蒋介石は、上海に入ると、軍閥打倒に協力した共産党と総工会を弾圧し、国民政府をつくった。武漢革命政府は、蔣介石を非難しながら、共産党をおさえようとしていた。

「革命の前途は、商工業者がこれを支持するかどうかにかかっている。だが、労農運動のいきすぎが、かれらをひきはなしている」

七月、武漢でも国民党左派の汪精衛が共産党を弾圧した。こうして国共分裂がきまってしまうと、政権の中心に右派の蔣介石がが立つようになった。

蔣介石がは、小軍閥を吸収し、二八年北伐をつづけて、北京から張作霖を追放した。二九年二月、のこった軍閥の閻錫山、馮玉祥などが反蔣連合をつくり、これに国民党左派の王精衛が参加して、それぞれ四〇万人を動員する反蔣戦争がおこった。これは張学良(張作霖の子)の調停で妥協となり、蒋介石は、田賦の微税権を軍閥の手にのこした。

だから、この時期の中国は、中央政府を国民党がつくり、地方にはまだ軍閥が支配権をにぎっていたといえる。さて、この国民政府とはなにものだろうか。ひとくちにいって、国民政府は、上層ブルジョアそのものである。

蔣介石が、上海で共産党を弾圧したとき、杜月笙とその輩下の青幇は全面的に協力した。

張清江と虞洽卿は、蔣介石の北伐を援助するために、浙江財閥の資金を動かした。このとき、北伐の成功は軍資金にかかっていた。張静江と虞洽卿の仲介で、上海の銀行業界の指導者(秦潤郷(チンズイチン)、銭永銘(シエンヨンミン)、季馥蓀(リーフースン)、張公権)と、国民政府の要人孔祥煕、宗子文が協議し、四億七、四〇〇万元の公債を募集して目的をはたした。

銭永銘は、神戸高等商業学校を卒業し、交通銀行董事長となり、中央銀行その他十行の重役を兼任し、多くの会社の重役になった。国民政府が財政に困ったとき、かれを国民政府財政部次長にむかえ、上海財界からの公債募集を成功させた。

李馥蓀は、山口高等商業学校を卒業し、浙江銀行総経理となった。宗子文と親しく、国民政府のためにつくし、北伐費の公債が募集されたとき、国債管理委員会主席となって目的をはたした。

秦潤卿は、中国墾業銀行董事長で、上海銭業公会の指導者である。

張公権は、中国銀行はじめ、南西行系銀行の指導者であった。

北京を中心にした北四行系銀行の周作民、呉鼎昌も、国民政府に協力した(四七頁参照)。

このように、上海、北京の財界が国民政府の中心になったが、広東政府のころからの政商の一群は、もちろんつねに政府と一体だった。その代表者は、孔祥煕と宗子文である(二八頁参照)。

孔祥煕は、アメリカ、エール大学を卒業し、国民政府実業部長、財政部長、行政院副院長になり、財政金融にかかわりのあるあらゆる委員会に参加し、中央銀行総裁となり、多くの銀行の重役を兼ねた。

宗子文は、ハーバード大学を卒業し、国民政府財政部長、中国銀行董事長になり、公債発行について、浙江財閥と国民政府とのむすびつきにつとめた。孔と宗は、義兄弟でもあり、二人は力をあわせて中国財界を支配した。

こうして、国民政府とは、広東政府時代からの政商と、上海、北京を中心に活動する上層ブルジョアの結合体である。その中で、どちらが指導権をにぎるかという問題はのこるが、だいたい、孔、宋の手に指導権があったといえよう。

たとえば、二八年、国民政府が中央銀行をつくったとき、初代総裁は孔祥煕であり、副総裁、三常務、理事、五平理事、主席監事、三監事はすべて浙江財閥出身者だった。


政策の変化

権力の変化は、財政政策の変化をもたらした。その内容をひとロでいえば、軍閥官僚大地主の利益を犠牲にして、上層ブルジョアの利益を確保することである。

たとえば、公債政策の変化である。軍閥の時代、公債の元利支払いは、じゅうぶんに実行されなかった(二三頁参照)。ようするに、借金をふみたおしていたのである。これに応募したブルジョア層は、ときに損をした。だが、国民政府の時代になると、公債発行は、上層ブルジョアにとって、巨大な利益を確実に得ることになった。なによりもまず、公債発行の政策を、浙江財閥の指導者銭永銘(銭新之)がきめた。かれは、上海海関の輸入付加税(二分五厘)を公債の担保とし、これを上海商会、銀行公会、銭業公会の有力者でつくる委員会の管理のもとにおき、元利の償還基金とした。委員会主席は、李馥蓀である(三二頁参照)。公債は年利八分四厘であった。利回りが高く、担保は確実だ。そのうえ、銀行は、公債を額面価格の五割から七割でひきうけ、元利の償還のときは、額面価格で支払われた。また発券銀行は、銀行券発行のとき、全額準備金のうち、四〇%を公債であてることができた。こうして、公債引受は、巨大な利益になった。

また国民政府は、商品流通に課税された釐金税とそれに似た租税を廃止した。国民政府は、財政報告でいう。

「釐金はもとより幣政、改革実施は急務である。すでに国民政府は、一九三〇年一〇月一〇日を期して、釐金と釐金に似た租税のすべてをいっせいに廃止するべきことを命令した。政府は、この大計に絶対的な決心をもち、本年一〇月、財政状態がどうであろうとかならず主張をつらぬき、このような財政上の悪政と、貨物の流通をさまたげる毒物を根本的になくそうと決心している。こうして、はじめて、わが国の商売を慰めることができる」

また、政府は経済諸建設計画をすすめ、その費用は年とともに増加した。


経済建設費

一九三四年 二、六七〇万元

一九三五〃九、七三〇万〃

一九三六〃一四、九五〇万〃


この経済建設費は、全国経済委員会、建設委員会の管理にまかされ、特別の項目として計上された。この二つの委員会は、国家機関のなかでもっとも重要なものとなり、これを上層ブルジョアの中心人物が牛耳った。孔祥煕と宗子文が、両委員会の常務委員となって実権をにぎり、二人の親友陳光甫、銭新之が両委員会の委員となり、張公権、呉鼎昌、李馥蓀、張静江、虞洽卿らが委員となり、張静江は建設委員会主席である。

このように、商工業とブルジョアジーの発展は、財政政策からすすめられたが、軍閥官僚地主は、その犠牲をおわされ、はなはだしいばあいは、袁世凱家や安徽の張敬堯家(ツアンチンヤオ)(七~八万畝を所有)、倪嗣冲(ニエスツナン)家(七~八万畝)の土地のように、国民革命で没収され、地方の社会事業にあてられたばあいもある。こうして、軍閥の支柱であ0た巨大地主の数はしだいにヘり、辺境地方民に集中しているていどになった。

ただし、国民革命は、土地革命(地主の土地を没収して、小作人に与える)を目的にしたものではない。だから、軍閥官僚地主といえども、へたをしなければ、地主としては生残れる。だから、かれらの多くは、国民革命ののちも、地方の名家=豪紳=地主としてのこった。たとえば、

皖北阜陽では、程香圃(ツアンンヤンプー)(八、〇〇〇畝)、倪歩蟾(ニュプツアン)(七、〇〇〇畝)、寗価臣(ニンチャツェン)(八、〇〇〇敏)、寗馨遠(ニンンソュエン)(三、〇〇〇畝)、寗釣衡(ニンテイヤオフエン)(四、〇〇〇畝)、登賛卿(テンツアンチン)(二、〇〇〇畝)、呂清福(リユチンフ)(二、〇〇〇畝)、董巒青(ファンルアンチン)(四、〇〇〇畝)、朱代俸(ツータイフォン)(七、〇〇〇畝)、注濯清(ワンツオンチン)(二、〇〇〇畝)、謝老香(シエラオシャン)(六、〇〇〇畝)、李廉若(リーリエンゾウ)(五、〇〇〇畝)、寗紫臣(ニンツーツェン)(三、〇〇〇畝)が、むかしの軍閥の高級官僚であり、のちに地方の豪家としてのこった。


四大財閥の成長

国民革命で権力をにぎった上層ブルジョアのグループのなかから、しだいに発展のひらきがあらわれ、最大の利益をせしめたグループが、四大財閥として成長してきた。それが蔣、宋、孔、陳の財閥である。

もちろん、その名は、蔣介石、宋子文、孔祥燕、陳立夫と陳果夫(二人はいとこ)であり、国民革命の運動に、はやくから参加している政商、政治家である。しかも蔣、宋、孔は血縁関係でむすばれている。宋子文の姉は孔祥煕夫人であり、蔣介石夫人の宋美齢も、彼の妹である。

しかも、蒋介石は宋美齢がキリスト教徒で、一夫一婦制しかみとめなかったため、三人の前夫人を離婚したといういきさつもある。

この四大財閥は、国家財政をわがものにすることと、アメリカ資本を導入する先頭に立つことにより、ほかのブルジョアグループをひきはなして発展した。

総統蒋介石の地位はいうまでもない。孔祥熈は、染料、石油、綿布をあつかう大商人として出発し、国民政府工商部長、中央銀行総裁、財政部長、行政院副院長となった。

宋子文は、綿花、綿糸、綿布の売買を独占する中国綿業公司の理事長であり、外米輸入を独占する華南米業公司の理事長であり、中国銀行を支配していた。国民政府財政部長、行政院副院長になった。

陳家は、交通銀行と中国農民銀行を所有し、陳立夫のひきいる特務機関CC団が交通銀行を支配し、国民党中央執行委員会秘書長、組織部長、国民政府教育部長であった。陳果夫は、中国農民銀行理事長であった。陳家は、国民党の最右翼を代表していた。

四大財閥の権力は、一九三四年の幣制改革で決定的なものになった。これは、この年におきた激烈な金融恐慌をきりぬけるため、政府のおこなった貨幣制度の改革である。まず銀貨の使用を禁止し、銀を国有として政府にさしださせた。そのかわりの貨幣として、銀行紙幣=「法幣」を国でさだめたが、この法幣を発行する権利は、中央銀行、中国銀行、交通銀行、中国農民銀行だけにかぎられた。つまり、四大財閥の支配する銀行だけが、紙幣を発行できたのである。そのほかの銀行は、紙幣発行を禁止され、外国為替の売買も、この四銀行にかぎった。こうして、この四銀行は、全国の民間銀行をだしぬいて発展し、民間銀行は、それに支配されていくことになった。

三六年の政府系銀行の資本と積立金は、全国銀行の三割六分、預金は五割九分、兌換券発行額は七割八分、貸付額は五割五分、資産総額は五割五分をしめた。

第二次大戦がおわってみると、四大財閥の資本は、二〇〇億ドルといわれ、全中国の資本総額の約八〇%を支配するまでになった。貿易と基幹産業は、国有の名のもとに四大財閥が独占した。かれらが「官僚資本」といわれた理由である。

蒋介石は、数十の兵器工場、一六〇の重化学工場を支配した。妻の宗美齢は、航空委員会秘書長として、アメリカの将軍シェンノートと合弁会社中米実業公司をつくり、民間航空を独占し、空輸された中米商品の販売権を独占した。

宋子文は中国銀行を中心にして、鉄道、鉱山、電気、紡績を支配し、国民党資源委員会をとおして、華北の八大重工業を支配した。

孔祥煕は、中央銀行を支配し、貿易、機械、炭鉱、タバコ、製薬の工場を支配し、アメリカとむすんで貿易を独占した。

陳立夫は、中国農民銀行を中心として、放送、新聞、農機具、自動車、絹織物、蚕糸業、林経営、綿花買付の分野を支配した。

こうして、四大財閥は、中国ブルジョアジーの王になった。


外国資本と買弁ブルジョア

中国の歴史を論じるとき、いろいろな形容詞をつけたブルジョアがでてくる。民族ブルジョア、親日派ブルジョア、買弁ブルジョアなどである。そこで、これらの実態を知らねばならない。これらを考えに入れることは、中国におけるブルジョア革命の時期を証明するために、絶対に必要だとはいえない。しかし、議論をするときに、紛糾をさけようとすれば必要である。

そもそも、中国は半植民地の国家であり、外国資本が特権的な立場で活動し、外国の権力が陰に陽に力をふるう。そのため、ブルジョアジーの分裂が、ほかの国よりひどくなるのはとうぜんだ。

外国資本は、清朝や袁世凱や軍閥と対等あるいはそれ以上の関係で中国に入っている。中国の鉄道の資本は、ほとんどイギリスのものであり、タバコのほとんどは、イギリスとアメリカの資本で経営されている。内国航海運輸事業のほとんどは、イギリスの資本で、アメリカ、日本がそれについでいる。石油事業のほとんどはアメリカである。鉱山は、日本とイギリスをはじめ、各国で開発されている。紡績工業では、日本が圧倒的で、イギリスがこれにつぐ。電話、水道、電気、ガスなどの公共事業も、ほとんど外国資本ににぎられている。外国銀行とくに、香港上海銀行(イギリス)、インドシナ銀行(フランス)、モルガン商会(アメリカ)、徳華銀行(ドイツ)、横浜正金銀行(日本)、ロシア銀行などは、清朝の時代から借款を中国政府にあたえてきた。一九一三年の借款では、担保として中国の関税、塩税、タバコ税、釐金税がとられ、外国は中国の財政につよい発言力をもつようになった。

