2022年2月7日月曜日

16-フランス革命史入門 第四章の一 ジロンド派の時代

第四章 ジロンド派の時代


一 敗戦から勝利へ


ジロンド派による改革

八月一〇日の武装蜂起が勝利した結果、ジロンド派権力が復活した。内務大臣ロラン、大蔵大臣クラヴィエール外務大臣ルブラン、法務大臣ダントン、陸軍大臣セルヴァン、海軍大臣モンジュ(数学者)の顔ぶれであった。このうちジロンド派の性格の強い者はロラン、クラヴィエール、ルブランである。ダントンは、のちに山岳派へ移行するから、ジロンド派とつねに行動を共にする人物ではなかった。モンジュは有名な学者であり、独立した行動をとる人物であった。このため、新内閣はジロンド派一色にぬりつぶされていたというわけではないが、ジロンド派の指導権のもとにあった。

すでに王権が停止されているから、新内閣を国王が任命するわけにはいかなかった。三権分立の原則が重視されていたので、新内閣の閣僚は議会外から選ばれた。しかし、閣僚の承認は、国王にかわって議会がおこなうことになった。このため、行政権は立法機関に服するような形になり、この傾向がしだいに強められて、恐怖政治の頃の公安委員会、保安委員会の権力へと発展する。

さしあたり、フイヤン派が打倒された直後であったから、フウヤン派との争点になっていた問題は解決された。クラヴィエールの主張していた一万リーブル以上の国庫債権の切捨てが実行された。これによって、財政状態がある程度改善された。領主権については、無償廃止が正式に布告された(八月二五日)。八月二六日トリアージュ(共有地の三分の一を領主が囲い込む権利)によって没収された共有地を、無償で取り返すことができる法令が成立した。この二つの法令で、階級としての領主は完全に消滅した。

領主権が完全に消減させられた理由はいくつかある。まず、亡命貴族が大領主であったため、彼らの足もとをとり払う必要があった。しかし、もしこれだけのことであれば、イギリス革命のときのように、領地そのものの没収売却という手段がありうるはずである。そうした事態を作らずに、領主権の廃止にすすませた理由は、他にもある。

一七九二年に反領主暴動が全国各地に発生し、ここに農民からブルジョアや貴族までが参加していた。そのため、領主権に固執しているならば、彼らを敵にまわすことになり、外国との必死の戦争をひかえて、外と内との両方から攻撃を受けることになる。それでは、領主達が革命政権を守ってくれるかといえば、亡命貴族も領主であったから、フランスに残っている領主が、亡命貴族と必死に闘うことはありえない。そうであるとするならば、領主権を無償で廃止して、反領主暴動に参加している群集のエネルギーをひきつけ、彼らを味方につけなければならない。

もう一つ、僧侶財産を国有化し、これを売却して財政赤字を建てなおそうとした。しかし、中・下級僧侶のもっていた土地は領地ではなくて、領主権に服している土地である。これを売ろうとしても、そのうえに誰か領主がいて、領主権を徴収している。こうした場合、この土地はなかなか売れない。そこで、一律に領主権を廃止するならば、この問題がすっきりする。この観点から、領主権の無償廃止に賛成した者もいた。

領主権廃止が実現されると、各地の反領主的暴動が急速に影をひそめた。それだけ、国民のエネルギーを外敵にむけるための条件が作られた。

国有財産(僧侶の土地)を売りやすくするため、八月一四日、これを細分して競売に付する法令が決定された。九月二日、すでに接収されていた亡命貴族財産を僧侶財産と同じく売却することに決めた。亡命貴族財産とは、その領地についていた直営地と、域、館ならびにそれに付属する物であった。これ以後、僧侶財産のことを第一次起源の国有財産と呼び、亡命貴族財産のことを第二次起源の国有財産と呼ぶようになった。

国民議会は僧侶財産を国有化したが、まだそれを徹底していたわけではなく、慈善事業をしていた宗教団体、あるいはいくつかの特殊な修道団体の財産には手をふれていなかった。八月一八日、取り残されていた宗教団体もすべて廃止され、財産は国有化され、宗教団体の公教育は禁示された。こうして、僧侶と領主にたいして徹底した政策が打ちだされた。


立法議会と内閣の弱体化

八月一〇日から九月二〇日、すなわちヴァルミーの会戦と国民公会召集の日までの四〇日の間は、フランスとくにパリの権力は、一種の二重権力の状態にあった。議会と内閣の力が弱体化し、パリコミューンの力がこれを補ったからである。時と場合によって、そのうちのどちらかが指導権を握り、相手の側はこれをくつがえそうと努めた。そのような内部抗争を含みながら、戦争がつづけられた。しかも、外敵は国境を越え、パリの占領を目ざして前進し、正規の軍隊は崩壊寸前で闘わずして退却した。内憂外患のうずまく時期であった。

八月一〇日の武装蜂起は、フイヤン派を打倒したことになるが、同時に、武装蜂起を押え、一種の平和革命で権力の復活を計ろうと試みたジロンド派の動きにも逆らい、これを圧倒したという意味があった。

ただし、それではジロンド派をフイヤン派とともに追放するかといえば、これは不可能であった。なるほど、パリにおける現時点での武力では武装蜂起の群集が強い。しかし、全国の政治動向は別である。ジロンド派の大臣や議員は全国的に知られており、それぞれの地方で強力な支持者をもっている。

これにくらべて、今武装蜂起を起こした者は、パリの無名の人物である。そこで、武装蜂起の側は、その後の政治的収拾をジロンド派の政治家に頼らなければならない。そこで、圧力をかけつつ利用するという立場に引き下らざるをえなかった。

ただし、パリの中においては、必要に応じて、自分達の好むままのことができた。これを大臣や議会が止めることはできなかった。しかも、パリの群集はチュイルリー宮殿をめぐる激戦のあとで気が立っており、敵国軍の接近で、絶望的な危機感から半狂乱になっている。これを言論で統制することは不可能であった。

立法議会の権威は失墜していた。立法議会はラファイエットの行動を許すと決議して、パリの武装蜂起を招いた。王権を守ろうとしながら、武装蜂起の群衆に囲まれて王権を停止した。そのうえで国民公会の召集を決議させられたのであるから、信用されていない。これを自他ともに認めている。残る役割といえば、国民公会が召集されるまで権力を維持していくことにすぎなかった。

議会に承認された新内閣も、国民公会の選挙の結果次第で、どうなるかわからない。そのため、一種の管理内閣、あるいは実務内閣程度に思われていた。そのような意味で、議会も内閣も、以前にくらべて信用と権力を低めた。そのすきをぬって登場してきたのが、武装蜂起の群集を背景としたパリコミューンであった。


パリコミューンの登場

パリコミューン前身はパリ選挙人会議である。この時までフイヤン派系で固められていたが、八月一〇日の武装蜂起のときに、パリのそれぞれの区の代表と自称するものが議事堂に侵入し、前議員を追放して「革命的コミューン」「蜂起コミューン」と称し、武装蜂起ののちにパリ市を治める権力機関になった。パリ市長にはジロンド派のペチヨンがいたので彼をコミューンの議長にし、検事にマニュエル、副検事にダントンを置いた。ペチヨンは蜂起を押えようとしたので、コミューンの議員は信用しなくなり、彼を無視して独自の権力をふるおうとしはじめた。

パリコミューンの指導者の浮沈、交代ははげしかったが、その人的系譜は、のちの山岳派(モンタニヤール)からエベール派、過激派を含むものであった。ただし、モンタニヤールの政治家が一致してコミューンを支持したかといえば、そうではなく、時と場合によって、賛成したり反対したり、慎重論をだしたりした。当時は、厳密な意味での政党が結成されていなかったので、個人によって動きがちがってきたのである。

その点については、ジロンド派の側でも同じであった。ジロンド派は武装蜂起に反対したといわれる。しかし全員が反対ではなく、むしろ勇敢に武装蜂起を指導した者もいた。その代表的人物はバルバルーであった。彼は、マルセイユ連盟兵を率いて積極的にチュイルリー宮殿の襲撃を指導した。それでいながら、マルセイユのブルジョアジーを代表して、ジロンド派の闘士になった。

議会とパリコミューンの対立が激しくなり、議会がパリコミューンの解散令を可決し、これをコミューンの側が拒否して険悪な情勢になったこともある。しかし、外敵の侵入が、両者の決定的対立を、一時的に緩和した。

国境の町ロンウィが陥落し、プロシア軍は二週間以内にパリに入るだろうという噂が流れた。プロシア軍がパリに入れば、パリの徹底的破壊と市民の虐殺が起こる。これは、すでにプロシア軍総司令官の宣言によっても予想できたことである。ここで、パリ市民の動揺が激しくなり、それを代表してパリコミューンの活動が活発になった。ジロンド派の中には、戦局を絶望的とみて、パリを撤退し中南部フランスに共和国を作り、プロシア軍と交渉をするという弱気の意見を主張する者がでてきた。

ロラン、クラヴィエール、セルヴァンがその意見をだした。しかし、同じジロンド派でも、ペチヨン、ヴェルニヨーが反対し、ジロンド派ではないが、ジロンド派に大きな影響力をもっていたコンドルセも反対した。法務大臣ダントンはとくに激しく反対し、立法議会における有名な演説をおこなって、敵国軍との戦闘に必要な政策を打ちだし、実行に移させた。その結果、一連の非常手段がとられた。

義勇兵の募集、戦略物資の調達、反革命容疑者の捜査と逮捕、前線への派遣委員の任命などである。八月三〇日、反革命容疑者の家宅捜査と逮捕がはじまった。こうして、約三〇〇〇人の容疑者が投獄された。

九月二日、パリと国境の間にある要塞ヴェルダンが包囲された。ここが落ちればパリまではなんの障害もなく前進できる。プロシア軍の占領した地域では、人馬の死体があふれて、川や井戸に投げこまれた。亡命貴族と忌避僧侶がプロシア軍について帰国し、革命派を処刑すると公言し、革命政府の命令を燃やした。貴族は領主権の回復を宣言した。プロシア軍の占領はすなわち絶対主義の再建であり、革命派の処刑であった。

パリには異常な空気がみなぎった。パリコミューンの命令でパリの門は封鎖され、警鐘が鳴らされた。軍隊の編成がおこなわれ、軍需物資の徴発がおこなわれた。立法議会は、チュリオの提案を受けいれて、パリコミューンの解散命令を取り消した。ダントンは議会の演壇で、「敵に勝つために必要なものは、一にも勇気、二にも勇気、三にも勇気だ。それでフランスは救われよう」との後世に残る演説をおこなった。


九月二日の虐殺

こうして、ダントンは革命の英雄になった。ただし、ダントンは国民の士気をかきたてるために大きな役割を果したとはいえ、その運動を完全に統制することはできなかった。

内閣と議会の統制を破っておこなわれた最大の事件は、九月二日の虐殺である。この日、パリコミューン監視委員会にマラが入った。彼は、義勇兵が前線に出撃する前に、逮捕されている反革命容疑者を処刑するべきであるという意見を展開していた。もし、前線で義勇兵が苦戦をしているときに、背後で反革命の暴動が起こされたならば、残された妻子が悲惨な目に合うという意味からであった。そのうえ、正式の裁判権を行使するために設置された特別裁判所は仕事が遅く、何人かの容疑者を釈放しつつあった。

こうした傾向に、義勇兵と監視委員会は不信をもっていた。しかも義勇兵もパリ市民も、生死の境にあって異常な心理状態になっている。ついに、監視委員会に煽動された義勇兵とパリ市民は、直接牢獄に押しかけ、即席裁判で反革命容疑者を殺害してまわった。これを九月二日の虐殺という。

殺害された者は千数百人で、僧侶(忌避僧侶)と貴族の反革命容疑者が中心であった。しかし異常な心理状態のもとでおこなわれた即席裁判であったから、囚人の見わけが十分につけられず、普通の犯罪人や女性、子供にいたるまでが殺害の対象になった。

殺害の仕方も、銃殺からはじまり、銃剣でつきさしたり僧侶を撲殺するといったやり方で、文字通りの虐殺をともなった。もっとも有名なエピソードは、ランバル公爵夫人のばあいであった。彼女は、一度亡命していながら帰国した所を捕えられ、投獄されていた。彼女が王妃付女官長であったために、反革命容疑者として即席裁判に引きだされた。彼女が反革命のために何もしていないという根拠から、助命の声があがったが、処刑を主張する者は槍をもって飛びだした。彼女は多くの槍でつきさされて死んだ。その後首を切り、胸をえぐり、衣服をはぎ、首を槍の先につけて胴体を引きずり、国王夫妻の閉じこめられているタンブル監獄まで行進した。到着すると、ランバル公爵夫人の首を王妃の部屋に投げこんだ。こうした異常なやり方で虐殺が続いた。

後世の歴史家の多くが、ランバル公爵夫人は反革命に参加していないという。彼女が、ただ王妃に寵愛されていたというだけでこのようなむごたらしい目にあったと解釈する。彼女が革命の受難者であったかのように描く本もある。それでは、まったくなんの原因もないのに虐殺されたのかというと、必ずしもそうとはいえない。

彼女は王妃付女官長として莫大な収入を手に入れた。そのような立場から、改革派の財務総監チュルゴー、ネッケルの罷免に影響力を与えたことを考えあわせるならば、彼女の存在もまた、財政赤字の一大原因となっている。それだけでも、フランス革命の原因を作ったといえる。王妃が「赤字夫人」として非難されたが、ランバル公爵夫人とポリニャック公爵夫人は、赤字夫人のナンバー2である。その意味で、やはり因果関係はととのっている。


虐殺の責任者

このような虐殺をおこなわせたのはパリコミューン監視委員会のメンバーであり、政治的には、コルドリエクラブの指導者であった。その中で有名な者は、マラ、タリヤン、マイヤール、セルジャン、パニである。これらの人物は当時無名の人間であった。

マラとタリヤンは、のちに名を残すことになる。タリヤンはその後国民公会議員となり、山岳派に属し、ボルドーへの派遣委員となり、テロリストの名を残した。しかし銀行家の娘テレザ・カバリュスと結婚して転向し、ロベスピエールを倒してジャコバンクラブを弾圧する側にまわった。

ところで、普通の歴史では、これらの人物が虐殺の指導者であったと書かれているが、そのもうひとつの裏をさぐると、彼らを背後から指導した一人の人物が浮びあがる。それは、スイス人銀行家のパーシュであった。彼が虐殺の指導者にたいして出資し、この運動をおこなわせたというのである。なんらの財産をもたないこれらの活動家が、このころから、ぜいたくで放蕩な生活をはじめた。それを支払ったのがパーシュであった。九月二日の虐殺のように、名もない群集の動きのように見える事件でも、その背後に、ある種のブルジョアがいるということは、どこまでいってもブルジョア的な限界を越えることができないことを意味するものであろう。

パリにおける虐殺は、たちまち地方にも波及した。パリコミューンも、反革命容疑者にたいする処刑をすすめるアピールをだした。各地で貴族や僧侶が処刑された。法務大臣ダントンは、こうした動きを放任しながら、反革命容疑者にたいする報復を抽象的な形で激励するような言動をした。その立場は非常に複雑であった。その他のジロンド派の大臣も、あえて虐殺を止めようとはしなかった。

心の内では、こうした無秩序な動きに反対であっても、それを表だって口にすることは危険であった。そうでなくても、パリコミューン監視委員会はブリッソの家宅捜査をおこない、内務大臣ロランをはじめジロンド派幹部の逮捕をおこなおうとした。政権の座にある者がパリコミューンによって逮捕されようとした。それほど、当時のパリでは権力が分裂していた。ただし、これはダントンの調停で取り消しになった。


ヴァルミーの会戦

九月二日の虐殺で銃後の安全を計ることができたので、義勇兵は前線にむかって出発した。この義勇兵は、マルセイユ、ブルターニュその他フランス各地から集まって来た者であり、連盟兵と呼ばれた。彼らは、自分の費用で武装するか、それとも誰かの出資によって武装しなければならなかった。国家から武器が支給されるわけではなかった。義勇兵に参加できた者はブルジョアの子弟である。貧しい階層の者が出陣するばあいは、商人、工業家、その他の財産家が彼のために献金した。後者は、ブルジョアの傭兵となる。義勇兵の性格を一口でいうと、ブルジョアジーの軍隊、あるいはブルジョアジーの傭兵ということができる。とくに、マルセイユ連盟兵は裕福な家庭の子弟であった。

義勇兵の出撃と並行して、軍需物資、食料の強制徴発がおこなわれた。立法議会から前線に派遣委員が送られ、彼らが戦時にふさわしい非常手段をとった。たとえば、コンデ太公のシャンチイイの領地から、二二頭の馬、多数の馬具、テント用の布を徴発したと報告されている、クルセルという貴族の城を捜査して、二〇ばかりの小銃と馬、馬具を徴発したという報告もなされている。このような形で、義勇兵の装備が強化された。

義勇兵とプロシア軍は、九月二〇日ヴァルミーの丘で出合った。ヴァルミーは、国境からパリにむかって三分の一ぐらいの距離をすすんだところにあった。それまで。プシア軍は、ロンウィ、ヴェルダンと二つの重要な都市を、たいした抵抗もなしに占領してきた。そこで、フランスの征服は簡単に実現できるという安心感をもちはじめた。

とくにヴァルミーの丘で対面したフランス軍は正規の軍隊ではなく、雑然とした義勇兵である。当時、軍隊は貴族のもとに整然と組織されなければ、ものの役に立たないと思われていた。これが貴族社会の常識であった。

今目の前に現われた平民中心の軍隊などは、ちょっとした攻撃によって、たちまちつきくずすことができると。プロシア側は考えた。

プロシア軍がフランス軍の前に展開し、ゆっくりとした歩調で前進した。砲撃戦がはじまった。プロシア軍は、この圧力だけで、フランス義勇兵が算を乱して敗走すると簡単に考えた。少なくとも、フランスの正規軍はそのような調子で敗走してきた。

しかし、義勇兵は、すでに八月一〇日の市街戦を経験し、九月二日の虐殺で覚悟をかためていた。その士気は高く、革命のために命がけで闘うつもりでいた。司令官ケレルマンが帽子を剣の先につけて高くあげ、「国民万歳」と叫んだ。この叫び声がいっせいにくりかえされ、フランス義勇兵の覚悟のほどを示した。

それをみると、プロシア軍総司令官ブラウンシュヴァイヒ公爵は突撃命令をだすことができなかった。彼は、いままでのフランス軍とはちがう相手を見たのである。それは信念で武装された軍隊であり、これをつきくずすためには、血みどろの闘いが必要であることを予感した。結局この日は砲撃戦だけで終り、わずかの死傷者を双方にだしただけで、プロシア軍は後退した。

戦争としては大会戦ではなく、フランス革命軍がプロシア軍を撃破したというものでもなかった。純軍事的にいえば、これはまだ戦勝とはいえない。ただ、プロシア軍の無人の野をいくような前進をくいとめただけである。

それにしても、プロシア軍に従軍していたゲーテは、「この日この場所から、世界史の新しい時代がはじまる」と書いた。ゲーテは革命派ではなかったが、王政と貴族支配一色のヨーロッパの中に、これに対抗できるブルジョアの軍隊の出現を見たのである。


相次ぐ戦勝

プロシア軍はまだ傷ついていなかったので、この地点に止まり、征服地を押えるつもりで駐屯した。しかし。プロシア軍は雨にうたれて、赤痢の伝染に苦しんだ。しかも輸送部隊が農民のゲリラに襲撃された。ブラウンシュヴァイヒは、この地に駐屯することが危険であるとプロシア王に報告し、撤退をすすめた。プロシアの高級貴族の中にも、オーストリアとの同盟に反対し、フランス革命軍との戦争を無益なものと考え、むしろ北方問題が重要であると主張する者がいた。

こうした条件が重なって、プロシア軍は後退をはじめた。フランス軍の司令官ケレルマン、デュムーリエは、プロシア軍との交渉を続けながら、退却していくプロシア軍の後をゆっくりと追って進んだ。そのため、重大な戦闘なしに、プロシア軍を国境から追い出すことになった。

本格的な戦争がおこなわれたのは、その後のことであった。九月二五日、キュスチーヌ将軍は、義勇兵を中心としたフランス革命軍を率いてドイツのライン宮廷伯領に侵入し、その首都シュパイエル市を占領した。ライン宮廷伯の子がドゥー・ポン伯爵といわれ、ヴェルサイユ宮殿でフランスの宮廷貴族になっていた。この地域はドィツの領土ではあるが、フランスともかかわりあいの深い所であった。

一〇月五日、キュスチーヌは前進してウオルムスを占領し、一〇月一九日、北上してマインツを攻撃した。マインツは、内部の反乱によって闘わずして降伏した。二日後の二一日、東進してフランクフルトを占領した。こうして、まだ国境近くにプロシア軍がいてゆっくりと後退しているときに、キュスチーヌの率いるフランス軍がドイツ領深く侵入して、重要都市を破竹の勢いで占領したのである。

