2022年2月7日月曜日

12-フランス革命史入門 第三章の二 国民議会の改革

二 国民議会の改革


財政改革

フランス革命は財政問題を導火線としてひき起こされた。そのため、権力をにぎった国民議会がまっ先に努力したのは、旧体制の財政的弊害を改めることであった。その点については、国民議会の大多数がまとまり、改革に反対するのはネッケル派から右のごく少数派であった。そのため、議会におけるはげしい政争をみることなしに、つぎつぎと実現された。

この改革の中に、フランス革命のもっとも基本的な成果が含まれているのであるが、不思議なことに、ほとんどのフランス革命史において、しかるべき扱いをうけていない。ひどいばあいは、このような改革にはいっさいふれないでおいて、領主権の廃止とか憲法についての議論とか、国民議会におけるラファイエット派とジャコパンクラブ系の政争から生まれた改革に移ってしまう。財政問題では、せいぜいのところ僧侶財産の国有化とアシニアの発行に言及するだけである。これでは、アンシャン・レジームの弊害が、国民議会によってどのようにあらためられたかという因果関係が、筋を通して説明されない。

財政改革の基本的なものは、宮廷貴族の特権を廃止して財政支出を削減し、国家財政に余裕をのこしながら、ブルジョアジーにたいする債務を忠実に守り、破産させないように配慮することであった。そのためにおこなわれた一連の改革がある。

赤帳簿が廃止され、過去の不正をあばくためにその資料が公開された。年金を公表し、高額年金に大削減を加えた。しかも、宮廷貴族の主流が亡命したために、彼らの年金を支払う必要がなくなり、ますます節約になった。革命以前、元帥、中将、少将の年金が総額九七七万リーブルになったが、これを六〇五万リーブル削減した。上層部にたいする打撃は大きかった。

下級将校の年金は総額六一六万リーブルであったが、九九万リーブルの削減にとどめた。兵士の年金は総額五〇〇万リーブルであったが据えおかれた。このような改革で、全体として年金支払は一一〇〇〇万リーブルの節約となった。上に薄く下に厚い財政改革であり、亡命貴族は自動的に支払を停止された。この改革が、のちに国民公会の財政改革でさらに極端となり、一七九三年六月、三〇〇〇リーブル以上の年金を一律に切りすててしまった。

高額の報酬をもらっていた元帥の数を削減し、その報酬を三万リーブルに引き下げた。その半面、兵士の給料を引き上げた。親王領が没収され、王領地の不正交換が破棄された。王領地の不正交換とは、ロアン・ゲムネ大公の救済策にみたように、国家収入を減少させながら特定の宮廷貴族を救うものであった。

王と国王一族の宮廷の費用は削減された。総督、王の代理官その他の無用官職は廃止された。これらの官職に巨額の報酬と役得がついていたことを思えば、宮廷貴族のうける打撃はきわめて大きかったことがわかる。逆にいえば、それだけ国家財政を豊かにするべきものであった。

八月四日の宣言と人権宣言の中に含まれる人間の平等についての規定が、宮廷貴族の財政的特権を破壊する側面でも意味をもった。文武の官職にすべての市民を登用するという規定は、宮廷貴族の独占物であった高級官職に、あらゆる階層の市民が就任できる可能性を開いた。この面でも、宮廷貴族の特権は打撃をうけた。

国民議会が、租税徴収権を宣言して国王と争った意味が、新しい租税政策に反映された。貴族の減免税特権は廃止された。もちろん、旧体制のもとでブルジョアの一部もまた減免税特権をもっていたが、これも廃止された。この面では、貴族的なブルジョアも損害をうけ、地方貴族も法服貴族も犠牲をこうむらなければならなかった。

新しく定められた租税の約二分の一が地租であり、約四分の一が動産税と家屋税であった。当然、貴族は多額納税者になり、上流の宮廷貴族はとくに巨額の租税をおさめなければならなくなった。しかも、徴税を実行する官吏を新しく任命し、旧体制の徴税官を罷免したから、もはや情実によって貴族が租税の減免をはかることはできなくなった。こうして、貴族全体がそれ相当の納税者にかわり、国家財政のかなりの部分を負担しなければならなくなった。

貴族に負担を転嫁することによって、財政資金に余裕ができた。その部分をブルジョアジーに対する救済政策、さらには育成政策に注ぎこむことができた。国民議会は、国庫にたいする債権をもっている者を保護し、国債の元本と利子を保証すると宣言し、これを実行した。このことによって、ブルジョアジーを破産させる旧体制の財政政策は終りをつげた。

ケース・デスコントから半強制的に借款をつづけるという財政政策も終りをつげ、過去の借款にたいしてはアシニアで償還し、債務不履行にならないように配慮した。このために、信用の動揺は静まり、ブルジョアジーからは破産者をださずにすんだ。商工業、金融業は安定して、繁栄の局面に入ることができた。国民議会は工業にたいする奨励金を増加し、工場建設のために国有地を交付してブルジョアジーの発展を財政面から積極的に援助した。このような政策は、バスチーユ占領の結果ブルジョアジーの議会が権力をにぎったため、当然実現されるべきものであった。これが、王権との激突の結果である。ところが、これらの政策が意外に評価されていない。これではフランス革命の本質が分らない。本質的な変化とは、宮廷貴族の権力が破壊され、上層ブルジョアジーの権力が確立し、前者の財政的特権が奪われ、その犠牲のうえに、後者に有利な財政政策が確立したことである。

もちろん、僧侶財産の国有化とアシニアの発行もまた、高級僧侶に打撃を与えた。高級僧侶は宮廷貴族であったから、この面でも、宮廷貴族の財政的特権に打撃を与えたと評価するべきである。


封建権利の部分的廃止

八月四日の宣言で約東された封建権利の廃止については、国民議会の封建委員会に委託された。この委員会には貴族議員が多く、書記として、実務上の仕事をしたメルラン・ド・ドゥエは封建法学者であった。このため封建委員会は領主権を温存しようとする立場に立っていた。

そこで封建的権利を二つにわけ、土地に付属している領主権つまり貢租と不動産売買税、土地に関するマンモルト(死亡税)は地代の一種とみなし、存続させることにした。貢租の徴収権は財産の一種と考えられていた。もしこの負担からまぬがれたいと思えば、土地の所有者(厳密には保有者)は、領主にたいして二〇年分から二五年分の価格に相当する資金で買い戻さなければならないと規定した。こうして、封建的権利の有償廃止が、一七九〇年三月一五日の法令として成立した。

このような形での領主権廃止は、領主権に服している土地所有者にとって、全面的に喜ぶべきことにはならなかった。領主は、改革を見越して領主権の増徴につとめた。このため、所によっては土地所有者の負担が大きくなり、領主権収入が増加したところもあった。買戻しの可能性が法律として成立しても、買戻しのできるものは、かなり豊かな土地所有者でなければ不可能であり、一般の農民には考えられるものではなかった。そこで、この法令にたいして多くの批判がだされた。

「諸君は封建制を絶滅するものと信じた。しかし、買戻しに関する諸君の法律はその反対のことをした」。

「この一七九〇年のいまわしい法令は、貢税を負担している土地所有者の破減である。この法令が生んだ訴訟はかぞえきれない」。

こうして、ひとたび静まっていた反領主的暴動が各地で活発になりはじめた。多くの本ではこの暴動の参加者が農民であったと書かれているが、貧農や中農ばかりと解釈しては誤解になる。領主権に服している者は、貴族、ブルジョア、富農からはじまって中農・貧農にいたる、さまざまな階層のものであったから、領主権を攻撃するという点では、これら幅広い所有者の階層が一致するはずであった。

ただし、大農民の中で、貢租の徴収を請負っている者(大フェルミエ)は領主の側に立つはずである。そうした動きをよく示しているのは、一七九〇年一二月に発生したグルドン郡の暴動であった。この暴動は地方貴族に指揮されていた。農民は、領主のみならず、貢租の徴収を請負っていた大農民にも攻撃をかけた。

このような反領主的暴動を、当時の国民議会の多数派は鎮圧しようとした。国民議会の多数派は、自山主義的な貴族(領主)と最上層のブルジョア(領地を所有する)の手にあったため、領主権にたいする攻撃を財産にたいする攻撃とみなしたからである。

そこで、一七九〇年八月三日、神聖な所有権を侵すための暴動にたいして厳罰を下すという法令を決定した。フランス革命のスローガンが「自由、平等、友愛」であると思われているが、これはのちのことであって、革命の初期は「自由、平等、財産」であった。財産の権利が王権から侵害されそうになったので、バスチーユ襲撃を起こしてこれを守ったという意味である。ただ、その財産権には貢租の徴収権、すなわち領主権も含まれていたのである。

こうして、フランス革命の第一段階では封建貢租が消減しなかった。封建的権利のうち、人身に附属する領主権とみなされたものは無償で廃止された。領主裁判権、市場税、通行税、強制使用権、賦役、マンモルト(死亡税)、狩猟権、鳩小屋権などである。また、領主が共有地の三分の一を取りこむ権利(トリアージュ)が廃止され、これを一七六〇年にまでさかのぼらせた。領主特権放牧権も禁止された。このような改革は、やはり領主にたいするかなりの打撃であった。逆にみると、農民その他の土地所有者にとっては、かなり有利なものとなった。

ただし、これを単に領主対農民だけの関係で評価するべきではない。通行税や市場税が廃止されたことは、商品流通を担う商人にとっては非常に有利なことであった。この意味では、ブルジョアジーにたいする領主の収奪が消滅したということができる。領主権の廃止は、農民だけではなくて、ブルジョアジーにたいする恩恵にもなったのである。

十分の一税は廃止されたが、それに相当する額は土地の所有者が受け取るものとされた。中農ならば間題はないが、大農民または商人地主のもとで小作人が働いていたばあい、廃止された十分の一税は、彼ら大土地所有者の収入を増加するものとなり、小作人の収入を増やすものにはならなかった。そうしたところに貧農の幻滅が発生し、これがつぎの問題に発展することを記憶にとめておかなければならない。


郡県制と地方自治法

一七八九年一二月二二日、地方自治についての法律が決定され、これにもとづいて翌年一月地方自治体の選挙がおこなわれた。全国はほぼ同じ面積の八三県に分割された。県の下に郡がおかれた。それ以前は大小まちまちの州に分割されていて、州と州の間に税関がもうけられ、間接税の制度もまちまちであった。これが、近代的な意味での郡県繝に統一されたのである。

新しくできた地方自治体の議会と行政官は、選挙で選ばれることになった。県知事以下の行政官と三六人の県議員は、選挙人の総会によって選ばれることになった。選挙人は三〇スー以上の税金をおさめる者であり、被選挙人は、五リーブル以上の税金をおさめるものと決められた。議員は無報酬であった。

こうした条件のもとでは、議員も行政官も裕福な者によって構成されることになる。市町村についても同じような規定がもうけられた。また選挙のための集会は地域別でおこない、職業別でおこなってはならないと規定された。これは、伝統的な勢力をもっていた同業組合(ギルド)の政治的影響力を押えようとしたものである。こうした法律にもとづいて、翌年(一七九〇年)の一月に、地方自治体の選挙がおこなわれた。その結果、各地に、ブルジョアジーと自由主義的貴族の支配する議会と行政組織が成立した。

また、旧体制のもとでは、度量衡の制度が地方によってちがっていた。これを統一するために、一七九〇年五月一〇日国民議会の中に度量衡委員会が設立された。ここで、科学者であり徴税請負人であったラヴォアジエが指導力を発揮した。彼らの仕事はCGS系単位の制定となって完成された。センチメートル、グラム、秒、の単位であるが、これが一七九三年八月公布された。ここで度量衡の統一が実現した。


第一身分と第ニ身分の廃止

一七九〇年六月、貴族の称号を使うことが禁止された。以後すべての人が「市民」(シトワイヤン)と呼ばれることになった。それ以前、身分の高い貴族は猊下(モンセニュール)と呼ばれ、普通の貴族はムッシュと呼ばれていた。貴婦人はマダムをつけて呼ばれていた。こうした区別がなくなって、すべてがシトワイヤン(男)、シトワイヤンヌ(女)で呼ばれることになった。ただし、この改革は定着しなかった。革命後、また貴族の称号が

復活した。「市民」の呼び名は姿を消した。かわって、ムッシュ、マダムが普通の人にたいしても使われるようになった。平たく言えば、貴族を市民に引き下げるかわりに、市民を貴族に昇格させる形で平等化へ近づいたのである。

同年九月七日、高等法院が廃止された。これによって、司法機関が貴族の支配するものではなくなった。裁判官に平民が登用される道が開かれた。地方自治法によって、総督、王の代理官のような宮廷貴族の独占していた官職が廃止された。こうして、宮廷貴族から法服貴族にいたるまで、貴族のにぎっていた官職が廃止され、ここに身分、家柄を問わず人材が登用される道を開いた。

また、同年二月二八日、貴族が軍隊の将校の地位を独占することを廃止した。これ以後は、貴族であろうと平民であろうと無関係に、功績によって昇進できることになった。ただし、さしあたりはまだ貴族の将校が優勢であった。平民の中から将校や将軍がでてくるのは、本格的な戦争がはじまり、戦争の中で能力と軍功を示す機会が与えられるようになってからである。

一七九〇年七月一二日、僧侶基本法が可決された。革命前、司教は国王とローマ法皇が任命し、司教が司祭を任命していた。今後は、司教と司祭は選挙によって選ばれることになった。選挙となると、司教の地位を宮廷貴族が独占するわけにはいかなくなる。そのうえ、司教の数を引き下げた。

また、その俸給をはるかに引き下げて、一万二〇〇〇リーブルから一万五〇〇〇リーブルの間と定めた。司祭の俸給は七〇〇リーブルから一二〇〇リーブルに増加させ、助任司祭の俸給は三五〇リーブルから七〇〇リーブルに増加させた。高級僧侶の数を削減し、その俸給を引き下げ、下級僧侶の俸給を増加させたのがこの法律の特徴であった。

僧侶基本法にたいしては、国民議会に議席をもっていた高級僧侶のほとんどが反対し、ローマ法王の決定をまたなければこの法律に賛成できないといった。国民議会がカトリックを国教とする案を否決したこととあいまって、高級僧侶は一気に反革命的な気分を高めた。

各地で僧侶の反革命的運動がひきおこされた。一七九〇年の春ごろから、南フランスの僧侶や修道僧が住民を煽動した。八月に入るとカトリック教徒の反乱が起こった。翌年の二月には、ラバスチード修道院長が反乱を起こした。これが西部につたわり、ヴァンデー地方で僧侶の指導する反乱へと拡大した。


ラメット派の台頭

一七九〇年九月四日、ネッケルが辞職したあとネッケル派の大臣にたいする非難が集中し、一〇月二〇日ネッケル派の大臣が辞職に追い込まれた。かわって、ラファイエット派からデュポール・デュテルツル(法務大臣)、デュッルバイユ(陸軍大臣)、ベルトラン・ド・モルヴィル(海軍大臣)が入閣し、ラメット派からドレッサール(内務大臣)が入閣した。これによって、行政権はネッケル派から、ラファイエット派とラメット派の連合の手に移り、ラファイエット派が指導権をにぎることになった。

これと並行して議会ではラメット派の勢力が強くなり、一〇月二五日にはラメット派のパルナーヴが国民議会議長になった。ラメット、パルナーヴ、デュポールの三人をまとめて三頭派と呼ぶほど有力な勢力になった。ジャコバンクラブはこの三頭派に指導され、彼らを支持していた。

これから翌年の一七九一年六月までの約八カ月は、ラファイエット派とラメット派の激突がつづき、これは角度をかえるならば、一七八九年協会とジャコバンクラブとの闘いになった。その闘争の中で、ラメット派が、ラファイエット派の抵抗をしりぞけて改革を進めていった。

この闘争を横目にみながら、国王は、パリに残って事態を改善しようという努力をすてた。ネッケル派の大臣にかこまれている間は、まだ我慢ができた。なぜなら、多少気にいらないとはいっても、ネッケル派はともかく宮廷貴族であり、革命前にも大臣をだしていた。改革派ではあっても、ともかく国王の側近であることにはまちがいがなかった。ネッケル派がしりぞけられてしまうと、もはや国王は信頼できる大臣をもつことができない。そこで、この時から国王の逃亡計画が練られることになる。この計画が、一七九一年六月二〇日に実行されたヴァレンヌ逃亡事件である。

ラファイエット派とラメット派の闘争はつきつめていえばブルジョアジーの内部抗争であった。権力は、もはや宮廷貴族の手からはすべりおち、階級としてのブルジョアジーの手ににぎられていた。ただし、そうはいっても、ブルジョアジーに純化されたという意味ではない。

まだ当時のブルジョアジーが社会的権威をもっていなかったので、どうしても、全国に名を知られた名門貴族の権威にたより、彼らの協力を求めなければならなかった。そのために、一方の勢力は、ラファイエットを中心とする自由主義貴族と提携し、その指導に服したが、それに対立するジャコパンクラブ系のブルジョアジーもまた、同じく名門貴族のラメットを指導者に仰がなければならなかった。そこで指導者個人だけをみるならば、ともに自由主義的な官僚貴族であり、アメリカ独立戦争に参加した名声をもつという点では、かわるところがなかった。これだけをみるならば、両派の相違がどこにあるかわからなくなる。そこで、それを額面通り受けとって、両派の間に基本的な相違がないと書く歴史家が多い。


ラファイエット派とラメット派の相違

ソブールの『フランス革命』では、両者の相違についてほとんどなにもふれていない。

一七九〇年一〇月二〇日以後の改革が、ラファイエット派によっておこなわれたのか、あるいはそれに逆らってラメット派がおこなったのかという問題が無視されている。ただ、経済改革はそれだけでまとめられており、政治的変動は別に並列してまとめられている。政治と経済が分離されているために、両派の相違がわからなくなっている。

マチエの『フランス大革命』では、はっきりと、両者の間に基本的なちがいがなく、個人的な争いがあっただけだといっている。

「すくなくとも最初のうちは、ジャコパン派と八九年協会の間には、基本的な理論上の相違はなくて、むしろ個人間の争いがあった。要するに、八九年協会とジャコバン派の間には、権力の有無という壁があったにすぎない。八九年協会は内閣の閣僚であり、ジャコパン派はこれになろうと望む人々である」(上巻、一六四-五頁)。

そのあとで、マラがラメット派を信用しないと書いたことを引用する。マラからみれば、両派ともにブルジョアジーの党派であるから、その点にちがいがないのは当然である。彼がより下の階層を足場にしていたからである。しかし、だからといって、両派の間に基本的なちがいがなかったというわけにはいかない。

ラファイエット派に集まるブルジョアジーは最上層のブルジョアジーであり、寄生的、特権的、封建的性格を強く身につけたブルジョアジーであった。商人、金融業者、大工業家でありながら領地をもち、貴族の称号をもつようなブルジョアがいた。このような例は、すでに紹介してある。

アルザスの鉄鋼業者ディートリックとか、ロレーヌの鉄鋼業者ヴァンデルなどがその例である。また、インド会社やケース・デスコントのような特権会社の大株主、理事になった銀行家、商人もそうである。