陳爓明のような軍閥は、その資産の大半を外国銀行に預金した。四川軍閥の劉湘は、外国から長期、短期の借款をうけいれた。こうして、中国の支配者とは、軍閥と外国資本のむすびついたものであるといえる。すると、まえにかいた図式は、もうすこし補充しなければならない。


僚主    外国

官地=軍閥=資本

   |-多数の小地主    |農民

    -民族ブルジョアジー |中産層、その他

               |労働者


そのうえ、もう一つ買弁ブルジョアジーというのがるる。これは、まったく外国資本の利益に奉仕し、その手先となってうごくものである。それだけに、軍閥とおなじ立場にたてる。それは一般の商工業の立場からはなれて、軍閥のがわに上昇したものである。

この買弁ブルジョアジーと国民党のがわのブルジョワジーとの衝突の実例をあげよう。孫文が、広東国民政府をつくったとき、広東七二行の買弁商人に租税を課すことにした。これを、馬路業(まろ)権統一案という。この七二行は、この政策に反対し、陳廉伯(ツェンリエンポ)(香港上海銀行の買弁)の指導下に商団聯防をつくり、秘密大会で広東国民政府軍は、広東から撤退すべきであると決議した。二四年八月、商団は秘密のうちに武器を買入れ、これを広東政府が没収すると、商団は罷市をはじめた。

この闘争に、民団(大地主のもつ私兵)がくわわり、商団と民団は、広東政府軍と衝突した。陳廉伯は、香港ににげて闘争を指導した。

このとき、広東政府軍に参加していた軍閥茫石生(ファンスーセン)は、孫文の反対をおしきって商団と妥協し、武器をかえした。

また、イギリス領事は「広東政府軍が商団を攻撃すれば、イギリス海軍を動員する」と声明し、日本領事も同調した。

九月、広東政府は、北伐の軍事公債を商団にわりあてた。商団は反対し、広東郊外の仙山市で、武装罷市を決議した。仙山市の軍閥李福林(リーフーリン)は商団に協力した。孫文は、商団攻撃を決心し、商団軍を撃滅した。

この事件は、中国の民族ブルジョア(そこに宋、孔、陳なども入る)と、買弁ブルジョア、軍閥、外国列強の対抗関係をしめすものである。ただし、外国列強のすべてではない。イギリス、日本は軍閥を支持していたが、アメリカは、中国進出にでおくれていたため、新勢力の国民党を助けて、イギリス、日本の勢力をくつがえそうとねらっていた。そのため、外国列強は、分裂していた。


民族ブルジョアとは

民族ブルジョアという言葉が、国民革命のときにも、第二次大戦ののちでもよく使われる。

こういう言葉は、便利なようでもあり、ときには議論をまちがわせるもとにもなる。なぜなら、おなじ言葉でも、ちがった時期では、ちがったものをさすことになるのに、そのちがいを知らずに、おなじ言葉だから、おなじ内容だと思いこむことになるからである。

国民革命のときの民族ブルジョアとは、買弁ブルジョア以外のブルジョアをさしている。つまり、国民政府を支持したブルジョアである。そのなかには、さまざまなものがいる。宋、孔、陳は、最右翼だ。浙江財閥のブルジョアグループもいる。このため、上海商会に、商人革命を声明するものもでていた。

また、民族資本による工場経営者もいる。これは、とくに第一次大戦で、外国資本が弱まったときに成長した。大戦前は民族資本の紡績工場は二一だけだったが、大戦後の一九二二年に六九にふえた。また、製粉、マッチ、毛織物、化学工場の分野にも民族資本が進出した。

紡績大王栄宋敬は、一五歳で上海の銭荘の徒弟となり、投機で資本をたくわえると工場経営をはじめた。上海、無錫に十数カ所の紡績工場を経営し、染料、機械にも進出した。

その弟は麺粉大王栄徳生(ソオントセン)で、製粉工場を経営した。かれは、土地も五〇~六〇畝をもっている。

郭順(クオスン)は、上海、広東で紡績、織物の工場や百貨店を経営して、広東財界を代表した。

呉蘊初(ウーインツ)は、上海を中心に硝酸、塩酸(日本の味の素をまねしたものをつくる原料)、ソーダー、漂白粉、アンモニア、陶器の化学工場を経営した。

范旭東(ファンシトン)は、京都帝国大学理学部を卒業し、空中窒素の固定に成功し、天津、南京でソーダ、硫酸、アンモニアをつくる永利化学公司の社長であり、華北、四川で製塩業をおこなった。

マッチ王劉鴻生(リューホンセン)は、マッチ、セメント、毛織物、煉炭、紡毛の工場を経営した。

かれらは、第一次大戦ののち、外国資本が中国に帰ってきはじめると、その競争におされて、破産、休業においこまれた。紡績業では、二三年以後、中国人工場は休業または慢性的操短の状態になった。これらの経営者は、外国資本と軍閥支配がつづくかぎり、つねにおいつめられる。外国資本は、中国人より有利な条件で工場を経営し、外国商品は、世界最低の関税を支払って流入する。釐金税その他の国内関税は、さまざまな等級にわかれ、外国商品に軽く、民族資本の商品に重い。そのため、かれらは「反帝国主義、反軍閥」という、国共合作のスローガンに賛成したのである。

ところで、民族ブルジョアといっても、民族性を純粋にもちつづけたわけではない。複雑な経済活動は、かれらの性格をあいまいにした。

宋、孔、陳は、外国列強の一派アメリカとむすんでいる。だから、かれらも、のちになれば、買弁とよばれるほうにすすむ要素をふくんでいる。

上海財界の指導者も、純粋な民族資本ではない。たとえば、上海商業儲蓄銀行の頭取虞洽卿は、オランダ銀行買弁として成長してきた人物であり、三井物産の買弁をしたことがある。

紡績大王栄宋敬は、この銀行の重役になっている。呉蘊初は、工場を建設する資金を金城銀行から借りている。金城銀行は、北京軍閥が出資してできたものであり、のちに親日派の背後に立つ。また、かれらの工場に電力を供給するのは、イギリス資本である。

してみると、かれら民族ブルジョアジーは、反帝国主義を徹底的につらぬくというわけにはいかない。国民革命でできたことは、対外関係の多少の改善というていどである。

さて国民革命が成功すると、外国資本のなかにも、力関係の変化がおこり、アメリカが指導

権をにぎった。国民政府の経済建設に、アメリカは二、〇〇〇万ドルの借款をあたえた。この資金は、蔣、宋、孔、陳の手をとおして中国に流れこみ、四大財閥の成長を助けた。四大財閥の買弁的性格がつよくなった。チャイナ・ロビーといわれた一群のアメリカ政治家(タフト、デューイ、ニクソンなど)と、宋美齢の交友関係は有名である。

この発展にくらべて、浙江財閥や、民族資本の工場経営者は、とりのこされた。だから、国民革命に参加した民族ブルジョアジーのなかで、また買弁と民族の分裂がすすむことになる。

ただし、そのばあい、個人をとりあげてみると、あるものは四大財閥のがわにうつり、あるものは、とりのこされるほうにのこるということで、区別は集団のあいだに立てられるべきである。

だから、これからのちの民族資本とは、とりのこされていったグループということになる。

このグループが、新中国成立のとき、民族資本として新政府のがわについたのである。

虞冾卿は、第二次大戦がはじまると、蒋介石とともに奥地に入り、西北企業、陜西墾業、興華冶金公司の重役になって開発事業をすすめたが、かれの経営する商業と航空事業が、宋美齢の中米実業公司に圧迫されていった。そこで虞洽卿のあとをついだ盛丕華(スエンペイファ)は、人民政治協商会議に参加した。

張公権は、三五年に宋子文のために中国銀行総経理の地位を追われ、鉄道部長、行政院顧問

になっていた。第二次大戦で、蔣介石とともに奥地に入ったが、四九年には国民党を除名された。

張公権の兄張君(ツァンチユンマイ)は、第二次大戦後、中国民主同盟の幹部として、政治協商会議に参加した。ただし、張兄弟は、のちアメリカに移住した。

呉蘊初は、日本軍により上海の工場をほとんど破壊され、奥地にのこった工場は、四大財閥にとられた。かれは、新中国の華東行政委員会委員になった。

栄宋敬の工場は、日本軍に没収され、かれは香港ににげた。かれのあとをついだ栄毅仁は、紡績を独占しようとした宋子文におびやかされた。栄毅仁も新中国のがわについた。

范旭東の永利公司の重役をしていた李燭塵(リーツーツェン)も、政治協商会議に参加した。

だから、国民革命のときの民族ブルジョアとは、ブルジョアジーの主流をさし、新中国成立のときの民族ブルジョアとは、ブルジョアジーの脱落者をいうのである。


親日派ブルジョアとは

上海を中心にした浙江財閥の中心は、南四行とよばれる銀行である。これにたいして、北京を中心にした四つの銀行がある。金城銀行、塩業銀行、大陸銀行、中南銀行である。これらの経営者、呉鼎昌(塩業、金城)、周作民(金城)、銭永銘(大陸)らは、もともと北京軍閥の官僚に入ったこともある。

張作霖が満州に逃げたのちは、国民政府に合流した。

かれとむすんだ官僚は、何応欽(ハーインチン)、張群(ツアンチュン)などである。

何応欽は、西安事件で蒋介石が中共がわの人質としてとらえられ、航日統一戦線をむすぶことを強要されていたとき、中共がわを爆撃し、抗日統一戦線をぶちこわそうとした人物である。

張群は、国民党の政学会系の首脳となり、外交部長、国防最高委員会秘書長、行政院長を歴任した。政学会は、親日派のグループである。

呉鼎昌は、塩業銀行総経理、金城銀行重役で、政学会の大物となり、国民政府実業部長、総統府秘書長を歴任し、第二次大戦中、ビルマルートをおさえる必要にこたえ、貴州省主席として活躍した。

銭永銘も、実業部農本局長となり、蒋介石の金融財政の相談役の一人であった。

ところが、これら北四行系の人物は、日本と国民政府のあいだにあって、複雑な行動をする。

三五年頃は、かれらが国民政府の行政院をおさえ、宋、孔、陳などアメリカ派と対立し、政府を日本との妥協にむけた。銀国有令のときも、北四行系の銀は、南に輸送しなかった。もちろん、これは日本北支駐屯軍梅津中将の要求と一致した。

日本との全面的な戦争がはじまっても、北四行系の首領周作民は、上海のフランス租界にとどまり、重慶へはいかなかった。

こうした勢力にささえられて、王精衛の南京政府(親日政権)が第二次大戦中につくられた。

だが、けつきよく、政学会の力は弱まり、欧米派の蔣、宋、孔、陳におされていった。


地主制のうつりかわり

地主制はのこった。だが、そのなかで地主としてのこる人物はかわった。ひと口にいえば、旧軍閥官僚から、新官僚資本家への変化だ。それは封建地主から、ブルジョア地主への変化だ。

北伐の直後は、国民政府が、地方軍閥と妥協し、その独立をみとめていた。だが三四年、紅軍の長征がはじまると、それを追撃し、この追撃を利用して国民政府軍が、軍閥の支配する領土に侵入した。貴州、四川、山西、山東の地方である。三六年、粤漢鉄道が開通すると、広西軍閥も降伏した。

また軍閥の領土では、資本の逃避がはげしく、産業はおとろえた。軍閥が、地方建設運動をとなえて外国から借款をうけ入れようとしても、この頃になると、外国も国民政府を相手にしたため成功しなかった。その資金は、上海一〇銀行の組織する農業貸款団、国民政府農本局、国民政府綿花統制委員会をとおして受入れることになった。また国民政府は、アメリカ、イギリスの軍事援助で、海軍、空軍が優勢になった。

こういう事情で、国民政府は軍閥を圧倒し、三七年、地方軍閥が徴収していた田賦を手に入れ、軍事公債を軍閥の領土にわりあてた。

このような変化は、地主の構成にも変化をあたえた。

三五年の四川省一〇県の調査では、地主所有地のうち、九〇%は新地主が所有し、一〇%を旧地主が所有した。新地主の数の割合は、三一%であり、旧地主の数は六九%である。新地主は、商業を経営するものが多く、国民政府の官僚、銀行とつながりをもっていた。

陳伯達(ツエンポター)はいう。「旧地主はすべて『土地の且那』といわれているが、新地主の大部分は、国民党の四大買弁金融寡頭政治権力とたがいにむすびつき、そのうえ直接に投機市場において、波

乱をまきおこすことのできる、ハイカラな新しい且那からなっている」と。

軍閥をやぶったブルジョアが、その土地所有までも喰い荒し、自分が地主になっていったのである。かれらの土地投機は、なにも中国だけにかぎらない。蔣、宋、孔は、南米とくにアマゾン流域の大地主にもなった。しかし、かれらの主な経済活動は、商工業、金融業であるから、ブルジョアジーとしての基本的性格はかわらない。その意味で、おなじく地主制といっても、軍閥の時代とは本質的にちがう。


ブルジョア革命の時点

国民革命までは、中国は、軍閥=大地主の支配する国家であった。それは、基本的に、封建制度の時代であった。

国民革命は、それをブルジョアジーの支配する時代にかえた。権力と財政の実権が、大地主からブルジョアジーに移行した。そのかぎり、中国のブルジョア革命は完成した。この変化は、地理的にみて段階的にすすんだ。まず、広東国民政府の成立したところで、ついで南京国民政府の領土で、つぎに軍閥を屈伏させていったところでおこなわれた。