北フランスでは、オーストリア軍が国境に近い都市リル市を包囲し砲撃を続けていたが、デュムーリエ将軍の率いるフランス革命軍が反撃に転じ、一〇月の末にはベルギー領に侵入した。一一月六日、国境のジェマップ村でオーストリア軍とフランス革命軍の激戦がおこなわれた。この戦闘でオーストリア軍は大打撃を受け、退却した。

ヴァルミーの戦勝は、大戦闘をともなわず、象徴的なものにすぎなかったが、ジェマップの闘いは、フランス革命軍の戦闘力を示した本格的な戦争であった。この闘いののちに、オーストリア軍はベルギー全土から撤退した。ベルギーはフランス革命軍の占領下に入った。

南部では、モンテスキュー将軍の率いる義勇兵が、九月二二日、グルノーブルからサヴォア公国領に侵入し、モンメリアン要塞を占領した。

地中海沿岸ではアンセルム司令官が義勇兵とマルセイユの国民衛兵を率いて国境を越え、サルジニア王国に侵入し、九月二九日ニース市を占領した。 

要約 第四章 ジロンド派の時代 一 敗戦から勝利へ

1792810日の武装蜂起で、「大ブルジョアが勝った」という評価は、ほとんどの歴史家が言うことだが、私は違う。ジロンド派内閣ができると、財務大臣クラヴィエールは、「一万リーブル以上の国庫債権を切り捨てた」。(概算百億円以上の国家に対する貸付金は、その額までの返済とする)。これで、財政赤字が縮小した。国家は楽になったが、最上層のブルジョアたちは犠牲を強いられた。だから、大ブルジョアがすべて勝ったというのではなくて、最大級のブルジョアたちは犠牲を強いられたのである。このグループを「特権的商業資本とか、前期的商業資本」と呼んでいた時代がある。大塚史学と言われる学派であるが、彼らは、この階層がフランス革命で打倒されつくしてしまったと書いた。それに近い現象がここにあるのだが、注意してほしいのは、「上限切り捨て」であり没収ではないことだ。なお、次の恐怖政治の時にも、処刑、財産没収というのがある。しかし、その一年のちに遺族への財産返還という政策があって、家計も事業も断絶していないのである。従来の歴史家は、犠牲を強いられたら、断絶、消滅だと思って、「打倒されてしまった」と書いた。そうではなくて、一時的に譲歩を迫られただけのことであった。もう一つ、ソブールは、「大ブルジョア階級が倒された」と書いているが、これも極論である。「倒された」という意味の中に、「上限切り捨て」の効果を過大評価している。「上限切り捨て」になったから、倒されたと思っている。そうではなくて、経営の中での「損失切り捨て」はよくあること、それと倒れるというのは別問題である。

ジロンド派政権の下で、領主権は完全に消滅した。このことをはっきりと言い切ったのは私が初めてである。それ以前の歴史家は、多数派が、一年のちだと書いてきた。少数の歴史家が、この時期だと書いた。マチエ、ソブール、日本では河野健二氏であった。しかし、おずおずと、あいまいに書いている。(何しろ、世界的な常識に立ち向かうのであるから、蛮勇を必要とする)

相次ぐ戦勝の原因について、加筆、訂正する必要がある。それは義勇兵の役割の過大評価につながるものである。この点は、すべての歴史家と、文豪ゲーテの言葉に頼りすぎたと思う。つまり、戦勝の原因を義勇兵の役割だけにしてしまったことである。確かに義勇兵の役割は大きかった。しかしもう一つの勝因を書かなければ、片手落ちだろう。それは作戦計画の漏洩問題である。これが続いていたら、義勇兵でも勝ち目があったかどうか。思いがけないところに敵がいた。これではパニックに陥る。その原因が何か、これがわからないから、特にパリ市民が恐怖に陥ったのである。「裏切りがある」ことだけはわかっていて、コルドリエクラブでは騒ぎになった。疑心暗鬼になって、92日の虐殺につながった。しかし見当違いであった。真相は、国王夫妻の裏切りであった。これは後でわかり、裁判に発展した。そこは誰も書くのだが、実際にそれが効果を発揮した時は、810日以前のことであった。国王夫妻の投獄でそれは止まった。だから、敗戦の原因を言うときには、作戦計画が相手に知られていたこと、これを書かなければならない。「手の内を知られていたら、いかなる戦いにも勝てない」。勝負の鉄則でしょう。これをこの節に書き忘れている。ここに追加しておきます。

 


15-フランス革命史入門 第三章の五 敗戦と八月一〇日の武装蜂起

五 敗戦と八月一〇日の武装蜂起


ジロンド派内閣の政策

一七九二年三月一〇日、フイヤン派の内閣は崩壊し、そのあとジロンド派の内閣が成立した。もちろん、ジロンド派という名前は、この時点の呼び名ではなく、もっと後につけられたものである。当時彼らはジャコバンクラブの指導的メンバーであり、ブリッソを中心にしていたから、ブリッソ派と呼ばれていた。新閣僚の名前は、国王から任命されるよりも数時間早く議会に通告された。もはや国王の権力はほとんど失われていた。

大蔵大臣クラヴィエール、内務大臣ロラン、法務大臣デュラントン(ボルドー高等法院検事長)、陸軍大臣グラーヴ、海軍大臣ラコスト、外務大臣デュムーリエであった。

ジロンド派内閣が成立すると、いままでつづけられてきたフイヤン派対ジロンド派の政争が、ジロンド派の有利な方向に解決された。植民地問題については、三月二四日、ジロンド派の主張する解決案が、フイヤン派とくにラメット派の抵抗を押し切って可決された。植民地反乱を鎮圧するが、混血人の政治的平等を認め、商人が植民地地主(貴族)の財産を債権のかわりに差押えることができると規定されていた。これは植民地における貴族政治の敗北であり、ラメット派の敗北であった。

亡命貴族についての対策も懸案になっていた。フイヤン派には自由主義的貴族が多かったために、亡命貴族にたいしては、同じ貴族仲間という意味があって、厳格な処置を好まなかった。ジロンド派を含めたジャコバン系は、亡命貴族にたいするきびしい制裁を要求していた。

一七九一年一二月一三日、議会は亡命貴族について、「すくなくとも六ヵ月の間、フランス王国に居住していたという証拠をあげないかぎり、国家からの年金、国債の支払を受けとることができない」と決めた。このことによって、亡命貴族は、かつてもっていた国家からの支払を受ける権利を打ち切られた。

しかし、まだ亡命貴族はフランス国内に領主権、土地所有権をもっていた。とくに亡命貴族が名門の宮廷貴族であり、第一級の領主であったために、亡命貴族の領主権が大問題になった。亡命貴族は、自分に忠実な徴税請負人や管理人を使って領主権を徴収させ、これを正貨にかえて、外国に送金させ、その金で豊かな生活をつづけながら、反革命的陰謀をめぐらしていた。亡命貴族の領地に住む住民にしてみると、国家の敵とみなされた人物が、自分達から貢租を取りあげているのである。この矛盾にたいする怒りが表面化した。

一七九二年の春、各地に反領主暴動が起きた。領主の城が焼打され、略奪された。この暴動には、農民だけではなく商人や職人、さらには地主の若者までが参加した。地主といえども、身分は平民であり、領主権に服していた。このことはすでに説明したとおりである。こうした動きに対応して、ラマルク(侯爵、大領主、将軍、ジャコバン派系の政治家)は亡命貴族財産の差押えを提案した。ラマルクも大貴族であったが、暴動で貴族の財産が破壊される前に、一定の政治的処置で貴族財産を保全しようとしたのである。ラマルクの提案は、フイヤン派の反対に出合った。フイヤン派のスディエは、これにかわる案として、亡命貴族財産の収入にたいして三重の課税をおこなうことを提案した。

この争いもフイヤン派の敗北に終り、三月三〇日、ヴェルニヨー(ジロンド派)の提案で、亡命貴族財産を差押え、これを国民にたいする賠償にもちいることが決定された。


領主権の無償廃止について

この時期、領主権の無償廃止が政争の焦点に浮びあがってきた。ちょうど亡命貴族財産の差押えが審議されている最中の二月二九日、クートンが王党派の基礎を破壊するために、不動産売買税の無償廃止を提案した。ジロ

ンド派内閣が成立したのちの四月一一日、封建委員会を代表して、ラツール・デュシャルテルが、買戻しを義務づけられた各種封建権利の無償廃止を提案した。これに内務大臣ロランが賛成した。フイヤン派のドゥージーがロランを攻撃して、議会は激論の場になった。

この問題は、フランス革命の理論的解釈にとってきわめて重要である。領主権の無償廃止をジロンド派も含めたジャコバン派系議員が主張し、これにたいして、フイヤン派が必死で抵抗している。そして、ジロンド派内閣

が成立しているとはいえ、まだ議会では領主権の無償廃止が採決されていない。あとにみるように、これが両派の武力対決の基本的な原囚になった。その結果、八月一〇日の事件でフイヤン派が敗北した。それとともに、領主権の無償廃止がたしかなものになった。

領主権は別名封建権利と呼ばれていて、八月四日の宣言と一七九〇年三月の法令によって、部分的に無償廃止が実現した。貢租と不動産売買税は有償廃止とされた。その残った有償廃止の部分を、一七九二年八月一〇日の

政変で無償廃止にした。これによって、フランスからは領主権が完全に消減した。

ところが、この間題については、日本においてもヨーロッパにおいてもきわめて根強い奇妙な誤解が長くつづいた。それは、領主権の無償廃止が、一七九三年のジロンド派追放の時点でおこなわれたという解釈である。そ

こで、恐怖政治の基本的な内容の中に、封建貢租の無償廃止または領主権の無償廃止をとりあげることが一般的におこなわれてきた。この実例はあまりにも多すぎるので、いちいち引用しているひまがないほどである。

たとえば、ソブールも『フランス革命』(下巻、五一頁)でそのように書き、本田喜代治氏の『フランス革命史』(一二三頁)でもそうなっている。ただ、マチエの『フランス大革命』(上巻、二六〇頁)では、一七九二年の八月一〇日で農民の解放が実現したといい、この時点での領主権の廃止を評価している。

いずれにしても、ほとんどのフランス革命史からはじまり、世界史の概説書、経済史の理論書にいたるまで、恐怖政治による封建権利の無償廃止という図式をうちだしている。これに反して、ジロンド派権力が封建権利の

無償廃止に積極的であったことを主張しているのは、河野健二氏の『フランス革命小史』である(一二一頁)。

ここでは、八月一〇日の革命を封建制の完全な一掃であるといってこれを社会革命と評価し、第二次革命と呼んでいる。これにくらべると、バスチーユ以来の革命は法律革命であるとされ、封建制の廃止という意味では、八月一〇日の方が高く評価されている。河野氏は、領主権の廃止を封建制の廃止と考えているから、とくに八月一〇日を高く評価することになる。

しかし、八月一〇日の事件がなかったとしても、すでにバスチーユ以来、フランスの国家権力は最上層のブルジョアジーの手ににぎられているのであり、その意味では、封建制度は終っていたといえる。領主権を廃止しな

ければ近代国家とはいえないというならば、イギリス革命以後のイギリスは、領主権を廃止していないのであるから、いつまでたっても近代国家とはいえない。領主権の廃止と封建制度の廃止または封建社会の打倒は、別問題である。

いずれにしても、フランス革命は、第一段階で領主権の部分的廃止を実現しながら、それなりにブルジョアジーの権力を安定させたのであり、第二段階の八月一〇日の事件で、領主権の無償廃止を実現した。これは、ジロンド派内閣が基本的に達成したのであって、恐怖政治が独自の仕事としておこなったわけではない。この点は、フランスのみならず、日本その他各国の歴史の理論的解釈にたいして大きな影響を与えるので、改めてここに確認しておきたい。


ジロンド派内閣の失脚

フイヤン派を相手にした未解決の政争をかかえながら、成立したばかりのジロンド派内閣は、オーストリアとの戦争に議会を引きずっていった。反対したのは、ラメット派と、のちのジャコバン派系に相当する少数であり、議会では約一〇票にとどまった。こうした議会の楽観的な雰囲気のもとで、オーストリア、プロシアにたいする宣戦が布告された。

しかし、ひとたび戦争をはじめてみると、すべてが予想通りにいかなかった。軍隊の数だけからいえば、国境に展開したフランス軍が一〇万人であるのにたいして、オーストリア軍は約四万人であり、プロシア軍はまだ戦線に到着していなかった。しかし、フランス軍はすでに内部的な崩壊をはじめていた。そのため、攻撃命令がでてフランス軍が前進するやいなや、逆にたちまち混乱を起こして、四月の末には敗走をはじめた。敵国軍は、あまり大きな困難なしに、フランスに侵入することができた。

敗北の理由はいくつかあった。まず、軍隊では依然として将校は貴族であり、革命前からの階級制度が維持されていた。いわば、軍隊における革命はおこなわれていなかった。貴族将校や貴族の将軍は、革命政府とくにジ

ロンド派にたいし嫌悪を感じ、ジロンド派内閣の命令のもとに戦争をする気がなかった。将校や将軍の多くが積極的に裏切り行為をおこない、ある者は辞職し、ある者は熱意のない、お義理の指揮をおこなった。

将校や将軍がこういう状態であったから、下士官、兵士も奮戦する気はさらさらなく、いつも指揮を疑いの目でみているから、ちょっとした行き違いでたちまち動揺し、退却、混乱した。こうした状態であるから、攻撃は

不可能であるという意見が指揮官の中からだされた。また、貴族で組織された近衛兵などは敗戦を喜んでいた。彼らにとってみれば、敗戦が絶対主義を再建し、宮廷貴族の特権を回復してくれるからである。

そのうえ、国王と王妃が敗戦を望み、フランスの作戦計画は、国王から王妃を通じてオーストリア皇帝に内通されていた。そのため、フランス軍は意表をつかれ、ますます混乱した。また、国庫が破産に瀕しつつあり、軍事費が思うように支出されなかった。

こうした中で、お互いに敗戦の責任のなすりあいがなされた。将軍と将校は、敗戦の責任が兵士の訓練不足と臆病のせいだといった。これに反対して、ロベスピエールは、敗戦の責任が将軍達にあり、彼らは昔の特権に未練をもっているから信用できないといった。また、貴族の将軍達を罷免して、愛国者に交代させなければならないと主張した。

ロベス。ピエールの主張したことは、後になって革命戦争の中でしだいに実現されていく。貴族で固められた将校と将軍の地位が、すべての身分の出身者に開かれ、下士官、兵士といえども軍功を立てて愛国者であることを示しさえすれば、どのような高い地位にでも昇っていけるようになった。その中から、ナポレオン・ボナパルトとか、ネイ、ミュラーなどといった名将軍が出現した。そうなると兵士の士気も高まり、将校に優秀な者をそろ

えることになるから、この軍隊は強力な軍隊に再生する。軍隊における革命、人材登用の制度が、のちにおこなわれるのである。そうしてはじめて、フランス革命はすべての分野に徹底したといえる。

ただ、戦争を開始した時点においては、まだ軍隊における革命は実現しておらず、それだけに、内部崩壊寸前になっていた。そのような軍隊であるから、いかに数が多くても敗北するのは当然であった。そのうえ、外国人部隊、外国人傭兵隊を、旧体制のまま引き継いで使っていたことも、裏切り行為を大きくした。サックス連隊(ザクセン)やドイツ人連隊は、それぞれ、ドイツに領地をもつ高級貴族によって統制されており、革命フランスには敵意をもっていた。そこで、前線に出動させられると、そのままドイツ側に寝返ってしまった。こうした事態により、戦争に勝つためには、新しい、愛国心をもつフランス人による軍隊を組織しなければならないことが痛感された。

五月二九日、もっとも貴族的な近衛軍団を解散した。これにかわってパリを守備するために、連盟軍二万人をパリ郊外に駐屯させる法令を、六月八日に可決した。また、僧侶の反革命的運動が影響力を増大しつつあったので、五月二七日、忌避僧侶についての法令を可決し、市民に告発を受けた忌避僧侶の追放、または流刑を定めた。

国家財政については、以前からクラヴィエールの主張していた方針が実行された。つまり、一万リーブル以上の国庫債権の償還を停止した。このことによって、フイヤン派ブルジョアジーのうち、旧体制に高額の債権をもちながら、まだ、補償を受けていない者は打撃を受けた。ジロンド派系のブルジョアジーは、こうした寄生的性格の強いブルジョアジーの一派を切り捨てていった。


フイヤン派政権の復活

外では敗戦がつづき、内では政争が大詰めにきた。ジロンド派内閣が可決させた法令に、国王は拒否権を発動した。拒否することをすすめたのは、フイヤン派を代表するデュポールであった。国民衛兵もまた、連盟軍の駐屯に反対していた。そこで、国王は、それらの力を頼みとして拒否権を発動するとともに、ジロンド派の大臣ロラン、クラヴィエール、セルヴァン(陸軍大臣)を六月一三日に罷免した。二日のちの六月一五日、デュムーリエも辞職に追いこまれた。こうして、ジロンド派内閣は崩壊したが、これは、国王の全力をあげた反撃の結果であった。こうして、新内閣はフイヤン派の独占するものになった。

かわってフイヤン派内閣が成立した。大蔵大臣ボーリュー、内務大臣テリエ・ド・モンシェル、法務大臣デュラントン、外務大臣シャンボナ、陸軍大臣ラジャール、海軍大臣ラコストであった。


封建貢租の無償廃止

行政権はフイヤン派ににぎられたが、その同じ時期に、議会ではジロンド派以下の左派が、領主権の無償廃止をひっさげて攻勢に転じた。六月一四日のことである。両派は、かわるがわる立って、封建的権利が所有権であるかないかと激論をつづけた。フイヤン派からの最後の修正案が、デュラモールによってだされた。

「すくなくとも四〇年間騒乱がなかったという条件により、領主は本源的証書を補うことができる」。

これが認められるならば、領主権は有効であり、正当な権利と認められることになる。この修正案を審議するかどうかの決議が、二七三対二二七で可決された。この数をみるならば、まだフイヤン派が議会で優勢であったことがわかる。これで安心した右派の議員の多くが退場した。そのとき、左派が修正案の審議続行を要求し、右派は閉会を叫んだ。その喧騒の中で、審議が続行され、修正案は否決された。その結果、ドラクロワのだした封建的権利の無償廃止の提案が可決され、議会は閉会した。フイヤン派は、油断をつかれて、議会闘争で敗北したのである。領主権の無償廃止は、革命派であろうと反革命派であろうと、領主にとっては重大な問題である。ここで、フイヤン派は、一転して反革命的クーデターの方向へむかった。


フイヤン派のクーデター計画

ラメット派のデュポールは、議会の解散と国王の独裁権を主張した。ラファイエットは前線から手紙を送り、ジロンド派の前閣僚やジャコパンクラブを非難した。ラファイエットは、軍を率いてパリへ進撃し、フイヤン派の独裁政権を作る計画を立てていたので、敵国軍との戦闘には積極性をみせなかった。フイヤン派の内閣がオーストリアに休戦を提案するという噂が流れた。

六月二〇日、ジロンド派系のサンテール(ビール醸造業者、ジャコバンクラブの活動家)の率いる下町の住民が、議会と宮殿に押しかけ、ジロンド派内閣の罷免、国王の拒否権発動、軍隊の怠慢さに抗議した。しかし、なんらの成果をみることなく、このデモは退いた。この事件は、逆にフイヤンクラブの攻勢を有利にした。このデモの責任を追求されて、ジロンド派系のペチヨン(パリ市長)、マニュエル(パコミューン検事長)はパリ県会によって罷免された。多くの県会もこの事件を非難した。

ラファイエットは、命令なしに軍隊を離れて議会に現われ、ジャコバンクラブの解散とデモの責任者の処罰を要求した。これが六月二八日のことである。これにたいして、ジロンド派のガデは反撃に転じ、ラファイエットが任務を離れてパリに来たこと、軍隊を活動させずに置いたことを取りあげて、ラファイエットの非難決議案を提出した。これは三三九対二三四の差で否決された。この時点の立法議会では、やはりまだフイヤン派に同調する者が多かったのである。

前線の司令官は、ラファイエットと同じく、国内の動きに注意を奪われ、敵国軍との戦闘に嫌気がさして、軍隊を後退させた。そのためにプロシア、オーストリア軍は苦もなく前進した。七月六日、プロシア軍が国境に接

近していることを、ルイ一六世が議会に報告した。ここで、フランス国内の危機感がにわかに高まった。

この危機に直面すると、国内に動揺が広がり、立法議会も左右に動揺した。フイヤン派は、戦勝よりもむしろ左派との闘争に熱中したが、無所属中央派の議員は、かならずしもそうではなかった。たとえジャコバンクラブ

に同調しないとしても、とにかく革命フランスを敵国軍から守るという点では、はっきりとした意志をもっている者が多かった。そのために、議会の決議が右に左にゆれていく。

七月一〇日、フイヤン派の大臣は辞職に追いこまれた。七月一一日、議会は「祖国は危機にあり」という宣言を発表した。

七月一三日、議会はパリ市長ペチヨンの復職を命令し、義勇兵の召集を王の承認なしに全国に呼びかけた。正規の軍隊が戦闘で役に立たないので、革命フランスを防衛する意気にもえた義勇兵を、全国から集めようという

