2022年3月25日金曜日

23-フランス革命史入門 第五章の三 恐怖政治の効果

 三 恐怖政治の効果


外国人銀行家の迫害

パリには多くの外国人銀行家が集まり、外国人との取引をおこなっていた。彼らの多くは革命に協力し、積極的に革命運動の第一線に立った者も多かった。しかし、思想は思想、商売は商売と割切っている者が多く、一方

で革命政権に協力しながら、他方で亡命貴族にフランスから金、銀を送ったり、交戦国政府のスパイの役割を果したりしていた。

また、もともと外国から巨額の貴金属を持ちこんでいるので、これでアシニアを買叩き、安く手に入れたアシニアで国有財産への投機をおこなった。彼らの投機行為は、アシニアの価値下落を促進した。また、スイス人銀行家ペルゴにたいしては、イギリス外務省から、ジャコバンクラブに放火せよという手紙が来た。後に、これが発見された。こうした外国人銀行家の反革命的行為がつぎつぎに告発された。

ただし、外国人銀行家は国民公会のあらゆる派閥にわたってつながりをもっていた。まったく無関係な派閥は、ロベスピエール派だけといってもよい。さしあたり、九月五日までは、彼らは安全であり、逮捕されてもすぐに釈放された。九月七日、国民公会がすべての交戦国国民を逮捕し、財産を接収すると決議した。これにたいして、平原派のラメルは、財政委員の立場から、これが国際間の決済を傷つけるといって反対した。

保安委員会のシャボは、コルドリエクラブ出身で過激な革命家のように思われていたが、このころドイツ人銀行家フライ(ドイツ語で自由という意味、革命に迎合するために、こう自称した)の妹と結婚したばかりなので、この処置に抗議した。

このため、国民公会は外国人銀行家の逮捕を取り消し、封印を撤去した。これにたいして、革命的共和主義婦人クラブが熱心に抗議運動をおこなった。ロベスピエールもまた、外国人銀行家の逮捕を主張し、シャボを非難した。シャボはこのころ、昼のサンキュロット、夜の粋な王党派といわれていて、革命政権の腐敗を代表する人物になっていた。シャボが過激派攻撃に熱心だったのは、こうした事情による。彼は九月一四日、保安委員会から追放された。

一〇月一六日、再び交戦国の逮捕、財産の差押えが可決された。このため、外国人銀行家のある者は逃亡し、ある者は逮捕された。逮捕された者でも、すべての者が処刑、財産没収のうきめに合ったというわけではない。

アツベマというオランダ人銀行家は、逮捕されたが、食料調達に必要だというので食料委員会が釈放を要求し、公安委員の・バレール、カルノー、プリュール、ランデが共同署名で釈放を要求した。このため、彼は釈放され、公安委員会の保護のもとに食料調達に活躍した。

スイス人銀行家ペルゴにも逮浦令がだされたが、公安委員のランデ、財産委員会のカンボンが保護し、スイスへ食料調達に行くという名目で帰国させた。イギリス人銀行家ボイドは、シャボのおかげで逃亡することができた。ドイツ人銀行家フライ、ヴィーデンフェルト、オランダ人銀行家ファンデンヴェルなどは処刑された。

このように、外国人銀行家の運命は多様であった、ただ、一時的にしろ、無制限な投機行為が押えられ、活動を許された場合でも、それは革命政府に協力するというかぎりにおいてであった。そのため、これも経済危機の緩和に一役買ったのである。


危機からの脱出

革命政府のとった一連の非常手段が、一時的にしろ効果をあらわした。累進強制公債、金属貨幣の流通停止、アシニアの強制流通、証券取引の停止により、唯一の紙幣としてのアシニアの価値が上昇にむかった。外国人銀行家の迫害も有利に作用した。一般最高価格制と強制徴発、買占め禁止、違反者にたいする厳罰の効果もあがった。

そこで、九月からアシニアの下落はとまり、一一月から上昇にむかって、一二月には約五〇パーセントの水準に回復した。七月と八月、ひどいばあいは二〇パーセントに下っていたのであるから、かなりの回復であった。一般的な物価がこれを反映して安定し、生活必需品は最高価格で供給されたから、下層民の生活は安定した。

足もとを安定させた国民公会と公女委員会は、全力をあげて外敵と反革命軍との戦闘にむかった。すでに八月の末、マルセイユのジロンド派反乱を鎮圧した。九月はじめにはボルドーの鎮圧に成功した。九月八日、ベルギー国境オンドスコット村で、フランス革命軍はイギリス、ドイツの連合軍と闘い、これを敗走させた。港町ダンケルクが救われた。

この戦勝は、これまで敗北を重ね、外国軍が四日でパリに入ることがでぎるといわれたほど絶望的な状態から、フランスを救った。一〇月九日、リヨンのジロンド派反乱軍が撃破された。一〇月一六日、ワッチニーの戦勝があり、この日パリでは王妃の処刑がおこなわれた。王妃の処刑も大間題であったはずだが、当時のフランス人の関心は、むしろこの北部国境地帯の勝利であった。

オーストリアの大軍が、国境近くのモーブージを包囲していた。ここを救うために公安委員カルノーがジュルダン将軍とともに軍を率いてかけつけ、付近のワッチニー村でオーストリア軍を撃破し、モーブージを救った。このとき、陣頭に立って奮戦したカルノーの名声が高まった。

つぎの一〇月一七日、フランス革命軍がヴァンデーのショレ市で反革命軍を敗走させた。このころまでに、スペイン軍を国境の外に撃退し、イタリア方面ではピエモンテ軍を追いだすことに成功した。最後に残っていたツーロン軍港では、イギリス軍との激戦を続けていたが、一二月一九日、イギリス軍から奪回した。このとき、ナポレオン・ボナパルドが軍功を立て、将校から将軍に昇進した。一七九三年の末までに、フランス革命政府は内外の危機から解放され、自信を取りもどした。


反資本主義的政策かどうか

一七九三年九月五日から年末にかけての恐怖政治は反ブルジョア的で、サンキュロット的であるのか、それともブルジョア的であるのか、この解釈がむずかしい。多くの理論家が恐怖政治の反ブルジョア的性格を強調してきた。事実、反ブルジョア的な政策があいついで打ちだされた。最高価格制や強制徴発、買占め禁止法、貴金属の流通禁止、外国人銀行家の迫害などは、ブルジョアジーにたいする打撃になるはずである。

そのうえ、まだいくつかの反資本主義的政策がおこなわれている。たとえば、八月二四日、財政委員会を代表してカンボンが株式会社の廃止を提案し、可決された。これによって、ケース・デスコントをはじめ株式会社は廃止されることになった。インド会社にたいする告発は盛んとなり、八月から一〇月にかけて論争が続けられたのち、インド会社の清算が決議された。このような政策もまた、上層ブルジョアジーにたいする打撃である。

インド会社は、もっとも特権的な会社であるから別としても、株式会社が全面的に禁止されるのは、資本主義経済をくつがえすものであるかのようにみえる。なぜ禁止したかといえば、アシニアの下落をよそに、これらの会社の株が価値を維持していたからである。そのような証券が流通していると、アシニアと競合し、その価値の下落を見せつけることになる。そこで、モンタニヤールのみならず平原派のカンボンですらも、この廃止に熱心

だったのである。

こうした政策を見るかぎり、恐怖政治の政策は反ブルジョア的であるように見える。ところが、別な角度からみれば、国民公会と公安委員会が、ブルジョアジーの保護育成に積極的であったことがうかがわれる。そのまず第一は、航海条令であり、つぎは重工業、とくに軍需工業の育成政策であった。

航海条令は九月二一日に可決された。すでに五月、バレールがその必要を説いていた。自由貿易主義のジロンド派が追放されて以来、この法令について積極的な取り組みがなされた。航海条令は、植民地と外国との直接貿易を禁止して、フランスと植民地を結びつけ、本国と植民地の間には、フランス国籍の船だけを使用するべきことを規定した。これによって、植民地を本国にたいする原料供給地として確保しながら、本国の工業製品の販売市場として独占することになった。航海条令にさきだって、本国と植民地との間の関税が撤廃された。その面からも、植民地が本国に固く結びつけられた。

これらの政策によって打撃を受けた者は、仲介貿易で利益をあげていた外国の貿易会社、貿易商人であり、さらには、これと結びついて取引をしていた、フランスの商人であった。フイヤン派からジロンド脈にまたがって自由貿易主義を主張していた貿易商人は、このような勢力であった。今後は、これら貿易商人の利益よりも、フランスの工業家の利益が優先されるようになった。


工業の振興政策

革命政権による工業の育成政策も重要な問題である。フランス革命とくに恐怖政治といえば、流血、ギロチン、破壊を連想し、建設的なものは何一つないと思われがちであるが、これは誤解もはなはだしい。むしろ、この時期が、いままでのどの時期よりも、工業の振興にたいして政府の努力がなされた時期である。政府は、アシニアの価値が暴落するほど増発し、これを軍事費につぎこんだが、その中の相当部分が、軍需工業とその関連部門に投じられた。それと並行して、強制累進公債が徴収されたのであるから、金の流れを大まかにいえば、大商人その他の金持から資金を吸上げて、これを工業への投資に振りむけたといえる。商業を犠牲にした工業の育成策であった。

なぜこのようなことをしたかといえば、当寺の戦争に勝ち抜くためには、よにはともあれ武器、弾薬が必要であり、それを自国で生産しなければならなかったからである。そのためには、関連産業のすべてを育成する必要があった。そこで工業の全面的な振興が必要とされた。

ル・クルゾーの経営が一時悪化し、国有化論までだされたが、カルノーと軍需担当公安委員プリュールは国有化を否定し、支配人を督促して再建をすすめた。このため、一七九四年七月派遣委員が称賛するほど立ちなおり、大砲、弾丸を製造した。

アンドレ大砲製造所も生産が低下したが、一七九三年八月派遣委員がこれを国有化し、経営者を任命した。その結果経営が立ちなおり、海軍に大砲の供給をつづけ、一七九四年五月には立派に再建された。

シャルルヴィーユ武器工場は、派遣委員のプリュール(マルヌ県出身)の努力によって生産を増加させ、小銃、ピストルの生産を続けた。

鉄鋼業者ヴァンデルは亡命したが、一族の者が残って大砲の生産を続けた。アンザン会社はオーストリア軍の侵入によって破壊された。一七九三年一〇月、敵国軍を撃退したあと再建がはじまった。ただし、株主の多くが亡命したので、亡命者の株は売却され、その結果、貴族中心の株主から上層ブルジョアの株主へと移行した。鉱山そのものは戦争で一時破壊されただけで、のち回復し、所有権だけが移転したのである。

革命前から蒸気機関を製造していたペリエのシャイヨーエ場は、公安委員会のプリュール(軍需工場担当)の援助を受けて武器を増産し、武器工場のための機械製作にも活躍した。またペリエは、軍需工業のための技術教育に活躍した。そのためペリエと労働者が対立したとき、公安委員会はペリエを守って労働者の統制に努力した。

ドーフィネの城に非合法の三部会を召集して革命のロ火をきったクロード・ペリエは、この時期小銃を供給するための会社を設立し、これを「共和主義サンキュロット会社」と名づけた。そのために、ジロンド派反乱にも加担していたが、革命政府に有用な人物ということで保護された。

公安委員のプリュールとカルノーは科学者、技術者でもあったので、一流の科学者を公安委員会のまわりに組織して、発明実験、工業化をおこなわせた。そうした学者のうち、ペリエ以外にモンジュ、シャプタル、フルクロワ、ベルトレなど、多くの有名な学者がいた。旧公安委員、ギュイトン・モルヴォー(平原派)も科学者、発明家、企業家であり、プリュールに協力した。

彼らの活躍で、フランスの武器が質、量ともに向上していった。フランス革命と科学者の関係といえば、ラヴォアジエの例がすぐにもちだされる。革命に学者はいらないという方向に解釈されがちであるが、彼には徴税請負人という特殊事情があったためである。革命政権が保護した学者の実例もまた多い。とくにシャプタルは、このころ火薬製造に活躍し、その後ナポレオンのもとでも内務大臣となり、王政が復活しても失脚せずに、工業行政を担当している。科学者の中での万年与党の実例である。ラヴォアジエの例だけが、フランス革命の性格を示すものではない。


恐怖政治が大工業を滅ぼしたことはない

恐怖政治の時期に工業の育成がおこなわれたことを確認するのは、日本におけるフランス革命史にとっては非常に重要なことである。日本でのフランス革命研究の中で、大塚史学の解釈が強力な影響力をもっているからである。その最大の主張は、フランス革命で、大工業がサンキュロットの攻撃を受け、軒並み減んでしまったという図式である。大塚史学では、これを特殊工業の断絶とかオート・ブルジョアジー(上層ブルジョアジー)の断絶とか、前期的商業資本の敗北とかいう。

その実例としてもちだされるのが炭鉱のアンザン会社、鉄鋼のル・クルゾー、ヴァンデルなどである。これらの大会社、大工業が恐怖政治のときにジャコバン=サンキュロットの攻撃を受けて減んでしまったというのである。(『大塚久雄著作集』第五巻、三二七ー三二八頁、高橋幸八郎『近代社会成立史論』二〇二頁、中木康夫「問屋制度と特権マニュファクチャー」『西洋経済史講座』第三巻、岩波書店、二一七ー二二〇頁)

この意見は、フランス革命の通史の中で説かれることはないが、多くの学術書の中で説かれ、また支持されているから、学者や研究者を通じて大きな影響力をもっている。ただし、フランスでは、この意見を誰も主張しない。なぜなら、自分の国にアンザン会社やル・クルゾー、ヴァンデルが現代でも存在していることを知っているからである。

恐怖政治の解釈については、かなり大塚史学と似た意見を唱えても、これら大工業がフランス革命で断絶したとはいいきれない。ところが事実を知らない日本の学者は、「知らない者ほど強い者はない」の通り、大工場の断絶論を唱えてきたのである。

この意見はまだ根強くのこり、明治維新の解釈の上に大きな影響力をもっている。だから恐怖政治の時代にでも大工業が保護育成されることがあり、破壊されたとしても、敵軍との戦闘によるものであったことを確認しておかなければならない。だいたい、ヨーロッパ諸国を相手に戦争をしている国が、軍需工場に関連のある大工業を破壊して、戦争が続けられるかと考えるべきである。大塚史学は、農村工業、中小マニュファクチュアの力を極端に重視するが、それでまともな武器、弾薬が作られるかどうかと考えるべきである。フランス革命で大工業がつぶれたという理論は、技術的条件を無視した現実離れの傾向が強い。フランス革命は、外国との必死の戦争をともなった革命である。大工業の減亡を唱える人は、そうした外部的な条件も忘れている。

22-フランス革命史入門 第五章の二 恐怖政治の推進力

二 恐怖政治の推進力


エべール派と過激派残党の提携

過激派の勢力が後退したのは、ほんのわずかの時期だけであった。九月のはじめになると、突然エべール派が過激派の生き残りと提携して、攻勢に転じた。エベールは八月一〇日以来パリコミューンに参加し、マラが暗殺された後、自分がマラの後継者であると自称していた。そのため、彼の新聞『ペール・デュシエーヌ』でジャック・ルー批判をおこなった。エべール派のデフィユーはジャコバンクラブの有力者であったが、ジャック・ルーにたいする告発委員会を組織した。こうしてジャック・ルーはロペスピエール、マラからエベールにいたるまでを敵にまわしたのである。またデフィユーは過激派ルクレールにたいする告発委員会を作れと要求した。

ところが急に向きを変えて、過激派と提携し、国民公会と公安委員会に圧力をかける側にまわった。エべール派の転向をもたらした事情はいくつかある。九月二日、ツーロン軍港がイギリス軍の手に落ちたという報道が伝わり、フランスに衝撃を与えた。内務大臣の地位をめぐってエベール派とダントン派の候補が争い、ダントン派のパレが任命されたため、政争に敗れて反体制の姿勢を強めた。

もう一つ、八月末に食料事情が絶望的になり、エベール派の意見を変えさせた。パリでは一日四五〇〇袋の小麦粉を消費するのに、一日四〇〇袋しか到着しなくなった。この食料不足のため、九月四日パリで騒動が引きおこされた。国立軍事工場の労働者、国立印刷工場の労働者、大工が街頭にでて騒いだ。アシニアで賃金をもらうが、これでは生きていけないというのであった。国民公会は、この運動を押えるために、印刷工場の全労働者を逮捕すると布告した。

こうした状態のもとでの国民公会が、労働運動の抑圧ばかりに目がむくことにも注目しておかなければならない。ジロンド派を追放したからといって、国民公会が労働者の側に立ったというものではない。国民公会は、できれば労働者をそのままの状態で働かせておきたかった。労働者のために、なにごとかの対策を立てるとするならば、大規模な大衆運動の圧力をうけて、やむをえずいやいやながら、つきつけられた要求について決議するだけであった。

そうした事態があらわれた。もはや逮捕の脅迫では運動を静めることはできなかった。なぜなら、労働者が飢え死に寸前に追い込まれたからである。約二〇〇〇人の男女がパリコミューン議事堂の前に押しよせた。彼らはパン屋でパンを手に入れることができず、飢えのために集まったといった。彼らは昼も夜も働きながら、パンが手に入らないといった。パリ市長と群集の代表とが食料について討論をしている間に、群集があふれ、「パンを!パンを!」という叫び声で満たされた。

パリコミューン検事ショーメットが、群集と国民公会の間に立って奔走した。彼は国民公会にかけつけ、事件の重大さを知らせた。しかし、この日国民公会の議長をしていたロペスピエールですら、群集の状態については軽く考えていた。

「国民公会は食料問題に没頭しており、それが人民の幸福を実現するだろう」

と答えて、一般最高価格について国民公会が投票したばかりであるといい、法令の抜粋を与えた。ショーメットがこれを持ち帰り、群集の前で読み上げたが、反応はよくなかった。

「われわれに必要なのは約束ではない。必要なのはパンだ。そしていますぐ」。


九月五日の事件-恐怖政治の出発点

ショーメットはここで機転をきかせた。彼が国民公会の側に立って発言していると、群集から完全に離れるおそれがあった。彼はすかさず机の上に飛び上った。

「私もかつては貧乏だった。それで貧乏人とはどういうものかは知っている。いまここに金持と貧乏人との闘争がある」

という前おきで、群集を沈黙させておいて、革命軍を編成して小麦の輸送と徴発をおこなわせ、金持の策動を止める法令を要求するために国民公会へ行こうと演説した。この演説で、ショーメットは群集を押える立場を捨てて、群集を率いて国民公会に圧力をかける側にまわった。