最後に満州事変である。これは、張学良軍閥の権力をくつがえしたブルジョア革命である。

ただし、くつがえしたのは、中国ブルジョアジーではなく、日本軍であった。もちろん満州の内部にも、協力する勢力は多かった。そこに事変の主謀者石原莞治の理想、「五族協和、日本権益の返還、満鉄の日満合併経営、治外法権撤廃」の主張があった。しかし、指導権は、日本軍ににぎられた。だから、新しい権力が安定するとともに、日本資本が支配し、理想主義者石原莞治は失脚した。地主は、農村の範囲にかぎられた二流の支配者に転落した。そのうえで、権力をにぎったブルジョアジーが、土地を買込んで地主にもなった。こうして、第二次大戦までに、中国のブルジョア革命はおわった。その変化を図に示すと左のようになる。


軍閥=×大地主

|―ブルジョア

|―小地主

→国民政府=ブルジョア

→地主

→国民政府=四大財閥

|―地主

|―民族ブルジョア



00-市民革命―まえがき、目次

三一書房617

市民革命

小林良彰著



まえがき

この本の目的は、世界各国の市民革命(ブルジョア革命)の時期をはっきりとしめすことである。また、イギリスのように、市民革命の時期が、常識としてみとめられているところでは、なぜそれが市民革命であるかという根拠をしめした。

世界各国の市民革命のことについて書かれた本は無数にある。それにもかかわらず、あえて私がこの本を書いたのは、市民革命にかんするいままでの学説が、ほとんど皆誤りをふくんでいたと思ったからだ。私は、その誤りを訂正し、正しい歴史解釈をあきらかにしたい。たとえば、ドイツの市民革命の時期はどこにあるかと問おう。これにたいする私の解答は、三月革命からドイツ統一戦争だということになる。ところが、いままでそう断言した人はいなかった。

それだけでも、この本のもつ意義がある。あるいはまた、中国の市民革命の時期はいつかと聞こう。毛沢東は、国民革命でもまだそれが完成していないという。この本は、国民革命が中国の市民革命だと説明している。

このようなくいちがいは、一事が万事だ。

私は、去年『明治維新の考え方』(三一新書)を書いた。ここで、明治維新が、日本の市民革命であることを証明した。しかし、それを主張すると、かならず、次の質問がまちかまえる。

「ではドイツはどうか」「イタリアはどうか」等々。そのため、明治維新についていえば、つぎに世界各国についていわねばならないことを知っていた。ドイツ、中国その他について、はっきりした考え方をもち、その考え方が、明治維新の解釈と首尾一貫していなければ、せっかく、明治維新について新しい解釈をもちこんでも、学問体系としては完結しない。その意味で、この本は前掲書の姉妹篇だ。比較、対照して、熟考されることをのぞむ。

なお、市民革命についての議論は、つねに、「典型的市民革命」とよばれるフランス革命に回帰する。ゆえに、フランス革命にたいする正確な理解がなによりも大切で、ここでのわずかな狂いが、他国の解釈のなかでは、何倍にも拡大される。そのような実例も、数多くしめしてあるが、それだけに、私は、フランス革命にたいする正確な結論をひきだすべく、『フランス革命経済史研究』(ミネルヴァ書房)を書いた。その中で、フランス革命の成果として、いままで強調され、したがって、市民革命の基本法則だとされてきたことが、すべて事実無根であることを証明した。そのうえにたって、フランス革命の成果は、まったく別のものであり、それは権力と国家財政の実権をめぐる問題であることをしめした。この見方が、世界各国の市民革命を考えるときの、基本線になっているので、疑問を感じた人はそれを参照されたい。



目次


まえがき


1 中国の市民革命


はじめに

基本理論

政治史のまとめ

辛亥革命の敵対者

軍閥の本質

軍閥と商人

軍閥の悪政

国民革命軍の背影

国民政府の支柱

政策の変化

四大財閥の成長

外国資本と買弁ブルジョア

民族ブルジョアとは

親日派ブルジョアとは

地主制のうつりかわり

ブルジョア革命の時点


2 毛沢東の歴史理論のまちがい


ブルジョア革命と民主主義

基本任務の思いちがい

錯覚が錯覚をうむ

過渡期と目標の混同


3 市民革命の各国史


ロシアの絶対主義

ロシアの市民革命

絶対主義下のオランダ

市民革命としてのオランダ独立戦争

イギリス革命をめぐる問題点

イギリス革命はなぜ市民革命か

アメリカの革命をめぐる問題点

封建制度としての植民地アメリカ

市民革命としてのアメリカ独立戦争

南北戦争の解釈

インドの市民革命

国民会議派の本質

エジプトの市民革命


4 ドイツ三月革命の再評価


はじめに

ドイツ史のまとめ

貴族とユンカー

自由都市のブルジョアジー

貴族対ブルジョアジー

進歩に敵対した貴族支配

貴族の反主流とブルジョア的改革運動

改革運動の失敗から革命へ

三月革命の政治的成果

三月革命の経済的成果

絶対主義へもどったオーストリア

手工業者とブルジョアジーの対立

プロシアの反革命

プロシアに絶対主義はもどったか

パン屋とくつ屋の王冠

オーストリアとプロシアの対立

プロシアの反動

ブルジョア的少数派の抵抗

クリミア戦争-ドイツ保守勢力の分裂

反動の過大評価を改める


5 市民革命としてのドイツ統一戦争


自由主義のいきづまり

ビスマルクの登場

ビスマルクはユンカーの代表者ではない

ビスルクのマキュベリズム

決死の鉄血宰相

貴族の一部とビスマルク

ビスマルクと大銀行家

クルップとビスマルク

自由主義的ブルジョアとビスマルク

ジーメンスとビスマルク

ビスマルク権力の背影

ビスマルクの勝利

北ドイツの統一

ドイツ統一の完成

ブルジョア革命の完成

与野党の逆転

進歩的改革

貴族・ユンカーの没落

財政政策の変化

ブルジョア的貴族のキャスティング・ヴォート


6 ドイツ史にたいする誤解


ドイツと日本

マルクスの誤解

エンゲルスのあいまいさ

エンゲルスの小細工

ボナパルティズム論の誤り

レーニンの誤解

カイゼルは去ったが将軍はのこった


7 のこされた問題点


推定可能なこと

局地的市民革命

フィレンツェとダンテ

ミケランジェロとマキァベリ

民主主義アテネ

特殊性について

封建制度と古代のちがい

未解決の問題


主な参考文献


 

2022年3月25日金曜日

30-フランス革命史入門 フランス革命史関係文献一覧

 フランス革命史関係文献一覧

訳書

カウッキー,フランス革命時代に於ける階級対立 宗道太訳,叢文閣,昭3

カウツキー、フランス革命時代に於ける階級対立 堀江・山口共訳,岩波書店,29

ガクソット,フランス革命(上・下) 松尾邦之助訳,読売新聞社,25

カアライル,仏国革命史1ー4,国民文庫刊行会,大正6

",フランス革命史(一・二) 柳田泉訳,春秋社,昭4ー5

",フランス革命史1ー6 柳田泉訳,",22

カルヴェ,ナポレオン 井上幸治訳,白水社,28

グーチ,ドイツとフランス革命 柴田明徳訳,三省堂,18

クーパー,クレイラン評法 曾村得信訳,中央公論社,38

クロポトキン,フランス革命史(上・中・下) 淡徳三郎訳,青木文庫,27

コンドルセ,革命議会における教育計画,渡辺誠訳,岩波書店,24

コンドルセ,人間精神進歩の歴史 前川貞次郎訳,創元社,24

シェィエス,第三階級とは何か 大岩誠訳,岩波書店,25

ジョレス,仏蘭西大革命史(一~八) 村松,平凡社,5-7,21再版


正俊訳

スタイン,仏蘭西革命史論 綿貫哲雄訳,興亡史論刊行会,大正7

ソブール,フランス革命(上・下) 小場瀬・渡辺共訳,岩波書店,28

タルモン,フランス革命と左翼全体主義の源流 市川貞治郎訳,拓大海外事情研究所,39

",人権宣言集 高木・未延・宮沢編,32

タレイラン他,フランス革命期の教育改革構想 志村鏡一郎訳,明治図書出版,47

ツワイク,ジョセフ・フーシェ,みすず書房,44

テーヌ,大革命前の仏国 松本信広訳,国民図書,大正13

"近代フランスの起源 仏蘭西革命史論1・2 岡田真吉訳,斉藤書店,22

"近代フランスの起源上・下 岡田真吉訳,角川書店,38

ドウンカー他二氏編,仏蘭西大革命 国際労働者運動史1 北島武夫訳,中外書房,6

トクヴィル,アンシャン・レジームとフランス革命 樋口謹一訳,そせい書房,51

トムソン,ロベスピエールとフランス革命 樋口謹一訳,岩波新書,30

ニコル,フランス革命 金沢・山上共訳,白水社,26

バーク,フランス革命論 鍋島能正訳,理想者,42

ブリントン,革命解剖 岡・篠原共訳,岩波書店,27

ブーロワゾ,ロベスピエール 遅塚忠窮訳,白水社,33

ブロック,フランスの農村史の基本的性格 河野健二・飯沼二郎訳,創文社,34

マチューズ,フランス大革命1 ねずまさし訳,日本橋書店,21

マチエ,フランス大革命上・下 ねず・市原共訳,岩波文庫,33ー34

ミシュレー,フランス革命史1 後藤達雄・喜久雄共訳,日本評論社,25

ミシュレー,フランス革命の女たち三宅・山上共訳 河出文庫,27

ミニエ,仏国革命史1ー4 河津祐之訳,加納久宣出版明,9ー11

"フランス革命史 桑原武夫訳,中央公論社,43

ラスキ,フランス革命と社会主義 石上・安藤共訳,創文社,31

リッター,ヘーゲルとフランス革命,山口純夫訳,理想社,42

リューデ,フランス革命と群衆 前川貞次郎・野口名隆・服部春彦訳,ミネルヴァ書房,38

ルツチスキー,革命前夜のフランス農民 遠藤輝明訳,未来社,32

ルートヴィッセ(エミール),ナポレオン伝 金沢誠訳,角川書店,41

ルフェーヴル,フランス革命 鈴木泰平訳,世界書院,27.36

"フランス革命と農民 柴田三千雄訳,未来社,31

"1789ーフランス革命序論 高橋幸八郎・柴田三千雄・遅塚忠窮訳,岩波書店,50

著書

井上幸治,ミラボーとフランス革命,木水社,昭24

",ロベスピエール ルソーの血ぬられた斗い,誠文堂新光社,37

井上すず,ジャコバン独裁の政治構造,お茶の水書房,47

占部百太郎,仏蘭西革命史論,巌松堂書店,大12

加瀬俊一,ナポレオン,文芸春秋社,44

河野健二,絶対主義の構造,日本評論社,25

"市民革命論,創元社,31

"革命思想の形成,ミネルヴァ書房,31

"フランス革命小史,岩波新書,34

"フランス革命とその思想,岩波書店,39

"フランス革命と明治維新,日本放送出版協会,41

"フランス革命の指導者(上・下),創元社,31

"フランス革命の研究,岩波書店,34

"世界の歴史10 フランス革命とナポレオン,中央公論社,36

"フランス革命とナポレオン,中央公論社,43

小林良彰,フランス革命経済史研究,ミネルヴァ書房,42

"明治維新の考え方一東洋のフランス革命として一,三一書房,42

"フランス革命の経済構造,千倉書房,47

小牧近江,ふらんす大革命,黄土社,24

斉藤清太郎,仏国革命及びナポレオン時代講話,明治書院

坂田太郎,イデオロギー論の系譜,法律タイム社,29

佐藤賢司,ナポレオンの政戦両略研究,愛宕書房,19

新明正道(編),イデオロギーの系譜学,大畑書店,8

白杉庄一郎,絶対主義論批判,三一書房,25

柴田三千雄,フランス絶対王政論,お茶の水書房,35

"パブーフの陰謀,岩波書店,43

鈴木正四,民主主義革命,岩波書店,23

杉原泰雄,国民主権の研究,岩波書店,46

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小林良彰

こばやしよしあき

1932年 神戸市に生まれる

1956年 東京大学文学部西洋史学科卒業

現在 同志社大学商学部助教授 経済学博士

著書 『フランス革命経済史研究』(ミネルヴァ書房)

『明治維新の考え方』(三一新書)『市民革命』(三

一新書)『日本財閥の政策』(千倉書房)『戦後革

命運動論争史』(三一書房)『フランス革命の経済

構造』(千倉書房)『西洋経済史』(千倉書房)『勉

強に強くなる本』(三一書房)『昭和経済史』ソー

テック社『複眼の時代』ソーテック社『西洋経済

史の論争と成果』(三一書房)『革命の条件』(日本

工業新聞社)『宗教と経済体制』(日本工業新聞社)


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フランス革命史入門

1978年3月15日 第1版第1刷発行

著者 小林良彰

1978年

発行者 竹村一

印刷所 文栄印刷株式会社

製本所 東京美術紙工

発行所 株式会社三一書房

東京都千代田区神田駿河台2の9

電話03(291)3131~5番

振替 東京 9ー84160番

郵便番号101

落丁・乱丁本はおとりかえいたします


29-フランス革命史入門 フランス革命史文献の解説、短評

フランス革命史文献の解説、短評


カーライル 『フランス革命史』六巻 柳田泉訳

力アライル 『佛国革命史』四巻 国民文庫刊行会 大正六年

バスチーユからナポレオンの出現までを、主として政治史中心に描いている。戦闘の模様や、処刑、虐殺の様子をくわしく、なまなましい描写でたどる。全体が美文調であるから、原文が出版された当時(一八三七年)の読者には適していたが、現在では読みにくいものになっている。

