2022年3月25日金曜日

27-フランス革命史入門 第七章の一 革命史を長期的にみると

 第七章 フランス革命をどのように理解するべきか


一 革命史を長期的に見ると


総裁政府からナポレオンの帝政へ

ここでフランス革命が終ったといえる。ちょうど八月一〇日以後の時代にもどった。それはブルジョア共和国であった。それにふさわしい憲法が、八月二二日「共和国憲法」として制定された。普通選挙から制限選挙に逆戻りした。選挙人は約三万人に限定された。議会は上院の古老院と下院の五百人会議にわかれ、議会から五人の総裁が選出され、総裁が行政権を握った。議院内閣制であったが、こういう制度のもとでは、ブルジョアジーと大土地所有者の代表者が絶対的に有利であった。

一〇月、総裁政府が成立した。総裁の顔ぶれを見よう。バラはマルセイユへの派遣委員の時代はテロリストであったが、公金横領で新興成金となり、ウヴラールを保護した。名門貴族出身の新興成金として特異な存在であり、「バラの王」といわれた。

ルーベルは弁護士出身でモンタニヤールに属し、派遣委員のころに新興成金となった。御用商人との結託がもっともあきらかな人物であり、無節操とはいわれていたが、総裁政府では信用があった。

カルノーは「勝利の組織者」であり、恐怖政治の生き残りではあるが、純軍事的な意味からその地位に残った。

ラ・ルヴリエール・レポーはジロンド派議員の生き残りである。ルツルヌールは平原派の有力者であった。総裁政府は、モンタニヤールからの転向者と平原派、ジロンド派の抱き合せであった。

この年の八月には、フラン銀貨を木位貨幣と定め、リーブルの呼称をフランにかえた。翌年の三月にはアシニアが廃止された。こうして革命の紙幣が消滅した。

一七九五年一〇月三日、ヴァンデミエール事件が起こった。これは王党派貴族が反革命暴動を起こし、三日間にわたって議会を襲撃した事件である。このころになると、下層民の中に革命への幻減が広がり、王政をなつかしむ傾向がでていた。そのため、貴族の反乱も強力なものになった。議会と政府が危うくなったので、総裁バラは、かつての友人ナポレオン・ボナパルトに軍隊をまかせ、その手腕によって鎮圧させた。ここで、ブルジョアジーの救世主としてのナポレオンの名声が上った。ナポレオンはロペスピエール派として一時投獄され、釈放されてからは地位を求めてバラに接近していたのである。

翌年の五月、ジャコバン残党を組織して、平等主義あるいは一種の共産主義的思想で反乱を起こそうとする計画が発覚した。これをバプーフの陰謀という。しかし、警察を握るフーシュの手腕によって、未然に摘発された。

総裁政府のはじめは国外で戦勝を続けた。フランス軍は革命初期の精神をすてて、征服地の略奪、搾取をおこなった。兵士の貧困をその方向にそらせたのであるが、同時に将軍や将校はこのため大財産家になった。ナポレオンもそうして大財産家になり、文字通り、ブルジョアジーの将軍ができあがった。

総裁政府の末期、一七九九年敗戦がはじまり、議会でジャコバン派が勢力を増した。六月に累進強制公債の徴収が布出口され、ランデが総裁に選出され、ジャコバンクラブが再建された。ジャコバン派は、昔の夢の再現に張りきったが、ブルジョアジーは過去の悪夢に恐怖した。そのうえ、今度のブルジョアジーは、革命の鉄火をくぐりぬけて来たしたたか者で強化されている。彼らは「切れ味の良いサーベル」を求めて、この危機をさけようとした。

銀行家ペルゴとルクツーは、手紙をエジプトにいるナポレオン・ボナパルトに送った。ナポレオンは帰国し、彼らと密談をしたうえで一七九九年一一月九日(プリュメール一八日)のクーデターを敢行した。ジャコバン派を追放し、議会を解散し、統領政治を実現した。ペルゴ、ルクツーをはじめ大ブルジョアが献金して、このクーデターを支援した。本質的には、大ブルジョアジーの軍事的独裁であった。その政権のもとで再び戦争に勝ち、一八〇四年五月にはナポレオンの第一帝政が出現した。


王政復活から七月革命へ

第一帝政の本質はブルジョア政権であったが、中世的なヨーロッパ諸国を支配する必要もあって貴族的権威で権力をかざる必要に迫られた。この必要からも、亡命貴族にたいして積極的に帰国をうながした。亡命貴族も、財産を取り戻す必要からあいついで帰国した。主としてフイヤン派系の名門貴族が帰って来た。彼らは、ブルジョアジーと縁組その他で混合していった。ウヴラールの娘は、ロシュシャール公爵の息子(リシュリュー公爵家の相続人)と結婚した。もと司教のタレイラン公爵は外務大臣になった。上院として元老院がおかれ、ここに昔の名門貴族とブルジョアが同居した。

貴族的色彩の強いブルジョア帝政が実現した。貴族の爵位は復活し、旧貴族は昔のとおりに呼ばれたが、そこにブルジョアが仲間入りした。フーシェはオトラント公爵となった。皇帝のまわりをフイヤン派系の高級貴族が取りまき、昔の王室に似た形式が復活した。ただ、皇帝の宮廷生活の中にブルジョアが入りこんだので、新しい、ブルジョア出身の貴婦人ができた。彼女らは行儀が悪く、人前でガスをだしたので、「マダム・サンジェーヌ」(無遠慮な婦人)と呼ばれた。宮廷貴族の官廷から、ブルジョアと貴族の混合する宮廷への変化である。

ナポレオンが敗北して外国軍がフランスを占領し、亡命貴族が帰国した。この亡命貴族は、バスチーユ占領のときに亡命した宮廷貴族の本流である。王位を復活させたルイ一八世は、亡命貴族にかこまれて権力の座についた。亡命貴族と高級僧侶は、領主権の復活、十分の一税の復活、国有財産売却の破棄、旧所有者への返還を主張した。要するに絶対主義の復活である。

こうすれば、またもや革命がおきるという教訓を忘れていたのである。ただ、自分の利益だけは忘れなかった。これをタレイランが、「彼らは何事も学ばす、何ものも忘れなかった」と批評した。

ブルジョアジーから中間層にいたるまでの反感が高まった。銀行家や工業家がナポレオンの復活を援助し、百日天下になった。しかしワーテルローの会戦で敗れ、第二王政復活がおこなわれた。またもや、ブルジョアジーの力が後退して、再び旧貴族の権力が復活した。しかし百日天下の教訓もあり、亡命貴族の無制限な要求は阻止された。外国も、ルイ一八世も、慢性的な騒乱を恐れて、現状維持につとめた。いわば妥協の産物であり、旧貴族とブルジョアの連立政権のような性格になった。

領主権や十分の一税は復活させず、国有財産売却の有効性を認めた。絶対主義への完全復帰を要求する亡命貴族の一派は、野党的な立場となり、極端王党(ウルトラ)を組織して、国王に対立したままであった。「王よりも王党的な」野党になった。ただ、亡命貴族にたいして没収売却された土地の買受価格を基準にした補償がおこなわれた。これで、亡命貴族が土地(主として直領地)を失ったとしても、それに相当する公債の所有者となり、大貴族は大ブルジョアにかわった。

ルイ一八世が死に、王弟アルトワ伯が即位して、シャルル一〇世になると極端王党の勢力が強まった。この中心はポリニャック太公であった。マリーアントワネットの寵臣ポリニャック公爵夫人の息子である。彼は絶対主義再建をめざす宮廷貴族に支持されて、議会の権限を削減しようとした。ここで一八三〇年、七月革命がおこり、シャルル一〇世は退位させられた。かわって王位についたのはオルレアン公ルイ・フィリップであった。彼のかつぎだしに尽力したのは、タレイラン公爵とラファイエット侯爵であった。いわば、バスチーユ占領直後のような状態になった。

このまわりをラフィット(ペルゴの後継者)、カジミール・ド・ペリエ(クロード・ペリエの子)のような銀行家、大工業家が固めた。彼らは革命的銀行家と呼ばれていたが、まずラフィットが首相になり、つぎにカジミール・ド・ペリエが首相兼内務大臣になった。「オート・バンクの支配人」が実現し、宮廷貴族の力は最終的に排除された。フランス革命の成果は、七月革命で完全に落着いたといえる。

要約 第七章 フランス革命をどのように理解するべきか 一 革命史を長期的にみると

モンタニヤールの消滅と並行して、恐怖政治の政策は全廃された。共和国憲法は制限選挙制に戻り、普通選挙制は廃止された。総裁政府は、ジロンド派、平原派、モンタニヤールの生き残りで構成された。この政権は、王党派反乱の撃滅、アンギアン公爵の処刑でコンデ大公家を断絶させた。他方でバブーフの陰謀を摘発して、左翼の運動を抑えた。ブルジョアジーの権力を安定させたが、産業構造の変化、ビジネス環境の変化があり、実業家の中で、軍需物資調達業者の急成長がみられた。これと組んで、将軍たちの中から新興成金が出てきた。この両者の癒着、汚職が軍事力の弱体化を招いた。

そこにナポレオンが登場した。彼を呼び戻して統領政治に押し上げた人達が、ペルゴとルクツーだと説いて、この二人の経歴、役割を説明する、こういう歴史の説明をしたのは私一人である。フランス人でも知る人はいない。

ナポレオンが敗北して、王政が復活し、七月革命で銀行家の支配と言われる時代を作り出した。フランス革命の成果は七月革命で完全に落ち着いたと書いている。これで間違いはないと思うが、フランス革命はナポレオンの出現で終わるという人も多い。フランス革命に七月革命を含める人はいない。だから常識に従って、そのように定義すると、言いにくいことだが、「フランス革命は未完の市民革命、敗北した市民革命、フロンドの乱と同じ」というしかない。(これを聞くとフランス人は怒るだろう)。どちらを取るかという問題です。


26-フランス革命史入門 第六章の三 モンタニヤールの消滅

 三 モンタニヤールの消減


ジャコバンクラブの終末

ロベスピエール派が敗北したあと、たちまち効果があらわれた。人民委員会は解散させられ、そのメンバーは逮捕された。反革命容疑者の釈放を拡大する法令が、八月にだされた。

「反革命容疑者は大群をなして牢獄からでていった」といわれた。投獄されていたインド会社役は、テルミドール事件を「正義の日」といった。パリコミューンは国民公会の統制下におかれ、パリの官吏は国民公会から任命されることになった。ロベスピエール派の社会政策は、日の目をみることなしに消え去った。

多くの革命史では、このテルミドールの反革命をもって恐怖政治の終了、あるいはフランス革命の終結とみなしている。しかし、まだ恐怖政治の政策は完全には廃止されていない。最高価格制も穀物徴発政策も廃止されていない。それらが終るのは、もうすこし後のことである。まだ、モンタニヤールのほとんどは政権の座にいる。その意味では、テルミドールの反革命は、せいぜいのところ、ジロンド派追放以後の時点にもどしただけである。まだ恐怖政治の執行者の勢力は残存している。

これにたいして、平原派の実力者とモンタニヤールからの転向者が攻撃を加え、政権の座からモンタニヤール主流を引きずりおろした。その闘争が約二年続く。

七月二九日、ジャコバンクラブが再開された。ロベスピエール派が消えたとはいえ、まだジャコバンクラブは力をもっていた。これを指導したのはカリエであった。彼はナントへの派遣委員となり、そこでヴァンデーの反乱者にたいする極刑をおこない、僧侶を川に沈める「溺死刑」で有名になった。パリに呼びもどされるとエベール派に接近したが、追求はされなかった。カリエは、ジャコバンクラブから、タリヤンなどの転向者を除名した。

カリエはロベスピエールの後継者、ギロチンの騎士と呼ばれた。それでいながら、ロベスピエール打倒には活躍し、「暴君を殺せ」というカリエの呼び声がとくにめだっていたのである。ロベスピエール打倒といっても、いろいろな立場からの打倒があった。

完全に転向したタリヤン、メルラン(チオンヴィル出身)、フレロンなどの腐敗議員は、ブルジョアの子弟を集めて「金ピカ青年隊」を組織し、ジャコバンクラブ員を襲撃させた。この争いを続けさせておいて、国民公会でジャコバンクラブの解散を提案した。結局、一一月二二日、国民公会はジャコバンクラブの閉鎖を決議した。

カリエは告発され逮捕された。ここでジャコバンクラブは終りを告げた。


ジロンド派の復帰

七月二八日、国民公会の諸委員会を、一カ月ごとに四分の一ずつ改選することにした。八月二五日、カンボンの提案で行政権を一二の委員会に分散させることにした。これによって、公安委員会に集中していた行政権が奪われた。軍事委員会が軍隊を動かし、立法委員会が法律の作成と執行に大きな権限をもつようになった。立法委員会が、以後とくに大きな権限をもつが、議長はカンバセレスで、ここの委員は一人を除いてあとはすべて平原派であった。

九月一日、公安委員会が改選され、バレールと二人のエベール派の保護者ビュー・ヴァレンヌ、コロー・デルボアが除かれた。バレールは平原派議員で公安委員会の実力者であった。しかし、カメレオンというあだ名があるように、日和見をきめこみすぎた。ロベスピエールの全盛期に、ロベスピエール派に接近しすぎたために、平原派の信用を失ったのである。

かわって公安委員会に入った者は、ギュイトン・モルヴォー、フルクロワ、メルラン(ドウエ出身)である。ギュイトンはジロンド派追放の前後にわたって公安委員であったから、九三年春の段階にもどったことになる。翌年に入ると、公安委員会はモンタニヤールを完全に排除した。

こうした動きと並行して、モンタニヤールにたいする攻撃が、平原派やモンタニヤールからの転向者によっておこなわれた。すでに八月二九日、コワントル(ヴェルサイユ出身)が、コロー、ビョー、アマール、ヴァディエなど旧保安委員会と旧公安委員会のメンバーを、ロベスピエールの共犯者として告発した。この告発が続いて、バレールも共犯者に加えられ、彼らを未決拘留とするかどうかが審議された。

ジロンド派議員の呼びもどしもおこなわれた。一〇月二二日、これをめぐって激論がおこなわれた。モンタニヤールのグージョンが反対したが押しきられ、翌日からジロンド派議員が釈放され、一二月八日には国民公会に復帰した。

いまや立場が逆になり、旧公安、保安委員会のメンバーを告発する委員会の議長に、ジロンド派のサラダンがなった。一一月、ランデが穀物最高価格制の新体系を提出したが、タリヤンが反対し、ルジャンドルも反対を続け、一二月二四日、最高価格制と統制の廃止が決議された。これで商業は自由となった。買占め禁止法や穀物の徴発政策は撤廃された。

政府は食料の供給について、御用商人を保護するとともに、有力銀行家ペルゴを、商工業と輸入の振興のための審議会に迎え入れた。ペルゴは恐怖政治の時代スイスへ逃げていた反革命容疑者である。これに政府をまかせることは危険だと、モンタニヤールのデュアム、グージョンが反対したが、押しきられた。

平原派のボワシ・ダングラは、一七九四年一二月二七日、経済統制解除とともに、それに従事していた官吏を大幅に削減することをうちだした。人件費を節減して、商工業にまわすというのである。こうして、多くの革命家が失業した。

財政委員会では、カンボンにかわってジョアノが実権をにぎった。カンボンは地方商人であったが、ジョアノは大工業家、パリの大商人であった。ジョアノは交戦国国民の財産を返還することを打ちだした。こうして、平原派の中でも勢力の交代が起こり、カンボンのすすめてきた方針までも撤廃し、いわばジロンド派時代の政策にたちもどることがすすめられた。


ジェルミナルの暴動

全面的に恐怖政治の経済政策を廃止しようとする平原派の本流と、これに対抗するモンタニヤールの主流、平原派の中でのモンタニヤールの同調者(バレール、カンボン)が対立した。ただ、この闘争は、もはやブルジョアジー対サンキュロットの闘争というべきものではなくなった。大ブルジョアジーにたいする、中流のブルジョアジーの闘争であった。