彼らは、旧体制のもとでも、国王から特権を与えられていた。財政上の問題で王権と衝突したため、革命をおこなったのであるが、さりとて、旧体制のもとでにぎっていた特権そのものは手ばなそうとはしない。こうした最上層のブルジョアの実例としては、ボスカリのような人物をあげることができる。旧体制の徴税機構に寄生して収入をあげていたものもいる。徴税請負人はそのもっともはっきりとした実例であり、ラヴォアジエはその代表的な人物である。彼らもまたやはりブルジョアジーの一員ではあったが、同時に、徴税権を濫用することによって、他のブルジョアを傷つけていた。

ブルジョアジーの内部で、絶対主義時代の遺物をまとい、これを利用しながら、他のブルジョアを支配していこうとする者と、そうした遺物をはねのけて、より自由な資本主義的社会秩序を実現しようとするブルジョアの間に闘争がおきるのは当然であった。ブルジョアジーの性格のちがい、これがラファイエット派とラメット派の相違になった。

そして、名門貴族のラメットが、より急進的なブルジョアジーの代弁者になったのは、彼が植民地ドミニカ(首府はサン・ドマング=サン・ドミンゴ)の大地主であったからである。植民地大地主と貿易商人の間には、融資関係を通じて密接なつながりがあり、「フランス植民者の交通協会」が植民地貿易の圧力団体としてつくられていた。そこで、ラメットが、これら貿易商人の代表としてかつがれた。


総徴税請負人の敗北

ラメット派とラファイエット派の闘争の焦点は、国内関税の撤廃、徴税請負制度の廃止、特権制度の廃止であった。

入市関税や販売の独占権についてはすでにバスチーユ襲撃と大恐怖のころから攻撃が行なわれており、各地でこれをめぐる騒乱がおきた。マルセイユでは、肉の販売権を独占している大商人ルビュフェル(徴税局長)にたいする襲撃事件がおこった。そのとき、暴動の責任者として、貿易商人の一団が投獄された。ルベキ、グラネなどであった。彼らに支持されていたミラボーは、国民議会で奮闘して、一七八九年一一月から一二月にかけて、彼らを救出した。翌年の市議会選挙で、彼らが当選した。この場合の闘いは、ブルジョアジーとブルジョアジーの内部闘争である。

同じようなことが、パリでもリヨンでもおきた。リヨンではたびたび群集のカで関門が実力突破され、その混乱に乗じて、商人が無税の商品を運びこんだ。しかし、国民衛兵のカで、この動きを弾圧して、一七九〇年七月リヨンの入市関税が再び確立された。これに対して、職人達が反乱をおこしたが弾圧された。このとき、のちにジロンド派の指導者になったロラン(マニュファクチュア検査官)は、入市関税反対の運動を指導した。

一般的にいって、入市関税反対運動を進めたグループは、のちのジロンド派系の指導者になっている。ジロンド派を支持する者は、やはり商工業者、金融業者として、大ブルジョアジーに属するものであった。それにしても、寄生性、特権性がより薄かったために、この時点では民衆の側に立ち、入市関税を攻撃したのである。

こうした運動の波におされて、国民議会は、一七九一年二月一九日、入市関税撤廃の決議をおこなった。

「五月一日を期して、市、村、町に入ってくる商品にたいしてなされる課税をやめる」。

この法令については、右派のモーリ枢機卿、貴族議員のカザレスなどが、あらゆる方法で議事を妨害した。これにたいして、議長のルシャプリエやルぺルチエ・ド・サンファルジョー(パリ高等法院議長)が積極的に賛成し、成立させた。このとき、エべールの新聞『ペール・デュシエーヌ』(デュシエーヌじいさんの意味)は、当時の気分を、卑俗な表現でつぎのように書いている。

「ぶどう酒、肉その他すべての食料品の入市関税が廃止され、やっと、貧しい人民の犠牲の上に富をたくわえていた総徴税請負人が打倒された。彼らの傲慢の時代はすぎた」。

こうした改革は、単に議会内での闘争だけによって実現したのではなく、議会外の運動の圧力によって実現された。すでに二月一五日、パリ市の関門が密輸人の暴力によって押しやぶられ、興奮した群集のために、徴税局吏員と守衛は手をだすことができなかった。二月一八日、すなわち入市関税撤廃の法令が議会で討議されている日、工場労働者の集まってつくった密輸人の団体によりパリの関門が重大な脅威をうけたという。そのため、すべての関門を効果的に警備せよと、パリ市長バイイが国民衛兵参謀長グヴィヨンに指示したほどであった。

入市関税廃止の直前、四月二九日には、関門に車の大群がつめかけた。そのため、期限の五月一日には全般的な騷動がおこり、統制が不可能になるかもしれないと参謀総長が報告しているほどの情勢であった。このような騒乱状態が、議会の決議に影響をおよぼしたのである。

総徴税請負人にたいする攻撃がますます高まった。一七九一年二月一二日、タバコの耕作と販売に関する総徴税請負人の検査が廃止された。このときも、モーリ枢機卿を中心とする右派の反対派が強く、三七二対三六二の少差で可決された。エべールの新聞『ペール・ディシエーヌ』は、つぎのように当時の気分を表現している。

「なんと、モーリ僧正はまた反対した。彼は、われわれを困窮の中におこうとしているのだ。畜生め。しかし、いまやわれわれは、自分の小さな庭や畑でタバコの菜園を作ることができる……タバコは安くなり、自分のそばに良質のぶどう酒びんをおいて、よい機嫌で愛国のシャンソンを歌うことができる」。

この法令の討議の中で、ミラボーの転向がはっきりしてきた。この時点まで、ミラボーはジャコバンクラブの側に立ち、議会ではラメット派に協力的であったが、この法令の討議については、右派と手をむすんで反対した。そのことについて、エべールの『ペール・デュシエーヌ』はつぎのように書いている。

「前伯爵ミラボーにたいする大いなる怒り:……この野郎、お前はどうしてタバコの栽培と商業の自由について反対したのだ。この日から、お前はモーリ僧正の友になった。そのうえ、議会が終ってから、お前は彼らの一味とタ食を共にしたというではないか」。

こうして、ミラボーは左派から保守派に転向した。しかし、だからといって、ミラボーを支持していた銀行家、商工業者が転向したというのではない。革命前からミラボーと結びついていた銀行家クラヴィエールは、議会で、タバコの自由耕作と商業の自由について演説し、旧来の検査と統制は所有権と社会契約に反すると主張した。

この問題をめぐる闘争でも、左派の側にも、一流のブルジョアの姿をみることができる。そして、ミラボーのような貴族は、一時的に彼らと手を組んでも、立場がちがうので、ある段階で離れやすいという傾向もみることができる。こうした闘争のいきつくところ、三月二〇日総徴税局が廃止された。絶対主義のもとで大いに権力をふるい、ブルジョアジーの中から出ながら、ブルジョアジーの多数に憎まれていた総徴税請負人の勢力は打破された。


商工業の自由をめぐる闘争

東方貿易を独占していたインド会社の特権廃止が、四月にとりあげられた。議会におけるはげしい討議の結果、インド会社の貿易独占権は四月三日廃止された。この時の気分を、ナントの貿易商人モスヌロンはつぎのように書いている。

「勝利、勝利!ケープタウン以東のインド商業は、すべての商人にとって自由になった。国民議会は、昨夜七時間の討論ののちに決議した。はげしい討論と、決議の延期をめぐる指名点呼により、三八五対二七五で延期が否決された」。

このようにして、特権的なブルジョアジーの勢力が、普通のブルジョアジーの勢力によって撃破され、商工業はいっそう自由になった。ジャコバンクラブに代表される商工業者や銀行家は、この時点では、自由主義を旗印にかかげて、自分よりも上の特権的ブルジョアジーの抵抗を打破した。

それと並行して、自分達より下の、職人層の同業組合の特権を自由主義の原則に反するものとして攻撃した。その結果、二月から三月にかけて、同業組合が禁止され、労働の自由が確認され、職業上の特権が廃止された。

四月一日、営業の自由がうちだされ、職業の選択は自由になった。これにともない、一定の営業免許税を支払えばよいことになった。

こうした改革にもとづいて、ギルドの親方職も廃止され、中世以来長く続いた徒弟制度は終りをつげた。同業組合はすでに時代遅れとみなされていたから、これを廃止するとき強力な反対はすくなかった。

ただ、奇妙なことに、左派の革命家マラ、すなわちのちに恐怖政治の推進者になる一人が、新聞『人民の友』の中で、同業組合廃止に反対し、厳格な徒弟制度の必要を主張した。マラは、恐怖政治の時代にはもっとも急進的な革命家になったが、同業組合の問題については、むしろ経済の進歩に逆行する中世的な思考をもっていたのである。


反領主暴動と労働運動の抑圧

ラファイエット派とラメット派の対立もさることながら、国民議会の方針に逆らう動きにたいして議員の多くが協力して、これを抑圧するための法令を打ち出した。この面では協力が対立に優先したのである。それは、農業問題と労働者、職人の問題をめぐってであった。

封建権利の部分的廃止は、農民やその他の土地所有者に深刻な不満をのこした。貢租と不動産売買税(臨時的権利)の無条件廃止を要求して、農村の暴動がはげしくなった。そうすると、国民議会は八月に、騒乱にたいして厳罰を課するとの法令を決議した。

六月一五日には、再び封建委員会のメルラン・ド・ドゥエの報告にもとづいて、「所有権に対して、それにふさわしい尊敬を払うべきである」と、領主権の神聖を宣言し、これにたいする反乱にたいしては、強い態度でのぞむことを再確認した。こうして、農業間題では、領主権の死守が国民議会の多数意見として確認された。

六月一四日、ルシャプリエ法が公布された。これは、経済的自由主義の名のもとに、職人組合や労働組合の結成、争議行為の禁止を徹底させるとともに、同業組合の再建も禁止するという性質のものであった。当時、約八万人と推定されるパリの労働者、職人の組合が結成されつつあった。六月に入ると、蹄鉄工が賃上を要求し、労働時間の短縮を要求してきた。日給三〇スーを四〇スーに引上げ、一三時間労働を一二時間労働に短縮せよというのである。これに脅威を感じた親方層が議会に請願したために、この法律ができた。

ルシャプリエ法によると、職人、労働者、日雇人の集会や組合の結成は、「労働の自由な契約を妨害する行為」とみなされ、経済的自由主義の原則から禁止された。違反者や煽動者には厳罰が与えられることになり、市町村当局は、このような組合や集団の請願に応じてはならないと、強い態度を示した。

このルシャプリエ法は、フランス革命がいかに激化しても、撤廃されることはなかった。もっとも急進的なロベスピエール派といえども、労働者や職人の運動にたいしては、この法律と同じ態度をとりつづけた。その意味では、恐怖政治の最中においても、労働者や職人が国の主人公になることはなかったのである。

同じような性格の事件と結末が、軍隊の中に起きた。一七九〇年八月三一日のナンシー事件であった。ここの軍隊の中に反抗的な気分が広がり、兵士が将校にたいして連隊の会計報告を要求し、不正を摘発した。将校はまだ名門貴族でかためていたために、これは、軍隊における反貴族の暴動になった。八人の兵士が、議会に請願書をもってきた。

しかし、ラファイエットと陸軍大臣ラツール・デュパンは鎮圧法を可決させ、ラファイエットの従兄・ブイエ侯に軍隊を率いてナンシーに進撃させた。ブイエ侯は、「この時期をとらえて軍と公共の秩序について、圧倒的模範を示さなければならない」といい、兵士の指導者一三八人を処刑した。こうして、軍隊の中において、依然として貴族支配の体制が維持されたのである。 

要約 第二章 フイヤン派の権力 二 国民議会の改革

はじめに財政改革が取り上げられているが、このような形で、財政改革を深く掘り下げているフランス革命史は他にはない。一般的には、急に、理念的なもの、思想、政治に話題が行ってしまう。だから、少し我慢をして、財政問題を紹介している文章について、理解をしようという気になってほしい。一言でいえば、国家財政の支出部門では、ヴェルサイユに集まる貴族に対して莫大な資金が支出されていたこと、革命の結果これが削減されたこと、この変化が納得されればよいのである。貴族は依然として多額納税者ではあったが、革命以前は、多収入の少額納税者であった、このことをしっかりと記憶にとどめてほしい。現代社会に慣れている頭では、多収入の人が少額納税者であることは、「ありえない」ものと思い込んでいるからだ。


11-フランス革命史入門 第三章の一 革命の諸党派

第三章 フイヤン派の権力


一 革命の諸党派


僧侶財産の国有化とアシニアの発行

ネッケルは、ラファイエットと妥協してパリに入り、しばらくは財政を動かしていた。しかし、彼は銀行家であっても、宮廷生活に深入りしすぎていた。そのため、国民議会のだしてくる財政改革案についていけなくなり、抵抗するばかりになった。財政危機がますます深刻化したので、ケース・デスコントを国立銀行に改組して、その紙幣を国家の保障つきで増発する案を考えた。しかし、この紙幣はすぐに下落することが見通されていた。

これにたいして、タレイランが一〇月一〇日、僧侶財産の国有化を主張した。これが一二月二日、可決された。そのあと、一二月一七日、国民議会の財政委員を代表して、銀行家ルクツーが報告し、ネッケルの提案をしりぞけ、国有化された僧侶財産を担保として紙幣を発行することを決定させた。この紙幣をアシニアと呼んだ。

ただし、アシニアを紙幣というべきかどうかについては疑問の余地がある。不動産の実物価値に裏付けられているうえ、はじめに発行されたのは、五分の利子つき証券だったからである。しかし、フランス革命の全体的な

観察からすると、紙幣としての役割を果すことになったといえよう。

この政策は政治的な革命が財政的な革命となり、とくに財産上の革命へとすすんだメルクマールであった。僧侶財産の国有化とはいっても、切りすてられるのは高級僧侶の収入であり、下級僧侶にたいしては、それに見合

う俸給を国家が支給することになったので、さしあたり経済的な打撃にはならなかった。高級僧侶は、大規模な寺院、大規模な領地を取りあげられるのであるから、ほとんどが反対し、この政策のあとで反革命運動に転じた。ごくわずかな高級僧侶、タレイラン司教とかシエース副司教だけが賛成にまわった。

アシニアを受け取った者は、これで僧侶財産を買い入れることができた。この紙幣は土地、建物という不動産の価値で裏付けられているので、信用が高まり、紙幣としては効力を発揮した。国家がケース・デスコントから借り入れを重ねていた一億七〇〇〇万リーブルは、このアシニアによって返済された。


ネッケルの敗北と亡命の第三波

アシニアの発行は、ネッケルの財政政策の第一の敗北であったが、つづいて第二、第三の敗北が起った。ネッケルは、はじめ四分の一愛国税を提案して、収入の四分の一を租税として徴収し、これで財政困難をたてなおそうとした。自分も一〇万リーブルを率先して提供し、人気をとろうとした。しかし、この政策は反対が強く、立ち消えになった。

財政危機を立て直すためには、思いきった改革が必要であった。しかし、ネッケルは積極的に改革を行おうとはしなかった。宮廷貴族の高額の年金を削減すること、国王の秘密支出のもとになっていた赤帳簿を廃止することが議会から要求された。実際、これを行わなければ、財政支出は節約できず、国王の財政的な権力はのこり、宮廷貴族はいつまでも財政的特権を享受するから、なんのために革命を行ったのかわからない。

しかし、ネッケルは赤帳簿の公開に反対した。また、宮廷貴族の年金は財産であるから、尊重しなければならないという立場に立って、これを切り下げようとはしなかった。今や、ネッケルは宮廷貴族と国王の財政的権利を守ろうとする側にまわったのであり、国民議会の多数派からみれば、ネッケルが保守派の牙城にみえてきた。

ミラボーは、ネッケルについて「一人の大臣の財政的独裁」と批難した。ネッケルは、宮廷に深入りした銀行家として、はじめは宮廷の弊害をあらためようとする改革派として出発しながら、革命が進行するとともに、宮廷の特権を維持しようとする保守派にまわったのである。ついにネッケルの没落するときがきた。

一七九〇年三月六日、ネッケルは国民議会財政委員会に「前使い金」を要求したが拒否された。四月に入ると、赤帳簿を国民議会の年金委員会に手わたさざるをえなくなった。宮廷貴族の高額の年金も、ネッケルの反対を押し切って削減された。もはやネッケルの時代は終った。

一七九〇年九月四日、彼は国民議会に辞職を伝える手紙を書いた。彼の手紙が読み上げられても、国民議会ではなんらの動揺も起こらず、議長は冷淡につぎの議事に移った。ネッケルはフランスを去ってスイスに帰ったが、一時捕えられて侮辱された。このようにネッケルは、銀行家として成功し、貴族社会の成上り者となり、自由主義貴族の社交界の花形となり、フランス革命第一段階の救世主として仰がれたが、結局はそのフランス革命で失敗した。ただし、スイスにおいては依然として大銀行家であり、豪荘な邸宅に多くの召使にかこまれて住んでいた。

このあと、国家の財政の実権は国民議会財政委員会の手に移行した。それを代表する者がルクツー・ド・カントルーであった。彼も銀行家、法服貴族、工業家、大商人の要素を兼ねていたが、ネッケルのように宮廷に深入りしていたわけではなかった。ネッケルのように、銀行家でありながら宮廷貴族とまじりあっていた者が、ブルジョアジーの頂点からまっ先に脱落していったのである。

また、宮廷貴族の穏健な改革派がネッケルとともに脱落した。ネッケル派の宮廷貴族ショワズール公爵、モルトマール・ド・ロシュシャール公爵などが亡命をはじめた。またネッケル派の大臣シャンピオン・ド・シセ(法務大臣)、ラ・リュゼルヌ(海軍大臣)、ラッール・デュパン(陸軍大臣)、サン・プリースト(内務大臣)は、すべて高級僧侶か宮廷貴族でありながらネッケル派として政権を担当していたが、辞職に追い込まれた。

新しく選出されてきたパリの区の代表者が、ネッケル派の大臣の罷免を要求した。このときにダントンが運動の先頭に立ち、名前を知られるようになった。一〇月二〇日、国民議会はこの要求を少数の差で否決したが、票の差が少いために、ネッケル派の大臣は自ら辞任したのである。

このことによって、ネッケル派は完全に権力の座からすべりおちた。この事件が、パスチーユ襲撃以来まだ行政権の中にのこっていた宮廷貴族の要素を消滅させた。宮廷貴族の勢力は、バスチーユ襲撃でその中心部を破壊され、ヴェルサイユ行進でさらに削減されたが、ネッケル派の辞職によって、最後に残った柔軟派までが追いおとされた。


王党派的反対派

ヴェルサイユ行進ののちに、革命運動を指導、組織するべきいくつかの党派が形成された。革命の前にあらかじめ一つの党派が形成され、それが革命を指導したのではない。財政的危機からくる自然発生的な運動の中で、それぞれの階級の人物が動き、その雑然とした情勢の中から、しだいにいくつかの党派へのまとまりがつくられていった。

もちろん、現代の政党政治のような整然たるものではなく、どの党派にも加盟せず、そのときそのときで投票していた議員も多い。また、一人の人物が、二つの党派に同時に加盟しているばあいも多かった。たとえば、ブリッソは、一七八九年協会とジャコバンクラブの両方に加入していたが、ラファイエットもミラボーも同じことをしていた。そのため、党派とはいってもまだ形成されたばかりのもので、政党政治の党派とはかなりちがっていた。

国民議会は三部会の議員によって構成されたものであり、かなりの亡命者をだしたとはいえ、まだ貴族や僧侶の議員ものこっていた。こうした勢力によって、革命の進行に抵抗しようとする右派が作られた。