バスチーユのときの宮廷側と国民議会、パリ市民の反乱の対抗関係は現代のものよりも忠実に、物事の本質を理解できるように紹介している。ダントンを国民の英雄として扱い、ロベスピエールは流血の独裁者のように描いている。また、革命軍の行った残虐行為をくわしく書いているのも特徴である。


クロポトキン 『フランス大革命』淡徳三郎訳

アナーキストの立場から過激派の立場を評価。ジャック・ルー、ルクレール、ショーメットの逮捕を共産主義運動の衰滅という。ショーメットも共産主義者の陣列というが、エベールは政治思想のため、経済革命とは縁のない方向へ逸脱したという。新興ブルジョアジーがロベスピエールを支持し、革命の幕をとじさせ、進歩的党派を粉砕させ、そのあとジロンド派権力への復帰に道をひらいたという。これではロベスピエール自身の党派の説明がなされず、ただカイライにすぎないような叙述になる。


ガクソット 『フランス革命』松尾邦之助訳

多くのエピソードを盛り込んだ物語り風の革命史であるから、面白く読める。ただし、革命の側の行った残虐行為や、腐敗、汚職についてくわしく、外国軍や反革命の側の行為についてはさらりとふれているだけであるから、革命のいまわしさが強調されるような印象を受ける。経済問題もかなり扱っているが、全体をとおした理論的な考察はない。


ジャン・ジョレス 『佛蘭西大革命史』八巻 村松正俊訳

第一次大戦当時の社会主義者ジャン・ジョレスの著書にふさわしく、フランス革命を経済的、社会的要因から説明しようとする。テルミドールの反革命まででとめているが、長文の資料が文章の間に散在しているため、尤大な量の革命史になっている。

革命中の各党派の経済政策についての資料を紹介し、ときに「最高価格法は賃金労働者を利したか」というような論証を行っているが、政治史と経済史が並列的に置かれているので、どの党派がどの階級の代表として行動したのかという解釈が明確にされておらず、もう一度自分の頭で、文中の資料をもとに組み立てなければならないようなところがある。ロベスピエールは偉大であったが、問題解決に必要な性質に欠けていたといって、ロべスピエールの敗北の原困を個人の資質にしているが、革命の経済的因果関係をさぐろうとしながら、肝心なところで昔流の人物史のわくから出られなくなっている。

ダントンについては、ルイ一七世を王位にすえようとした王党派的傾向をもっていたといい、本人の財産は汚れていないという。ただし、ダントン派の処刑とインド会社をめぐる汚職事件の関係はくわしく描いている。このように、すべての分野が多面的に描かれているのが特徴である。


テエヌ 『近代フランスの起源・佛蘭西革命史論』二巻 岡田真吉訳

 テーヌはフランス革命を徹底的に憎み、バスチ-ユ襲撃は無政府状態であり、ジャコバン独裁は鰐のようなもので、人間を食いつくし、ついには共食いをして、自分も食われてしまうというような発想で、きめつけている。

テーヌの叙述は、全体に、このような文学的、哲学的な傾向が強く、歴史描写の中に、自分の思いついたアイディア、評論、エピソードの紹介が入りこみ、散漫な感じがする。

 日本に翻訳されたのは、そのうちの最初の部分「旧制度」のみである。この中で、宮廷の生活作法、貴族のサロンの実例について、エピソード風の紹介がある。理論的に整然としたものではないが、当時の宮廷貴族の実態が読みとれるという意味では、意味がある。現在、宮廷貴族の権力と財力を過小評価するフランス革命史が盛んであるだけに、そのことがいえる。


カウツキー『フランス革命時代における階級対立』堀江英一・山口和男訳

 岩波文庫の文庫本である。カウツキーがマルクスとエンゲルスの理論をフランス革命の具体的事実に適用するために書いたものである。当時としては、階級的なものの見方、経済的因果関係に注目した先進的な歴史理論であった。それだけに、マルクス主義史学に大きな影響を与えた。とくにフランス絶対主義を貴族とブルジョアジーの均衡であると規定したところが、絶対主義の理論にたいして決定的な権威をもつに至った。

 彼の均衡論は世界的に普及した。ルフェーブル、マチエ、ソブールすべてその影響を受け、貴族を描くときはその没落の傾向を、ブルジョアジーを描くときは、事実以上に強い立場を主張するようになった。テーヌにまでさかのぼらなければ、貴族が強力であったという解釈には、お目にかかれなくなっている。

 均衡論は、日本にも重大な影響を及ぼした。三二年テーゼにみられる天皇制絶対主義説であり、地主と財閥の均衡を根拠にしたものである。その意味で、カウツキーは日本の現代史に生きている。

しかし、これは誤りである。フランス絶対主義の王権を構成したものは宮廷貴族であった。王権が、これから独立したり超越したことはなかった。事実を描くときは、国家権力に対する宮廷貴族の特権をとりあげているが、理論をのべるときは、そうした事実からとび離れて均衡論に走るのである。

 均衡論から脱け出すこと、これが第一の重要課題であり、私が宮廷貴族の実態について多くの紙面を使った理由である。


トムソン『ロベスピエールとフランス革命』樋口謹一訳

 流血と恐怖政治を代表する人物として嫌われているロベスピエールについて、積極的に弁護しようとする書物である。革命の第一原則をこれほど潔癖に尊重して生きとおしたものはほかにいないという。ロベスピエールが中産階級下層すなわち小ブルジョアジーのスポークスマンに自分を仕立てあげ、徳の共和国を理想として、その実現に奮闘したことを強調する。ただし、ロベスピエール派の孤立にいたる過程を、最高存在の祭典、プレリアル法を中心に説明し、ヴァントゥーズ法については、囚人の財産で貧乏人への補助金をまかなうと解釈して、簡単に飛ばしているので、社会改革の理想も、敗北にいたる必然性も十分な説明を受けているとはいえない。それにしても、ロベスピエールへの偏見を解こうと努めているところは評価するべきものがある。


ニコル『フランス革命』金沢誠・山上正太郎訳

 小さな本であるが、分析的な内容のものである。時代を追って叙述する前に、革命の性格についての理論的要約を行っている。その傾向は、「マチエとルフェーブルの理論の融合といえる性質のものである。革命前夜における王権と特権階級の対立を強調し、特権階級の反抗が三部会の召集を実現させたといって、王権もまた貴族の権力であったことを重視している。

ジロンド派追放の事件をサンキュロットの革命といいながら、山岳派は市民出身者から構成されているが、その政策の実施にあたっては第四階級の希望の実現を熱心に追求したという。また、ロベスピエールの孤立については、個人的な成功にたいする疑いであるとしているが、事件は正確に、しかも口ベスピエールに同情的に描いている。


ミシュレ『フランス革命史』桑原武夫他訳

 当時に書かれた革命史としては、人民史観の側に立った進歩的なものである。豊富な事実、文学的な表現が特徴である。この訳書は尨大な原文を要約したものである。革命と反革命の闘争に加えて、外国軍を相手にした絶望的な戦争の進行が立体的に組み立てられていて、当時の状態を理解するのに役立つ。王妃の処刑が、リヨンの反乱、北部軍の絶望的状態のため、ほとんど反響を呼ばなかったという描き方は、正確な描写である。

 ただし、経済的な因果関係、階級的な分析方法はほとんど見られない。バスチーユを陥落させるまでのいきさつはくわしく紹介され、誰がどのようにして殺されたかもくわしい。しかし、敗者と勝者が、どのような階級のものであるかについてはあまりいわない。どちらかといえば、指導者の個人的な性格や行為を中心にした史観である。


ソブール『フランス革命』小場瀬卓三・渡辺淳訳

 フランス革命を、政治史中心主義から脱皮して、経済的、社会的な観点から見なおし、また階級関係をつねに分析の中心に据えて見ながら、絶対主義の時期から、ナポレオンの時期までを綜合的に叙述している。そういう意味では、翻訳された当時では画期的な意味をもち、標準的な通史として扱われた。現在でも手軽に読める入門書としての価値はある。

ただし、理論的解釈に無理のあるところが目立つ。その点についてはすでにのべてきたとおりである。革命により「市民的土地所有は他のどの階級よりも大きくなり、貴族的土地所有は消減しなかったし、農民的土地所有は前進した」という書き方でまとめる。他方で「旧制度の貴族階級は」「決定的な打撃をうけた」として、これに代って、階級関係がブルジョアジーに有利にかわったという。また農民が分解して、一方に農村ブルジョアジーを形成し、反面農民大衆は旧制度下と同じような重大な危機を経験しつづけ、貧農のかなりがプロレタリヤ化するという。

こうした意見からは農民革命論が出てくる余地がないように見える。その同一人物がのちに農民革命論を大きく評価するようになるのはふしぎなことである。


マチエ 『フランス大革命』ねづまさし・市原豊太訳

原書はソブールのものよりも先に書かれたが、日本には、後まわしの形で紹介された。通史にしては尨大な内容をもち、登場人物も多彩であり、しかも政治家たけでなく、ブルジョア、小市民、貴族の中からふんだんにひき出されてくる。訳書には人物について注が施されているから、この多数の人物とその注を記憶すれば、相当の知識になる。ただし、事件の描写はテルミドールの反革命までである。

マチエの理論的解釈についても、私はすでに疑問を出してきた。それは別として、彼の長所は、ダントン派やエべール派と銀行家、御用商人その他ブルジョアとの結合を実証し、とくに、久しく革命の英雄として評価されてきたダントンについて、その裏面をえぐり、腐敗議員の列に分類したことである。これは正しい。

その反面、ロベスピエールの思想行動を高く評価し、テルミドールの反革命へいたる経過は公平に描かれている。もっとも科学的な通史である。ただし、ルフェーブルにいわせると、マチエの革命史には農民が自律性をもって登場してこない。それは、たしかに欠けたところである。だから、これを読みとおしても、土地問題はどうなったか整理することができないだろう。工業や商業についてもそうである。全体がこまぎれで叙述されているから、もう一度自分なりにつないでいかなければならない。

また、テルミドールで終っているから、その後恐怖政治が廃止されていく過程が明らかにされないまま、ロベスピエールの死に余韻を残して終っている。


ルッチスキー 『革命前夜のフランス農民』遠藤輝明訳

ロシア革命前のロシア人学者によるフランス農民史の研究である。直接なまの史料から領地の実態、土地所有の分布状態を導き出している。革命前夜において、農民の土地が約半分以上を占める地域が多かったことを主張している。また、農民の土地の増加が少しずつ行われたので、これがフランスと他のヨーロッパ諸国とを区別するものだという。このように、農民の土地を強調することは、ルッチスキーとフランスの実証主義的学者との意見の分れ目になっている。

ルッチスキーは、この土地所有農民が、領主権の重圧に反抗して、フランス革命のときの農民運動に発展するといい、農民運動が直接絶対王政に対して向けられたといえるものではないといういい方をしている。ただし自分の意見としてではなく、慎重に他人の意見を引用して結論にかえている。

これとは別に、彼はフランスの領地の構造を正確に紹介している。領主の直領地があること、別な貴族が領主権に服していることを指摘している。これは重要な指摘である。


ルフェーブル 『フランス革命と農民』柴田三千雄訳

ルフェーブルの二つの論文がおさめられている。はじめの「フランス革命と農民」では、三部会の召集までを貴族革命といいながら、これは流産したという。

また、ジョレス、マチエの分析では、農民革命の自律性が評価されていないから、不完全だという。しかもその農民革命が反資本主義的な傾向を帯びていたということを強調する。そこから、フランス革命が農民の大多数の層を満足させるものではなかったという。これは正しい指摘である。

領主権の無償廃止は小作農の利益にならず、国有財産の売却も「貧民」や「貧農」を土地所有者にしなかったことを強調する。このあたり、事実に忠実な分析である。彼は、ブルジョアジーと農民の同盟という図式を固定的に考えることに反対し、とくに貧民の行動がフランス革命の政策と敵対関係にあることを指摘する。農民問題についての、すぐれた論文であるが、これを素直に解釈すると、土地革命論の否定に通じる。

もう一つの「ロベスピエールの政治思想について」では、ロベスピエールの社会的理想が小生産者の社会であり、社会的民主主義であったことを論証している。


ルフェーブル『一七八九年-フランス革命序論』高橋幸八郎・遅塚忠躬・柴田三千雄共訳

『フランス革命ー八九年-』鈴木泰平訳

フランス革命を複合的な革命として、貴族の革命、ブルジョアジーの革命、民衆の革命、農民の革命に分類し、三部会召集からヴェルサイユ行進までを描いている。史実の紹介は実証的であるが、解釈が独特である。高等法院が王権に抵抗したことを貴族の革命といい、この時の対抗関係を貴族対王権に整理している。そうすると、王権は貴族の権力ではなかったということになり、宙に浮いてしまう。農民の革命という形で、八月四日の封建権利廃止の宣言を出させる原動力になった農民反乱を、自律的な農民運動として扱ったことは、フランス革命史の進歩をあらわすものであった。

ただ、ルフェーブルは反乱や反抗を革命と名付けるのである。一七八九年八月の時点ではブルジョアジーが社会を支配したことを認めているのであるから、民衆や農民は革命に成功したのではなかった。そのところの区別がつけられていないから、革命と革命運動の混同がおこなわれているといわなければならない。