エベールは、すでに革命的共和主義婦人クラブのクレール・ラコンブやルクレールと提携していたが、この運動に乗って、八月一〇日の武装蜂起やジロンド派追放のような大衆運動を、もう一度引きおこそうとした。

「人民は明日群をなして国民公会に行こう。そして八月一〇日や五月三一日のように国民公会を取りまき、公会議員がわれわれを救うために適切な法令を可決するまでとどまろう。革命軍は法令が可決されるやいなや出発し、ギロチンがこの軍隊のあらゆる部隊についていくことを要求しよう」。

これで、飢えに苦しむ群集がエベール派の指導権のもとに入った。ロベスピエールは、ジャコバンクラブでこの行進にたいして反対した。しかし、止めることはできなかった。ロベスピエールとしては、この貧民の運動にいかに対処するかが主な課題となった。

翌日の九月五日、パリ市長パーシュと検事ショーメットを先頭にした群集が「暴君と闘え、貴族主義者と闘え、買占め人と闘え」というプラカードを立てて、大群をなして国民公会に行進した。群集の代表が傍聴席を埋めた。ショーメットが請願書を読上げ、食料問題を解決するための革命軍の編成を要求した。

群集の支持を頼んだ一群の議員が積極的に発言した。ビョー・ヴァレンヌが革命軍の編成、反革命容疑者の即時逮捕を要求してくいさがった。ダントン派義員がこれに賛成した。しかし、モンタニヤール議員の中でも、このような形で、群集の圧力に譲歩することは反対だという者が多かった。彼らは、別な議題をもちだして議事をそらそうとした。ロベスピエールもそうであり、ジャンボン・サンタンドレ、バジール、ロムなどがそのように動いた。傍聴席の群集は、それに不満のつぶやきを示した。このときは、平原派議員はほとんど発言しなかった。彼らは、このような群集には支持者をもたないので、発言すると危険であった。

ついに群集の圧力が勝ち、革命軍の創設と反革命容疑者の逮捕が可決された。反革命容疑者の逮捕の権限は、各区の革命委員会に与えられたから、国民公会は、権限を下部に移譲したことになった。


大公安委員会の権限

つぎの九月六日、前日に群集の側に立って大きな役割を果したビョー・ヴァレンヌとコロー・デルボアが公安委員会に入った。彼らはエベール派を攴持し、九月二日の虐殺をはじめ、革命中のいくつかの虐殺をおこなわせたテロリストであり、コルドリエクラブで影響力をもっていた。このとき以来、エベール派の力が公安委員会の中に入りこんだ。

この日以後の公安委員会が大公安委員会と呼ばれ、恐怖政治の推進者とみなされている。委員は一二人で、エロー・ド・セシェル、バレールが平原派からモンタニヤールに接近した者であり、とくにバレールが雄弁と抜群

の記億力で全体の上に力をもっていた。

カルノーは正式の族ではないが、弁護士の家に生れ、軍隊に入って技術将校になった。軍人と技術者の両方を兼ねていた。軍事担当の公安委員として戦争を指導し、勝利の組織者と呼ばれるようになる。

プリュール(コート・ドール出身)は軍需工業を担当し、ランデは食料を担当した。ジャンボン・サンタンドレは海軍を担当した。

プリュール(マルヌ県出身)は「清廉の士」と呼ばれ、ロベスピエールとともに腐敗行為のぜんぜんなかった数少ない革命家の一人であるが、ヴァンデー暴動の鎮圧とか、ブレスト、ナントへの派遣委員をしていたために、ほとんど公安委員会に出席しなかった。

ロベスピエール、サン・ジュスト、クートンがロベスピエール派三人組であり、ジャコバンクラブを足場にしていた。それにくらべると、カルノーとプリュール(コート・ドール出身)はジャコバンクラブに加盟せず、ランデは加盟してもぜんぜん行かなかった。

ビョー・ヴァレンヌとコロー・デルボアはコルドリエクラブを代表し、ニベール派の支持者であった。大公安委員会は一種の寄せ集めであり、さまざまな党派の集合体であった。

この公安委員会が、九月一三日権限を強化した。財政委員会と保安委員会を除くすべての委員会を監視、指導できるものと定められ、臨時行政会議(内閣)は公安委員会に従属して、たえず報告をおこなう義務を課せられた。ここで公安委員会の独裁が出現したといわれる。

公安委員会の独裁は、そのままロベスピエールの独裁で、ロベスピエール派はサンキュロットあるいは小ブルジョアの代表であるから、サンキュロットあるいは小ブルジョアの権力ができたという説が多い。しかしそれは早合点である。あくまで、財政委員会と保安委員会は独立している。この事情は、意外に強調されないのである。

つぎに、公安委員会の中で、ロベスピエールはそれほど大きな力をもっていない。この二つは記億にとめておく必要がある。


内外の危機と革命裁判所の活動

九月五日の行進を転機に、大公安委員会が成立して本来の恐怖政治が推進された。このとき以来、経済的にも政治的にも、恐怖政治といわれる内容のものがいっせいに動きだした。それを押し進めたのは、貧民の大衆行動を背景としたニべール派の圧力であった。

普通の時代区分では、ジロンド派の追放が恐怖政治を実現する時期とされているが、それは正確ではない。変化が大きいのは、九月五日以後のことであり、六月二日から九月五日までは、まだ目だった変化を示していない。変化といわれるものはただ一つ、強制公債の徴収だけであった。九月五日以後、恐怖政治がすすめられた。

情勢が絶望的になって、群集が半狂乱の状態になり、食料を求めてかけまわった。しかも、オーストリアの大軍がベルギー国境からパリをおびやかし、フランス海軍の根拠地ツーロン軍港がイギリス軍に占領され、スペイン軍がピレネー山脈を越えて侵入した。ヴァンデーの反革命軍が荒れ狂い、ジロンド派の反乱が広がって、国民公会の支配する地域はフランス全土の約半分になった。

その事情も加わってパリへの食料が入ってこなくなった。この事情を見越して、商人や大農民が穀物を買占めた。人民は、餓死寸前の中で、敵国軍と反革命による占領、虐殺を予感した。恐怖政治は、それを押し進める側の絶望感、恐怖感からひきおこされたのである。

恐怖政治の代名詞にされる革命裁判所も、九月五日以米急速に活動をはじめた。革命裁判所は一七九三年三月一〇日、フランス軍が敗北をはじめたときに設立され、判事と陪審員が国民公会から任命された。しかし、裁判所の活動はゆっくりしていて、しかも寛大であった。死刑を宣告したばあいは少なく、反革命容疑者をあいついで釈放した。ここにマラもジロンド派から告発されて立ったが、無罪となった。しかもマラを暗殺したシャルロット・ド・コルデーについても、裁判長モンタネが救おうとつとめた。

このようであったから、九月五日までは、革命裁判所はその名に価するほどの活動はおこなわず、ロベスピエールが、革命裁判所の仕事の遅さをジャコバンクラブで批判するほどであった。しかし、九月五日以後事態は変った。判事と陪審員が補充、増加され、四つに分れて、そのうちの二つが常に動くようになった。

これ以後、革命裁判所はつぎつぎと反革命容疑者に死刑を宣告していく。革命裁判所の判事と陪審員には、職人、労働者はいない。ブルジョアジーに属する者から、せいぜい職人の親方、中小承認までであり、ロベスピエールが下宿をしていた指物師デュプレーも参加していた。僧侶や貴族も何人か参加している。貴族の中には侯

爵の爵位をもつ高級貴族が二人もいる。貴族を公職から追放せよという過激派やエベール派の主張は、結局、革命の全期間を通じて実現されなかったのである。階級的にみれば、革命裁判所も国民公会も、公安委員会も、ほぼ同じ性格をもちつづけていた。


一般最高価格制の効果

懸案の一般最高価格制は、九月二九日やっと布告された。それまで、たびたび請願がおこなわれても、国民公会では議事の引きのばしがおこなわれた。平原派議員はもちろん反対であるが、モンタニヤール議員の多くも乗り気ではない。しかし、結局は決定せざるをえなくなった。

生活必需品の品目を定め、これの最高価格を決定した。違反したばあいは罰金を課し、違反者は反革命容疑者のリストに載せられる。告発者には賞金が与えられる。最高価格は品目によってちがったが、だいたい一七九〇分の一を加えたものとされた。しかも、労働者が労働を拒否したばあい三日間の禁固に処すと決められたから、労働者にたいしては寛大な法律とはいえなかった。

待望の最高価格が実施されると、生活必需品の価格が引下げられた。そうすると、群衆が商店に押しかけ、ついに商店は空になった。群集もまた、安い値段で買占めたのである。一〇月の末になると、酒類、パンがなくなった。パリコミューンはパンの切符販売制を実施したが、多くの市がこのまねをした。肉、砂糖の配給制も実施された。商人は、最高価格で売ればもうけにならないから、商売をやめた。買占めていた者は、時期を待つつもりで商品を隠した。

こうなると、最高価格制そのものが、かえって商品流通を妨げ、品不足を引きおこし、食料不足をすすめる。このことは、当時の官吏も指摘していることである。国民公会議員が最高価格制をしぶったのも、そのためである。しかし、だからといってもう後もどりすることはできない。

残るところは、買占め人を摘発するための強制徴発と隠匿物資摘発の家宅捜査であり、違反者にたいする厳罰しかなかった。ここで経済的な恐怖政治につきすすむことになる。これを、クレール・ラコンブが革命的共和主義婦人クラブを代表してパリコミューン総会に提案した。パリコミューン総会は、一〇月四日ショーメットの提案を受入れ、革命軍の後に巡回裁判所とギロチンをついて行かせ、買占め人を即席裁判で裁き、処刑する案を国民公会に提案した。一〇月一五日、店を閉めた食料品店にたいする家宅捜査が決められた。


食料委員会と革命軍

一〇月半ばから品不足が深刻になり、一日に二〇〇〇袋必要であるのに市の倉庫にも小麦粉が一〇〇袋しかないという事態になった。この食料危機の対策として、食料委員会が組織され、食料問題のすべての権力を握った。

これは、一〇月二七日バレールの提案で決定され、食料委員会の最高指揮権は公安委員会のランデが握った。この委員会には三人の大ブルジョアが顧間として入った。大銀行家ムートン、食料品商人レギリエ、穀物の大商人ヴィユモランの三人であった。食料委員会が、パリをはじめとする大都市への食料供給に活躍したが、正規の買付けだけでは食料を集めることができない。

農村に出かけて穀物を徴発し、この食料を安全に守って都市へ運びこまなければならない。そのためには、武力の背景が必要である。しかし、正規軍はすべて国境にいる。そのため、革命軍が新しく編成された。革命軍は正規の軍隊とも義勇兵ともちがって、食料間題の解決のために編成されたものであった。革命軍の行動は、まさに恐怖政治そのものであった。

ブリシエのジャコバンクラブでの発言は、それを象徴している。彼はフェルミエ(大農民)の買占め、売りおしみについての演説のあとにいった。

「その観察は正しい。しかし革命軍が出発するやいなや、その不安は消えるだろう。革命軍の行動方針はフェルミエの財産であるべきだ。村に着いたなら『フェルミエは金をもっているか』と尋ね、そうだという答ならば、彼をギロチンにかけてよい。彼が買占め人であることはたしかである」。

これに示されるように、革命軍は農村をまわって食料を徴発し、家宅捜査をおこない、違反者を処刑してまわった。経済法則を無視した荒っぽいやり方ではあったが、一時的には、食料を調達して都市における食料不足をやわらげた。

この革命軍の人的資源は、地方によってまちまちであるが、一般的な傾向としては、兵士は職人、労働者から小商人、職人の親方、自家営業者の階層で構成されていた。しかし、混乱の中で編成されたのであるから、不純なものも大量にまぎれこんだ。最高価格制のために商売ができなくなった者が、仕事をやめる口実に革命軍に入った。山賊や行商人、失業者も入隊し、亡命貴族の下僕が世問の目をそらせるために入隊した。貴族や僧侶がまぎれこんだこともあった。そのため、革命軍の家宅捜査が、そのまま盗賊行為になったことも多い。

革命軍の指揮官をみると、サンキュロット出身者の数は少なくなり、法律家、公証人のような知識人からはじまって、ブルジョア、大土地所有者の階層が多数を占めていた。そして、ブルジョア出身の指揮官の中に激烈な者が多かった。恐怖政治、必ずしもサンキュロット的でなくて、ブルジョア的でもあったのである。

パリの革命軍司令部の顔ぶれをみると、革命軍のブルジョア的性格がよくわかる。可令官のロンサンはエベール派の闘士であったが、革命軍を指揮して流血の弾圧をおこない、有名なテロリストになった。しかし、この間に財産を蓄え、オランダ人銀行家ド・コックの食卓にエベールとともに常連として招かれていた。革命軍司令官として激烈な行動をしながら、大銀行家の家に出入りしていたのである。

司令官付副官のヌリは俳優であったがダントン派であり、自分の友達の俳優を引き入れ、司令部が楽屋のようになり、売春婦でにぎわっていた。

副官マジュエルはエベール派であったが、豊かな絹商人の一族であった。革命騎兵軍司令官になりながら、ぜいたくな堕落した生活を送り、多くの女に囲まれていた。のちに逮捕されたときにも、四輪馬車にニ人の女を同乗させていた。このような例が多いので、革命軍もまたどこまでもブルジョア的なものであった。


過激派の消滅

国民公会と公安委員会は群集の圧力に応じて恐怖政治をすすめていったが、同時に、群集を煽動した過激派にたいしては弾圧をつづけた。クレール・ラコンプにたいしては、九月一六日ジャコバンクラブで激しい非難が加えられた。彼女がでて答えようとすると、ヤジにつつまれた。

もう一人の過激派ヴァルレにたいしても、王党派であるとかジャック・ルーの一味であるという批判がおこな

われ九月一八日保安委員会が彼を逮捕した。保安委員会の中で過激派攻撃に熱心だったのは、シャボとバジールである。しかし、ヴァルレは、パリコミューンの請願があったため、一一月一四日釈放された。

九月二二日、クレール・ラコンプの革命的共和主義婦人クラブが新しい運動をおこそうとした。彼女らは革命裁判所の増設、貴族の二四時間以内の裁判、王妃とジロンド派の処刑を要求するとともに、パリの諸区の代表からなる中央委員会を設置せよと要求した。この最後の要求はパリコミューンや国民公会にかわる、新しいパリの権力機関を、彼女らの指導権のもとに作ろうとしたものである。

国民公会では、彼女らにたいする批判が集中し、別な婦人団体や革命的男子のクラブと自称する者が、革命的共和主義婦人クラブを攻撃した。一〇月三〇日、国民公会は革命的共和主義婦人クラブの解散を布告した。一一月一七日、クレール・ラコンブを先頭にした婦人の団体が、赤帽子をつけてパリコミューン総会の議事堂に押しいった。このあと、クレール・ラコンブが逮捕された。これ以後、婦人の革命運動は急速に冷えていった。彼女は一度釈放されてから、翌年の四月エベール派逮浦に関連して再逮捕された。しかし多くの婦人からの釈放の請願があり、その翌年に釈放された。しかし、もはや活動の場はなく、屋台屋をして細々と暮し、やがてパリを離れて消息を断った。

ヴァルレも、釈放されてからもう一度政治活動をしようとしたが失敗し、その後の消息は絶えた。ルクレールも翌年に逮捕され、消息が絶えた。こうして、一時はなばなしく連動の表面に立った過激派指導者は、一七九四年の一〇月から一一月にかけて弾圧を受け、その後大衆運動の基盤を失った。あまりにもあっけない最後というべきである。

食料危機が一段落して人心が静まり、しかも敗戦からそろそろ戦勝に向いつつあって、危機感が薄れていったという事情が背後にある。彼らの運動は、危機の産物であったから、危機が去れば消滅する。彼らは、大衆の本能的な要求を、生の形で代表したのであるが、その大衆は、政治経済的な危機のときだけ動いたのである。 

要約 第五章 恐怖政治の展開 一 過激派の攻勢と敗北

この節でいうことは、「ジロンド派追放で、すぐに恐怖政治になったのではない」ということです。6月から9月までは穏やかであった。マラですら生ぬるいと批判する有様であった。マラが暗殺されても、まだ復讐に立ち上がるというものではなかった。この点は、古くからの情緒的なフランス革命史とは違う

ロベスピエールの公安委員会入りが遅かったということも書いている。俗説では最初から実力者であるかのように書いているが、実は「新入り」なのだ。しかも「無任所大臣」のようなものだ。これが頼りにされていくのは、過激派の攻勢に立ち向かったからである。とはいうものの、彼も過激派に突き上げられて、もたもたした時期がある。その結果、過激派の要求を認めざるを得なくなる。この点は国民公会議員全体の責任になる。これがいわゆる恐怖政治の実行だ。

しかし、過激派の要求を聞いていたのでは,フランス国家は成り立たない。時期を見て過激派を抑圧した。まずはジャック・ルーの逮捕、自殺があった。これで一度は抑えたかと思われた。


21-フランス革命史入門 第五章の一 過激派の攻勢と敗北

第五章 恐怖政治の展開


一 過激派の攻勢と敗北


旧公安委員会への不満

一七九三年六月二日、ジロンド派議員が追放されたとしても、恐怖政治がすぐに出現したというわけではなかった。これは、内外の情勢に押されて、段階的にきびしくなっていくものである。さしあたり六月二日から七月一〇日までは、これという厳格な政策は打ちだされていない。ジロンド派追放の効果としては、累進強制公債が全国的に実施されたことであった。これだけは全面的におこなわれた。

つづいて六月二四日、「一七九三年憲法」を可決した。ただし、この憲法は精神論的な効果しかなく、実施されたこともない。穀物の最高価格制は、原則として決定されただけで、実施されてはいなかった。国民公会も公安委員会も、できればこの実施を引きのばしたかった。このときの公安委員会は、累進強制公債の政策だけで外国との戦争に勝ち、反革命暴動を鎮圧しようとした。たしかに、六月二九日、革命軍はナントを包囲していたヴァンデーの反乱軍に反撃し、これを撃破することに成功した。