クレルモン・トネール伯爵、モンテスキュー司教、ヴィリュウ伯爵、地方貴族のカザレスなどが中心になり、一七九〇年一一月「立憲王制友のクラブ」を作った。

彼らよりもさらに保守的な政治家としては、モーリ枢機卿に代表される保守派があった。ただし、いずれにしても、国民議会において彼らはもはや与党ではなくて、右翼的な反対派の立場に転落し孤立していた。


一七八九年協会またはラファイエット派

国民議会の指導権をにぎった党派は、ラファイエット派と呼ばれた議員の一団であり、「一七八九年協会」にまとまったものである。このクラブは、一七九〇年五月に設立され、入会金は一〇〇リーブルであった。これでは、かなり高い収入がなければ入会できないから、ここには革命勢力の中の最上層部に属する者が参加した。

もっとも目立つものは、自由主義貴族と最上層のブルジョアであり、ブルジョアのばあい、多くは貴族・領主を兼ねていたり、国債の大所有者であったりしたものである。その意味では、自由主義的領主と貴族的ブルジョアの同盟ということができる。貴族の代表的人物としてはラファイエット侯爵、コンドルセ侯爵、ミラボー伯爵、ラ・ロシュフーコー・リャンクール公爵、キュスチーヌ伯爵、カステラーヌ伯爵などの自由主義的宮廷貴族が目立っていた。高級僧侶の中ではタレイラン司教、シエース副司教が目立っていた。

法服貴族では、レデレ伯爵(メッツ高等法院判事)、ダンドレ伯爵(エクス高等法院判事)などが目立っている。

最上層のブルジョアには、ラヴォアジエ、ボスカリ、クラヴィエール、ユべール、モヌロン、ビデルマン、ドレッセール、デュフレーヌ・サンレオンなど多くの大ブルジョアの姿がみられる。デュフレーヌ・サンレオンは国民議会清算委員会事務局長になり、ラヴォアジエは国民議会から度量衡制度の改革をまかされて、CGS系単位を確立した。ペルゴ、ジョージ、コッタンのような銀行家は、ラファイエットの副官となって、軍事、行政の指導権をにぎった。

法律家、知識人も多いが、彼らは他の党派にもちらばっている。第一段階の革命を「法律家の革命」というほど法律家の姿は目立っているが、法律家という区別はあくまで職業上の区別であって、これをあいまいに使うことはよくない。その法律家が、どのようなグループの代弁者になっていたかが重要である。

一七八九年協会に参加した知識人の代表的な者は、天文学者バイイである。彼は革命後初代のパリ市長となり、「テニスコートの誓い」の指導者としても有名になった。彼自身は平民であるが、父親の代から王の芸術コレクションを管理する官職をもち、このために一六〇〇リーブルの年金を受ける権利をもっていた。また、王弟プロヴァンス伯爵(後のルイ一八世)の書記にもなっていたため、宮廷貴族の保守派とも交友関係があった。その意味では、知識人の中でもっとも上層に属するものであった。

弁護士ツールも一七八九年協会に加入した。彼はノルンディーに土地と邸宅をもち、これを賃貸して収入をあげる反面、商業に投資して利子収入を受け取り、領主裁判権の訴訟や僧侶の権利をめぐる裁判で、領主や僧侶の側を弁護して謝礼をもらっていた。それでいながら、革命になると、領主裁判権の廃止を主張する文章を書いている。弁護士の中では保守派であるが、同時に革命の側にも立てる人物であった。

重農主義者デュポン・ド・ヌムールは経済学者、文筆家として有名であったが、同時に領主であった。ラヴォアジエは徴税請負人、領主、工場経営者、科学者、農業研究家であった。

このように、一七八九年協会に集まる者は、革命に参加した者の中では最も上層の者であり、保守的な層を代表していた。彼らはネッケルを追い落してしまうと、革命をそのあたりで止めようとする気持をもちはじめた。


ジャコバンクラブ

ジャコバンクラブはさらに早く国民議会の左派系の議員によって設立された。パリのジャコバン修道院を会場にしたから、このように呼ばれた。ジャコバンクラブは、のちにいわゆるジャコバン派独裁の推進団体になるから、はじめから過激で下層階級の集まりであるかのように思われている。しかし、成立したときは、一七八九年協会よりは下であるが、当時としては、中流から上流の者でなければ参加できないほどの雰囲気をもっていた。

会費は年間二四リーブル、入会費は一二リーブルであるから、職人や労働者ではとても参加できない。せいぜいのところ、職人の親方層までが加盟できるくらいである。下はこのような階層から、社会の上層にいたるまでの加盟者がいた。

その筆頭にはシャルトル公爵がいた。彼はオルレアン公爵の子で、のちのルイ・フィリップ王(七月王政の国王)である。国王に匹敵する財産家といわれたオルレアン公爵の子が、ジャコバンクラブに参加しているのも奇妙な話であるが、この家系は、一貫して、革命運動を軸にして王位をねらうという政策を追求していた。

そのほか、貴族議員もかなり参加していてミラボー伯爵、ラメット伯爵兄弟(テオドール、アレクサンドルとシャルル)、デュボワ・ド・クランセなどがその代表的なものであった。このうち、デュボワ・ド・クランセは恐怖政冶の時代にも軍事委員として活躍した。ミラボーは早く死に、ラメット兄弟はのちにジャコパン派を脱退してラファイエット派と合流し、フィヤンクラブを結成するようになる。

貴族でない議員では、法律家が多かった。バルナーヴ(弁護士)、デュポール(高等法院判事)、プリュール(マルヌ県出身の弁護士)、ルシャプリエ(弁護士)、ビュゾ(弁護士)、ペチヨン(弁護士)、ロベスピエール(弁護士)などが主だったメンバーである。

ビュゾ、ペチヨンはのちにジロンド派となり、ルシャプリエ、パルナーヴ、デュポールはフィヤン派に参加し、フリュールとロベスピエールは恐怖政治の公安委員となった。このように、当時のジャコバンクラブは、この三つの党派に分裂していく要素を含んでいた。

ジャコバンクラブには、議員とならんで街頭の活動家も加入していた。その中でブリッソ、ダントン、カーミュ・デムーランが頭角をあらわしてきた。ブリッソは銀行家クラヴィエールとむすびついていた活動家で、のちにジロンド派の指導者になる。ダントンは弁護士であるが、その雄弁によって、のちにジャコバンクラブの指導者になった。カーミュ・デムーランは弁護士を一時していたが、「武器をとれ、市民よ」の演説で、パスチーユ襲撃いらい街頭の活動家になった。ジャコバンクラブではダントンと結びつき、のちにダントン派として処刑される。


コルドリエクラブ

一七八九年協会やジャコバンクラブは主として議員の集まりであり、そこでの討論は、法律の作成、議会での投票、政策の決定が討論の中心になっていた。直接権力をうごかす立場にあるクラブであった。

もう一つ、これとはちがって、権力の行使には参加できないが、大衆を組織してその意見を政府と議会に押しつけることを目的としたクラブが結成された。「コルドリエクラブ」がそれである。この起源は、はっきりとしたことはわからないが、一七九〇年四月には存在していた。パリのコルドリエ修道院を本拠として、「人間の権利のクラブ」という名をもち、会費は一月二スーときわめて安かった。

「世論の法廷に、権力の濫用と人権の侵害を告発すること」を目的にしていた。会費が安いので、小商人から手工業の親方、職人、労働者などの貧困な市民までが参加した。それだけに、時として急進的な行動を起こすこともあり、ジャコバンクラブよりも左派と思われていた。

このクラブの指導者の中に、恐怖政治の推進者の姿がかなりみられる。ダントンとカーミュ・デムーランは、コルドリエクラブとジャコパンクラブの両方に加入していた。

マラは、王弟アルトワ伯付の医者であったが、自然科学から文学、社会問題にいたる著述をおこない、バスチーユ襲撃ののち、新聞『人民の友』を発行した。革命政権の指導者とくにネッケルやパリ市長バイイを反革命的であると批判して、たびたび追及をうけた。のちにジロンド派追放、恐怖政治の実現に大きな影響力をおよぼすことになる。

そのほか、モモロ(印刷業者、コルドリエ新聞の編集者)、エベール、ショーメット(靴屋の息子)、ジャック・ルー(司祭)など、のちの過激派の指導者になる人物もまじっている。

ただし、コルドリエクラブが左翼的であるといっても、このクラブが純粋に小市民から労働者にいたる中・下層階級に純化されていたのではない。むしろ、この時期実際の指導権をにぎっていたのは、裕福なブルジョアであった。たとえば、リヨンの貿易商人フェリエールはジャコパンクラブとコルドリエクラブの両方に加入して、ショーメットを援助していた。また、それ以外にも貿易商人の名前がかなりみられる。商工業にたずさわっていない者でも、文筆家、芸術家、印刷業者、法律家など、社会の中流よりは上位に属する者が、このクラブの指導者であった。コルドリエクラブでさえも、ブルジョア的な枠をでることはなかったのである。

要約 第三章 フイヤン派の権力 一 革命の諸党派

国民議会では、まずネッケルの党派が敗北した。バスチーユの時は、ネッケルを守れという暗黙の理解があった。しかし、権力の座に復帰させてみると、今度はアシニアの発行とか、聖職者財産の国有化に対しては反対する勢力の指導者になった。大貴族(大領主)の高額年金の実態を公開せよという要求には抵抗した。これでは旧体制の守護者になってしまう。179094日ネッケルは辞職し、スイスに帰った。

そのあと、残った保守派は立憲王制友のクラブを作った。ラファイエットを中心に1789年協会が作られ、通称ラファイエット派と呼ばれた。これが革命初期の支配者であった。その背景は、自由主義的大貴族と最上層のブルジョアであった。それより急進的な団体としてジャコバンクラブが作られた。ここでは上に自由主義的大貴族がいて、下には中産階級の上くらいの参加者がいた。より急進的な団体として、会費の安いコルドリエクラブができた。貧困層でも参加できた。ただし、その指導者はかなり裕福な者たちであった。

 

10-フランス革命史入門 第二章の五 ヴェルサイユ行進

五 ヴェルサイユ行進


国民議会の分裂

八月四日の宣言を転機にして、革命派の中に亀裂が入った。政府の中ではネッケル派、国民議会の中ではムーニエ派が共同戦線を張り、これにたいして、ラファイエットを中心とした国民議会の多数派が対立した。

前者は封建権利の廃止にたいして全面的に反対であり、農民の暴動を武力で鎮圧せよと主張した。さしあたり、八月四日の宣言では自分達の主張は通らず、反対派に押し切られた形になった。彼らは、領主権を神聖不可侵の財産であるとみなしていたのである。これらの派閥はやがて王政派と呼ばれるようになり、そろそろ革命運動を現状で停止させようと努力しはじめた。ラメット伯爵はムーニエについて書いた。

「彼らは、人民の激昻にたいして奇妙な恐怖にとりつかれ、国民運動の先頭に立っている何人かの人物にたいして、押えをきかせようとしはじめた」。

ムーニエの派閥にはクレルモン・トネール伯爵、テッセ伯爵、ヴィリユー伯爵、ラリー・トランダル伯爵などの自由主義的宮廷貴族がいた。

七月二〇日、憲法委員会で人権宣言の草案が読みあげられたとき、ムーニエ派の議員がこれに反対した。

「義務があきらかにされていないのに、人民にたいして漠然とした自由の理念を与えることほど危険なことはない」。

これに、貴族議員や高級僧侶議員からなる右派が賛同した。

しかしラファイエットやシエースが積極的に推進し、一四〇票の差で可決された(八月二六日)。

新制度がどうあるべきかをめぐっても、ムーニエ、ネッケル派は敗北した。ムーニエ派は、上下両院を作り、上院を三〇〇人の元老院で組織し、議員を一万リーブル以上の土地からの収入をもつ三五歳以上の地方官吏から選ぶつもりでいた。これで、上院を大領主で固めることができる。自由主義的大領主の好む政治体制が実現されることになるはずであった。

しかし、これにたいしても、タレイラン司教、シエースを中心とした反対があった。彼らは一院制を主張した。九月一〇日、上院の設置は否決された。この時上院を主張したものは八九票であり、反対した者は八四九票となっているから、ムーニエ派は国民議会の少数派に転落した。ただし翌日、国王に拒否権を与えるという提案が可決されたが、このときは六七三対三二五であり、まだまだ王の拒否権を否定する極左派も少数派であった。

ムーニエ派は少数の右派となったが、左派もまたいくつかの派閥に分裂していた。まずラファイエットを中心にした派閥である。ここに、より自由主義的な貴族と最上層のブルジョアジーを代表する者が集まっていた。

それより左派としては、ミラボー伯爵を中心にした多数の議員がいた。彼も名門貴族であるが、放蕩をかさねて財産をすりへらし、金のために何人かの銀行家と親密になり、銀行家の代弁者のような役割を果していた。第三身分選出の議員として登場したが、口が大きくて大声がでる。これも、マイクのなかった当時としては、革命家として重要な条件であった。

それよりもさらに左派とみられる「三頭派」があり、ラメット伯爵、バルナーヴ、デュポールが指導者となっていた。最左翼に、ごく少数の議員がいた。はっきりとした派閥を作っていたわけではなく、小人数の集団にすぎなかった。しかし、ここから将来のジロンド派、モンタニヤールの指導者がでてくる。ビユゾ、ペチヨン、プリュール(マルヌ県出身)、デュボワ・ド・クランセであった。


王権による反撃体制

ムーニエ派は、はじめ国民議会の指導的立場にあったが、九月に入って少数派に転落し、指導権を失った。そうすると、彼らは国民議会に残っていた国王派の議員と妥協した。まだ宮廷貴族のすべてが亡命したわけではなく、かなりの者がヴェルサイユにふみとどまって改革を阻止しようとしていた。

モーリ枢機卿やタレイラン・ペリゴール大司教、カザレス(貴族議員)などが旧絶対主義の勢力を代表していた。

これとムーニエ、ネッケル派が提携して、国民議会によるこれ以上の改革を阻止しようとした。彼らは、議会と政府を移転してパリの群集からひきはなし、国民議会がパリの群集の影響を受けないようにするべきだと考えた。

国王の側からみると、いままで王権にたいする反対運動の指導者であったネッケルやムーニエが自分の側に寝返ったのであるから、反撃のチャンスがみえてきたと思った。そこで、フランドル連隊をヴェルサイユに集結しながら、国民議会の改革案を承認しないことにした。

国王は、九月一八日、議会に親書を送り、十分の一税と不動産売買税の廃止には賛成できないことを通告した。

国王の目からみると、八月四日の宣言は、僧侶、貴族から「奪い取ること」とみえたので賛成できないものであった。人権宣言も承認しなかった。

こうして、国民議会の多数と国王とは、再び正面から対立した。ただ、以前とちがうところは、ネッケル、ムーニエ派が国民議会からはなれて、国王の側についたことであった。

この段階では、国王が承認しなければ、国民議会の改革案も効力を発揮しなかった。国王が国民議会の改革案を拒否している以上、まだ国民議会は権力を動かしているとはいえなかった。そこで、左翼の議員がパリで群集を煽動し、これを率いてヴェルサイユに向おうという計画を立てた。すでに九月一八日、国王が八月四日の宣言に反対したとき、パリ市民がヴェルサイユに向おうとする気配をみせた。しかし、このときはラファイエットが反対し、国民衛兵を押え、なにごとも起こらなかった。

しかし、国王と国民議会の闘争とは別なところで、パリの群集をかきたてる要因がでてきた。それは食料品価格の騰貴であり、とくにパンの値段が異常に値上りしたことであった。小麦がパリに入らなくなり、そのため、行列を作らなければパンを手に入れることができなくなった。しかも、この年、とりたてて不作ではなかったので、これが「餌饉なしの飢え」と呼ばれた。このような食料不足が起こった理由は、食料品の買占めによるものであった。

すでに七月一四日直後から、市街戦に参加した貧民の中で、生活に困る者が多かったので、ブルジョアが救援金をだしたことがあった。その後も、貧民の群集を静めるために、パリ選挙人会はパンの公定価格を定めたことがあった。しかし、国民議会の多数は、当時重農主義の影響のもとにあった。そこで八月二九日、デュポン・ド・ヌムールら重農主義者の提案によって、穀物商業の自由を宣言した。

この宣言につづいて起こったのが、食料品の買占めである。この買占めは大商人が中心となっておこなったものであり、ネッケルも財政資金を作りだすために投機業者を保護したといわれていた。食料不足の原因は、国民議会に集まる最上層のブルジョアの責任でもあった。しかし、まだ貧民は、食料不足が誰の責任であるかはっきり見さだめることはできない。ただ、食料問題を解決してくれといって、自然発生的にさわぎはじめただけである。このとき、左翼の議員達が、ヴェルサイユ宮殿に行けばパンが手に入ると煽動した。

ラファイエットとパリ市長パイイは、こうした群集の動きを必死になって押えながら、国王にむかっては、フランドル連隊の集結に反対した。しかし、フランドル連隊はヴェルサイユに到着し、一〇月一日ヴェルサイユ宮殿で歓迎会が開かれた。この歓迎会で貴族将校が熱狂し、革命の象徴になっていた三色記章を踏みにじり、国民議会を呪い、剣をぬいて王のために死ぬと誓った。そのうえ、四万人の貴族が全国から集まり、国王を奪取するという噂もながれた。

国王派の旗色がよくなっていくと、国民議会でもムーニエ派の力が強くなり、九月二八日にはムーニエが国民議会議長になった。

こうした動きは、パリの市民やラファイエット派から左の議員にたいして、大きな動揺をひきおこした。二度目の対決がさけられなくなった。


国王と議会のパリ移転

このような動揺の中で、直接群集に影響を与える街頭の革命家が頭角を現してきた。国民議会の議員は、どんなに左翼といえども、また第三身分の名士であり、群集とは直接結びついていなかった。ところが、直接群集を煽動し、街頭での演説でヴェルサイユに向うことを強調し、市民の中に影響力を高めてきた革命家があった。その中に、ダントンやカーミュ・デムーランなどがいた。

マラは以前から新聞を発行して、ネッケルの食料政策を批判し、国民議会では左翼と思われていたミラボー伯爵が、すでに裏切りはじめているといって批判していたが、この時期になると『人民の友』を発行し、ヴェルサイユへ武装して行進することを主張した。当時はまだ無名の革命家であったこれら一群の煽動家、宣言家の影響力が、群集をかきたてるうえで大きな役割を果した。

一〇月五日の朝、婦人の一団が市役所に押しかけた。彼女らは前夜からパンを手に入れることができず、パン屋に押しかけてもパンがなかったので、「パンを!パンを!」の叫び声をあげて市役所に乱入した。これを阻止しようとした国民衛兵は、石を投げられた。彼女らは、ラファイエットと市役所が国王と共謀して、自分達を飢え死させようとしているから、ラファイエットとパイイ(パリ市長)を殺すとさわいだ。

一人のパン屋が、目方の軽いパンを売ろうとしたので捕えられ、街灯につるされそうになった。国民衛兵が、必死の努力で救いだしたが、このように殺気だった約六〇〇〇人の婦人の群を、正面から鎮圧するのは不可能であった。