高橋、柴田、遅塚訳では貴族の革命といわずに、アリストクラートの革命と訳し、アリストクラートの語を貴族および高位聖職者を含むものとしている。このような説明つきで読むならば、高級僧侶と貴族が王に反抗して三部会召集を強要したかのように見える。しかし、最高級の貴族と僧侶は三部会召集そのものにも反対していたのである。アリストクラートが分裂したことが重要であるのに、これをひとまとめにして反抗、革命の側に立ったというところに、ルフェーブルの解釈の見当ちがいなところが出てくる。

巻末にソブールの論文「現代世界史におけるフランス革命」をのせている。ソブールも同じく王権とアリストクラート層の対立から説明をはじめている。王権そのものも、アリストクラート層の上層であることを、なぜ認めようとしないのであろうか。

ソブールの論文は、土地問題を中核にして、フランス革命と明治維新の対比を行っている。ところが、その対比の仕方が、日本で積み重ねられた誤解を逆輸入した方法で、極端化している。領主制の廃止が、フランスの無償に、日本の有償が対比するという。そこで、日本の土地所有農民(本百姓)は、旧年貢と変らない重さの地租を負担しつづけたという。しかし、これは間違いである。地租改正の時点はそうだが、明治一〇年から一四年にかけては、ぐんと減って、軽くなった。長期的に見ると、減少したのであるから、固定的に見すぎている。

つぎに、地主小作関係が残り、これが半封建的土地所有であるといい、これが農民を従属させたから、明治維新が絶対王政を形成したとして、これが戦後の農地改革まで続くという。高橋幸八郎氏の理論を、そのままひき写したようなものである。それでは、もう一度、フランス革命で地主・小作制度が消減したかと問い直さなければならない。ソブールは、そうしたことについては、何もふれず、ただ、国有財産の売却で農民が土地を獲得したという。しかし、国有財産売却を、ただ農民だけに限定して評価することが一面的であることは、すでに見たとおりである。

別なところで、この農民を富農だといっている。これが所有地を増大させたという。これは正しい。この富農はすなわち地主であり、そのもとで小作農や日雇農が働いたのである。地主・小作制の残存を暗に含んだ表現である。それならば、日本と大して異なるところはない。

ソブールは、純粋にフランスのことをいうときには、このようにいいながら、日本との対比の場所では、突然、その「農民」の適用範囲を変化させ、中農か貧農にあてはめる。そして、日本には、フランスで見られた中農がないと極論する。

彼は、フランスのことをいうときは、中農や標準的な農民のことばかりをいい、ブルジョア地主や貴族大土地所有者の残存については知らん顔をしている。知らぬわけはないのだが、理論を説くときには都合が悪いから切り捨ててしまうのである。そこに、彼の理論と事実の分裂がある。


リューデ 『フランス革命と群衆』前川貞次郎・野口名隆・服部春彦訳

フランス革命の過程に起こった暴動、内戦、武装蜂起について、下からの役割を中心にして、体系的に描いたという点で、独特の価値をもっている。ほとんどの革命史が、まず上部での政争を描き、その結果、群衆がどこそこを襲撃したという表現をする。リューデはその群衆がどのような人間で構成されていたかを中心にして事件を描いている。

たとえば、バスチーユを攻撃した人びとは八〇〇人から九〇〇人の間で、そのうち、リストに残ったものが約六〇〇人であり、このうちの約五〇〇人は小商人、手工業者、賃金労働者であるという。このうち、賃金労働者の数は少なく、約一五〇人くらいであったというように紹介している。約一〇〇人近くが、製造業者、富裕な商店主、ブルジョアと呼ばれる人、軍人などであったことを指摘している。

このような方法で、主な事件を追跡していく。そして、細民、サンキュロットすなわち婦人、賃金労働者、手工業者、職人、小商人、または作業場の親方はふつうの男女からなっていたのであり、それが経済的危機、政治的大変動に反応して、独自の苦情を満足させようとする衝動から「革命的群衆」になったとしている。こうした群衆の独自性を評価しながら、他方でこれらの群衆が、さまざまな外部からの煽動、指導によって動かされたことを認める。その場合でも、最高指導者と下層民衆の参加者の間の連絡が維持されたのは、マイヤール、クレール・ラコンプのような二次的指導者を通じてであったという見解を示している。


ミニエ 『佛国革命史』河津祐之訳 四巻

文語調の読みにくい翻訳である。革命直前からナポレオンの没落までを、政治史、軍事史中心に描いている。訳語が現在とひじょうに違う。僧侶のことは教徒と訳し、宮廷貴族は朝臣、法服貴族は長形の人などという。革命の財政的原因についてもふれているが、断片的であり、首尾一貫した説明にはなっていない。そのかわり、反乱、内戦、殺人についての具体的描写は現代のものにくらべてくわしい。ジロンド派を高く評価し、「賤民」の圧力のためにジロンド派を逮捕した時から、フランスの議会は自由を失ったといっている。


箕作元八 『フランス大革命史』二巻 富山房 大正八、九年

この時代に、日本人の書いた革命史としては、もっとも進歩的で、内容の豊富なものである。貴族やジロンド派に同情する革命史から、人民の側に立つ史観へと著者自身が変化したという。とくにオーラールから大きな影響を受けたといっている。

そのため、ダントンを高く評価し、ロベスピエールを狭量といい、両者の対立を個人の気質のせいにして、社会的背景や経済政策の相違にまで考察を進めていない。

ジロンド派の没落、ロベスピエールの処刑についても、政治史的な説明が多く、政変の理由が個人の思想、性格から説明されている。ただし、国民公会の派閥を正しく分析し、平原派の役割を正確に、革命後まで追跡しているが、これは、戦後の革命史に欠けたところであり、それだけに評価できるものである。土地問題についての理解は低い水準であり、領地と土地の区別もつけられていない。


本田喜代治 『フランス革命』昭和二三年、昭和四八年新装版

革命前夜から、テルミドールまででとめている。それ以後の白色テロは革命に入ってこないという。反動の勝利に終るが、旧制度は復活しなかったという。七月王政でブルジョアジーの権力が確立し、その下でプロレタリアートが成育し、二月革命で対立するという見方である。

事実関係はかなりくわしいが、七月一四日から封建的権利廃止の農民の行動を評価し、完全廃止をジロンド派没落の時点(一七九三年)とし、ブルジョアジーと民衆の対立の図式にもってくる。しかし、他方でこの撤廃は八月十日(一七九二年)に行われたと叙述する。事実と総論の背離である。著者は、明治維新がほんとうの革命でなく、上からの改革であったとする立場から、フランスの大恐怖と封建権利廃止の運動を、人民の力による廃止であると評価する立場で説明する。

恐怖政治の段階では、政治史的叙述の傾向が強まり、それだけに何のためにジャコバンが分裂し闘ったか分らなくなり、「過激」「穏健」の分類で、ロベスピエールがその間にあり、人民からはなれたところでテロの歯車をまわしてやたらと処刑していったという。古い史観と、新しい人民史観が混合して正確に結びついていないから、因果関係が理解されないはずである。

土地を得た農民が反動化し、何一つ得るところがなかった下層労働者とのあいだに一種の対立が生じ、革命の前進をくいとめようとしたブルジョアジーのために、農民を基盤としたナポレオンが民衆から革命の果実を横どりしたという。この時期の日本の公式的見解である。

新装版は著者が二〇年前に出版した革命史の改版である。知識の点ではもう必要ないといえるかもしれないが、日本社会の民主的変革との対比に焦点をあわせての実践的アプローチからすると、まだ不要になっていないという立場で改版した。革命にともなう反革命の動きに注目し、日本民主化を阻もうとする力があり、事態が深刻だという評価から、フランス革命を見直すという立場である。


高橋幸八郎 『近代社会成立史論』

フランス革命の経済的内容の分析が約半分を占めている。とくに封建的土地所有の廃棄、小農土地所有の成立を軸にして考察し、アンシャン・レジーム末期の農村には、「農民民主的な型と寡頭専制的に地主=商人的な型」との「二つの対向的な」近代的進化の方向があり、フランス革命でこれが「古典的に決済」をつけるという。

八月四日の宣言、封建権利の有償廃棄は後者の方向であり、これを「封建制度の部分的改造」と理解する。そして、この線が、フイヤン党、ジロンド党の支柱としての「上層市民」によって維持されるが、これを九三年の「社会革命」すなわち「ジャコバンの小市民的独裁」が「圧伏」して、「封建寡頭的な全機構を清掃し去る」ことにより、近代社会創造の課題を果したとする。

ここでは、バスチーユ、八月四日の宣言、八月十日(ジンド派政権)はすべて封建制の改造ととらえられている。これをジャコバンが圧伏して社会革命になったというが、これでは、王権、フイヤン派、ジロンド派の間にある相違が無視されて、ひとまとめにして反革命の方向に押しやられている。それでは、何のために、これら三つの勢力が、それぞれの時期に死闘を演じたのか説明できない。また、領主権の無償廃止がジロンド派政権で行われたことが無視され、ジロンド派も領主権の維持に熱心であったかのように受取られる。これでは誤解をつくる。

また、この二つの対抗関係が工業にも結びつくという。農村マニュファクチュアと巨大特権マニュファクチュアの対抗関係である。前者は「独立農民層=小市民層」の自主的成長、後者は「封建貴族、独占商人、金融貴族の産業支配」で上から育成されたとして、前者が後者を革命の過程で圧伏していくという図式を提起する。

その実例に炭鉱の「アンザン会社」、鉄鋼の「クルウゾ会社」をあげ、これがフランス革命の過程で圧伏されていったという。これが大塚史学の公式のはじまりであった。当時日本のだれもが実例をよく知らなかった。そこで多くの人が、これを引用し、フランス革命で大工業が減んだといい、これが一つの真理になってしまった。

しかし、事実は反対であることは、すでにのべたとおりである。そうしたことはあるにしても、終戦直後の状態では、最大限に、経済的内容をともない、農民問題を軸にしてフランス革命を考えた進歩的著書であり、高橋理論はフランス革命の研究を志ざすものは一度は通るべき道になったのである。


高橋幸八郎 『市民革命の構造』昭和二五年版と増補版

市民革命の一般論であるが、フランス革命の研究史の整理から入り、プルジョア革命として、土地問題、農民解放を中心課題であるとしている。ここでは、領地所有と土地所有のあり方は、事実にそってのべられている。領主権の廃止もジロンド派政権の時点といわれている。ただし、それでいながら、九三年の無償廃止も加え、後者に力点を置いている。この効果としては、農民を領主制土地所有から解放し、分割地農民に転化したことを強調し、商人地主や農民地主の解放についてはあまりふれない。

また、国有財産の売却も、土地所有分布に大きな変化をもたらし、農民にも「多かれ少なかれ、新たに土地を賦与」したという形で紹介する。ただし、小農土地所有は国有財産の売却によって生じたのではなく、あくまで、革命前に農民的土地所有が存在していて、これが領主権の無償廃止で分割地農民になったとして、後者の効果を第一におく。これをフランス革命の成果として強調するが、事実を紹介するところでは、革命以後も、土地のない農民、土地不足農民が多数いることを書いている。他方で革命後の農村ブルジョアの存在をいいながら、大土地所有(権)は革命によって破壊されたともいう。事実を描くときは公平だが理論を説くときは農民革命論一色になるという特徴をもっている。

増補版では「封建制から資本主義への移行」がつけ加えられている。ここでも、西ヨーロッパでは「生産者→商人」の道をすすみ、プロシア、日本では「商人→産業家」の第二の道を進むという理論が確認されている。ただし『市民革命の構造』では『近代社会成立史論』にあるような、アンザン会社、クルウゾ会社の実例は引用されなくなっている。


豊田堯 『フランス革命』

アテネ文庫の本である。ジロンド党と山岳党の中間に、第三党の平原党のあったことを忘れてはならないと指摘し、平原党が大体において地方出身のブルジョア議員であり、自由主義経済を支持し、心底では人民の暴力行為と流血沙汰に不信の情をいだいていたという。

その点でジロンド党と共通しながら、他方で、いかなる犠牲を払っても革命を守らなければならないと考えたから、山岳党に合流したという。

こうした勢力を無視して、ジロンド党と山岳党との対立だけで考えることに批判的であり、むしろ、平原党の向背がジロンド党の追放、山岳党の排除を決めたという見方を提起している。


河野健二 『フランス革命小史』

フランス絶対主義の説明は、カウツキーの均衡論によって説明している。革命の出発点は、ルフェーブルの貴族革命論で説明し、ブリエンヌが貴族の反抗の前に屈服したと書いている。しかし、そのブリエンスも貴族であることにはふれていないから、王権の側に立つブリエンヌの性格があいまいになってしまう。

バスチーユ占領のあと、すぐに農村の革命にふれ、農民が封建制度の根源である領主権に反抗したとして、この闘いこそがブルジョア革命の成否を決めるという。領主権を封建制と同一視する理論からくる見方である。

そこで、八月十日を第二次革命といい、封建制の完全な一掃が行われたという。

ロベスピエール派の没落について、その社会政策を評価しながら、これが巨大な錯覚であったという。


前川貞次郎 『フランス革命史研究』

フランス革命の歴史というよりは、むしろフランス革命史家の歴史である。いうなれば、フランス革命史学史である。王政復古の時期を「歴史の洪水」といって、フランス革命史学の上で、最初の、しかももっとも実りの多い時期とみなされているという。以後七月王政、第二帝制、第三共和制の時期にわけて、それぞれの革命史学について紹介、論評している。