しかし、足もとのパリその他の大都市の状態は危険なものになった。六月の末、過激派のジャック・ルーに煽動された洗濯女が男達をけしかけて、パリの港で石けんの箱を奪い取り、これを勝手に値段をつけて分配した。この騒動は、アシニアの下落、物価の暴騰を反映したものであった。アシニアは三〇パーセントに下落したといわれているが、ところによっては二〇パーセントに下落した。それに応じて物価が上昇した。買占めの影響もあって、上昇率はまちまちであった。

この時期の価格を、一七九〇年六月の価格とくらべてみると、もっとも暴騰したのがじゃがいもで八倍となっていた。牛肉は二倍以上となり、小麦は三分の一程度の上昇であった。

労働者や職人の不平が深刻になった。が、公安委員会は何もしなかったので、七月四日、マラが公安委員会の字をもじって、「政策を失った委員会」と非難した。同じくモンタニヤール議員ヴァディエは、ジャコバンクラブで公安委員会が眠っていると批判した。ジロンド派議員にたいする逮捕令がだされても、厳格には実施されず、イスナールやランジュイネのように逃亡に成功した者もいた。平原派的色彩の強い公安委員会であったから、これは当然であった。


公安委員会の改選

公安委員会にたいする批判が強くなり、七月一〇日、この改選がおこなわれた。ここで平原派の多数とダントンが姿を消した。八月一〇日の英雄グントンは、デュムーリエの反逆のときは巧妙に身をかわして、まだ革命の英雄としての名声を保ったが、彼のまわりにただよう腐敗と反革命陰謀の輸に疑いが深まったのである。

新公安委員は九人で、バレール、ガスパラン、チュリオ、ランデ、ジャンボン・サンタンドレ、エロー・ド・セシェル、プリュール(マルヌ県出身)、クートン、サン・ジュストであった。この中で本来のジャコバン派を代表する者はジャンボン・サンタンドレ、プリュール、ランデ、サン・ジュスト、クートンだけであった。チュリオはダントン派である。バレールとガスパランは平原派で、エロー・ド・セシェルは、前にものべたように名門の貴族でありながらあらゆる派閥と関係をもち、御用商人のデスパニヤックからも金を借り、外国人銀行家とも親しく、亡命貴族の夫人(伯爵夫人)を愛人にしていた。こういうわけであるから、新公安委員会は、約半分がジャコバン派的性格をもっていたといえよう。

その直後、七月一三日マラが暗殺された。暗殺者は貴族の娘シャルロット・ド・コルデーであったが、彼女がジロンド派の影響を受けており、バルバルーと面会していたことから、ジロンド派の復讐であると思われた。これに関連して、ジロンド派議員のフォシエが逮捕された。「人民の友」といわれて、下層民の間で絶対的な人気をもっていたから、マラの暗殺はジロンド派にたいする敵意を激しくさせた。ジロンド派にたいする追求、報復が進行した。ただし、マラの政治的立場はこのとき微妙であった。彼はジロンド派追求のために、もっとも激しく行動した。その後もますます急進的な政策を主張し、貴族、僧侶を公職から追放せよといった。これをコルドリエクラブがとり上げて請願をおこなったが、ジャコバンクラブは熱心ではなく、ただ声明書をだしただけであった。マラは、ジャコバンクラブよりも過激とみられていた。

しかし、同時に、ジャック・ルーの運動にたいしては激烈に反対した。マラは最高価格制にたいして反対し、これを要求する運動に対決してまわった。その助けをかりて、公安委員会も最高価格制を放置することがでぎた。この法令の精神に反して、七月五日、各県当局に個人から自由に穀物を買入れる許可が与えられた。最高価格制を要求する運動は退潮していった。ジャック・ルーとマラはこの問題で決裂し、ジャック・ルーが脅迫の言葉を残して立ち去った。その四日後にマラが暗殺されたので、はじめは、暗殺がジロンド派の手によるものではなくて、過激派の手によるものであろうと思われたほどであった。


過激派の闘争と買占め禁止法

七月二七日、ロペスピエールが公安委員会に参加を求められて加わった。新公安委員会の成立から約二週間の間、まだ目だった変化が起こっていない。国民公会は封建貢租の無償廃止をあらためて確認し、貢租の徴収を禁止した。これは、前年の八月一〇日に無償で廃止されたものの再確認にすぎなかったが、廃止されたものの、所によっては事実上徴収された場合があったので、これを禁止することによって徹底したのである。ただ、そうではあっても、全体的にみれば前年の廃止令が画期的な変化であることにはまちがいがない。

亡命貴族財産の売却について、七月二五日あらためて布告したが、これも根本的な変化を見せたわけではなかった。重大な変化は、七月二七日ロペスピエールの公安委員会入りと前後して審議され、翌日に可決された買占め禁止法であった。ここにいたる過程は、過激派の攻勢、貧民の騒動、これにたいする国民公会の対応が複雑に絡んでいる。

ジロンド派追放の六月二日にはロペスピエールもマラも過激派と歩調を合せて、ジロンド派追放の大衆行動を起こした。しかし、その直後ロペスピエールは過激派との闘争をはじめた。ロペスピエールは、六月一〇日のジャコバンクラブでジャック・ルーを非難し、ルーの愛国主義は疑わしいと言った。ところが、ダントンのまわりに集まる議員が、投機的にルーを保護した。その一人シャボの発言に喝采が集まり、ロペスピエールの発言には冷やかな反応がみられた。ロペスピエールは、過激派との苦しい闘いをはじめたのである。このころ、彼は公安委員会を過激派の攻勢から守る側に立っていた。

七月二〇日、パリの食料事情が悪化した。パン屋の店先に行列がつくられ、パン屋は小麦粉がなくなって閉店した。もうすこしで、全般的な暴動に発展しそうな気配を示した。

この危機を利用して、過激派は攻勢に転じた。ジャック・ルーは、投機業者と買占め人にたいする戦争を宣言せよといい、銀行家の逮捕を要求した。ルクレールは買占め人を死刑にせよと主張した。最高価格制を要求する代表が、各地からパリに派遣されて米た。国民公会と公安委員会は、そのような過激な方法を採用する気はなかった。食料事情を好転させるために、食料担当の公安委員ランデが、必死になってパリにたいする食料の供給に奮闘した。

しかし、それだけでは下層民の憤満を押えきれず、なんらかの譲歩をしなければ暴動を誘発する恐れがでてきた。

ここにいたって、最高価格制に代る提案として、ビョー・ヴァレンヌが「買占め禁止法」を提案した。買占め人にたいして、死刑を適用することにより物資を放出させようというのである、買占め禁止の対象になる品物については、コロー・デルボアがより詳しい法案を提出し、可決させた。この法案で、ビョー・ヴァレンヌとコロー・デルボアはロペスピエールより左翼というイメージを植えつけ、のちに公安委員会に加盟する足場を築いた。

同じ七月二七日、ロペスピエールが公安委員会に入ったが、彼の役割は過激派との闘争であった。彼は、とくにジャック・ルーとルクレールを徹底的に攻撃し、群集をその影響から引きはなした。彼の活動とパリの食料供給が成功したことが相まって、多くの区が過激派の影響からはなれ、国民公会と公安委員会に忠誠を誓うようになった。こうして一時的に過激派は孤立した。


過激派の弾圧

しかし危機の緩和は一時的なものであった。七月三一日ベルギーとの国境にあるヴァランシェンヌが陥落した。オーストリアの大軍がパリをめざして南下の気配を見せはじめた。ジロンド派の反乱が広がり、またブルターニュ、ノルマンディー、フランシュ・コンテの各地方がパリから離反したので、パリへの食糧輸送が停止された。こうした効果が重なって、八月の末にかけて食料不足が深刻なものになった。

こうした危機的状態の中で、戦争問題と軍需工業の振興を担当する者として、カルノーとプリュール(コート・ドール出身)がバレールの紹介で公安委員会に迎えられた。このときは異常な情勢のもとであったから、公安委員の任命も、かなりおざなりなものであった。人選はバレールにまかせきりの状態である。プリュールが公安委員会入りをすすめられたとき、カルノーを推薦して断わった。ところが、バレールは「そうか、それでは二人とも」といって、国民公会に提案した。国民公会は、なんらの討議もなしにこれを可決した。そのような形で入った者が、大臣を指揮して、独裁的な権力を振ったのである。二人とも、ジャコバンクラブには加盟していない。

他方で、過激派の弾圧がすすめられた。ジャック・ルーはある程度孤立したが、彼の拠点グラヴィリエ区では、区の総会の議長になり、「サンキュロット万歳、ジャック・ルー万歳」の歓声で迎えられた。八月一八日から政府を攻撃し、各地で騒動を引きおこしたので、二七日パリコミューンの命令で逮捕された。一度釈放されたが、九月五日に再逮捕され、革命裁判所に送られようとした。この時、ナイフで身体を突きさし、自殺を試み、この傷がもとで死んだ。もっとも激烈な過激派がまず消減した。奇妙なことに、ジック・ルーにたいするパリコミューンの告発は、「王党派的思想で人民をまどわした」というものであった。彼の方針が適切であったかどうかは別としても、少なくとも王党派とのつながりは立証されていない。それでも、過激派が王党派とみられるのは注目すべきことである。

 

要約 第五章 恐怖政治の展開 一 過激派の攻勢と敗北

この節でいうことは、「ジロンド派追放で、すぐに恐怖政治になったのではない」ということです。6月から9月までは穏やかであった。マラですら生ぬるいと批判する有様であった。マラが暗殺されても、まだ復讐に立ち上がるというものではなかった。この点は、古くからの情緒的なフランス革命史とは違う

ロベスピエールの公安委員会入りが遅かったということも書いている。俗説では最初から実力者であるかのように書いているが、実は「新入り」なのだ。しかも「無任所大臣」のようなものだ。これが頼りにされていくのは、過激派の攻勢に立ち向かったからである。とはいうものの、彼も過激派に突き上げられて、もたもたした時期がある。その結果、過激派の要求を認めざるを得なくなる。この点は国民公会議員全体の責任になる。これがいわゆる恐怖政治の実行だ。

しかし、過激派の要求を聞いていたのでは,フランス国家は成り立たない。時期を見て過激派を抑圧した。まずはジャック・ルーの逮捕、自殺があった。これで一度は抑えたかと思われた。

2022年2月7日月曜日

20-フランス革命史入門 第四章の五 ジロンド派の追放

 五 ジロンド派の追放


ジロンド派最後の攻勢

これまでみてきたように、ヴァンデー暴動にたいする対応の仕方、最高価格制についての態度のちがい、国王の裁判をめぐる態度のちがい、デュムーリエ将軍についてのかかわりあいなど、ジロンド派が非常事態に対処することができなくて、モンタニヤールに押されていった事情はあきらかになった。しかし、やがてジロンド派が国民公会から追放される。これをきっかけにして、リヨン、マルセイユ、ボルドーといった重要都市がジロンド派の側に立って反乱を起こし、いわゆる連邦派の反乱、フェデラリストの反乱を起こした。

ここに至った事情は、これまで説明してきた事件では説明ができない。最高価格制についても、一応すんだことであり、国王の処刑もすんだことである。それに、これらの問題については、平原派議員の中にも賛否両論があり、それにもかかわらず平原派議員は追放されていない。だから、これらの問題は、ジロンド派追放の決定的な原因ではない。

ほとんどのフランス革命史では、ジロンド派とモンタニヤールの政治闘争を説明し、その延長として、六月二日の武装蜂起にいたり、ジロンド派が追放されると説明する。その政治的事件を説明しなければならない。まずロベスピエールとマラがジロンド派をデュムーリエ将軍の共犯者ときめつけ、とくにブリッソが告発されるべきであると主張した。

また、四月五日、総防衛委員会にかわって公安委員会が組織され、この公安委員会が、内閣(臨時行政会議)の行政を監視し、非常事態のばあいは内閣に命令する権限を与えられた。この公安委員会にたいして、ジロンド派が独裁と批判した。これにたいしてマラが、「自由の専制」の必要を根拠として反駁し、一種の革命的な独裁思想を表明した。

ジロンド派は、四月五日ジャコバンクラブが全国の支部にたいしてだした文章の中にマラの独裁思想があると指摘して、四月一三日、国民公会にマラを告発した。これは可決されて、彼は四月二四日、革命裁判所に引きだされた。しかし、マラの雄弁と、彼を支持するパリ市民の圧力のために無罪となった。マラを支持するパリの諸区が、今度はジロンド派にたいする報復を企てた。この闘争のいきつく結果、ジロンド派は、モンタニヤールの根拠地であるパリコミューンを解散させ、地方から軍隊を呼び集めて、ジロンド派の政権を回復しようとした。

こうした政治闘争の結果が、一二人委員会の設立とエベールの逮捕であった。一二人委員会はジロンド派議員で組織され、国民公会を転覆するための陰謀を調査する権限を与えられた。これが五月二〇日のことであった。一二人委員会は、五月二四日、まずエべールをその容疑者として逮捕した。エべールが『ペール・デュシエーヌ』の中で、ジロンド派が王党派やデュムーリエと共謀してモンタニヤール、ジャコバン派、パリコミューンを虐殺しようとしていると書きたてたことを根拠としたものであった。つづいて過激派のヴァルレが逮捕された。

翌日の二五日、パリコミューンの代表が国民公会で抗議の演説をおこなおうとしたとき、議長をしていたジロンド派のイスナールがこれに反対して、脅迫的な演説をした。パリが国民代表としての議員を守る義務があるのに、三月一〇日以来、たびたび反乱の企てがおこなわれ、国民公会の権威が低下しているといい、もしパリ市民の反乱が国民代表を傷つけるようなことがあれば、全フランスの人間がパリに対して復讐し、パリを絶滅するだろうという極端な表現であった。

「もしこの反乱が国民代表を傷つけるようなことになれば、私は全フランスの名において宣言する。パリは絶減されるであろう。全フランスがパリにたいして復讐し、やがてパリはセーヌ河のどのあたりにあったのかと人が探さなければならなくなるだろう」。

この演説は、あまりにも党派的憎しみを露骨にだしすぎたものであり、ジロンド派にたいする反感をあおりたてた。議会の外では、過激派クレール・ラコンブの率いる革命的共和主義婦人クラブが、エベール釈放を要求するデモをおこした。婦人達が熱狂して、サーベル、槍、包丁をもち、大群をなして行進した。彼女らはジロンド派のペチヨンをつかまえて、脅迫した。

つぎの五月二七日、ジャコバンクラブではロベスピエールが武装蜂起を呼びかけた。その圧力のもとに、国民公会は一二人委員会の廃止、エべール、ヴァルレなどの釈放を決定した。しかし、そのつぎの五月二八日には、ジロンド派が一二人委員会の復活を要求し、また可決された。


五月三一日、六月ニ日の武装蜂起

このように国民公会の決議は左右にゆれ動いていた。平原派議員の票が圧力によって変化した。国民公会での欠席者が多くなり、欠席者は議会の外で策謀をめぐらした。一二人委員会を任命するときは、投票者が三二五人しかいなかった。議員全体で約七〇〇人であるから、半数近くの者が欠席していたことになる。もちろん、すでに軍隊にたいする派遣委員の制度が成立し、六三名の議員が軍隊に派遣され、戦争から物資調達、軍隊の士気にいたるまでの全権力をもって、前線にちらばっていた。

しかし、これを差し引いても、なおかつ出席者は少ない。一二人委員会委員の最低得票者は、一〇四票であった。これでは、ジロンド派議員だけの投票としかいえない。五月二七日、一二人委員会を廃止した時の投票はもっと少なく、一〇〇人しか投票しなかった。これではモンタニヤールの議員だけという以外にない。平原派とジロンド派の議員は、投票に参加していないといえる。当時の議員は都合の悪いときに雲隠れをしていたことが想像できる。ちょうどこの日、革命的共和主義婦人クラブの大デモがおこなわれていたからでもあろう。

つぎの二八日、一二人委員会が再建されたときには、五一七票が投じられた。これでわかることは、平原派議員の多数も、過激派やエべール、さらにはパリコミューンの動きを押えようとする気持をもっていることである。ただ、ジロンド派とちがうところは、どの程度徹底的に闘うかをめぐってであった。ジロンド派がもっとも戦闘的であり、平原派は、情勢をみながら動いていたということができる。

いずれにしても、一二人委員会の再建は、国民公会の多数意見として可決された。約七〇〇人中五〇〇人以上は、反対派にとっては威圧的な意味をもつ。ここで、モンタニヤール、ジャコバンクラブ、パリコミューン、過激派の中に危機感が高まった。五月二九日、パリの諸区の代表が武装蜂起委員会を組織した。五月三一日、司教館を本拠にして、コルドリエクラブの創立者デュフルニを議長とする武装蜂起委員会が行動を開始した。

警鐘が鳴らされ、武装した市民が国民公会を包囲し、一二人委員会の解散、ジロンド派の追放、その他の社会政策を要求した。しかし、国民公会での議論が果しなくつづき、結局、一二人委員会の解散だけが決議された。この日の武装蜂起は中途半端なままで失敗した。この日の失敗について、武装蜂起を計画した者の間で責任のなすりあいがおこり、もっと断固とした行動をおこすべきだという反省がだされた。

六月一日、武装蜂起委員会は、ジロンド派の前大臣ロランとクラヴィエールの逮捕を命令した。ロランはいち早く逃げだしたが、逃亡先で自殺することになる。六月二日、武装蜂起委員会は、国民衛兵と、武装したパリ市民八万人を集め、アンリオーの指揮のもとに、再び国民公会の開かれているチュイルリー宮殿を包囲した。

このとき、すでにマルセイユ、リヨンでジロンド派の反乱がおこり、ジャコバン派が殺され、ブルターニュ、ノルマンディー地方で、地方当局が国民公会への服従を拒否し、ヴァンデーの反革命軍が県庁所在地を占領し、ナントに向ってすすんでいるという危機的な状態が報告された。公会議員も群集も殺気立ってきた。武装蜂起の側はジロンド派議員のうちもっとも戦闘的な二二人の逮捕を要求した。

議員としては、同じ仲間の議員の逮捕に賛成するわけにはいかなかった。自発的な辞職をすすめても、ジロンド派のランジュイネ、バルバルーは、議員としての地位を死守するとがんばった。平原派議員はパリコミューンのやり方を非難し、武装蜂起の指導者アンリオーを処罰するべきであるという発言をおこなった。この中には、バレールとかダントンのように、恐怖政治の推進者になった者もいる。武装蜂起の側に一貫して同情的であったのは、モンタニヤールの議員だけであった。