そのとき、門番あがりでパスチーユ襲撃で名をあげたマイヤールが演説し、婦人達の怒りを国王とヴェルサイユへむけた。その結果、パンを要求しにヴェルサイユへ行くことに決まった。こうして、婦人の大群が、その日の夕方ヴェルサイユに到着した。彼女らは国民議会に押し入り、マイヤールに演説をさせた。マイヤールはパンを要求しにきたことを告げ、三色記章を踏みにじった近衛兵の処罰を要求した。パンの不足は、貴族階級の陰謀であるともいった。これを受けて、国民議会では討論がすすめられた。

パリでは、婦人の後に続いて、国民衛兵とその他思い思いの武器で武装した男性の群が集まり、ヴェルサイユへ行くことを要求した。ラファイエットはこの動きを押えようとしたが、押えきれず、一緒になって夜の一〇時頃ヴェルサイユに入った。

こうしたさわぎとは別に、国王と国民議会との対決がつづいていた。この日、国民議会議長ムーニエが王の手紙を読みあげた。国王は、人権宣言を拒否すること、行政権はすべて国王のものであることを表明していた。国民議会は国王の返事に怒りムーニエを団長とする一二人の代表団を国王のもとに派遣して、人権宣言の承認を求めた。しかし、国王はこれを拒否しつづけていた。

人権宣言をめぐる国王と国民議会の対決がつづいている間に、ヴェルサイユはパリから来た男女の群集と国民衛兵であふれた。パリからきた群集はほとんどなにも食べていなかった。そこへ豪雨が降って、群集は殺気だちはじめた。近衛兵の馬が生のままで食べられてしまったというほど、異常な心理状態にあった。

一度は群集も静になって、それぞれの場所でねむりについたはすであったが、一〇月六日の朝、婦人と近衛兵の間で衝突が起きて、近衛兵が発砲し一人が殺された。これが王妃の陰謀だといわれ、怒った群集が王妃の部屋に乱入し、近衛兵を殺し、王妃も殺そうとした。王妃は国王の部屋に逃げこんで、かろうじて助かった。

そのとき、宮殿の外にいる群集が国王の出てくることを望んだ。国王は王妃、皇太子を連れてラファイエットをともない、群集の前に姿をみせた。群集の中から「パリへ行こう」という声があがった。国王はそれを承認しなければならない羽目に追い込まれた。

こうして、その日の午後、国王一家は群集、国民衛丘(とともにパリにむけて出発し、チュイルリー宮殿に入った。国民議会は、全員パリに移転することを決定した。そのうえ、議員の平等を確認して、貴族、僧侶の特別の服装をやめることが決められた。


亡命の第二波

国王一家は、パリ市民の中に、人質同然の立場で軟禁状態におかれ、それまで国王を取りまいていた宮廷貴族から切りはなされた。宮廷貴族の国王を、上層ブルジョアジーの国王に変えた事件であった。宮廷貴族のうちヴェルサイユに残っていた者は、なんとかこれを阻止しようと思い、軍隊で国王を守ってルーアンへおちのびようと考えた。

ネッケル派の大臣サン・ブリースト伯爵がこれを主張したとき、財政をにぎるネッケルが軍資金がないという理由で反対したため、この計画は立ち消えになった。国王がパリに連れ去られると、リシュリュー公爵のようなまだ残っていた宮廷貴族が亡命をはじめた。貴族議員の約二〇〇人も亡命し、貴族将校からも亡命者がでた。

また、初期の革命家のうち、ム-ニエが亡命した。彼は国民議会の議長をしていたが、すでに国王の側にかたよった行動を批難されていて、暗殺の脅威をうけた。そのためパリに行かず、出身地のドーフィネに去った。しかしここでも孤立し、危険がせまってスイスへ亡命した。ムーニエの派閥では、ラリー・トランダル伯爵やべルガスが反革命の計画をくわだてたが失敗に終った。


ラファイエット派の勝利

国王一家をパリにつれて帰った群集は、本当の意味での勝利者となっただろうか。貧しい婦人達は、国王一家のことを「パン屋の主人、パン屋のおかみさん」と呼び、国王をパリにつれてくれば、食料不足は解決できると信じていた。しかし、そのようなことは起きなかった。それからのちも、食料問題で小規模な暴動がたびたび発生した。しかし、これは国民議会と国民衛兵の力によって鎮圧され、主謀者が処罰された。その中には、死刑になった者もかなりいた。こうして秩序が回復されたが、それからみると、貧民は勝利者になったわけではなかった。

ヴェルサイユ行進に参加した者は、貧民だけではなかった。男女のブルジョアもかなり参加し、運動を煽動したり指導したりした。彼らは、貧民のエネルギーを利用して、国王と国民議会の闘争を有利に解決したのであった。それに成功したあとは、貧民をおきざりにして、自分達の権力のもとでの秩序回復に専念したのであった。

ヴェルサイユ行進は、国内にまだ残っていた宮廷貴族に完全な打撃を与えた。国王を人質同然にすることによって、国民議会の権力を全国におよぼすことに成功したのである。しかも、ム-ニエ派の指導権を失わせることによって、宮廷貴族とブルジョアジーの間にたってあいまいな政策をとる党派を追い落した。

チュイルリー宮殿では、ラファイエットの副官になった銀行家ジョージが横柄な態度で入ってきて、大臣のモンモラン伯爵にいった。

「宮廷の中にあなたの車を入れなかったのは、私の命令によるものである。このような時勢のもとでは、多少の不便はしのんでいただきたい。このつぎ、あなたの来る時間がわかっているなら、私はあなたを通すように命令するだろう」。

貴族の大臣ですら、もはや平民の銀行家の力にかなわないのである。大臣が国王に面会しようとしても、その間に銀行家が立ちはだかっている姿がありありとうかがわれる。極端にいうならば、この時の国王は銀行家の国王になったのである。そして、ラファイエットが彼らの象徴になった。

要約 第二章の五 ヴェルサイユ行進

フランス革命史の中ではわずかな出来事で、どの書物でも軽い扱いになるが、市民革命の観点から見ると、極めて重大な意味を持つ出来事になる。なぜなら、それまでのフランスは、パリだけが解放された状態であって、まだ全国的には、どちらになるかわらない状態であった。揺り戻しがあるかもしれない。それなら、フロンドの乱と同じことになる。あるいは、ラ・ロシェルのように、全滅するかもしれない。負けたら、市民革命の歴史には載らない。だから勝ちを決めて、歴史に載ることになったのは、ヴェルサイユ行進があったためといえる。

この時点で、国王は貴族の代表という立場から切り離されて、全国民の王としてふるまうことになった。切り離された貴族たちは、大部分が故郷に帰った。これが重要なところで、彼らは宮廷貴族から、田舎貴族になった。彼らの集団的見解が国政に反映することはなくなった。ということは、財政問題でも、彼らを優遇する必要がなくなったということである。毎日の貴族の食費だけでも、大変な節約になる。だから懸案の財政問題を一挙に解決できた。ここが重要なところである。これを言わないから、従来のフランス革命史はピントがぼやけてしまった。貴族の免税特権、減税特権をやめるといっても、もはや集団的な反対行動ができない。

ただし、まだ、国王の伝統的権威は健在である。だから、国王を囲んでパリに帰らなくてはならない。すべての改革令を、王の名で交付しなければならない。だからその目的を達成したことになる。このように解釈する必要がある。


 

2021年12月12日日曜日

09-フランス革命史入門 第二章の四 国民議会の権力

 四 国民議会の権力


宮廷貴族の敗北と亡命

国王は譲歩することを決心した。軍隊の撒退を声明し、国民議会に出席して「朕は国民とともにある」といい、和解を宣言した。国王と国民議会、あるいは国王とパリ市民との関係だけについてみると、国王の譲歩でけりがついた事件であるかのようにみえる。しかし、国王をとりまいていた宮廷貴族の立場からみるならば、最強の者の敗北であり、権力者の敗退であった。

ブローイ元帥は、パリでの敗北を知ると、国王に「ヴェルサイユを離れて軍隊の中に入り、反撃の機会をうかがうべきである」と説いた。しかし、すでに軍隊とともに移動するだけの資金、食糧がなかった。そこで、国王は泣いて屈伏したのである。

それでも、国王の安全はまだ保障されていたが、軍事クーデター計画に指導的役割を果した宮廷貴族の運命はみじめなものであった。バスチーユ総督ローネイ侯爵、パリの総監(任命市長)フレッセルは首を切られた。群集はその首を槍につきさしてねり歩いた。ネッケル追放後の財務総監になったフーロン(ブローイ元帥の会計官)は街燈につるされた。その婿のベルチエ(王妃の財政総監、パリの財政総監)も捕えられた。群集は、義父フーロンの死顔にロづけさせ、縛り首にし、心臓をえぐり、二人の頭を槍でつきさして行進した。

パリでの市街戦を指揮した司令官ブザンヴァル男爵は、政権回復の陰謀をおこない、捕えられて処刑された。フランス衛兵連隊長デュシャトレ公爵は変装して逃げた。船の中で見破られ、水の中に投げこまれそうになったが、二、三人の乗客に助けられた。竜騎兵を突入させたランベスク太公は、石で打ち殺されそうになったが、すばやく逃げのびた。ブローイ元帥は、逃亡の途中ヴェルダンでつかまり、殺されそうになったが、まだ勢力を保っていた軍隊の圧力で釈放された。

ポリニャック公爵夫妻の首には懸賞金がかけられた。宮廷貴族の主だった者は、変装して村から村へと隠れ家をたどって逃げのびた。アルトワ伯爵、コンデ太公、コンチ太公、ポリニャック公爵夫妻をはじめとするもっとも有力な宮廷貴族の一団が逃亡した。本来、国王は彼らの代表者であった。いまや旧支配者は逃亡し、国王だけが、第三身分の捕虜同然の身の上として、フランスにとどまることになった。


法律革命論の誤り

バスチーユ襲撃に象徴される反乱と革命で勝利者になった者は誰かといえば、それはブルジョアジーであることに疑いはない。だが、これについて、もう少しはっきりさせておかなければならないことがある。ブルジョアジーの勝利を一般論としては認めるが、その根拠はかならずしも確かなものでないという場合が多いからである。

たとえばフランス革命の第一段階は法律家の革命であったという意見がある。なぜならば、第三身分議員の半数が法律家だからである。このような説明の仕方も多い。ソブールは「法律革命」という、いい方をしている(『フランス革命』上巻、八八頁)。

マチエは、フランス人民が主権者になったと書いたり、ブルジョワ階級の時代がきた(『フランス大革命』上巻、一〇四頁)といういい方をするだけで、あまりはっきりとした定義はしていない。また「貴族と対等になるために大革命をおこなった当のブルジョワさえも、長い間、いぜんとして貴族を自分らの指導者、首領として選んでいた」(上巻、一二一頁)といって、ラファイエット侯爵をひきあいにだしている。

法律家の革命をもっとはっきり強調しているのは、デュプーであり、これがフランスの歴史家の一般的な傾向を代表している。

「革命の原動要因となるのは、まず最初に短期の『法律家の革命』を遂行した自由職業人・知識人のブルジョワジー、ついでジロンド派と共同した大ブルジョワジー・中ブルジョワジー」(デュプー『フランス社会史』八七頁)。

これでは、後にでてくるジロンド派の方が、ブルジョアジーとしての規模が大きいような感じをうける。

河野健二氏も「『法律革命』ではなく『社会革命』が、ブルジョア的ではなく民衆的な改革がここにはじまる」(『フランス革命小史』岩波新書、一二〇頁)といういい方で、一七八九年を法律革命、一七九二年の八月十日を社会革命という。同じような発想である。

他方でマチエのように、人民といったり、ブルジョアジーといったり、貴族を指導者にしたというと、この時点のブルジョアジーが、なにかたいした勢力をもたなかったかのように受けとられてしまう。どのフランス革命史でもこうした傾向が強い。

一方で自由主義貴族、他方でジロンド派とともに後からくる大ブルジョアジーの間にはさまれて、バスチーユ襲撃直後のブルジョアジーは、なにか規模の小さい、比較的力の弱いブルジョアジーであるかのように扱われている。

しかし、これは、この時点での指導的ブルジョアについて、十分な研究がなされていないからである。個々の実例をもっとよく調べるならば別な結論がでてくる。この時点で権力をにぎったブルジョアは、ブルジョアのうちで最上層の者であり、経済活動では最強の力をもつ者であった。また、それだけに、貴族の資格をもつ者も多く、領地をもつ者も多かった。つまりは、貴族的なブルジョアジーであった。


上層ブルジョアジーの勝利

権力に返り咲いたネッケル自身が最大級の銀行家であり、自分の娘をスタール男爵と結婚させ、貴族社会に入りこんでいた。

宮廷銀行家のラボルドは、食料品商業をおこない、商船隊をもつ貿易商人でもあり、同時に領地と城をもち、植民地の農園をもち、貴族になって侯爵の称号をもち、娘をノアイユ伯爵と結婚させていた。彼もこの時点での革命派であり、五万リーブルの愛国献金をおこなった。この献金は、宮廷側の反革命罪を調査するためにあてられ、ランベスク太公、ブザンヴァル男爵の罪状があきらかにされた。また、バスチーユ占領のときに起こった財務総監フーロンの虐殺も、ラボルドがけしかけたものであったといわれている。

ドレッセール一族は銀行、絹織物商業、貿易業を手広く経営し、ケース・デスコントや火災保険会社の理事をだしていた。この一族は、積極的に使用人、下僕を巻きこみ、武装して市街戦に参加し、負傷者をだした。バスチーユの襲撃のときは、自分の邸宅を弾丸製造工場にして、そのあとでも一大隊の食料を供給するための資金を提供した。


ボスカリは銀行家でもあり、貿易商人でもあり、帽子製造工場を経営する工業家でもあった。火災保険会社の理事、ケース・デスコントの理事長にもなった。バスチーユ襲撃の前夜、政府に貸付けたケース・デスコントの資金を返済してもらうように、ヴェルサイユに行って交渉した。しかしこの交渉は成功しなかった。その直後パリで市街戦がはじまり、ボスカリ一族は武装して戦闘に参加した。

パリのヴィヴィエンヌ通りはインド会社の建物があり、株式取引所が開かれていた。その近くに銀行家、徴税請負人、株式仲介人が集まっていて、ここが上層ブルジョアジーの中心街となっていた。この町はフランス衛兵連隊の一部をあらかじめ買収した。

七月一三日から一四日にかけて、銀行家ルクツーも兵舎をおとずれ、防衛に十分なだけのフランス衛兵をつれてきた。

このように、兵士の反乱は、自然発生的に起きたのではなかった。むしろ、士気が乱れていた所に乗じて、上層のブルジョアが積極的に働きかけ、買収し、ブルジョアジーの側の軍隊に仕立てあげたのである。


財政政策の逆転

それだけに、勝利したパリでは、このような上層ブルジョアが政治、軍事の指導権をにぎったのは当然である。

国民衛兵(国民軍)が組織されてパリの治安にあたったが、ここに加盟できるのは、自分で武装をととのえることのできる者だけであり、第一次選挙人以上と決められていたから、財産をもたない職人や労働者は除外された。

それは、小ブルジョア以上の者で組織される軍隊になった。その司令官に自由主義貴族ラファイエット侯爵を据えた。表面をみると、まだ貴族的色彩がのこっているようにみえる。しかし、実際の軍務は、ラファイエット一人だけですすめることはできない。彼の下の副官がそれぞれの分野を担当した。その副官の中に、多くの大銀行家が名をつらねていた。その意味で、国民衛兵も上層ブルジョアの支配下にあったのである。

また七月一四日以後、国家財政の実権は王権の手をはなれて、国民議会にうつり、実際には、国民議会の財政委員会が運営することになった。そして、財政委員会をうごかした者もまた、上層ブルジョアの一団であった。

当時の見聞録にも、ブルジョアジーの指導権をはっきりと指摘したものがある。

「資本家達は、彼らの金庫が心配のあまりし闘いにふみきった」。

「ネッケルの罷免は破産の合図だった」。

「国庫はブルジョアジーの手に確保され、誰もこれをとりあげることができない。ケース・デスコントは同じく彼らの保護のもとにあり、支払はいつものとおりおこなわれている」(七月一六日)。

ネッケルが復職すると、さしあたりの財政資金として三〇〇〇万リーブルの借款を国民議会に要請した。

「これは財政委員会にまわされ、明日報告されることになる。借款は通過するだろう。必要はさしせまっている。パリはわきたっている。投機業者、資本家は議会のために大いにつくしたから、彼らのためには、なんらかのことをしてやらなければならなくなっている」。

こうして借款が通過し、国家財政の危機が回避された。ブルジョアジーの新政府であり、契約を破棄するおそれはないから、円滑に成立したのであった。ブルジョアジーは、新政府を自分のものとみなしたのである。

すでにネッケルが罷免された直後、宮廷側の財政政策にたいして、国民議会は先手をうち、それに歯止めをかけるような声明をだした。

「公債はフランスの名誉と忠誠にかけて保護され、国民は必ず利子を支払い、『破産』という不名誉な言葉はつかわず、どのような権力といえども、デノミナシォンの形で公的信用を破る権利がない」。

必ず利子を支払うということは、歴代の王国政府がやってきたように、国家の破産を口実にして利子を切下げることをしないという意味である。また、デノミネーションは、今日のデノミという意味ではなくて、公債価値の切下げという意味であり、これも今日の社会ではありえない。それは資本主義の社会だからありえないのであり、それ以前の絶対主義の社会では、ありえたわけである。まだブルジョアジーが権力をにぎっていなかったからである。そうした意味で、これらの宣言に、ブルジョアジーが権力と財政政策の実権をにぎったことの本質があざやかに示されている。

ゆえに、この時点で権力をにぎったブルジョアジーとは、最上層のブルジョアジーであり、とくに公債の買入れとか、政府への物資納入とかの形で、政府にたいして巨額の金を貸付けていた上層ブルジョアジーの一団であったということができる。法律家とか知識人とかいう、財産規模の小さい、あいまいなものではなかった。


自由主貴族の協力

最上層のブルジョアジーが権力をにぎったとはいっても、まだ彼らの社会的な権威は、全国的に認められるほどのものではなかった。絶対主義のもとでは、古い家系の貴族だけが、社会的に価値のある者だった。まだ、貴族社会そのものだったからである。

銀行家ネッケルが自分の娘をスタール男爵と結婚させたとき、「なに者でもない男が、なに者かになろうとすれば娘が必要である」といわれた。どんなに巨富を積んでも、貴族でなければとるに足りない者であった。

そこで、多くの上層ブルジョアは金のカで貴族の称号を買い、領地を買い、城を買った。それでもやはり、成り上り者としかみられていなかった。彼らが全国民に新しい主権者であると宣言してみても、伝統的権威がないから、威信を確立することはできない。

そこに自由主義的な宮廷貴族の役割があった。宮廷貴族の野党的立場の人間、権力争いで破れたために進歩主義者にかわった人間、より以上の財産を求めて銀行家や大商人の娘と結婚した宮廷貴族が、そのようなグループを作っていた。

彼らの社会的な存在は、ちょうど権力に到達した最上層のブルジョアと似たものであった。そこで両者の協力体制、同盟が成立し、新政権の表面に名門の自由主義貴族が立った。ネッケルの復職とともに、ネッケル派の大臣が返り咲いた。これらは、サン・プリースト伯爵のような宮廷貴族と、ボルドー大司教、ヴィエンヌ大司教のような自由主義高級僧侶であった。ラファイエット侯爵は国民衛兵司令官になった。最初の財政委員会の代表者にはエギョン公爵がなった。