モンタニヤールが押されて、ついに旧公安、保安両委員の起訴について討議がおこなわれているとき、またもや飢餓暴動がおきた。統制が解除されたために、物価が暴騰した。国立軍事工場が民間に払下げられたために、人員整理がおこなわれて、失業者が増えた。パリから燃料と食料が無くなった。ただし、今度は絶対的に無くなったのではなくて、金をだせば手に入れることができたのである。食料不足は下町だけにおこった。飢えと寒さから自殺者が相ついだ。これが一七九五年の冬から春にかけてのことであった。

この群集を、モンタニヤール議員が煽動した。一七九五年四月一日(ジェルミナル一二日)、パリの貧民が国民公会に侵入し、議事堂の外にも群集があふれた。彼らが「パンを!パンを!」と叫んだ。これを背景に、デュアム、シュディユーなどモンタニヤール議員が、平原派の政策に反対する演説をおこなった。

しかし、平原派の握る保安委員会と軍事委員会が軍隊を議事堂のまわりに集結した。タリヤン、ルジャンドル、ケレヴェルガン(ジロンド派)などに率いられた軍隊が銃剣で群集を解散させた。これがジェルミナルの暴動であり、これは失敗に終った。このあと、モンタニヤールにたいする追い撃ちがかけられた。

バレール、ビョー、コロー、ヴァディエの流刑が決定された。ヴァディエは逃亡した。約一〇人のモンタニヤール議員の逮捕が決定された。カンボンは逃亡、潜伏した。この事件のあと、国民衛兵の中で反乱に加わった者から武器を取上げた。これ以後の国民衛兵は自費で武装するものと定めて、完全なブルジョアジーの軍隊に作りかえた。

対決は約一カ月半のちに、もう一度おこなわれた。同年の五月二〇日(プレリアル一日)におこなわれたので、プレリアルの武装蜂起と呼ばれる。このときのスローガンが、「パンと九三年憲法」であった。

このころ憲法の審議がおこなわれており、こののちに来る総裁政府の政治体制が作られていた。モンタニヤールの残党は、九三年憲法の完全実施を主張して抵抗した。ロム、グージョン、デュケノワ、チュリオ、デュアムなどであった。これにたいして、メルラン(チオンヴィル出身)は「まだやっつけるべき四〇人ばかりのゴロツキがいる」といった。


プレリアルの暴動、パンと九三年憲法

食料不足があいかわらず続いた。とくに下町のサン・タントワーヌ街の労働者が、革命への幻減をあらわした。

「われわれは革命のためにささげた儀牲のすべてについて、後悔しはじめている」

「商業で盗賊行為をおこなう数千の投機業者の支配下にあるよりは、一人の王の専制政治の方がまだましだ」

「革命以来、貧しい階級の者が手に入れた成果はなんであったか。金持の軽蔑と、憲法にもとづく政府の抑圧である」。

この意見がパリの貧民の最後の政治的結論であった。五月二〇日、指物師のリシエが宣言した。

「ロベスピエールの支配の時期は血は流れたが、パンに不足はなかった。今は血は流れないがパンはない。パンを手に入れるために、血は流されなければならない」。

五月二〇日、警鐘がサン・タントワーヌ街とサン・マルセル街に鳴らされた。婦人がかけまわって武装した男を呼び集め、国民公会に行進した。彼らは国民公会に乱入して、抵抗した一人の議員の首を切り、議長のボワシ・ダングラにつきつけた。

この群集を背景に、モンタニヤール議員が、さきに逮捕されているモンタニヤール議員の釈放を要求し、平原派中心の保安委員会の解散を要求した。多くの議員は、帽子をあげてモンタニヤールに賛成した。

しかし、その間に政府の側は軍隊をかき集めた。議員のルジャンドルとケレヴェルガンが、司令官ラッフェとともに兵を率いて議場に突入した。ラッフェは倒れ、ケレヴェルガンは負傷したが、群衆は追い出された。群衆が追いだされると、モンタニヤール議員にたいして逮捕令が可決された。

翌日、サン・タントワーヌ街でもう一度武装蜂起がおきたが、もはや指導者も組織も不十分で、うやむやのうちに解散した。つぎの五月二二日、国民公会の側は財産をもっている者一人一人を選別して軍隊を編成し、五万人の大軍と三〇〇〇人の騎兵を集結して、サン・タントワーヌ街を包囲した。

「パリはこの瞬間一つの兵営と化した」。

サン・タントワーヌ街は陥落し、反乱の指導者としてサンテール(ビール醸造業者、二年前の国民衛兵司令官が逮捕された。牢獄は満員となった。モンタニヤール議員の処刑が続いた。こうして、ついにモンタニヤールが滅んだのである。

この反乱は、カンボン、チュリオ、デュアムが計画したものであるといわれたが、はっきりとした目標をもった反乱ではなかった。貧民の自然発生的な暴動がおこり、これが成功しそうになったときに、それに乗ろうとしただけであった。もはや、あいつぐ粛清で組織が弱体化し、一流の人物はつぎつぎと姿を消したので、運動も整然としたものにはならなかった。


恐怖政治の全廃

モンタニヤールが一掃されたので、社会制度は完全に逆もどりした。財政委員会のジョアノの努力で、株式市場の再開、商業取引所の再開がおこなわれた。処刑された者の財産が返還されることになった。処刑されたジロンド派議員の遺族にたいしても、補助金が与えられた。カンボンが国債利子の支払を停止し、三〇〇〇リーブル以上の年金を切捨てたが、これも撤回されて元どおりになった。

こうした政策により、大ブルジョアジーの財産は回復され、彼らの活動は昔どおりにおこなわれるようになった。五月三一日、革命裁判所が廃止された。恐怖政治の検事総長フーキエ・タンヴィルが処刑された。ジロンド派の反乱に参加して亡命していた者が、続々と帰国した。帰国した者は亡命者リストからはずされ、接収された財産は返還された。また、帰国しない者についても大赦令をだした。

この政策で、とくに貿易商人、問屋商人、工業家が多数もとの財産を回復した。財産がすでに横領されたり国家によって使われてしまったばあいには、それに相当する補償金が与えられた。ジロンド派議員イスナールは逃亡潜伏して死んだといわれていたが、国民公会に復帰した。彼の商店と工場にたいする補償として、約一五万リーブルが交付された。

こうして大ブルジョアジーの社会的存在は続いた。決して、恐怖政治によって断絶させられたわけではない。

ただし絶対主義にもどったわけではないから、亡命貴族のほとんどは帰国しなかった。亡命貴族の財産は国有財産としてまだ売りにだされていたが、これを正貨を基準にして売却することにした。もはや、アシニアの価値を維持することはどうでもよくなった。この政策で、国有財産は大財産の所有者でなければ手に入れることができなくなった。

六月に入ると、アシニアの切下げをおこなった。政府自身がアシニアの価値下落を公認したことになり、これでいままでは潜在的に進行していた物価上昇が公然としたものになった。物価は暴騰した。

これをおおまかな数字でとらえてみると、小麦の値段が、一七九三年八月つまり恐怖政治のはじまるころを基準にすると、一七九五年の四月すなわちジェルミナルの暴動のときには約四倍に上っている。しかし、それから半年後の一〇月には三二倍に上り、翌年の一月には三二〇倍へと暴騰している。ジェルミナル暴動のときから、九ヵ月で八〇倍の物価上昇である。猛烈なインフレーションが恐怖政治の終了とともに発生した。

国民公会は、こうしたインフレをおこしながら、国庫と大土地所有者をインフレーションから守ろうとした。

そのため租税と小作料の現物支払を命令し、官吏の給料は物価上昇率に合せて引上げた。こうした政策で、ブルジョアジーと大土地所有者は保護されたが、その犠牲は中間層から以下に伝嫁された。当然、不満暴動がおこるはずであるが、それよりもさきに、ブルジョアジーの側からするジャコバン派への迫害がはげしくなった。各地でジャコバン派の活動家が大量に虐殺された。ジャコバン派への迫害については、平原派議員もジロンド派の生き残りもともに熱心であった。昔商人を非難したという告発だけでも、迫害の対象になった。


大ブルジョアジーの完全支配

こうして、大ブルジョアジーの完全支配がもどって来た。ただし、この大ブルジョアジーは、革命前とまったく同じというわけではなかった。ある者は引き続き上昇し、ある者は革命中、あるいはその後の身の処し方でつまずいたり、脱落した。なにしろ激動の時代である。ブルジョアといえども、本人の才覚によって経営に成功しなければならない。

ペルゴ、ルクツーのような銀行家はますます成功した。ヴァンデル、ディートリックの遺族は工場を取戻し、鉄鋼王として発展した。しかし、大商人ビデルマンの経営は失敗して下り坂になった。その反面、ビデルマンの協力者ジョアノ、オディエ、ダヴィリエは成功し、とくにオディエは大工業家、銀行家となり、ダヴィリエの銀行はオート・バンク(上層銀行)に発展した。ラヴォアジエの財産は未亡人に返還された。彼女は上流階級の人間として残ったが、ラヴォアジエの事業は止まった。

他方、旧来の大ブルジョアと肩を並べるほどに、新興成金が上昇してきた。革命中のどさくさにまぎれて、一攫千金のチャンスを握った者である。政治家ではフーシェ、バラ、タリヤン、メルラン(チォンヴィル出身)、カンバセレスなど多くの者がいる。彼らは、たとえ昔恐怖政治をおこなったとしても、大財産をもち、ブルジョアとして生活をしているかぎり安全であった。そこには割切ったものがあった。

政治家以外にも新興成金が無数に現れた。その最大の者はウヴラールであった。彼は紙工場主から出発して投機で莫大な財産を作り、タリヤン、バラと結びついて軍隊の御用商人となり、最大級のブルジョアになった。

テレザ・カバリュスは、はじめクリヤン夫人となり、バラの愛人となり、つぎにウヴラールの夫人になった。

彼女は美人であり、社交界の花形であったから、「テルミドールの聖母」といわれた。モンタニヤールのデュアムはいった。「作家のいい方を使うなら、つぎのようにいうことができる。すべては、カバリュス夫人の閨房に結びついている。彼女の父は、サン・シャルル銀行の創設者で、われわれの財政を支配し、タリヤンをして、最高の愛国者を攻撃させた。」そのタリヤンが落ち目になり、総裁政府の時代「バラの王」といわれた総裁バラの全盛期には、バラの愛人となった。つぎに最大級の財産家、御用商人ウヴラールへと、割切った転身をつづけた。最大の御用商人と、カバリュスのサン・シャルル銀行の結合である。新興成金と旧来の大銀行の結合の象徴ともいえる。

「カンボンの世紀が終り、ウヴラールの時代がはじまった」

といわれた。カンボンは地方的な中流ブルジョアを代表していて、恐怖政治の財政政策を指導した。これが退陣して、巨大なブルジョアジーが国家を動かす時代になったという意味である。

要約 第六章 フランス革命の終結 三 モンタニヤールの消滅

多くのフランス革命史が、教科書も含めて、テルミドールの変で終わりにしているが、そうではなくて、続きがあるという。テルミドールの事件では、ロベスピエール派議員10名だけが消え去っただけで、モンタニヤール議員約140名はまだ健在であり、公安委員会その他の委員会で今まで通の地位にいた。彼らは今まで通りの権限が振るえるものと期待していた。だから正確に言うと、テルミドールの事件でモンタニヤールが消滅したと書くのは正しくない。ジャコバンクラブは、一度消滅し、すぐ再建され、それから消滅した。それでもモンタニヤールは残っていた。

やがて、平原派からの攻撃が始まる。これを見ると、平原派が「愚図、のろま、臆病、日和見」とぼろくそに言われてきた歴史観は、正しくないように見える。平原派もやるときはやる。まず公安委員会など重要な委員会のメンバーを入れ替えた。また公安委員会の権限を縮小した。これでモンタニヤールは元の野党に戻った。それだけではなくて、ジロンド派議員を呼び戻し、モンタニヤールに対する復讐戦を始めた。その結果、モンタニヤールは全滅した。ただし平原派に転向したものは残った。意外なことに、テロリストと呼ばれたものは残った。彼らは、億万長者になっていた。



25-フランス革命史入門 第六章の二 ロベスピエール派の敗北

 二 ロベスピエール派の敗北


モンタニヤールの分裂

エベール派とダントン派を排除して、公安委員会は当面の危険をさけることができた。この二つの党派と闘い、かつ外敵、ヴァンデー暴動と闘うためには、一致団結してあたらなければならなかった。そのため、内部の対立はまだ小さく、エロー・ド・セシュルが排除されただけであった。公安委員会と保安委員会の多数はモンタニヤール議員であり、さしあたりうまくいっているようにみえた。

ところが、二つの党派を排除した直後から亀裂が入り、公安委員会もモンタニヤールも分裂した。ロベスピエール派と反ロベスピエール派にわかれるが、反ロベスピエール派の方がモンタニヤールの多数を占めるので、これをモンタニヤール主流と名づけよう。公安委員の中ではカルノー、ランデ、二人のプリュール、ジャンボン・サンタンドレである。

保安委員会では、二人の実力者アマール、ヴァディエである。ロベスピエール派は、公安委員会ではサン・ジュスト、クートンを含める三人であり、保安委員会ではル・バと、人数からいえばごく少数派になっている。し

かし少数派とはいえ、これが一時多数派を威圧し、表面的にみると、公安委員会はロベスピエールによって動かされているかのようにみえはじめた。ロベスピエールの権成は大きくなった。

ロベスピエールはダントンとちがって、はなばなしい演説をしない。むしろ、理論的な、本質をつく演説家である。品行方正、清廉潔白で民衆に人気があったが、最高価格制に抵抗し、過激派に正面から敵対し、エベール派の非キリスト教化連動に反対した。自分の主義主張を守って、民衆運動に迎合することはなかった。そのため、ときにはジャコバンクラブで孤立するときもあった。しかし、最終的に彼の判断力と人格が理解され、エベール派を排除したあと、ジャコバンクラブでの人気は絶対的なものになった。

それを背景として公安委員会の中における権威が高まり、カルノーやランデすらも一目おかざるをえないような形になった。そのこと自体が、自由と平等を信念とする他の公安委員にとってみれば、不愉快なものになった。

「独裁者」の非難が投げつけられた理由である。ロベスピエールがこのような権威をもってきた過程をながめてみよう。

彼はアラス高等法院弁護士から三部会議員となり、バスチーユ占領、ヴェルサイユ行進を支持する演説をおこない、選挙問題では普通選挙制を主張した。戦争問題では反戦論を展開した。八月一〇日では、武装蜂起の必要を連盟兵に説いた。ただし、戦闘には参加しなかった。九月二日の虐殺でも、直接運動を指導することはなかった。それにはふれないで、ジロンド派のブリッソが、宮廷や外国と通謀していることを告発した。ジロンド派追放のときには、武蜂起の必要を力説した。

その後、過激派が公安委員会を攻撃しはじめると、彼はむしろこれを弁護する側にまわった。公安委員会に入ってからの彼の主な活躍ぶりは、過激派との闘争にみられる。最高価格側や買占め禁止法は、彼よりもむしろ、他の議員の活躍で成立している。もちろん、彼も恐怖政治の諸方策を推進した一人ではあるが、あくまで、集団の中の一人としての役盟にとどまっている。

彼個人の影響力は、ダントン派とエベール派の排除で大きく発揮された。エベール派のように、職人、労働者の本能的な要求を掲げて公安委員会と国民公会を攻撃してくる党派にたいしては、ロベスピエールのように、本人が清廉潔白で、人民大衆に信頼のある革命家を表面に立てなければ、動揺している民衆をエベール派から引きはなすことがでぎない。ロベスピエールは、エベール派の攻勢から、国民公会と公安委員会を守ってやったのである。

ダントン派にたいする闘いも同じである。ダントンのような伝説的名声をもちながら、極端な腐敗行為をしているものにたいしては、ロベスピエールのように、清廉潔白な革命家を対抗させるのがもっとも有効である。ロベスピエールがダントンの逮捕をしぶったにもかかわらず、国民公会でダントン派議員がさわいだとき、ロベスピエールの発言で押えられてしまった。こうして、ロベスピエール個人の権威は絶対的なほどに高まったが、そのときにまだ、ロベスエール自身の社会的プログラムは、なにひとっ打ちだされていない。これが肝心なところである。