のである。国王はこれを拒否していたが、すでに議会は、国王の拒否権をのりこえて、議会の決定が国王の拒否権をこえるという事態を作りだした。義勇兵は、国王の抵抗にもかかわらず、それ以前からパリにむけて行軍を開始していた。


武装蜂起の推進者

これから八月一〇日までは、複雑な動きが進行する。七月二五日、。プロシア、オーストリア連合軍司令官ブラウンシュヴァイヒ公爵の宣言がだされた。これは、もしフランス国王に危害が加えられるならばパリを完全に破壊し、パリ市民の処刑をおこなうという脅迫的なものであった。これが八月一日パリに伝わると、パリ市民の間に恐怖と憤激をまきおこした。そのころ、七月二五日から三〇日にかけて、ブルターニュ、マルセイユの義勇兵がパリに到着した。彼らは連盟兵と呼ばれた。この兵力は、なにはともあれ、敵国の侵入からフランスを守るという信念で固められていた。とくにマルセイユ連盟兵は、のちにフランス国歌になった「ラ・マルセイエーズ」を高唱しながら行軍してきて、意気は盛んであった。

それにしても、このときはまだ敵国軍を撃退することに注意がむけられており、王権の転覆、立法議会の解散については、左派の中でも意見がまとまっていなかった。のちにジロンド派の指導者になるブリッソ、ヴェルニヨー、ペチヨン、ガデ、ジャンソネなどは、フイヤン派大臣の辞職のあとをうけて、自分達がもう一度政権に返り咲こうとして、国王と交渉をはじめた。まだまだ国王の権威は強いものと思われたのである。

ジロンド派は、王権の停止を要求する共和派にたいして、正面から非難をなげつけた。しかし、ジロンド派のやり方では間題の解決にならないと主張する一群の活動家が、頭角をあらわしてきた。ロベスピエールは、ジャコバンクラブ員や連盟兵にたいして演説をおこない、王権の停止、立法議会の解散、普通選挙による国民公会の召集を説いた。立法議会のコルドリエクラブ三人組、メルラン・ド・チオンヴィル、シャボ、バジールもパリ市民を武装蜂起にむけて動かした。

こうして、左派の側にも、武装蜂起をすすめようとする勢力と、これを押えようとするジロンド派の暗闘がつづけられた。この分裂に国王とフイヤン派はくさびを打ちこもうとした。王室費から大金がバラまかれて、主だった活動家の買収がおこなわれた。雄弁で人心を奮い立たせ、後になって八月一〇日の男といわれたダントンは、一方で武装蜂起を煽動しながら、他方で一五万リーブルを受けとって、国王一家の安全を約東した。このことは当時知られていなかったが、のちになって明らかになった。

マルセイユ連盟軍を率いるパルバルーにも一〇〇万リーブルを申込もうとする試みがあったが、買収不可能とみてやめた。アメリカ大使モリスも、この買収事件にからんでいた。バルバルーはのちにジロンド派の闘士になるが、同じくジロンド派の政治家といっても、この時点で武装蜂起に反対する者と、これを積極的にすすめる者

とに分裂していた。

そのようなちがいは、当時のブルジョアジーの動揺を表現していた。パリのブルジョアジーの住む町ポスト区は、最後まで立憲王政を主張していたが、八月一〇日の直前になると、意見をかえて王権の停止の側に立った。

こうした転向には、パリを破壊するというブラウンシュヴァイヒ公爵の宣言や、敵国軍の接近、フランス軍の敗走、それに加えて国王が防衛に熱意をみせないことが作用した。このように、非常に流動的な状態のままで、八月一〇日の日を迎えた。


チュイルリー宮殿の襲撃

八月八日、立法議会で懸案になっていたラファイエットの懲罰動議が、ラファイエットの行動を許すという形で決着がつけられた。武装蜂起を計画していたパリの諸区は、王権の停止を議会に請願して、その期限を八月九日と定めていたが、立法議会のラファイエットにたいする態度をみて、もはや議会主義の枠内ではどうにもならないことを悟った。八月九日の夜パリに警鐘が鳴り、パリの下町サン・タントワーヌ街、サン・マルセル街の住民と、マルセイユ連盟兵が武装してチュイルリー宮殿を包囲した。

チュイルリー宮殿は表むきスイス人連隊で守られていたが、この決戦の段階にくると、宮廷貴族から地方貴族にいたる多くの貴族軍人が合流し、スイス人連隊の制服を着て戦闘の準備をしていた。この段階に入ると、宮廷貴族の特権に批判的であるが故に革命に中立的な立場をとっていた地方貴族が、断固として国王を守る側に立った。それは、領主権の無償廃止がすすめられたためである。

このときに国王のまわりには、主義主張を越え、宮廷貴族から地方貴族にいたるちがいを越えて、貴族階級の中の行動的な人物が、王制を守る決意をもってチュイルリー宮殿に集合した。前近衛兵も加わった。高級貴族の一人、スイス人連隊長マイヤルド侯爵(陸宮中将)は、国王の護衛に奮闘し、息子と五人のスイス人将校とともに虐殺された。国民衛兵司令官をしたことのあるノアイユ公爵(陸軍少将)も亡命先から帰国して、国王を護衛し、議会に送りとどけ、そののち逃亡に成功した。

このような状態であるから、八月一〇日は貴族階級の命運をかけた死闘であった。それ以前には、このような血みどろの闘いはなかった。バスチーユ占領とそれにともなう市街戦でも、このような死闘はくりひろげられていない。それだけに、もし武装蜂起をした側が敗北をした場合は、チュイルリーに集まる貴族の軍団によるクーデター、すなわち立法議会の包囲、左派系議員の追放、粛清がおこなわれるはずであった。そうした運命を心配しながら、立法議会の議員は、この戦闘のなりゆきをみつめていたのである。そのため、ジロンド派のペチョンは、国王にたいして、武装蜂起の群衆を非難し、「力には力で押しかえす」と国王の側に味方するような発言をした。敗北したときの保身の術を考えたのである。

八月一〇日午前八時、武装蜂起の集団が勢揃いして、マルセイユ連盟兵を先頭に、そのあとにコルドリエクラブ員がつづき、門をあけろと要求した。スイス人連隊は門をあけ、帽子を高くあげ、開き窓から「国民万歳!」と叫んだ。友好の印に薬包を投げた。これで、敵側に攻撃の意志がないと判断した群衆は、安心して庭を進んだ。そこでいっせいに砲火が開かれた。二つの大砲から散弾があびせられ、宮殿のすべてに硝煙がたちこめた。これで約四〇〇人が倒された。

武装蜂起の群衆は、これに押されて一度後退し、態勢を立てなおした。このとき、近衛騎兵隊が蜂起軍に寝返り、後続の群集が武器をもって集まり、国民衛兵が味方について宮殿に再度突入した。あらゆる場所で必死の激戦になり、抵抗ははげしかった。武装蜂起の側は貴族軍人を虐殺しながら宮殿を占領していった。庭や建物一面バラバラにちぎれた手足が散乱した。戦闘が国王側に不利になると、ルイ一六世は立法議会に避難してきた。

「朕はここに大きな罪悪を回避するためにきた。諸君の中ほど安全な場所はないと考える」。

議長のヴェルニヨーは、

「陛下、議会はなんらの危険も考えません。これ以上のことが起きるとき、必要とあらば、自分の持場で死ぬことを知っています」

と調子のいい答えをした。

チュイルリー宮殿での戦闘が終り、武装蜂起の群集が議会を囲んだ。王権の停止と、普通選挙による国民公会の召集が要求された。立法議会はその圧力に屈した。議長ヴェルニヨーが国民公会の召集、王権の停止、国王を議会の保護のもとにおくことを提案し、可決された。この議論が進行しているとき、ルイ一六世は、議会でいつものように飲んだり食べたりしていたという。

八月一〇日で敗北した者は、フイヤン派系のブルジョアジーと自由主義的貴族であった。これに一群の地方貴族が合流して敗北した。彼らの残党は、それぞれの地方で反革命的暴動をくわだてた。ラファイエットとラメットは、前線の軍隊を率いてパリに向おうとしたが、支持者が思うように集まらなくて危険を感じ、ベルギーへ逃亡した。

ヴァンデー県の地方貴族シャレットは、チュイルリー宮殿の防衛に活躍したあと逃亡して故郷に帰り、半年のちには、ヴァンデーの反革命暴動の指導者になった。同じくヴァンデー県に領地をもっ宮廷貴族ラロシュジャッ

クランは、革命前陸軍少将、王の代理官であった。その息子がチュイルリー宮殿の防衛に参加し、ヴァンデーの暴動を指揮して、伝説的な勇名を残した。

フイヤン派系ブルジョアジーの代表的人物として、アルザスのディートリックをあげることができる。彼は鉄鋼王といわれた大鉄鋼業者で、金融業者出身である。伯爵として領主、貴族でもあった。ブルジョア領主、ブルジョア貴族の最上層にいる者であった。彼はラファイエット派の革命家となり、革命後はストラスブール市長になった。ラ・マルセイエーズは、彼のサロンで、将校ルージェ・ド・リールが作ったものであった。八月一〇日直前までは彼も革命家であったが、八月一〇日の直後、アルザスでフイヤン派系の反乱を起こさせようと努力して失敗し、亡命した。恐怖政治のころに捕えられて処刑される。


八月一〇日の結果

八月一〇日の事件で敗北したのは、フイヤン派である。これは誰にでもわかることであるが、そのフイヤン派とともに敗北したのがどのような社会勢力であるかということについては、各人各様の説があり、一定していない。実際には、フイヤン派を支持し、フイヤン派の立場でのフランス革命をすすめてきた勢力とは、ブルジョアジーの中の最上層の部分であった。彼らは、旧体制にたいする寄生性が強く、特権的な立場にあり、また領主としての側面を兼ねていた。

これに自由主義的貴族の同盟が成立した。自由主義的貴族は貴族、領主でありながら、さまざまなつながりで最上層のブルジョアジーと結ばれていた。それにしても、バスチーユ以来八月一〇日までは、基本的に最上層のブルジョアジーの権力のもとにあった。これが、フイヤン派の没落とともに権力の座から落ちたのである。

ただし、政党の没落と、それを支持する階級の没落とは別問題である。政党が没落しても、それを支持した階級がただちに没落するというものではない。その階級の利己的な要求が政治に反映されず、ある程度の犠牲を強いられるというだけである。たとえば、ジロンド派内閣が成立すると、債務償還の上限を切り捨てた。旧体制に寄生していたブルジョアのうちの何人かは打撃をうけた。しかしその程度の意味での儀牲であり、彼が銀行家として経営に成功しておれば、没落するほどのことはない。また、それ以前に大部分の債務の償還を受けていた者は、損失がわずかでくいとめられる。党派の没落は、フイヤン派系ブルジョアジーの没落につながらないのである。

同じく、領主権の無償廃止によって、貴族がいっせいに没落したわけではなかった。たしかに、領主権の維持をめざして、自由主義的貴族も地方貴族も奮闘し、それがチュイルリー宮殿の必死の防衛に反映された。しかし領主権が無償で廃止されたとしても、社会階級としての貴族は消滅しない。領主としての階級は消減した。しかし、領地の中には直領地があり、これはやはり貴族の所有地として残った。そして、領地の大部分が直領地であるという貴族もいた。この場合は、領主権の無償廃止は痛手にならない。この面でも、改革の効果はまったくバラバラであった。

領主権に服している土地を持つ貴族もいた。この貴族はかえって喜ぶであろう。困った貴族とは、領地をもつが、その中にほとんど直領地がなかったという領主である。貴族の中にも、領主権の廃止をめぐっていろいろな立場があった。チュイルリー宮殿で死んだ貴族は貴族全体の数からすればほんのわずかであり、大多数の貴族は、おとなしく自分の城に住んでいた。もし彼に直領地があれば、彼は依然として農村の大土地所有者である。ただ、領主権の廃止の部分だけに損失を受けた。このことは、自由主義的貴族についても地方貴族についてもあてはまる。


混乱した理論的解釈の実例

ところが、党派の没落と階級の没落を同じように扱いながら、フイヤン派のブルジョアジーを単に上層ブルジョアジーとか大ブルジョアと呼ぶ解釈がかなり一般的である。このような解釈をすると、つぎのジロンド派政権の支持者が大ブルジョアジーだといわれるから、一度没落した大ブルジョアジーが、ジロンド派の支柱として生きかえり、ジロンド派追放とともに消えさるという奇妙な矛盾が起こる。

そうした矛盾にすら気がつかないで、フランス革命史を書いている人が多い。

ソブールの『フランス革命』では、八月一〇日についてつぎのように書いている。

「自由主義的貴族および上層ブルジョアジーが没落したのである。宮廷と密通し、蜂起を制止しようと努めたジロンド党についていえば、この党派は自分のものならぬ勝利の結果、大きくはならなかった。これに反して、受動的市民、手工業者や商店主は、ロベスピエールと山岳党員達に導かれ、かがやかしく政治の舞台に登場した」(上巻、一八八頁)。

この文章では、八月一〇日で、すでに上層ブルジョアジーが没落をしたと思わせる。ところが、一年後のジロンド派の没落については、ジロンド派の背後に大ブルジョアジーがいたという書き方をしている。

「ジロンド党を擁して、ひたすら自分に有利なように統治しようとした大ブルジョアジーが、一時政治舞台から姿を消したのである」(下巻、四九頁)。

こうなってくると、八月一〇日に没落した上層ブルジョアジーが、つぎのジロンド派政権のときに、大ブルジショアジーと名前を変えて政権の座にいたことになる。これでは、上層ブルジョアジーと大ブルジョアジーのちがいはなにかという質問がつきつけられるだろう。

同じような書き方がマチェの『フランス大革命』にある。

「しかし、八月一〇日の砲声のもとに、王国とともに粉砕されたのは、ひとりフイヤン派(いいかえれば大ブルジョア階級と自由主義貴族)ばかりではなかった。臨終の宮廷となれあい、蜂起を妨げるのに必死になっていたジロンド派もまた、自分の仕事ではない、押しつけられた勝利によって力を弱められてしまった」(上巻、三〇三頁)。

こうして、大ブルジョア階級の粉砕をいう。ところが、その一年のちのジロンド派の追放について、大ブルジョワ階級が倒されたとまたいっている。

「したがって、六月二日は政治革命以上のものであった。サンキュロットがひっくりかえしたものは、ただに一党派だけでなく、ある点までは一つの社会階級であった。王位とともに倒れた少数の貴族のあとで、今度は大ブルジョワ階級が倒されたのである」(中巻、二九四頁)。

ここでも、一度粉砕されたはずの大ブルジョア階級がまた、ジロンド派の背後にいてジロンド派とともに倒されることになっている。そして、あとの方の文章では、八月一〇日に倒れたのは少数の貴族だけだといういい方をしている。そうすると、八月一〇日で貴族が倒され、ジロンド派追放で大ブルジョアが倒されたという理論的な結論になる。それならば、バスチーユはなんであったかということになろう。著者自身の頭が整理されていないことを表現するものである。

また、いったいジロンド派は八月一〇日の時点で大ブルジョアジーを倒す側にまわったのか、大ブルジョアジーの代表者になるために奮闘したのかという疑問もでてくるであろう。大ブルジョア階級は、フイヤン派と結んでジロンド派に敗れたはずであるのに、それが今度は、ジロンド派の背後にまわっているという、いかにも器用な転身のように解釈できる。このような解釈は、意外に一般的であるが、事実を正確に解釈できていない。

ジロンド派もまた、はじめから上層ブルジョアジーの党派であった。クラヴィエールがその代表的なものである。そして、フイヤン派の側にもまた、上層ブルジョアジーがいた。ディートリックとかボスカリのような者である。フイヤン派対ジロンド派の闘争は、それなりに、上層ブルジョアジーの中での闘争であった。両者を分けたものは、寄生的性格がどの程度であったか、特権をどの程度もっていたか、領主的性格があったかなかったかであった。

そのために、フイヤン派を倒したあと、ジロンド派政権が成立しても、別なグループの大ブルジョアジーが、権力の背後に立ったのである。このように解釈すれば、八月一〇日からジロンド派の没落にいたる過程が、首尾一貫して説明できる。

要約 第三章 フイヤン派の権力 五 敗戦と八月十日の武装蜂起

ここにきて戦争問題が重要になってくる。ただしどの派が賛成、どの派が反対という構図にはならない。どちらの側にも賛否両論があった。その中で、ジロンド派には積極的な人が多かった。もちろん、オーストリア、プロイセンの大軍が迫ってくるのであるから、反対と言っても意味がない。ただ、入ってくるのを迎え撃つのか、積極的に打って出るのかの違いがあるだけである。1792310日ジロンド派内閣が成立した。これが画期的な出来事であった。国王の任命よりも先に、閣僚を決めて、議会に通知した。国王個人の行政権を、宙に浮かせたことになる。しかも、新大臣のうち財務大臣(大蔵大臣)にはクラヴィエールを登用した。

スイス人銀行家、それまでの内閣が、旧制度の官職廃止に対して、手厚く補償をすることに反対してきた人物である。つまり「特権商人グループ」を優遇することはやめろという意見を持っている。これが財務の担当になった。当然旧体制の官職保持者にとっては不利になる。それに代わって、自助努力で成長してきたブルジョアたちに機会が回ってくる。亡命貴族に対する対策も、厳しくなってきた。

ついに「領主権の無償廃止」が提案された。ここのところを全力で注視して読んでほしい。この節では、ほかのことは忘れても、これだけは覚えておいてほしい。領主権の無償廃止は、ジロンド派の功績であること、これに尽きる。(ただしこの時期にはジロンド派という名称はないが)。しかもこの歴史学上の最重課題が、「だまし討ち」のような形で実現したということ、こういう実情をはっきりと指摘するのは、世界中でも私だけである。この後武力対決になって、王権の転覆になる。 

14-フランス革命史入門 第三章の四 立法議会の初期

 四 立法議会の初期


フイヤン派対左派

一七九一年九月三〇日国民議会は解散し、新憲法のもとで選ばれた立法議会が、一〇月一日に召集された。国民議会の議員は立法議会の議員になることができないという規定が設けられたので、議員はすべて入れかわった。

しかし、議会の党派はかわらなかった。

権力の指導権をにぎるフイヤン派は二六四名、野党的な左派が一三六名、無所属の中央派が三四五名いた。こうした色分けは、現代の政党政治の常識では想像することができない。議会政治がはじまったばかりであり、クラブも設立されたばかりである。お互いの気心もなかなかわからず、誰が何を考えているか、正確な情報をつかむこともむずかしい。

そうした中にあって、さしあたりフイヤン派と左派だけがまとまりをみせていたのであり、無所属の中央派は、一人一人がその時と情勢に応じて自分の判断で一票を投じた。

しかも、その数がたんぜん多い。そこで、フイヤン派が与党になっていたとはいえ、常に絶対多数をとってい

たわけではなかった。中央の多数派が左派に投票すれば、フイヤン派は敗れる。そうした不安定な条件の上に立つ与党にすぎなかった。これが、つぎの政争で立法議会の決議が目まぐるしく変化した原因である。

フイヤン派はラメット派とラファイエット派にわかれ、ラメット兄弟のテオドール・ラメットに率いられた。

大臣もラメット派から多く任命された。ラファイエット派は名門貴族の一部に指導されていたが、フイヤンクラブの中では、ラメット派にくらべて勢力が後退した。

左派の議員の多くはジャコバンクラブ系であり、この時点のジャコパンクラブは、後年のジロンド派と本来のジャコパン派の両方が一緒になっていた。さしあたり、ジャコバンクラブでの指導権は、ブリッソ、コンドルセ(侯爵)に率いられた派閥、後年のジロンド派系が指導的な立場にあった。本来のジャコパン派、すなわちのちのモンタニヤールになる者は、ランデ、カルノー、クートンなど少数の左派系議員であった。

コルドリエクラブからも、三人の議員が選出され、コルドリエ三人組を作り、極左派を構成していた。メルラン・ド・チオンヴィル、シャボ、バジールであり、恐怖政治の中で重要な役割を演じることになるが、当時はほとんど影響力がなかった。

ジャコバンクラブが野党であるとはいえ、場合によってはフィヤンクラブが敗れるばあいもあった。バイイの後任として、市長選挙が一一月一六日おこなわれた。このときラファイエットがフイヤンクラブから出馬し、ジャコパンクラブからペチヨンが打ってでた。その結果、ペチヨンが圧倒的多数で当選した。パリ市長は、ジャコバンクラブ(後年のジロンド系)ににぎられたのである。


全般的繁栄と政治的安定

この時期は、多少の政争があったとしても、ともかくフイヤン派の指導権のもとで、政治的安定が実現していた。たとえ、ジャコパン系がパリ市長選挙のように優勢を示したとしても、その争いは議会主義の枠内での闘争にとどまり、乱状態をまねくようなことにはならなかった。