議員の多数は、なんとかして議員の逮捕だけはさけたいと思った。そこで、議長のエロー・ド・セシェルが先頭に立って列をなして行進し、群集を突破して退場しようとした。アンリオーは「砲手砲につけ」という命令を出して、議員を脅迫した。議員達は、群集の決意の固いことを思い知らされて議場にもどり、モンタニヤールのクートンの提案を受入れて、ジロンド派議員の逮捕を可決した。この日逮捕令の出されたジロンド派議員は二九名で、その中の有名な者は、バルバルー、ブリッソ、ビュゾ、ジャンソネ、ガデ、ランジュイネ、ラスルス、ルーヴェ、ペチヨン、ヴェルニヨーであった。ジロンド派議員の逮捕令はこれで終ったわけではなく、その後マラ

の暗殺の共犯のかどで捕えられた者もあり、各地のジロンド派反乱の共犯者として捕えられた者もある。また、一三人がジロンド派に同調して辞職した。一〇月三日、二一人のジロンド派議員が処刑された。七五人のジロンド派議員は、投獄されたままでテルミドール事件を迎え、そのあと釈放され、国民公会にもどることになる。


ジャコバン派の独裁は成立しなかった

ジロンド派が追放された事件をどのように解釈するかは、フランス革命の解釈で最大の問題になる。どのフランス革命史をみても、ジロンド派の敗北にいたる経過は、これまでに説明したような政治闘争の結果として説明する。そのあと、ジロンド派とともに、大ブルジョアジーが敗北したと書く。勝ったのは、モンタニヤールであると考える。モンタニヤールの背後にいる階級として、ある人は小ブルジョアといい、別な人はサンキュロットであるという。

この点のいい方については、人によって多少ニュアンスがちがうがいずれにしても、ジロンド派対モンタニヤールの図式で勝ち負けを定め、ジロンド派の側をブルジョアジーとすることには変りがない。だから、ジロンド派の敗北は、そのままブルジョアジーの敗北だといわれる。そのような文章の実例を示そう。

ソブールはつぎのようにいう。「こうして、公安政策を持っている唯一の党である山岳党を擁して、サンキュロットが政権についた。この意味で五月三一日の革命は、純粋に政治的なそれではなくて、古い第三身分の新しい部分が権力に到達したという特徴をもっ社会革命であった。ジロンド党を擁して、ひたすら自分に有利なように統治しようとした大ブルジョアジーが一時政治舞台から姿を消したのである」(『フランス革命』下巻、四九頁)。

ソブールの意見では、大ブルジョアジーが姿を消して、サンキュロットが政権についたということになる。

マチエも同じようなことをいう。「したがって六月二日は政治革命以上のものであった。サンキュロットがひっくりかえしたものは、ただに一党派だけではなく、ある点までは一つの社会階級であった。王位とともに倒れた少数の貴族のあとで、今度は大ブルジョワ階級が倒されたのである」(『フランス大革命』中巻、二九四頁)。

河野健二氏はつぎのようにいう。「危機にせまられて、ブルジョアジーの代表は陣地をあけわたして、小ブルジョアの代表たるモンターニュ派にゆずった」(『フランス革命小史』一四七頁)。

このような解釈が一般的であり、疑問をもたれることは少ない。しかし、この解釈には重大な見落しがある。それは平原派議員の存在である。ジロンド派が追放されたからといって、平原派が権力の座から追放されたわけではない。また、モンタニヤールが平原派を押しのけて権力を独占したわけでもない。

たとえば、もっとも重要な財政委員会は、平原派のカンボンの指導権のもとにあり、これは変ることがなかった。公安委員会には、平原派からバレールが入っており、その雄弁で大きな影響力をもっていた。ジロンド派が追放されても、モンタニヤールの独裁は成立せず、平原派とモンタニヤールの連合権力ができたのである。これが正しい解釈で、モンタニヤール独裁という言葉は、威勢のよい俗語としては意味をもつが、ものごとの本質を示すものではない。

ジャコバン独裁という言葉もそうである。ジャコバン派の独裁は、フランス革命のどの時点をとっても成立したことはなかった。ジャコバン派は院外団体であり、モンタニヤールに一定の影響をおよぼし、また協力してある程度の権力を行使しただけである。だから、ここでは、モンタニヤール独裁とかジャコバン派独裁という言葉は使わないことにしている。


平原派の力とブルジョアジー

さて、権力の半分を握っていた平原派とは何者であるかということになる。彼らは国民公会の多数を占めており、三月から六月にかけての三ヵ月は、彼らが権力の指導権を握っていた。ジロンド派が後退し、モンタニヤールはまだ浮び上ってこないからである。六月二日以後、モンタニヤールが権力の表面に登場し、一年のちにはまた沈んでしまう。その時に権力を安定させたのが、平原派である。そのことを思えば、平原派の力を無視することはできない。

彼らは、ジロンド派のような党派的憎しみには与しないが、さりとてパリコミューンの動きとか、これを指導し煽動するモンタニヤールの動きにも反対である。平原派は、ブルジョアジーの上層の特定の部分を代表する議員の集合体であった。そして、有力議員の中には大ブルジョア出身者もいた。また、大ブルジョアと結びついている政治家もいた。

財政委員会のカンボンは、南フランス、モンペリエの大商人である。同じく財政委員のジョアノは、ウエッセルラン王立マニュファクチュアの経営者である。また、財政委員として、デュムーリエ将軍と御用商人デスパニヤックとの不正取引をカンボンとともに告発して闘ったのは、平原派のドルニエであるが、彼も鉄鋼業者、大土地所有者である。大砲を国家に原価で提供し、「誠実の人」といわれた。しかし、莫大な財産の所有者であり、革命中に立派な城を買入れた。

ギュイトン・モルヴォーも平原派の実力者の一人である。初代の公安委員であり、ジロンド派追放後も約一ヵ月その地位にあった。一年後、モンタニヤールを追い落したあと、また公安委員になる。彼は法服貴族、領主、工場主であり、鉱山の開発もおこなっていた。ラヴォアジェとも組んで化学研究をおこない、発明の工業化もおこなう企業家であった。彼は、ジロンド派追放には抵抗したが、それでも公安委員会の議長を務めていた。同じ平原派のバレールと親しく、恐怖政治の時代も、パリの武器工場を経営して、軍事生産に協力した。

シエースは、副司教、フイヤン派であったが、国民公会では平原派にいて目だたない動きをした。恐怖政治のときには一言も発言しなかったが、のちになって、なぜ発言しなかったかと聞かれると、「生きるだけにとどめた」といった。この言葉は後世有名になった。

ただし、何もしなかったかというと、そうではなくて、彼が裏で陰謀をめぐらして、平原派の投票を左右していたことがいわれている。また、イギリスのスパイは、シエースが恐怖政治の公安委員会にたいしても影響力をもち、自分の方針を押しつけていると報告している。まさかと思うような話であるが、一年のちにロベスピエールが失脚する時、平原派議員の支持を取りつけようとして、必死になって演説したことがある。

平原派の支持を失ったとき、ロベスピエールの没落が決ったのである。ややもすると歴史家は、ロベスピエールを能動的に描き、平原派を受動的に描く。真相は意外に逆であったかもしれない。そのシエースは、銀行家ルクツー(国民議会の財政委員会議長)と親密であった。

立法委員会議長をしていたカンバセレスは、法服貴族の出身である。つねに穏健な動きをしているが、恐怖政治が終ってみると、大御用商人のウヴラールの顧問弁護士となっている。アンザン会社の大株主にもなり、豪奢な生活を送っていた。

ドルニエ、ジョアノ、ギュイトン・モルヴォー、シエース、カンバセレス、ともに大ブルジョアジーを代表するものであるが、ジロンド派と運命をともにせず、恐怖政治の時代にはそれぞれの分野で活躍し、その後はますます発展して、ブルジョアジーの上層の座を守っている。

シエースやカンバセレスは、総裁政治の時代でも支配者であり、ナポレオンのクーデターに積極的に参加して、ナポレオン権力の支柱にもなっている。こうした人的系譜が平原派の指導的人物であった。だから、ジロンド派追放がすなわち大ブルジョアの打倒には結びつかない。平原派系の大ブルジョアジーが残っているからである。

ジロンド派とともに敗北したのは、あくまで大ブルジョアの一部であった。


モンタニヤールはサンキュロットか

ジロンド派の追放が、サンキュロットの権力獲得だとマチエ、ソブールはいう。ただし、河野健二氏は慎重にブルジョアという。サンキュロットといえば職人、労働者、中農以外の農民を連想する。ジロンド派追放とともにサンキュロットの政権ができたのであれば現代流にいうならば、労働者、農民の政権ができたことになり、社会主義革命のひな型ができたことになる。

このような連想の仕方が、フランス革命史を専攻する者だけではなくて、日本史研究家の間にも盛んであった。

これを一つの理論的支柱として、フランス革命と日本の歴史との対比がおこなわれる。明治維新には、サンキュロット独裁のような現象が起きなかったから、不徹底であるといういい方が盛んである。

ここで問題にしなければならないのは、モンタニヤール独裁というべきものすら成立しなかったのだが、仮にモンタニヤール独裁が成立したとしても、それはサンキュロット独裁にはならなかったということである。あとで詳しく説明するところもあるが、結論を先にいうと、モンタニヤールの主流は、中流のブルジョアを代表してたとえば、恐怖政治のときの公安委員のジャンポン・サンタンドレは、毛織物工業を経営する一族からでていて、二人の召使をもっていた。上層ブルジョアのような巨大な富ではないが、やはりブルジョアジーに属する。

同じく公安委員として食料問題を担当したランデは、商人の子で弁護士である。公安委員会で、プリュールという名の委員が二人いた。コート・ドール出身とマルヌ出身であったが、前者は収税官の子であるから、やはり裕福なブルジョアであり官僚である。後者は高等法院弁護士であった。公安委員としてエベール派を保護したコロー・ベルボワは、金銀細工商人であった。このような階層出身のモンタニヤール議員の実例は、かなり列挙することができる。

とにかく、サンキュロットを代表するなどとは、とうてい言えないのである。小ブルジョアを代表するというのであれば、モンタニヤールのごく一部分がそれに相当する。ロベスピエール派がそれである。ロベスピエールが指物大工の親方デュプレーの家に下宿し、献身的な世話を受けていた。デュプレーも、親方として相当に豊かであった。職人とは食事をともにしない。その意味では、厳格な階級制度を堅持していた。当時の親方というものは、そうしたものであった。職人をサンキュロットというならば、親方はそれに入らない。

それではブルジョアジーの列に入るかといえば、これは自他ともに認めないだろう。だから、ブルジョアという以外にはない。こうした階層に加えて、芸術家、作家、その他自分の能力である程度裕福な生活をしている者が、ロベスピエール派の支持者になった。彼らも、革命中はサンキュロットと自称し、ジャコバンクラブに参加していた。ここが問題を複雑にするところである。

サンキュロットという言葉をどう解釈するかである。これを職人、労働者と解釈するか、それとも中小工業主や職人の親方、知識人がサンキュロットと自称したばあい、これも含めてサンキュロットと解釈するかどうか、前者に解釈するならば、サンキュロットはロベスピエール派すら動かせなかったことになる。後者に解釈するならば、ロベスピエール派は小ブルジョアの党派であったということになる。


ロベスピエールの独裁はなかった

つぎに、ロベスピエール派が小ブルジョアの党派で、ロベスピエールが公安委員会の中心であったから、恐怖政治は小ブルジョアの権力になったといえるだろうか。河野健二氏の『フランス革命小史』では、こういう表現になっている。ロベスピエールの独裁すなわちサンキュロットの独裁と書く本も多い。しかしそうではない。ロベスピエール派は、モンタニヤールの少数派にすぎなかった。一見はなばなしく歴史の表面におどりだしたように見えるが、重要な政策決定からはずれたところで動いていた。

公安委員会の命令を誰が多く作成したかについて調べてみると、ランデ、ブリュール(コート・ドール出身)、カルノー、バレールの順で、この四人が断然多い。上から順番に、食料問題、軍需工業、軍事、外交を担当している。公安委員会の命令はロベスピエールの署名を必要とせず、担当公安委員が署名し、二人が副署をすればよかった。そして、この四人は仲が良くて、お互いに副署をしあった。

ロベスピエール、サン・ジュスト、クートン三人のだした命令は少ない。しかも、一般警察局の関係である。

このようであったから、たとえロベスピエール派が小ブルジョアの代表であっても、小ブルジョアは脇役を果したにすぎない。これが恐怖政治の本質であった。

もう一度整理してみよう。ジロンド派が追放された以後でも、財政委員会はカンポン、ジョアノ、ドルニエといった中規模から上層のブルジョア出身者で固められている。いわば、大蔵省が公安委員会から独立しているのである。公安委員会は一〇〇万リーブルだけをまかされた。国家財政の規模からすれば、とるに足りない金額であった。財政を握らずして、権力を握ったとはいえないから、それだけでもモンタニャール独裁という言葉は適

当でない。

しかも財政委員会議長のカンポンはロベスビエールと徹底的に対立し、ロベスビエールが失脚する日の演説でも、カンポンの財政政策を激烈に批判している。批判するということは、実権がなかったのである。このいきさつからしても、平原派の力は根強く残っている。

つぎに、公安委員会は財政と正規の警察(保安委員会)を除いた権限について、全権力を握った。しかし、その中枢部は、平原派のバレール、モンタニヤール主流のカルノー、ランデ、二人のプリュール、これにジャンボン・サンタンドレ(海軍担当、派遣委員)と、もう一人エロー・ド・セシェルという浮動的な人物で握られていた。

エロー・ド・セシェルは名門貴族、パリ高等法院弁護士、王の弁護士、王妃の寵臣という、およそ恐怖政治にはふさわしくない名門出身であった。ダントン派、エベール派の両方にもつながりをもち、公安委員会では外交と派遣委員を担当した。

したがって、恐怖政治の公安委員会といえども、右は貴族から、真中の中流ブルジョアを含めて、その末端に小ブルジョア代表のロベスピエール派を加えていたのである。

もう一つ、正規の警察を指揮する保安委員会があった。これも公安委員会から独立していた。ここでは、モンタニヤール主流のアマールとヴァディエが実権を握り、ロベスピエール派のル・バが反主流となっていた。アマールは高等法院弁護士で、没落をはじめた商人の家系である。ヴァディエは収税人の出身である。ともにロベスピエール派と対立し、公安委員会の主流と手を組んで、のちにロベスピエール派を叩き落す側にまわる。

このようにみてくると、恐怖政治は、決してサンキュロットの権力でもなく、小ブルジョアの権力でもない。

そして、モンタニヤールの独裁でもなく、ジャコパン派の独裁でもない。むしろ、平原派系の上層ブルジョアジーと、モンタニヤールに雑居している中流ブルジョアジーから小ブルジョアにいたる、一種の連合戦線、同床異夢の状態であったということができる。


ジロンド派追放の原因

ジロンド派が、なぜ平原派から分れて追放されたかを考えなければならない。ジロンド派の没落を決めたものは、財政問題であった。すでに、アシニアの価値が下落し、物価騰貴が起こり、これが貧民の暴動を誘発している。これをカで弾圧すると、ヨーロッパ列強諸国との戦争を前にして、献身的な戦争に動員することができない。

物価上昇を止めるためにはアシニアの価値を維持し、増発されたアシニアを流通から引き上げなければならない。

この時期、財政当局の最大の関心事は、アシニアの価値を維持することであった。このための政策として、貴金属の売買禁止、アシニアの強制流通、アシニアと竸合する証券(手形、為替、株式会社の株)の取引禁止、それに累進強制公債がとりあげられた。金属貨幣と貴金属の売買禁止、アシニアの強制流通は、四月一一日、ジロンド派の抵抗を押切って可決された。金属貨幣が流通していると、誰もが金属貨幣で受取ろうとして、アシニアで受取ることを拒否する。そのため、アシニアの価値下落がひどくなるからである。貴金属の売買をした者は禁固六年、アシニアの受取りを拒否したばあいはそれと同額の罰金が課せられるようになった。

この提案は、カンボンから提出され、これにジロンド派が徹底的に反対した。ジロンド派の孤立は、ここにはっきりと認められる。とくにジロンド派の闘士バルバルーはしつこく反対を続けた。五月二〇日になっても、この法令に対して非難を加えている。

大詰めの事件は累進強制公債であった。これは財政上の大手術ともいえる、荒っぽい手段であり、非常手段の最大のものであった。年収に応じる累進税の形で、強制的に公債に応募させようというのであるが、公債といっても、公債の証書を発行しない。証書を発行すれば、それが流通して一種の紙幣の役割を果すから、紙幣の総額を削減するためには意味がない。そこで、政府の公債台帳に記録するだけにとどめたから、実質的には税金に似ていた。

これを当時革命税と呼んだ。この提案をしたカンポンにいわせると、富者の財産を尊重しながら、一時的に彼らから金を借り、彼らを革命に結びつけ、もし祖国が救われたときには、借りたものを返すという精神であった。

しかし、この時期、フランスが戦争に勝つかどうかわからない。利に聡い金持は、敗けたときのことを考えて、できるだけ財産を隠しもっておこうとする。それを累進税で取り上げようというのであるから、金持の抵抗は激しかった。

この雰囲気を反映して、ジロンド派が徹底的に抵抗した。マルセイユのブルジョアジーを背景にしていたバルバルーは、五月二〇日、故郷に手紙を書いた。この累進強制公債により、一〇万リーブルの年収をもっ貿易商人は、一〇万リーブル以上の租税または公債が課せられるだろうと書いた。年収以上の租税または強制公債が課せられるのであるから、これでは金持は怒る。彼らは、革命政府が自分達の財産をおびやかそうとしていると考えた。

もともと、バスチーユ占領も、王権から財産を守るためにおこなわれた。この点にジロンド派の反乱の基礎があった。

マルセイユの代表は五月二三日パリに集まり、ジロンド派に同情的な諸区を訪問して連携を固めた。五月二五日、彼らの指導者ランパルは国民公会で発言し、マルセイユ市が強制公債にたいして憤慨していると脅迫した。その夜、パリのジャコバン派がマルセイユ代表の逮捕と虐殺を狙っているというので、バルバルーとジロンド派議員はマルセイユ代表をかくまった。

こうして、強制公債をめぐる衝突が、パリ対マルセイユの形になって現われた。ジロンド派の追放、マルセイユ市の反乱はこれの延長である。

ジドンド派が、この問題と並行してエベールやパリコミューンを攻撃したのは、強制公債を有利に解決するためであった。

パリコミューンの武装を解除し、マルセイユをはじめ各地方の武装勢力をパリに引き入れて、ジャコバン派から過激派を含める勢力を弾圧しようとしたのである。一二人委員会の設立とか、エベールの逮捕という政治的事件は手段であって、本当の狙いは累進強制公債を阻止することにあった。