ヴァントゥーズ法

ロベスピエールの社会的プログラムとは、一口にいえば、小市民の共和国である。彼はルソーの信奉者であるが、フランス革命の中で、しだいに小所有者の自由な共和国を理想とするようになった。フランスで最大の金持といえども、三〇〇〇リーブル以上の利子収入をもつことはよくないという。財産の上限を切捨てようというのであるが、これではブルジョアジーを根絶してしまうことになる。

そこで「国民の危険はブルジョアよりくる。ブルジョアに勝っためには人民を結集しなければならない。誰が敵か、悪徳者と金持だ」と書いた。

また、人民と金持の利益が一致することは決してないともいっている。ここではっきりすることは、ロベスピエールの思想が、反ブルジョア的だということである。

サン・ジュストは、最年少の公安委員で、一七九三年にはニ六歳であった。下級貴族・騎士の子で法律を学んだが、国民公会で国王の裁判に活躍して有名になった。ダントンが公安委員会からしりぞけられた後に入り、一七九三年一〇月、東部国境の派遣委員となった。ここで、彼は兵士とともに奮闘をおこないながら、厳格な革命的政策を実行した。累進強制公債を容赦なく徴収し、履行しなかった者をギロチンに縛りつけた。軍需物資を調達するために、金持から物資を調達した。裏切りの告発を受けた将軍を処刑した。

こうしてフランス革命軍の強化に大きな役割を果してパリに帰った。彼の思想は、すべての人間が働き、すべての人間がある一定限度の財産をもつように、最高限と最低限を決めるべきだというものである。すべての人間が小土地所有者となり、職人、公務員以外の者は土地を耕さなければならないともいう。銀行や船舶の私有は禁止し、金、銀は貨幣以外に使うべきではないともいう。これが彼の理想社会である。農業を標準とした小市民の共和国で、ぜいたくと腐敗堕落を排除する理想国家というべきであろう。

このような理想国家をフランスに作ろうとする計画が、ヴァントゥーズ法として提案され、国民公会で可決された。一七九四年ニ月ニ六日のことであった。これによると、反革命容疑者の財産を没収し、これを貧しい人の

ために無償で分配することになっていた。財産の中心は土地であり、反革命容疑者とは大財産の所有者であったから、ブルジョアジーの絶滅を意味していた。

「もし諸君が、すべての反逆者から土地を取上げるならば、諸君は一個の革命をおこなったというべきであろう」。

このヴァントゥーズ法は大きな反響をよびおこし、パリをはじめ各地のサンキュロットの集会から称賛、祝福の声が集まった。ナンシーの人民協会は、国民公会にあてて請願を送った。

「反革命容疑者の財産をただちにサンキュロットの手に渡すために、反革命容疑者の裁判をできるだけ早くおこなうように」。

このヴァントゥーズ法が、エベール派の武装蜂起計画の最中に決定された意味を考える必要がある。この法令にサンキュロットが熱中し、国民公会がこれを実行してくれるという期待をもった瞬間、彼らはエベール派の企画する食料暴動から身を引いていったのである。ヴァントゥーズ法は、エベール派から民衆を引きはなす効果をもったのである。

三月一三日エベール派を逮捕したとき、「外国人徒党についての報告」の中で、サン・ジュストは、反革命容疑者の裁判をおこなうために人民委員会をもうけ、これを公安委員会と保安委員会が援助するものと規定した。

反革命容疑者については、「市民を腐敗させようと共謀し、革命政府を転覆しようとし、パリに食料が届くのを妨げ、不安を拡大し、亡命貴族をかくまい、人民と自由を圧殺するためにパリに武器をもちこんだ者」と規定した。

この中での食料についての規定は、エべール派の行動を指している。ここでのサン・ジュストの報告は、二重の性格をもっていた。彼の理想論としての社会改革論と、エべール派断罪とを絡み合せたものである。それは、エベール派逮捕の衝撃で、エベール派を支持してきた貧民達が国民公会にたいして立ち上るかもしれないので、国民公会の改革案を示すことによって騒動を未然に防止する役目である。この報告がタンプル区の総会で読まれたとき、「陰謀家」の文章がでてくると、人々が「それはエべールだ、ならず者め」といった。そこに、エベール派への対策としての効果が見られる。


土地革命への接近

ロベスピエール派の社会政策は、これを機会に急速に前進した。四月一五日、サン・ジュストは「一般警察、裁判、商業、立法、徒党の犯罪についての報告」をおこなった。ここで、人民委員会は五月四日までに設立されること、公安委員会の中に一般警察局を組織し、これが公務員と行政機関を監視し、公務員の行動を調査して、陰謀、権力濫用を摘発し、革命裁判所に引渡す権限をもつものと定めた。

この一般警察局は保安委員会とは別に、特別警察となり、ロベスピエール、サン・ジェスト、クートンの三人が牛耳った。これが活動をはじめると、腐敗、汚職をしている官吏や不正取引をして利益をあげた商人、銀行家、工業家が摘発され、革命裁判所に引渡されることになる。有罪と決まれば、その財産が没収されて、貧民に与え

られる。当時多くの議員が腐敗し、多くのブルジョアがこれと結託をしていたから、この法律が厳正に実行されるならば、ロベスピエール、サン・ジュストの社会的プログラムの実現にむかって進むはずであった。

もしこれが実行されるならば、まさに反ブルジョア的革命の第一歩が出現することになる。また、土地間題からみるならば、土地革命と呼ばれるべきものが出現することになる。

それ以前の僧侶財産と亡命貴族財産の没収、売却は、所有権の移転は実現したが、土地革命といえるような事態を作らなかった。あくまで競売に付したので、大財産家が大規模な土地を手に入れ、貧民はこれを買入れる能力がなかった。

一七九三年九月一三日、恐怖政治の一環として、貧民に五〇〇リーブルの証券を与え、土地買受けに参加する機会を与えたが、現実には、貧民が土地を手に入れることはできなかった。貧民を土地所有者にするためには、無料で土地を与えなければならなかった。

そこで、土地所有の階層別分布は、ほとんど変化がなかったとみてよい。ロベスピエール派の計画が、はじめてこれを一転させようとしたのである。この法令と並行して、保安委員会の官吏エロンが、ロベスピエールと協力して

多くの銀行家を反革命罪で告発し、逮捕させた。ロベスピエール派は、エロンの功績を高く評価していた。こうした現実と、サン・ジュストの法律が結びつけば、一大社会改革となるはずであった。


反対派の抵抗

急ピッチに進んでいく口ベスピエール派の社会政策について、公安委員会の多数や保安委員会、あるいは国民

公会の多数は、心から賛成したのであろうか。彼らのほとんどがブルジョアジーの代表者である以上、本気でこ

のような政策を実行するつもりはなかった。食料担当のランデは、エロンの告発で逮捕された銀行家をかばって

釈放させ、ロベスピエールと対立した。

保安委員会のアマール、ヴァディエは、一般警察局が保安委員会の権限を横取りしたことに不満をいだいた。

しかも、逮捕する者と釈放する者が逆になったばあいが多かった。この対立が尖鋭化して、ついに全面的対決となり、テルミドールの反革命へつながるのである。

さしあたり、エベール派の脅威を受けている間は、国民公会も公安、保安両委員の多数も、ヴァントゥーズ法に賛成した。これを本気で実行する気はないが、エベール派から貧民大衆を切りはなすための公約と解釈したのである。エべール派の脅成が去ると、そろそろその法令を無効にしたいと考えだした。ただ依然としてエベール派の基盤となりうる貧民大衆がパリにあふれ、さらにロベスピエールを支持するジャコバンクラブの力が強大である。そこで、真向から彼らの社会政策に反対することはできない。そこで、これに賛成しながら、実施を引きのばし、別にもっと穏健な改革案を発表することによって、ロベスピエール派の政策をうやむやにしてしまおうと考えた。

三月四日、ダントン派のメルラン(チオンヴィル出身)、チュリオなどが、貧民を救済するために五〇万リーブルをあて、これを内務大臣の使用にまかせることを国民公会に可決させた。これはヴァントゥーズ法にかわる貧民の一時的救済政策であった。五月一一日、バレールが「まだ売られていない国有財産」の状態を調査し、これを貧民にたいして救貧の意味で分配するという法案を可決させた。これならば、僧侶の土地と亡命貴族の土地の売れ残ったものを無料で分配するのであるから、ブルジョアジーにたいする打撃にはならない。ヴァントゥーズ法を、こちらの方向にすりかえようというのである。また、労働のできない貧困者のためには、国家から仕事場を与えることを提案した。

この年の三月から四月、とくに極貧層の男女が乞食になって町角にあふれ、彼らの中から、旧体制をなつかしむ声がでてきた。また、ラファイエットを口にする者が多くなった。貧民にたいして革命政府がなにもしなければ、彼らを反革命的集団にしてしまう可能性があり、乞食の間題は、政府にとって重大なものになった。このような状態のうえに、ロベスピエール派の政策と、チュリオやバレールの政策が打ちだされたのである。

それにしても、ロベスビエール派は本気で貧民を土地所有者にして社会正義を実現しようとした。これにたいして、反ロベスピエール派は、ヴァントゥーズ法を一時的な口約束と理解した。そこで一応賛成しておいたが意外に相手が本気でやり抜くかまえをみせたので、それにブレーキをかけながら、別な政治的譲歩の手段を打ちだしたのである。ヴァントゥーズ法にたいする抵抗は、とくに腐敗議員の一団から強力に行われた。彼らの取引相手の銀行家や商人が、まっ先に反革命容疑者とされる可能性があったからである。

その一例は、五月二二日、一般警察局が、ロベスピエールの命令でテレザ・カバリュスを逮捕したことである。スペイン人銀行家カバリュスの娘で、ボルドーへの派遣委員で、テロリストのタリヤンと結婚した。カバリュスは、革命権力に接近しながら大もうけをした。こうした人物を、ロベスピエールが反革命容疑者とみなした。当然タリヤンは、ロベスピエール打倒の側にまわる。そのタリヤンですら、一応ヴァントウーズ法に賛成はしたのである。こうした状態であるから、腐敗議員の抵抗を排除する必要があった。

このために「プレリアル法」がクートンによって提案された。六月一〇日のことである。これは「人民の敵を死刑にする」というが、人民の敵の中に、腐敗した者までも含め、国民公会議員にたいする例外を認めず、被告に弁護人をつける必要もなく、公安委員会の判断で革命裁判所に引きたすことができるというものであった。

公安委員会とはいうものの、実際はロベスピエール派の三人がにぎる一般警察局である。これについて、身にやましいところのある議員は大きな恐怖を感じた。弁護人もなく、いきなり過去の腐敗、汚職、公金横領の罪状を洗いたてられ、たちまち革命裁判所にひきだされ、処刑され、財産は貧民に分配されてしまう。ここで多くの議員が反対した。しかしまだ、ロベスピエールの力は強かった。国民公会はこの法案を可決させられた。しかし、ロベスピエールへの恐怖と反感がひそかに高まった。


戦勝とロベスピエール派の孤立

ちょうどこのころ、戦線では全面的にフランス軍の優勢が示された。正規軍と義勇兵の区別がなくなり、貴族将校のあとを平民出身の将校が埋めた。彼らは能力もあり勇敢でもあり、下士官兵士からでてきたので、兵士の苦労がわかり、信頼を得ていた。暴利をむさぼった御用商人が粛清されて、軍隊の装備がよくなった。公安委員会の振興した重工業が、フル回転をはじめ、武器弾薬がふんだんに供給された。陸軍に関しては、ヨーロッパ最強の軍隊に生れ変った。イギリスに押されぎみの海軍にしても、ブレスト軍港で軍艦の増産が進められた。

こうしたフランス軍の強化が、まずフルーリュスの戦勝となってみのった。六月二六日、ベルギー領のフルーリュスで、フランス革命軍は激戦の末オーストリアの大軍を破った。その前後から、すべての戦線から、あいつぐ戦勝の報道が入ってきた。七月八日、ブリュッセルを占領した。もはやフランス共和国は安泰となり、戦争はすべて国境の外でおこなわれ、順調に征服戦争がすすみつつあった。

国民公会が戦勝の報告にわきたっているとき、ロベスピエールの立場は悪くなっていた。ジャコバンクラブで、彼は公安委員会の中で無力になったと打ちあけた。七月一日、ジャコバンクラブで絶望的なことをいった。

「私はやむをえず自分のもっている官職から辞任したとしても、まだ人民の代表という資格が残っている。だから私は、暴君や陰謀家と死闘を演じるつもりである」。

この二日後に、彼は公安委員会に出席しなくなった。これは驚くべき変化であった。

その約一カ月前の六月四日には、満場一致で国民公会議長に選ばれ、六月八日には、「最高存在」の大祭典を彼が司会したのである。このときは、平原派議員の多くまでが、ロベスピエールの「最高存在」の哲学にたいして称讃の言葉を送った。突如として現われた「最高存在」の理念は、非キリスト教化運動の行きすぎを是正しながら、カトリック教会を廃止したあとにかわる、新しい宗教的規範として打ちだされたものである。

なんといっても、宗教心を国民全体から取り払うことはむずかしかった。それではカトリック教会を復活させるかといえば、僧侶のほとんどは反革命であった。そこで、自然と神を融合した「最高存在」を仮定し、これが道徳的原理を教えるという形で、新しい国家的宗教を作ろうとして、絶大な支持を集めたのである。ところがその一カ月後に、彼はまったく無力な存在になったという。

この突然の孤立は、二つの大きな理由から起こった。ロベスピエールの反ブルジョア的政策が本気のものであることを、国民公会の多数が知ったことである。それまでのロベスピエールは、過激派やエベール派から国民公会を守ってくれる存在でもあった。だから、平原派は、それなりにロベスピエールを評価していた。これが、一変したのである。もうひとつは、戦勝がつづいて国境が安泰になったことである。もはや、ブルジョアジーにとって、譲歩の政策は不要となった。恐怖政治の政策は廃止してしまいたい。そのときに、ロベスピエールは、ブルジョア絶滅の政策を打ち出した。これでは対決はさけられない。


反ロベスピエールの陰謀

ロベスピエールが公安委員会を去ってから約一カ月の間、ロベスピエール派と反ロベスビエール派との武力対決が静かに準備された。ロベスピエールはジャコバンクラブを固めることに専念し、ここから反対派を除いた。

貴族出身の軍事委員デュボア・ド・クランセ、僧侶出身のテロリストで新興成金になったフーシェを除名した。

また、パリコミューンを自派で固めた。彼を支持するペイヤンは、パリコミューンに諸区の革命委員を召集した。こうして、新しい武装蜂起の計画が進められた。

反対派は、ロベスピエールのいないことを利用して一連の政策を実施した。すでに人民委員会の組織をできるだけ遅らせ、六つのうち二つしか作らせなかったが、ロベスピエールが去った翌日、この人民委員会を公安委員会の統下におき、反革命容疑者の選別について、厳重な報告を要求した。また、反革命容疑者の財産差押えを延期した。

七月九日、保安委員会のヴァディエは、地方で投獄されている反革命容疑者のうち、耕作者、自作農、専門の職人などを仮釈放する法令を可決させた。これはプレリアル法と矛盾するもので、反革命容疑者の釈放を、保安委員会が公安委員会の一般警察局を無視して釈放できることになった。この法令にたいして、ロベスピエールは、貴族を耕作者といいかえることによって、反革命容疑者を助けようとするものであると批判した。

対決の時期が迫ると、公安委員会、保安委員会の主流は腐敗議員の一団と組んで、平原派議員の獲得に必死の奔走をはじめた。腐敗議員がもっとも戦闘的であった。タリヤン、フーシェ、バラ、メルラン、フレロンなどで、彼らは、ロベスピエールが勝てばまっ先に粛清されるはずであった。とくにタリヤンは、妻のテレザ・カバリュスが革命裁判所に引きだされることになったので、死にもの狂いになった。

彼らは、平原派の実力議員シエース、ボワシ・ダングラ、デュラン・マイヤンヌなどに頼みこみ、ロベスピエールを倒せば恐怖政治を中止すると約束して、支持をとり付けた。公安委員のカルノーは、ロベスピエールの影響下にあったパリ砲兵隊を地方に移転させた。七月末になると、両陣営とも、武装して護衛付きでひんぱんに会合を重ねた。