シャン・ド・マルスの事件も反撃をまねくことがなく、共和派は、支持者を失って孤立するだけであった。農村住民が領主権に反対して暴動を起こした場合でも、簡単に鎮圧された。全般的にみると、政治情勢はフィヤン派の路線のもとで安定し、このまま、フランス革命の成果が固定化されるのではないかと思われた。

このような政治的安定は、経済的安定と繁栄に裏づけられたものであった。フランス革命といえば流血、混乱、破壊を連想させるのであるが、それは、これ以後にはじまる戦争と、極端な内乱が植えつけたイメージである。

さしあたり一七九一年までをみるならば、重大な騒乱事件は、バスチーユ占領とヴェルサイユ行進、シャン・ド・マルスの事件だけであった。この三つの事件では、目立った破壊がひきおこされておらず、死傷者の数も、せいぜい数百人どまりである。革命はおこなわれたが、破壊はなかったといってもさしつかえがない。

その革命の成果として、宮廷貴族の権力が取りあげられ、彼らの財政的特権が打ち切られた。財政政策は、商工業とブルジョアジーを保護するものになった。国家財政の絶望的な赤字は、高級僧侶の財産没収、売却とアシニアの発行によって救われた。

領主権の部分的廃止で、通行税とか市場税とかいった商品流通にたいする制限が撤廃された。狩猟権、鳩小屋権の廃止もまた、農業生産の向上に役立った。こうした改革によって、さしあたり経済は繁栄の局面を迎えた。このことをもう一度確認しておかなければならない。

革命といえば破壊だけを連想するべきではない。革命にともなう改革が、旧制度の弊害を除去したために、経済状態の好転をもたらしたのである。また、そうしたものであるから、市民が武器をとって、命がけで反乱を起こしたのである。もし外国との戦争がなければ、フランスは繁栄の局面をたどっていたであろうと想像することができる。

一七九一年一一月のジャコバンクラブの会議で、レデレーは、商業の非常な繁栄と工業の全盛期を迎えたことを指摘した。こうした事態を高く評価した人物が、どのような立場にあり、フランス革命を通じ、どのような線にとどまっているかを知るのも重要なことである。

レデレーはメッツ高等法院判事で、伯爵として貴族であるが、国民議会議員となり、ジャコバンクラブに属し、一七九一年の末にパリ県検事総長の地位をダントンと争って手に入れた。その一年後に起こるチュイルリー宮殿の襲撃では、国王を保護する立場に立ち、国王を議会に迎え入れることに尽力した。国民公会では平原派議員として国王の裁判に反対したが、粛清されずに生き残った。ナポレオンのもとでは、元老院議員、ジョセフ・ポナパルト王の大蔵大臣となり、王政の復活で失脚するが、七月革命で、ルイ・フィリップ王のもとで貴族院議員になった。

このような人的系譜が、一七九一年の政治経済的指導者の性格を象徴している。それが、ナポレオン権力そして七月王政へとつながっていく。

当時、輸出も増加し、商品が多くなり、かえって通貨の欠乏が感じられ、リヨンではアシニアを補充するための信用紙幣を発行するようになった。こういう状態であるから、当然物価は下落した。革命直前と一七九一年の物価をくらべてみると、パンの値段は約四三パーセントの下落になった。肉の値段は四一パーセントから三〇パーセントの間に下落した。このため、下層階級の生活は安定し、それが騒乱状態を遠ざける効果をもった。

すでに一七九一年の春には、アシニアの価値は下落をはじめた。紙幣の価値が下落すれば、物価は上るはずである。しかし、六月までは、まだ五〇リーブル以下のアシニアは発行されていなかった。この年の五月に、少額のアシニアを一億リーブル製造する法令が作られたが、実際に流通して、これが効果を示しはじめたのは、かなり遅れてからであった。さしあたり、一七九一年の前半までは、労働者や職人の日給は、アシニアではなくて正貨(金属貨幣)で支払われていた。つまり、小銭は正貨で流通し、紙幣としてのアシニアは高額紙幣として、中流以上の市民の間に流通していたのである。

正貨の価値は下落せず、かえって物価が下ったのであるから、下層民の生活は革命前よりは安定した。これでは、たとえ国王が逃亡し、共和派がそれに乗じて革命運動を進めようとしても、大多数の下層民はその運動にのってこない。そこに共和派の孤立があった。

そうした社会的安定をみて、フイヤン派の権力も余裕を示すことができた。憲法の成立を祝って大赦令がだされ、共和派も釈放されたが、貴族の反革命派もまた釈放された。こうした政治、経済的な安定の時期があったということは、ほとんどのフランス革命史で正確にえがかれていない。

どれを読んでも、物価は常に値上りして、下層民の生活は常に苦しく、食糧危機は連続して起こり、それがつぎの騒動へ発展するという形で革命史が描かれている。これは、つぎに起こるべき事件をすでに知っているから、それの説明として、万年危機論的な解釈をするためである。実際はそういうものではなくて、わずかな時期ではあっても、安定の時期を迎えたのである。そして、当時そこに住む人間の意識からするならば、このままの状態が永遠に続くのではないかと思ったはずである。誰も、そのつぎにくる騒乱状態などは想像できないはずである。


インフレ、買占め、暴動

一七九一年の後半に入ると、そろそろ物価問題が取りあげられた。それを見越して、いちはやく宣伝、煽動をはじめたのがエべールであった。彼の『ペール・デュシエーヌ』では、八月一八日、つぎのように書かれているが、この文章は、当時の社会的特徴を鋭くとらえている。

「大いなる怒り……すべてのパリの公債所有者、商人、工場主が正貨を買占め、貴族、僧侶の絶対主義を再建しようとしている。彼らは貴族階級の爪の中で、われわれに陰謀をくわだてていることがわかった。すべての商人、すべての小売商人--食料品商、酒屋、ぶどう酒製造人、一口にいえばわれわれから盗み、われわれを毒殺しようとするやつら--彼らが正貨の欠乏を利用して富んでいるのをみた。われわれのすべての銀貨を買占め、これを亡命貴族に売却し、輸送しているのをみた。彼らはまた、すべての小銭をなくなるようにしてしまった。

それでいま、紙幣しかみることができない。いまや、彼らが人民から盗んだものを、はきださせる必要がある」。

エべールは、貴族、僧侶の絶対主義にかわって、ブルジョアジーの絶対主義が生れ、その新しい支配者が下層階級を犠牲にして富みつつあることを見ぬいた。しかも、アシニアの下落を見越して正貨(金属貨幣)を買占め、そのことによって、物価騰貴の原因を作りつつあることを予告している。事実、こうした傾向が、やがて来るインフレの引き金になった。

現実の物価騰貴は、一七九二年一月にはじまった。このときは、,パンの値段はまだ下落したままであったが、特定の商品、とくに砂糖の価格が暴騰し、それにつれて木綿、羊毛の価格が上昇した。当時労働者は、朝食を牛乳と砂糖入りのコーヒーでとっていたので、労働者の不満が高まった。木綿、羊毛の価格上昇については、工業家の不満が高まり、彼らは原料の輸出を禁止するように議会に請願した。この工業家の要求は押えられたままであったが、恐怖政治のとき、航海条令となって実現されることになる。

砂糖の価格の騰貴は、植民地ドミニ力の反乱によるものと説明されたが、ジャコバン派のブリッソはその説明を否定して、両者は無関係であるといった。それではなぜ砂糖の価格が騰貴したかといえば、これは買占めによるものであった。国民議会がアシニアを発行して革命前からの債務にたいして補償をおこなった。つぎに、旧体制のさまざまな官職、すなわち、法服貴族からはじまり手工業の親方職にいたるまでの、官職売買の制度にもとづくものについて、廃止する代りに補償金としてアシ=アが支払われた。

もっとも多くのアシニアを手に入れた者は、最上層のブルジョアであった。自由主義貴族の政治家も多くのアシニアを手に入れた。彼らは、手に入れたアシニアを、なんらかの物に変えようとした。竸売にだされた教会、修道院の土地、建物を買込み、寺院を倉庫にかえた。商品に投資して、買占めた商品をここにたくわえた。さらに、あまったアシニアを、正貨すなわち貴金属貨幣と交換し、財産の保全を計った。このような投機と買占めが盛んになり、その結果として、特定商品の急騰が起こったのである。これをおこなったのは、革命を指導した最上層のブルジョアや自由主義的貴族であった。

その象徴が、大商人ボスカリであった。彼は銀行家、食料品商人、株式仲介人、工場主を兼ね、ケース・デスコント理事長をしていた。パスチーユ占領のときには積極的に参加し、パリコミューンの食料委員となり、フイヤンクラブに加入し、ジャコバンクラブにも参加していた。立法議会の議員となり、公債委員会、商業委員会、財政委員会で活躍した。

このボスカリが、砂糖の買占め人として非難され、群集に襲撃された。もちろん、彼の家だけではなくて、買占め人とみられた商人の何人かが、破壊や放火の対象になった。これが一七九二年一月二〇日のことであった。

軍隊が出動してこれを鎮圧したが、この事件が立法議会での闘争を激化させる引き金になった。

ボスカリは、議会に手紙を送って群集の行為を非難し、秩序の回復を要求した。しかし逆に、買占め、投機を非難する反撃もおこなわれた。ジャコバンクラブでは、ボスカリ一族は、ダントンの友人で商人のルクレール・サントーバンから買占め人として告発された。この騒ぎの中でボスカリの経営が破綻し、六月には破産の申し立てをおこない、議員を辞任せざるをえなくなった。

ただし、この問題がフイヤン派対ジャコバン派の全面的対立になったかどうかといえば、必ずしもそうでない。ジャコバンクラブの中にいた、のちのジロンド派系にも大商人が多く、彼らから選出された当時のパリ市長ペチヨン自身も買占めの告発を受けた。

同じくジロンド派系の議員で、ボルドーの大商人デュコは、商業の統制が港湾都市を破減させるといって、買占め反対運動に反撃した。そのため、買占めにたいする非難や商業にたいする統制の声はあがっても、議会はなんらの手段もとらなかった。


インフレ対策

アシニアの価値は下落をはじめ、一七九一年の終りに、正貨にくらべて二割下落した。こうした事態をどのように考えるかについて、フイヤン派とジャコバン派の間に論議が展開された。これは、国家財政全般をめぐる論争点にもなった。

国家財政の制度が国民議会によって改革され、宮廷貴族にたいする巨額の支出は打ち切られ、赤字の基本的原因は除かれた。本来ならば、これで黒字になるはずであったが、一七九一年の一〇月三一日現在で、九億リーブルの累積赤字になるという報告がなされた。一七九一年度の支出は七億四五〇〇万リーブル、収入は五億八三〇〇万リーブルとなり、赤字は一億六二〇〇万リーブルとなった。

このように赤字が増加していったのは租税の徴収がすすまなかったためである。新しい租税の基本としての地租の徴収が、土地所有者の抵抗によって進まず、この年の地租(不動産税)を完納したのは、ただ一つの県だけであった。

こうして生じた赤字を補充するためにも、アシニアの増発という手段が使われた。アシニアは、旧体のもとでの債務の補償や廃止された官職の補償にも使われながら、赤字の補充にも使われた。一七九一年一二月一七日、議会はアシニアの発行額を一六億リーブルに増加させた。

このとき、一群の議員が、アシニアの増発はその下落をもたらし、物価の騰貴をひきおこすといって増発に反対した。

クラヴィエールは一一月一五日、議会で演説し、アシニアの信用を維持するためには、債務の償還を厳正にしなければならないと演説した。この意味は、旧体制のもとから引きつがれてきた国家に対する債権と称するものの中に、かなり疑わしいものや不正なものがあり、この清算をめぐって多くの不正行為がおこなわれているので、もっと厳重な検査をして、国家の負債額を縮小せよというのである。そうすれば、アシニアの増発がさけられ、信用が取りもどされる。たしかにこれは合理的な提案であった。

しかし、当時の多数派であったフイヤン派には、旧体制に寄生していた特権的なブルジョアが多かった。徴税請負人、特権商人、国債の大所有者、官職の所有者であった。彼らは、自分達の特権や官職の廃止にともなって、有利な補償額を手に入れようとして、それそれが国家と掛け合っていたのである。清算局長デュフレーヌ・サンレオンもまた、そのような立場の最上層の銀行家であった。そこで、この時期には、債務の清算を厳格にせよという意見は、野党的な意見にとどまったのである。

ただ、野党的な意見を主張したクラヴィエールもまた銀行家であったことは、注目すべきことである。彼はジュネーヴから来た銀行家であり、ミラボー、ブリッソと親交を結び、王立生命保険会社の理事になるほどの大銀行家であった。しかも、一年のちにはジロンド派内閣の大蔵大臣になった。そのような立場であるから、彼の親友ブリッソもまた、クラヴィエールの提案を支持して奮闘した。この日議長をしていたヴェルニヨーも、のちのジロンド派系であるから、この提案に賛成した。

財政委員の一人力ンポンも、クラヴィエールの提案を歓迎した。カンポンは、南仏モンペリエの大商人、工場主であり、恐怖政治の時期の財政委員会議長になり、実質的には大蔵大臣の役割を担った。その意味では、フイヤン派に対して、のちのジロンド派から恐怖政治の推進者にいたる勢力までが、まとまって野党の立場に立ち、債務の清算を規制しようとしたのである。

しかし、立法議会の多数は、大反対を唱えてこの提案を否決した。カンポンは、償還のための支払を、アシニアが国庫に還流してくるのにしたがって順番におこなうべきだと主張したが、これも拒否され、一二月九日、「請求権のある国庫債務の償還は中止するべきではない」という法令が、熱狂のうちに可決された。

この事件は、ブルジョアジーの中での性格の相違が、アシニアの信用をめぐって対立にまで進ませた事件であった。フイヤン派のブルジョアジーは、旧体制にたいする寄生性が強い者であり、そのため、債務の補償をすすめるためにはアシニアの下落も辞さないというグループであった。クラヴィエール、カンポンに代表される勢力もまた、銀行家、商人、工業家であったが、彼らは寄生性がよりうすかったのである。しかし、さしあたりまだフイヤン派系のブルジョアジーが優勢であった。


左派の攻勢

亡命貴族にたいする対策も争われた。ジャコバン系は、王弟と王族財産の没収を要求し、一一月九日に可決させた。一一月八日、亡命貴族の財産没収と死刑の適用を含む法律が、フイヤン派の抵抗をおしきって可決された。

 この処置は、ピルニッツ宣言にたいする報復であった。王弟と亡命貴族はドイツに集まり、オーストリア皇帝とプロシヤ王に働きかけた。そのため両国は、フランス革命政府に対する干渉戦の準備をすすめていた。その予告として、一七九一年八月二五日に出されたのが、ピルニッツ(南ドイツ)におけるオーストリア皇帝とプロシヤ王の共同宣言であった。ここでは、フランス国王の権利を回復するために、両国が武力を行使する決意であることがのべられていた。二人の王弟は、この宣言を利用しながら、もし革命フランスがルイ一六世に危害を加えたばあいには、オーストリア、プロシヤの軍隊がパリを破壊するであろうという脅迫的な声明をおこなった。立法議会は、こうした王弟と亡命貴族の行動を、フランスにたいする敵対行為とみなしたのである。

しかし、ルイ一六世は、法務大臣デュポール・デュツルトルを通じて、王弟についての法令は承認するが、亡命貴族についての法令は承認しないと通告した。

僧侶基本法にたいする宣誓を拒否したいわゆる忌避僧侶の問題も争われた。イスナールが、忌避僧侶の国外追放と、外国への革命の拡大を要求するはげしい提案をおこなった。しかし、これには左派だけが賛成して、議会の同調は得られなかった。イスナールも、のちのジロンド派の指導者になる。つぎに、フランソワ・ド・ヌーシャトーが、忌避僧侶にたいする俸給を停止し、彼らを監視することを提案し、可決された。これにたいしては、フイヤン派が国王に請願書をだして、この法律を拒否することをすすめ、拒否権を発動させた。これが一二月八日のことである。これにたいして、国王の拒否権を攻撃する動きも高まり、カーミュ・デムーランは、パリの諸区の署名を集め、国王攻撃の運動を起こした。

植民地問題でも複雑な対立が起こった。ドミニカにおいて、有色人種と混血人が合流して反乱を起こした。これが一〇月二七日に議会で報告された。植民地大地主のラメットに代表されるラメット派は、軍隊の派遣と反乱の鎮圧を要求した。コルドリ派を代表して、メルラン・ド・チオンヴィルは人権宣言と奴隷制の存続は矛盾すると主張した。

しかし、ジロンド派はこの問題で複雑な態度をとった。パリ出身のブリッソやクラヴィエールは、植民地にたいする人権宣言の適用を自由に主張できた。しかし、ポルドー、ナント、ラロシェルの商人は、植民地貿易に深いかかわりをもっていたため、議会にたいして軍隊の派遣を熱心に主張した。しかも、彼らは黒人貿易の存続も主張していた。

これら大商人に支持されて議会に進出したジロンド派の議員、たとえばヴェルニヨー、ガデ、ジャンソネなどは、フイヤン派と対立して民主主義的政治家の評判を高めていただけに、大西洋沿岸都市の商人の圧力には、困惑を感じた。結局、彼らは軍隊の派遣に同意したが、混血人に選挙権を与えて有色人種から切りはなし、しかも、商人が、債務者たる土地所有貴族の財産を差し押えることができるという改革案を提案して、フイヤン派に対立した。


戦争問題とラメット派の後退

戦争の問題については、フイヤン派にもジャコバン派にもそれそれ分裂があり、必ずしもフイヤン派対ジャコバン派の図式にはなっていなかった。もっとも好戦的な党派は、ジャコバン派の中の将来のジロンド派議員であり、彼らは、一種の世界革命論的な主張を唱えていた。

ドイツ諸侯とオーストリア皇帝、プロシア王がフランスの亡命貴族を援助していた。また、フランスからドイツへ亡命した高級貴族の多くは、ドイツにも領主と血縁関係があった。ドイツの諸侯が、フランスの宮廷における官職をもっていた場合もある。そうした意味で、革命フランスにたいする反対運動が、ドイツを根拠地として根強くつづけられた。ジロンド派は、この反革命の策源地を叩けといった。そのうえ、外国にアシニアを拡大することによってアシニアの下落をくいとめることできると主張した。

しかし、同じくジャコバンクラブに参加していた者でも、のちのモンタニヤール(山岳派)系の活動家の何人かは、戦争に反対した。議会の外では、ロベスピエール、マラが、闘争するべき敵は国内にいるという理由で戦争に反対したが、当時は彼らはきわめて少数派であった。

フイヤン派の中では、ラファイエット派が戦争賛成論に進んでいった。ラファイエット派がその方向に進んだのは、買占め反対の暴動や批判が高まっていくので、この危機を対外問題にそらした方が有利であると判断したためである。

ただし、フイヤン派の中のラメット派は戦争に反対を唱えた。ラメット派は、戦争を起こすことが植民地貿易に打撃を与えるので、植民地貴族の利害から反対したのである。しかし、ジロンド派の開戦論が立法議会の多数を制していくのにつれて、ラメット派の勢力は後退した。

一七九一年一二月九日、陸軍大臣デュポルタイユにかわってナルボンヌが就任した。ナルボンヌは伯爵、フイヤン派の将軍、スタール夫人(ネッケルの娘)の愛人であったが、好戦的性格をもち、スタール夫人のサロンでコンドルセ、ブリッソ、イスナールなどジロンド派の指導者と交際した。バルナーヴはナルボンヌを監視する必要があると王妃に書き、戦争反対論を強力に唱えて奮闘したが、孤立して九二年一月パリを去った。

外国の側からも戦争へ突き進むような宣言がだされた。一七九一年一二月三日、オーストリア皇帝(神聖ローマ皇帝)はフランスにたいして、「一七八九年八月の時期以後になされた改革のすべてを停止し、関係者から取り上げられたすべての収入を元に戻すこと」を要求した。

ルイ一六世と王妃も、この頃になると戦争を望むようになった。戦争によって、フランス革命政府が敗北する以外に、自分達には救いがないと思いはじめたのである。

戦争問題をめぐる最後の闘争は、陸軍大臣ナルボンヌとラメット派の外務大臣ドレッサールの間でおこなわれた。ドレッサールは、オーストリア皇帝と通信して戦争を回避しようとつとめていた。閣議での対立の結果、まずナルボンヌが罷免された。しかし、すぐにジロンド派の反撃がおこなわれて、ドレッサールが辞職に追い込まれた。

 

要約 第三章 フイヤン派の権力、四 立法議会の初期

立法議会の党派について、他のフランス革命史にはない説明が行われているので、そこを注視してください。フイヤン派の人数、左派の人数を書き、中央派の人数を書いた。最初からこのように正確に書くフランス革命史は、他には存在しない。だからフランス革命の事件が誤解されて世に残る。これが私の一貫した主張である。私は、中央派を重視する。その数は、フイヤン派と左派をまとめても、ほぼ同数になる。つまり多いのだ。だから、フイヤン派が多数派だからといって、数の力で押し切ることができない。では中央派の出方を探って、とはいっても、一人一党主義、是々非々主義、勇者もいるが、臆病者もいるというわけで、計り知れない。これで決議が左右に揺れることになる。