このために必死で闘い、ついに敗れたのである。


累進強制公債をめぐる国民公会の分裂

この公債は一〇億リーブルの強制公債ともいわれるが、平原派に支持されていたところに重要な意味があった。

提案者はカンボン、ラメルという、財政委員会に属した平原派議員であった。これにモンタニヤールのマラやダントン派のチュリオが賛成した。

国民公会で激論がたたかわされたが、反対したのがジロンド派であり、平原派はだいたいにおいて賛成にまわったから、ジロンド派が孤立した。ジロンド派追放の原因は、累進強制公債をめぐるものであった。

五月二〇日、国民公会は一〇億リーブルの強制公債を原則として承認し、その適用は各地方当局と派遣委員の裁量にまかせた。この徴収がはじまると、マルセイユ、リヨン、ボルドーその他でジロンド派(連邦派)の反乱が起こった。リヨンでは、すでにジャコバンクラブ系が市政を支配していたので、国民公会の派遣委員デュボワ・ド・クランセと協力して、革命税の徴収を厳格におこなった。

対象は問屋商人、大財産家、資本家といわれているが、三〇〇〇万リーブルになった。一人の貿易商人が六万リーブルを課せられた。市の吏員がサーベルとピストルをもち、租税を即時支払えと要求してまわった。租税を取られる側は憤既した。五月二九日、街頭で衝突がおこり、これが発展して内乱となり、ジロンド派系が支配してジャコパン派系を虐殺した。このような性質のジロンド派系の反乱が、とくに南部フランスに拡大した。国民公会におけるジロンド派の抵抗は、その運動と連帯するものであったから、追放されることになったのである。

それでは、平原派のブルジョアジーも革命税を取られたはずなのに、なぜ賛成にまわったのかという疑間が残る。これはブルジョアジーの中の性格のちがいによるものであった。たとえ革命税をおさめても、それ以上のものを手に入れる見込みがあれば、一時的に我慢することができる。この時期、外国との戦争で、国家の軍事注文は巨大になり、国家にたいして物資を納入することは莫大なもうけになった。その取引で成功して、一介の中小ブルジョアから二、三年のうちに巨大な新興成金になった者も多い。はじめから大財産をもっている者でも、革命税をおさめて愛国者の評判を確保しておき、その信用を背景にして、国家と有利な契約を結べば納めた以上のものを取りかえすことができる。こうした一群の資本家達が、平原派の背後にいたのである。

彼らは、一時的な犠牲を覚悟してもよいから、ともかく戦争に勝って欲しい。こうした気分を平原派が代表していた。だから、平原派には、どちらかといえば、軍事工業に関係のある工業家、軍需物資を扱う商人、軍隊の御用商人がついていた。議員のドルニエやギュイトン・モルヴォーのような存在は、一人の人間がそうした資本家でありかつ平原派議員であるという意味で、その立場を象徴している。

これに反して、ジロンド派の反乱に徹底的に参加したのは、この戦時経済に不向きな職種の大商人が中心であった。食料品、奢侈品を中心とした貿易商人や問屋商人である。彼らは国家との取引でもうけるすべがないまま、巨額の革命税だけを取立てられた。これでは、もはや革命に対する情熱を失なってしまう。外国軍と手を組んでも、あるいは貴族と手を組んでもよいから、自分の財産を略奪する者から身を守りたい。

こうして連邦派の反乱がおこり、この反乱にイギリス軍が援助するようになったのである。これを国民公会の側からみるならば、外国と結託した裏切り行為、反革命ということになり、ついにブルジョアジーが二つに分裂したのである。ブルジョアジーの分裂は、非常事態のときにはおこりうるものである。そのもっとも極端な実例を、フランス革命が提供していると思えばよい。

要約 第四章 ジロンド派の時代 五 ジロンド派の追放

この節の要点はただ一つ、ジロンド派追放の基本的原因である。昔からいろいろと言われてきた。19世紀では、文学的、ロマン主義的論調で、ジロンド派のために涙を流し、モンタニヤールのならず者という論調が盛んであった。20世紀にはいって、科学的に物事を見ようという気風が強くなり、基本は経済だという傾向が強まり、最高価格制などがとりあげられた。やがて、累進強制公債が話題になったが、まだほかの要素とかき混ぜられて、何が基本かわからない書き方が一般的であった。

私ははっきりと、「累進強制公債の徴収が基本だ」と書いている。もう一つ、この政策に対して、モンタニヤール(山岳派・通称ジャコバン派)だけが賛成したのではなく、平原派が賛成していたことを強調している。とくに、平原派議員のカンボンが、財政委員会議長として、強力にこの政策を推進したことを紹介している。ここのところが、他の著者たちとは違う。もう一つ、カンボンの周囲にいて活動した実業家議員を紹介し、こういう層が積極的であったという。だから、ジロンド派の追放が「大ブルジョアジーの敗北になったのではない」という。「ちゃんと政権の座にいるではないか」、これが他人とは違う意見です。


19-フランス革命史入門 第四章の四 ヴァンデーの反乱

四 ヴァンデーの反乱


初期の反革命運動

ヴァンデーの暴動は、フランス革命にみられる反革命暴動の最大のものである。革命軍と反革命軍の残虐な殺し合いが続けられ、革命史の多くのエピソードを残した。もちろん、ヴァンデーだけが、このような暴動を経検したのではなく、それより北方のブルターニュやメーヌ、ノルマンディー、ツレーヌの各州にわたって同じような暴動が広がった。フクロウ党(シュアン)の反乱と呼ばれたときもある。反乱者が森に隠れて、フクロウの鳴き声で合図をして革命軍を迎え撃ち、ゲリラ攻撃にでたからこの名前がついた。

革命軍は「捕虜をとるな」という合言葉で攻撃した。女、子供、老人にいたるまで、反乱者の地域では虐殺の対象になった。そのあと焼きつくせという命令がでて、廃墟になった村が数多くあった。反乱者の側も、革命派を捕えると残虐な拷問にかけて殺した。女、子供がもっとも残酷な殺害に加わり、婦人が「殺せ殺せ」と叫んでまわった。国外戦よりは国内戦の方が、すなわち階級闘争の方が、より残酷な闘いになることを明示した事件である。

ただ、この反革命暴動が、農民の手によって引きおこされたというところに複雑な問題がある。本来農民は、フランス革命の側につくはずであった。そして、バスチーユから大恐怖にかけて、この地方の農民も反領主暴動に参加し、城を焼打した。第一段階では、この地方の農民もまた革命的であった。一七九三年三月一〇日、外国軍との戦闘のために三〇万人の徴兵令が布告され、これが実施される段階で、農民が大規模な反革命暴動に立ちあがった。農民の反乱であるから、地域ぐるみの闘争となり、小さな子供までが農民ゲリラの伝令役になる。そのような子供までも、革命軍は処刑してしまった。

その姿を表面的に見るならば、現代におこっている民族解放運動のゲリラ戦にそっくりである。ところが、それがイデオロギー的には王党派であり、反革命であるところが特色であった。

ヴァンデー県は、大西洋岸中部でナントとラロシェルの間にまたがる後進地帯であり、深い森にかこまれていた。それより北に、ブルターニュ州の半島があり、ここも後進地域であった。はじめこの地方の貴族達は、貴族を中心にした反革命運動を組織した。それに参加した貴族は、レザルディエール男爵、レスキュール侯爵であった。ブルターニュではルーリー侯爵の反革命運動があった。しかしいずれも事前に発覚し、孤立した事件にとどまっていた。

僧侶基本法が制定されたときに、この地方のほとんどの僧侶が宣誓を拒否した。僧侶の職を奪われると、彼ら忌避僧侶は、信仰心の厚い農民にたいして働きかけ、宗教的な反抗心をうえつけていった。反抗僧侶の比率はブルターニュが高くて、八一パーセントであり、暴動の中心ヴァンデーでは五五パーセントであった。そのため僧侶の煽動だけでも暴動の説明がつきにくい。あくまで、僧侶の煽動は二次的な要因であった。


なぜ農民が反革命に転じたか

なにが農民を反革命にかりたてたのかといえば、それは、革命が彼らに幻滅を与えたからである。このようにいっても、どのような農民かを問題にしなければならない。すべての農民が、革命により利益を得たとは限らない。農民にもいろいろな階層があったことは、すでにみたとおりである。もし、中農や富農の比率が高ければ、その農民は革命で利益を得たということができる。

しかし、土地のごく少ない農民、そして他人の土地を小作しなければ生きていけない農民(自小作農民)か、純然たる小作農の多いところでは、領主権の無償廃止がおこなわれたとしても、彼らにとってはなんら利益にもならない。利益は、小作農民を使う地主のものになるからである。

それだけではない。革命政府は、僧侶財産を国有化し、これを売却した。教会のもっている土地が国有化されたのちに、競売にかけられたのである。この競売に、あらゆる階層の者が応したが、これを遠くはなれた都市のブルジョアが買占めたばあいが問題になる。その村には、国有財産を手に入れた者が少なく、革命の恩恵にあずかったという実感がない。しかも、新しく地主になった者はよそ者である。

それだけでもおもしろくないのに、新しく地主になった商人や銀行家、工業家は、小作人にたいしてきびしかった。以前の所有者の僧侶は、なんといってもおおようであり、小作農の側からみても、だましやすかった。しかし、新しい主人は手ごわい相手であり、結局は小作料の増徴につながり、小作人にたいする搾取がきびしくなる。これでは、小作農が革命に幻滅する。昔の僧侶に支配されるほうが、まだよかったということになる。そのため貧農が反革命の側に立ったのである。

ヴァンデーにおいても、その周辺のブルターニュやメーヌにおいても、王党派の強い村と共和主義者の強い村とがあった。王党派の強い村では、僧侶財産の比重が高く、しかも、これをよそ者が多く買占めた。これが大きな特徴になっている。僧侶の土地が少ないか、多い場合は土地の自作農あるいは小作農が買入れたところは、革命政権に忠実な村にとどまっている。

農民の大多数が幻滅を感じ、革命派がごく少数となっていた場合に、反革命の条件が生れた。そこへ物価騰貴がおこり、最後に強制徴兵令がきた。ついに農民の不満が爆発して、反革命暴動へと発展したのである。

密輸人、収税人の反革命運動

反革命暴動には、農民と並んでもう一つの階層が強力な役割をになって参加した。それは塩の密輸業者、塩税の収税人、密猟監視人の一団であった。旧体制のもとで塩税が徴収され、そのためにヴァンデーの海岸地帯や、内陸の州と州の境界線に税関が設けられていた。ここに収税人が多くつとめていたが、革命によって国内関税が廃止されたため、彼らは革命で失業者になった。そのため、彼らは反革命の側に立った。

収税人の目をのがれて、塩の密輸をおこなっていた密輸業者の一団がいた。彼らは、集団をなして、軍隊的な規律を保ち、間道を通り、塩を運んでいた。塩税が廃止されたために、彼らも密輸でもうけることができなくなった。彼らも反革命に転じた。

密輸業者と収税人は、旧体制のもとでは追いつ追われつする宿敵であったが、いまやこの二つが反革命で手を組んだ。この一団から出てきた有名な指導者は、密輸業者のコットロー兄第で、一人がジャン・シュアンのあだ名をもらった。密輸業者がもっとも獰猛な反革命者になった。

密猟監視人は、貴族の領地の森を監視し、密猟者を摘発する係である。彼らは森の地理にくわしく、役目柄勇敢であり、同時に領主にたいして忠実である。そのために、反革命運動の指導者に適していた。これで有名な者はストフレである。彼はドイツ人で、モレヴリエ伯爵の森の密猟監視人の監督官であった。革命とともに主人は亡命したが、彼は森の中に潜伏していた。農民が反乱をおこすとその指導者となり、強力な軍隊に仕立て上げ、有能な指揮官となった。

そのほか、都市の職人、労働者、小商人の中にも反革命運動に投じた者がかなりいた。その中では馬車屋のカトリノーが有名である。反革命軍が森の中のゲリラ戦を上手にすすめたのは、塩の密輸業者、密猟監視人の指導によるものであった。


王党派と革命軍の激戦

一七九三年三月一一日、ヴァンデー県の隣、ロワールアンフェリウール県のマシュクール市に農民が侵入し、県吏員を殺し国民衛兵を虐殺した。一三日には、シャレット騎士が八〇人の群集をひきつれて合流し、この指導権をにぎった。三月一二日には、サン・フロラン市で徴兵の方法を決めるための集会が開かれることになった。

その前夜、周辺の農村で鐘が鳴らされ、農民が集まり、朝になると二〇〇〇人の農民が侵入してきた。国民衛兵は二〇〇人しかいなかった。ここでいざこざがおこり、農民が市役所を占領し、ボンシャン侯爵に使いをだして、彼を反乱軍の首領にした。

チフォージュ市はヴァンデーとブルターニュ、アンジューの境界にある町だったが、周辺の農民が森に集まり、徴兵令をのがれるための相談をした。その数が八〇〇人となり、チフォージュ市を攻撃したが、国民衛兵は四〇人しかいなくて占領された。このほか、各地の小都市が反乱者によって占領された。

反乱者の数が増え、三月二二日、シャロンヌ市が五万人といわれる反革命軍に包囲された。この町には三五〇〇人の革命軍がいたが、結局降伏した。このときの反革命軍の指導者として、貴族のデルべ、ボンシャンと密猟監視人のストフレが登場した。海岸地帯のポルニック市は、シャレット騎士の反革命軍に占領され、放火された。

二週間で、反革命軍は、ヴァンデーを中心とした四つの県の約半分の面積を占領した。

四月に入ると、ラ・ロシュジャックラン侯爵の率いる反革命軍が革命軍を敗走させ、六月九日に、ソミュール市、六月一八日にはアンジエ市と、二つの重要都市が占領された。アンジエ市は、ヴァンデーからパリの方向にむかって進んだところにある大都市であり、ここの占領は国民公会に大きな衝撃を与えた。

しかし、反革命軍はパリへ向って進まず、西に転じて海港都市ナントの攻撃に移った。ナントと同じ海港都市のサーブル・ドロンヌ市は、反革命軍の攻撃に耐えた。六月二九日、ナント攻撃は失敗し、カトリノーは重傷を負った。それから一〇月までの間に、指導者のレスキュール、ボンシャン、デルべが負傷し、そのあとラ・ロシュジャックランが総指揮官となり、アンジエ市を攻撃し、さらに東に進んでル・マン市を占領した。

ここは、ヴァンデーとパリのちょうど中間にある重要都市である。革命軍の反撃がはじまり、一二月、激戦の結果、反革命軍が敗北して大規模な内戦は終った。これ以後は、ヴァンデーの小戦争と称するゲリラ戦が続けられた。しかし勇猛果敢をうたわれたラ・ロシュジャックランも殺され、デルべ、タルモン太公と有名な貴族指導者が殺された。一七九四年の一二月、国民公会が反革命者にたいする大赦令をだしたので、シャレット、ストフレが抵抗をやめてゲリラ戦が終結した。


ジロンド派の対策

ヴァンデー暴動をめぐる方針のちがいもまた、ジロンド派の勢力後退を招いた。ジロンド派は、鎮圧のための断固たる手段をとろうとはしなかった。

三月一九日、暴動の発生と拡大が報告されると、国民公会は、反乱に参加した者を死刑にするという決議をおこなった。しかし、ヴァンデー県代表が増援軍の派遣を要請したとき、ジロンド派の支配する総防衛委員会は熱意をみせなかった。

結局、行政官を派遣するとの決定をおこなったが、ヴァンデー県代表は、この措置が不十分であるといって、ジロンド派議員と激論をおこなった。ヴァンデー反革命軍と真剣に闘っている革命派は、ジロンド派に見切りをつけて、平原派あるいはモンタニャール支持へむきをかえた。

四月二七日、ダントンの提案で、増援軍をヴァンデーへ派遣することが決定された。ヴァンデー反革命軍との戦闘では、モンタニヤールも平原派もともに死にもの狂いで闘った。平原派の政治的態度があいまいであるからといって、反革命軍との戦闘もあいまいだというわけではなかった。

たとえば、サーブル・ドロンヌ市を守って反革命軍を敗走させたブラールは、パリ銀行家の息子で政治的には平原派といわれていたが、戦闘では勇敢であった。このことを、平原派のカンバセレスがはっきりと証言している。

「穏健派がジャコバン派よりも反乱者にたいしてやさしさを持っていたというわけではない」。

ここにジロンド派と平原派との相違をみることができる。ジロンド派は、ヴァンデー暴動にたいして断固たる態度をもたない。しかし、平原派は、ときにはモンタニヤール以上に断固たる措置を望んだのである。五月から六月にかけては、反革命軍がもっとも強大になり、このままふくれあがっていくと、大軍をなしてパリにむかってくるかもしれないという脅威を与えた。そのようなときに、平原派とモンタニヤールからみれば、ジロンド派の態度は敗北主義的とみられたのである。

ただし、反革命軍は急速にその弱点を暴露した。まず第一に、指導者がそれぞれバラバラで、独立性を保ち、一つのまとまった軍団にならなかったことである。つぎに、農民が郷里を離れて遠くへ行軍することを好まなかったことである。貴族の指揮官シャレット侯爵は、権力をにぎると、貴族社会のくせがでてきた。城で貴婦人に囲まれ、酒、ダンス、恋愛にふけった。このようなことが、反革命軍の弱体化をたらした。 

要約 第四章 ジロンド派の時代 四 ヴァンデーの反乱

王党派農民の反乱が、フランス中西部に拡大した。この事件からひきだされる要点の一つが、「農民運動は、王党派(フランス革命反対)の方向にも向くものだ」という点にある。この事件は、古くから一般論のように唱えられてきた「ブルジョア民主主義革命」という理論とは矛盾する。つまり「ブルジョアジーが農民と手を携えて、ブルジョア革命(市民革命)を推進する」という理論である。しかし、ヴァンデーの事件を見ると、農民反乱がフランス革命をつぶし、貴族政治の再現に貢献しようとした。こういうこともあるのだという要約になる。

なぜこうなったかという原因については、本文の中で詳しく書いている。ただ言えることは、様々な農民運動があるということだ。

 