七月二六日、ロベスピエールは国民議会で大演説をおこない、政敵を徹底的に攻撃した。彼はまだ、平原派議員が彼の主張を聞いてくれると思ったのである。このときになると、彼はモンタニヤールを信頼しなくなり、かえって平原派議員をあてにしたのである。これは誤算であった。ただし、彼があてにしたのも無理からぬところもある。

ロベスピエールは、エベール派の圧力から平原派を守り、ジロンド派議員の裁判をエベール派が要求したときにも、公然と反対して、六七人のジロンド派議員の命を助けた。平原派の実力者デュラン・マイヤンヌは、手紙を出してロベスピエールに感謝した。ボワシ・ダングラも、「最高存在」の祭典について、ロベスピエールを文明と道徳のオルフェにたとえてほめた。彼ら平原派議員がロベスピエール派の政策に恐れをいだいて、腐敗議員と結んだことは、ロベスピエールの気づかないことであった。


テルミドールの反革命

七月二六日の大演説で、彼はタリヤン、フーシェなどテロリストの恐怖政治のいきすぎと、腐敗、横領、ダントン派議員の汚職、公安委員のカルノーが貴族軍人を保護していること、保安委員会が反革命容疑者を保護していることなどを、洗いざらいとりあげた。そのうえ、財政委員会のカンボンの財政政策を徹底的に批判した。財政委員会が貧困な人民を冷遇し、貴族主義者を保護する投機業者であり、反革命者であるといった。

ここで、ロベスピエールの非難は、公安、保安、財政の三大委員会すべてにたいする攻撃になった。この演説は国民公会にたいして強烈な影響を与えた。この演説を印刷して、市町村に送ることが一度は可決された。そのときまで、まだロベスピエールの力が国民公会を圧していた。

突然、名指しで批判された財政委員会のカンボンが、ロベスピエールにたいして激しく反論した。カンボンもこの対決を覚悟していて、その夜、父親にたいして「明日ロベスピエールか私か、そのどちらかが死ぬだろう」と書いたほどである。カンボンはロベスピエールを独裁者と批判した。これに続いて、反対派の議員がつぎつぎ立って口ベスピエールを批判した。演説を市町村に送る案は、逆転して否決された。

国民公会で敗北すると、ロベスピエールはジャコバンクラブにかけつけて同じ演説を読上げ、大喝采をうけた。

ビョー.ヴァレンヌ、コロー・デルボアが反論しようとしたが、「ギロチンへ!」との叫び声をうけて退場させられた。革命裁判所議長デュマは、「政府は反革命だ」と宣言した。パリコミューンとの間に同盟が成立し、武装蜂起の宣言がおこなわれた。反対派も武力の集結に奔走した。カンボンは、騎兵隊の指揮官エスマールを味方にひき入れた。

翌日の七月二七日(テルミドール九日)、ロベスピエール、サン・ジュストの発言は妨害され、「暴君を打倒せよ!」の叫び声の中で逮捕が可決された。これをテルミドールの反革命という。ロベスピエール派の国民衛兵司令官アンリオーの解任が決議され、後任にエスマールが任命された。アンリオーは少数の兵士を連れて口ベスピエール救出に乗りこみ、逆に逮捕された。革命裁判所副議長コッファナルが砲兵隊を率いて進み、アンリオーとロベスピエール派議員を奪回し、パリコミューン議事堂に集まった。

こうして、国民公会とパリコミューンの全面的対決になった。両派は軍隊を集めたが、ロベスピール派の側には予想通りの軍隊が集まらなかった。レオナール。ブルドンが二五〇〇人の小銃隊を集めてきた。彼の指揮のもとに、国民公会側の軍隊がパリコミューンを急襲し、ロベスピエールは自殺未遂のまま逮捕され、ル・バは。ピストル自殺した。その翌日、ロベスピエール派約一〇〇人が処刑された。


ロベスピエール敗北の理由

ロベスピエール派は、対決になると意外に弱かった。なぜ弱かったかといえば、これを支持する階層が思ったより少なく、孤立していたからである。彼らの政策は、徹底して反ブルジョア的であった。そのため、貴族はもとよりブルジョアジー全体を敵にまわした。農村では、中農以上を敵にまわすことになる。

それでは、それ以下の大衆を、貧民にいたるまで全て味方にしたかというとそうではない。ロベスピエール派は労働運動の抑圧に熱心であり、貧民の本能的な要求にたいしては、頑固な反対派であり、その抑圧の先頭に立った。エべール派の排除からテルミドール事件の日まで、パリで多くの労働運動が盛り上った。労働者や職人の最高賃金制反対のストライキ、肉の買占めに反対する婦人運動などであった。これらの運動にたいして、パリコミューンも公安委員会も、反革命運動として弾圧をおこない、ストライキをおこした労働者は逮捕された。

パリの貧民と労働者からみれば、最高賃金の責任がロベスピエール派にあると思われた。事実、ロベスピエール派が処刑されるときに、労働者が「最高賃金制のちくしようめ」という叫び声で見送った。最高賃金制は、公安委員会のバレールの指導下で七月二三日改正され、これが従来よりも賃下げになった。だから、必ずしも口ベスピエール派の責任ではなかった。しかし、ロベスピエール派も労働運動にたいしてきびしい立場をとっていたから職人、労働者にとっては、ロベスピエール派が没落すれば、あるいは賃上げが実現するのではないかと思ったのである。

ブルジョアジーと下層民を敵にしたロベスピエール派とは、どのような階層を支持者にしていたのだろうか。それは、手工業者の親方層、小工業の経営者、小商人、文筆家、医者、芸術家、自由業者など、いわば中間層といえる階層であった。彼らはブルショアジーにたいしても敵意をもつが、少数の職人、労働者を使うために、最高賃金制も必要とする。ロベスピエールとともに死んだ者の職業をみると、そのような性格が示されている。それだけに、彼らはブルジョアジーと貧民のはさみ打ちに会ったのである。

それにしても、彼らはパリで強力な武装集団を作り、国民公会への圧力になっていた。軍隊のほとんどが国境外にいたことも、彼らの力を相対的に強くした。そのうえ、当時の軍事技術の水準では、彼らが武器をもてば、正現の軍隊と市街戦で互角に戦える。国民公会がロベスピエールをおそれていたのは、そうした事情のもとにあったからである。

要約 第六章フランス革命の終結 二 ロベスピエール派の敗北

ここがフランス革命のもっともわかりにくいところであり、私も学生時代、いろいろと読んだけれども、納得のいくものに出会ったことはない。ヴァントゥーズ法までは書く人が出てきたが、その先がはっきりしない。この法案は、「反革命容疑者の財産を没収して、貧しい愛国者に無料で与える」というものであった。これがジャコバンクラブで歓迎され、国民公会で満場一致で可決された。この時、ロベスピエール派の人気は絶頂にまで高まった。そのおかげで、エベール派の人気に陰りが出てきた。食料不足ばかりを批判し、反乱に持っていこうとしたからである。

エベール派の脅威が消滅した途端に、ヴァントゥーズ法の実行に対して、熱意の差が生まれた。「さあいよいよ」という人と、「もうしなくても良いのでは」という意見の差になった。この差が大きくなるための外部条件もある。それは相次ぐ戦勝であった。国境は安泰となり、兵士が帰還し、首都の警備もジャコバンクラブに頼らなくてもよくなるという見通しであった。元々この問題があったので、ロベスピエールの公安委員会入りが実現した。この問題が消えていくと、清廉潔白なロベスピエールは迷惑な存在になる。このように説明するとわかってもらえるだろうか。 

ところがロベスピエール派はさらに突き進んだ。一般警察局を別組織として作り、保安委員会と敵対した。(これが説明のしにくいものであり、例えば、今の東京地検特捜部を独立させて、首相直属にするというようなもの)。また財産の無料分配のために人民委員会を作り、受取人の名簿を作るとした。この作業を公安委員会の多数派がサボタージュで妨害した。こういう暗闘の末についに敗北した。

この事件で、私は重要な世界史上の理論に言及したい。『フランス革命で、農民に土地を与えた』という理論は、普遍的な心理として、教科書にも書かれてきた。しかし、「土地を与える」という法令は、ヴァントゥーズ法が初めてであり、それまでは競売であった。この法案の実行に反対して強力に対立したカンボン(財政委員会議長)は、無料にすると、財政破綻になるといって反対した。最後にカンボンが勝ったのであるから、フランス革命で土地が無料で与えられたことはないのである。つまりロベスピエール派の敗北から、「フランス革命に土地革命はなかった」という結論が導き出されるべきである。これを私は繰り返し書いている。その結果、むかし「土地制度史学会」という東大経済学部中心の学会が大勢力を持っていたが、今は消滅している。この学会の根拠は、「フランス革命では土地革命があった。では我が国はどうか」という基本姿勢がよりどころであった。しかし、「フランス革命でも、土地をタダでという政策はなかった」となると、学界の論争は根拠なしになる。・こういう重大な問題を含んでいる。日本だけではなく、アメリカ、イギリスの市民革命を論じる時も同じことが起こる。


24-フランス革命史入門 第六章の一 ダントン派とエベール派の没落

第六章 フランス革命の終結


一 ダントン派とエベール派の没落


革命政権の腐敗

歴史の表面だけをながめると、フランス革命の政争は理念と理念の闘争にみえる。恐怖政治の時期では、自由、平等、友愛、サンキュロット主義、祖国愛が高く掲げられ、革命家は情熱と献身をもって生きぬいたように思える。

すべての革命家が理想を説いた。しかし、一歩裏にまわると、革命を利用して私腹を把やした。理想を語り、反革命との命がけの闘争をおこなったからといって、その人が清廉潔白のまま身を処していくとはかぎらない。

アナトール・フランスの小説に『神々は渇く』というのがある。ここで扱われているのは、革命家達が、欲望に渇いた狼のように財産、地位、女にむかって突進した姿である。これを読むと、革命に悪意をもっているのではないかと思うほどであるが、そこに書かれている姿は意外に事実を反映しているのである。

革命権力に入りこんだ者は、多かれ少なかれ腐敗した。ロペスピエールが「腐敗しない人」と呼ばれ、プリュール(マルヌ出身)が「清廉の士」と呼ばれて尊敬されたのは、それだけ、腐敗しない人が稀少価値をもっていたからである。

一連の革命的政策は、たしかに革命フランスの危機を救った。それは無条件で認めなければならない。ただ、それが文字通り正義の方面ばかりに動いていたというわけではない。革命的政策を逆用して私腹をこやした人間は無数であり、一年すぎてみると、得体の知れない新興成金が雨後のたけのこのごとく現われたのである。

強制徴発に出かけて必要以上の牛を殺し、これを投機業者に売ったり、商人から最高価格で取上げた品物をヤミ価格で転売してもうけたり、亡命貴族やジロンド派系の商人の財産を没収して、倉庫に入れておきながら、その品物を横領した者もいた。

ジロンド派系の商人を捕えて親族からわいろを受取り、釈放した派遣委員や行政官がいた。有名な革命家が、同じような方法で財産を蓄えた。エベールは、一〇〇万リープル以上を手に人れた。ショーメット(靴屋の息子で、パリコミューンの検事になる)や保安委員のバジール、シャボも腐敗汚職で有名になり、財産を蓄えた。九月二日の虐殺に活躍したセルジャンとパニは、獄中で殺された者の宝石を奪い、総徴税請負人や特権会社の理事がもっていた有価証券を手に入れた。

八月一〇日の英雖ダントンは、英雄的行為をしていたときでも宮廷から金をもらい、亡命貴族を保護してやり、御用商人デスパニヤックと結びついてたちまちのうちに巨大な財産をつくった。成功すると、一六歳の娘を妻に迎えた。しかもこの娘は王党派系であったという。

トップがこれであるから、ダントン派議員はとくに腐敗議員の集合体であった。御用商人に転身したファーブル・デグランチーヌ、肉屋あがりの新興成金ルジャンドルなど、彼らは革命政策を利用して、一攫千金のチャンスにありついた。

大砲で反革命容疑者を撃ち殺した派遣委員フーシェは、同時に反革命容疑者の財産を徹底的に横領し、フランス有数の大財産家になった。その財産を基礎に、ナポレオン時代にはオトラント公爵になる。

派遣委員としてトイツ軍と勇敢に闘い、ドイツ側から「火の悪魔」と呼ばれたメルラン(チオンヴィル出身)は、大御用商人ランシェールと結託して大規模な土地を手に入れた。やがて、国民公会で、友人にたいしてその土地で鹿を追いまわすことを自慢するようになった。このように、有名な革命家の多くが、私腹をこやすことでもまた能力を示したのである。


ダントン派の寛大政策

ダントン派は、モンクニヤールから平原派にかけて、ダントンのまわりに集まって来た議員でつくられていた。実業家議員と呼ばれるほど営利的な行為が目だっていた。ダントンが公安委員から除かれて以後、御用商人デスパニヤックの不正取引が追及され、その契約が国民公会によって破棄された。それでもまだ、派遣委員のジュリアン(ツールーズ出身)に保護されていたから安全であった。そのジュリアンが九月、保安委員会から追放されると、デスパニヤックが逮捕された。ジュリアンもダントン派である。

他方でインド会社事件がおこった。これは、革命中の最大の疑獄事件である。特権会社インド会社は、特権を奪われたとはいえ莫大な資産をもっていた。その株が高値を維持していたので、アシニアの価値下落を気にしていた財政委員会のカンボンはインド会社を目の敵にしていた。

ジロンド派追放以後、インド会社の立場が危うくなると、ダントン派義ーのシャボ、バジール、ドローネ、ジュリアンが共謀し、複雑な汚職事件を仕組んだ。彼らは先手を打ってインド会社を告発、インド会社の清算委員に入りこんだ。そのつぎに、インド会社理事と裏で交渉して、有利な清算条件を作る代償としてわいろをとった。そのかたわら、バッツ男爵、銀行家ブノワと組んで、インド会社の株を買叩き、大もうけをたくらんだ。バッツ男爵は革命前の宮廷貴族、財界の世話役、国王と王妃の救出作戦をおこなった王党派の活動家である。極端な王党派と極端な革命家とが結合している姿である。

これに、ダントンのスポークスマンのような立場にあったファーブル・デグランチーヌが加わった。こうして、インド会社清算委員会は、委員六人のうち、カンボンとラメルを除く四人がインド会社ぐるみの陰謀に加担した。その結果、一時会社に有利な清算条件が作られたが、内輸もめから、一一月に入って疑獄事件として露見した。

ドローネ、シャボ、バジールが逮捕された。ただし、ジュリアンは黒慕のバッツ男爵、ブノワとともに逃亡に成功した。この疑獄事件の審理が進むにつれて、ダントンやファーブル・デグランチーヌの身辺が危険になってきた。

彼らは、早急に恐怖政治を撤廃させる必要に迫られた。その第一歩として、最高価格制の廃止を要求し、エベール派の叩ぎ落しをはかった。一七九三年一二月五日、カーミュ・デムーランは新聞『コルドリエクラブの老兵士』を発行して、徴発政策のいきすぎや、革命軍の盗賊行為を非難し、恐怖政治の廃止、エベール派の排除を宣

伝し、公安委員会の改選を要求した。その影響により、一二月一七日、エベール派のロンサン、ヴァンサン、マイヤールが逮捕された。


エべール派の極端政策

ダントン派から目の敵にされたエベール派は、恐怖政治を極限にまで押しすすめようとする傾向を示した。彼らを支持した貧民の本能的な要求が、それに一致したからである。エベールは、「商人には祖国がない」とか「大商人から小商人にいたるまですべてが買占め人である」から、彼らにギロチソを発動せよと主張していた。

エベール派の活動家は、買占め摘発の運動に熱心であった。ダントン派議員のロヴェールが酒類を買占めていたエベール派の検査官、デュクロケが摘発したこともある。こうして、両者は敵対関係に入った。