その中で、オーラールからフランス革命に関する客観的科学的な研究がはじまったとする一般的評価について、これを認めながら、そのことがオーラール個人の才能によるだけではなく、ちょうどフランス革命の百年記念を迎え、しかも第三共和制の確立といった条件の上に、研究、出版が活発になったという時代的背景によるものであるとしている。

また、オーラールの研究をさらに発展させ、独創的な見解を提出したのはマチエであるとし、ダントンの評価をめぐって両者が対立していく過程を紹介している。オーラールをはじめ当時の革命史学がダントンを革命の英雄として高く評価していた。当然、ダントンを粛清したロベスピエールは野心家、独裁者ときめつけられていた。

しかし、マチエは、ダントンの裏面に気がつき、これをえぐった。御用商人との結びつき、腐敗議員との交際などである。

ただ、マチエのロベスピエール解釈が不偏不党なものであるかについては、やや疑問であるとし、ルフェーブルが指摘するように農民問題がほとんどとりあげられていないといいながら、今日のフランス革命史研究の出発点は、マチエにあり、マチエをどのようにのりこえていくかが、最大の課題であるといっている。


桑原武夫編 『フランス革命の研究』

京大人文研の共同研究の成果である。参加者の文集である。序論「フランス革命の構造」は河野健二、「上山春平、樋口謹一の諸氏によるもので、フランス革命が「史上その類例をみないほど徹底的に封建制を打破し」「封建国家を近代国家に転化」させたという観点でまとめている。

以下、桑原武夫「ナショナリスムの展開」、樋口謹一「権力機構」、河野健二「土地改革」、河野健二「経済思想」、上山春平「哲学思想」、森口美都男「キリスト教と国家」、山田稔「革命と芸術」、吉田静一「産業保護主義」、前川貞次郎「ジロンド派とモンターニュ派の対立」、牧康夫「ダントンとロベスピエールのパースナリテイ」、井上清「日本人のフランス革命観」の論文よりなり、巻末に人物略伝、年表がくわしく掲載されている。


大塚久雄・高橋幸八郎・松田智雄編著 『西洋経済史講座』五巻 岩波書店

昭和三五年にもフランス革命関係の論文が多数ある。中木康夫「マニュファクチャーの成長と市場深化」、誉田保之「問屋制度とマニュファクチャーの絡みあい-とくにフランス絶対王制におけるリヨンのばあい-」、遠藤輝明「資本主義の発達に伴う土地制度の変容」、吉田静一「フランス重商主義-コルベルティスム、重農主義との関連において-」、二宮宏之「領主制の『危機』と半封建的土地所有の形成」、中木康夫「問屋制度と特権マニュファクチャー」、遅塚忠躬「絶対王制の経済的基礎の動揺-土地問題-」、柴田三千雄「封建的土地所有の解体-フランスのばあい-」である。

このうち、中木康夫「問屋制度と特権マニュファクチャー」においては、絶対主義下の特権工業の実例を、アンザン会社、クルーゾ会社だけではなくて、もっと範囲を広げ、ヴァンデル、アンドレ火砲鋳造会社、リュエル造兵工場を実例としてあげ、これらが「中・小生産者たちの暴動によって破壊されて」しまい、モンタニヤール独裁制のもとで特権会社は根底から廃棄されたという。この図式を後進国の上からのなしくずしの資本制大工業への進化と対比する。大塚史学の基本的なテーマである。しかし、第五章第三節でみるように、これら大工業は、むしろ恐怖政治の頃革命政府の援助をうけ、武器増産に協力し、破壊されることがないのである。


河野健二 『フランス革命とその思想』

思想史から経済史までを含む論文集であるが、基本的な観点は、著者のブルジョワ革命についての結論である。それは、ブルジョワ革命が封建制の撤去をなしとげたものであり、それ以後の地主制は「近代的土地所有」の一形態であるという認識である。

この立場から、明治維新を資本主義的な革命であるといい、日本の地主制とフランス革命以後のブルジョア的地主制が類似しているという。

ただし、封建的土地所有の廃止のされ方がちがい、フランスの無償廃止にたいして、日本の賠償をともなう廃止が対置されるものとしている。このように対立させながら、フランス革命と明治維新の同一性を主張することには、多少無理がある。

この無理は、フランス革命の結果として、封建的土地所有の無償廃止をもってきたところである。そうではなくて、バスチーユ襲撃の直後、まだ領主権の有償廃止が行われた時点でも、すでにブルジョア革命が実現されたといえる。領主権の廃止は、七月一四日の反乱の主な目標ではなかったという私の指摘を読み返してほしい。


河野健二 『フランス革命と明治維新』

日本における明治維新論争をふまえたうえでの、フランス革命の分析であり、つねに、両者の比較が軸になっている。そして、両者をともにブルジョア革命としながら、ブルジョア革命が封建制の廃止を眼目とはするが、それは消極的な成果であるという。

その場合の封建制とは、もっぱら領主権のことであり、領主と農民のことに比較観察の範囲が限られていて、ブルジョアジーと領主の関係は重視されていない。

また、貴族革命説を採用し、王権と貴族の対立から三部会の召集を説明しているところは、ルフェーブルと同じである。その延長として、王権が議会を押しつぶそうとしたから、バスチーユ攻撃と農民蜂起が起こり、この危機を救ったとしているが、王権を宮廷貴族から離れたものとしたり、バスチーユ襲撃と農民反乱を同質のものとして理解するべきではないだろう。

井上すゞ『ジャコバン独裁の政治構造』

前半が、フランス革命史の著者なりの整理、後半が、ジャコバン独裁の政治構造である。恐怖政治を、はっきりジャコバン独裁といって、国民公会の中の平原派の役割を評価しない。カルノー、ランデをブルジョアジーの政治的・社会的優位を確保しようとする一派といい、ロベスピエール派をサンキュロットの側とする図式で解明しようとする。過激派の運動を民衆運動といい、もっとも熱意をもって革命を支持し、推進した勢力と評価し、エベール、ダントンが裏でブルジョアと結んでいたことは問題にしない。エベール派、ダントン派の粛清もロベスピエール派の仕事と規定し、以後を口ベスピエール独裁という。その独裁がブルジョアに反対され、民衆から孤立して減んだと解釈するが、それでは、ロベスピエール派の足場が何であったかが説明できない。


小林良彰『フランス革命経済史研究』

商業資本と産業資本について、具体的にフランス革命における動向をとりあげ、大工業が断絶せず、かえって恐怖政治の頃は育成されていることを示している。また、大商人、銀行家、大工業の実例を紹介し、革命をくぐりぬけて生きつづけている姿を示している。

土地間題では、貴族の大土地所有、ブルジョアの大土地所有、農民地主の大土地所有が残る必然性を説き、単純な農民革命論に疑問を出している。

絶対主義の構造については均衡論への批判からはじまり、王権の支柱は宮廷貴族であり、これがその時点での領主であると強調している。そこから、フランス革命の原因結果を財政問題としてとらえ、それを証明するための多くの実例を紹介している。


小林良彰『フランス革命の経済構造』

フランス革命の前提、展開、結論に沿ってすすむが、それぞれの部分での実証をくわしく入れている。とくに、宮廷貴族の実例と実態、法服貴族の状態、領地や土地の分布、革命後の貴族大土地所有の残存の実例が豊富である。

恐怖政治の解釈をくわしく扱い、ジロンド派追放の基本的問題は累進強制公債であるとして、そこから、恐怖政治=サンキュロット権力、あるいは小ブルジョア独裁の学説を批判している。

巻末にケース・デスコントとフランス銀行、インド会社とフランス革命の関係を扱い、大商人ボスカリの革命中の動向を紹介する論文がある。


岡田与好編『近代革命の研究』

昭和四八年にもフランス革命関係の論文の比重が多い。二宮宏之「『印紙税一揆』覚え書-アンシァン・レジーム下の農民反乱」、遅塚忠躬「フランス革命期における農民層の分解と農民諸階層の対抗関係」、遠藤輝明「フランス革命史研究の再検討」である。

遅塚氏の論文は一つの村をとりあげて、革命前の農民層の分解のあり方と社会諸階層の対抗関係との関連を追跡している。その結果、富裕なラブルウルすなわち富農または地主の利害が終局的に貫徹されたという。また、国有財産の売却について、亡命貴族の財産は旧所有者の親族によって買戻されたこと、僧侶財産は、最も重要な部分を都市の商人と都市ブルジョアに転形途上の農民が買い、つぎに富裕なラブルウル、土地の工業家が買ったという。これでは、国有財産の売却も、農民革命とはいえない。農村ブルジョアジー、富農(地主)の利益貫徹を分析した事実からいわざるをえない。

ところが結論の部分で突然表現をかえて、多数の住民が革命期に住民集会に参加し、その意志を直接に表明したことに意味があり、デモクラシーへの一道標としての「九三年の太陽」がこの村に輝いていたという。延々と土地問題の実証をしておいて、結論は政治的経験で終る。論旨の飛躍に首をかしげざるをえない。貧農が住民集会に参加し、発言しても、土地が手に入らなければ太陽にはならない。

なぜこのような結論になるかといえば、農民革命論へのこだわりがあるからだ。この実証からは、地主制の根強い残存が自然に結論として引き出せる。ところが、そう言いたくないし、言うと具合が悪いのである。そこで多数住民の政治的経験に話をすりかえる。逆にいうと、農民革命論を主張しようとしても政治的経験くらいしか言うことがなくなった現状を反映している。農民革命論の理論的破産を示す一例である。

遠藤輝明氏の「再検討」では、日本のフランス革命史の研究をあとづけながら、その主な変化として、市民社会から資本主義社会へ研究の視座が移行し、小ブルジョアジーの反資本主義的性格が確認され、農民革命をフランス革命展開の基動と位置づけてきたことが、一つの契機として位置づけられるようになり、ジャコバン独裁が本来の目標でなく、ブルジョア革命からの逸脱であったとされるようになったと整理する。

これらの変化を高橋説への修正意見として受けとめるべきだろうという。 

28-フランス革命史入門 第七章の二 フランス革命と明治維新の比較

二 フランス革命と明治維新の比較


フランス革命に土地革命はなかった

フランス革命で土地命がおこなわれたという学説が、有力である。土地革命をどのように解釈するかはまちまちであるが、一応貴族の土地を没収して農民に与えるもの、あるいは、領主権を廃止して自作農民(分割地農民)を作りだすものと規定される。

フランス革命が典型的なブルジョア革命(市民革命)であるから、ブルジョア革命といわれるためには土地革命がなければならないという法則が、歴史家家の頭を強く縛りつけている。しかし、私は、ここまでのフランス革命の分析によって、極論すればフランス革命に土地革命はなかったといわなければならない。そうだとするならば、世界各国の歴史、とくに明治維新の解釈に重大な変化を与えることになる。

フランス革命では土地革命がおこなわれたのに、明治維新以後の日本では地主が残っているではないかとか、大名が公債をもって没落していないではないかというような対比がなされる。しかし、フランス革命でも大貴族は残った。ある者は直領地を保存したままで大地主であり、取上げられた者は、それに相当する公債を手に入れた。つまり後者の場合は、日本の華族と同じである。

領主権の廃止はたしかに無償であった。しかし直領地が残った。また、土地保有者としての貴族もいたので、これは土地所有貴族に上昇した。この点、日本の武士階級はそうしたものを持たず、完全に土地から引きはなされたから、日本の方が徹底的であった。土地から引きはなされたところは有償廃止であり、土地を残してらったところでは無償廃止である。プラス、マイナスを差引くと、同じようなものになる。

つぎに農民の側から土地革命がおこなわれたかどうかをみよう。これも第一章第三節の図を見なおすとわかるように、領主権の無償廃止をおこなったとしても、それによって完全な自作農になる農民の数も、土地もかぎられたものである。領主権の廃止で完全な土地所有者になるのは中農だけではなくて、商人地主も農民地主もそうである。

だから、領主権の廃止を農民革命と限定することはできない。ブルジョア地主、農民地主の地主革命ともいえる側面もあり、農民革命だけがフランスにおこなわれたわけではなかった。しかも中農以下の自小作農、小作農、日雇農、農業労働者の大群が、なんら土地所有者に生れかわることなく続いた。地主小作関係は依然として続いている。貴族の直領地、貴族あるいはブルジョアの地主の土地、大農民の土地においてである。これでは土地革命といえるものではない。

ちょうど日本で、明治維新以後、地主小作関係の土地が、約三分の一から約二分の一へと増加していった現象と同じである。

それでは、国有財産の売却が土地革命を作りだしたといえるだろうか。実はこれも、そうはいえないのである。この土地を買受けた者をブルジョアと農民と二つに区別してみると、ブルジョアの買取った土地の方が、農民の買取った土地より多い。しかも農民といっても大、中、小に分れており、大農民が大きな土地を買取った。入札竸売である以上、以前からもっている財産に比例して買取りの規模が決まるのは当然である。そのため、貧農が土地を買取って自作農に上昇するような機会はほとんどなかった。これでは、土地革命とはいえない。どこからみても土地革命といえるようなものはない。

ただ一つ、ロベスピエール派の政策、すなわちヴァントゥーズ法が実行されたならば、これこそ土地革命といえる事態がおこったはずである。そこでもう一度まとめると、フランス革命では土地革命の理念は提起された。だが、土地革命はおこらなかったのである。