陸軍大臣は、とくに長い間貴族によって引きつがれていた。軍事は、ブルジョアジーの苦手とする分野だからである。はじめはサン・プリースト伯爵で、一七九一年の末から一七九二年の三月まではナルボンヌ伯爵、その年の五月まではグラーヴ侯爵と、自由主義貴族が軍隊の実権をにぎっていた。ジロンド派の将軍で一時陸軍大臣を兼任したデュームリエも名門貴族である。

平民出身の将軍が大量に出てきた恐怖政治の時代でも、デュボワ・ド・クランセとかバラ伯爵のような名門貴族が、地方軍司令官や軍事委員になって国防のために活躍した。ブルジョア革命とはいっても、ブルジョアジーだけに純化されたわけではなく、ブルジョアジーの側に立って活躍する貴族の多くが目立つのである。


大恐怖とバスチーユの相違

七月一四日から八月四日にかけて、フランスの農村各地において大恐怖とよばれる農民の暴動が発生し、全土が一時無政府状態にあるかのような混乱におちこんだ。この運動は、必ずしもバスチーユ襲撃の運動と連帯するものではなく、ときにはそれに逆行し、ときには一致し、ときにはまったく無関係に、自律的にひきおこされた。革命とは、相対立する二つの陣営に諸階級が整理され、その後に決戦をおこなうという性質のものではない。むしろ、経済困難と人心不安の中で、あらゆる階層が入り乱れて闘い、旧秩序がバラバラになって崩壊したときに、つぎの社会を担う階級が、権力を組織して、新体制を作りあげていくのである。そうしたことが、この短い時期におこなわれた。

大恐怖は、さまざまな動機で発生した。もともと、七月一四日以前から、各地で農民の反乱が起こり、領主の城が焼打ちされていた。バスチーユ占領の噂が広まるとともに、農民の運動が爆発的に広まった。通信の発達していない当時であるから、いろいろな噂やデマが流され、それに応じて農民が動きだした。

イギリス軍が上陸して、すべてを焼きはらっているという情報をもとに、農民が武装して騒乱を起こしたこともある。盜賊が農村を略奪しているとふれまわった者がいて、これをきっかけに、農民が武装して領主の城におしいり、盗賊をさがすというロ実で、城の財産を略奪し、封建権利証書を焼いたところもある。

フランシュ・コンテ、ドーフィネ、ブルゴーニュ、アルザス、ノルマンディー、リムーザンの各州で、一五〇以上の城が炎上した。多くの寺院も焼かれた。貴族や僧侶が、恐怖につつまれて逃げまわった。ブルゴーニュでは、村の弁護士が盗賊の首領となり、王の命令と称して、「三カ月間すべての城、地代帳、寺院、風見をもつ邸宅をもやす許可を与える」とふれまわった。

こうした暴動について、国民議会の側は国王と王党派の煽動のせいだといった。しかし、貴族の側は、国民議会の指導者が全国民を武装させるために、盗賊がうろついているという情報を流して農民を煽動したのであるといった。この暴動を発案したのが、ミラボー伯爵であるという説も残されている。国民議会の議員チボドーは、「市民を武装させようとしたミラボーの天才に賛辞が集まった。パリから発せられた通知は全国に広がり、盗賊のくることを告げた」といった。

いくつかの都市でも、同じような暴動が起こった。フランス第二の都市リヨンでは、飢えた貧民が暴動を起こし、関門と徴税局事務所を襲撃しただけではなく、ブルジョアジーが三身分合同のために建てた門柱をくつがえした。この暴動は、ブルジョアジーにも敵対するものになった。ポワシーでは、買占めの容疑をうけた一人のブルジョアが群集におそわれ、国民議会の代表によって救出された。パリでも、サンジェルマンの入市関税事務所が破られ、徴税官が買占めの容疑者としておそわれた。

このように、大恐怖の動きは、都市でも農村でも国民議会の動きとは独立して、ときにはそれと対立して進行している。都市の暴動の多くは、国民議会に集まるブルジョアジーにたいしてもむけられた貧民の暴動であり、すでに反ブルジョア的な傾向を示している。

農村で城を襲撃し封建権利書をもやした暴動は、国王側の貴族に対してのみならず、国民議会側の貴族、ブルジョアに対しても攻撃のほこ先をむけた。宮廷貴族も地方貴族も法服貴族も領主であったが、自由主義貴族もまた領主であり、最上層のブルジョアたちもまた多く領主であったからだ。

国民議会の側に立つ自由主義貴族や商業貴族の側からみるならば、七月一四日で王権に反抗し、やっと権力をにぎったと思った瞬間、足もとの農民から反乱を起こされ、自分の城が襲撃されたのである。それだけに、大恐怖は国民議会の権力を強めるものではなかった。

ただ、国王側の宮廷貴族の足もとまでゆるがし、宮廷貴族がパリ市民にたいする軍事的反撃を農村で準備するための機会を失わせた限り、フランス革命にとって有利な条件を作ったことは認められるであろう。


封建権利廃止の宣言の意味

大恐怖は、国民議会の中ではげしい討議の対象になった。強硬派は、農民の反乱を武力で鎮圧せよと主張した。七月二〇日、ラリー・トランダル伯爵は、ブルジョア民兵を地方に作り、これで騒動を鎮圧せよと提案した。こうした意見は、デュポン・ド・ヌムール、ムーニエなど国民議会の右派が主張した。

彼らも、王権にたいする限りは革命派であったが、領地をもつブルジョアまたは自由主義的な領主の立場を露骨に代表して、封建権利の全面的維持に固執したのであった。ムーニエは「屋根瓦の日」いらいのはなばなしい革命家ではあったが、自由主義的大領主テッセ伯夫人、エナン公夫人のサロンの弁士となり、彼らの気分を強く主張したのである。

しかし、国民議会の多数は、大恐怖に対して正面からたちむかうことは不利であると悟った。彼らは、まだヴェルサイユに駐屯する国王の軍隊の脅威をうけている。この軍隊は撤退しただけで、解体はされておらず、いつでも反撃できる体制にある。もし国民議会が農民の鎮圧にまわり、農民の反感を買ったときに、国王軍から反撃されれば、農村における支持者を失って敗北するかもしれない。

ただし、それでは全面的に封建権利を廃止するのかといえば、自由主義的領主やブルジョア領主は、改革によって一挙に領主としての収入を失ってしまう。そこで、妥協案がまとめられ、農民に期待をもたせるような形で、封建権利廃止の宣言がおこなわれた。

封建権利を二つに分けて、人身にまつわるものと土地にまつわるものに区別し、前者を無償で廃止するが、後者は有償で廃止するというものである。こうした提案が、八月四日、ノアイユ子爵によって出され、これに自由主義貴族の多くが賛成して可決された。

無条件で廃止されるものは十分の一税、領主裁判権、マンモルト(死亡税または農奴制)、狩猟権、鳩小屋の権利などであった。

有償で廃止されるものは、封建貢租と不動産売買税である。これらは有償で買戻すことができると定められた。したがって、完全に買戻されるまでは、その徴収が厳格に実施されると規定されていた。

こうして、領主権は単純な地代に転換された。さしあたり、当時の農民の多くは、有償廃止の意味をあまりよく理解できず、ともかく廃止されたということを早合点して、貢租も無条件で廃止されたかのように誤解した。そのような誤解が広まっても、国民議会の議員もあえて訂正しようとせず、ただ廃止という点に力点をおいて、お祭りさわぎをした。こうして、八月四日の宣言をきっかけに、農民の暴動はしずまり、農村に平静さがとりもどされた。

八月四日の宣言で廃止されたものについては、たとえていうならば領主権の半分が廃止されたものと考えてよい。後の半分がまだ維持されていて、これの廃止をめぐって、つぎの内乱(一七九二年八月一〇日の蜂起)がひきおこされることこなる。

大恐怖と封建権利廃止の宣言の扱い方について、ほとんどのフランス革命史が誤解をまねくような形で書いている。七月一四日のバスチーユ占領を描くと、そのすぐあとに大恐怖を紹介し、それから八月四日の宣言を紹介して、ここでフランス革命の第一段階を終りとする。ソブールの『フランス革命』も、マチエの『フランス大革命』もそのようになっている。

そうすると、バスチーユ占領の運動の結果が八月四日の宣言であるかのように受けとられる。これが固定化すると、まるでバスチーユ占領の運動の目的が封建権利廃止の宣言であるかのように思いこまれていく。これが一つの常識になってしまって、多くの学者が、ブルジョア革命の基本的課題は領主権の廃止であると定義するような風潮を作りだした。バスチーユ襲撃ー大恐怖ー八月四日の宣言を結びつけるからである。ほとんどのフランス革命史が、このような理論的見解を基本にしているが、とくに河野健二氏の『フランス革命小史』では、この見解で筋をとおすための努力がなされている。

しかし、これは誤解もはなはだしいものである。バスチーユ襲撃は、八月四日の宣言に直接結びつかない。もっとくわしくいうならば、七月一四日の運動は、領主権(封建権利)廃止の宣言には直接結びつかないのである。大恐怖は、勝利したブルジョアジーにもむけられたので、八月四日の宣言は、勝利したブルジョアジーが足場をかためるために、やむをえない譲歩の手段として打ちだしたものであり、彼らがそれを目ざして奪闘したものではなかった。最上層のブルジョアジーがもとめて奪闘したものといえば、国家財政の実権であった。このことをもう一度確認しておく必要がある。

ただ、八月四日の宣言には、そのほかに租税の平等とか文武の官職にすべての市民を登用するとか、金銭的特権を廃止するとかいう項目がある。これは、貴族の減免税特権の廃止、また貴族が官職を独占していたことへの否定が含まれていて、バスチーユ襲撃の目標と一致している。

また、官職売買の廃止は高等法院、法服貴族の廃止につながるものであり、パリ、リヨン、ボルドーの都市の特権廃止は、ブルジョアジーの中での不平等の解消を目ざすものであった。これらは最上層のブルジョアジーにとっての目標ではなく、むしろ維持したいものもあっただろうが、ひとたび動きだした革命の潮流に逆らえずに譲歩の手段として放棄したものと考えるべきである。

要約 第二章ー四 国民議会の権力

バスチーユ占領が報告されると、国王は敗北を悟った。軍隊を撤退させ、和解の声明を出した。これで騒ぎが治まったかのように見える。そこで、多くの歴史家は政治革命であるとか、法律革命、自由平等の思想の勝利などと、経済、財政から離れた結論を唱える。しかし、これでは首尾一貫性がない。財政問題で騒ぎが起きたのだから、財政問題でけりをつけなければおかしい。理科出身の「理屈っぽさ」かもしれないが、理論が首尾一貫していないと気が済まない。それが、この時点の解釈に出てくる。国民議会が権力を取ってどうしたのか。

商人、銀行家の復讐

商人、銀行家は決死の覚悟で立ち上がった。彼らの本性に反してである。彼らは本来慎重、臆病、控えめをよしとしている。「資本は臆病である」ともいわれる。「金持ち喧嘩せず」ともいわれる。ところがその本性に反した人がいた。ラボルドという宮廷銀行家の名が出てくる。ネッケルの後任の財務総監フーロンの虐殺をけしかけた。(わかりやすく説明すると、ラボルドは国家に大金を貸しつけていた。フーロンは、これを踏み倒す政策を実行しようとした)。だから復讐のため虐殺させた。(金をばらまいて、殺させたということが当時分かっていた)。

亡命貴族の大量発生

これが一例で、ラボルドが献金して、調査が始まり、フーロンの側の人物の名が明らかにされた。その人たちの首に懸賞金がかけられた。捕まれば首を持っていかれる。これで、パニックになり、大勢の人たちが逃げ出した。その逃げた人たちが、今まで権力の最高、最強の地位についていたものであった。(大貴族、大領主)。例えば、ポリニヤック公爵夫妻。

だれが勝って、だれが負けたか

この文脈で行くと、勝った側はラボルド、商人銀行家、金を貸して、その権利を確保した。負けた側は支配者でありながら金を借りて、それを踏み倒そうとした側ということになる。国王個人の立場はあいまいとなる。

財政政策の逆転

国民議会は「破産という言葉は使わない」と宣言した。「利子を必ず支払う」とも言った。「公的信用を破らない」とも言った。これで、国家に金を貸し付けていたブルジョアジーの権利は守られた。だからフランス革命の初期のスローガンは「自由、平等、財産」であった。これを差し置いて、法律革命だとか、政治革命というのは、本質を見ない言葉に過ぎない。

自由主義貴族の協力

ブルジョアジーが勝ったとは言うものの、それが前面に出るというものではないよと書いている。本来ブルジョアジーは前面に出ないものである。なぜなら、実業に忙しいから。また資本は臆病であるから。勇敢なものは、貴族、戦士になってくれ。これが本音です。そこでどういう貴族と協力していくのかが紹介されている。


08-フランス革命史入門 第二章の三 バスチーユ占領

三 バスチーユ占領


国民議会の宣言

一七八九年五月五日、三部会がヴェルサイユに召集された。三部会のうち、第一身分(僧侶)の議員は約三〇〇人で、このうち二〇〇人ぐらいが司祭(中・下級僧侶)であった。第二身分(貴族)の議員二七〇名のうち、地方貴族の数が多く、これに宮廷貴族、法服貴族が加わった。第三身分に同情的な自由主義貴族の数は少なく、九〇名くらいであった。それにしても、その革新性の度合はさまざまであった。第三身分の議員数は六〇〇であり、この中の約半数が法律家であった。また、ブルジョアジーの階層に属する者が多かった。そして、当時の法律家のほとんどは、なんらかの形でブルジョアジーと深い利害関係をもっていた。

すでに三部会が開会される以前から、第三身分代表者はさまざまな形で差別待遇をうけていた。僧侶や貴族の代表者は、国王に一人一人挨拶をすることができたが、第三身分の議員は、ひとまとめにして国王にお目通りをさせられた。三部会の会場に入るときも、僧侶と貴族は正式の戸口から入場させられたが、第三身分の代表者は、小さな裏門から入場させられた。

肝心の開会式では、国王が三部会を独立した権力機関としては扱わず、国王の命令のもとに、財政赤字解消の方法に努力するべきものという立場から説教しただけであった。人数別の採決か身分別の採決かについても、口をつぐんだままであった。財務総監ネッケルの演説でも、財政の状態についての数字上の説明が長々とつづき、根本的な改革案についてはふれるところがなかった。

ネッケルは財政状態の深刻さをわざとかくして、ある程度の改革でなんとかなりうるものという調子で演説をした。しかし、実際は深刻な赤字であり、ヴェルサイユに到着した三部会の議員にたいしても、一人八〇〇リーブルの俸給の支払ができず、四カ月間、俸給支払は停止されたままですぎていくことになる。

こうした状態に、第三身分代表者はいらだちを感じ、それそれのグループを作って対応策を協議しはじめた。さしあたりの大問題は、人数別採決か身分別採決かであった。身分別採決をするのであれば、第三身分代表者数を倍化したことには意味がなかった。あくまで人数別採決にもちこむことが必要であったが、第一身分と第二身分の議員は、それぞれ別の部屋で資格審査をおこなっていた。第三身分の代表者は、人数別採決の突破口として、資格審査を全員で、すなわち身分別ではない方法でおこなわせようとして、第一身分、第二身分に働きかけた。

この問題をめぐって、かれこれ一カ月の時間が過ぎていった。

第三身分の議員は、しだいに国王と貴族、僧侶の保守派にたいする反撥心をつよめた。その結果、六月一七日ミラボー伯爵とシエース副司教の提案により、自分自身の名称を「国民議会」とよぶことに決定した。そのうえで、国民議会の権限についていくつかの決議をおこなった。国王と国民議会の間にはいかなる拒否権もないこと、国民議会を否定する行政権力はありえないこと、国民議会の承認しない租税徴収は不法であり、いかなる新税も、国民議会の承認なしには不法であると宣言した。ただし、現在の租税については、不法ではあるが、国民議会が解散されるまでは一時的に合法性を与えると決議して、現状を一時的に承認した。こうした租税徴収についての宣言は、どのフランス革命史にも書いてあることで、常識的なものになっている。

だが、もう一つの宣言は、どの革命史にも紹介されていない。しかし、フランス革命の本質を知るためには、より以上に重要なものである。それは、国債の安全を宣言したものであり、ブルジョアジーの破産を救うべき性質のものであった。

「国民議会は、王と協力し、王国の再生の原則を定め、公債の点検と長期公債への借り換えに従事し、これ以後、国家の債権者に名誉を与え、フランス国民の信義にかけて彼らを保護することを宣言する」。

租税徴収権が財政収入をめぐる基本的課題であるとするならば、公債や国庫への債権の問題は、財政支出をめぐる基本的な問題点であった。絶対主義時代の王権は、破産に直面すると公債を切りすて、国庫への債権者をふみにじることによって、危機を切りぬけてきた。それに歯止めをかけたのであるから、財政政策の逆転をねらったものであり、王権にとっては致命的なものであった。


国民議会解散の計画

こうした第三身分議員の動きについて、僧侶部会が影響をうけた。多くの司祭と少数の司教が、第三身分への合流にかたむいた。貴族部会の大多数は、第三身分の行動に反対であった。六月一九日、貴族部会はクロワ公爵の提案により、第三身分議員の決議にたいする非難を可決し、これを国王に提出した。

「彼らは、彼らの宣言を法律にかえる権利があると信じた。彼らは、自分の宣言を印刷し発送した。租税を破壊し租税を再設した。彼らは疑いもなく、王と三つの身分の権力を自分に与えることができると信じた。われわれは、抗議を国王陛下のもとに提出する」。

この決議にたいしては、少数の自由主義貴族クレルモン・トネール侯爵、モンテスキュー侯爵、ラ・ロシュフーコー・リャンクール公爵、エギョン公爵、ラメット伯爵などが反対しただけであった。

僧侶部会は、第三身分への合流を主張する者と、僧侶部会が独自の権限をもつと主張する者の二つにわかれて、激論をつづけた。合同を主張する者は、多くの下級僧侶と少数の自由主義的な高級僧侶であった。その指導者には、ボルドー大司教シャンピオン・ド・シセ、ヴィエンヌ大司教ルフラン・ド・ポンピニャン、シャルトル司教デュヴェルサックであった。

僧侶部会の独自性を主張したのは、高級僧侶の保守派であり、その指導者はパリ大司教ジュイニェ、ラ・ロシュフーコー枢機卿、モーリー枢機卿であった。激論の結果、一四九票対一三五票の少差で合同派が勝った。

敗北した高級僧侶は、事態の重要さを国王に報告して、なんらかの対策をすすめた。翌日の六月二〇日、国王の命令によって、国民議会の会議場が兵士によって閉鎖された。式部長官ブレゼ侯爵が国民議会の集会を禁止し、国王があらためて三部会を召集するという命令を伝えた。しかし、国民議会の議長バイイはこの命令に抗議して、隣接する球技場(テニスコートとよばれているが、現在のようなラケットをもつテニスとはちがう)になだれこみ、ここで国王の命令に反して国民議会の決議を採択した。

「国民議会は王国の憲法を設定し、公共の秩序を再建し、王国の真の原則を維持するために召集されたのであるから、なにびともその決議を妨害することはできない。議員が集まる所であれば、それがどこであろうとも、国民議会を構成することになる。すべての国民議会のメンバーは、憲法が制定され、それが堅固な土台の上に確立されるまでは決して解散しないことを誓う」。