この効果が、世界史的に最大の問題とされること、すなわち「封建的権利の無償廃止」を可決するときに発生した。そういうことを、次の節を見る時に思い返してほしい。それにしても、この時期、経済は繁栄をはじめ、政情も安定してきた。こういう時期もあったことは念頭においてほしい。フランス革命といえば、騒乱、騒動ばかりだという印象があるからです。その幸せな時期があって、そろそろ風雲急を告げる段階に入る。下からは物価問題、上からは亡命貴族とオーストリア皇帝の威嚇、この二つでフランスは地獄に落とされた。このような流れで、次の節に入るとよい。


13-フランス革命史入門 第三章の三 国王の逃亡とシャン・ド・マルス事件

 三 国王の逃亡とシャン・ド・マルス事件


国王の逃亡計画

一七九〇年一〇月、ネッケル派の大臣が辞職に追い込まれたころから、国王の逃亡計画がひそかに進行した。

亡命貴族や高級僧侶がひそかに国王と連絡をとり、王権の回復のための行動を模索しはじめた。一七九一年二月、懐剣騎士団が国王を宮殿から奪回する計画をたてたが、失敗した。六月には、ヴァンデー県でレザルディエール男爵の反革命暴動がひきおこされた。

一七九一年四月一三日、ローマ法王が僧侶基本法を公式的に非難すると、基本法に宣誓した僧侶も撤回するようになり、非宣誓僧(忌避僧または反抗僧)の数が多くなった。そうすると、非宣誓僧にたいする示威行動や圧迫がはげしくなり、非宣誓僧と宣誓僧(立憲僧)の間に、信者の争奪戦がおこなわれた。このような中で、僧侶の多数が反革命へと移行した。

これらの情勢の上に立って、国王はパリにとどまって国民議会と妥協していくことの無意味さを認めた。そのとき、革命家として有名になり、しかも左派の指導者としてみられていたミラボーが、転向して王の逃亡計画を進めた。国王がメッツその他の安全な場所に移り、将軍に守られて国民議会の解散令をだし、全司令官に秩序を維持する命令をだし、全貴族に王を守れと呼びかける。ミラボーは、パリに残って国民議会の動きを監視するというものであった。

この計画を進めているうちにミラボーはとくに王妃にたいする評価を高めた。「君は王妃を知るまい。あふれるばかりの能力をもった勇気ある男性ともいうべき人だ」。これ以後、ミラボーは転居して、かってないほどの豪奢な生活をしはじめた。その費用は、王弟プロヴァンス伯爵からもだされ、国王からもだされた。また、ダランべール太公も王妃に心服していたので、この計画の仲介役をつとめた。しかし、四月二日、ミラボーは放蕩生活がたたって急死した。

彼が死んだとき、まだ彼の反革命的陰謀は公表されず、わずかにエべールがミラボーを非難していた程度であった。そのため、ミラボーは、すぐれた革命家としての評価を維持していた。彼のために盛大な葬儀がおこなわれ、革命の象徴として、パンテオンに祭られた。のちになって、彼の陰謀が暴露された。

ミラボーのあと、国王の脱出計画はフェルゼン伯爵によって進められた。彼は、フランス国王に任えるスウェーデン連隊の連隊長であり、王妃の恋人でもあった。脱出した国王一家を国境でブイエ侯爵(メッツ軍団司令官、ラファイエット派)が迎えて、国境の外に送りだす手はずがととのえられた。

一七九一年六月二〇日、国王一家は予定通りチュイルリー宮殿を脱出し、馬車で国境をめざして逃走した。しかし、国境近くのヴァレンヌで、町の郵便局長ドルエに見やぶられた。ドルエの通報により、たちまち国王の馬車は群集にかこまれた。ブイエ侯はこの報道を聞くと、ドイツ人連隊や貴族将校を集めて奪回にむかったが、群集に恐れをなして退却し、そのままドイツへ亡命してしまった。国王一家は、国民議会から派遣された委員によってパリに連れもどされた。これがヴァレンヌ逃亡事件である。


国王廃位の要求

ヴァレンヌ事件は、国民議会における対抗関係に新しい要素をつけ加えた。まず、もっとも右翼的、保守的な貴族議員や忌避僧侶が、あいついで亡命した。軍隊の貴族将校からも、大量の亡命者をだした。国内に残っている高級僧侶や高級貴族のうちで、王党派とみられた者は、監視されたり監禁されたりした。

他方で、最左翼のコルドリエクラブは、ロべールの指導のもとで、王政を廃止して共和国を宣一言するための請願書を作成した。国民議会では、最左派のペチヨン、ヴァディエ、ロベスピエールが国王の裁判を主張した。ペチヨンはのちのジロンド派の指導者、ヴァディエは恐怖政治の保安委員、ロベスピエールが公安委員であったことを思えば、この時点での国王の廃位については、後年のジロンド派とモンタニヤールが、共同の歩調をとっていたことをうかがわせる。

ただし、当時のジャコバンクラブは、コルドリエクラブとはちがって、ルイ一六世の退位と、オルレアン公の摂政政治を要求する請願書を作った。これは、ブリッソとダントンの主張をもとにしたものである。もともと、ブリッソは、オルレアン公と革命前から深いつながりがあり、オルレアン公の政権を実現させようと努力していた。彼は、ルイ一六世個人を廃止したとしても、王政そのものを廃止するつもりはなかった。

こうして、コルドリエクラブとジャコバンクラブの間にも方針の統一がなく、お互いに非難の応酬をしている状態であった。ただ、ルイ一六世の退陣をもとめる運動はさかんになった。


フイヤンクラブの結成

こうしたルイ一六世廃位の運動に対抗して、国民議会の貴族政治家は、ほぼ一致して国王を守ろうとした。それまで、貴族革命家は、ラファイエット派かラメット派のどちらかに属していた。しかし、ラメット派はジャコバンクラブからはなれつつあった。ラメット派がジャコバンクラブから離れていく傾向をみせたのは、植民地問題でつきあげられた頃からであった。

人権宣言を植民地の有色人種にまで拡大するかどうかが、ジャコバンクラブの論争点になっていた。一七九〇年二月二六日、ジャコバンクラブの会議で、ナントの船主を代表してモスヌロンが、植民地の一切の改革にたいして反対した。黒人貿易を存続させること、有色人種にも混血人にも参政権を与えないことを要求しながら、インド会社の廃止を要求している。これが当時のラメット派の立場であった。

インド会社を攻撃することにおいては進歩派であり、植民地の改革に反対する点では保守派である。このようなナントの貿易商人と植民地大地主のラメットが金融的に結びついた。それだけにラメットが貿易商人の政治的な代弁者になったのである。一七九一年五月、国民議会は混血人に参政権を与えたが、九月にそれを取り消した。これはラメット派の反撃によるものであった。そこで、ジャコバンクラブにおいては、ラメット派は白人植民者の代弁者として批判され、孤立していった。

そこへ国王の逃亡事件が起こり、ジャコバンクラブの多数がルイ一六世の廃止を決議した。ラメット派は、もはやジャコバンクラブに残留する意味を失った。こうして、七月一六日、ラメット派はジャコバンクラブから分離して、ラファイエット派と合同してフイヤンクラブを結成した。フイヤンクラブの議員が国民議会の多数派となり、ジャコバンクラブにとどまった議員は、ペチヨン、ロベスピエールほか数人になった。


シャン・ド・マルスの虐殺

ルイ一六世の退陣を求める運動にたいして、ラファイエット派とラメット派は、共同で王位を守ろうとした。パリ市長バイイは、ルイ一六世が誘拐されたのであって、自分の意志で逃亡したのではなかったという解釈を広めた。ラメット派のバルナーヴはヴァレンヌに派遣された委員であったが、国王一家を捕えにいきながら、帰り道にはすでに王妃の相談相手になった。バルナーヴと王妃の恋物語が、革命史のエピソードになるくらいの転向であった。

バルナーヴはグルノーブルのブルジョアの家に生まれ、母は貴族であった。弁護士となり、モンテスキューの三権分立思想をかかげて革命運動に入り、ムーニエとむすんで、ドーフィネ州の革命運動(屋根瓦の日)を指導した。ムーニエが保守化したのちも、彼はラメット兄弟、デュポールとむすんで民主主義者の偶像になっていた。しかしヴァレンヌ事件で、国王と王妃の側に立った。

彼と王妃との間に交わされた手紙は、ルネ・ペリソンという貴族、連隊長が仲介した。ペリソンはバルナーヴと同郷の知り合いであり、ペリソンの妻が王妃の女官で王妃の部屋に寝ていたために、彼は自由に宮殿に出入りできた。その立場を利用して、王妃とバルナーヴの手紙を持ち運んでいた。

こうした事情のため、国王を守る運動の先頭にバルナーヴが立った。彼は七月一五日の投票の時に演説した。

「われわれは革命を終えようか。それとも始めようか。……これがもう一歩自由の線にふみこめば、王制の破壊となるだろう。もう一歩平等の線にふみこめば、財産の破壊になるだろう」。

議会の多数は賛成して、ルイ一六世の王位は守られた。しかし、ジャコバンクラブでの批判ははげしかった。ラメット派はもはやジャコバンクラブにとどまることはできず、分離してラファイエット派と合同した。これが、翌七月一六日にフイヤン修道院で結成されたフイヤンクラブであった。フイヤンクラブが議会の多数派となった。

七月一七日、コルドリエクラブを支持するパリ市民の一団がシャン・ド・マルス広場で共和制の請願をめざして集会を開いた。議会はこの集会に解散命令をだし、国民衛兵を派遣した。国民衛兵の発砲によって、数百名の死傷者をだしたのちに、共和派にたいする弾圧がすすめられた。

コルドリエクラブは一時閉鎖され、指導者が逮捕された。共和制の請願を起草したロべール(『パリの革命』の編集者)、『人民の友』を出版していたマラ、『ペール・デュシエーヌ』を出版していたエべールも追求をうけた。新聞の発行は不可能になり、それぞれの革命家は潜伏した。

共和派だけではなく、ジャコバンクラブを足場にオルレアン公の摂政を主張していたダントンも危うくなった。彼はイギリスへ亡命した。この事件が「シャン・ド・マルスの虐殺」といわれるようになった。フイヤン派の権力が、軍事力と警察力を背景として安定した。パリ市長バイイは翌日議会で演説した。

「犯罪がなされ、法の正義は試練をうけた。公共の秩序は破壊され、陰謀の連合が作られた。われわれは報復のため法を公布した。煽動者は力をたのみ、官吏と国民衛兵に発砲したが、犯罪にたいする懲罰は、犯罪者の頭上におちかかるだろう」

国民議会議長シャルル・ド・ラメットはバイイを祝福し、国民衛兵を讃美した。

バルナーヴは七月二一日、王妃に手紙を書いた。

「王制を安定させたのち、秩序、平静、法への尊厳を確保する必要があります。革命は終らせなければならない。これが一貫した目標であり、その時期がきました。無秩序は抑圧され、政府はその全活動力をとりもどし、法はきびしく施行されるでしょう」。


憲法の制定

シャン・ド・マルス以後、しばらくはフイヤン派の指導権が安定した。フイヤン派には、自由主義的貴族(領主)とブルジョアジーの最上層が結集していた。そのため、彼らの有利な政策が実施された。農業問題では、領主権の維持と確保を目的として、八月二七日、貢租の増加が決定され、九月二八日、農業法が可決された。ここでは、領主権を土地所有権と呼び、これを神聖なものと規定した。

九月三日、憲法が成立した。もともと、国民議会の主な任務は憲法の制定であるとされていた。「憲法が制定されるまでは、国民議会は解散されない」ことが、「テニスコートの誓い」の趣旨であった。そのため、国民議会は別名、憲法制定議会(制憲議会)といわれた。この憲法が新しい国家の体制を規定した。新しい国家の体制は立憲君主制であり、行政権は国王に属し、立法権は議会に属するが、国王に拒否権を認めた。議会は一院制国会で、議員の選挙権も被選挙権も、ともに一定の租税をおさめる者に限定して与えられることになった。

当時は職人、労働者、日雇人、失業者、貧農は租税をおさめていなかったので、租税をおさめる者というだけで選挙権はかなり制限された。選挙権をもつ者を「能動市民」と呼び、もたない者を「受動市民」と呼んだ。これで、政権に参加できる者は、すくなくとも手工業の親方や小商店主、あるいは中農以上の者に限定された。能動市民は三日分の労賃以上に相当する租税を支払う者であり、約四〇〇万人と計算された。これにくらべて選挙

権のない受動市民は約三〇〇万人であった。

全国は、四三の県に分割され、県の下に郡と小郡が置かれた。「フランス王国は唯一にして不可分」と宣言された。旧体制のもとでは、外国人領主の領地や外国扱いされていた地方があり、かならずしもフランス王国の領土として認められていないものがあった。そのような習慣を廃止して、フランスを完全な統一国家にすることを宣言したのである。

国家統一の度合をくらべるならば、絶対主義の時代よりはむしろ、民主主義的フランスの方が、かえって強くなったというべきである。中央集権は、絶対主義よりはむしろ、市民社会になる方が強められるということを示すものである。日本の学者の中には、絶対主義といえば、極端な中央集権であるかのように思っている人が多い。しかし、革命フランスが、絶対主義フランスよりも中央集権を強化したことを考えるべきである。

こうして、憲法の制定とともに、フランス革命の第一段階が終った。権力は、自由主義的貴族と最上層のブルジョアジーの手ににぎられ、これがシャン・ド・マルス事件によって安定した。財政の実権も彼らににぎられ、高級僧侶の財産(土地と建物)は、競売を通じて、権力の座にいる者の手にその最大部分が移りつつあった。そのうえで、旧体制の時代に生きつづけてきた封建的分裂の名残りが一掃され、近代的統一国家が形成された。


新制度にたいする左右からの非難

こうした方向にたいして、二つの側面から批判がおこなわれた。一つは左翼の側からである。左翼といっても、下層民からはじまって、ブルジョアジーに属するものが含まれている。党派でいうならば、のちのジロンド派から山岳派(モンタニヤール)、ジャコバン派系を含み、さらにはコルドリエクラブ系までを含む。

ジロンド派の指導者になったロラン夫人は、シャン・ド・マルス事件を「虐殺」と呼んで非難した。のちにジロンド派を追求する立役者になったマラは、この当時、絶望的な気持になっていた。九月二一日に書いた文章は、それをあらわしている。

「バスチーユを破壊した者は、少数の貧困な人々である。彼らを動かしてみるならば、あの最初の日と同じような状態を示すだろう。当時、彼らの行動は自由であった。しかしいまは彼らはつながれている。……いまでは、バスチーユ占領以前に、いっそう自由から遠ざかっている」。

マラの目からみれば、フイヤン派支配のもとの人民は、旧体制のもとの人民よりも、もっと抑圧されているということになる。

右翼の側にも不満が高まった。国王が九月一三日憲法を承認すると、亡命貴族は国王と王妃にたいして激怒した。

とくに、王妃にたいして怒りが集中した。亡命貴族はルイ一六世を国王とみなさないような発言をおこなった。これにたいして、国王と王妃は、亡命貴族やこれと組んでいる王弟を、事情を知らない者として非難した。

こうして、亡命貴族と国王夫妻の間に亀裂がはいったが、これを権力の座にいるフィヤン派は喜んでいた。

バルナーヴは王妃にたいして書いた。「貴族階級は現在、王と王妃から憤満やるかたなく遠ざかっていくようにみえます。それはよいことです。なぜなら、それが人民を王と王妃の側にひきもどす要因になるからです」。

バルナーヴは国王夫妻を宮廷貴族の王からフイヤン派の王に転向させようとしていたのである。これを心配そうに外国でながめていたのが、フェルゼン伯爵であった。彼は九月二五日、日記に書いた。

「王妃はバルナーヴにひきまわされて、王族に対立している。すべてがわるくいっている」。

一〇月三日、王妃にたいして書いた。

「あなたの心を過激派(バルナーヴ)に与えないで下さい。彼らは、あなたにとって最悪のことをする卑劣漢です」。

これにたいして、王妃の返事が一〇月一九日に出された。

「安心しなさい。わたしは過激派のなすがままにはまかせません。このようにみえるのは、またわたしが彼らのうちの何人かと関係をもっているのは、わたしに役立てるためです。彼らはわたしをたいへん恐れているので、わたしを従わせることはできません」。

一一月七日の手紙には、「安心しなさい。わたしは決して過激派の思い通りには動きません。より大きな悪を防ぐため、彼らを利用するだけです」。

このやりとりをみるならば、王妃は事態を冷静に判断して、とりあえずフイヤン派と協力するふりをしながら、もう一度旧体制にひきもどす機会をねらっていることがわかる。

フェルゼン伯爵は、一七九二年二月一四日パリに潜入して、ひそかに国王と会見したが、そのとき王と王妃はつぎのようにいったという。

「いまのフランスには二つの党派しかない。立憲派か共和派か。そこで共和派と立憲派が結ばないように、立憲派と国王が協力するふりをしなければならない」。

こうした事態を自分の目でたしかめてきたフェルゼン伯爵は、当時のフランスの実質的支配者が誰であるかを書き残している。

「バルナーヴ、デュポール、アレクサンドル・ラメットの諸氏はもはや議員ではないが、立憲派をひきいており、王との仲介者になっている」。

要約 第三章の三 国王の逃亡とシャン・ド・マルスの虐殺

国王一家の逃亡計画と失敗は、政治的には大きな事件として取りあるかわれてきたが、体制の変化としてはほとんど見るべきものはない。国王夫妻は、改革を進める国民議会に対して見切りをつけた。その時、ミラボー伯爵(革命運動の指導者)が買収によって国王の側に寝返った。国王はその程度の資金は自由に使うとこができた。(行政権は国王の手の中にある)。しかし、彼ミラボーは急死した。国王の逃亡計画は失敗した。しかし、だからと言って国王の地位は揺るがなかった。これで揺らいだかのように書く歴史家も多いが、そうではなく、かえって国王を守ろうとする勢力が強化された。それがフイヤン派になる。ラファイエット派とラメット派の合併によるフイヤン派の結成である。フイヤン派が立憲王制を堅持した。国王はこれと協力しなければならない。(国王夫妻としては心ならずもではあるが、今は贅沢を言えない)。

この状態で、憲法が制定され、国民議会は解散し、新議会としての立法議会が招集されることになった。しかし、この議会は厳しい制限選挙制に基づくもので、約半数の国民には選挙権がない。この点を念頭に置いておくべきである。「自由平等」とは言うが、この時のフランスはまだそうではない。共和制を唱えたコルドリエクラブは弾圧され、オルレアン公爵の摂政を唱えたジャコバンクラブのダントンはイギリスに逃げた。シャン・ド・マルスの虐殺があった。貧民からすると恐怖政治のようなもので、その時支配者になっていた者は、ラファイエット侯爵、ラメット伯爵に代表される自由主義的大貴族とラボルド(宮廷銀行家)、ラヴォアジエ(徴税請負人、科学者)に代表される最上層のブルジョアジーであった。


12-フランス革命史入門 第三章の二 国民議会の改革

二 国民議会の改革


財政改革

フランス革命は財政問題を導火線としてひき起こされた。そのため、権力をにぎった国民議会がまっ先に努力したのは、旧体制の財政的弊害を改めることであった。その点については、国民議会の大多数がまとまり、改革に反対するのはネッケル派から右のごく少数派であった。そのため、議会におけるはげしい政争をみることなしに、つぎつぎと実現された。

この改革の中に、フランス革命のもっとも基本的な成果が含まれているのであるが、不思議なことに、ほとんどのフランス革命史において、しかるべき扱いをうけていない。ひどいばあいは、このような改革にはいっさいふれないでおいて、領主権の廃止とか憲法についての議論とか、国民議会におけるラファイエット派とジャコパンクラブ系の政争から生まれた改革に移ってしまう。財政問題では、せいぜいのところ僧侶財産の国有化とアシニアの発行に言及するだけである。これでは、アンシャン・レジームの弊害が、国民議会によってどのようにあらためられたかという因果関係が、筋を通して説明されない。

財政改革の基本的なものは、宮廷貴族の特権を廃止して財政支出を削減し、国家財政に余裕をのこしながら、ブルジョアジーにたいする債務を忠実に守り、破産させないように配慮することであった。そのためにおこなわれた一連の改革がある。

赤帳簿が廃止され、過去の不正をあばくためにその資料が公開された。年金を公表し、高額年金に大削減を加えた。しかも、宮廷貴族の主流が亡命したために、彼らの年金を支払う必要がなくなり、ますます節約になった。革命以前、元帥、中将、少将の年金が総額九七七万リーブルになったが、これを六〇五万リーブル削減した。上層部にたいする打撃は大きかった。

下級将校の年金は総額六一六万リーブルであったが、九九万リーブルの削減にとどめた。兵士の年金は総額五〇〇万リーブルであったが据えおかれた。このような改革で、全体として年金支払は一一〇〇〇万リーブルの節約となった。上に薄く下に厚い財政改革であり、亡命貴族は自動的に支払を停止された。この改革が、のちに国民公会の財政改革でさらに極端となり、一七九三年六月、三〇〇〇リーブル以上の年金を一律に切りすててしまった。