エベール派は、九月五日の事件で国民公会に恐怖政治を押しつけて以来、つねに一歩過激な政策をうちだして、政府に圧力をかけていた。王妃とジロンド派の処刑にも、エべール派の圧力が大きく作用した。その後、旧体制の裁判官、検事、弁護士を反輩命容疑者にせよと要求した。

食料事情が好転して貧民の経済要求がおさまると、非キリスト教化の大衆運動をまきおこした。僧侶財産の国有化は、カトリックの教会にたいする攻撃の第一歩であったか、まだ信仰そのものは尊重され、僧侶にたいしては国家から俸給が支払われていた。しかし、戦争と革命が激しくなるにつれて、宗教そのものにたいする攻撃が盛んになった。すでに一七九二年九月、教会の銀器を徴発したが、一七九三年七月二二日、教会の鐘を徴収し、これを大砲に作り変えることが命令された。

こうして、宗教心の低下を国民公会がすすめた。この年の九月一八日、僧侶の俸給はさらに引下げられた。もはや僧侶は官吏ではないと、財政委員会のカンボンがいった。

キリスト教そのものにたいする否定をまっ先におこなったのは、僧侶出身の派遣委員であり、彼は派遣先で宗教上の祭りに代るものとして共和祭をおこなった。エべール派はこの動きに乗って、キリスト教の否定と唯物論的思想を極限にまですすめようとした。一一月六日エベール、ショーメット、モモロ、クローツ、レオナール・ブルドン、ペレーラがパリ司教ゴベルに面会し、僧侶の職を辞職して寺院を閉鎖することを迫った。

このため、パリ司教は、パリコミューンと国民公会に僧職の辞退を申し出て、十字架をはずし、赤帽子をかぶった。これが非キリスト教化運動のはじまりである。パリコミューンはこの運動を全国に広めた。各地の立憲僧が僧職を辞退し、それとともに寺院の破壊、略奪がまきおこった。この運動は、異常ともいえるほどの熱狂の中でおこなわれた。

僧侶とキリスト教を否定したあとに、理性の崇拝が置きかえられた。一一月一〇日、パリコミューンはノートル・ダム寺院を「理性の神殿」と命名して、「自由と理性の祭典」がおこなわれた。神にかわるものは三色旗を着た女優であった。新しい神「理性」の前にはあらゆる宗教が姿を消さねばならぬというわけで、プロテスタントも解散させられた。宗教的儀式は禁止され、葬式からも僧侶が排除され、赤帽子の官吏が儀式をおこない、遺体に三色旗をかぶせることにした。

一一月一一日、国民公会では僧侶の俸給全廃論がとりあげられ、キリスト教徒と国家の分離が討論された。その一環として、一一月二四日、従来のグレゴリウス暦にかわるものとして「革命暦」を公布した。二月から三月にかけては風が強く吹くので「風の月」(ヴァントゥーズ)、七月から八月にかけては熱いので「熱月」(テルミドール)などと呼んだ。

それにしても、この理性崇拝、非キリスト教化運動は爆発的に盛り上ったので、公安委員会、保安委員会も不安を感じながら、しばらくは静観していた。まだまだ宗教心が根強くのこっているのに、宗教を捨てることを大衆に強制するのは、宗教的反乱を招く。ただでさえ内外の敵にかこまれているのである。これ以上敵をふやすことは、革命政権を危うくすると心配したのである。


エべール派は人民の前衛か

エべール派の極端な運動をどのように評価するかも、フランス革命の解釈の中で重要な位置を占める。ある人はこれを人民運動の前衛といい、そこに後年のプロレタリア革命の原形をみる。そこまでいかなくても、エベール派を、方法は過激にすぎたが、とにかく公安委員会よりは革命的であり、公安委員会よりも左翼であると解釈する。

しかし、エベール派には裏面があった。その裏面をみるならば、人民の前衛ではなくて、ブルジョアジーの一分派であることが理解できる。もちろん、エベール派はサンキュロット、とくにもっとも貧しい人民の中に強い支持をもっていた。それだけに、貧民の本能的な要求を、生の形で政治的スローガンに掲げ、大衆運動をまきおこした。そのかぎり、人民運動の前衛とみえる。

ところが、目を一歩転じて、エベールを取りまく指導者集団をみるならば、サンキュロットとほど遠い一群の上層ブルジョアがめだつのである。しかも、外国人銀行家が多い。

非キリスト教化運動をすすめたクローツは、国民公会の議員でもあったが、もともとプロシアの貴族で、大船主で、国際的な大財産家であった。莫大な資金力で国民公会の有力者となり、ジロンド派政権のときに、占領地の合併、征服戦争の拡大をめざして奮闘した。世界共和国の主張を宣伝し、無神論を説いてまわった。ロベスピエールがクローツの意図を疑い、クローツを弾劾し、のちにジャコバンクラブから除名させた。こうして、彼は

一二月二八日に逮捕されることになる。

エベール派にプロリという銀行家がいた。プロリはオーストリアの貴族で、パリに銀行を作っていた。戦争のはじまったころ、『世界主義』という新聞を発行して、一種の世界革命運動を宣伝していた。公安委員のエロー・ド・セシェルは、プロリを秘書に使うほど信用していた。マラも、プロリを「国民が耳をかたむけるべき人民の友」とほめた。しかし、このころになると、プロリは各区で毎晩集会がおこなわれている「人民協会」を作り、この人民協会を中央委員会にまとめて、これを指導した。そして、人民協会中央委員会の請願運動によってパリの非キリスト教化運動がまきおこされた。ロベスピエールはプロリのことを、革命的共和主義婦人クラブを裏で指導している「見えざる妖精」だと非難した。

コックはオランダ人銀行家であり、エベールと同じ区に事務所をもっていた。エベールや革命軍司令官のロンサン、そのほかエべール派の指導者が、彼の家や別荘に出入し、ぜいたくな食事を取り、宴会を開いていた。

ペレーラは、ボルドーに住むユダヤ系ポルトガル人の宝石商人であり、パリでタバコ工場を経営していた。彼も非キリスト教化運動の推進者であった。

デフューはボルドーから来たブドウ酒商人で、ジャコバンクラブ通信委員会議長にもなり、エベール派の出資者でもあった。しかし、彼も王党派のバッツ男爵をかくまい、インド会社事件の黒慕にもなった。デフューを除けば外国人銀行家が多いので、エベール派の行動が、「外国人銀行家の陰謀」と呼ばれたほどである。ここにエベール派の本質があった。

彼ら外国人銀行家は、外国から貴金属を持ちこみ、これでアシニアを買い叩き、アシニアを集めて国有財産を買込み、これを転売して巨利を得ていた。ところが、国民公会の政策でそれが止められ、そのうえ交戦国国民の財産没収がおこなわれたので、窮地にたった。彼ら外国人銀行家は、公安委員会を敵視し、さらには国民公会そのものをも敵と考えるようになった。そこで、貧民の運動を煽動して、これを国民公会に対立させ、革命権力そのものをほうむり去ろうとしたのである。ここにエベール派の本質があった。


エべール派の粛清

まず外国人銀行家が先に逮捕された。クローツ、プロリ、デフューが年末までに逮捕された。コックは翌年の三月一四日、エベール派とともに逮捕されたが、仲間が先に捕えられたことがエベール派の危機感を高め、反乱の計画を早めさせた。

ちょうど、反乱がうまくいくのではないかと思われるような情勢が出現した。一七九三年の末までは、食料事情は一応落着いていた。ところが、一七九四年に入ると、今度は肉の欠乏がめだってきた。肉屋の前に行列が作られ、婦人達が食べるものを求めて走りまわった。行列に男が割り込み、喧嘩がおこり、食料の取り合いがおこって、毎日多くの婦人達が傷ついた。牛乳もなくなり、バターを手に入れるために、一人の婦人が命をおとしそうになった。農村から乳牛が到着すると、人間が殺到して食いつくしてしまった。

三月一日、パリの武器工場の労働者が「食べるものが無いから働く必要もない」といって暴動をおこしそうになった。国民衛兵が、これをかろうじて解散させ、治安を維持していた。こうした情勢をみて、エべールは武器を取って新しい「五月三一日」を再現すること、すなわち国民公会の包囲を唱えた。エベールは、大商人から小商人まで売手の側に同盟があり、これに勝つにはギロチンしかないと宣言した。三月四日、エベールの提案で、コルドリエクラブが「聖なる反乱」を宣言した。三月七日、つぎのような張紙がだされた。

「兄弟よ、いまや諸君が大群をなして立ち上り、敵をくだき、諸君の食料を確保し、不当に逮捕されている愛国者を救いだすべきときがきた」。

このようにしてエベール派の反乱計画が宜言されたが、食料間題と獄中の愛国者の救出が結びつけられているところに、問題がある。獄中の愛国者とは、プロリ、クローツ、デフューが連想される。エベール派の呼びかけた武装蜂起は不発に終った。大衆運動は意外なほどおこらなかった。エベールはパリコミューンを巻きこもうとしたが、議長のリュバンが反対した。ジャコバンクラブも反対した。

国民公会の議員は一致して反対し、エベール派の保護者であった公安委員のビョー・ヴァレンヌですら反乱計画を非難した。そこで、エベール派からは、彼にたいしてクロムウェル派という非難が投げ返された。エべール派のロンサンが、

「私は二四時間クロムウェルになりたい。国民公会の構成は良くない。一人も正直な人間はいない。私は全員を殺してしまいたい」

といったと証言する者が現われた。エベール派の反乱計画は、国民公会全体に対立したものであった。三月一三日、サン・ジュストが公安委員会を代表して、「外国人陰謀家についての報告」を国民公会に提出した。

ここで、エベール派と革命軍の指導者が公金を略奪し、囚人を解放し、革命政権を転覆しようとしたと弾劾された。またエベール派が商業を混乱させたために、パリの食料不足が深刻になったといって、エベール派の極端な政策そのものが、食料危機の京囚になったときめつけた。

同じ日、検事総長フーキエ・タンヴィルが逮捕状を作成し、エベール派が逮捕された。エベール、モモロ(コルドリエクラブ議長)、ロンサン(革命軍司令官)、ヴァンサン(陸軍大臣秘書長)、デュクロケ(買占め検査官)、マジュエル(革命騎兵軍司令官)などであった。

エベール派は、三月二四日、さきに逮捕されていたクローツなどと、このときに逮捕されたコックなど外国人銀行家とともに処刑された。これ以後、エベール派残党に対する粛清がすすんだ。エベール派処刑の二〇日のちに、エベール派でパリコミューン検事のショーメットが処刑された。エベールとショーメットの処刑以後、商人にたいする迫害がやんだ。

ブリシエは陸軍大臣書記官をしていて、大フェルミエをギロチンにかけろと演説したり、国民公会から平原派のひきがえるを追放せよと要求した人物であるが、七月に処刑された。

エベール派の保護者とみられた陸軍大臣ブーショットとパリ市長パーシュが投獄された。しかしまだ、エベール派的な勢力は根強く残っていた。パーシュはパリ民衆に人気があり、「パパ、パーシュ」といわれていた。五月一日のパーシュ解任について、パリコミューンは賛成を表明せず、沈黙を守っていた。国民公会はこれに不安をいだいて、パリコミューンを政府の支配下におき、以後選出されて来た者については、公安委員会に任命権があるものとした。


ダントン派の処刑

エベール派の逮捕処刑については、ダントン派の力が強く作用した。ダントン派は、恐怖政治の早期終結をめざして、まずエべール派の叩き落しを狙った。ダントン派はエベール派とちがって、議員の中に、末広がりに支持者をもっていた。そのため、言論と国民公会の決議を、主な武器にした。ファーブル・デグランチーヌが革命軍指揮官の腐敗、堕落、不正行為を告発して、すでに一七九三年一二月一七日、エベール派のロンサン、ヴァンサン、マイヤールを逮捕させた。

しかし、彼がインド会社疑獄事件に関連したことがわかると、ジャコバンクラブから除名され、やがて投獄された。そうすると、入れかわりに、逮捕されていたエベール派が釈放された。このとき、公安委員のコロー・デルボアが、ダントン派にたいする猛烈な批判をはじめて、彼らの不正行為をあばきたてた。こうして、ダントン派とエベール派が闘って、傷つけ合った。公安委員会と保安委員会は、両方の党派を警戒しはじめた。すると、どたん場になって、両派の提携が実現するかにみえた。ダントンは、ロンサン達の釈放を支持しながら、ファーブル・デグランチーヌの釈放も要求した。

この戦術的な提携が、公安委員会転覆の陰謀へ発展しそうになった。そのときに、三月一三日エベール派が粛清された。ダントン派も危機感を感じたが、なにもしなかった。

ダントン派の将軍ヴェステルマンは、先手を打って武力行動にでようとすすめたらしいが、ダントンはそれに応じなかった。自分の名声と、国民公会における力を過信していたのか、エべール派の蜂起宣言に大衆が反応しなかったのをみて、強気になれなかったのかはわからない。ただ、新聞でカーミュ・デムーランが公安委員会を批判して、最後の反撃を試みただけである。

三月十六日、インド会社事件の報告が保安委員会から発表された。公安委員会の中では、ビョー・ヴァレンヌとコロー・デルボアがダントン派の逮捕を熱心に主張した。ほかの委員も賛成したが、ロベスピエールが反対して抵抗した。そのために逮捕令が遅れて、三月三〇日ダントン派にたいする逮捕令がだされた。ロベスピエールが積極的でなかったことも、注目すべきことである。

概説書の水準では、ロベスピエールで公安委員会を代表させ、ロベスピエールの意志でダントンの首を切ったという形で説明し、彼を血に飢えたテロリストであるかのように描いているものが多い。ダントンの陽性にたいするロベスピエールの陰性、前者の不道徳にたいする後者の道徳性など、個人の気質、性質をダントン派粛清の理山にする本が多い。そのような説明は便利でよいかもしれないが、事実ではない。実際に熱心であったのは、他の公安委員であり、とくにコローとビョーであった。

三月三〇日ダントン派捕された。ダントン、カミュー・デムーラン、ドラクロア、フィリッポーであり、以前に捕えられていたファーブル・デグランチーヌ、シャボ、バジールも裁判に引きだされた。これに、公安委員のエロー・ド・セシェルが加えられた。エローはダントン派たけではなく、エベール派のプロリとも親しく、王党派ともっき合いがあった。彼の無節操な行為が問題になったのである。

これに大御用商人のデスパニヤック、オーストリア銀行家のフライ、スペイン人のグスマン、ヴェステルマン将軍が加えられて、四月五日処刑された。

グスマンはスペインの貴族で、パリでは得体のしれない事業で財産を作っていた。ドラクロワ、シャボなどグントン派と親しい反面、プロリとともに『世界主義』を編集し、エベール派とも結んでいた。ジロンド派追放の武装蜂起で、まっ先に警報を鳴らしたので、「警鐘」というあだ名で通っていた。彼はすでに一七九三年九月投獄されていた。彼の意見によると、ジロンド派追放の武装蜂起のとき、ロベスピエール、マラをジロンド派とともに消し去るつもりであったという。

ダントンを支持する議員の一団、チュリオ、ルジャンドル、バラ、タリアン、メラン(チオンヴィル出身)などはグントンを救おうと努力した。タリヤン、ルジャンドルは国民公会で積極的に抗議をおこなった。しかし暴露されたダントン達の不正行為は、誰も否定できないものであった。ダントン派の逮捕処刑は、重大な抵抗に合わずに終った。

最後の段階になって、ダントンを支持する議員と将軍達は、武力でダントンを取り返そうとする陰謀をめぐらしたが、結局は失敗した。ダントンは、一方で八月一〇日の英雄になりながら、他方で汚職、公金横領、反革命的勢力との内通をしていたので、ついに身を滅した。国民公会の大多数がブルジョアジーの代表者であったとしても、ダントンのやり方には、ブルジョア社会の規範を越えた悪らつさがあり、汚職事件として摘発されるべき性質のものであった。そのために、国民公会全体からも見はなされたのである。

要約 第六章 フランス革命の終結 一 ダントン派とエベール派の没落

エベール派はコルドリエクラブと地盤にして、貧民の要求をくみ上げ、ジャコバンクラブよりもさらに急進的な政策を要求し、パリの市役所、区役所に相当する行政機関に進出して、恐怖政治の政策を実行した。その時、肉不足が深刻になり、それをエベール派が利用して、権力奪取に動いた。国民公会ではエベール派の支持者は二人しかいない。ビヨー・ヴァレンヌ、コロー・デルボアであった。だから事実上、成功すれば、国民公会議員の全員追放になる。殺してしまうという言葉も使われた。国民公会議員は生死の境に立たされた。