これが、のちに「テニスコートの誓い」と呼ばれた。

六月二三日、三部会が王の命令によって集められることになっていた。この頃になると、すでに四〇〇〇人の軍隊が出撃の用意をととのえていた。これに対抗して、国民議会を応援するべき群集がパリやヴェルサイユから集まり、武力衝突の近いことを示すような雰囲気になった。群集が集まると、軍隊がこれを散らしてまわった。

そのような状態の中で、まず僧侶、貴族の議員が会議場にひきいれられたが、第三身分の議員は、雨の中に立たされたままであった。ついに、第三身分を代表して、ミラボー伯爵が式部頭に「国民を王のもとにみちびけ」とどなりつけ、入場させた。その会議に、国王が高級貴族、近衛兵に囲まれて入場し、国王の方針を演説した。

国王の承認しない議案はいっさい無効であると宣言し、身分別にわかれて決議をおこなうことを命令し、貴族の政治的特権と減免税特権は尊重し維持する決意をあらためて強調した。封建的特権は、財産として尊重することも宣言した。財政面では、新税は三部会の承認なしには実施しないが、借款は一億リーブルにかぎって、国民的危機のときにはおこなうことができると宣言した。

これでは、国民議会との全面的対決であった。国王が退出すると、貴族の大多数と高級僧侶の多数、それに何人かの司祭が退出した。第三身分の議員はぼうぜんとしていたが、そこへ式部長官ブレゼ侯爵が入ってきて、解散の命令を伝えた。ミラボー伯爵が第三身分を代表して、「銃剣の力によらなければ、われわれをここから動かすことはできない」と大声でやりかえした。議員は叫び声をあげてこれに賛成した。ブレゼ侯爵がこの状態を国王に報告すると、近衛兵三中隊を率いて国民議会に進撃し、必要とあれば切りすてよという命令がだされた。この軍隊を迎えたとき自由主義貴族の一団が剣を手にして立ちはだかり、「第三身分代表を救い、彼らとともに死のう」と呼びかけた。その決意のまえに式部長官は動揺し、襲撃をあきらめて軍隊をひきあげた。


王権による譲歩と弾圧政策

この日、国王の周辺は混乱して、強硬派と柔軟派の議論がつづけられた。その中で、ネッケルの罷免が主張されたという噂がながれた。国民議会の会場の周囲を群集がとりかこんでいたが、議員が解散すると、群集が宮殿にむかって殺到した。彼らは「ネッケル!」と叫びながら乱入した。フランス衛兵(パリ、ヴェルサイユの守備隊)は発砲命令をうけたが、服従しなかった。こうした動揺を鎮めるために、ネッケルが宮殿に呼びだされて、「辞職しない」と言明した。群集は彼を歓迎し、邸宅まで連れて帰った。

ネッケル罷免を主張したとみられたパリ大司教は、襲撃されて寺院に避難した。何人かの貴族議員が襲われた。ヴェルサイユは無政府状態に入りかかった。パリでも、大群集がパレ・ロワイヤル(オルレアン公の宮殿)に集まり、街頭でも集会が開かれて、「われわれの議員が危険に瀕している」と叫ばれていた。

六月二四日、王の命令に反して、一五〇人の司祭と五人の司教が第三身分に合流した。これに反対したパリ大司教は、群集に襲われ、家まで追いかけられて石を投げられた。パリ大司教が国民議会に参加すると約束して、やっと群集をなだめることができる状態であった。群集を鎮圧するべき軍隊があてにならないので、六月二六日、宮廷の対策会議がすすめられ、一時的に譲歩しながら時間をかせいで、全国から軍隊を呼びあつめる計画がたてられた。そこで、翌日の二七日、国王はいままでの態度をかえて、貴族と僧侶の部会にたいして第三身分へ合流することを命令した。

このような一時的な譲歩にたいしてすら、貴族部会でははげしい反対があった。多くの議員が、このような王の命令に服従する必要がなく、国王よりはむしろ王制を選ぶのが義務であるといった。ここに、貴族と国王の関係の本質が表現されている。国王はあくまでも貴族階級の第一人者であるべきで、それをはなれた国王を貴族階級は認めることができない。それにしても当時は情勢が不利であった。そこで、貴族部会は、一応王の命令に服従すると答えざるをえなかった。

こうして時間をかせぎながら、軍隊の集結がおこなわれた。宮殿のまわりに大規模な軍隊と武器を集め、警戒体制をとった。当時の記録では、パリが三万人の軍隊に包囲されていると書かれてあった。バスチーユ要塞監獄の総督ローネイ侯爵は城壁に大砲を据えつけ、兵員を増強して、周囲のサン・タントワーヌ街をおびやかした。

ランベスク太公の指揮するドイツ人連隊と騎兵連隊が、モンマルトル高地に出動した。ここに、パリにむけての砲台を作るという噂が流れた。

こうした軍事クーデターのための準備と平行して、一連の強硬政策が秘密のうちに準備され、それが噂となって流れた。御前会議で、三部会の解散、議員を自宅へ強制送還すること、財務総監ネッケルの罷免、一〇億リーブルの強制借款、ロレーヌをオーストリアに六〇〇万リーブルで売却することなどの政策がきめられたといわれた。これはほぼたしかなことであった。

強制借款はブルジョアジーを破産させる政策であり、三部会の解散は国民議会の権力を否定して、国王と貴族の絶対主義的権力を再確認する政策である。ネッケル罷免も、ブルジョアジーを保護しようとする政策をやめさ

せるためである。こうした噂がパリに流れると、パリではますます反抗的な気運がたかまった。


宮廷貴族の軍事クーデーター

国王が頼みとする軍隊に動揺が広がり、これにパリ市民が積極的に働きかけた。すでに、軍隊にたいする給料支払が遅れていた。近衛兵すらが不満を口にし、フランス衛兵の兵士は、将校の命令に従おうとしなくなった。

兵士と下士官がパレ・ロワイヤルに行進して、群集と挨拶をかわし、第三身分万歳と唱えて帰るようになった。

軍隊の中に王権に抵抗するための秘密クラブがつくられ、これが発覚して関係者が逮捕された。そうすると、六月三〇日、パレ・ロワイヤルにいた二〇〇人あまりのブルジョア達が救出を叫んで行進した。たちまち群衆は

四〇〇〇人にふくれあがり、その先頭に、何人かの労働者が鉄棒をもってたった。牢獄に到着して門をこわし、逮捕されていた者を釈放した。急を聞いてかけつけた竜騎兵と軽騎兵それぞれ一中隊が、はじめは剣を抜いていたが、群集と対峙すると剣をおさめ、脱帽して挨拶をかわし、ぶどう酒で乾杯して、国民万歳と唱えた。この事件で、国王もフランス衛兵連隊長デュシャトレ公爵も、群集の力におされて処罰を撒回せざるをえなかった。

時がたつにつれて、ますます軍隊の士気が乱れ、兵士、下士官がパレ・ロワイヤルに出入りすることが多くなった。もし、軍事クーデターの計画を先にひきのばすと、パリ市民がすべての軍隊を脱走させるだろうという心配がおこり、宮廷の側は早急な決断を迫られた。

七月一一日、国王と宮廷貴族は思いきった勝負にでた。ネッケルとネッケル派の大臣モンモラン伯爵、ラ・リュゼルヌ伯爵、サン・プリースト伯爵、ピュイセギュール伯爵を罷免した。ネッケルにたいしては、ひそかに国

外に退去せよという命令がだされ、彼はそれに従った。

かわって、宮廷貴族の強硬派が大臣をかためた。財政審議会議長にブルツイユ男爵、財務総監にフーロンが就任した。ブルツイユ男爵は名門の宮廷貴族で、マリー・アントワネットの寵臣であり、抜群の行動力をもってい

て、宮廷貴族の頼みの綱と考えられていた。

軍事クーデターのための軍事指導者として、ブローイ(ブログリオ)公爵(元帥)が総司令官兼陸軍大臣となった。彼も軍事的才能を高く評価されていた人物であり、ヴェルサイユ宮殿を野営地にかえて、戦場にのそんでいるように命令を下してまわった。パリに駐屯する軍隊の司令官にはブザンヴァル男爵を任命した。彼は、レヴィヨン事件を弾圧した軍人であった。ブローイ元帥はブザンヴァルに対して、パリで暴動が起こったときの戦略について指示を与えた。

「下層民がケース・デスコントと国庫のまわりに集まるようなことがあれば、全兵力をあげてこれを守るように」。

貴下がパリで最初の運動をみるやいなや、スイス兵団を国庫と株式取引所に進撃させてこれを守れ。全般的騒乱が起こると、パリの全部を守ることは不可能であるから、株式取引所、国庫、バスチーユ、廃兵院を守るにとどめること」。

この命令は、軍人らしい簡にして要を得た指令である。ブローイ元帥が、すでにパリ市民との純軍事的衝突を想定し、それに勝ちぬきながら、国家財政の実権だけをまず確保しようとした姿勢がうかがわれる。

こうした戦略をみると、フランス革命史でよくいわれるように、ルイ一六世は無能であったとか、宮廷貴族は皆女性的でなすすべを知らなかったというような描き方は、正確でないことがわかる。宮廷の側にも、行動力が

あり、軍事的才能を十分に発揮できる人物はいたのである。


革命の成功

国民議会は軍隊の撤退を国王に要求した。パリの選挙人代表がヴェルサイユにきて、ネッケルの罷免に抗議した。しかし、国王はそれを拒否して、「もしパリになんらかの騒乱があれば、それはお前達の責任だ」と答えた。パリでは、国王の命令として外出禁止、集会の禁止が布告された。

パレ・ロワイヤルでは、王の布告を無視して大群集が集まっていた。七月一二日、軍隊が出撃をはじめた。パレ・ロイヤルでは、カーミュ・デムーランが「武器をとれ、市民よ」の言葉に象徴される有名な演説をおこない、軍事的抵抗以外に救われる道がないことを煽動した。

この群集が、ネッケルとオルレアン公爵の胸像をかついで五、六千人となり、街頭にでて竜騎兵と衝突した。胸像はこわされ、小銃が発射され、石が投げられて双方に死傷者がでた。パリの関門ではドイツ人連隊が発砲し

て、一人が死に、多くが負傷した。

司令官ブザンヴァル男爵はパリに散らばっていた軍隊をルイ一五世広場に集結した。群集はチュイルリー宮殿に集まったが、これをめがけて竜騎兵で突入するようブザンヴァル司令官はランベスク太公(ドイツ人連隊長)に命令した。竜騎兵の突撃にたいして、群集はバリケードを築き、石やビンを投げて抵抗した。ランベスク太公もサーベルで群集の一人を傷つけたが、抵抗がはげしくて竜騎兵は後退をした。

パリ市民の恐怖感が高まり、警鐘が鳴らされ、武器商店が略奪され、「武器をとれ」の叫び声がパリをかけぬけた。フランス衛兵の兵士が群集の側に加担して、ドイツ人連隊を襲撃し撃退した。こうした混乱の中で、治安を維持する必要があり、パリ選挙人会議は常設委員会をつくり、新しいパリの権力機構を組織しはじめた。

七月一三日の夜警鐘が鳴らされ、国民議会の多数が逮捕されかかっているとか、パリ選挙人の多数も逮捕されるだろうという噂が流れた。国王の側は、国民議会の指導者を絞首刑にすることも考えていた。軍隊の離反をくいとめるために、ヴェルサイユでは貴族、貴婦人が兵士の中に入り、金とぶどう酒を配って歩いた。

七月一四日、ふたたび軍隊が出動しはじめると、パリ市民の側も恐怖につつまれ、群集がフランス衛兵とともに廃兵院におしかけ、約三万の小銃を奪って分配し、バスチーユ要塞監獄にむかった。ここで一〇〇人近くの死者をだしたが、占領に成功した。

バスチーユは、かつて政治犯の収容所であり、この中に王権に抵抗した政治犯がとじこめられているとみられたが、占領してみると、普通の犯罪人ばかりであった。その意味では、バスチーユ襲撃は見当ちがいであったともいわれる。しかし、それとは別な意味があった。城壁から大砲をのぞかせて周囲の町をおびやかしていたこと、内部に武器弾薬を貯えていたことは、それなりの軍事的目標になって当然のことであった。

バスチーユ占領は、国王の軍隊とパリ市民の軍事力の優劣を示す象徴的な事件であった。国王の軍隊がパリ全体で敗北しただけではなく、フランスの地方都市でも国王の軍隊が敗北した。多くの地方で軍隊に反乱が起こり、国王の側はこれ以上軍事的行動を続けることができなくなった。バスチーユは、そうした情勢の象徴であった。

国民議会議長ラ・ロシュフーコー・リャンクール公爵がパリの情勢を報告し、バスチーユの陥落を告げたとき、国王は「一揆だろう」といった。それにたいして、公爵は「いえ陛下、革命でございます」といったという。これは、ものごとの本質を端的に表現している言葉である。

要約 第二章の三 民衆がバスチーユ要塞監獄を襲撃し、占領したというのは間違い

どの本でも、教科書でもこう書いているが、間違いです。なぜなら、こう書くと、パリでの動きと、ヴェルサイユで行われていた国民議会(三部会の第三身分=平民代表)と王権の対立抗争の歴史が連動しません。財政問題を軸にして、三部会が招集されたのだから、それの結果としてバスチーユ占領がないとおかしい。ところが、いきなり民衆がという説明では、話に首尾一貫性がない。(一貫性を感じない人が多いのかな。私は少年時代から、なんだかおかしいと感じていました)。

まず三部会で様々な小競り合いがあった

貴族、聖職者は正門から、第三身分は裏門からという差別待遇から始まる。財政赤字はたいしたものではないといいながら、議員への給料が支払われない。こういうことは知らなかったでしょう。集まったところで、「討論する必要はない。こちらのいうことを承認するだけでよい」などといわれる。採決方法は「身分別」だといわれる。これで第三身分代表は激怒した。こういういきさつを書いている。

テニスコートの誓いへの道

テニスコートの誓い、これはどこにでも乗っている。しかし、この「財政赤字」に直結する内容は紹介されない。憲法制定などの法律的、政治的内容を知らされる。それだけでは不十分だということで、ここでは財政面のことが書かれている。まず自分らを国民代表の国民議会だと自称し、租税徴収の権限を持っているとした。これをいうことは、貴族に対する減税、免税の特権を廃止するという意味であった。もう一つ、国家に対して貸し付けたお金は保護されると宣言したことである。これが非常に重要なことで、国王を取り巻く大貴族たちは、国家の破産を宣言して、「破産したから返さなくてもよい」という政策を実施するつもりでいた。これをされると、商人、銀行家は破産する。その手前の政策として、利子支払い停止というのもある。現代社会でも、いくつかの国家がしてきた。これらをされると、破産者が続出する。この政策を阻止すると宣言した。これが、パリの実業家たち切実な願いであた。

7月11日の政変

こうした国民議会の動きを、機先を制して抑え込もうとした計画が、7月11日の政変であった。断固たる行動をとるという保守派で固めた政府を作り、妥協的な財務総監ネツケルヲ罷免し、国外追放にした。これで情勢が激変した。新政府は大貴族(大領主)の超保守派、しようとすることは分かっている。パリの財界指導部は経済活動を停止して、抵抗運動に向かった。それが具体的に書かれている。民衆を掻き立てただけではなくて、自分たちも武装し、パリ駐屯軍(フランス衛兵)に出向いて、お金を出すから、味方に付いてくれと頼んだ。その結果、ヴェルサイユから進軍してきた国王の軍隊と衝突し、戦闘の結果勝つことができた。だからバスチーユ占領は国民議会と連動している。目的は、財政赤字の責任を、どちらに押し付けるかの戦いであり、そのためには権力を取るしかなかった。だから民衆が主体ではなくて、財界が主体であった。こういうことをはっきり書いている。

07-フランス革命史入門 第二章の二 三部会招集をめぐる紛争

二 三部会召集をめぐる紛争


ブリエンヌの弾圧政策と抵抗運動

一七八七年四月、財政はブリエンヌ伯爵にまかされた。彼はツールーズ大司教であった。高級僧侶で名門の宮廷貴族が、財政運営の正面にたったのであるが、財務総監としてではなく財政審議会議長として、財務総監に命令する立場にたった。財務総監には、はじめヴィユドゥイユ伯爵を据え、のちにランべールに代えた。

ブリエンヌは実質的な首相に近い権力をにぎり、財政状態の改善をめざして必死の努力をした。まず、終身年金の新設による借款をおこない、つづいて土地税のかわりに印紙税を提案した。印紙税こそは、貴族よりブルジョアジーにたいして負担が重く、アメリカ独立革命のロ火を切らせた悪税である。それをあえて提案せざるをえなかったほど、身動きのつかない財政状態に追い込まれていた。

印紙税にたいしては、高等法院の勢力が反対運動の先頭に立った。パリ高等法院はこの命令の登録を拒否した。ブリエンヌは、国庫破産に直面して四億二〇〇〇万リーブルの公債増発を発表した。このとき、オルレアン公爵がこの公債は不法であると抗議し、国王に対立した。一七八七年一一月二〇日のことであった。翌日、オルレアン公爵はパリから追放された。高等法院は、国王の措置にたいして抗議行動を起こした。

こうして、オルレアン公爵に代表される自由主義貴族と、高等法院の勢力が同盟して王権に対決してきたので、王権の側は、高等法院を抑圧することにきめた。この計画は、ブリエンヌと法務大臣ラモワニヨンによって立案された。高等法院を追放し、そのかわりに全権裁判所を新設して、これを宮廷貴族の中から任命された司法官によって組織した。こうして、長い伝統のあった法服貴族から司法権がとりあげられ、宮廷貴族の手におさめられた。

しかし、この措置は全国的な動揺をひきおこした。さしあたり、反対運動の先頭に立ったのは貴族であったが、しだいにブルジアジーを巻きこみ、さらに下層の人民を騒乱状態の中にひきいれていった。

ラファイエット侯爵はアメリカ独立戦争に参加し、陸軍少将で、自由主義貴族の代表者であった。彼はオーヴェルニュとブルターニュに領地をもち、それぞれの地域で影響力をもっていた。彼の指導のもとで、オーヴェルニュの地方議会がブリエンヌの政策に抗議声明をだした。ブルターニュでは、地方貴族と高等法院が同盟して貴族の集会を開き、一二名の代表をヴェルサイユへ送り、国王に抗議させようとした。しかし国王は、一七八八年七月一五日、これらの代表をバスチーユ要塞監獄に投獄した。

この事件でラファイエットは軍籍をうばわれた。ラファイエットに同調した数名の宮廷貴族が国王から恩寵を与えられる権利をうばわれた。六月には、べアルンの貴族が、追放されていた高等法院の判事を実力で救出した。

同じ六月に、ドーフィネの中心都市グルノーブルで、「屋根瓦の日」といわれた騒乱事件がおきた。グルノーブル高等法院が追放されようとしたとき、市民が国王の軍隊にたいして屋根瓦をなげつけて撃退し、高等法院を守った事件である。このとき、高等法院の判事達は、市民の運動をきらって国王の命令にしたがおうとしたが、市民の運動にひきとめられるような形になってしまった。