まして、恐怖政治による封建貢租の無償廃止を強調することは論外である。封建貢租の廃止はジロンド派が基本的に達成した。多くの歴史家が、貢租の無償廃止を過大評価したのである。フランス革命以後、旧貴族の大土地所有が続き、彼らが昔の城に住み、ナポレオン時代や王政の復活の時代に、皇帝や国王のまわりを取りまいていたことをもっと考えるべきである。

もし土地革命がおこなわれていたのであれば、そのような大土地所有貴族が革命後も残っているはすがないではないか。このような簡単なことすら無視されているのは、不思議なことである。ただ、日本では、貴族大土地所有の残存について紹介されたものはまったくなかった。そこで私は、その実例について、多数のものを集め、これを紹介したことがある(『フランス革命の経済構造』五二七頁)。その一例だけを示すと、ツールーズ郡では貴族所有地約二万二六〇〇ヘクタールのうち、約一割だけが革命で失われ、残りの九割は無傷で残っていた。その中では、一〇〇〇ヘクタールとか、数百ヘクタールの土地所有者が多く見られる。


大工業は断絶しなかった

フランス革命で、アンシャン・レジームの特権工業、大工業が断絶したと主張する学説が日本で盛んである。これを主張したのは、大塚史学の側である。大塚久雄、高橋幸八郎、中木康夫の諸氏であるが、吉田静一氏もそのように書いている。実例としては、アンザン会社、ル・クルゾーその他がもちだされる。

日本では、これらの大工業が、フランス革命以後は存在しないと思われていた。しかし実際にフランスの工業やブルジョアジーの歴史を調べていくと、それらはれっきとして現代に続いているのである。ル・クルゾーを三分の一の規模に縮小して作ったのが、日本の横須賀海軍工廠であるから、日本にも深いかかわりあいがある。これをフランス革命で断絶したといい切っていたのであるから、この理論がいかに奇妙なものであったかがわかるはずである。

本書を読めば、こうした特権工業が、旧体制での特権は失ったにしても、公安委員会の手で積極的に再建育成され、フランスの国防力の強化に役立てられたことが理解できるはずである。

アンザン会社は革命によって破壊されたのではなく、オーストリア軍によって破壊されたのである。それを公安委員会の協力によって再建をはじめた。ところが、大塚史学では、こうした大鉱山がフランス革命で徹底的につぶされてしまうといっている。これが、大塚史学の理論的支柱になっている。しかし事実はそうではない。

大工業がフランス革命を通じて連続していることを、私は約一〇年前に『フランス革命経済史研究』で証明した。そこで、私の理論を断絶論にたいする連続論だという人があるが、連続論そのものを唱えるつもりはないのである。ただ、断絶もしないものを断絶したといって、フランス革命の基本的結果にもちこみ、これをブルジョア革命の一般法則にまで引きのばしていくやり方に反対したのである。いいたいことは、「そういうところにフランス革命の結果はなかった」という一点につきる。

フランス革命のときに、実際につぶれてしまった大工業もないことはない。すべてがすべて連続するのだとはいっていない。激動の時期であるから、当然断絶するものもありうることは否定しない。この問題についていえることは、あるものは断絶し、あるものは連続するというものであって、どちらか一方に偏した結論は非現実的である。

ただ、どちらかといえば、大工業とくに重工業に関しては、断絶しているものは少ない。それは、当時の戦争の必要からしても当然であり、ヨーロッパ最強のフランス革命軍の背景をなすものでもあった。

こうしたことをなぜ強調するかといえば、大塚史学のテーマでは、フランスの断絶にたいして日本の連続が対比されて、両者がまったく逆の立場におかれるからである。

フランス革命では特権工業が断絶した。革命は徹底的であった。日本では、三井、住友のような特権的ブルジョアが明治維新を通して連続している。だから日本の資本主義は封建的性格を残す。そのため、フランス革命はブルジョア革命であったが、明治維新は絶対主義をつくりだしたものにすぎない。

このように、大塚史学が日本の歴史とフランス革命を対比する。その理論的な土台にたいして、誤謬を指摘しているだけのことである。


恐怖政治の過大評価をいましめる

これとかかわりあいにあるのが、恐怖政治の解釈である。これをサンキュロット支配と解釈する説が有力である。サンキュロット支配のもとで、大工業をつぶし、土地革命を実現したというテーマは、古くから常識のようになってきた。本書での結論はまったくちがう。

恐怖政治はサンキュロット支配ではなく、平原派が集まる大ブルジョアジーの一派と、モンタニヤール主流に代表される中流のブルジョアジーと、ロベスピエール派に代表される小ブルジョアジーの連合政権であり、とくに経済的に重要な部署は、平原派とモンタニヤール主流で押えていた。そのため、サンキュロット支配ではないというのが結論になる。

また、恐怖政治の政策で、のちに成果として残ったものはなにもない。あくまでも、恐怖政治は、異常な状態のもとにおける一つのモデルを作りだしたものである。危機が去るとともに、その政策はすべて撤廃された。まして、恐怖政治が土地革命をおこなったわけではないし、特権工業を断絶させたわけでもない。この点ははっきりとさせておかなければならない。

ただ、それではフランス革命を他の諸国のブルジョア革命とまったく同列に引き下げてしまうべきかというと、そうではない。もっとも徹底的な条件のもとで、徹底的な政策がおこなわれ、この時代に、普通選挙制までが一時的にしろ実現したのであるから、やはりもっとも急進的な内容を含むブルジョア革命であったというべきである。

このことを否定するつもりはないが、ただその急進的な部分がのちにくつがえされたことを考え合せなければならないというのである。ナポレオン時代は一種の独裁制であり、王政復活は、それよりもさらに貴族的となり、七月王政すら普通選挙制を採用しない。第二帝政もそうである。フランスの民主主義が、国民公会の理念を再現するのは、一八七一年以後のことである。かれこれ八〇年のちということになる。フランス革命の民主主義的性格を、固定的なものとして過大評価することはできない。


政治革命論への逆戻りも正しくない

土地革命論や特権工業の断絶論、あるいは恐怖政治のサンキュロット支配を主張する学説は、いわばフランス革命の中に経済的内容をみようとする立場である。しかし、この三つの解釈は事実に合わない。

ところで日本はともかく、本国のフランスでは、学風が実証主義であることも手伝って、あまり経済的法則性を問題にしない。マチエ、ソブールのような解釈は一般的ではない。むしろ、フランスでの一般的な風潮としては、フランス革命が純粋に政治革命であって、経済的革命はなにもないのだという意見が強く見られる。

フランスの学者の最大公約数は純粋政治革命論であり、マチエ、ソブールのような立場は少数派であるとみてよい。ただし、それでは、政治革命論を唱える者はあらゆる角度から経済関係を綿密に調べあげ、いろいろ考えた結果なにもなくて、政治革命だけが残ると結論を下したのかどうかといえば、そうではない。フランスの学者には実証主義者が多いから、理論的な解釈には反感をもつのである。そのため、フランス革命は政治革命で、産業革命が経済的な変化をもたらしたという簡単な理屈ですませてしまい、そのことについて、あまり深く考えないのである。

イギリスやアメリカのフランス革命史家も、それに似ている。コバン、テイラーが代表的な者である。アメリカのテイラーにいわせると、社会的内容と称されるものは実現されていないから、結局は、フランス革命で政治的革命がおこなわれたにすぎないことになる。イギリスのコバンは、フランス革命で大土地所有が残ったことを強調し、「保守的大地主層の勝利」と規定した。そこから、フランス革命をブルジョア革命として評価することにも、否定的な立場をとっている。しかし、彼には、領地と土地の区別がつけられていない。そのため、奇妙な結論が出てくる。正確にいうならば、大領主は敗北し、勝利したブルジョアジーは同時に大土地所有者でもあり、貴族の大土地所有も残ったのである。いずれにしても、問題はもとにもどって、経済的内容の否定、あるとすれば政治的革命、せいぜい法制史的革命が加わる程度のもの、すなわち身分的平等、議会制度、近代的な裁判制度、郡県制などが、フランス革命の内容として評価される。


財政問題を忘れてはならない

これでよいかといえば、それでは古い歴史観に逆もどりしただけのことである。もともと古い歴史観は政治史中心で、経済的因果関係は抜きであった。しかし今日、社会の大変動は経済的因果関係を基本的な原因としておこるということが、常識になっている。そういう時代に、古い政治史中心の歴史観に逆もどりして、それでよいとするのは時代遅れである。

フランス革命に、基本的な経済的原因、結果が無かったのかと、もう一度問い直してみるべきである。ただし、土地革命、特権工業の断絶、サンキュロット支配はちがうものとしてである。

実は、この三つを否定したのちでも、経済的因果関係の最大のものが残っている。このことに気の付く人が少ないのである。最大のものとは、財政問題である。もともと、フランス革命の原因として財政間題があげられている。これはどの本でも、誰でもそうである。それでいながら、フランス革命の展開とともに、これを脇に押しやって、その他のことを論じることに熱中している。そこに、理論の断絶があった。

財政問題としてはじまったものは、財政問題として結着がつけられなければならない。この単純なことを多くの歴史家が忘れている。

本書の最大の特徴は、そこに焦点を当てたところである。そして、財政問題が、政治革命としての権力の問題に密接に結びついている。バスチーユ占領直後の財政政策をふりかえってもらうならば、それが理解できるはずである。

権力と財政政策の逆転をもう少し具体的にいうならば、国家権力を宮廷貴族が握るかブルジョアジーが握るかの争奪戦である。革命前は宮廷貴族(領主、貴族の最強の勢力)が、財政の実権をにぎってブルジョアジー以下を収奪していたのに、革命でブルジョアジーが国家の主人となり、貴族を含めた他の階層を支配収奪する立場に上昇したという一点につきる。これを純粋な政治革命というべきだろうか。租税政策、公債政策は、政治問題でなくて経済問題である。その意味で、政治と経済は密接に絡み合っている。


フランス史への誤解が日本史への誤解を生む

フランス革命の基本的な原因、結果は権力と財政の問題であり、貴族(領主)の権力をブルジョアジーの権力に置きかえ、財政政策を逆転させたことである。土地革命、特権工業の敗北、サンキュロット支配などは実現していない。議会制民主主義、身分的平等、郡県制、法律的改革などは、副次的なものである。その中には永続したものと、革命後逆もどりしたものとがある。副次的なものは、フランス革命の特殊性と考え、基本的な原因、結果が、ジョルジョア革命としての基本的法則と考えるべきである。これが科学的なものの見方である。

これをもって各国のブルジョア革命をみるならば、従来の学説とはちがった結果にたどりつくはずである。そのために、フランス革命の正確な理解がなによりも必要である。本書の意図するところもそこにある。

とくに我国の歴史解釈は、いままで、フランス革命の間違った解釈を当てはめていたために、でたらめな解釈で埋められてきた。たとえば、フランスの宮延貴族が、土地も領地ももっていないと思い込んで、これを日本の華族に当てはめ、日本の華族とフランスの宮廷貴族が同じであるから、天皇制は絶対主義だと主張した人があった。しかし、フランスの宮廷貴族は大領主であったとなると、この理屈は一挙にくずれる。

フランス絶対主義の国王が唯一最高の領主であるから、天皇も唯一最高の領主であるので、天皇制は絶対主義だと主張した人もいる。しかし、フランス国王は最高の領主であっても、唯一の領主ではなかった。これは第一章にくわしく書いてある。多数の領主の中の最大の者であったというにすぎない。そうすると、この理屈もこわれる。もし天皇制を絶対主義といいたいのであれば、多数の領主がいたことを証明しなければならないが、これは不可能である。

絶対主義的均衡論というのがある。絶対主義は貴族とブルジョアジーの勢力均衡のうえに、国王が独自の勢力として絶対的権力をふるうという図式である。これをカウツキーがフランス革命に適用して有名になり、戦前から戦後一〇年くらいまでは、まさに絶対的な真理のようにもてはやされたものである。これを日本に適用して、地主と財閥の勢力均衡のうえに、天皇が絶対的な権力をふるうという解釈で、天皇制を絶対主義であると規定する学説が有力であった。

しかし、フランス絶対主義は均衡ではない。王権を組織した者は貴族・領主の最大勢力としての宮廷貴族であった。ブルジョアジーは彼らに支配されていたのである。勢力均衡は、地方貴族とブルジョアジーの間にあっただけである。そのため、均衡論そのものの土台がくずれてしまう。

そうすると、均衡論の上に立つ天皇制絶対主義説もくずれる。天皇制を絶対主義だといいたいのであれば、天皇を取りまく高級官僚が、その時点での領主であることを証明しなければならないが、これも不可能である。

大塚史学では、フランス絶対主義の王権の支柱を、商人出身あるいはブルジョア出身の地主(または領主)であるといい、市民的土地所有が絶対主義の支柱であるという。これを日本にもって来て、日本の地主や財閥がそれに相当するといういい方で、天皇制絶対主義説を補強している。しかし第一章第一節でみるように、ブルジョア出身の領主やブルジョア出身の地主は、まだ被支配者である。

国王を取りまき、高級官職を独占したのは、古くから続く名門の貴族(領主)である。大塚史学の理論では、ブルジョアジーの最上層は、ブルジョア革命の前、絶対主義の時代にすでに支配者になったかのようにいわれる。