ダントン派は平原派の中で作られたダントンの取り巻きであって、恐怖政治の早期終結を主張し始めた。汚職議員が多かったので、そろそろ危ないと思い始め、汚職暴露に熱心なエベール派をたたこうとした。双方が相手の手の内を知っているので、暴露した事実は正確であった。それを保安委員会がつかんで、捜査を始めた。これに気が付いたエベ-ル派とダントン派が、土壇場で、手を握り、クーデーターを起こして、国民公会を転覆しようとした。保安委員会と公安委員会が協力して、機先を制して、両派の指導者を逮捕、処刑した。これが事件の真相である。  その時、ロベスピエールは、ジャコバンクラブでエベール派の影響力が拡大しないように努力した。その一環として、ヴァントゥ―スー法を提案し、国民公会で可決させた。その内容は後で説明する。エベール派の排除という意味では、ロベスピエール個人の役割は非常に大きかった。ダントン個人の死刑については、反対したようだ。公安委員会で、みんなで説得して、半日くらい署名が遅れたが、その署名も小さく書かれたという。ところが、後世の文学的歴史観では、ロベスピエールが英雄ダントンの首を切り、血がどっと流れ出たというような書き方になった。

23-フランス革命史入門 第五章の三 恐怖政治の効果

 三 恐怖政治の効果


外国人銀行家の迫害

パリには多くの外国人銀行家が集まり、外国人との取引をおこなっていた。彼らの多くは革命に協力し、積極的に革命運動の第一線に立った者も多かった。しかし、思想は思想、商売は商売と割切っている者が多く、一方

で革命政権に協力しながら、他方で亡命貴族にフランスから金、銀を送ったり、交戦国政府のスパイの役割を果したりしていた。

また、もともと外国から巨額の貴金属を持ちこんでいるので、これでアシニアを買叩き、安く手に入れたアシニアで国有財産への投機をおこなった。彼らの投機行為は、アシニアの価値下落を促進した。また、スイス人銀行家ペルゴにたいしては、イギリス外務省から、ジャコバンクラブに放火せよという手紙が来た。後に、これが発見された。こうした外国人銀行家の反革命的行為がつぎつぎに告発された。

ただし、外国人銀行家は国民公会のあらゆる派閥にわたってつながりをもっていた。まったく無関係な派閥は、ロベスピエール派だけといってもよい。さしあたり、九月五日までは、彼らは安全であり、逮捕されてもすぐに釈放された。九月七日、国民公会がすべての交戦国国民を逮捕し、財産を接収すると決議した。これにたいして、平原派のラメルは、財政委員の立場から、これが国際間の決済を傷つけるといって反対した。

保安委員会のシャボは、コルドリエクラブ出身で過激な革命家のように思われていたが、このころドイツ人銀行家フライ(ドイツ語で自由という意味、革命に迎合するために、こう自称した)の妹と結婚したばかりなので、この処置に抗議した。

このため、国民公会は外国人銀行家の逮捕を取り消し、封印を撤去した。これにたいして、革命的共和主義婦人クラブが熱心に抗議運動をおこなった。ロベスピエールもまた、外国人銀行家の逮捕を主張し、シャボを非難した。シャボはこのころ、昼のサンキュロット、夜の粋な王党派といわれていて、革命政権の腐敗を代表する人物になっていた。シャボが過激派攻撃に熱心だったのは、こうした事情による。彼は九月一四日、保安委員会から追放された。

一〇月一六日、再び交戦国の逮捕、財産の差押えが可決された。このため、外国人銀行家のある者は逃亡し、ある者は逮捕された。逮捕された者でも、すべての者が処刑、財産没収のうきめに合ったというわけではない。

アツベマというオランダ人銀行家は、逮捕されたが、食料調達に必要だというので食料委員会が釈放を要求し、公安委員の・バレール、カルノー、プリュール、ランデが共同署名で釈放を要求した。このため、彼は釈放され、公安委員会の保護のもとに食料調達に活躍した。

スイス人銀行家ペルゴにも逮浦令がだされたが、公安委員のランデ、財産委員会のカンボンが保護し、スイスへ食料調達に行くという名目で帰国させた。イギリス人銀行家ボイドは、シャボのおかげで逃亡することができた。ドイツ人銀行家フライ、ヴィーデンフェルト、オランダ人銀行家ファンデンヴェルなどは処刑された。

このように、外国人銀行家の運命は多様であった、ただ、一時的にしろ、無制限な投機行為が押えられ、活動を許された場合でも、それは革命政府に協力するというかぎりにおいてであった。そのため、これも経済危機の緩和に一役買ったのである。


危機からの脱出

革命政府のとった一連の非常手段が、一時的にしろ効果をあらわした。累進強制公債、金属貨幣の流通停止、アシニアの強制流通、証券取引の停止により、唯一の紙幣としてのアシニアの価値が上昇にむかった。外国人銀行家の迫害も有利に作用した。一般最高価格制と強制徴発、買占め禁止、違反者にたいする厳罰の効果もあがった。

そこで、九月からアシニアの下落はとまり、一一月から上昇にむかって、一二月には約五〇パーセントの水準に回復した。七月と八月、ひどいばあいは二〇パーセントに下っていたのであるから、かなりの回復であった。一般的な物価がこれを反映して安定し、生活必需品は最高価格で供給されたから、下層民の生活は安定した。

足もとを安定させた国民公会と公女委員会は、全力をあげて外敵と反革命軍との戦闘にむかった。すでに八月の末、マルセイユのジロンド派反乱を鎮圧した。九月はじめにはボルドーの鎮圧に成功した。九月八日、ベルギー国境オンドスコット村で、フランス革命軍はイギリス、ドイツの連合軍と闘い、これを敗走させた。港町ダンケルクが救われた。

この戦勝は、これまで敗北を重ね、外国軍が四日でパリに入ることがでぎるといわれたほど絶望的な状態から、フランスを救った。一〇月九日、リヨンのジロンド派反乱軍が撃破された。一〇月一六日、ワッチニーの戦勝があり、この日パリでは王妃の処刑がおこなわれた。王妃の処刑も大間題であったはずだが、当時のフランス人の関心は、むしろこの北部国境地帯の勝利であった。

オーストリアの大軍が、国境近くのモーブージを包囲していた。ここを救うために公安委員カルノーがジュルダン将軍とともに軍を率いてかけつけ、付近のワッチニー村でオーストリア軍を撃破し、モーブージを救った。このとき、陣頭に立って奮戦したカルノーの名声が高まった。

つぎの一〇月一七日、フランス革命軍がヴァンデーのショレ市で反革命軍を敗走させた。このころまでに、スペイン軍を国境の外に撃退し、イタリア方面ではピエモンテ軍を追いだすことに成功した。最後に残っていたツーロン軍港では、イギリス軍との激戦を続けていたが、一二月一九日、イギリス軍から奪回した。このとき、ナポレオン・ボナパルドが軍功を立て、将校から将軍に昇進した。一七九三年の末までに、フランス革命政府は内外の危機から解放され、自信を取りもどした。


反資本主義的政策かどうか

一七九三年九月五日から年末にかけての恐怖政治は反ブルジョア的で、サンキュロット的であるのか、それともブルジョア的であるのか、この解釈がむずかしい。多くの理論家が恐怖政治の反ブルジョア的性格を強調してきた。事実、反ブルジョア的な政策があいついで打ちだされた。最高価格制や強制徴発、買占め禁止法、貴金属の流通禁止、外国人銀行家の迫害などは、ブルジョアジーにたいする打撃になるはずである。

そのうえ、まだいくつかの反資本主義的政策がおこなわれている。たとえば、八月二四日、財政委員会を代表してカンボンが株式会社の廃止を提案し、可決された。これによって、ケース・デスコントをはじめ株式会社は廃止されることになった。インド会社にたいする告発は盛んとなり、八月から一〇月にかけて論争が続けられたのち、インド会社の清算が決議された。このような政策もまた、上層ブルジョアジーにたいする打撃である。

インド会社は、もっとも特権的な会社であるから別としても、株式会社が全面的に禁止されるのは、資本主義経済をくつがえすものであるかのようにみえる。なぜ禁止したかといえば、アシニアの下落をよそに、これらの会社の株が価値を維持していたからである。そのような証券が流通していると、アシニアと競合し、その価値の下落を見せつけることになる。そこで、モンタニヤールのみならず平原派のカンボンですらも、この廃止に熱心

だったのである。

こうした政策を見るかぎり、恐怖政治の政策は反ブルジョア的であるように見える。ところが、別な角度からみれば、国民公会と公安委員会が、ブルジョアジーの保護育成に積極的であったことがうかがわれる。そのまず第一は、航海条令であり、つぎは重工業、とくに軍需工業の育成政策であった。

航海条令は九月二一日に可決された。すでに五月、バレールがその必要を説いていた。自由貿易主義のジロンド派が追放されて以来、この法令について積極的な取り組みがなされた。航海条令は、植民地と外国との直接貿易を禁止して、フランスと植民地を結びつけ、本国と植民地の間には、フランス国籍の船だけを使用するべきことを規定した。これによって、植民地を本国にたいする原料供給地として確保しながら、本国の工業製品の販売市場として独占することになった。航海条令にさきだって、本国と植民地との間の関税が撤廃された。その面からも、植民地が本国に固く結びつけられた。

これらの政策によって打撃を受けた者は、仲介貿易で利益をあげていた外国の貿易会社、貿易商人であり、さらには、これと結びついて取引をしていた、フランスの商人であった。フイヤン派からジロンド脈にまたがって自由貿易主義を主張していた貿易商人は、このような勢力であった。今後は、これら貿易商人の利益よりも、フランスの工業家の利益が優先されるようになった。


工業の振興政策

革命政権による工業の育成政策も重要な問題である。フランス革命とくに恐怖政治といえば、流血、ギロチン、破壊を連想し、建設的なものは何一つないと思われがちであるが、これは誤解もはなはだしい。むしろ、この時期が、いままでのどの時期よりも、工業の振興にたいして政府の努力がなされた時期である。政府は、アシニアの価値が暴落するほど増発し、これを軍事費につぎこんだが、その中の相当部分が、軍需工業とその関連部門に投じられた。それと並行して、強制累進公債が徴収されたのであるから、金の流れを大まかにいえば、大商人その他の金持から資金を吸上げて、これを工業への投資に振りむけたといえる。商業を犠牲にした工業の育成策であった。

なぜこのようなことをしたかといえば、当寺の戦争に勝ち抜くためには、よにはともあれ武器、弾薬が必要であり、それを自国で生産しなければならなかったからである。そのためには、関連産業のすべてを育成する必要があった。そこで工業の全面的な振興が必要とされた。

ル・クルゾーの経営が一時悪化し、国有化論までだされたが、カルノーと軍需担当公安委員プリュールは国有化を否定し、支配人を督促して再建をすすめた。このため、一七九四年七月派遣委員が称賛するほど立ちなおり、大砲、弾丸を製造した。

アンドレ大砲製造所も生産が低下したが、一七九三年八月派遣委員がこれを国有化し、経営者を任命した。その結果経営が立ちなおり、海軍に大砲の供給をつづけ、一七九四年五月には立派に再建された。

シャルルヴィーユ武器工場は、派遣委員のプリュール(マルヌ県出身)の努力によって生産を増加させ、小銃、ピストルの生産を続けた。

鉄鋼業者ヴァンデルは亡命したが、一族の者が残って大砲の生産を続けた。アンザン会社はオーストリア軍の侵入によって破壊された。一七九三年一〇月、敵国軍を撃退したあと再建がはじまった。ただし、株主の多くが亡命したので、亡命者の株は売却され、その結果、貴族中心の株主から上層ブルジョアの株主へと移行した。鉱山そのものは戦争で一時破壊されただけで、のち回復し、所有権だけが移転したのである。

革命前から蒸気機関を製造していたペリエのシャイヨーエ場は、公安委員会のプリュール(軍需工場担当)の援助を受けて武器を増産し、武器工場のための機械製作にも活躍した。またペリエは、軍需工業のための技術教育に活躍した。そのためペリエと労働者が対立したとき、公安委員会はペリエを守って労働者の統制に努力した。

ドーフィネの城に非合法の三部会を召集して革命のロ火をきったクロード・ペリエは、この時期小銃を供給するための会社を設立し、これを「共和主義サンキュロット会社」と名づけた。そのために、ジロンド派反乱にも加担していたが、革命政府に有用な人物ということで保護された。

公安委員のプリュールとカルノーは科学者、技術者でもあったので、一流の科学者を公安委員会のまわりに組織して、発明実験、工業化をおこなわせた。そうした学者のうち、ペリエ以外にモンジュ、シャプタル、フルクロワ、ベルトレなど、多くの有名な学者がいた。旧公安委員、ギュイトン・モルヴォー(平原派)も科学者、発明家、企業家であり、プリュールに協力した。

彼らの活躍で、フランスの武器が質、量ともに向上していった。フランス革命と科学者の関係といえば、ラヴォアジエの例がすぐにもちだされる。革命に学者はいらないという方向に解釈されがちであるが、彼には徴税請負人という特殊事情があったためである。革命政権が保護した学者の実例もまた多い。とくにシャプタルは、このころ火薬製造に活躍し、その後ナポレオンのもとでも内務大臣となり、王政が復活しても失脚せずに、工業行政を担当している。科学者の中での万年与党の実例である。ラヴォアジエの例だけが、フランス革命の性格を示すものではない。


恐怖政治が大工業を滅ぼしたことはない

恐怖政治の時期に工業の育成がおこなわれたことを確認するのは、日本におけるフランス革命史にとっては非常に重要なことである。日本でのフランス革命研究の中で、大塚史学の解釈が強力な影響力をもっているからである。その最大の主張は、フランス革命で、大工業がサンキュロットの攻撃を受け、軒並み減んでしまったという図式である。大塚史学では、これを特殊工業の断絶とかオート・ブルジョアジー(上層ブルジョアジー)の断絶とか、前期的商業資本の敗北とかいう。

その実例としてもちだされるのが炭鉱のアンザン会社、鉄鋼のル・クルゾー、ヴァンデルなどである。これらの大会社、大工業が恐怖政治のときにジャコバン=サンキュロットの攻撃を受けて減んでしまったというのである。(『大塚久雄著作集』第五巻、三二七ー三二八頁、高橋幸八郎『近代社会成立史論』二〇二頁、中木康夫「問屋制度と特権マニュファクチャー」『西洋経済史講座』第三巻、岩波書店、二一七ー二二〇頁)

この意見は、フランス革命の通史の中で説かれることはないが、多くの学術書の中で説かれ、また支持されているから、学者や研究者を通じて大きな影響力をもっている。ただし、フランスでは、この意見を誰も主張しない。なぜなら、自分の国にアンザン会社やル・クルゾー、ヴァンデルが現代でも存在していることを知っているからである。

恐怖政治の解釈については、かなり大塚史学と似た意見を唱えても、これら大工業がフランス革命で断絶したとはいいきれない。ところが事実を知らない日本の学者は、「知らない者ほど強い者はない」の通り、大工場の断絶論を唱えてきたのである。

この意見はまだ根強くのこり、明治維新の解釈の上に大きな影響力をもっている。だから恐怖政治の時代にでも大工業が保護育成されることがあり、破壊されたとしても、敵軍との戦闘によるものであったことを確認しておかなければならない。だいたい、ヨーロッパ諸国を相手に戦争をしている国が、軍需工場に関連のある大工業を破壊して、戦争が続けられるかと考えるべきである。大塚史学は、農村工業、中小マニュファクチュアの力を極端に重視するが、それでまともな武器、弾薬が作られるかどうかと考えるべきである。フランス革命で大工業がつぶれたという理論は、技術的条件を無視した現実離れの傾向が強い。フランス革命は、外国との必死の戦争をともなった革命である。大工業の減亡を唱える人は、そうした外部的な条件も忘れている。