高額の報酬をもらっていた元帥の数を削減し、その報酬を三万リーブルに引き下げた。その半面、兵士の給料を引き上げた。親王領が没収され、王領地の不正交換が破棄された。王領地の不正交換とは、ロアン・ゲムネ大公の救済策にみたように、国家収入を減少させながら特定の宮廷貴族を救うものであった。

王と国王一族の宮廷の費用は削減された。総督、王の代理官その他の無用官職は廃止された。これらの官職に巨額の報酬と役得がついていたことを思えば、宮廷貴族のうける打撃はきわめて大きかったことがわかる。逆にいえば、それだけ国家財政を豊かにするべきものであった。

八月四日の宣言と人権宣言の中に含まれる人間の平等についての規定が、宮廷貴族の財政的特権を破壊する側面でも意味をもった。文武の官職にすべての市民を登用するという規定は、宮廷貴族の独占物であった高級官職に、あらゆる階層の市民が就任できる可能性を開いた。この面でも、宮廷貴族の特権は打撃をうけた。

国民議会が、租税徴収権を宣言して国王と争った意味が、新しい租税政策に反映された。貴族の減免税特権は廃止された。もちろん、旧体制のもとでブルジョアの一部もまた減免税特権をもっていたが、これも廃止された。この面では、貴族的なブルジョアも損害をうけ、地方貴族も法服貴族も犠牲をこうむらなければならなかった。

新しく定められた租税の約二分の一が地租であり、約四分の一が動産税と家屋税であった。当然、貴族は多額納税者になり、上流の宮廷貴族はとくに巨額の租税をおさめなければならなくなった。しかも、徴税を実行する官吏を新しく任命し、旧体制の徴税官を罷免したから、もはや情実によって貴族が租税の減免をはかることはできなくなった。こうして、貴族全体がそれ相当の納税者にかわり、国家財政のかなりの部分を負担しなければならなくなった。

貴族に負担を転嫁することによって、財政資金に余裕ができた。その部分をブルジョアジーに対する救済政策、さらには育成政策に注ぎこむことができた。国民議会は、国庫にたいする債権をもっている者を保護し、国債の元本と利子を保証すると宣言し、これを実行した。このことによって、ブルジョアジーを破産させる旧体制の財政政策は終りをつげた。

ケース・デスコントから半強制的に借款をつづけるという財政政策も終りをつげ、過去の借款にたいしてはアシニアで償還し、債務不履行にならないように配慮した。このために、信用の動揺は静まり、ブルジョアジーからは破産者をださずにすんだ。商工業、金融業は安定して、繁栄の局面に入ることができた。国民議会は工業にたいする奨励金を増加し、工場建設のために国有地を交付してブルジョアジーの発展を財政面から積極的に援助した。このような政策は、バスチーユ占領の結果ブルジョアジーの議会が権力をにぎったため、当然実現されるべきものであった。これが、王権との激突の結果である。ところが、これらの政策が意外に評価されていない。これではフランス革命の本質が分らない。本質的な変化とは、宮廷貴族の権力が破壊され、上層ブルジョアジーの権力が確立し、前者の財政的特権が奪われ、その犠牲のうえに、後者に有利な財政政策が確立したことである。

もちろん、僧侶財産の国有化とアシニアの発行もまた、高級僧侶に打撃を与えた。高級僧侶は宮廷貴族であったから、この面でも、宮廷貴族の財政的特権に打撃を与えたと評価するべきである。


封建権利の部分的廃止

八月四日の宣言で約東された封建権利の廃止については、国民議会の封建委員会に委託された。この委員会には貴族議員が多く、書記として、実務上の仕事をしたメルラン・ド・ドゥエは封建法学者であった。このため封建委員会は領主権を温存しようとする立場に立っていた。

そこで封建的権利を二つにわけ、土地に付属している領主権つまり貢租と不動産売買税、土地に関するマンモルト(死亡税)は地代の一種とみなし、存続させることにした。貢租の徴収権は財産の一種と考えられていた。もしこの負担からまぬがれたいと思えば、土地の所有者(厳密には保有者)は、領主にたいして二〇年分から二五年分の価格に相当する資金で買い戻さなければならないと規定した。こうして、封建的権利の有償廃止が、一七九〇年三月一五日の法令として成立した。

このような形での領主権廃止は、領主権に服している土地所有者にとって、全面的に喜ぶべきことにはならなかった。領主は、改革を見越して領主権の増徴につとめた。このため、所によっては土地所有者の負担が大きくなり、領主権収入が増加したところもあった。買戻しの可能性が法律として成立しても、買戻しのできるものは、かなり豊かな土地所有者でなければ不可能であり、一般の農民には考えられるものではなかった。そこで、この法令にたいして多くの批判がだされた。

「諸君は封建制を絶滅するものと信じた。しかし、買戻しに関する諸君の法律はその反対のことをした」。

「この一七九〇年のいまわしい法令は、貢税を負担している土地所有者の破減である。この法令が生んだ訴訟はかぞえきれない」。

こうして、ひとたび静まっていた反領主的暴動が各地で活発になりはじめた。多くの本ではこの暴動の参加者が農民であったと書かれているが、貧農や中農ばかりと解釈しては誤解になる。領主権に服している者は、貴族、ブルジョア、富農からはじまって中農・貧農にいたる、さまざまな階層のものであったから、領主権を攻撃するという点では、これら幅広い所有者の階層が一致するはずであった。

ただし、大農民の中で、貢租の徴収を請負っている者(大フェルミエ)は領主の側に立つはずである。そうした動きをよく示しているのは、一七九〇年一二月に発生したグルドン郡の暴動であった。この暴動は地方貴族に指揮されていた。農民は、領主のみならず、貢租の徴収を請負っていた大農民にも攻撃をかけた。

このような反領主的暴動を、当時の国民議会の多数派は鎮圧しようとした。国民議会の多数派は、自山主義的な貴族(領主)と最上層のブルジョア(領地を所有する)の手にあったため、領主権にたいする攻撃を財産にたいする攻撃とみなしたからである。

そこで、一七九〇年八月三日、神聖な所有権を侵すための暴動にたいして厳罰を下すという法令を決定した。フランス革命のスローガンが「自由、平等、友愛」であると思われているが、これはのちのことであって、革命の初期は「自由、平等、財産」であった。財産の権利が王権から侵害されそうになったので、バスチーユ襲撃を起こしてこれを守ったという意味である。ただ、その財産権には貢租の徴収権、すなわち領主権も含まれていたのである。

こうして、フランス革命の第一段階では封建貢租が消減しなかった。封建的権利のうち、人身に附属する領主権とみなされたものは無償で廃止された。領主裁判権、市場税、通行税、強制使用権、賦役、マンモルト(死亡税)、狩猟権、鳩小屋権などである。また、領主が共有地の三分の一を取りこむ権利(トリアージュ)が廃止され、これを一七六〇年にまでさかのぼらせた。領主特権放牧権も禁止された。このような改革は、やはり領主にたいするかなりの打撃であった。逆にみると、農民その他の土地所有者にとっては、かなり有利なものとなった。

ただし、これを単に領主対農民だけの関係で評価するべきではない。通行税や市場税が廃止されたことは、商品流通を担う商人にとっては非常に有利なことであった。この意味では、ブルジョアジーにたいする領主の収奪が消滅したということができる。領主権の廃止は、農民だけではなくて、ブルジョアジーにたいする恩恵にもなったのである。

十分の一税は廃止されたが、それに相当する額は土地の所有者が受け取るものとされた。中農ならば間題はないが、大農民または商人地主のもとで小作人が働いていたばあい、廃止された十分の一税は、彼ら大土地所有者の収入を増加するものとなり、小作人の収入を増やすものにはならなかった。そうしたところに貧農の幻滅が発生し、これがつぎの問題に発展することを記憶にとめておかなければならない。


郡県制と地方自治法

一七八九年一二月二二日、地方自治についての法律が決定され、これにもとづいて翌年一月地方自治体の選挙がおこなわれた。全国はほぼ同じ面積の八三県に分割された。県の下に郡がおかれた。それ以前は大小まちまちの州に分割されていて、州と州の間に税関がもうけられ、間接税の制度もまちまちであった。これが、近代的な意味での郡県繝に統一されたのである。

新しくできた地方自治体の議会と行政官は、選挙で選ばれることになった。県知事以下の行政官と三六人の県議員は、選挙人の総会によって選ばれることになった。選挙人は三〇スー以上の税金をおさめる者であり、被選挙人は、五リーブル以上の税金をおさめるものと決められた。議員は無報酬であった。

こうした条件のもとでは、議員も行政官も裕福な者によって構成されることになる。市町村についても同じような規定がもうけられた。また選挙のための集会は地域別でおこない、職業別でおこなってはならないと規定された。これは、伝統的な勢力をもっていた同業組合(ギルド)の政治的影響力を押えようとしたものである。こうした法律にもとづいて、翌年(一七九〇年)の一月に、地方自治体の選挙がおこなわれた。その結果、各地に、ブルジョアジーと自由主義的貴族の支配する議会と行政組織が成立した。

また、旧体制のもとでは、度量衡の制度が地方によってちがっていた。これを統一するために、一七九〇年五月一〇日国民議会の中に度量衡委員会が設立された。ここで、科学者であり徴税請負人であったラヴォアジエが指導力を発揮した。彼らの仕事はCGS系単位の制定となって完成された。センチメートル、グラム、秒、の単位であるが、これが一七九三年八月公布された。ここで度量衡の統一が実現した。


第一身分と第ニ身分の廃止

一七九〇年六月、貴族の称号を使うことが禁止された。以後すべての人が「市民」(シトワイヤン)と呼ばれることになった。それ以前、身分の高い貴族は猊下(モンセニュール)と呼ばれ、普通の貴族はムッシュと呼ばれていた。貴婦人はマダムをつけて呼ばれていた。こうした区別がなくなって、すべてがシトワイヤン(男)、シトワイヤンヌ(女)で呼ばれることになった。ただし、この改革は定着しなかった。革命後、また貴族の称号が

復活した。「市民」の呼び名は姿を消した。かわって、ムッシュ、マダムが普通の人にたいしても使われるようになった。平たく言えば、貴族を市民に引き下げるかわりに、市民を貴族に昇格させる形で平等化へ近づいたのである。

同年九月七日、高等法院が廃止された。これによって、司法機関が貴族の支配するものではなくなった。裁判官に平民が登用される道が開かれた。地方自治法によって、総督、王の代理官のような宮廷貴族の独占していた官職が廃止された。こうして、宮廷貴族から法服貴族にいたるまで、貴族のにぎっていた官職が廃止され、ここに身分、家柄を問わず人材が登用される道を開いた。

また、同年二月二八日、貴族が軍隊の将校の地位を独占することを廃止した。これ以後は、貴族であろうと平民であろうと無関係に、功績によって昇進できることになった。ただし、さしあたりはまだ貴族の将校が優勢であった。平民の中から将校や将軍がでてくるのは、本格的な戦争がはじまり、戦争の中で能力と軍功を示す機会が与えられるようになってからである。

一七九〇年七月一二日、僧侶基本法が可決された。革命前、司教は国王とローマ法皇が任命し、司教が司祭を任命していた。今後は、司教と司祭は選挙によって選ばれることになった。選挙となると、司教の地位を宮廷貴族が独占するわけにはいかなくなる。そのうえ、司教の数を引き下げた。

また、その俸給をはるかに引き下げて、一万二〇〇〇リーブルから一万五〇〇〇リーブルの間と定めた。司祭の俸給は七〇〇リーブルから一二〇〇リーブルに増加させ、助任司祭の俸給は三五〇リーブルから七〇〇リーブルに増加させた。高級僧侶の数を削減し、その俸給を引き下げ、下級僧侶の俸給を増加させたのがこの法律の特徴であった。

僧侶基本法にたいしては、国民議会に議席をもっていた高級僧侶のほとんどが反対し、ローマ法王の決定をまたなければこの法律に賛成できないといった。国民議会がカトリックを国教とする案を否決したこととあいまって、高級僧侶は一気に反革命的な気分を高めた。

各地で僧侶の反革命的運動がひきおこされた。一七九〇年の春ごろから、南フランスの僧侶や修道僧が住民を煽動した。八月に入るとカトリック教徒の反乱が起こった。翌年の二月には、ラバスチード修道院長が反乱を起こした。これが西部につたわり、ヴァンデー地方で僧侶の指導する反乱へと拡大した。


ラメット派の台頭

一七九〇年九月四日、ネッケルが辞職したあとネッケル派の大臣にたいする非難が集中し、一〇月二〇日ネッケル派の大臣が辞職に追い込まれた。かわって、ラファイエット派からデュポール・デュテルツル(法務大臣)、デュッルバイユ(陸軍大臣)、ベルトラン・ド・モルヴィル(海軍大臣)が入閣し、ラメット派からドレッサール(内務大臣)が入閣した。これによって、行政権はネッケル派から、ラファイエット派とラメット派の連合の手に移り、ラファイエット派が指導権をにぎることになった。

これと並行して議会ではラメット派の勢力が強くなり、一〇月二五日にはラメット派のパルナーヴが国民議会議長になった。ラメット、パルナーヴ、デュポールの三人をまとめて三頭派と呼ぶほど有力な勢力になった。ジャコバンクラブはこの三頭派に指導され、彼らを支持していた。

これから翌年の一七九一年六月までの約八カ月は、ラファイエット派とラメット派の激突がつづき、これは角度をかえるならば、一七八九年協会とジャコバンクラブとの闘いになった。その闘争の中で、ラメット派が、ラファイエット派の抵抗をしりぞけて改革を進めていった。

この闘争を横目にみながら、国王は、パリに残って事態を改善しようという努力をすてた。ネッケル派の大臣にかこまれている間は、まだ我慢ができた。なぜなら、多少気にいらないとはいっても、ネッケル派はともかく宮廷貴族であり、革命前にも大臣をだしていた。改革派ではあっても、ともかく国王の側近であることにはまちがいがなかった。ネッケル派がしりぞけられてしまうと、もはや国王は信頼できる大臣をもつことができない。そこで、この時から国王の逃亡計画が練られることになる。この計画が、一七九一年六月二〇日に実行されたヴァレンヌ逃亡事件である。

ラファイエット派とラメット派の闘争はつきつめていえばブルジョアジーの内部抗争であった。権力は、もはや宮廷貴族の手からはすべりおち、階級としてのブルジョアジーの手ににぎられていた。ただし、そうはいっても、ブルジョアジーに純化されたという意味ではない。

まだ当時のブルジョアジーが社会的権威をもっていなかったので、どうしても、全国に名を知られた名門貴族の権威にたより、彼らの協力を求めなければならなかった。そのために、一方の勢力は、ラファイエットを中心とする自由主義貴族と提携し、その指導に服したが、それに対立するジャコパンクラブ系のブルジョアジーもまた、同じく名門貴族のラメットを指導者に仰がなければならなかった。そこで指導者個人だけをみるならば、ともに自由主義的な官僚貴族であり、アメリカ独立戦争に参加した名声をもつという点では、かわるところがなかった。これだけをみるならば、両派の相違がどこにあるかわからなくなる。そこで、それを額面通り受けとって、両派の間に基本的な相違がないと書く歴史家が多い。


ラファイエット派とラメット派の相違

ソブールの『フランス革命』では、両者の相違についてほとんどなにもふれていない。

一七九〇年一〇月二〇日以後の改革が、ラファイエット派によっておこなわれたのか、あるいはそれに逆らってラメット派がおこなったのかという問題が無視されている。ただ、経済改革はそれだけでまとめられており、政治的変動は別に並列してまとめられている。政治と経済が分離されているために、両派の相違がわからなくなっている。

マチエの『フランス大革命』では、はっきりと、両者の間に基本的なちがいがなく、個人的な争いがあっただけだといっている。

「すくなくとも最初のうちは、ジャコパン派と八九年協会の間には、基本的な理論上の相違はなくて、むしろ個人間の争いがあった。要するに、八九年協会とジャコバン派の間には、権力の有無という壁があったにすぎない。八九年協会は内閣の閣僚であり、ジャコパン派はこれになろうと望む人々である」(上巻、一六四-五頁)。

そのあとで、マラがラメット派を信用しないと書いたことを引用する。マラからみれば、両派ともにブルジョアジーの党派であるから、その点にちがいがないのは当然である。彼がより下の階層を足場にしていたからである。しかし、だからといって、両派の間に基本的なちがいがなかったというわけにはいかない。

ラファイエット派に集まるブルジョアジーは最上層のブルジョアジーであり、寄生的、特権的、封建的性格を強く身につけたブルジョアジーであった。商人、金融業者、大工業家でありながら領地をもち、貴族の称号をもつようなブルジョアがいた。このような例は、すでに紹介してある。

アルザスの鉄鋼業者ディートリックとか、ロレーヌの鉄鋼業者ヴァンデルなどがその例である。また、インド会社やケース・デスコントのような特権会社の大株主、理事になった銀行家、商人もそうである。

彼らは、旧体制のもとでも、国王から特権を与えられていた。財政上の問題で王権と衝突したため、革命をおこなったのであるが、さりとて、旧体制のもとでにぎっていた特権そのものは手ばなそうとはしない。こうした最上層のブルジョアの実例としては、ボスカリのような人物をあげることができる。旧体制の徴税機構に寄生して収入をあげていたものもいる。徴税請負人はそのもっともはっきりとした実例であり、ラヴォアジエはその代表的な人物である。彼らもまたやはりブルジョアジーの一員ではあったが、同時に、徴税権を濫用することによって、他のブルジョアを傷つけていた。

ブルジョアジーの内部で、絶対主義時代の遺物をまとい、これを利用しながら、他のブルジョアを支配していこうとする者と、そうした遺物をはねのけて、より自由な資本主義的社会秩序を実現しようとするブルジョアの間に闘争がおきるのは当然であった。ブルジョアジーの性格のちがい、これがラファイエット派とラメット派の相違になった。

そして、名門貴族のラメットが、より急進的なブルジョアジーの代弁者になったのは、彼が植民地ドミニカ(首府はサン・ドマング=サン・ドミンゴ)の大地主であったからである。植民地大地主と貿易商人の間には、融資関係を通じて密接なつながりがあり、「フランス植民者の交通協会」が植民地貿易の圧力団体としてつくられていた。そこで、ラメットが、これら貿易商人の代表としてかつがれた。


総徴税請負人の敗北

ラメット派とラファイエット派の闘争の焦点は、国内関税の撤廃、徴税請負制度の廃止、特権制度の廃止であった。

入市関税や販売の独占権についてはすでにバスチーユ襲撃と大恐怖のころから攻撃が行なわれており、各地でこれをめぐる騒乱がおきた。マルセイユでは、肉の販売権を独占している大商人ルビュフェル(徴税局長)にたいする襲撃事件がおこった。そのとき、暴動の責任者として、貿易商人の一団が投獄された。ルベキ、グラネなどであった。彼らに支持されていたミラボーは、国民議会で奮闘して、一七八九年一一月から一二月にかけて、彼らを救出した。翌年の市議会選挙で、彼らが当選した。この場合の闘いは、ブルジョアジーとブルジョアジーの内部闘争である。

同じようなことが、パリでもリヨンでもおきた。リヨンではたびたび群集のカで関門が実力突破され、その混乱に乗じて、商人が無税の商品を運びこんだ。しかし、国民衛兵のカで、この動きを弾圧して、一七九〇年七月リヨンの入市関税が再び確立された。これに対して、職人達が反乱をおこしたが弾圧された。このとき、のちにジロンド派の指導者になったロラン(マニュファクチュア検査官)は、入市関税反対の運動を指導した。

一般的にいって、入市関税反対運動を進めたグループは、のちのジロンド派系の指導者になっている。ジロンド派を支持する者は、やはり商工業者、金融業者として、大ブルジョアジーに属するものであった。それにしても、寄生性、特権性がより薄かったために、この時点では民衆の側に立ち、入市関税を攻撃したのである。

こうした運動の波におされて、国民議会は、一七九一年二月一九日、入市関税撤廃の決議をおこなった。

「五月一日を期して、市、村、町に入ってくる商品にたいしてなされる課税をやめる」。

この法令については、右派のモーリ枢機卿、貴族議員のカザレスなどが、あらゆる方法で議事を妨害した。これにたいして、議長のルシャプリエやルぺルチエ・ド・サンファルジョー(パリ高等法院議長)が積極的に賛成し、成立させた。このとき、エべールの新聞『ペール・デュシエーヌ』(デュシエーヌじいさんの意味)は、当時の気分を、卑俗な表現でつぎのように書いている。