三部会召集の圧力

そのあと、七月二一日有名な「ヴィジル決議」がおこなわれた。「屋根瓦の日」に指導的役割を演じたムーニエとバルナーヴが、大工業家クロード・ペリエのもつヴィジル城に非合法の州三部会を召集した。将来召集されるべき三部会では第三身分代表者の数を二倍にし、身分別投票をなくして人数別投票とすること、そのような三部会が召集されるまでは納税を拒否するというものであった。このとき、五〇人の僧侶、一五六人の貴族、二七六人の第三身分代表者が集まり、議長には名門貴族を据えたが、書記にムーニエがなった。

ここで、ムーニエが革命家としてはなばなしく登場してきた。彼は、グルノーブルの裕福な毛織物商人の子で貴族の資格をもち、判事の職を買いこんだ法服貴族の一人である。彼の盟友バルナーヴは、同じく検事の子で、弁護士をしていたから、ともに法服貴族の階層に属していた。

全国的な反対運動のために、増税は成功せず、公債を自由な形式で募集しても、もはやこれを買いいれてくれる者がいなくなった。一七八八年八月のはじめ、「国庫は空になるだろう」という報告をブリエンヌはうけた。

窮地に立って、病院を建てるための寄付金とか雹害被害者にたいする救済基金までも使いこんだ。こうなるともはや財政のルールを無視したことになる。それでも足りずに、ついに国庫支払の停止をしなければならない日が迫ってきた。

ここにきて、ブリエンヌは八月一六日、国庫支払についての新しい命令をだした。現金支払は一部分だけとして、その他を国庫証券でおこなうというのである。このような時期に受け取る国庫証券は、たちまち下落してしまう。この証券を受け取った銀行家や商人が、それぞれ商品を買い入れようとするとき、だれもその証券を受け取ってくれない。つまりは、銀行家や商人の破産がひきおこされることに通じる。

この命令は、ブルジョアジーの中に恐慌状態をひきおこした。二日後にブリエンヌはケース・デスコント紙紙幣の強制流通を命令した。

パリでは、ケース・デスコントの紙幣をもつ者が現金とのひきかえを要求して殺到し、取付けさわぎをひきおこした。こうして、パリは騒乱状態になった。しかも、国庫には五〇万リーブルの資金しか残らず、政府は破産の危機に直面した。こうした責任をとらされて、ブリエンヌが辞任させられた。

国王と宮廷が当てにするべき者としては、ネッケルしかいなかった。国王も王妃も個人的にはネッケルを嫌っていたが、国家破産の脅威をつきつけられると、彼を呼びもどす以外にはなかった。ネッケルの立場は強くなった。彼は財務総監就任の条件として、高等法院の追放を解除し、三部会を召集することをもちだした。国王は屈伏して、翌年の五月一日に三部会を召集すると約束した。

ネッケルが財務総監に就任したとき、その歓迎はかつてなかったほどであった。パリは街灯を照らしてネッケルを歓迎し、国債の価格は三〇パーセント上昇した。ケース・デススコントの株価も、三五五〇リーブルから四三〇〇リーブルに上昇し、事業が活気をとりもどした。財政赤字については、ネッケルの個人的な信用を利用してケース・デスコントから資金を借り入れ、当面の破産を回避した。こうして、世人の関心の的は、三部会の選挙へと移った。


貴族革命論の誤り

ここまでの運動を貴族革命と定義する学説が盛んである。これは、ルフェーブルが強調したものであるが、日本の学者が積極的にとり入れ、最近かなり通説の段階にまで広がってきた。三部会の召集を王に認めさせるところまで運動を進めたのが、法服貴族、地方貴族、自由主義貴族であり、つまりは、貴族が国王に反抗して三部会の召集をかちとったのであるから、これは貴族の反抗であり、貴族革命であったというのである。

しかし、この考え方は完全な誤りである。なぜなら、国王の側にもまた貴族がいて、しかもそれが貴族の主流であったからだ。ブリエンヌ伯爵(大司教)が政治的代表者であったが、その裏に一流の貴族達がひかえていた。彼らは、三部会の召集にすら反対であった。ラファイエットが名士会で三部会の召集を要求したとき、完全に孤立した発言にとどまり、議長のブルボン公爵から「なんと貴下は三部会の召集を要求するのか」といわれた。宮廷貴族の本流の中では、三部会の召集を口にすることすら、危険きわまりない思想だと思われたのである。

貴族全体が三部会の召集を要求したのではなく、貴族の中のある分派がそれを要求し、他の分派は反対していたのである。しかし、全国的な騒乱状態と、国庫が空になるほどの財政危機をつきつけられたときに、反対派が国王とともに譲歩せざるをえなくなったというのが真相である。これを貴族革命というと、貴族全員が国王に反抗したかのように受けとられて、はなはだしい誤解をまねく。そうではなく、最強の貴族集団にたいして、野党的な貴族が反抗し、それにブルジョアジー以下の抵抗運動が合流したものと解釈するのが正当である。

そして野党的な貴族とは、宮廷内で冷遇されている自由主義貴族、宮廷にすら入れない法服貴族、これに地方貴族が加わったものであり、それぞれの思わくをもって反抗したのである。自由主義貴族は、反抗運動にのって宮廷での指導権をにぎりたかった。法服貴族は、司法権の拡大強化をのそんでいた。地方貴族は、古い分権的封建制の復活をのそみ自分達の境遇の改善を夢みていた。このようなさまざまな目標をもった貴族達が、宮廷貴族の本流に対決して、さしあたり、三部会召集の要求と、ブリエンヌの政策にたいする反対で足並をそろえただけであった。これは貴族革命というべきものではなく、貴族内部の分派抗争に、ブルジョアジー以下の反抗運動が絡みあってきたものというべきである。


三部会選挙をめぐる騒乱状態

三部会の召集が決定されたあと、その形式についての争いがはじまった。一七八八年七月二五日、パリ高等法院は、三部会が一六一四年の形式で召集され、組織されるべきであると声明した。これは僧侶、貴族、第三身分それぞれ同数の議員で三部会を構成し、採決を身分別でおこなうことを意味した。これでは、第三身分が少数派になってしまうかもしれない。

高等法院があえてこの方針を打ちだしたのは、彼ら自身もまた貴族であり、第三身分とは一線を画したかったからである。高等法院としては、第三身分を支配しながら、宮廷貴族の権力を削減して、自分達の手で新しい貴族支配の国を作ろうというもくろみがあった。これに気がついた第三身分は、高等法院を裏切者と考え、攻撃をはじめた。

「公衆の討論は様相をかえた。王、専制政治、憲法に関するものは副次的問題となり、第三身分と他の二つの身分との闘いが主なものになった」

とマレ・デュパンが書いた。各地ではげしい論争がおこなわれ、自由主義貴族とくにラファイエット侯爵、ノアイユ子爵、カステラーヌ公爵、タレイラン司教などが、第三身分の代表数倍加を承認するように高等法院に働きかけた。

高等法院の中にも譲歩を主張する者が多くなり、とくにデブレメニルとデュポールがその先頭に立って動いた。その動きにおされて、高等法院の保守派も譲歩することに決意して、一二月五日第三身分代表者数の倍加を認める声明をだした。これで高等法院と第三身分の決裂は回避された。

「高等法院は国民となった。すべての人々はデブレメニル氏によって提案されたこのすばらしい命令に賛成している」。

一二月一二日、名士会が召集されてこの問題を討議した。多数は第三身分代表者数倍加にたいして反対を唱えた。とくに王弟アルトワ伯、コンデ太公、コンチ太公、ブルボン大司教、アンギアン公(コンデ太公の孫)の五人は、宮廷貴族のトップを代表して反対を声明した。

一二月二七日の閣議では、はげしい討論がおこなわれた。ネッケルは第三身分代表者数の倍加を主張し、これにネッケル派の大臣が賛成した。国王と王妃も、反対をひかえて承認せざるをえなくなった。この結果、一七八九年一月二四日、三部会の召集と選挙の規則が公布された。

三部会の選挙戦は、各地での騒乱をともないながらすすめられた。その騒乱の内容には、さまざまなものがあった。ブルターニュでは貴族が第三身分の勢力と衝突し、武装して議事堂にたてこもったことがあった。多くの州で、僧侶貴族と高等法院が同盟して、第三身分と紛争を起こした。ブザンソン市では、高等法院が群集から略奪された。しかも、その地の軍隊は、自由主義貴族の指揮下にあったので鎮圧に出動しなかった。

農村では、領主にたいする反乱が拡大していった。一七八八年一〇月、ブルターニュ州知事ベルトラン・ド・モルヴィルが、

「民衆の反乱は王権にたいしてではなく、貴族や土地所有者にたいしてむけられた」

と報告している。農村では、領主の封建的特権にたいする反乱とか、大土地所有者にたいする貧農の反抗とかいった農村独自の問題点をめぐって、騒動が拡大しつつあった。これは、第一身分第二身分対第三身分の争いとか、王権=宮廷貴族にたいする他の勢力の対立といった図式とは別に、ある程度、農村における独自の階級対立が尖鋭化したものであった。


レヴィヨン事件

パリでは、レヴィヨン事件とよばれる暴動が発生した。一七八九年四月二七日、三部会の選挙戦の最中に、第三身分の議員候補者レヴィヨンの家を群集が襲撃し、これに軍隊が発砲した事件であった。

レヴィヨンは壁紙製造の工場主で、三〇〇人の労働者を使い、当時としては大工業家であった。彼が、労働者の賃金引上要求にたいして、「労働者は黒パンとソラマメを食っておればよい。麦などは食うものではない。日雇、職工は一五スーあれば立派にくらせる」といったので、労働者が反乱を起こしたといわれている。

そうすると、この事件は、工場主対労働者の階級闘争であったかのように思われる。建物を占拠した群集にたいして、ブザンヴァル男爵の率いるパリ守備隊が発砲し、五〇〇人の死傷者をだし、軍隊の側も九二人の死傷者をだした。騒動に参加した群集は、一時数千名に達したといわれるから、当時の大事件であった。

ところが、この事件の評価は、歴史家によってまちまちである。ソブールの『フランス革命』では、この事件はとりあつかわれていない。マチエの『フランス大革命』では、この事件を、ブルジョアジーと貴族を含む有産階級にたいする労働者の対立として、現代的な意味での階級闘争のように紹介している。

しかし、事件の背景はもっと複雑であった。レヴィヨンの工場を襲撃した者が、そこで働く労働者であったとう証拠はほとんどなく、よそから来た労働者、職人、その他下層階級の者であった。それから見ると、新式の大工場と没落しつつある手工業者の対立が、爆発したものと解釈できる。レヴィヨンの新式工場が設立されるときでも、壁紙製造の同業組合が、同業組合の特権にたいする侵害であると抗議した事件があり、その延長として、新式工場にたいする手工業者の反感が底流にあった。

それに加えて、誰かが金をばらまいて群集を煽動したともいわれている。騒動に参加した者の多くが、一二リーブルをもっていて、死にぎわに、「神様、たったあの情けない一二リーブルのためにこんな目にあわされるとは」といった男もいた。

それでは、金を与えて煽動した者は誰であるかというと、さまざまな解釈がのこされている。オルレアン公が煽動したという説と、ロワという僧侶がレヴィヨンと訴訟関係にあって、恨みをはらすために金を群集に与えたという説がある。もう一つは、宮廷の側がこの運動を助長したという解釈がのこされていて、これが意外に納得できるものである。

はじめ群集がレヴィヨンの家を包囲したとき、軍隊はすぐには出動せず、騒動が拡大してからやっと行動を開始した。レヴィョンは第三身分の代表者として、第三身分代表者数の倍加のために積極的に発言した。その意味では、彼は王権に対立する革命家の一人として登場しつつあった。事実、フランス革命がはじまると、彼は愛国者としての待遇をうけ、一七九〇年には工場を再建して、革命政府に紙幣のための紙を供給している。

彼は、フランス革命の側に立ったブルジョアジーの一人であった。王権の側からみれば、レヴィヨンこそが危険人物であった。彼を背後から攻撃した貧民の運動を一時的に大目にみて、国王に敵対すれば、貧民の暴動から守ってくれる者がいないことを思い知らせようとした策略とみることができる。

しかし、暴動が拡大して、貴族とブルジョアジーを含めた全有産階級にたいする運動に転化しはじめるやいなや、これを鎮圧することを決意したと解釈するのが適当であろう。その意味で、レヴィヨン事件をフランス革命の前史として扱うことはできない。むしろ、その後にくる恐怖政治の時代の、貧民の暴動の前史として理解することができる。

要約 第二章 二 三部会招集を巡る紛争・ブリエンヌの弾圧政策と抵抗運動

この部分を普通の概説書でいうと、「財政破綻になり、三部会招集が要求され、次に第三身分の人数倍加が要求され、その方針のもとに選挙が行われて、1789年5月5日ヴェルサイユに三部会が招集された」という文章に要約される。。しかし、実際にはそう簡単にいくものではなかったことが紹介されている。まず、三部会絶対反対という集団があった。大貴族、(大領主)の主流派、コンデ大公家以下多数がこれで、、ラファイエット侯爵など少数の反主流派が商人、銀行家の味方をして、「正義の味方」として、時の権力者にはむかったのだ。その具体的実例を紹介している。

ブリエンヌの財政政策

少し詳しいフランス革命史なら、この名が登場する。だから、さらに詳しい要点を紹介した。彼は伯爵、大領主、大貴族、大司教、つまり、第一身分でもあり第二身分でもあった。財務総監として名が出てくるが、実際には財政審議会議長、財務総監を指揮監督できる。実質首相であった。彼の出してくる手段は、商人、銀行家に負担をかぶせて、困難を切りぬけるというものであった。だから、ことごとく反対に出会う。反対派はラファイエットのような正義派の貴族、野党的な法服貴族、地方貴族などであった。その具体的な状態が紹介されている。

屋根瓦の日、ヴィジル決議

フランス革命史に残る二つの事件が紹介されている。三部会招集、第三身分人数倍加、これが全国に先駆けて、華々しく打ち上げられた。今ではフランス革命の先駆けとして、高く評価されている事件であった。

クロード・ペリエの名を記憶しておいてほしい

この点を強調するのは、数ある歴史家の中で私だけです。グルノーブル(ドーフィネ州)の商人上がりの城主(ヴィジル城)、領主、一代限りの貴族、当時のこの行動は、危険極まりない反体制的行動であった。悪くすると、バスチーユ行き、拷問、処刑が待っている。.そのうえ、大勢の貴族、財界人を自分の城に招いて、大宴会をする。莫大な支出になる。こういうかけを、彼は生涯に一回だけした。あとは実業に専念し、。貿易から、工業へ進出し、銀行業を起こし、息子はカジミール・ド・ペリエという、貴族銀行家になった。だが、1830年の七月革命で、二代目首相兼内務大臣になり、閣議の議長を自分が勤めた。つまり、40年のちに、クロード・ペリエの息子がフランスの最高権力者になった。ここに革命の実態があると私は言う。

貴族革命説の誤り

いわゆる貴族革命説は誤りだという。確かに王権に反抗した貴族はいる。しかしそれは主流派ではない。理由は様々ではあるが、反体制的な気分を持った貴族が、庶民(大商人といえども、貴族から見ると庶民になる)の味方になってやろうと思った、その時の行動が、歴史では大きく取り上げられる。主流派の貴族については語られなくなる。こうして、倒錯の歴史観が出来上がる。この流れの中で、「貴族革命説」なども出てくる。それは間違いだといっている。


06-フランス革命史入門 第二章の一 革命の原因―財政の破綻

第二章フランス革命の開始


一 革命の原因-財政の破綻


基本的原因は何か

フランス革命が、第一身分(僧侶)、第二身分(貴族)にたいする第三身分(平民)の闘いであるというようないい方も多いが、このような形で割り切れるものではない。僧侶の中には、高級僧侶から下級僧侶まであり、下級僧侶ははじめ平民の側に立ったからである。

第二身分の貴族にしても、宮廷貴族、地方貴族、法服貴族に加えて、ブルジョアから成り立った商業貴族があり、お互いに対立していた。宮廷貴族の中でも、権力の中枢にいるものとはずれたものとがあり、はずれたものは、自由主義貴族となって国王にさからってきた。

革命の直前には、地方貴族や法服貴族、それに自由主義貴族と商業貴族を加えたものが三部会の召集を要求して王権と対立した。そのために、この段階では貴族革命であったと主張されるほど、王権との対立抗争を演じた。

しかし、これは貴族革命ではなくて、王権をとりまいた宮廷貴族の本流にたいする、他の貴族の連合であり、貴族階級の内部抗争というべきものである。

第三身分もまた、複雑な内部対立を含んでいた。第三身分のトップにたつ上層ブルジョアジーでも、貴族の資格をもち領主となっている者と、貴族の資格をもたず、領地ももたず、ただ農村には保有地をもつだけといった者もある。そうすると、領主権の廃止とか、貴族の称号と特権の廃止をめぐって、ブルジョアジーの内部抗争がありうる。事実、これがのちのフィヤン派とジロンド派の対決点になる。

中・小ブルジョアジーと上層ブルジョアジーの間にもまた、さまざまな形での利害対立がある。そして、それらを含めたブルジョアジーと、そのもとで働いている労働者の間にもまた、賃金、労働条件をめぐる階級闘争がある。

手工業者とブルジョアジーの対立もあった。ブルジョアジーとくに大工業家が生産を増加させると、同業の手工業者が没落する。このような形の対立は、レヴィヨン事件となって、三部会召集の最中にひきおこされた。手工業の中でもまた、親方の組合と徒弟、職人の対立があり、ときに流血の闘争に発展している。

農村でも、領主にたいする土地保有者(所有者)の対立があるが、土地保有者の中にもまた、大、中、小の対立があり、大土地所有者のもとで働く貧農、農業労働者は、領主であろうと土地保有者であろうと、すべてを含めた大土地所有者の勢力との間に利害対立をもっていた。

このような複雑な対立がありながらも、その対立が、つねに無秩序に動きまわっていたわけではない。対立を内に秘めながらも、日常生活においては使う者と使われる者の協力関係、あるいは取引関係があり、社会的な慣習のうえにたって、さまざまな形での協調がすすめられていたのである。

そうした対立と協調のうずの中にあって、フランス革命という大事件が進行したのであるが、そうしたばあい当然一連の事件の原因は、副次的な原因と基本的な原因に分類されるべきであろう。さまざまな運動が起こったとしても、それがなければフランス革命は起こらなかったというべきものと、それがなくてもフランス革命は起こったというべきものに分類できるはずである。


宮廷貴族の財政的特権

フランス革命の根本的な原因は、国家財政の破綻であった。これがなければ、フランス革命は起こらなかったはずである。だから、フランス革命の展開と結果もまた、この問題を軸にして観察するべきである。三部会の召集を王に決意させたのも、財政の赤字であった。

一七八八年の八月、すでに「国庫は空になるだろう」といわれた。そのころネッケルが財務総監に就任したが、国庫には五〇万リーブルの資金しか残っていなかった。国王はこの財政窮迫の打開をネッケルに頼もうとしたのであるが、その交換条件として、ネッケルが三部会の召集を要求した。国王と宮廷貴族は、いやいやながら譲歩したのである。三部会の召集は財政危機のもたらしたものであるが、バスチーユ襲撃をひきおこしたのもまた財政問題であった。そこで、フランス革命の説明は、財政問題を軸にして展開しなければならない。

極端な財政赤字がなぜできたかといえば、二つの大きな原因が問題になる。まず財政支出の側では、宮廷貴族への出費がある。すでに、宮廷貴族が、どのような形で国王から巨額の資金を引きだしてきたかをみてきた。こうした宮廷貴族の特権は、国王個人の力をもってしても止めることはできなかった。