22-フランス革命史入門 第五章の二 恐怖政治の推進力

二 恐怖政治の推進力


エべール派と過激派残党の提携

過激派の勢力が後退したのは、ほんのわずかの時期だけであった。九月のはじめになると、突然エべール派が過激派の生き残りと提携して、攻勢に転じた。エベールは八月一〇日以来パリコミューンに参加し、マラが暗殺された後、自分がマラの後継者であると自称していた。そのため、彼の新聞『ペール・デュシエーヌ』でジャック・ルー批判をおこなった。エべール派のデフィユーはジャコバンクラブの有力者であったが、ジャック・ルーにたいする告発委員会を組織した。こうしてジャック・ルーはロペスピエール、マラからエベールにいたるまでを敵にまわしたのである。またデフィユーは過激派ルクレールにたいする告発委員会を作れと要求した。

ところが急に向きを変えて、過激派と提携し、国民公会と公安委員会に圧力をかける側にまわった。エべール派の転向をもたらした事情はいくつかある。九月二日、ツーロン軍港がイギリス軍の手に落ちたという報道が伝わり、フランスに衝撃を与えた。内務大臣の地位をめぐってエベール派とダントン派の候補が争い、ダントン派のパレが任命されたため、政争に敗れて反体制の姿勢を強めた。

もう一つ、八月末に食料事情が絶望的になり、エベール派の意見を変えさせた。パリでは一日四五〇〇袋の小麦粉を消費するのに、一日四〇〇袋しか到着しなくなった。この食料不足のため、九月四日パリで騒動が引きおこされた。国立軍事工場の労働者、国立印刷工場の労働者、大工が街頭にでて騒いだ。アシニアで賃金をもらうが、これでは生きていけないというのであった。国民公会は、この運動を押えるために、印刷工場の全労働者を逮捕すると布告した。

こうした状態のもとでの国民公会が、労働運動の抑圧ばかりに目がむくことにも注目しておかなければならない。ジロンド派を追放したからといって、国民公会が労働者の側に立ったというものではない。国民公会は、できれば労働者をそのままの状態で働かせておきたかった。労働者のために、なにごとかの対策を立てるとするならば、大規模な大衆運動の圧力をうけて、やむをえずいやいやながら、つきつけられた要求について決議するだけであった。

そうした事態があらわれた。もはや逮捕の脅迫では運動を静めることはできなかった。なぜなら、労働者が飢え死に寸前に追い込まれたからである。約二〇〇〇人の男女がパリコミューン議事堂の前に押しよせた。彼らはパン屋でパンを手に入れることができず、飢えのために集まったといった。彼らは昼も夜も働きながら、パンが手に入らないといった。パリ市長と群集の代表とが食料について討論をしている間に、群集があふれ、「パンを!パンを!」という叫び声で満たされた。

パリコミューン検事ショーメットが、群集と国民公会の間に立って奔走した。彼は国民公会にかけつけ、事件の重大さを知らせた。しかし、この日国民公会の議長をしていたロペスピエールですら、群集の状態については軽く考えていた。

「国民公会は食料問題に没頭しており、それが人民の幸福を実現するだろう」

と答えて、一般最高価格について国民公会が投票したばかりであるといい、法令の抜粋を与えた。ショーメットがこれを持ち帰り、群集の前で読み上げたが、反応はよくなかった。

「われわれに必要なのは約束ではない。必要なのはパンだ。そしていますぐ」。


九月五日の事件-恐怖政治の出発点

ショーメットはここで機転をきかせた。彼が国民公会の側に立って発言していると、群集から完全に離れるおそれがあった。彼はすかさず机の上に飛び上った。

「私もかつては貧乏だった。それで貧乏人とはどういうものかは知っている。いまここに金持と貧乏人との闘争がある」

という前おきで、群集を沈黙させておいて、革命軍を編成して小麦の輸送と徴発をおこなわせ、金持の策動を止める法令を要求するために国民公会へ行こうと演説した。この演説で、ショーメットは群集を押える立場を捨てて、群集を率いて国民公会に圧力をかける側にまわった。

エベールは、すでに革命的共和主義婦人クラブのクレール・ラコンブやルクレールと提携していたが、この運動に乗って、八月一〇日の武装蜂起やジロンド派追放のような大衆運動を、もう一度引きおこそうとした。

「人民は明日群をなして国民公会に行こう。そして八月一〇日や五月三一日のように国民公会を取りまき、公会議員がわれわれを救うために適切な法令を可決するまでとどまろう。革命軍は法令が可決されるやいなや出発し、ギロチンがこの軍隊のあらゆる部隊についていくことを要求しよう」。

これで、飢えに苦しむ群集がエベール派の指導権のもとに入った。ロベスピエールは、ジャコバンクラブでこの行進にたいして反対した。しかし、止めることはできなかった。ロベスピエールとしては、この貧民の運動にいかに対処するかが主な課題となった。

翌日の九月五日、パリ市長パーシュと検事ショーメットを先頭にした群集が「暴君と闘え、貴族主義者と闘え、買占め人と闘え」というプラカードを立てて、大群をなして国民公会に行進した。群集の代表が傍聴席を埋めた。ショーメットが請願書を読上げ、食料問題を解決するための革命軍の編成を要求した。

群集の支持を頼んだ一群の議員が積極的に発言した。ビョー・ヴァレンヌが革命軍の編成、反革命容疑者の即時逮捕を要求してくいさがった。ダントン派義員がこれに賛成した。しかし、モンタニヤール議員の中でも、このような形で、群集の圧力に譲歩することは反対だという者が多かった。彼らは、別な議題をもちだして議事をそらそうとした。ロベスピエールもそうであり、ジャンボン・サンタンドレ、バジール、ロムなどがそのように動いた。傍聴席の群集は、それに不満のつぶやきを示した。このときは、平原派議員はほとんど発言しなかった。彼らは、このような群集には支持者をもたないので、発言すると危険であった。

ついに群集の圧力が勝ち、革命軍の創設と反革命容疑者の逮捕が可決された。反革命容疑者の逮捕の権限は、各区の革命委員会に与えられたから、国民公会は、権限を下部に移譲したことになった。


大公安委員会の権限

つぎの九月六日、前日に群集の側に立って大きな役割を果したビョー・ヴァレンヌとコロー・デルボアが公安委員会に入った。彼らはエベール派を攴持し、九月二日の虐殺をはじめ、革命中のいくつかの虐殺をおこなわせたテロリストであり、コルドリエクラブで影響力をもっていた。このとき以来、エベール派の力が公安委員会の中に入りこんだ。

この日以後の公安委員会が大公安委員会と呼ばれ、恐怖政治の推進者とみなされている。委員は一二人で、エロー・ド・セシェル、バレールが平原派からモンタニヤールに接近した者であり、とくにバレールが雄弁と抜群

の記億力で全体の上に力をもっていた。

カルノーは正式の族ではないが、弁護士の家に生れ、軍隊に入って技術将校になった。軍人と技術者の両方を兼ねていた。軍事担当の公安委員として戦争を指導し、勝利の組織者と呼ばれるようになる。

プリュール(コート・ドール出身)は軍需工業を担当し、ランデは食料を担当した。ジャンボン・サンタンドレは海軍を担当した。

プリュール(マルヌ県出身)は「清廉の士」と呼ばれ、ロベスピエールとともに腐敗行為のぜんぜんなかった数少ない革命家の一人であるが、ヴァンデー暴動の鎮圧とか、ブレスト、ナントへの派遣委員をしていたために、ほとんど公安委員会に出席しなかった。

ロベスピエール、サン・ジュスト、クートンがロベスピエール派三人組であり、ジャコバンクラブを足場にしていた。それにくらべると、カルノーとプリュール(コート・ドール出身)はジャコバンクラブに加盟せず、ランデは加盟してもぜんぜん行かなかった。

ビョー・ヴァレンヌとコロー・デルボアはコルドリエクラブを代表し、ニベール派の支持者であった。大公安委員会は一種の寄せ集めであり、さまざまな党派の集合体であった。

この公安委員会が、九月一三日権限を強化した。財政委員会と保安委員会を除くすべての委員会を監視、指導できるものと定められ、臨時行政会議(内閣)は公安委員会に従属して、たえず報告をおこなう義務を課せられた。ここで公安委員会の独裁が出現したといわれる。

公安委員会の独裁は、そのままロベスピエールの独裁で、ロベスピエール派はサンキュロットあるいは小ブルジョアの代表であるから、サンキュロットあるいは小ブルジョアの権力ができたという説が多い。しかしそれは早合点である。あくまで、財政委員会と保安委員会は独立している。この事情は、意外に強調されないのである。

つぎに、公安委員会の中で、ロベスピエールはそれほど大きな力をもっていない。この二つは記億にとめておく必要がある。


内外の危機と革命裁判所の活動

九月五日の行進を転機に、大公安委員会が成立して本来の恐怖政治が推進された。このとき以来、経済的にも政治的にも、恐怖政治といわれる内容のものがいっせいに動きだした。それを押し進めたのは、貧民の大衆行動を背景としたニべール派の圧力であった。

普通の時代区分では、ジロンド派の追放が恐怖政治を実現する時期とされているが、それは正確ではない。変化が大きいのは、九月五日以後のことであり、六月二日から九月五日までは、まだ目だった変化を示していない。変化といわれるものはただ一つ、強制公債の徴収だけであった。九月五日以後、恐怖政治がすすめられた。

情勢が絶望的になって、群集が半狂乱の状態になり、食料を求めてかけまわった。しかも、オーストリアの大軍がベルギー国境からパリをおびやかし、フランス海軍の根拠地ツーロン軍港がイギリス軍に占領され、スペイン軍がピレネー山脈を越えて侵入した。ヴァンデーの反革命軍が荒れ狂い、ジロンド派の反乱が広がって、国民公会の支配する地域はフランス全土の約半分になった。

その事情も加わってパリへの食料が入ってこなくなった。この事情を見越して、商人や大農民が穀物を買占めた。人民は、餓死寸前の中で、敵国軍と反革命による占領、虐殺を予感した。恐怖政治は、それを押し進める側の絶望感、恐怖感からひきおこされたのである。

恐怖政治の代名詞にされる革命裁判所も、九月五日以米急速に活動をはじめた。革命裁判所は一七九三年三月一〇日、フランス軍が敗北をはじめたときに設立され、判事と陪審員が国民公会から任命された。しかし、裁判所の活動はゆっくりしていて、しかも寛大であった。死刑を宣告したばあいは少なく、反革命容疑者をあいついで釈放した。ここにマラもジロンド派から告発されて立ったが、無罪となった。しかもマラを暗殺したシャルロット・ド・コルデーについても、裁判長モンタネが救おうとつとめた。

このようであったから、九月五日までは、革命裁判所はその名に価するほどの活動はおこなわず、ロベスピエールが、革命裁判所の仕事の遅さをジャコバンクラブで批判するほどであった。しかし、九月五日以後事態は変った。判事と陪審員が補充、増加され、四つに分れて、そのうちの二つが常に動くようになった。

これ以後、革命裁判所はつぎつぎと反革命容疑者に死刑を宣告していく。革命裁判所の判事と陪審員には、職人、労働者はいない。ブルジョアジーに属する者から、せいぜい職人の親方、中小承認までであり、ロベスピエールが下宿をしていた指物師デュプレーも参加していた。僧侶や貴族も何人か参加している。貴族の中には侯

爵の爵位をもつ高級貴族が二人もいる。貴族を公職から追放せよという過激派やエベール派の主張は、結局、革命の全期間を通じて実現されなかったのである。階級的にみれば、革命裁判所も国民公会も、公安委員会も、ほぼ同じ性格をもちつづけていた。


一般最高価格制の効果

懸案の一般最高価格制は、九月二九日やっと布告された。それまで、たびたび請願がおこなわれても、国民公会では議事の引きのばしがおこなわれた。平原派議員はもちろん反対であるが、モンタニヤール議員の多くも乗り気ではない。しかし、結局は決定せざるをえなくなった。

生活必需品の品目を定め、これの最高価格を決定した。違反したばあいは罰金を課し、違反者は反革命容疑者のリストに載せられる。告発者には賞金が与えられる。最高価格は品目によってちがったが、だいたい一七九〇分の一を加えたものとされた。しかも、労働者が労働を拒否したばあい三日間の禁固に処すと決められたから、労働者にたいしては寛大な法律とはいえなかった。

待望の最高価格が実施されると、生活必需品の価格が引下げられた。そうすると、群衆が商店に押しかけ、ついに商店は空になった。群集もまた、安い値段で買占めたのである。一〇月の末になると、酒類、パンがなくなった。パリコミューンはパンの切符販売制を実施したが、多くの市がこのまねをした。肉、砂糖の配給制も実施された。商人は、最高価格で売ればもうけにならないから、商売をやめた。買占めていた者は、時期を待つつもりで商品を隠した。

こうなると、最高価格制そのものが、かえって商品流通を妨げ、品不足を引きおこし、食料不足をすすめる。このことは、当時の官吏も指摘していることである。国民公会議員が最高価格制をしぶったのも、そのためである。しかし、だからといってもう後もどりすることはできない。

残るところは、買占め人を摘発するための強制徴発と隠匿物資摘発の家宅捜査であり、違反者にたいする厳罰しかなかった。ここで経済的な恐怖政治につきすすむことになる。これを、クレール・ラコンブが革命的共和主義婦人クラブを代表してパリコミューン総会に提案した。パリコミューン総会は、一〇月四日ショーメットの提案を受入れ、革命軍の後に巡回裁判所とギロチンをついて行かせ、買占め人を即席裁判で裁き、処刑する案を国民公会に提案した。一〇月一五日、店を閉めた食料品店にたいする家宅捜査が決められた。


食料委員会と革命軍

一〇月半ばから品不足が深刻になり、一日に二〇〇〇袋必要であるのに市の倉庫にも小麦粉が一〇〇袋しかないという事態になった。この食料危機の対策として、食料委員会が組織され、食料問題のすべての権力を握った。

これは、一〇月二七日バレールの提案で決定され、食料委員会の最高指揮権は公安委員会のランデが握った。この委員会には三人の大ブルジョアが顧間として入った。大銀行家ムートン、食料品商人レギリエ、穀物の大商人ヴィユモランの三人であった。食料委員会が、パリをはじめとする大都市への食料供給に活躍したが、正規の買付けだけでは食料を集めることができない。

農村に出かけて穀物を徴発し、この食料を安全に守って都市へ運びこまなければならない。そのためには、武力の背景が必要である。しかし、正規軍はすべて国境にいる。そのため、革命軍が新しく編成された。革命軍は正規の軍隊とも義勇兵ともちがって、食料間題の解決のために編成されたものであった。革命軍の行動は、まさに恐怖政治そのものであった。

ブリシエのジャコバンクラブでの発言は、それを象徴している。彼はフェルミエ(大農民)の買占め、売りおしみについての演説のあとにいった。

「その観察は正しい。しかし革命軍が出発するやいなや、その不安は消えるだろう。革命軍の行動方針はフェルミエの財産であるべきだ。村に着いたなら『フェルミエは金をもっているか』と尋ね、そうだという答ならば、彼をギロチンにかけてよい。彼が買占め人であることはたしかである」。

これに示されるように、革命軍は農村をまわって食料を徴発し、家宅捜査をおこない、違反者を処刑してまわった。経済法則を無視した荒っぽいやり方ではあったが、一時的には、食料を調達して都市における食料不足をやわらげた。

この革命軍の人的資源は、地方によってまちまちであるが、一般的な傾向としては、兵士は職人、労働者から小商人、職人の親方、自家営業者の階層で構成されていた。しかし、混乱の中で編成されたのであるから、不純なものも大量にまぎれこんだ。最高価格制のために商売ができなくなった者が、仕事をやめる口実に革命軍に入った。山賊や行商人、失業者も入隊し、亡命貴族の下僕が世問の目をそらせるために入隊した。貴族や僧侶がまぎれこんだこともあった。そのため、革命軍の家宅捜査が、そのまま盗賊行為になったことも多い。