18-フランス革命史入門 第四章の三 敗戦路ジロンド派の後退

三 敗戦とジロンド派の後退


デュムーリエ将軍の反逆

一七九三年三月は一つの転期であった。このときからフランスは敗戦に転じ、ヨーロッパの強国から侵略され、生死の境におかれた。死にものぐるいの闘いの中で、ジロンド派が没落し、恐怖政治が出現することになる。まず、三月一八日、ベルギーのネールウィンデンでデュムーリエ将軍の率いるフランス革命軍は、コーブルク公爵の率いるオーストリア軍に敗れた。

オーストリア、プロシア連合軍は、そのまま進んでデュムーリエ軍とキュスチーヌ軍を分断する形で、フランス国境をめがけて進んできた。三月から四月にかけて、フランス連合軍はベルギー全土から撤退した。ドイツ国境では、マインツの要塞を残して、キュスチーヌの率いる軍隊が撤退した。これから七月まで、プロシア軍によるマインツ攻撃が続けられ、激戦がくりかえされた。

デュムーリエは、敗戦を利用してクーデターの計画をたてた。それは、オーストリアの司令官コーブルク公爵と話をつけてベルギーの領土をオーストリアに渡し、オーストリアは彼を援助することを予定した。その機会に、軍隊を率いてパリに進撃し、国民公会を解散し、フランス王国を再建し、王妃マリー・アントワネットの救出をおこない、ジャコバン派を弾圧するというものであった。

デュムーリエの行為に疑いをいだいた国民公会の総防衛委員会は、デュムーリエの罷免、逮捕を三月二九日、決定した。その実行のために、陸軍大臣ブルノンブルと四人の派遣委員を送った。しかし、デュムーリエは彼らを逮捕し、オーストリア軍に引き渡した。デュムーリエは、そのまま軍隊をパリにめがけて進軍させようとしたが、まだ残っていた国民公会の派遣委員と、デュムーリエ指揮下の将校が国民公会の側につき、デュムーリエを襲撃した。こうして、デュムーリエ将軍は、自分の支持者にかこまれてオーストリア軍の側へ逃げこんだ。

このとき、オルレアン公爵の息子ルイ・フィリップ(のちの七月王政の王)がデュムーリエと行動をともにした。四月一日、パリではデュムーリエの裏切りの共謀者として、オルレアン公爵(フィリップ・エガリテ=平等と呼ばれていた)と公会議員シルリー侯爵が逮捕された。ダントンも、二度デュムーリエ軍に派遣された委員として、この反逆計画にかかわりあいがあった。そこで、彼も総防衛委員会と保安委員会に喚問された。

しかし、ダントンは、デュムーリエと内通したのはジロンド派であったと主張し、自分にたいする疑惑をジロンド派にすりかえた。ジロンド派も最後までデュムーリエを擁護していたために、ダントンの言葉が以外に強味をもった。モンタニヤールはジロンド派との闘争を続けていたので、八月一〇日の英雄ダントンを敵にまわすよりは、味方に引き入れる方を有利だと考えた。ダントンのもつ重味は決定的なものであった。そこでダントンへの疑惑はすておかれ、ダントンはモンタニヤールと歩調を合せて、ジロンド派を攻撃する側にまわった。


破綻するジロンド派の政策

ジロンド派は、しだいに権力の座から後退をはじめた。まだモンタニヤールの政権は成立していないが、ジロンド派の政策が破綻していくとともに指導権は平原派の手に移行しつつあった。一七九三年一月二二日、内務大臣ロランが辞職した。彼は、徹底した穀物商業自由の主唱者であり、あまりにも頑固すぎて、他のジロンド派大臣と対立したのである。大蔵大臣クラヴィエールが、ジロンド派系大商人のビデルマンと協力して、陸海軍のための食料調達を大規模におこなおうとした。これがロランの主張と合わないので、ロランは買付を縮小させようとして対立した。ジロンド派の中にもまた、穀物商業の自由の幅をめぐって意見の対立があった。

四月に入ると、陸軍大臣と海軍大臣がモンタニヤールのブーショットとダルバラードにかわった。四月五日、国防のために大幅な権限を持つ機関として、公安委員会がつくられた。ここにはジロンド派が選出されず、九人の委員のうち、カンボン、バレール、ギュイトン・モルヴォー、デルマ、ブレアール、トレラールは平原派で、ランデはジロンド派寄りからモンタニヤールに転じたもの、ダントン、ドラクロワは平原派からモンタニヤールに転じたものであった。

また、四月三〇日、ジロンド派の反対を押し切って、将軍にたいする告発が将校、兵士、義勇兵、軍隊に配属されている市民に開かれることを決定した。こうして、将軍達に頼りきっていたジロンド派の政策がくつがえされた。

軍隊の改革もジロンド派の反対を押し切っておこなわれた。それは、貴族軍人デュボワ・ド・クランセの主張するアマルガム法(混成法)であった。当時、正規の軍隊と義勇兵が別々に行動していた。正規軍は古い軍隊の秩序を保ち、義勇兵は、指揮官を選挙して民主的な軍隊となり、待遇もよかった。そのため、正規軍と義勇軍の間がうまくいかなかった。

アマルガム法とは、この両者を一つの軍団の中に同居させ、正規軍の中にも義勇軍の選挙制度をとり入れ、正規軍の士気を高めながら、義勇軍と正規軍の竸争をおこなわせるというものであった。これも、平原派の多数とモンタニヤールの力によって成立した。これは、当面する戦争には役立たなかったが、翌年には各軍団で実現された。この改革は軍隊の士気を高め、軍隊における将校と将軍の刷新を実現し、世界最強のフランス革命軍を作りだすことになる。


自由貿易主義の後退

一七九二年一月、内務大臣ロランの辞職のあと、ガラが就任した。彼はダントンの友人で、活動的な人物である。ジロンド派の同調者としてのちに逮捕されるが釈放された。テルミドール事件以後の公安委員となり、学者で教授、ナポレオン時代の元老院議員でもあった。平原派を象徴するような人物である。

それにしても、ロランからガラへの変化は、ジロンド派の政策から平原派の政策への移行を示している。それは、自由貿易主義から保護貿易主義への漸次的移行であった。二月二日、ガラの提案により、内閣がイーデン条約の破棄を決定した。

イーデン条約とは、一七八六年イギリスとの間に結ばれた自由貿易主義的な通商条約であった。この通商条約の結果、イギリスの工業製品がフランスに流入し、フランスの比較的竸争力の弱い工業が打撃を受けていた。まだ大工業は少なく、中・小規模のマニファクチュアの多いフランスの産業が、工業先進国イギリスの圧力にさらされたのであった。そこで、そうした工業家から保護貿易を求める声があがっており、とくに三部会の請願書にも、また立法議会への請願にも、このことを要求したものが多かった。しかし、そのような保護貿易主義は押えられたままで過ぎていった。なぜなら、革命で指導権をにぎったフイヤン派のブルジョアジーは、重農主義に代表される自由主義経済を信奉しており、つぎのジロンド派も、その点においては徹底した自由貿易論者であったからだ。とくにロランがそうであった。これは、フイヤン派、ジロンド派ともに大商人、大銀行家の勢力を主な背景としていたからである。大銀行家は国際商業の決済、為替取引、国際的な投機により利益をあげている。大商人は仲介貿易によって巨大な利益をあげていた。

どこの国、いずれの時代でも、保護貿易か自由貿易かは、主としてブルジョアジーの内紛の問題である。だいたいにおいて、最先進国の工業資本は自由貿易主義であり、二流国の工業資本は、先進国と対抗するために保護貿易主義に走る。ところが、二流国の商業資本は自由貿易主義であり、商業資本と産業資本が自由貿易と保護貿易をめぐって争う。しかも、二流国であればあるほど、工業が発達していない。さしあたり、商業資本の政治力が強い。商業資本に工業資本が押えられて自由貿易を強制される。ある段階で、工業資本が内外の情勢を利用しながら、これを逆転する。そうしたことが、フランスにも起きたのである。

イーデン条約が破棄されたのは、イギリスにたいする宣戦布告の翌日であった。戦争ともなれば、自由主義的な貿易を破棄するための絶好の機会となる。しかもロランが去り、ジロンド派の勢力は後退しつつある。そうした情勢のうえにたって、フランス工業資本の要求が実現した。ただし、国民公会におけるジロンド派の抵抗はまだ強く、内閣に条約を破棄する権限があるかどうかという形でかなり議論が続いた。それにしても、イギリスと戦争状態に入ったのであるから、ジロンド派もイーデン条約を継続せよとは主張できず、結局内閣の方針通りになった。

その後、保護貿易を要求する声はますます強まり、三月一日、ブリュルテルの報告にもとづいて、フランスと交戦中の国々の間に締結された通商条約を破棄し、外国から輸入される工業生産物の品目をあげて、その輸入を禁示する法令を可決した。ただし、まだジロンド派の勢力が強かったので、フランス工業のために植民地原料を確保するという意味での航海条令は成立しなかった。

これはジロンド派の背後にいる貿易商人の利害に関するものであった。貿易商人は、フランスの植民地物産をフランス以外の国に輸送して利益をあげていた。また、フランス本国の原料を、他国へ輸出することで利益をあげた。貿易商人の力がくつがえされるのは、ジロンド派追放以後のことである。こうした政策のちがいは、ジロンド派と平原派のちがいを暗示する。のちにみるように、平原派には、ジロンド派より以上の工業的性格がみられるからだ。

食料危機と過激派の登場

ジロンド派の勢力は後退したが、まだ国民公会では、勢力を保っており、内閣には大蔵大臣クラヴィエール、外務大臣ルブランをもっていた。このジロンド派勢力を国民公会から追放し、恐怖政治を実現した原因は、深刻な食料危機、それにもとづく暴動、財政困難、敗戦とヴァンデーの暴動であった。

こうした内憂外患が、一七九三年春に一度におしよせた。国民公会議員の多数は、渾身の力をふりしぼってこの危機から脱出しなければならなかったが、それには、非常手段が必要であった。

まず敗戦に直面した国民公会の足もとをゆるがす事件が、パリに発生した。それは貧民の暴動であり、その背後に、それを煽動する過激派がいた。過激派は、「アンラージェ」(激昻した者)と呼ばれていた。

正確には激昻派というべきであるが、普通過激派と呼ばれている。

その人的系譜は、コルドリエクラブのメンバーもいるが、それからもはずれた一連の革命家が多く、国民公会に議席をもつほどの名士ではなかった。しかし、それだけに直接下層の人民と結びつき、彼らの本能的な要求を生の形で正当化して、運動をかきたてることができた。食料危機のため大衆が興奮すると、大衆運動の指導者としては一時的に重大な影響力を発揮した。その指導者の派閥はいくつかにわかれている。

ジャック・ルーは軍の将校の家に生れ、地位の高い司祭になっていたから、社会の中流よりは上の僧侶であった。フランス革命がはじまると、農民の反領主暴動を煽動し、革命派となり、僧侶基本法に宣誓をおこなって教会を与えられた。マラが国民議会から追求されたとき、自分の家にかくまったことがある。ところが、このころになると、マラ以上に過激な政策を主張しはじめ、労働者の多いグラヴィリエ区で影響力を広げた。

彼の支持者の中には靴屋、飲食店主、指物師、医者など、職人、労働者ではないがブルジョアでもないといった階層の者がいる。ジャック・ルーは、最高価格制と買占め、投機の取締りを宣伝し、これに反対した国民公会を、元老院の専制と非難した。彼の目からみれば、ジロンド派からモンタニヤールまで、すべてが貴族主義者だということになる。

ヴァルレは裕福な郵便局長の家に生れた。シャン・ド・マルス事件のときには、共和派の請願運動の先頭に立った。一七九二年一二月には、財産の不平等をなくし、買占め、独占、投機を禁止し、公共の利益を犠牲にしてふくれあがった個人財産の国有化を主張した。六月八日、「社会生活における人間の厳粛な権利の宣言」と題したパンフレットを書き、このような主張を展開した。彼はドロワ・ド・ロム区を指導し、最高価格制と買占めの取締りを国民公会に要求した。

二人の女性革命家が、過激派の指導者になった。美人女優として有名なクレール・ラコンブは、八月一〇日の武装蜂起で勇敢に闘い、英雄になった。もう一人の女性ポリーヌ・レオンは、チョコレート製造業者の娘として裕福であったが、革命に熱中し過激派のルクレールと結婚した。

クレール・ラコンブとポリーヌ・レオンは革命的な婦人を集めて「革命的共和主義婦人クラブ」を組織し、ラコンブが議長、レオンが副議長になった。一七九二年一〇月一〇日、この団体が設立されたが、翌年の一〇月三〇日に解散させられた。この団体は、インフレ対策としてアシニアを強制流通させること、食料品、石けん、ソーダ、ろうそくの公定価格を勝手に決めて、これを強制的に買い取るという運動をおこなった。これを当時「価格設定」と呼んだ。彼女らは、はじめマラの影響を強く受けていたが、しだいにジャック・ルーに結びついた。


過激派の煽動する食料暴動

ロランの提案で、一七九二年の末穀物商業の自由が実現した。これに加えて、アシニアの増発政策の効果があらわれて、貨幣価値が下落した。この二つが、一七九三年二月ごろに、物価騰貴を引き起こした。穀物商業の自由につづいて起こったものが、穀物の買占め、投機であった。それは、敗戦を見越して、食料の買占めに走った大商人、農村の大土地所有者や大フェルミエのせいでもあった。アシニアの価値の下落はひどく、約半分に下落した。アシニアではかられる物価が、約二倍に騰貴したと考えてよい。前にみたように、下層民は生きていくだけで精いっぱいの賃金しかもらっていないから、このような物価騰貴は、彼らの餓死を意味するものであった。そこに過激派の影響力が強まる理由があった。

一七九三年二月一二日、パリの四八区の代表と称する一人が国民公会の演壇にあらわれ、過激派の主張をとり入れた演説をおこなった。小麦の最高価格を定めて、全国一律に適用し、違反者にたいしては一〇年の禁固刑、再犯には死刑を適用せよという提案であった。この主張はジロンド派を批判の対象にしていたものであるが、国民公会では、モンタニヤールのマラまでが激しく反対した。このような提案は、穀物の流通を破壊して混乱をまきおこすというのである。この点では、ジロンド派からモンタニヤールまで意見が一致していたので、この演説者を保安委員会に尋問させることに決定した。

二月二二日、婦人の一団がジャコ・ハンクラ・フに現われて、買占めについて討論するように要求した。しかし、ジャコバンクラブを指導していたモンタニヤール議員、デュボワ・ド・クランセ、ロベスピエール(弟)、ビヨー・ヴァレンヌが彼女らの要求を批判し、会場が騒然となった。

二月二四日、洗濯女の代表が国民公会の演壇に立ち、石けんの値上りについて不平をのべた。洗濯女は、当時洗濯を請負い、セーヌ河の川辺で群をなして洗濯をしていた。一種の婦人労働者であり、今日のクリーニング屋の個人営業と思えばよいが、ことが起こると集団を組みやすい立場にあるので、フランス革命の騒乱事件に大きな役割を果した。その意味で、当時無視できない勢力であった。

「一四スーであった石けんが二二スーに値上りしている。議員諸君、諸君は暴君の首を法の力によって切り落した。われわれは、買占め人と投機業者を死刑にするよう要求する」。

この時期、三〇万人の徴兵令が問題になっていたが、彼女らは、最高価格が決定されないのであれば徴兵をやめよと主張した。この意見は、徴兵令にひきつづくヴァンデーの暴動と、のちに国民公会が採用せざるをえなくなった最高価格制の問題を暗示している。

最高価格を設定して貧民の生活を安定させなければ、徴兵令は成功しない。自分の生活が破減しつつあるのに、徴兵に応じる者はいない。無理に実施しようとすれば、政府にたいする反乱を招く。事実、ヴァンデーの暴動はそのようにしてはじまった。

しかし、まだ当時の国民公会議員は、どの派閥であろうとも最高価格の必要を認めていなかった。この日のジャコバンクラブ議長デュボワ・ド・クランセは、婦人達に反論した。

「食料品の値上りをまねく一つの手段は、買占めについてたえずわめきたて、商業を脅迫することである」。

婦人達の請願はしりぞけられた。翌日の二月二五日、パリに騒動がはじまった。まず婦人の一団が騒ぎ、ついで男性が参加し、食料品店をおそって砂糖、石けん、ろうそく、ソーダの値段を決めて分配した。石けんは、彼女らの主張どおり一二スーに定めて分配された。これに抵抗した食料品店は、略奪された。ジャック・ルーは、この行為が正当であるとあおり立てた。

国民公会では翌日この問題が討議された。財政委員会のカンボンは、穀物の最高価格を設定すると、国有財産になっている農地の買手がなくなり、財政困難を深刻にするという立場から反対した。ロベスピエールすらこの騒動を非難し、これはフランスを破減させようとする陰謀だといった。デュボワ・ド・クランセは、この運動を亡命貴族による反革命の試みだといった。その日騒動が再びはじまろうとしたのでパリに非常太鼓がなり、八万人の国民衛兵が動員された。ジロンド派系の将軍サンテールが、「武器をとれ、市民よ。財産と同胞を守れ」と呼びかけた。

こうして「武器をとれ、市民よ」の言葉は、バスチーユのときは王権と宮廷貴族にたいしてむけられたが、いまや下層民からの略奪に対抗するものになった。財産を持つブルジョアからみれば、どちらも自分を傷つける者であり、極左は極右に通じると思われた。この騷動で逮捕された者は、ほとんどが下層民であり、貴族も外国人もいなかった。だから、この運動は、やはり下層民の自然発生的な運動であり、反革命とか亡命貴族の煽動とかの意見は、うがちすぎた意見であった。


革命裁判所の設立

しかし、買占め人にたいする攻撃は続いた。二月四日、ママンが国民公会で演説し、ジロンド派が買占め人を保護しているといって非難した。

「財産家の貴族政治は、貴族階級の貴族政治の廃墟のうえに立ちあがろうとしている。一般的に大商人、金融業者は買占め人だ。権力をにぎった盗賊達といえども、もし国民公会のある派閥に支持されなければ、われわれを攻撃しようとはしないはずだ」。

ママンは兵士あがりの革命家で、ヴェルサイユ行進、九月二日の虐殺に大きな役割を果した人物であった。

同じころ、一人のジャコバンクラブ員がジロンド派を攻撃した。ジロンド派のブルジョア政治よりは、まだ旧体制の貴族政治の方がましであるといういい方で、当時の下層民の革命にたいする幻減を表現している。