極端にいえば、宮廷貴族の国庫略奪である。そのことをルイ一五世が明快に指摘した。

「朕の宮殿での盗みは莫大なものだ。しかしそれを止めるわけにはいかない。多くの高官が盗みに没頭し、すべてを使いはたしている。朕の大臣のすべてがそれを正そうとつとめた。しかし、実施の段階でしりごみをして、計画を放棄した」。

国王が、臣下の宮廷貴族を泥棒呼ばわりしているのである。そこに、財政支出における赤字の原因があった。

これを打ち切ればよいのであるが、打ち切ろうとすると宮廷貴族の反撃にであう。宮廷貴族は権力の中枢をにぎっているのである。国王といえども、これを切りすてるわけにはいかなかった。


貴族の減免税特権

財政収入の側についていえば、貴族の減免税特権が赤字の原因になった。この減免税特権は、さらに二つにわかれる。合法的な減免税と、法律を越えた減免税である。法律による減免税としては、たとえば直接税のタイユ(人頭税)が、貴族は四台のすきで耕せる耕地について免除されていた。

間接税のうち、たとえば酒を中むにしたエード(補助税)は貴族と僧侶が免除されていた。塩税も貴族と高級僧侶が免除されていた。そこで、密造者や密輸人が女子修道院を根拠地にして活躍した。ここには官吏がふみこめないからである。

このような減免税とは別に、脱税も多かった。火事がおこったとか、娘が結婚したとかいって、免税の申請を国王や総督にだして認めてもらう。二十分の一税の台帳に、土地、財産収入を少なく申告して負担をへらす。

この操作は、貴族が総督や知事との個人的なつながりを利用してできた。直接税としてのカピタシオンをぜんぜん払わない宮廷貴族もいた。権力の座にいたから、こうしたことができたのである。

当時の批判として、「もし貴族と僧侶が平民と同じ割合で支払うならば、王の収入は莫大なものになるだろう」という指摘があった。これが、ものごとの本質を正確についている。貴族が、支払うべき租税を支払わず、そのうえ、宮廷貴族が国庫から資金を略奪する。この二つによって、財政の破綻がひきおこされた。合理的に考えるならば、財政の建て直しのためには、貴族の減免税特権を廃止して、宮廷貴族にたいする支出を打ち切ればよいのである。このことを、多くの改革者や請願者が主張していた。

しかし、権力をにぎっているのは貴族、とくに宮廷貴族である。自分の損になるような改革はするはずがない。

宮廷貴族が財政赤字でゆきづまると、別な解決策で切りぬけようとした。それは貴族の特権をそのままにしておいて、ブルジョアジー以下の第三身分にたいする増税をおこなうか、それともなにかの方法で金を吸いあげることであった。増税としては、臨時租税として徴収されたカピタシオンや二十分の一税があった。パリ入市関税の厳格な徴収は、問接税の増徴になった。検査税をきびしくして、工業家や手工業者にたいする増税をはかった。

それにしても、まだ当時、租税を治める者の数はかぎられていて、労働者、日雇農、職人、徒弟などは税金を納めなかったから、増税にも限度があった。そこで、もう一つの方法に頼ったのであるが、これがフランス革命の直接的な引き金となった。


貴族によるブルジョアジーの収奪

それは、俗な言葉でいえば、借金ふみたおし政策である。イギリス革命や日本の幕末のころをみると、同じような意味の政策では、商人に御用金を命じて金をとりあげるという方法がおこなわれた。フランス革命のころは、もう少し信用機構が発達していたので、より複雑な形式をとった。

すでに証券がかなり流通していて、財政赤字になると、さしあたり国債その他の証券を発行して資金を集めることができた。また終身年金の制度があり、その契約金をおさめさせることによって、一時的に国家に巨額の資金を集めることができた。また、王の名前で富くじを発行して、臨時収入とした。さしあたり、このような方法は誰の利益を傷つけるわけでもないから、円滑におこなわれ、赤字の解消に役立つ。

しかし、それだけに、やがては償還しなければならない国債の元本や、利子支払、年金支払のための基金が、財政支出の中の重要項目となってきて、これが大きな負担になる。そのときこの部分を切りすてるのである。この部分は、いわば過去につみかさねられた、ブルジョアジーにたいする債務である。ブルジョアジーは、大口の国債保有者、年金契約の保有者である。彼らは、国家が契約の条件を忠実に守ると信じて、出資したのである。

ところが、財政赤字に直面すると、王権はこれを切りすてようとした。そのときには、国家の破産を宣言するから、これを破産政策と呼んだ。ブルジョアジーから見ると、どのような政府が、あるいはどのような大臣が破産政策をとるかは、過去の実績からよくわかっていた。彼らは、自分の貸付けた金の運命については、もっとも敏感であるのに、たびたびその債権の価値を引き下げられたことがあった。

ルイ一四世の死後、三億三〇〇〇万リーブル以上の赤字が残った。この赤字が財政審議会で処理されたが、そのときの議長はノアイユ公爵であった。このときの政策は、ブルジョアジーにとってきわめてきびしいものであった。政府の発行した証券を検査し、そのうちの約半分を無効と決めて、総額五億九〇〇〇万リーブルから二億七〇〇〇万リーブルに引き下げた。つぎに国債の利子を引き下げた。こうしたことは、今目の社会では考えられないことである。

つぎに、上層の金融業者の財産がどのようにしてできたかを調査するための臨時法廷を作った。国庫との不正取引を調べるというのであるが、取調べが厳重なために、多くの者が自殺をした。このように、ルイ一五世の初期に、ブルジョアジーの財産を傷つけ、彼らを自殺に追い込むほどのきびしい政策がすすめられた。

ルイ一五世の末期には、財務総監にテレー僧院長が就任して、同じような赤字解消政策をおこなった。国庫証券の支払停止を命令し、年金を総額三〇〇万リーブル切り下げ、国庫にたいする貸付金の利子を強制的に引き下げた。これで、多くの商人、金融業者が破産し、自殺者をだした。啓蒙思想家ヴォルテールも大財産家であったが、この政策で二〇万リーブルの損害をこうむった。彼の僧侶にたいする批判ははげしいが、その批判の根源は、まったく思想的なものというよりはむしろ、こうした金銭的な被害によるところが大きいはずである。

他方で、宮廷貴族の年金は切り下げなかったから、テレーの政策は宮廷貴族の利益を守りながら、ブルジョアジーに犠牲を転化するものであった。またテレーは増税を考えたので、パリ高等法院が反対した。そうすると、高等法院を更迭して、パリの・フルジョアにたいする二十分の一税を増徴し、一四〇万リーブルに引き上げた。総徴税請負人に契約金の増加を要求して国庫収入を増やした。これで徴税請負人の利益は削減されることになった。

こうした意味では、宮廷貴族と徴税請負人の間にも、深刻な亀裂が入ることになる。インド会社の配当を制限して、その差額を国庫におさめ、この資金で皇太子(のちのルイ一六世)とマリー・アントワネットの結婚式の費用をひねりだした。こうみてくると、テレー僧院長の財政政策は、国王と宮廷貴族を守りながら、ブルジョアジーとの契約を破棄して、その財産を大きく傷つけたことになる。


チュルゴーの財政改革

ルイ一五世が死に、ルイ一六世が即位すると、テレー僧院長が財務総監を辞任した。これにかわって、新しく改革派の財務総監として登場したのが、重農主義者として有名なチュルゴーであった。そのあと、財政の担当者はクリュニー、ネッケル、フルーリ、ドルメッソン、カロンヌ、ブリエンヌと続き、ついに抜きさしならない段階にきて三部会の召集が叫ばれるようになった。

これらの財務総監のうち、チュルゴーとネッケルが有名であり、概説書にも取りあげられるほどである。そこで、人々はチュルゴーとネッケルが当時の実力者であるかのように思い、彼らの政策が、あたかもルイ一六世の政策であるかのように思うばあいが多いが、これは誤解である。むしろ、後世にほとんど知られていない財務総監クリュニー、フルーリ、ドルメッソンが当時の宮廷貴族の本流を代表した保守派であり、実力派であった。

ややもすると、歴史の中に改革派が大きく取りあげられ、保守派が切りすてられる。これが歴史の誤解をはなはだしくする。個人の才能からいえば、改革派の方がゆたかであり、研究に価する。しかし、だからといって、彼らが当時の社会で実力をもっていたとはいえない。むしろ多くの場合、改革派は当時孤立していて、後世で有名になることが多い。ところが、後世で有名になると、人々は、その人物が後世で評価されているほどの名声を、当時の社会でももっていたものと思いこんでしまう。いかに改革派が当時の社会で孤立し、苦しい立場に立っていたかという理解が忘れられてしまう。こうした側面に気をつけて、フランス革命の前史を見なければならない。

チュルゴーは古くからの貴族で、パリ高等法院検事総長代理、リモージュの知事であったが、名門の宮廷貴族ではなく、宮廷では本流を代表するものではなかった。むしろ、テレー僧院長の極端な抑圧政策にたいする反対運動に押しあげられて登場してきた、野党的な財務総監であった。それだけに、彼の就任は重農主義者や自由主義貴族から歓迎された。モンテスキュー侯爵、コンドルセ侯爵、ヴォルテール、デュポン・ド・ヌムールなどであった。

チュルゴーは、テレーの政策を逆転させた。彼は、宮廷貴族の脱税を摘発して納税を要求した。その反面、テレーが無効にした国庫にたいする債権をもとに戻して、支払を再開した。債権者はブルジョアジーであったから、この政策は、ブルジョアジーを優遇して宮廷貴族を傷つけるものであった。チュルゴーは、ルイ一六世にたいして、宮廷貴族の特権を削減することを宣言した。

「陛下の宮廷人へばらまく金がどこからきているのか、考えていただきたい。恩賜金、年金、金銭的特権がもっとも危険で濫用されている。租税にたいする役得が、必ずしも徴税に必要ではないのに、この役得が貴族の腐敗をもたらしている。私は宮廷の大部分から、恩賜金をもらうすべての者から嫌われ、恐れられるだろう。」

こうした方向は、宮廷貴族の本流と真向から対立するものであった。それにしても、彼はある程度の改革に成功した。王領地での賦役を廃止し、穀物商業の自由を打ちだした。小年金所有者には支払いながら、大年金所有者(宮廷貴族が多い)にたいして支払を延期した。ギルド(同業組合の制度)を廃止し、商工業の自由、営業の自由を実現した。一般的に、経済的自由主義がチュルゴーの原則であった。

次にアメリカ独立戦争への参加の中止、僧侶の免税特権の廃止、僧侶財産の売却を考えた。ここにきて、高級僧侶の反感が決定的なものになった。また、宮廷貴族実力者がチュルゴー罷免に動いた。とくに、二人の有力な貴婦人が王妃が王妃マリー・アントワネットを動かして、チュルゴー追い出しを策謀した。それはランバル公爵夫人(王妃付き女官長)、ポリニャック公爵夫人(皇太子養育係)である。これに王弟アルトワ伯が加わった。

チュルゴーの失脚した直接のきっかけは、穀物商業の自由化政策であった。自由化がはじまると買占めがおこなわれ、食糧品の値段が騰貴して、貧民がパン屋を襲撃するといった食糧暴動が起こった。これに軍隊が出動して、「小麦粉戦争」といわれるさわぎになった。このときチュルゴーは、自由化政策の原則をつらぬけず、穀物を強制的な価格で買い入れて別の州にまわした。経済理論における自由主義が、必ずしも現実には貫徹できなかったということの実例である。

チュルゴーは、この暴動の責任をとらされて辞任した。ところが、この暴動に参加したものの中に、アルトワ伯の下僕がいて、これが赦免されている。この暴動が、アルトワ伯を中心とした宮廷貴族のけしかけたものだということは、当時公然の秘密になっていた。チュルゴーは宮廷貴族の特権に挑戦したために、改革半ばにして追い出されたのである。


ネッケルの財政改革

チュルゴーが辞任したあと、一七七六年の五月から一〇月にかけて、クリュニーが財務総監になった。彼は、歴史的には無名の人物であるが、宮廷貴族の本流を代表していて、チュルゴーの改革を廃止した。当然、財政危機が深刻になったが、王の富くじを実施して、そこからの資金で一時的に財政危機を回避した。

彼が死ぬと、つぎに財政をまかされたのは、ジュネーヴから来た銀行家ネッケルであった。

ただし、彼は新教徒でもあり、名門貴族ではなかったので、財務総監になることはできなかった。財務総監にはダブロー・デ・レオーを据え、その下の「国庫の総監」の資格で、実質的に財政をうごかした。この地位は徴妙なものであり、財政を動かすとはいっても、国王を囲む閣議には参加できなかったために、権力をふるうにも限度があった。

ネッケルは銀行家であり、チュルゴーと同じくブルジョアジーの側に立つ改革派であった。しかし、重農主義者ではなかったために、穀物商業の自由については熱意をみせず、むしろ穀物商業の規制の方向にすすんだ。王領地におけるマンモルト(農奴制=死亡税)を廃止した。宮廷貴族の官職約四〇〇を廃止して、財政支出を押えた。

ただし、彼の行動はかなり政治的であった。ある貴族の官職を廃止しながら、他の貴族の官職を保存するというやり方で、貴族の反対運動を分断することによって、反対運動を押えた。

つぎに、ネッケルは「会計報告書」と称する国家予算の現状報告書を発表し、財政がほぼ収支均衡していることを宣伝し、国庫にたいする信用を高めておきながら、公債を増発し、終身年金契約を増加させて、財政収入の増加を計った。のちになって、ネッケルが赤字を過小評価したという批難があびせられて、赤字論争が起こることになる。しかし、さしあたりこの時期には貴族やブルジョアジーが「会計報告書」を信用し、とくにブルジョアジーは安心して国債の購入、終身年金契約の増額に応じた。国王も、そうした形でネッケルが財政収入を実現してくれたかぎり、救いの神としてネッケルを支持した。

それにしても、官職をうばわれた宮廷貴族の反感は高まった。やがて、海軍大臣サルチーヌが莫大な公金を浪費していたことがわかった。ネッケルは、これを取りあげて罷免に追い込み、ネッケル派のカストリ侯爵を後任にすえた。この事件が、宮廷における反ネッケル運動を爆発させた。ネッケルは、それをのりきるために閣議に入ることを要求したが、国王はこれを拒否した。王妃もネッケル罷免のために策謀した。そうした環境のもとで、彼はついに辞任せざるをえなくなった。


カロンヌの反動的財政政策

そのあと、一七八一年五月フルーリが財務総監になった。フルーリは、宮廷貴族の本流を代表していて、ブリオンヌ伯爵夫人に推薦された。ブリオンヌ伯爵夫人は、ランベスク太公(ロレーヌ公爵)の妻でもあり、この夫婦は宮廷貴族の右派を代表した人物であった。そこでネッケルの改革が逆転されて、増税と借入金が増加しただけであった。

一七八三年、同じく宮廷貴族の本流を代表してドルメッソンが財務総監になった。彼も似たような政策を続け、赤字を増加させた。赤字に困ると、ケース・デスコントの資金を強制的に国庫に借り入れた。この事件でケース・デスコントの信用が落ち、ケース・デスコント紙幣をもっている者が、正貨への交換を要求して取付けさわぎをおこした。このような政策は、信用機構とブルジョアジーの経済活動を麻痺させるものであった。

一七八五年カロンヌが財務総監になった。彼も、アルトワ伯爵ポリニャック公爵、ヴォドルイユ伯爵など有力宮廷貴族に支持されて登場してきた。彼は、宮廷貴族にたいして惜しげもなく国家資金をばらまき、赤字をますます増加させた。その反面、公債の増発、借款の増加、貨幣の改鋳によって収入の増加を計ったが、国債や借款の増加が利子負担を増加させ、将来の赤字増加の原因を作った。

パリを城壁で囲んで、入市関税を増徴した。株式市場を操作して、投機によって利益をひきだした。ケース・デスコントからの七〇〇〇万リーブルの強制借款をおこない、信用を動揺させた。このため、ケース・デスコントの理事をしていた大銀行家二人が破産したほどであり、その連鎖反応をうけて、火災保険会社もパリ水道会社も、クルゾーも経営困難におちいった。

一七八六年、カロンヌは財政改革案を発表した。このとき、財政収入は約四億七四〇〇万リーブル、財政支出は約五億七五〇〇万リーブルで、これに臨時支出一二〇〇万リーブルを加え、赤字は約一億一二〇〇万リーブルになるといわれた。こうした破滅的な赤字を解消する手段として、臨時土地税を提案し、これを承認させるために名士会を召集した。

名士会は、宮廷貴族、高級僧侶、上級の法服貴族、その他知事、州議会の議員、都市の吏員などから選ばれた、一四四名の代表者からなっていた。これが七つの部会にわかれて、それぞれの議長に二人の王弟、オルレアン公爵、コンデ太公、ブルボン公爵、コンチ太公、パンチェーヴル公爵が任命された。こうした顔ぶれからみるならば、名士会は、王権に忠実な決議をするものとみられていた。

しかし、すでに膨大な赤字のために、人心が動揺していた。そのうえ、ネッケル派の名士も多かった。一七八七年二月、カロンヌが赤字の説明をするときに、ネッケルの時代から赤字が多く、ネッケルの会計報告が嘘であったと報告したために、ますます論争が大きくなった。

ネッケル派の貴族や僧侶が臨時土地税に反対し、支出の削減、租税の軽減を主張して抵抗した。そのため、臨時土地税は決議されなかった。そのうえ赤字論争が一般に知られて、国家への信用が失われたため、いまにも騷動が起こりそうな情勢になった。それに加えて、カロンヌのスキャンダルが摘発され、財務総監の辞職に追い込まれた。

要約 第二章 フランス革命の開始 一 革命の原因ー財政破綻

フランス革命の原因が財政破綻だということは、全ての教科書に書いてあるので、これを疑う人はいない。問題はその中身になる。なぜ破綻したか。どうすれば改善できるか。これを正確に理解しようといいう。もう一つ、第一身分、第二身分に対する第三身分の戦いだとも思われているが、それぞれの身分の中でも、貧富の差があり、単純に、第三身分が勝ったというものではないことも指摘している。

宮廷貴族の財政特権

これが最大の原因だという。つまりヴェルサイユ城に集まる3000人ー4O00人の大領主、これが権力を組織しているから、財政特権を持っている。財政支出の面では、できるだけ多くのお金を、国庫から自分が引き出せるかという競争があった。国王個人が、「私のものを盗んでいる」といったが、国王の権力で止めることはできなかった。財政収入の面では、貴族が減税、免税の特権を持っていた。大貴族ほど、その特権が大きい。「少なく収めて、大きく引き出す」であった。

貴族によるブルジョアジーの収奪

権力を握っていた大領主たちは、財政運営の面で、ブルジョアジーを収奪した。様々な方法を紹介しているが、ルイ15世末期、テレー僧院長が財務総監になり、ひどいことを行った。多くの商人、銀行家が破産し、自殺者を出した。パリのブルジョアに対する増税を行った。ヴォルテールという啓蒙思想家も、20万リーブルを失ったという。

チュルゴー、ネッケル、カロンヌの財政改革

歴代有名な財務総監の改革を紹介する。それぞれ、パトロンになる大貴族を背景に持っているから、改革が派閥抗争になった。そのため根本的な改革にならないまま、革命に進んでいった。