「ぶどう酒、肉その他すべての食料品の入市関税が廃止され、やっと、貧しい人民の犠牲の上に富をたくわえていた総徴税請負人が打倒された。彼らの傲慢の時代はすぎた」。

こうした改革は、単に議会内での闘争だけによって実現したのではなく、議会外の運動の圧力によって実現された。すでに二月一五日、パリ市の関門が密輸人の暴力によって押しやぶられ、興奮した群集のために、徴税局吏員と守衛は手をだすことができなかった。二月一八日、すなわち入市関税撤廃の法令が議会で討議されている日、工場労働者の集まってつくった密輸人の団体によりパリの関門が重大な脅威をうけたという。そのため、すべての関門を効果的に警備せよと、パリ市長バイイが国民衛兵参謀長グヴィヨンに指示したほどであった。

入市関税廃止の直前、四月二九日には、関門に車の大群がつめかけた。そのため、期限の五月一日には全般的な騷動がおこり、統制が不可能になるかもしれないと参謀総長が報告しているほどの情勢であった。このような騒乱状態が、議会の決議に影響をおよぼしたのである。

総徴税請負人にたいする攻撃がますます高まった。一七九一年二月一二日、タバコの耕作と販売に関する総徴税請負人の検査が廃止された。このときも、モーリ枢機卿を中心とする右派の反対派が強く、三七二対三六二の少差で可決された。エべールの新聞『ペール・ディシエーヌ』は、つぎのように当時の気分を表現している。

「なんと、モーリ僧正はまた反対した。彼は、われわれを困窮の中におこうとしているのだ。畜生め。しかし、いまやわれわれは、自分の小さな庭や畑でタバコの菜園を作ることができる……タバコは安くなり、自分のそばに良質のぶどう酒びんをおいて、よい機嫌で愛国のシャンソンを歌うことができる」。

この法令の討議の中で、ミラボーの転向がはっきりしてきた。この時点まで、ミラボーはジャコバンクラブの側に立ち、議会ではラメット派に協力的であったが、この法令の討議については、右派と手をむすんで反対した。そのことについて、エべールの『ペール・デュシエーヌ』はつぎのように書いている。

「前伯爵ミラボーにたいする大いなる怒り:……この野郎、お前はどうしてタバコの栽培と商業の自由について反対したのだ。この日から、お前はモーリ僧正の友になった。そのうえ、議会が終ってから、お前は彼らの一味とタ食を共にしたというではないか」。

こうして、ミラボーは左派から保守派に転向した。しかし、だからといって、ミラボーを支持していた銀行家、商工業者が転向したというのではない。革命前からミラボーと結びついていた銀行家クラヴィエールは、議会で、タバコの自由耕作と商業の自由について演説し、旧来の検査と統制は所有権と社会契約に反すると主張した。

この問題をめぐる闘争でも、左派の側にも、一流のブルジョアの姿をみることができる。そして、ミラボーのような貴族は、一時的に彼らと手を組んでも、立場がちがうので、ある段階で離れやすいという傾向もみることができる。こうした闘争のいきつくところ、三月二〇日総徴税局が廃止された。絶対主義のもとで大いに権力をふるい、ブルジョアジーの中から出ながら、ブルジョアジーの多数に憎まれていた総徴税請負人の勢力は打破された。


商工業の自由をめぐる闘争

東方貿易を独占していたインド会社の特権廃止が、四月にとりあげられた。議会におけるはげしい討議の結果、インド会社の貿易独占権は四月三日廃止された。この時の気分を、ナントの貿易商人モスヌロンはつぎのように書いている。

「勝利、勝利!ケープタウン以東のインド商業は、すべての商人にとって自由になった。国民議会は、昨夜七時間の討論ののちに決議した。はげしい討論と、決議の延期をめぐる指名点呼により、三八五対二七五で延期が否決された」。

このようにして、特権的なブルジョアジーの勢力が、普通のブルジョアジーの勢力によって撃破され、商工業はいっそう自由になった。ジャコバンクラブに代表される商工業者や銀行家は、この時点では、自由主義を旗印にかかげて、自分よりも上の特権的ブルジョアジーの抵抗を打破した。

それと並行して、自分達より下の、職人層の同業組合の特権を自由主義の原則に反するものとして攻撃した。その結果、二月から三月にかけて、同業組合が禁止され、労働の自由が確認され、職業上の特権が廃止された。

四月一日、営業の自由がうちだされ、職業の選択は自由になった。これにともない、一定の営業免許税を支払えばよいことになった。

こうした改革にもとづいて、ギルドの親方職も廃止され、中世以来長く続いた徒弟制度は終りをつげた。同業組合はすでに時代遅れとみなされていたから、これを廃止するとき強力な反対はすくなかった。

ただ、奇妙なことに、左派の革命家マラ、すなわちのちに恐怖政治の推進者になる一人が、新聞『人民の友』の中で、同業組合廃止に反対し、厳格な徒弟制度の必要を主張した。マラは、恐怖政治の時代にはもっとも急進的な革命家になったが、同業組合の問題については、むしろ経済の進歩に逆行する中世的な思考をもっていたのである。


反領主暴動と労働運動の抑圧

ラファイエット派とラメット派の対立もさることながら、国民議会の方針に逆らう動きにたいして議員の多くが協力して、これを抑圧するための法令を打ち出した。この面では協力が対立に優先したのである。それは、農業問題と労働者、職人の問題をめぐってであった。

封建権利の部分的廃止は、農民やその他の土地所有者に深刻な不満をのこした。貢租と不動産売買税(臨時的権利)の無条件廃止を要求して、農村の暴動がはげしくなった。そうすると、国民議会は八月に、騒乱にたいして厳罰を課するとの法令を決議した。

六月一五日には、再び封建委員会のメルラン・ド・ドゥエの報告にもとづいて、「所有権に対して、それにふさわしい尊敬を払うべきである」と、領主権の神聖を宣言し、これにたいする反乱にたいしては、強い態度でのぞむことを再確認した。こうして、農業間題では、領主権の死守が国民議会の多数意見として確認された。

六月一四日、ルシャプリエ法が公布された。これは、経済的自由主義の名のもとに、職人組合や労働組合の結成、争議行為の禁止を徹底させるとともに、同業組合の再建も禁止するという性質のものであった。当時、約八万人と推定されるパリの労働者、職人の組合が結成されつつあった。六月に入ると、蹄鉄工が賃上を要求し、労働時間の短縮を要求してきた。日給三〇スーを四〇スーに引上げ、一三時間労働を一二時間労働に短縮せよというのである。これに脅威を感じた親方層が議会に請願したために、この法律ができた。

ルシャプリエ法によると、職人、労働者、日雇人の集会や組合の結成は、「労働の自由な契約を妨害する行為」とみなされ、経済的自由主義の原則から禁止された。違反者や煽動者には厳罰が与えられることになり、市町村当局は、このような組合や集団の請願に応じてはならないと、強い態度を示した。

このルシャプリエ法は、フランス革命がいかに激化しても、撤廃されることはなかった。もっとも急進的なロベスピエール派といえども、労働者や職人の運動にたいしては、この法律と同じ態度をとりつづけた。その意味では、恐怖政治の最中においても、労働者や職人が国の主人公になることはなかったのである。

同じような性格の事件と結末が、軍隊の中に起きた。一七九〇年八月三一日のナンシー事件であった。ここの軍隊の中に反抗的な気分が広がり、兵士が将校にたいして連隊の会計報告を要求し、不正を摘発した。将校はまだ名門貴族でかためていたために、これは、軍隊における反貴族の暴動になった。八人の兵士が、議会に請願書をもってきた。

しかし、ラファイエットと陸軍大臣ラツール・デュパンは鎮圧法を可決させ、ラファイエットの従兄・ブイエ侯に軍隊を率いてナンシーに進撃させた。ブイエ侯は、「この時期をとらえて軍と公共の秩序について、圧倒的模範を示さなければならない」といい、兵士の指導者一三八人を処刑した。こうして、軍隊の中において、依然として貴族支配の体制が維持されたのである。 

要約 第二章 フイヤン派の権力 二 国民議会の改革

はじめに財政改革が取り上げられているが、このような形で、財政改革を深く掘り下げているフランス革命史は他にはない。一般的には、急に、理念的なもの、思想、政治に話題が行ってしまう。だから、少し我慢をして、財政問題を紹介している文章について、理解をしようという気になってほしい。一言でいえば、国家財政の支出部門では、ヴェルサイユに集まる貴族に対して莫大な資金が支出されていたこと、革命の結果これが削減されたこと、この変化が納得されればよいのである。貴族は依然として多額納税者ではあったが、革命以前は、多収入の少額納税者であった、このことをしっかりと記憶にとどめてほしい。現代社会に慣れている頭では、多収入の人が少額納税者であることは、「ありえない」ものと思い込んでいるからだ。


11-フランス革命史入門 第三章の一 革命の諸党派

第三章 フイヤン派の権力


一 革命の諸党派


僧侶財産の国有化とアシニアの発行

ネッケルは、ラファイエットと妥協してパリに入り、しばらくは財政を動かしていた。しかし、彼は銀行家であっても、宮廷生活に深入りしすぎていた。そのため、国民議会のだしてくる財政改革案についていけなくなり、抵抗するばかりになった。財政危機がますます深刻化したので、ケース・デスコントを国立銀行に改組して、その紙幣を国家の保障つきで増発する案を考えた。しかし、この紙幣はすぐに下落することが見通されていた。

これにたいして、タレイランが一〇月一〇日、僧侶財産の国有化を主張した。これが一二月二日、可決された。そのあと、一二月一七日、国民議会の財政委員を代表して、銀行家ルクツーが報告し、ネッケルの提案をしりぞけ、国有化された僧侶財産を担保として紙幣を発行することを決定させた。この紙幣をアシニアと呼んだ。

ただし、アシニアを紙幣というべきかどうかについては疑問の余地がある。不動産の実物価値に裏付けられているうえ、はじめに発行されたのは、五分の利子つき証券だったからである。しかし、フランス革命の全体的な

観察からすると、紙幣としての役割を果すことになったといえよう。

この政策は政治的な革命が財政的な革命となり、とくに財産上の革命へとすすんだメルクマールであった。僧侶財産の国有化とはいっても、切りすてられるのは高級僧侶の収入であり、下級僧侶にたいしては、それに見合

う俸給を国家が支給することになったので、さしあたり経済的な打撃にはならなかった。高級僧侶は、大規模な寺院、大規模な領地を取りあげられるのであるから、ほとんどが反対し、この政策のあとで反革命運動に転じた。ごくわずかな高級僧侶、タレイラン司教とかシエース副司教だけが賛成にまわった。

アシニアを受け取った者は、これで僧侶財産を買い入れることができた。この紙幣は土地、建物という不動産の価値で裏付けられているので、信用が高まり、紙幣としては効力を発揮した。国家がケース・デスコントから借り入れを重ねていた一億七〇〇〇万リーブルは、このアシニアによって返済された。


ネッケルの敗北と亡命の第三波

アシニアの発行は、ネッケルの財政政策の第一の敗北であったが、つづいて第二、第三の敗北が起った。ネッケルは、はじめ四分の一愛国税を提案して、収入の四分の一を租税として徴収し、これで財政困難をたてなおそうとした。自分も一〇万リーブルを率先して提供し、人気をとろうとした。しかし、この政策は反対が強く、立ち消えになった。

財政危機を立て直すためには、思いきった改革が必要であった。しかし、ネッケルは積極的に改革を行おうとはしなかった。宮廷貴族の高額の年金を削減すること、国王の秘密支出のもとになっていた赤帳簿を廃止することが議会から要求された。実際、これを行わなければ、財政支出は節約できず、国王の財政的な権力はのこり、宮廷貴族はいつまでも財政的特権を享受するから、なんのために革命を行ったのかわからない。

しかし、ネッケルは赤帳簿の公開に反対した。また、宮廷貴族の年金は財産であるから、尊重しなければならないという立場に立って、これを切り下げようとはしなかった。今や、ネッケルは宮廷貴族と国王の財政的権利を守ろうとする側にまわったのであり、国民議会の多数派からみれば、ネッケルが保守派の牙城にみえてきた。

ミラボーは、ネッケルについて「一人の大臣の財政的独裁」と批難した。ネッケルは、宮廷に深入りした銀行家として、はじめは宮廷の弊害をあらためようとする改革派として出発しながら、革命が進行するとともに、宮廷の特権を維持しようとする保守派にまわったのである。ついにネッケルの没落するときがきた。

一七九〇年三月六日、ネッケルは国民議会財政委員会に「前使い金」を要求したが拒否された。四月に入ると、赤帳簿を国民議会の年金委員会に手わたさざるをえなくなった。宮廷貴族の高額の年金も、ネッケルの反対を押し切って削減された。もはやネッケルの時代は終った。

一七九〇年九月四日、彼は国民議会に辞職を伝える手紙を書いた。彼の手紙が読み上げられても、国民議会ではなんらの動揺も起こらず、議長は冷淡につぎの議事に移った。ネッケルはフランスを去ってスイスに帰ったが、一時捕えられて侮辱された。このようにネッケルは、銀行家として成功し、貴族社会の成上り者となり、自由主義貴族の社交界の花形となり、フランス革命第一段階の救世主として仰がれたが、結局はそのフランス革命で失敗した。ただし、スイスにおいては依然として大銀行家であり、豪荘な邸宅に多くの召使にかこまれて住んでいた。

このあと、国家の財政の実権は国民議会財政委員会の手に移行した。それを代表する者がルクツー・ド・カントルーであった。彼も銀行家、法服貴族、工業家、大商人の要素を兼ねていたが、ネッケルのように宮廷に深入りしていたわけではなかった。ネッケルのように、銀行家でありながら宮廷貴族とまじりあっていた者が、ブルジョアジーの頂点からまっ先に脱落していったのである。

また、宮廷貴族の穏健な改革派がネッケルとともに脱落した。ネッケル派の宮廷貴族ショワズール公爵、モルトマール・ド・ロシュシャール公爵などが亡命をはじめた。またネッケル派の大臣シャンピオン・ド・シセ(法務大臣)、ラ・リュゼルヌ(海軍大臣)、ラッール・デュパン(陸軍大臣)、サン・プリースト(内務大臣)は、すべて高級僧侶か宮廷貴族でありながらネッケル派として政権を担当していたが、辞職に追い込まれた。

新しく選出されてきたパリの区の代表者が、ネッケル派の大臣の罷免を要求した。このときにダントンが運動の先頭に立ち、名前を知られるようになった。一〇月二〇日、国民議会はこの要求を少数の差で否決したが、票の差が少いために、ネッケル派の大臣は自ら辞任したのである。

このことによって、ネッケル派は完全に権力の座からすべりおちた。この事件が、パスチーユ襲撃以来まだ行政権の中にのこっていた宮廷貴族の要素を消滅させた。宮廷貴族の勢力は、バスチーユ襲撃でその中心部を破壊され、ヴェルサイユ行進でさらに削減されたが、ネッケル派の辞職によって、最後に残った柔軟派までが追いおとされた。


王党派的反対派

ヴェルサイユ行進ののちに、革命運動を指導、組織するべきいくつかの党派が形成された。革命の前にあらかじめ一つの党派が形成され、それが革命を指導したのではない。財政的危機からくる自然発生的な運動の中で、それぞれの階級の人物が動き、その雑然とした情勢の中から、しだいにいくつかの党派へのまとまりがつくられていった。

もちろん、現代の政党政治のような整然たるものではなく、どの党派にも加盟せず、そのときそのときで投票していた議員も多い。また、一人の人物が、二つの党派に同時に加盟しているばあいも多かった。たとえば、ブリッソは、一七八九年協会とジャコバンクラブの両方に加入していたが、ラファイエットもミラボーも同じことをしていた。そのため、党派とはいってもまだ形成されたばかりのもので、政党政治の党派とはかなりちがっていた。

国民議会は三部会の議員によって構成されたものであり、かなりの亡命者をだしたとはいえ、まだ貴族や僧侶の議員ものこっていた。こうした勢力によって、革命の進行に抵抗しようとする右派が作られた。

クレルモン・トネール伯爵、モンテスキュー司教、ヴィリュウ伯爵、地方貴族のカザレスなどが中心になり、一七九〇年一一月「立憲王制友のクラブ」を作った。

彼らよりもさらに保守的な政治家としては、モーリ枢機卿に代表される保守派があった。ただし、いずれにしても、国民議会において彼らはもはや与党ではなくて、右翼的な反対派の立場に転落し孤立していた。


一七八九年協会またはラファイエット派

国民議会の指導権をにぎった党派は、ラファイエット派と呼ばれた議員の一団であり、「一七八九年協会」にまとまったものである。このクラブは、一七九〇年五月に設立され、入会金は一〇〇リーブルであった。これでは、かなり高い収入がなければ入会できないから、ここには革命勢力の中の最上層部に属する者が参加した。

もっとも目立つものは、自由主義貴族と最上層のブルジョアであり、ブルジョアのばあい、多くは貴族・領主を兼ねていたり、国債の大所有者であったりしたものである。その意味では、自由主義的領主と貴族的ブルジョアの同盟ということができる。貴族の代表的人物としてはラファイエット侯爵、コンドルセ侯爵、ミラボー伯爵、ラ・ロシュフーコー・リャンクール公爵、キュスチーヌ伯爵、カステラーヌ伯爵などの自由主義的宮廷貴族が目立っていた。高級僧侶の中ではタレイラン司教、シエース副司教が目立っていた。

法服貴族では、レデレ伯爵(メッツ高等法院判事)、ダンドレ伯爵(エクス高等法院判事)などが目立っている。

最上層のブルジョアには、ラヴォアジエ、ボスカリ、クラヴィエール、ユべール、モヌロン、ビデルマン、ドレッセール、デュフレーヌ・サンレオンなど多くの大ブルジョアの姿がみられる。デュフレーヌ・サンレオンは国民議会清算委員会事務局長になり、ラヴォアジエは国民議会から度量衡制度の改革をまかされて、CGS系単位を確立した。ペルゴ、ジョージ、コッタンのような銀行家は、ラファイエットの副官となって、軍事、行政の指導権をにぎった。

法律家、知識人も多いが、彼らは他の党派にもちらばっている。第一段階の革命を「法律家の革命」というほど法律家の姿は目立っているが、法律家という区別はあくまで職業上の区別であって、これをあいまいに使うことはよくない。その法律家が、どのようなグループの代弁者になっていたかが重要である。

一七八九年協会に参加した知識人の代表的な者は、天文学者バイイである。彼は革命後初代のパリ市長となり、「テニスコートの誓い」の指導者としても有名になった。彼自身は平民であるが、父親の代から王の芸術コレクションを管理する官職をもち、このために一六〇〇リーブルの年金を受ける権利をもっていた。また、王弟プロヴァンス伯爵(後のルイ一八世)の書記にもなっていたため、宮廷貴族の保守派とも交友関係があった。その意味では、知識人の中でもっとも上層に属するものであった。

弁護士ツールも一七八九年協会に加入した。彼はノルンディーに土地と邸宅をもち、これを賃貸して収入をあげる反面、商業に投資して利子収入を受け取り、領主裁判権の訴訟や僧侶の権利をめぐる裁判で、領主や僧侶の側を弁護して謝礼をもらっていた。それでいながら、革命になると、領主裁判権の廃止を主張する文章を書いている。弁護士の中では保守派であるが、同時に革命の側にも立てる人物であった。

重農主義者デュポン・ド・ヌムールは経済学者、文筆家として有名であったが、同時に領主であった。ラヴォアジエは徴税請負人、領主、工場経営者、科学者、農業研究家であった。

このように、一七八九年協会に集まる者は、革命に参加した者の中では最も上層の者であり、保守的な層を代表していた。彼らはネッケルを追い落してしまうと、革命をそのあたりで止めようとする気持をもちはじめた。


ジャコバンクラブ

ジャコバンクラブはさらに早く国民議会の左派系の議員によって設立された。パリのジャコバン修道院を会場にしたから、このように呼ばれた。ジャコバンクラブは、のちにいわゆるジャコバン派独裁の推進団体になるから、はじめから過激で下層階級の集まりであるかのように思われている。しかし、成立したときは、一七八九年協会よりは下であるが、当時としては、中流から上流の者でなければ参加できないほどの雰囲気をもっていた。

会費は年間二四リーブル、入会費は一二リーブルであるから、職人や労働者ではとても参加できない。せいぜいのところ、職人の親方層までが加盟できるくらいである。下はこのような階層から、社会の上層にいたるまでの加盟者がいた。

その筆頭にはシャルトル公爵がいた。彼はオルレアン公爵の子で、のちのルイ・フィリップ王(七月王政の国王)である。国王に匹敵する財産家といわれたオルレアン公爵の子が、ジャコバンクラブに参加しているのも奇妙な話であるが、この家系は、一貫して、革命運動を軸にして王位をねらうという政策を追求していた。

そのほか、貴族議員もかなり参加していてミラボー伯爵、ラメット伯爵兄弟(テオドール、アレクサンドルとシャルル)、デュボワ・ド・クランセなどがその代表的なものであった。このうち、デュボワ・ド・クランセは恐怖政冶の時代にも軍事委員として活躍した。ミラボーは早く死に、ラメット兄弟はのちにジャコパン派を脱退してラファイエット派と合流し、フィヤンクラブを結成するようになる。