これは誤解である。特権商人層はまだ被支配者であった。だからこそ、彼らはバスチーユ占領に動いたのである。

その意味が、大塚史学では忘れられている。このように整理すると、日本の財閥や地主の存在を、絶対主義の証拠にする根拠もくずれる。


日本におけるフランス革命史研究の意味

領主権の廃止を比較して、フランスは無償であり、日本は有償であるから、日本は封建制の廃止という点では不徹底であるという意見が根強い。しかし、これも、両国のおかれた前提条件のちがいを考えずに作った理屈である。

第一章第三節にみたように、フランスの貴族は、領主権とともに直領地の土地所有権をもっていた。片方が無償で廃止されても、片方は居城とともに残る。日本の武士はそうしたものをっていない。だからこそ、フランスの無償と日本の有償がつり合うのである。貴族、武士をある程度のこしながら、妥協的に地位を低下させるという意味では、フランスも日本も同じである。

もし日本の武士を無償で解体させなければならないというのであれば、フランスでも直領地と城を取上げてしまわなければならない。そうしてはじめて、両国が徹底的であるといえる。日本だけに徹底さを要求し、不徹底だから封建制が残っているというのも、見当ちがいである。

また、バスチーユ占領の直後、すでにブルジョアジーが権力に達したときにも、フランスの領主権は一部維持された。もしこの時点で、革命が停止したとしても、十分ブルジョア革命としての意味があった。八月一〇日で領主権が完全に無償廃止となるが、バスチーユの時点でも、すでにブルジョア革命としての基本的成果は達成されている。領主権と封建制度あるいは絶対主義を混同してはいけない。これを混同するから、領主権の有償廃止は封建制の残存であり、したがって絶対主義であるという理屈になる。このようなことをいうならば、イギリスなどは領主権がそのまま残ったから、現代でも封建制度であるといわなければならないがそういう人はいない。

地主小作度が日本に続き、半封建的関係が続いたと強調する人がいる。フランス革命以後でも、地主小作関係が同じようなきびしさで続いたことを知らなかった段階で、しきりに唱えられた理論である。これもフランスのことを知らないために生れた理論である。

特権工業や特権的商業資本の連続や断絶を問題にして、日本は連続で、フランスは断絶だといっていたが、これも間違いである。むしろ、私が事実を調べたところによると、フランスに連続が多く、日本は三井、住友をのぞけば、鴻池と川崎銀行程度のものである。日本の側にむしろ断絶が多いことが指摘できる。

そういうと、日本の新興財閥は政商だといって反駁する人がいるが、それに対しては、フランスにもウヴラールのような政商が多数いたことを反証としてあげなければならない。

このように、フランス革命の正しい認識をもち、積み重ねられてきた誤解を解くことが、日本の歴史を正しく解釈する上で、決定的な意味をもっているのである。

このように説明してくると、勘のよい読者は、たとえ日本史についての概説書程度の知識しかなくても、明治維新がフランス革命と同じくブルジョア革命であったのではないかと思い直すだろう。少なくとも、明治維新がブルジョア革命でなかったと、フランス革命を根拠にして主張していた学説は、その根拠を失うことになる。

要約 第七章 フランス革命をどのように理解するべきか 二 フランス革命と明治維新の比較

フランス革命を正しく見る。そのうえで明治維新を解釈する。これが重要で、今までの学者たちの意見は、フランス革命を正しく理解していなかったから、その論争は、「暗闇の中のたたき合い」のようなものであったという。その要点は、土地革命論、特権的商業資本、大工業の断絶という大塚史学の理論、恐怖政治の過大評価、政治革命論、などの分野に及ぶ。私は、財政問題を忘れるなという。

結論。フランス革命についての正しい知識を持つと、明治維新が市民革命ではないという学説は、すべて間違いだということに気がつくはずである。 

27-フランス革命史入門 第七章の一 革命史を長期的にみると

 第七章 フランス革命をどのように理解するべきか


一 革命史を長期的に見ると


総裁政府からナポレオンの帝政へ

ここでフランス革命が終ったといえる。ちょうど八月一〇日以後の時代にもどった。それはブルジョア共和国であった。それにふさわしい憲法が、八月二二日「共和国憲法」として制定された。普通選挙から制限選挙に逆戻りした。選挙人は約三万人に限定された。議会は上院の古老院と下院の五百人会議にわかれ、議会から五人の総裁が選出され、総裁が行政権を握った。議院内閣制であったが、こういう制度のもとでは、ブルジョアジーと大土地所有者の代表者が絶対的に有利であった。

一〇月、総裁政府が成立した。総裁の顔ぶれを見よう。バラはマルセイユへの派遣委員の時代はテロリストであったが、公金横領で新興成金となり、ウヴラールを保護した。名門貴族出身の新興成金として特異な存在であり、「バラの王」といわれた。

ルーベルは弁護士出身でモンタニヤールに属し、派遣委員のころに新興成金となった。御用商人との結託がもっともあきらかな人物であり、無節操とはいわれていたが、総裁政府では信用があった。

カルノーは「勝利の組織者」であり、恐怖政治の生き残りではあるが、純軍事的な意味からその地位に残った。

ラ・ルヴリエール・レポーはジロンド派議員の生き残りである。ルツルヌールは平原派の有力者であった。総裁政府は、モンタニヤールからの転向者と平原派、ジロンド派の抱き合せであった。

この年の八月には、フラン銀貨を木位貨幣と定め、リーブルの呼称をフランにかえた。翌年の三月にはアシニアが廃止された。こうして革命の紙幣が消滅した。

一七九五年一〇月三日、ヴァンデミエール事件が起こった。これは王党派貴族が反革命暴動を起こし、三日間にわたって議会を襲撃した事件である。このころになると、下層民の中に革命への幻減が広がり、王政をなつかしむ傾向がでていた。そのため、貴族の反乱も強力なものになった。議会と政府が危うくなったので、総裁バラは、かつての友人ナポレオン・ボナパルトに軍隊をまかせ、その手腕によって鎮圧させた。ここで、ブルジョアジーの救世主としてのナポレオンの名声が上った。ナポレオンはロペスピエール派として一時投獄され、釈放されてからは地位を求めてバラに接近していたのである。

翌年の五月、ジャコバン残党を組織して、平等主義あるいは一種の共産主義的思想で反乱を起こそうとする計画が発覚した。これをバプーフの陰謀という。しかし、警察を握るフーシュの手腕によって、未然に摘発された。

総裁政府のはじめは国外で戦勝を続けた。フランス軍は革命初期の精神をすてて、征服地の略奪、搾取をおこなった。兵士の貧困をその方向にそらせたのであるが、同時に将軍や将校はこのため大財産家になった。ナポレオンもそうして大財産家になり、文字通り、ブルジョアジーの将軍ができあがった。

総裁政府の末期、一七九九年敗戦がはじまり、議会でジャコバン派が勢力を増した。六月に累進強制公債の徴収が布出口され、ランデが総裁に選出され、ジャコバンクラブが再建された。ジャコバン派は、昔の夢の再現に張りきったが、ブルジョアジーは過去の悪夢に恐怖した。そのうえ、今度のブルジョアジーは、革命の鉄火をくぐりぬけて来たしたたか者で強化されている。彼らは「切れ味の良いサーベル」を求めて、この危機をさけようとした。

銀行家ペルゴとルクツーは、手紙をエジプトにいるナポレオン・ボナパルトに送った。ナポレオンは帰国し、彼らと密談をしたうえで一七九九年一一月九日(プリュメール一八日)のクーデターを敢行した。ジャコバン派を追放し、議会を解散し、統領政治を実現した。ペルゴ、ルクツーをはじめ大ブルジョアが献金して、このクーデターを支援した。本質的には、大ブルジョアジーの軍事的独裁であった。その政権のもとで再び戦争に勝ち、一八〇四年五月にはナポレオンの第一帝政が出現した。


王政復活から七月革命へ

第一帝政の本質はブルジョア政権であったが、中世的なヨーロッパ諸国を支配する必要もあって貴族的権威で権力をかざる必要に迫られた。この必要からも、亡命貴族にたいして積極的に帰国をうながした。亡命貴族も、財産を取り戻す必要からあいついで帰国した。主としてフイヤン派系の名門貴族が帰って来た。彼らは、ブルジョアジーと縁組その他で混合していった。ウヴラールの娘は、ロシュシャール公爵の息子(リシュリュー公爵家の相続人)と結婚した。もと司教のタレイラン公爵は外務大臣になった。上院として元老院がおかれ、ここに昔の名門貴族とブルジョアが同居した。

貴族的色彩の強いブルジョア帝政が実現した。貴族の爵位は復活し、旧貴族は昔のとおりに呼ばれたが、そこにブルジョアが仲間入りした。フーシェはオトラント公爵となった。皇帝のまわりをフイヤン派系の高級貴族が取りまき、昔の王室に似た形式が復活した。ただ、皇帝の宮廷生活の中にブルジョアが入りこんだので、新しい、ブルジョア出身の貴婦人ができた。彼女らは行儀が悪く、人前でガスをだしたので、「マダム・サンジェーヌ」(無遠慮な婦人)と呼ばれた。宮廷貴族の官廷から、ブルジョアと貴族の混合する宮廷への変化である。

ナポレオンが敗北して外国軍がフランスを占領し、亡命貴族が帰国した。この亡命貴族は、バスチーユ占領のときに亡命した宮廷貴族の本流である。王位を復活させたルイ一八世は、亡命貴族にかこまれて権力の座についた。亡命貴族と高級僧侶は、領主権の復活、十分の一税の復活、国有財産売却の破棄、旧所有者への返還を主張した。要するに絶対主義の復活である。

こうすれば、またもや革命がおきるという教訓を忘れていたのである。ただ、自分の利益だけは忘れなかった。これをタレイランが、「彼らは何事も学ばす、何ものも忘れなかった」と批評した。

ブルジョアジーから中間層にいたるまでの反感が高まった。銀行家や工業家がナポレオンの復活を援助し、百日天下になった。しかしワーテルローの会戦で敗れ、第二王政復活がおこなわれた。またもや、ブルジョアジーの力が後退して、再び旧貴族の権力が復活した。しかし百日天下の教訓もあり、亡命貴族の無制限な要求は阻止された。外国も、ルイ一八世も、慢性的な騒乱を恐れて、現状維持につとめた。いわば妥協の産物であり、旧貴族とブルジョアの連立政権のような性格になった。

領主権や十分の一税は復活させず、国有財産売却の有効性を認めた。絶対主義への完全復帰を要求する亡命貴族の一派は、野党的な立場となり、極端王党(ウルトラ)を組織して、国王に対立したままであった。「王よりも王党的な」野党になった。ただ、亡命貴族にたいして没収売却された土地の買受価格を基準にした補償がおこなわれた。これで、亡命貴族が土地(主として直領地)を失ったとしても、それに相当する公債の所有者となり、大貴族は大ブルジョアにかわった。

ルイ一八世が死に、王弟アルトワ伯が即位して、シャルル一〇世になると極端王党の勢力が強まった。この中心はポリニャック太公であった。マリーアントワネットの寵臣ポリニャック公爵夫人の息子である。彼は絶対主義再建をめざす宮廷貴族に支持されて、議会の権限を削減しようとした。ここで一八三〇年、七月革命がおこり、シャルル一〇世は退位させられた。かわって王位についたのはオルレアン公ルイ・フィリップであった。彼のかつぎだしに尽力したのは、タレイラン公爵とラファイエット侯爵であった。いわば、バスチーユ占領直後のような状態になった。

このまわりをラフィット(ペルゴの後継者)、カジミール・ド・ペリエ(クロード・ペリエの子)のような銀行家、大工業家が固めた。彼らは革命的銀行家と呼ばれていたが、まずラフィットが首相になり、つぎにカジミール・ド・ペリエが首相兼内務大臣になった。「オート・バンクの支配人」が実現し、宮廷貴族の力は最終的に排除された。フランス革命の成果は、七月革命で完全に落着いたといえる。

要約 第七章 フランス革命をどのように理解するべきか 一 革命史を長期的にみると

モンタニヤールの消滅と並行して、恐怖政治の政策は全廃された。共和国憲法は制限選挙制に戻り、普通選挙制は廃止された。総裁政府は、ジロンド派、平原派、モンタニヤールの生き残りで構成された。この政権は、王党派反乱の撃滅、アンギアン公爵の処刑でコンデ大公家を断絶させた。他方でバブーフの陰謀を摘発して、左翼の運動を抑えた。ブルジョアジーの権力を安定させたが、産業構造の変化、ビジネス環境の変化があり、実業家の中で、軍需物資調達業者の急成長がみられた。これと組んで、将軍たちの中から新興成金が出てきた。この両者の癒着、汚職が軍事力の弱体化を招いた。

そこにナポレオンが登場した。彼を呼び戻して統領政治に押し上げた人達が、ペルゴとルクツーだと説いて、この二人の経歴、役割を説明する、こういう歴史の説明をしたのは私一人である。フランス人でも知る人はいない。

ナポレオンが敗北して、王政が復活し、七月革命で銀行家の支配と言われる時代を作り出した。フランス革命の成果は七月革命で完全に落ち着いたと書いている。これで間違いはないと思うが、フランス革命はナポレオンの出現で終わるという人も多い。フランス革命に七月革命を含める人はいない。だから常識に従って、そのように定義すると、言いにくいことだが、「フランス革命は未完の市民革命、敗北した市民革命、フロンドの乱と同じ」というしかない。(これを聞くとフランス人は怒るだろう)。どちらを取るかという問題です。