革命軍の指揮官をみると、サンキュロット出身者の数は少なくなり、法律家、公証人のような知識人からはじまって、ブルジョア、大土地所有者の階層が多数を占めていた。そして、ブルジョア出身の指揮官の中に激烈な者が多かった。恐怖政治、必ずしもサンキュロット的でなくて、ブルジョア的でもあったのである。

パリの革命軍司令部の顔ぶれをみると、革命軍のブルジョア的性格がよくわかる。可令官のロンサンはエベール派の闘士であったが、革命軍を指揮して流血の弾圧をおこない、有名なテロリストになった。しかし、この間に財産を蓄え、オランダ人銀行家ド・コックの食卓にエベールとともに常連として招かれていた。革命軍司令官として激烈な行動をしながら、大銀行家の家に出入りしていたのである。

司令官付副官のヌリは俳優であったがダントン派であり、自分の友達の俳優を引き入れ、司令部が楽屋のようになり、売春婦でにぎわっていた。

副官マジュエルはエベール派であったが、豊かな絹商人の一族であった。革命騎兵軍司令官になりながら、ぜいたくな堕落した生活を送り、多くの女に囲まれていた。のちに逮捕されたときにも、四輪馬車にニ人の女を同乗させていた。このような例が多いので、革命軍もまたどこまでもブルジョア的なものであった。


過激派の消滅

国民公会と公安委員会は群集の圧力に応じて恐怖政治をすすめていったが、同時に、群集を煽動した過激派にたいしては弾圧をつづけた。クレール・ラコンプにたいしては、九月一六日ジャコバンクラブで激しい非難が加えられた。彼女がでて答えようとすると、ヤジにつつまれた。

もう一人の過激派ヴァルレにたいしても、王党派であるとかジャック・ルーの一味であるという批判がおこな

われ九月一八日保安委員会が彼を逮捕した。保安委員会の中で過激派攻撃に熱心だったのは、シャボとバジールである。しかし、ヴァルレは、パリコミューンの請願があったため、一一月一四日釈放された。

九月二二日、クレール・ラコンプの革命的共和主義婦人クラブが新しい運動をおこそうとした。彼女らは革命裁判所の増設、貴族の二四時間以内の裁判、王妃とジロンド派の処刑を要求するとともに、パリの諸区の代表からなる中央委員会を設置せよと要求した。この最後の要求はパリコミューンや国民公会にかわる、新しいパリの権力機関を、彼女らの指導権のもとに作ろうとしたものである。

国民公会では、彼女らにたいする批判が集中し、別な婦人団体や革命的男子のクラブと自称する者が、革命的共和主義婦人クラブを攻撃した。一〇月三〇日、国民公会は革命的共和主義婦人クラブの解散を布告した。一一月一七日、クレール・ラコンブを先頭にした婦人の団体が、赤帽子をつけてパリコミューン総会の議事堂に押しいった。このあと、クレール・ラコンブが逮捕された。これ以後、婦人の革命運動は急速に冷えていった。彼女は一度釈放されてから、翌年の四月エベール派逮浦に関連して再逮捕された。しかし多くの婦人からの釈放の請願があり、その翌年に釈放された。しかし、もはや活動の場はなく、屋台屋をして細々と暮し、やがてパリを離れて消息を断った。

ヴァルレも、釈放されてからもう一度政治活動をしようとしたが失敗し、その後の消息は絶えた。ルクレールも翌年に逮捕され、消息が絶えた。こうして、一時はなばなしく連動の表面に立った過激派指導者は、一七九四年の一〇月から一一月にかけて弾圧を受け、その後大衆運動の基盤を失った。あまりにもあっけない最後というべきである。

食料危機が一段落して人心が静まり、しかも敗戦からそろそろ戦勝に向いつつあって、危機感が薄れていったという事情が背後にある。彼らの運動は、危機の産物であったから、危機が去れば消滅する。彼らは、大衆の本能的な要求を、生の形で代表したのであるが、その大衆は、政治経済的な危機のときだけ動いたのである。 

要約 第五章 恐怖政治の展開 一 過激派の攻勢と敗北

この節でいうことは、「ジロンド派追放で、すぐに恐怖政治になったのではない」ということです。6月から9月までは穏やかであった。マラですら生ぬるいと批判する有様であった。マラが暗殺されても、まだ復讐に立ち上がるというものではなかった。この点は、古くからの情緒的なフランス革命史とは違う

ロベスピエールの公安委員会入りが遅かったということも書いている。俗説では最初から実力者であるかのように書いているが、実は「新入り」なのだ。しかも「無任所大臣」のようなものだ。これが頼りにされていくのは、過激派の攻勢に立ち向かったからである。とはいうものの、彼も過激派に突き上げられて、もたもたした時期がある。その結果、過激派の要求を認めざるを得なくなる。この点は国民公会議員全体の責任になる。これがいわゆる恐怖政治の実行だ。

しかし、過激派の要求を聞いていたのでは,フランス国家は成り立たない。時期を見て過激派を抑圧した。まずはジャック・ルーの逮捕、自殺があった。これで一度は抑えたかと思われた。


21-フランス革命史入門 第五章の一 過激派の攻勢と敗北

第五章 恐怖政治の展開


一 過激派の攻勢と敗北


旧公安委員会への不満

一七九三年六月二日、ジロンド派議員が追放されたとしても、恐怖政治がすぐに出現したというわけではなかった。これは、内外の情勢に押されて、段階的にきびしくなっていくものである。さしあたり六月二日から七月一〇日までは、これという厳格な政策は打ちだされていない。ジロンド派追放の効果としては、累進強制公債が全国的に実施されたことであった。これだけは全面的におこなわれた。

つづいて六月二四日、「一七九三年憲法」を可決した。ただし、この憲法は精神論的な効果しかなく、実施されたこともない。穀物の最高価格制は、原則として決定されただけで、実施されてはいなかった。国民公会も公安委員会も、できればこの実施を引きのばしたかった。このときの公安委員会は、累進強制公債の政策だけで外国との戦争に勝ち、反革命暴動を鎮圧しようとした。たしかに、六月二九日、革命軍はナントを包囲していたヴァンデーの反乱軍に反撃し、これを撃破することに成功した。

しかし、足もとのパリその他の大都市の状態は危険なものになった。六月の末、過激派のジャック・ルーに煽動された洗濯女が男達をけしかけて、パリの港で石けんの箱を奪い取り、これを勝手に値段をつけて分配した。この騒動は、アシニアの下落、物価の暴騰を反映したものであった。アシニアは三〇パーセントに下落したといわれているが、ところによっては二〇パーセントに下落した。それに応じて物価が上昇した。買占めの影響もあって、上昇率はまちまちであった。

この時期の価格を、一七九〇年六月の価格とくらべてみると、もっとも暴騰したのがじゃがいもで八倍となっていた。牛肉は二倍以上となり、小麦は三分の一程度の上昇であった。

労働者や職人の不平が深刻になった。が、公安委員会は何もしなかったので、七月四日、マラが公安委員会の字をもじって、「政策を失った委員会」と非難した。同じくモンタニヤール議員ヴァディエは、ジャコバンクラブで公安委員会が眠っていると批判した。ジロンド派議員にたいする逮捕令がだされても、厳格には実施されず、イスナールやランジュイネのように逃亡に成功した者もいた。平原派的色彩の強い公安委員会であったから、これは当然であった。


公安委員会の改選

公安委員会にたいする批判が強くなり、七月一〇日、この改選がおこなわれた。ここで平原派の多数とダントンが姿を消した。八月一〇日の英雄グントンは、デュムーリエの反逆のときは巧妙に身をかわして、まだ革命の英雄としての名声を保ったが、彼のまわりにただよう腐敗と反革命陰謀の輸に疑いが深まったのである。

新公安委員は九人で、バレール、ガスパラン、チュリオ、ランデ、ジャンボン・サンタンドレ、エロー・ド・セシェル、プリュール(マルヌ県出身)、クートン、サン・ジュストであった。この中で本来のジャコバン派を代表する者はジャンボン・サンタンドレ、プリュール、ランデ、サン・ジュスト、クートンだけであった。チュリオはダントン派である。バレールとガスパランは平原派で、エロー・ド・セシェルは、前にものべたように名門の貴族でありながらあらゆる派閥と関係をもち、御用商人のデスパニヤックからも金を借り、外国人銀行家とも親しく、亡命貴族の夫人(伯爵夫人)を愛人にしていた。こういうわけであるから、新公安委員会は、約半分がジャコバン派的性格をもっていたといえよう。

その直後、七月一三日マラが暗殺された。暗殺者は貴族の娘シャルロット・ド・コルデーであったが、彼女がジロンド派の影響を受けており、バルバルーと面会していたことから、ジロンド派の復讐であると思われた。これに関連して、ジロンド派議員のフォシエが逮捕された。「人民の友」といわれて、下層民の間で絶対的な人気をもっていたから、マラの暗殺はジロンド派にたいする敵意を激しくさせた。ジロンド派にたいする追求、報復が進行した。ただし、マラの政治的立場はこのとき微妙であった。彼はジロンド派追求のために、もっとも激しく行動した。その後もますます急進的な政策を主張し、貴族、僧侶を公職から追放せよといった。これをコルドリエクラブがとり上げて請願をおこなったが、ジャコバンクラブは熱心ではなく、ただ声明書をだしただけであった。マラは、ジャコバンクラブよりも過激とみられていた。

しかし、同時に、ジャック・ルーの運動にたいしては激烈に反対した。マラは最高価格制にたいして反対し、これを要求する運動に対決してまわった。その助けをかりて、公安委員会も最高価格制を放置することがでぎた。この法令の精神に反して、七月五日、各県当局に個人から自由に穀物を買入れる許可が与えられた。最高価格制を要求する運動は退潮していった。ジャック・ルーとマラはこの問題で決裂し、ジャック・ルーが脅迫の言葉を残して立ち去った。その四日後にマラが暗殺されたので、はじめは、暗殺がジロンド派の手によるものではなくて、過激派の手によるものであろうと思われたほどであった。


過激派の闘争と買占め禁止法

七月二七日、ロペスピエールが公安委員会に参加を求められて加わった。新公安委員会の成立から約二週間の間、まだ目だった変化が起こっていない。国民公会は封建貢租の無償廃止をあらためて確認し、貢租の徴収を禁止した。これは、前年の八月一〇日に無償で廃止されたものの再確認にすぎなかったが、廃止されたものの、所によっては事実上徴収された場合があったので、これを禁止することによって徹底したのである。ただ、そうではあっても、全体的にみれば前年の廃止令が画期的な変化であることにはまちがいがない。

亡命貴族財産の売却について、七月二五日あらためて布告したが、これも根本的な変化を見せたわけではなかった。重大な変化は、七月二七日ロペスピエールの公安委員会入りと前後して審議され、翌日に可決された買占め禁止法であった。ここにいたる過程は、過激派の攻勢、貧民の騒動、これにたいする国民公会の対応が複雑に絡んでいる。

ジロンド派追放の六月二日にはロペスピエールもマラも過激派と歩調を合せて、ジロンド派追放の大衆行動を起こした。しかし、その直後ロペスピエールは過激派との闘争をはじめた。ロペスピエールは、六月一〇日のジャコバンクラブでジャック・ルーを非難し、ルーの愛国主義は疑わしいと言った。ところが、ダントンのまわりに集まる議員が、投機的にルーを保護した。その一人シャボの発言に喝采が集まり、ロペスピエールの発言には冷やかな反応がみられた。ロペスピエールは、過激派との苦しい闘いをはじめたのである。このころ、彼は公安委員会を過激派の攻勢から守る側に立っていた。

七月二〇日、パリの食料事情が悪化した。パン屋の店先に行列がつくられ、パン屋は小麦粉がなくなって閉店した。もうすこしで、全般的な暴動に発展しそうな気配を示した。

この危機を利用して、過激派は攻勢に転じた。ジャック・ルーは、投機業者と買占め人にたいする戦争を宣言せよといい、銀行家の逮捕を要求した。ルクレールは買占め人を死刑にせよと主張した。最高価格制を要求する代表が、各地からパリに派遣されて米た。国民公会と公安委員会は、そのような過激な方法を採用する気はなかった。食料事情を好転させるために、食料担当の公安委員ランデが、必死になってパリにたいする食料の供給に奮闘した。

しかし、それだけでは下層民の憤満を押えきれず、なんらかの譲歩をしなければ暴動を誘発する恐れがでてきた。

ここにいたって、最高価格制に代る提案として、ビョー・ヴァレンヌが「買占め禁止法」を提案した。買占め人にたいして、死刑を適用することにより物資を放出させようというのである、買占め禁止の対象になる品物については、コロー・デルボアがより詳しい法案を提出し、可決させた。この法案で、ビョー・ヴァレンヌとコロー・デルボアはロペスピエールより左翼というイメージを植えつけ、のちに公安委員会に加盟する足場を築いた。

同じ七月二七日、ロペスピエールが公安委員会に入ったが、彼の役割は過激派との闘争であった。彼は、とくにジャック・ルーとルクレールを徹底的に攻撃し、群集をその影響から引きはなした。彼の活動とパリの食料供給が成功したことが相まって、多くの区が過激派の影響からはなれ、国民公会と公安委員会に忠誠を誓うようになった。こうして一時的に過激派は孤立した。


過激派の弾圧

しかし危機の緩和は一時的なものであった。七月三一日ベルギーとの国境にあるヴァランシェンヌが陥落した。オーストリアの大軍がパリをめざして南下の気配を見せはじめた。ジロンド派の反乱が広がり、またブルターニュ、ノルマンディー、フランシュ・コンテの各地方がパリから離反したので、パリへの食糧輸送が停止された。こうした効果が重なって、八月の末にかけて食料不足が深刻なものになった。

こうした危機的状態の中で、戦争問題と軍需工業の振興を担当する者として、カルノーとプリュール(コート・ドール出身)がバレールの紹介で公安委員会に迎えられた。このときは異常な情勢のもとであったから、公安委員の任命も、かなりおざなりなものであった。人選はバレールにまかせきりの状態である。プリュールが公安委員会入りをすすめられたとき、カルノーを推薦して断わった。ところが、バレールは「そうか、それでは二人とも」といって、国民公会に提案した。国民公会は、なんらの討議もなしにこれを可決した。そのような形で入った者が、大臣を指揮して、独裁的な権力を振ったのである。二人とも、ジャコバンクラブには加盟していない。

他方で、過激派の弾圧がすすめられた。ジャック・ルーはある程度孤立したが、彼の拠点グラヴィリエ区では、区の総会の議長になり、「サンキュロット万歳、ジャック・ルー万歳」の歓声で迎えられた。八月一八日から政府を攻撃し、各地で騒動を引きおこしたので、二七日パリコミューンの命令で逮捕された。一度釈放されたが、九月五日に再逮捕され、革命裁判所に送られようとした。この時、ナイフで身体を突きさし、自殺を試み、この傷がもとで死んだ。もっとも激烈な過激派がまず消減した。奇妙なことに、ジック・ルーにたいするパリコミューンの告発は、「王党派的思想で人民をまどわした」というものであった。彼の方針が適切であったかどうかは別としても、少なくとも王党派とのつながりは立証されていない。それでも、過激派が王党派とみられるのは注目すべきことである。

 

要約 第五章 恐怖政治の展開 一 過激派の攻勢と敗北

この節でいうことは、「ジロンド派追放で、すぐに恐怖政治になったのではない」ということです。6月から9月までは穏やかであった。マラですら生ぬるいと批判する有様であった。マラが暗殺されても、まだ復讐に立ち上がるというものではなかった。この点は、古くからの情緒的なフランス革命史とは違う

ロベスピエールの公安委員会入りが遅かったということも書いている。俗説では最初から実力者であるかのように書いているが、実は「新入り」なのだ。しかも「無任所大臣」のようなものだ。これが頼りにされていくのは、過激派の攻勢に立ち向かったからである。とはいうものの、彼も過激派に突き上げられて、もたもたした時期がある。その結果、過激派の要求を認めざるを得なくなる。この点は国民公会議員全体の責任になる。これがいわゆる恐怖政治の実行だ。

しかし、過激派の要求を聞いていたのでは,フランス国家は成り立たない。時期を見て過激派を抑圧した。まずはジャック・ルーの逮捕、自殺があった。これで一度は抑えたかと思われた。