貴族でない議員では、法律家が多かった。バルナーヴ(弁護士)、デュポール(高等法院判事)、プリュール(マルヌ県出身の弁護士)、ルシャプリエ(弁護士)、ビュゾ(弁護士)、ペチヨン(弁護士)、ロベスピエール(弁護士)などが主だったメンバーである。

ビュゾ、ペチヨンはのちにジロンド派となり、ルシャプリエ、パルナーヴ、デュポールはフィヤン派に参加し、フリュールとロベスピエールは恐怖政治の公安委員となった。このように、当時のジャコバンクラブは、この三つの党派に分裂していく要素を含んでいた。

ジャコバンクラブには、議員とならんで街頭の活動家も加入していた。その中でブリッソ、ダントン、カーミュ・デムーランが頭角をあらわしてきた。ブリッソは銀行家クラヴィエールとむすびついていた活動家で、のちにジロンド派の指導者になる。ダントンは弁護士であるが、その雄弁によって、のちにジャコバンクラブの指導者になった。カーミュ・デムーランは弁護士を一時していたが、「武器をとれ、市民よ」の演説で、パスチーユ襲撃いらい街頭の活動家になった。ジャコバンクラブではダントンと結びつき、のちにダントン派として処刑される。


コルドリエクラブ

一七八九年協会やジャコバンクラブは主として議員の集まりであり、そこでの討論は、法律の作成、議会での投票、政策の決定が討論の中心になっていた。直接権力をうごかす立場にあるクラブであった。

もう一つ、これとはちがって、権力の行使には参加できないが、大衆を組織してその意見を政府と議会に押しつけることを目的としたクラブが結成された。「コルドリエクラブ」がそれである。この起源は、はっきりとしたことはわからないが、一七九〇年四月には存在していた。パリのコルドリエ修道院を本拠として、「人間の権利のクラブ」という名をもち、会費は一月二スーときわめて安かった。

「世論の法廷に、権力の濫用と人権の侵害を告発すること」を目的にしていた。会費が安いので、小商人から手工業の親方、職人、労働者などの貧困な市民までが参加した。それだけに、時として急進的な行動を起こすこともあり、ジャコバンクラブよりも左派と思われていた。

このクラブの指導者の中に、恐怖政治の推進者の姿がかなりみられる。ダントンとカーミュ・デムーランは、コルドリエクラブとジャコパンクラブの両方に加入していた。

マラは、王弟アルトワ伯付の医者であったが、自然科学から文学、社会問題にいたる著述をおこない、バスチーユ襲撃ののち、新聞『人民の友』を発行した。革命政権の指導者とくにネッケルやパリ市長バイイを反革命的であると批判して、たびたび追及をうけた。のちにジロンド派追放、恐怖政治の実現に大きな影響力をおよぼすことになる。

そのほか、モモロ(印刷業者、コルドリエ新聞の編集者)、エベール、ショーメット(靴屋の息子)、ジャック・ルー(司祭)など、のちの過激派の指導者になる人物もまじっている。

ただし、コルドリエクラブが左翼的であるといっても、このクラブが純粋に小市民から労働者にいたる中・下層階級に純化されていたのではない。むしろ、この時期実際の指導権をにぎっていたのは、裕福なブルジョアであった。たとえば、リヨンの貿易商人フェリエールはジャコパンクラブとコルドリエクラブの両方に加入して、ショーメットを援助していた。また、それ以外にも貿易商人の名前がかなりみられる。商工業にたずさわっていない者でも、文筆家、芸術家、印刷業者、法律家など、社会の中流よりは上位に属する者が、このクラブの指導者であった。コルドリエクラブでさえも、ブルジョア的な枠をでることはなかったのである。

要約 第三章 フイヤン派の権力 一 革命の諸党派

国民議会では、まずネッケルの党派が敗北した。バスチーユの時は、ネッケルを守れという暗黙の理解があった。しかし、権力の座に復帰させてみると、今度はアシニアの発行とか、聖職者財産の国有化に対しては反対する勢力の指導者になった。大貴族(大領主)の高額年金の実態を公開せよという要求には抵抗した。これでは旧体制の守護者になってしまう。179094日ネッケルは辞職し、スイスに帰った。

そのあと、残った保守派は立憲王制友のクラブを作った。ラファイエットを中心に1789年協会が作られ、通称ラファイエット派と呼ばれた。これが革命初期の支配者であった。その背景は、自由主義的大貴族と最上層のブルジョアであった。それより急進的な団体としてジャコバンクラブが作られた。ここでは上に自由主義的大貴族がいて、下には中産階級の上くらいの参加者がいた。より急進的な団体として、会費の安いコルドリエクラブができた。貧困層でも参加できた。ただし、その指導者はかなり裕福な者たちであった。

 

10-フランス革命史入門 第二章の五 ヴェルサイユ行進

五 ヴェルサイユ行進


国民議会の分裂

八月四日の宣言を転機にして、革命派の中に亀裂が入った。政府の中ではネッケル派、国民議会の中ではムーニエ派が共同戦線を張り、これにたいして、ラファイエットを中心とした国民議会の多数派が対立した。

前者は封建権利の廃止にたいして全面的に反対であり、農民の暴動を武力で鎮圧せよと主張した。さしあたり、八月四日の宣言では自分達の主張は通らず、反対派に押し切られた形になった。彼らは、領主権を神聖不可侵の財産であるとみなしていたのである。これらの派閥はやがて王政派と呼ばれるようになり、そろそろ革命運動を現状で停止させようと努力しはじめた。ラメット伯爵はムーニエについて書いた。

「彼らは、人民の激昻にたいして奇妙な恐怖にとりつかれ、国民運動の先頭に立っている何人かの人物にたいして、押えをきかせようとしはじめた」。

ムーニエの派閥にはクレルモン・トネール伯爵、テッセ伯爵、ヴィリユー伯爵、ラリー・トランダル伯爵などの自由主義的宮廷貴族がいた。

七月二〇日、憲法委員会で人権宣言の草案が読みあげられたとき、ムーニエ派の議員がこれに反対した。

「義務があきらかにされていないのに、人民にたいして漠然とした自由の理念を与えることほど危険なことはない」。

これに、貴族議員や高級僧侶議員からなる右派が賛同した。

しかしラファイエットやシエースが積極的に推進し、一四〇票の差で可決された(八月二六日)。

新制度がどうあるべきかをめぐっても、ムーニエ、ネッケル派は敗北した。ムーニエ派は、上下両院を作り、上院を三〇〇人の元老院で組織し、議員を一万リーブル以上の土地からの収入をもつ三五歳以上の地方官吏から選ぶつもりでいた。これで、上院を大領主で固めることができる。自由主義的大領主の好む政治体制が実現されることになるはずであった。

しかし、これにたいしても、タレイラン司教、シエースを中心とした反対があった。彼らは一院制を主張した。九月一〇日、上院の設置は否決された。この時上院を主張したものは八九票であり、反対した者は八四九票となっているから、ムーニエ派は国民議会の少数派に転落した。ただし翌日、国王に拒否権を与えるという提案が可決されたが、このときは六七三対三二五であり、まだまだ王の拒否権を否定する極左派も少数派であった。

ムーニエ派は少数の右派となったが、左派もまたいくつかの派閥に分裂していた。まずラファイエットを中心にした派閥である。ここに、より自由主義的な貴族と最上層のブルジョアジーを代表する者が集まっていた。

それより左派としては、ミラボー伯爵を中心にした多数の議員がいた。彼も名門貴族であるが、放蕩をかさねて財産をすりへらし、金のために何人かの銀行家と親密になり、銀行家の代弁者のような役割を果していた。第三身分選出の議員として登場したが、口が大きくて大声がでる。これも、マイクのなかった当時としては、革命家として重要な条件であった。

それよりもさらに左派とみられる「三頭派」があり、ラメット伯爵、バルナーヴ、デュポールが指導者となっていた。最左翼に、ごく少数の議員がいた。はっきりとした派閥を作っていたわけではなく、小人数の集団にすぎなかった。しかし、ここから将来のジロンド派、モンタニヤールの指導者がでてくる。ビユゾ、ペチヨン、プリュール(マルヌ県出身)、デュボワ・ド・クランセであった。


王権による反撃体制

ムーニエ派は、はじめ国民議会の指導的立場にあったが、九月に入って少数派に転落し、指導権を失った。そうすると、彼らは国民議会に残っていた国王派の議員と妥協した。まだ宮廷貴族のすべてが亡命したわけではなく、かなりの者がヴェルサイユにふみとどまって改革を阻止しようとしていた。

モーリ枢機卿やタレイラン・ペリゴール大司教、カザレス(貴族議員)などが旧絶対主義の勢力を代表していた。

これとムーニエ、ネッケル派が提携して、国民議会によるこれ以上の改革を阻止しようとした。彼らは、議会と政府を移転してパリの群集からひきはなし、国民議会がパリの群集の影響を受けないようにするべきだと考えた。

国王の側からみると、いままで王権にたいする反対運動の指導者であったネッケルやムーニエが自分の側に寝返ったのであるから、反撃のチャンスがみえてきたと思った。そこで、フランドル連隊をヴェルサイユに集結しながら、国民議会の改革案を承認しないことにした。

国王は、九月一八日、議会に親書を送り、十分の一税と不動産売買税の廃止には賛成できないことを通告した。

国王の目からみると、八月四日の宣言は、僧侶、貴族から「奪い取ること」とみえたので賛成できないものであった。人権宣言も承認しなかった。

こうして、国民議会の多数と国王とは、再び正面から対立した。ただ、以前とちがうところは、ネッケル、ムーニエ派が国民議会からはなれて、国王の側についたことであった。

この段階では、国王が承認しなければ、国民議会の改革案も効力を発揮しなかった。国王が国民議会の改革案を拒否している以上、まだ国民議会は権力を動かしているとはいえなかった。そこで、左翼の議員がパリで群集を煽動し、これを率いてヴェルサイユに向おうという計画を立てた。すでに九月一八日、国王が八月四日の宣言に反対したとき、パリ市民がヴェルサイユに向おうとする気配をみせた。しかし、このときはラファイエットが反対し、国民衛兵を押え、なにごとも起こらなかった。

しかし、国王と国民議会の闘争とは別なところで、パリの群集をかきたてる要因がでてきた。それは食料品価格の騰貴であり、とくにパンの値段が異常に値上りしたことであった。小麦がパリに入らなくなり、そのため、行列を作らなければパンを手に入れることができなくなった。しかも、この年、とりたてて不作ではなかったので、これが「餌饉なしの飢え」と呼ばれた。このような食料不足が起こった理由は、食料品の買占めによるものであった。

すでに七月一四日直後から、市街戦に参加した貧民の中で、生活に困る者が多かったので、ブルジョアが救援金をだしたことがあった。その後も、貧民の群集を静めるために、パリ選挙人会はパンの公定価格を定めたことがあった。しかし、国民議会の多数は、当時重農主義の影響のもとにあった。そこで八月二九日、デュポン・ド・ヌムールら重農主義者の提案によって、穀物商業の自由を宣言した。

この宣言につづいて起こったのが、食料品の買占めである。この買占めは大商人が中心となっておこなったものであり、ネッケルも財政資金を作りだすために投機業者を保護したといわれていた。食料不足の原因は、国民議会に集まる最上層のブルジョアの責任でもあった。しかし、まだ貧民は、食料不足が誰の責任であるかはっきり見さだめることはできない。ただ、食料問題を解決してくれといって、自然発生的にさわぎはじめただけである。このとき、左翼の議員達が、ヴェルサイユ宮殿に行けばパンが手に入ると煽動した。

ラファイエットとパリ市長パイイは、こうした群集の動きを必死になって押えながら、国王にむかっては、フランドル連隊の集結に反対した。しかし、フランドル連隊はヴェルサイユに到着し、一〇月一日ヴェルサイユ宮殿で歓迎会が開かれた。この歓迎会で貴族将校が熱狂し、革命の象徴になっていた三色記章を踏みにじり、国民議会を呪い、剣をぬいて王のために死ぬと誓った。そのうえ、四万人の貴族が全国から集まり、国王を奪取するという噂もながれた。

国王派の旗色がよくなっていくと、国民議会でもムーニエ派の力が強くなり、九月二八日にはムーニエが国民議会議長になった。

こうした動きは、パリの市民やラファイエット派から左の議員にたいして、大きな動揺をひきおこした。二度目の対決がさけられなくなった。


国王と議会のパリ移転

このような動揺の中で、直接群集に影響を与える街頭の革命家が頭角を現してきた。国民議会の議員は、どんなに左翼といえども、また第三身分の名士であり、群集とは直接結びついていなかった。ところが、直接群集を煽動し、街頭での演説でヴェルサイユに向うことを強調し、市民の中に影響力を高めてきた革命家があった。その中に、ダントンやカーミュ・デムーランなどがいた。

マラは以前から新聞を発行して、ネッケルの食料政策を批判し、国民議会では左翼と思われていたミラボー伯爵が、すでに裏切りはじめているといって批判していたが、この時期になると『人民の友』を発行し、ヴェルサイユへ武装して行進することを主張した。当時はまだ無名の革命家であったこれら一群の煽動家、宣言家の影響力が、群集をかきたてるうえで大きな役割を果した。

一〇月五日の朝、婦人の一団が市役所に押しかけた。彼女らは前夜からパンを手に入れることができず、パン屋に押しかけてもパンがなかったので、「パンを!パンを!」の叫び声をあげて市役所に乱入した。これを阻止しようとした国民衛兵は、石を投げられた。彼女らは、ラファイエットと市役所が国王と共謀して、自分達を飢え死させようとしているから、ラファイエットとパイイ(パリ市長)を殺すとさわいだ。

一人のパン屋が、目方の軽いパンを売ろうとしたので捕えられ、街灯につるされそうになった。国民衛兵が、必死の努力で救いだしたが、このように殺気だった約六〇〇〇人の婦人の群を、正面から鎮圧するのは不可能であった。

そのとき、門番あがりでパスチーユ襲撃で名をあげたマイヤールが演説し、婦人達の怒りを国王とヴェルサイユへむけた。その結果、パンを要求しにヴェルサイユへ行くことに決まった。こうして、婦人の大群が、その日の夕方ヴェルサイユに到着した。彼女らは国民議会に押し入り、マイヤールに演説をさせた。マイヤールはパンを要求しにきたことを告げ、三色記章を踏みにじった近衛兵の処罰を要求した。パンの不足は、貴族階級の陰謀であるともいった。これを受けて、国民議会では討論がすすめられた。

パリでは、婦人の後に続いて、国民衛兵とその他思い思いの武器で武装した男性の群が集まり、ヴェルサイユへ行くことを要求した。ラファイエットはこの動きを押えようとしたが、押えきれず、一緒になって夜の一〇時頃ヴェルサイユに入った。

こうしたさわぎとは別に、国王と国民議会との対決がつづいていた。この日、国民議会議長ムーニエが王の手紙を読みあげた。国王は、人権宣言を拒否すること、行政権はすべて国王のものであることを表明していた。国民議会は国王の返事に怒りムーニエを団長とする一二人の代表団を国王のもとに派遣して、人権宣言の承認を求めた。しかし、国王はこれを拒否しつづけていた。

人権宣言をめぐる国王と国民議会の対決がつづいている間に、ヴェルサイユはパリから来た男女の群集と国民衛兵であふれた。パリからきた群集はほとんどなにも食べていなかった。そこへ豪雨が降って、群集は殺気だちはじめた。近衛兵の馬が生のままで食べられてしまったというほど、異常な心理状態にあった。

一度は群集も静になって、それぞれの場所でねむりについたはすであったが、一〇月六日の朝、婦人と近衛兵の間で衝突が起きて、近衛兵が発砲し一人が殺された。これが王妃の陰謀だといわれ、怒った群集が王妃の部屋に乱入し、近衛兵を殺し、王妃も殺そうとした。王妃は国王の部屋に逃げこんで、かろうじて助かった。

そのとき、宮殿の外にいる群集が国王の出てくることを望んだ。国王は王妃、皇太子を連れてラファイエットをともない、群集の前に姿をみせた。群集の中から「パリへ行こう」という声があがった。国王はそれを承認しなければならない羽目に追い込まれた。

こうして、その日の午後、国王一家は群集、国民衛丘(とともにパリにむけて出発し、チュイルリー宮殿に入った。国民議会は、全員パリに移転することを決定した。そのうえ、議員の平等を確認して、貴族、僧侶の特別の服装をやめることが決められた。


亡命の第二波

国王一家は、パリ市民の中に、人質同然の立場で軟禁状態におかれ、それまで国王を取りまいていた宮廷貴族から切りはなされた。宮廷貴族の国王を、上層ブルジョアジーの国王に変えた事件であった。宮廷貴族のうちヴェルサイユに残っていた者は、なんとかこれを阻止しようと思い、軍隊で国王を守ってルーアンへおちのびようと考えた。

ネッケル派の大臣サン・ブリースト伯爵がこれを主張したとき、財政をにぎるネッケルが軍資金がないという理由で反対したため、この計画は立ち消えになった。国王がパリに連れ去られると、リシュリュー公爵のようなまだ残っていた宮廷貴族が亡命をはじめた。貴族議員の約二〇〇人も亡命し、貴族将校からも亡命者がでた。

また、初期の革命家のうち、ム-ニエが亡命した。彼は国民議会の議長をしていたが、すでに国王の側にかたよった行動を批難されていて、暗殺の脅威をうけた。そのためパリに行かず、出身地のドーフィネに去った。しかしここでも孤立し、危険がせまってスイスへ亡命した。ムーニエの派閥では、ラリー・トランダル伯爵やべルガスが反革命の計画をくわだてたが失敗に終った。


ラファイエット派の勝利

国王一家をパリにつれて帰った群集は、本当の意味での勝利者となっただろうか。貧しい婦人達は、国王一家のことを「パン屋の主人、パン屋のおかみさん」と呼び、国王をパリにつれてくれば、食料不足は解決できると信じていた。しかし、そのようなことは起きなかった。それからのちも、食料問題で小規模な暴動がたびたび発生した。しかし、これは国民議会と国民衛兵の力によって鎮圧され、主謀者が処罰された。その中には、死刑になった者もかなりいた。こうして秩序が回復されたが、それからみると、貧民は勝利者になったわけではなかった。

ヴェルサイユ行進に参加した者は、貧民だけではなかった。男女のブルジョアもかなり参加し、運動を煽動したり指導したりした。彼らは、貧民のエネルギーを利用して、国王と国民議会の闘争を有利に解決したのであった。それに成功したあとは、貧民をおきざりにして、自分達の権力のもとでの秩序回復に専念したのであった。

ヴェルサイユ行進は、国内にまだ残っていた宮廷貴族に完全な打撃を与えた。国王を人質同然にすることによって、国民議会の権力を全国におよぼすことに成功したのである。しかも、ム-ニエ派の指導権を失わせることによって、宮廷貴族とブルジョアジーの間にたってあいまいな政策をとる党派を追い落した。

チュイルリー宮殿では、ラファイエットの副官になった銀行家ジョージが横柄な態度で入ってきて、大臣のモンモラン伯爵にいった。

「宮廷の中にあなたの車を入れなかったのは、私の命令によるものである。このような時勢のもとでは、多少の不便はしのんでいただきたい。このつぎ、あなたの来る時間がわかっているなら、私はあなたを通すように命令するだろう」。

貴族の大臣ですら、もはや平民の銀行家の力にかなわないのである。大臣が国王に面会しようとしても、その間に銀行家が立ちはだかっている姿がありありとうかがわれる。極端にいうならば、この時の国王は銀行家の国王になったのである。そして、ラファイエットが彼らの象徴になった。

要約 第二章の五 ヴェルサイユ行進

フランス革命史の中ではわずかな出来事で、どの書物でも軽い扱いになるが、市民革命の観点から見ると、極めて重大な意味を持つ出来事になる。なぜなら、それまでのフランスは、パリだけが解放された状態であって、まだ全国的には、どちらになるかわらない状態であった。揺り戻しがあるかもしれない。それなら、フロンドの乱と同じことになる。あるいは、ラ・ロシェルのように、全滅するかもしれない。負けたら、市民革命の歴史には載らない。だから勝ちを決めて、歴史に載ることになったのは、ヴェルサイユ行進があったためといえる。

この時点で、国王は貴族の代表という立場から切り離されて、全国民の王としてふるまうことになった。切り離された貴族たちは、大部分が故郷に帰った。これが重要なところで、彼らは宮廷貴族から、田舎貴族になった。彼らの集団的見解が国政に反映することはなくなった。ということは、財政問題でも、彼らを優遇する必要がなくなったということである。毎日の貴族の食費だけでも、大変な節約になる。だから懸案の財政問題を一挙に解決できた。ここが重要なところである。これを言わないから、従来のフランス革命史はピントがぼやけてしまった。貴族の免税特権、減税特権をやめるといっても、もはや集団的な反対行動ができない。

ただし、まだ、国王の伝統的権威は健在である。だから、国王を囲んでパリに帰らなくてはならない。すべての改革令を、王の名で交付しなければならない。だからその目的を達成したことになる。このように解釈する必要がある。