「ブリッソの徒はなにをしようとしたか。彼らは金持、商人、大財産家の貴族政治をうちたてようとしたのである。これらの人間が人類のわざわいであり、自分のことしか考えす、利己主義と欲望のためにすべてを犠牲にするような人間であることに気づかせようとしなかった。もし私に選ぶことができるならば、旧体制の方を取りたい。貴族や僧侶は多少の人徳があったが、これらの人間はそれすらも持ちあわせていない」。

こうした批判攻撃の高まりに応じて、ジロンド派とモンタニヤールはしだいに意見の相違を深くしていった。

ジロンド派は商業の絶対的自由を堅持し、最高価格を要求する運動は、断固として弾圧せよという主張をくりかえした。モンタニヤールは、こうした運動には反対しながらも、非常事態であることを認め、部分的にでもその要求を受入れて、譲歩の政策をうちだそうとした。

まずマラが、極端な買占めをおこなった商人を裁く目的を含めて、革命裁判所を設立することを提案した。これをダントンがとり上げて、三月一〇日、国民公会に提案し、革命裁判所が設立された。マラとダントンの提案は、過激派の主張よりは穏健なものである。しかし過激派の運動は名もない民衆の運動であり、弾圧してしまえばそれまでであると思われている。

マラとダントンの提案は、たとえひかえめなものであったとしても、とにかく議員として発言され法律として成立し、効力を発するものである。全国の商人、とくに買占めをおこなっている者はこれに恐怖した。マラが悪魔のようにいわれはじめ、マラの政策を支持する者をマラチストと呼ぶようになり、ジャコバン派を意味するようになった。ジロンド派はマラを攻撃して過激派の一味とみなし、二月二六日の騒動の責任者として告発した。

しかし国民公会で多数を取ることはできなかった。


穀物最高価格制の決定

時がすすむにつれて、ますます危機が深刻になり、モンタニヤールはしだいに過激派の主張に近づいていった。

三月二六日、ヴァンデーの暴動を鎮圧するために派遣されたモンタニヤール議員ジャンボン・サンタンドレは、平原派議員の中心バレールにたいして、革命に貧民をひきつけるためには、貧民を生かさなければならず、革命への情熱を高めるためには、非常手段を取る以外にないと書いた。それは、穀物を公定価格で強制的に買上げ、公共の倉庫に貯蔵し、貧民の食料にあてるというものであり、ひと月前に過激派が主張したのと同じものであった。

四月に入ってデュムーリエ将軍の反逆があり、にわかに危機感が高まると、過激派のヴァレルが革命的中央委員会を組織して、パリコミューン検事ショーメットと協力し、最高価格制への運動をすすめた。

四月一八日、パリ周辺の市町村代表が集まり、危機をのりこえるためには最高価格制以外にはないと結論をだし、パリの県知事ルリエを代表者として、国民公会に最高価格制を提案させた。ジロンド派では、ビュゾ、ヴェルニョーが激しく反対した。モンタニヤールの側では、ロベスピエールが支持した。

四月二五日から五月四日まで激論がつづき、ジロンド派のバルバルーが強硬に反対した。しかし、平原派の多数が賛成にまわり、五月四日、穀物の最高価格制が決定された。ジロンド派は屈伏し、ビュゾは、やむを得ず非常手段として受入れると声明した。

ここまでの経過をみると、最高価格制の問題は、ジロンド派とモンタニヤールを区別する根本的な要素ではないことがわかる。最高価格制には両派ともに反対である。過激派だけが、それをはじめから主張していた。二月には、モンタニヤールはこれを正面から非難していた。モンタニヤールが賛成にまわったのは、そののち危機が深刻化して、これを採用しなければ、下層民が革命から離れるという認識をもったためである。それは、政治的配慮からくるものであった。

その段階では、ジロンド派は政治的配慮なしに、真向から反対していた。そして過激派の主張が、ついにパリ周辺の市町村代表を通じて県知事までを動かすにいたったとき、モンタニヤール議員も、平原派の多数も賛成にまわったのである。そのときにも、まだジロンド派は断固反対していた。国民公会の票決にやぶれると、これを非常手段として認めた。

結局、原則的には反対だが、非常手段としては認めるという点ではすべて一致している。原則から非常手段に移る時期の判断が、それぞれにおいてずれていただけである。この問題だけならば、ジロンド派の追放という事態はおきなかったはすである。ジロンド派追放以後に最高価格制が成立したと書く本もあるが、実はジロンド派追放以前に、すでに最高価格制が法律としては成立したのである。

 

要約  第四章 ジロンド派の時代 三 敗戦とジロンド派の後退

17933月、約半年間のジロンド派全盛期の後、ベルギーで大敗北しながら、イギリスとの戦争が始まった。これは、戦争を指導するものとしては、無茶苦茶なもので、あとで責任を追及されるのは当然のことになる。ただし、フランス革命史の中では、誰もそのことを追及しない。イギリスの参戦は、ツーロン、ブレストの二大軍港の占領、洋上での輸送船、商船の撃沈を招き、被害甚大なものがあった。この後者の効果を言う人は少ないが、これは食糧不足を招き、フランス革命に激烈な様相を作り出した。ジロンド派は、フランスの敵が増えるということは、自由の敵が増えるということだと、威勢のいいことを言っていたが、結局は我が身にも降りかかってきたというべきである。

デユムーリエ将軍の敗北、裏切りは、ジロンド派の没落に絡んで重大な事件ではあるが、今一つ理論的にすっきりと説明がつかない。貴族将軍、最初、勝ったので、絶大な名声を得た。それを背景に、大規模な腐敗、汚職事件を引き起こした。その関係者の名は本文に出てくる。その結果、軍隊の士気の低下、戦闘能力の急減を起こした。そこで負けた。そうすると、敵の将軍と話をつけて、パリを急襲し、国王夫妻を救出する計画を実行しようとした。失敗して逃亡した。大体こういう筋書きで理解すればよい。注目すべきは、この時逃亡した人物に、オルレアン公爵ルイ・フィリップがいることである。この人物は、後に7月革命で国王になった。つまり自由主義的大貴族、王族、革命軍の将軍の取り巻きになる。負けると、パリ襲撃、国王夫妻の救出に加担し、逃亡、約40年後に革命で国王になった。フランス革命にはこういう一面もある。

もう一つ重要な論点として最高価格制がある。多くのフランス革命史で、ジロンド派の追放を引き起こした原因が最高格制にあるとされてきた。しかしそうではないのだと私は言っている。はじめのころは、モンタニヤール議員でも、「それは過激だ」という意味で反対していた。今の日本人ならば、「まあ仕方がないか」くらいで賛成する。実際、ジロンド派議員も、最終的には賛成した。だからこの問題は、ジロンド派追放の原因にはならない。原因は別にある。

 

17-フランス革命史入門 第四章の二 国民公会の招集

二 国民公会の召集


国民公会の派閥

九月二〇日、ヴァルミーの会戦と同じ日に、パリでは国民公会が召集された。国民公会の議員は七〇〇名を越え、これがジロンド派とモンタニヤールと平原派の三大勢力にわかれた。ジロンド派は約一六五名の議員でまとまり、モンタニヤールは約一五〇名であった。中間の平原派が約四〇〇名であった。

ジロンド派とは、ジロンド県(県庁所在地はボルドー)から来た議員がはなばなしく活躍したので、その県の名前が派閥の名前になったものである。しかし、ジロンド派議員必ずしもジロンド県代表の意見どおりには動かなかった。せいぜいのところ、全国各地から集まる同じ傾向の議員の集合体であった。

モンタニヤールはモンターニュ派、山岳派とも呼ばれる。この一団の議員が、議場の高くなっている席に陣取ったから、その他の議員が彼らを見上げて、山にいるという意味であだ名をつけた。モンタニヤールとジャコバン派は混同される場合が多いので、正確にそのちがいを指摘しておかなければならない。

ジャコバンクラブは、これ以前から議会外の団体として続いており、はじめは、フイヤン派にもジロンド派にもこのクラブに参加するものがいた。国民公会が召集されたときでも、ジロンド派議員の多くがジャコバンクラブのメンバーであった。しかも一〇月一〇日までは、まだジロンド派議員がジャコパンクラブの指導権をにぎっており、ジャコバンクラブの議長はジロンド派議員のペチョンであった。その意味では、国民公会の召集から二〇日間は、ジャコバンクラブはジロンド派とモンタニヤールの両方を含むものであった。

一〇月一二日、ジロンド派指導者のブリッソがジャコバンクラブから除名された。これに続く内紛により、ジロンド派議員とその支持者がジャコバンクラブから脱退した。これ以後、ジャコバンクラブはモンタニヤールだけの支持団体となった。モンタニヤール議員は、積極的にジャコバンクラブでの討議に参加し、これを指導した。

ただし、あくまでジャコバンクラブは議会外の団体であるので、一般に使われる「ジャコバン派独裁」という言葉は、適当なものではない。ジャコパンクラブは権力機関ではなく、院外団体であるからだ。強いていうならば、モンタニヤール独裁というべきである。ただし、後にも説明するように、私はモンタニヤール独裁というものもなかったといいたい。

モンタニヤールとジャコバン派がまったく同一のものであるかというと、そうではない。有力なモンタニヤール議員の中に、ジャコパンクラブに加盟せず、その会議にも出席したことがない者がいる。それからみても、恐怖政治をジャコバン派独裁と呼ぶことは正しくない。

ジロンド派も小高い席に陣取り、その両派の間にはさまれた形で、中央の低い議席に、平原派議員が坐った。

ちょうど真中の平たい所という意味で、平原と名づけられた。また、沼地のように低い所という意味で、沼地派、沼沢派(マレ)ともいわれた。一人一人の議員が派閥を作らず、その時その時によってジロンド派やモンタニヤールに投票した。はっきりと自分の意見を発表する議員もいたが、保身の術を使い、重大なときに自分の意見を発表しない議員もいた。

その態度があいまいだというので、ジロンド派、モンタニヤール双方から批判されたときもあるが、数からいうと断然多いので、その票をどちらの側に獲得するかは、決定的な問題であった。「沼沢派の蛙」と馬鹿にしながら、その投票によって、まずジロンド派が孤立して没落した。平原派がモンタニヤールに投票している間は、恐怖政治が続いたが、やがてモンタニヤールは平原派と対立し、最終的にはモンタニャールが消滅して、平原派議員だけがのこった。

その後、彼らの手で恐怖政治が廃止されてしまう。その意味では、平原派こそが、フランス革命を一貫して生き続けたということができる。ほとんどのフランス革命史が、この平原派の役割を低めて、ジロンド派とジャコバン派で説明をしているが、これでは表面だけにとらわれて、内面を見ないことになる。本書では、平原派の役割を正当に評価しながら、これ以後の政争について解明していこうと思う。


ジロンド派指導者

ジロンド派は、ごく大ざっぱにいうと、大商人と銀行家の利益を代表した派閥であり、農村では大土地所有者の性格をもっていた。ただし、ジロンド派だけがこれら上層ブルジョアジーの利益代表者であったというわけではない。後でくわしく分析することになるが、平原派もまた、上層ブルジョアジーの一部分を代表する議員が多かった。

八月一〇日で打倒されたフイヤン派も、最上層のブルジョアを代表していた。フィヤン派とジロンド派のちがいは、領主的性格、特権的性格、寄生的性格のちがいであった。つまりは、ブルジョアジーの上層でありながら、貴族的性格の強かったものがフィヤン派であり、ジロンド派は、それの性格のうすい、ブルジョアジーそのものを代表していた。

ただし、のちに平原派とのちがいがでてくることを考え合せるならば、ジロンド派には、大商人、銀行家が多くても工業家が少なく、商業も消費物資に関連するものが目立っている。これが恐怖政治のときにどのような意味をもつかは、おいおいあきらかになるだろう。

ジロンド派の名がついたのは、ボルドー出身の議員がはなばなしく活躍したからである。ジャンソネ、ヴェルニヨー、ガデ、デュコ、ボワイエ・フォンフレード、グランジュヌーヴらであった。ボルドーの弁護士が多いが彼らを支え、また彼らと血縁関係で結ばれている者がボルドーの大商人、とくに貿易業者であった。

ボワイエ・フォンフレードは大船主でドミニカに農園をもち、同じく、ボルドーの大貿易商人ジュルニュの娘を母にもち、弟が織物の大工場主であった。デュコもボルドーの大商人で、ボワイエの義兄弟であった。ガデとグランジュヌーヴが弁護士で、ヴェルニヨーはボルドー高等法院議長の秘書、ジャンソネは医者の子で法律を勉強したが、革命まではまだこれといった職についていなかった。

パリのブルジョアジーを代表する者は、ブリッソとクラヴィエールであった。それぞれ大臣になった。また、ジロンド派議員はパリで特定のグループを作っていた。大商人ビデルマンの邸宅にはクラヴィエール、ペチヨン、ブリッソが集まった。インド会社理事ドダン夫人の邸宅には、ヴェルニヨーとデュコが部屋を借り、ここにブリッソ、クラヴィエール、ジャンソネ、ガデ、コンドルセなどが集まり、議会での対策を打ち合せた。

内務大臣ロランの夫人のサロンには、ブリッソ、ビュゾ、バルバルー、ガデ、ジャンソネ、ルーヴェなどが集まった。

ロランはリヨンを足場にしていた。法服貴族の父と貴族の母をもち、領地をもっていたが、マニュファクチュア検査官になってリヨンの商工業者の気分を知り、革命派となった。パリの彫刻家の娘と結婚した。はるか年下の妻であったが、ロラン夫人は美貌と才能の持主で、この時代社交界の花形となり、ジロンド派指導者にたいして影響を与えた。

マルセイユ地方を根拠地にしたジロンド派議員は、バルバルー、ルべッキ、デュプラ、マンヴィエーユであった。バルバルーはマルセイユの貿易商人の子で、ルべッキと親友であった。ルべッキはマルセイユのリキュール製造人、貿易商人であった。デュプラはマルセイユの絹商人であり、マンヴィエーユはアヴィニヨンの絹商人であった。

ジロンド派には、二人の有名な貴族が参加していた。一人は思想家として有名なコンドルセであった。彼は侯爵といわれているが、古文書では騎士の家系であるともいわれている。正式の侯爵であるかどうかは、ややあいまいである。彼は、ヴォルテール学派の大学者として有名であった。国王の逃亡のときにすでに共和制を主張し、シャン・ド・マルス事件ではラファイエットと対立し、国民公会では書記の一人に選ばれた。このとき、「ヴォルテール学派の偉人」が国民代表に選ばれたという讃辞が送られている。

フランス革命の第一段階がモンテスキューの思想に一致し、ジロンド派の時代がヴォルテールに一致し、つぎの段階がルソーの思想に一致するといわれているが、そのヴォルテールを代表する学者政治家であった。ただし、本人はどの党派にも属さないといって、ある程度の独立性を保った。ジロンド派が追放されたのちも、平原派のシエースとともに『社会教育新聞』を発行したが、結局はジロンド派の一員として処刑されることになる。

もう一人の貴族はイザルン・ド・ヴァラデイ侯爵である。これは名門の貴族であったが、国民公会でジロンド派と行動を共にした。ジロンド派と対立していたにもかかわらず、ジロンド派とみなされて追求された貴族に、シルリー侯爵(別名ジャンリ伯)がいる。彼も名門貴族で、叔父はルイ一五世の外務大臣をしたビイジュー侯爵であった。しかし国民公会の議員となり、ジロンド派と混合していた。彼はオルレアン公爵やジロンド派系のデュムーリエとの関係が深く、デュムーリエの反逆に関連して告発されることになる。


パリコミューンの打圧

一七九二年の末までは、だいたいにおいて平原派議員がジロンド派の側に投票していた。そのため、ジロンド派は与党であり、モンタニヤールは野党となっていた。国民公会がそのような状態になったから、パリコミューンと国民公会との対立もジロンド派の側に有利な方向で解決された。危機のときには、首都の権力を動かすかのようにみえたパリコミューンは、不利な立場に追込まれた。

九月一八日、パリコミューン総会が監視委員会に逮捕者のリストの提出を命じ、議会だけが人民の代表であり、その他は友人、使用人にすぎないと宣言した。その延長として、パリの関門を開き、取引所の再開を認め、囚人の生命の安全を保証した。九月二二日、パリコミューン総会は監視委員会の罷免を決定した。

このとき、エベールがマラを非難し、マラと監視委員会のメンバーが勝手に警察権を行使していると批判した。マラもこの日、自分の新聞に「これから新しいコースをとる」と予告して転向をにおわせた。敗戦の危機が去り、国民公会が召集され、人心が落着くと、今度は行き過ぎが批判の的になった。

国民公会の最初のころは、パリコミューンにたいする批判が最大の議題になった。とくに、九月二日の虐殺のときに、パリコミューンがブリッソの家宅捜査をおこない、ロラン、ペチヨンなどジロンド派幹部を逮捕しようとしたことについて、激しい攻撃がおこなわれた。こうした圧力により、パリコミューンは一一月二五日、改選させられた。このとき、ジャコバンクラブは反対せず、コルドリエクラブだけが反対した。

ただし、常にジロンド派が勝ったというわけではない。九月二五日、ジロンド派が連邦案を提出した。ジロンド派指導者は、八月一〇日と九月二日で発揮されたパリ市民の力をおそれた。ジロンド派の何人かは、あたかも自分達がパリ市民の奴隷になっているかのような思いを表明した。そこで、パリの役割を低め、フランスを連邦制に改組することを狙ってこの案を作った。当然、マルセイユやボルドーの地位が高められることになる。

しかし強国に囲まれているフランスが、そのような制度を戦争の時期にとるならば、フランスの自滅を招くかもしれない。ジロンド派の連邦案は、自分達の利害と執着を優先してフランス共和国の安全を脅かすものになった。このとき、平原派議員はモンタニヤールと同調して反対し、ジロンド派は破れた。のちにジロンド派の反乱が連邦派(フェデラリスト)の反乱と呼ばれる理由である。

この事件をみると、ジロンド派が常に優勢であったというわけでもなく、平原派が常にジロンド派に同調していたわけでもないことがわかる。平原派はそれなりに独自の原則をもっており、パリコミューンの抑圧には賛成

だが、連邦制には反対であるという立場をはっきりと表明している。

平原派を単なる日和見主義者と考え、受動的な人間ばかりだと思うと、国民公会の本質を見誤まる。彼ら平原派議員は、まとまった党派を組まなかったために歴史の表面には登場しないが、一人の議員としてみるならば、

それなりの原則があり、ときには勇敢でもあった。必ずしも、強い方になびくというだけの存在ではなかった。


政治的安定

一七九二年九月二〇日から年末までは、戦争は外国でおこなわれていて危機感はなく、経済的混乱もなく、したがって政治的安定が再びおとずれた時期であった。誰も、このつぎに恐怖政治が来るなどとは想像することが

できない。このままの状態で、過ぎていくと思ったであろう。マラすらも穏健な路線に転向したのである。

ジロンド派政権は自信をもって統治したから、フイヤン派系のブルジョアや貴族が帰国するのをあえてとがめず、とくに、同じブルジョアジーの仲間として、彼らの経済活動については安全を保障した。そのため、八月一〇日以後亡命したり身を隠していたブルジョアや自由主義貴族が、一〇月以後あいついで帰国し、もとの状態にもどった。

たとえ政治的に敗れたとはいえ、フイヤン派系のブルジョアや貴族は依然として大財産家である。とくにブルジョアとは、日常の取引で利害関係の共通する部分がある。ジロンド派議員は、そうした部分と積極的に結びついた。彼らがインド会社理事ドダン夫人の邸宅に集まったこともそれを示す。インド会社の特権を打破することには熱心であったが、特権を打破してしまったあとは、やはり大会社としての力を利用しようとするのである。


財政問題

この時期、財政の実権は、クラヴィエールと国民公会財政委員会議長カンボンの手にあった。カンボンはモンペリエの大商人で、地方的ブルジョアを代表しているが、平原派議員であり、恐怖政治のときも一貫して財政委員会議長の職にあった。彼の動向が、平原派の動向の一つのモデルとなっている。

この時期、彼はジロンド派と同じ政策を主張していた。それは、赤字財政を埋めるためにアシニアの増発に頼ることである。一一月の財政収入は二八〇〇万リーブル、財政支出は一億三八〇〇万リーブルで、赤字は一億一〇〇〇万リーブルであろうと予測された。収入にくらべて巨額の赤字である。しかし、カンボンはアシニアの増発に頼り、財政収支の根本的解決案を採用しようとはしなかった。

せいぜいのところ、礼拝予算の廃止、すなわち僧侶にたいする俸給の支払停止を要求しただけである。しかしそれにたいしては、かえってモンタニヤールの側から反対がでた。一一月一四日、バジールが「人民はまだ宗教を愛している。この法令を許すと、狂信をよびおこし流血は計りしれない」といって反対した。また、モンタニヤールの議員は、財政収入を改善するために新税の設置とか、公債の発行などいくつかの案を提出したが、この段階では問題にされず、カンボンとジロンド派の政策がすすめられた。アシニアの増発は、やがてインフレを激化させ、つぎの社会問題の火種を作ることになる。

同じ財政問題でも、ジロンド派が、平原派、モンタニヤールを含めたグループと対立した事件もある。それはこの時点での英雄デュムーリエ将軍をめぐる不正取引であった。陸軍大臣パーシュが、テュムーリエ将軍と前任の陸軍大臣セルヴァンの不正取引を暴露した。

デュムーリエは一連の御用商人と軍需物資の調達契約を結ぶとき、普通の御用商人の二倍から三倍の価格で支払い、その返礼としてわいろを受けとっていた。その御用商人の中に、デスパニヤック、ファーブル・デグランチーヌがいた。デスパニヤックは貴族高級僧侶でありながら、カロンヌ財務総監の取りまきになって投機をおこない、巨大な利益をあげた。いわば、旧体制の貴族とブルジョアを抱き合せたような人物であるが、革命に参加し、ジャコバンクラブの書記になり、ダントン、カーミュ、デムーランなどの革命家と親交を結んだ。戦争がはじまると、軍隊の御用商人となり、八月一〇日以後ダントンの仲介で陸軍大臣セルヴァンに接近し、有利な契約を結んだ。

ファーブル・デグランチーヌは旅芸人、劇作家であったが、革命とともにコルドリエクラブの活動家となり、八月一〇日の武装蜂起に参加し、ダントンが大臣になるとその秘書になりながら、同時に、軍隊の御用商人をはじめた。革命を利用して一攫千金を夢みた人物の一人である。そのほか、数多くの不正取引があり、これが財政赤字の大きな原因になった。

一一月一日、カンボンが演説し、彼ら御用商人の略奪行為が、「アンシャン・レジームの時代よりもさらに悪い」と弾劾した。同じく平原派議員で財政委員のドルニエがデスパニヤックの取引を調査し、彼が他の御用商人の二倍から三倍の支払を受けていることを暴露した。ドルニエの報告を、カンボンとモンタニヤール議員のジャンボン・サンタンドレ(恐怖政治の公安委員)が支持した。こうして、デスパニヤックを中心とした不正取引の御用商人と軍隊の支払命令官が逮捕された。

ところがジロンド派は将軍達と対立することを好まなかった。デュムーリエ将軍が抗議のために辞職を申し出たところ、ジロンド派がデュムーリエの味方をした。これに、ダントンを中心としたのちのダントン派議員チュリオ、ドラクロワ、ルコワントルなどが賛成し、結局ジロンド派の線で妥協が成立し、ダントンがベルギーに派遣された。派遣されたダントンは、デュムーリエ将軍をなだめて現職に留まらせるだけであり、デスパニヤックの不正取引は破棄されすに放置された。

この事件は、ジロンド派と平原派の中のダントン派の連合が御用商人と結びつき、国民公会の反対派、すなわちカンボン、ドルニエ(平原派)、モンタニヤールの勢力を押えつけたものである。恐怖政治の段階でこれが逆転し、やっと不正な契約が破棄された。この不正取引は、つぎの敗戦の原因として重要である。なぜなら、御用

商人が契約通りの物資をおさめないので、軍隊の食料、衣服、軍需物資が劣悪になってきた。そこで、義勇兵は

嫌気がさして故郷に帰った。彼らは自由に帰国できたのである。こうしてフランス革命軍の戦力が低下した。


穀物商業の自由をめぐって

殻物商業の自由は、ジロンド派とくに内務大臣ロランの主張であった。八月一〇日から九月二〇日にかけて、プロシア軍を迎え撃つために、軍隊への食料供給をめぐって穀物商業の自由が間題になった。なにしろ非常事態のときであるから、食料確保のためには非常手段をとらなければならない。九月四日、そのために穀物の強制買上げと公定価格を認める命令がだされた。ただし、これにはロランの署名がなかった。

九月一六日、穀物の徴発を地方行政当局に認める法令がだされた。こうして、戦線に近いところで穀物の強制徴発が実施された。このとき、倉庫を検査されたり穀物を公定価格で徴発された被害者は、農村の富農(大土地所有農民)、大借地農(大フェルミエ)、商人地主など一口にいえば農村の大土地所有者であった。もちろん、大きな直領地をもつ貴族もそれに該当する。

彼らは穀物を隠したり、先を見越して買占めたりしてこれに対抗したので、食料事情はかえって悪くなった。徴発された穀物が正しく分配されるならば、それほど大きな間題は起きなかったはすである。しかし徴発した側にも不正をおこなうものがいて、横領したり横流しをする者がいて、徴発政策を混乱させた。そのため、穀物の消費者の側からの不満も高まった。

この事態をとりあげて、ロラン、ブリッソ、コンドルセなどが穀物商業の絶対的自由を宣言した。ところが、こうしたジロンド派の動きにたいして、買占めを防止し、公定価格、強制徴発を強化するべきであるという意見がパリコミューンの指導者からだされた。彼らは、八月一〇日から九月二日にかけての非常手段を強行した者である。ジロンド派の主張する方向は、買占めを許すことによって、ブルジョアジーや大土地所有者を太らせることになると考えたのである。一一月一六日、ショーメットはパリコミューン総会で発言した。

「土地所有、穀物と食料に関するすべての所有は、条件付の所有である。その本来の所有者は消費者である。これらのものは、全体として共和国に属する。所有者は保管者、交換者にすぎない。もし貪欲のために、彼が全体に属すべき自然よりの賜物を倉庫にねむらせるならば、これは犯罪である」。

一一月二九日、パリコミューン総会とパリの各区の合同会議は、生活必需品の公定価格を要求し、ブルジョアジーが、アンシャン・レジームの貴族階級にとってかわって、人民を餓死させようとしているといった。

「富める資本家の同盟が、土地と産業のすべての資源を独占しようとしている。・・・・・・新しい貴族階級は、旧貴族の残骸の上に成長し、金持達の悪運強い上昇が起こっている。商業会社、金融業者はチュイルリーの暴君と同盟し、飢えによって人民を殺し、専制政治を再建しようとしている。革命は成功した。もはや革命は必要でない。

議会は入市税を廃止し、住民は生活条件を改善できるはずであった。しかし、議会が商業の自由を布告したため、その恩恵はなくなった。公安の名においてわれわれは諸君に要求したい。当局が生活必需品の価格設定の権利を再設することを」。

これにたいしてロランは、穀物の強制徴発や買占め攻撃の運動が、大土地所有者や普通の農民をおびえさせて、穀物が市場に現われないようにしたのだと批判した。せっかく小麦をパリにむけて送ってきても、パリコミューンの主張する運動によって、小麦の到着が妨害されるといった。ロランの主張によれば、パリコミューンの運動が穀物の姿を消させ、かえって食料危機を招くというのである。この主張に、平原派議員の多数が賛成した。

その結果、一二月八日、国民公会がロランの意見を取入れた法令を可決した。九月一六日の法令、すなわち穀物徴発の許可を定めた法律が廃止された。国内における穀物商業の絶対的自由を確認し、穀物の流通を妨害したり、妨害を煽動したりした者は死刑にするというものであった。このとき、モンタニヤールの議員は積極的に反対しようとはしなかった。ただ、条件をつけて承認をした。

それは、国家が危機に瀕したとき、強制徴発、強制買上げもやむをえないという立場と、人民の生存権を守るためには、穀物商業の統制が必要であるというものであった。こうした意見をモンタニヤールの議員が唱えたが、それにしても、ロランの方針にたいして、全面的に反対だというものではなかった。

こうした微妙な相違が、翌年に入って、食料危機をめぐる態度の相違へと発展するが、さしあたって、この時期は、国民公会全体が商業の統制や徴発政策に反対であり、これを主張したのは、議会外の活動家の一団であった。この系譜は、のちの過激派へと発展する。穀物商業にたいする態度についてまとめると、つぎのようになる。

ジロンド派は絶対的自由を主張する。過激派は厳格な統制を要求する。モンタニヤールは自由を承認するが、非常事態のばあいは別だという留保条件をつける。平原派は、一七九二年の末にはジロンド派の側に立ち、翌年の五月にはモンタニヤールの側に立つ。そのモンタニヤールも、翌年の五月には、非常事態を認めて過激派の主張を採用した。こうして、一七九三年五月四日、国民公会はジロンド派の反対を押し切って、最高価格制を布告することになる。


戦争拡大論の定着

フランス側が優勢であった戦争は、一七九三年に入ると逆転した。逆転した理由はいろいろあるが、まず御用商人の悪徳行為のために、軍隊の食料事情、待遇が悪くなり、士気が低下し、義勇兵が減少したためである。

第二に、フランスの敵国が増えたためである。まっさきに敵国の側に立った強国は、イギリスであった。イギリスは、フランスに先がけてピューリタン革命と名誉革命をおこない、立憲君主制のもとで、ブルジョア支配の体制を維持していた。そのため、フランス革命を、はじめのうちは歓迎した。自国と同じ状態の国家がフランスにできることについて、好意的な目でみていたのである。そこまでは、絶対主義にたいするブルジョア国家同士の親近感が優先していた。

ところが戦勝に気をよくしたフランス革命政府は、しだいに征服政策、膨張政策をすすめ、これを一種の世界革命論的なイデオロギーで正当化した。その結果、一一月一九日、諸国民の解放戦争を支持するという声明をだし、一一月二七日にはサヴォワ領をフランスに合併した。

一一月一六日には、ベルギー領を流れるエスコー河の航行の自由を宣言し、フランスの艦隊を入れた。これは、長年守られていたオランダの中立にたいする脅威になった。オランダの利害は、そのままイギリスの利害であり、イギリスは、オランダをフランスが征服することにたいしては我慢がならなかった。こうして、フランスとイギリスの間は険悪になり、イギリス側からの経済制裁がおこなわれ、戦争へすすんだ。イギリスのピット首相は、フランスの側から宣戦を布告するよう仕むけた。

こうして、一七九三年二月一日、ブリッソの提案で、国民公会はイギリスとオランダにたいして宣戦を布告した。ただし、戦争問題に関しては、必ずしもジロンド派対モンタニヤールの図式ができたわけではない。はじめのころは、これほど目ざましい勝利が続くとは思っていなかったので、ジロンド派といえども占領地を維持し、ここに反封建の革命を起こさせながらフランスに合併する政策は、冒険のように思われた。

ジロンド派のラスルス、ルーヴェなどは、外交委員会で占領に反対した。しかし同じジロンド派のクラヴィエールは、積極的に領土を拡大することを主張した。当時平原派にいたダントンとドラクロワは、占領地から国王を追放し、自由を実現するという名目のもとに、積極的に革命を国外に拡大することを要求した。

同じく平原派にいたクローツは、一種の世界革命論的な理論から、ドイツにむかって進撃することを主張した。

クローツはドイツから亡命してきた銀行家であり、同じくドイツ系銀行家プロリやワルキエなどとともに、革命を自分の故郷にまで広めようとしたのである。そうすれば、彼らは勝利者として帰国できる。クローツもダントンも、しだいにモンタニャールに接近し、ジロンド派から離れていく。

モンタニヤールでもジャコバンクラブでも、戦争の問題は分裂していた。ジャコバンクラブでは、ロベスピエールが戦争の継続に反対し、軍事作戦をあるところで止め、外国の反革命勢力との闘争にまきこまれないよう主張した。貴族出身のデュボワ・ド・クランセは、積極的な征服論を展開して対立した。戦争が調子よく進むとモンタニヤールの中でも、戦争反対論を強調する根拠が見失われた。

ジロンド派の征服反対論者も、反対論を展開する機会を失った。国民公会からだされたのが、ヨーロッパ諸国民の自由のための闘争を軍事的に支持するという声明であり、事実上の解放戦争の宣言であった。この提案をおこなったのは、ラ・ルヴリエール・レポーである。戦局が苦しいときは慎重論がそれぞれの派閥の中にあったが、戦局が有利に進みはじめると、戦争拡大論が人心を捕えた。ジロンド派の反対論者もモンタニヤールの反対論者も押し切られ、時の流れに流されたというべきであろう。

ルイ一六世の処刑のためスペイン王国との関係が緊張した。一七九三年三月七日、国民公会で平原派のバレールが、「フランスにたいしてもう一つ敵国ができることは、自由の勝利がもう一つ増えることにすぎない」と演説し、熱狂のうちに、スペインにたいする宣戦布告を可決させた。ブルボン王家の支配するナポリ王国が、フランス共和国の大使を拒否したところ、国民公会はフランス艦隊を派遣して屈伏させた。このようにして、自信をもったフランス共和国は、ヨーロッパの強国を軒並み敵にまわし、第一次対仏同盟をつくらせたのである。


国王の裁判をめぐって

この間に、ルイ一六世の裁判が国民公会で進行した。これは重大な問題であったので、長い討議と一人一人の議員の指名点呼による票決をおこなった。最終的に三八七対三三四の少差でルイ一六世の無条件死刑が決定された。王の無罪を主張する者はいなかったが、王の命を助けようとする者は、死刑に条件をつけたり、禁固刑を主張したり、国民公会の決議ではなく人民の投票にゆだねるべきであるという意見をもって、処刑の引きのばしをはかった。

この問題で公会議員の性格がある程度あきらかになる。のちに議員の伝記ができたときは必ず処刑派か人民投票派かが書かれることになる。国王の処刑については、モンタニヤールが積極的に主張し、ジロンド派の多数が反対し、平原派の議員は二つに割れた。ただしジロンド派の中にも死刑を主張した者がいる。イスナール、バルバルー、ジャンソネなどである。そのため、国王裁判についての態度は、ジロンド派とモンタニヤールを分ける指標にはならない。

ルイ一六世は、一七九三年一月二一日、ギロチンにかけられた。ルイ一六世が有罪とされるにいたったもっとも大きな根拠は、チュイルリー宮殿の秘密の押入から発見された書類である。ここに、作戦計画をオーストリア側に内通していた証拠書類がみつかったのである。

この秘密の押入は、国王出入りの錠前屋ガマンに作らせた。そのあと、国王夫妻がタ食をごちそうした。ガマンは家に帰って、猛烈な下痢をしたという。彼はこれを毒殺の計画であると考え、そのまま姿を消していた。王権が転覆されてから、復讐のために、この秘密の押入のありかを国民公会に通報したのであった。 

要約 第四章 ジロンド派の時代 二 国民公会の招集

この節の最も重要な要点は、国民公会の派閥を正確に把握することである。いわゆるジロンド派、これに対立するモンタニヤール(山岳派、モンターニュ派、通称ジャコバン派)に加えて、中間派(中央派、平原派、沼沢派)があること、概算、中央派が400名、左右がそれぞれ約150名と整理する。(ジロンド派が多少多い)。歴史の新興の具合をまとめると、まずジロンド派が追放され、20-30名が死刑になった。一年後に10人のロベスピエール派が死んだ。そのあと、ジロンド派の生きのこり約7080名が復帰して、モンタニヤールを消滅させた。ただしモンタニヤールの十数名は転向して、政権にとどまった。このような形で、フランス革命は進行した。だから、中央派の400名は、いかなる時でも、万年与党であった。これを主張することが、私以前の歴史家と違うところです。

通説では、ジロンド派がブルジョアジーの党派と言われるが、そうではなくて、平原派も同じだという。業種別、その他の事情で、支持する党派が違ってくる。従来のフランス革命史では、ジロンド派だけを取り上げて、ブルジョアジーの党派だとした。ここに間違いがあった。もちろん、ジロンド派という呼び名も間違いだということ、これは私が繰り替えぢ書いているが、今はこう書くしかないので、私も書いています。

1792920日から年末までは、つかの間の安定があり、過激な人も穏健派に転向した。こういう時期もあったと、公平に見ようという努力をしている。

戦争問題についても、私独自の見解があります。フランス革命の致命的欠点は、イギリスとの戦争へと拡大したことにある。拡大しないために、オランダに脅威を与えないこと、これを守るべきであった。そうすれば、フランス革命の成果を維持できたはずだというのが私の見解です。